小林昭美 日本語千夜一夜〜古代編〜 

2021.02.06

 小林さんのこのサイトは、私が興味を持つ問題を幅広くカバーしてくれる素晴らしいサイトです。

    http://ocra.sakura.ne.jp/

 文字が薄くて、少し読みにくいのですが、何度も読み返したいので、

以下に、少し体裁を変えて表示し、じっくり読みたいと思います。

   

日本語千夜一夜〜古代編〜 小林昭美(あきよし)(1937- )

古代の日本語はどのような言語だったのか。
万葉集、古事記などの文字記録のなかに古代日本語の痕跡をさぐる。
古代日本語の来た道を、日本最古の日本語文献である万葉集などから探る。

[古代日本語の来た道]
第001話 古代日本語の来た道
第002話 日本語のルーツをたどる
第003話 文字時代のはじまり
第004話 漢字で外国語を書く方法
第005話 カナ以前の日本語
第006話 やまとことばのなかの借用語
第007話 古代の声を聞く
第008話 万葉集に「やまとことば」の源流を探る
第009話 古事記を解読する
第010話 日本語の語源
第011話 やまとことばはクレオールである

[古代日本語の解読]
第012話 邪馬台国は「やまと」である
第013話 神代とはいつの時代か
第014話 天皇のおくり名
第015話 古地名のなかの日本語
第016話 日本はなぜジャパンなのか
第017話 日本国憲法の日本語を解剖する
第018話 五十音図の来た道
第019話 五十音図のなかの外来音
第020話 いろは歌の誕生

[万葉集の日本語]
第021話 万葉人の言語生活
第022話 柿本猨とは誰か
第023話 万葉集は解読されていない
第024話 万葉集は解読できるか
第025話 万葉集を解読する
第026話 万葉集は誰が書いたか
第027話 万葉集は中国語で書かれているか
第028話 対訳万葉集
第029話 文字文化の担い手・史(ふひと)
第030話 万葉集のなかの外来語
第031話 万葉集の成立を考える

[文字時代以前の日本語]
第032話 マンモスハンターのことば
第033話 縄文時代の日本語
第034話 稲作文化の伝来と日本語
第035話 弥生時代の日本語
第036話 金印の国「奴国」とは何か
第037話 魏志倭人伝の日本語
第038話 古墳時代の日本語
第039話 飛鳥時代の日本語
第040話 地名はことばの遺跡である
第041話 JR駅名の旅

[漢字文化圏のことば]
第042話 北京看板考
第043話 中国の国語教科書
第044話 美国漢字地名
第045話 漢字紳士録
第046話 ソウル街角ウオッチング
第047話 朝鮮漢字音の特色
第048話 朝鮮半島の漢字文化
第049話 文選読みの話
第050話 日本語のなかの朝鮮語
第051話 現代中国語と韓国・朝鮮語
第052話 北京音・朝鮮語音・日本漢字音
第053話 ベトナム漢字音の痕跡

[漢字の読み方]
第054話 漢字に漢字でカナをふる
第055話 唐詩の韻を読み分ける
第056話 言語学者カールグレンの卓見
第057話 声近ければ義近し
第058話 中国語音(声母)の変化
第059話 中国語音(韻母)の変化

[弥生時代の日本語]
第060話 弥生音の痕跡
第061話 弥生音の特色
第062話 やまとことばのなかの中国語
第063話 国語学者亀井孝の反論
第064話 国学の伝統
第065話 やまとことばは純粋か(1)
第066話 やまとことばは純粋か(2)
第067話 やまとことばは純粋か(3)

[古事記の日本語]
第068話 『古事記伝』を読む
第069話 本居宣長の古事記解読
第070話 古事記解読の方法
第071話 漢心をすすぎさる
第072話 古事記はやまとことばで書かれているか
第073話 古事記は日本書紀とどう違うか
第074話 古事記はどのようにして成立したか
第075話 記紀万葉時代の日本語
第076話 大国主とは誰か
第077話 記紀のなかの朝鮮語の痕跡

[日本語のかたち]
第078話 キリシタン宣教師の日本語研究
第079話 ジョン万次郎の英会話
第080話 沖縄語入門
第081話 ケセン語入門
第082話 大槻文彦の語源研究
第083話 日本語の基層〜からだをあらわすことば〜
第084話 新井満の『自由訳 般若心経』
第085話 外国人に日本語を教えてみると

[日本語の系統]
第086話 日本語の系統論
第087話 日本語とアイヌ語
第088話 『アイヌ神謡集』を読む
第089話 日本語と朝鮮語
第090話 日本語とタミル語
第091話 日本に一番近い南島のことば〜チャモロ語〜
第092話 台湾原住民のことば
第093話 比較言語学の方法
第094話 言語の起源はひとつか
第095話 言語の類型
第096話 クレオール誕生
第097話 日本語の座標軸

[聖書のことば]
第098話 はじめにことばありき考
第099話 朝鮮語訳の聖書
第100話 モンゴル語訳の聖書
第101話 中国語・英語の対訳聖書
第102話 アイヌ語訳の聖書
第103話 チャモロ語訳の聖書
第104話 タミル語訳の聖書
第105話 ビルマ語訳の聖書
第106話 日本語と近いことば・遠いことば

「やまとことば」のなかの中国語からの借用語
第107話 日本語の古層
第108話 弥生音の特色
第109話 古代日本語の音韻構造
第110話 中国語韻尾音の転移
第111話 訓読み漢字の語源
第112話 古代中国語音の復元
第113話 借用語音の転移
第114話 古代日本語を解読する

「やまとことば」再考〜改訂版『古事記傳』の試み
第115話 改訂版『古事記伝』の試み
第116話 「やまとことば」はどこから来たか
第117話 古代中国語音の再構
第118話 神とは何か
第119話 弥生時代の「やまとことば」
第120話 古事記歌謡の復元
第121話 朝鮮語音の影響
第122話 やまとことば再考

「やまとことば」の成立〜万葉集に古代日本語の痕跡を探る〜
第123話 万葉集の来た道
第124話 万葉集のはじまり
第125話 万葉人の声を聞く
第126話 弥生音の痕跡
第127話 古代中国語音の復元
第128話 江南音の影響
第129話 朝鮮半島からの道
第130話 やまとことばの成立

弥生時代の日本語の痕跡を求めて
第131話 古代日本語私記
第132話 『日本書紀』の解読
第133話 『古事記』の解読
第134話 『万葉集』の解読
第135話 日本漢字音・呉音と漢音
第136話 万葉集の漢字音・和音と弥生音
第137話 柿本人麻呂の日本語世界

[よみがえる八世紀の日本語]
第138話 古代日本語の漢字音
第139話 古代日本語には母音が八つあった
第140話 古代日本語の復元
第141話 柿本人麻呂の日本語世界

【漢字の海へ】
第142話 漢字検定に挑む
第143話 四文字熟語の世界
第144話 部首を探す
第145話 虹はなぜ虫偏なのか
第146話 韓流ドラマに学ぶ朝鮮語
第147話 小学校1年生の「こくご」
第148話 日本語は乱れているか

[コンピュータは日本語を理解できるか]
第149話 日本語ワープロの発明
第150話 自然言語と人工言語
第151話 話しことばと書きことば
第152話 ことばにとって意味とは何か
第153話 自動翻訳機械は可能か

[ことばの明治維新〜漢学から洋学へ〜]
第154話 吉川幸次郎と『新唐詩選』を読む
第155話 良寛禅師の言語生活
第156話 夏目漱石の言語生活
第157話 『明暗』の日本語を解剖する
第158話 森鴎外の言語生活
第159話 『渋江抽斉』の日本語を解剖する

[古代日本語語源字典]
第160話 古代日本語語源字典序
第161話 古代日本語語源字典 索引
第162話 あ・われ(我)の語源
第163話 いか(如何)の語源
第164話 うぐひす(鶯)の語源
第165話 おく(奥)の語源
第166話 かがみ(鏡・鑑)の語源
第167話 かた(肩)の語源
第168話 かみ(神)の語源
第169話 き(黄)の語源
第170話 くがね(黄金)の語源
第171話 くも(雲)の語源
第172話 けふ(今日)の語源
第173話 こめ(米)の語源
第174話 さす(紗)の語源
第175話 さけ(酒)の語源
第176話 さやけし(清)の語源
第177話 しづか(静)の語源
第178話 しむ・そむ(染)の語源
第179話 すごろく(双六)の語源
第180話 せき(関)の語源
第181話 た(田)の語源
第182話 たて(楯・盾)の語源
第183話 ちり(塵)の語源
第184話 つどふ(集)の語源
第185話 とき(時)の語源
第186話 とら(虎)の語源
第187話 な(汝)の語源
第188話 なみ(浪)の語源
第189話 ぬれる(濡)の語源
第190話 は(歯)の語源
第191話 はな(花)の語源
第192話 ひ(火)の語源
第193話 ふさぐ(塞)の語源
第194話 へび(蟠)の語源
第195話 ほとけ(仏)の語源
第196話 ま・め(目)の語源
第197話 まふ(舞)の語源
第198話 みなもと(源)の語源
第199話 むぎ(麦)の語源
第200話 めぐる(廻)の語源
第201話 や(矢)の語源
第201話 ゆふ(夕)の語源
第203話 りきし(力士)の語源
第204話 わに(鰐)の語源
第205話 古代日本語と中国語(子音編)
第206話 古代日本語と中国語(母音編)

[源氏物語を読む]
 かなの発明によって日本語は日本語独自の文字体系を持つようになった。
「源氏物語」は仮名文字の発明によって生まれた文学である。
 かなの発明によって日本語はどう変わったか。
第207話 ひらがなの発明
第208話 桐壺の巻を読む
第209話 帚木の巻を読む
第210話 雨夜の品定め〜帚木〜
第211話 馬の頭(かみ)の女性観〜帚木〜
第212話 賢い女について〜帚木〜
第213話 空蝉の巻を読む
第214話 夕顔の巻を読む
第215話 町屋の朝〜夕顔〜
第216話 夕顔の死〜夕顔〜
第217話 若紫の巻を読む
第218話 末摘む花の巻を読む
第219話 紅葉賀の巻を読む
第220話 青海波の舞の夕べ〜紅葉賀〜
第221話 琴の調べ〜紅葉賀〜
第222話 花の宴の巻を読む
第223話 葵の巻を読む
第224話 賢木の巻を読む
第225話 花散里の巻を読む

[終章]
第226話 「日本語千夜一夜」中締め
 [小学校「こくご」教室]
 小学校の国語教科書から日本語を考える
第227話 1年生の「こくご」
第228話 かなづかいを学ぶ
第229話 1年生で習う漢字
第230話 小学校で習う漢字
第231話 学校の「国語」と社会の「日本語」
第232話 書きことばの変遷
第233話 国語改革の歴史
第234話 漢字文化圏の教科書
第235話 漢字が亡びるとき

[日本の漢字音]
第236話 呉音と漢音はどう違うか
第237話 日本漢字音と中国語漢字音のあいだ
第238話 日本語にない漢字音
第239話 漢字は表音文字である
第240話 漢字文化圏の漢字音
第241話 日本書紀は誰が書いたか
第242話 和語と漢語のあいだ
第243話 やまとことばの原像
第244話 やまとことばの親戚探し

[万葉集の来た道]
第245話 万葉集の日本語世界
第246話 万葉集のなかの中国語
第247話 万葉集のなかの朝鮮語

[NEW][万葉集以前の日本語]
第248話 本居宣長の日本語観
第249話 神代とはいつの時代か
第250話 「邪馬台国」は「やまと」である
第251話 日本語の系統論

[「やまとことば」の成立]
第252話 万葉人の言語生活
第253話 柿本人麻呂とは誰か
第254話 文字文化の担い手・史(ふひと)
第255話 柿本人麻呂の「ことば」世界

[漢字文化圏のなかの日本語]
第256話 万葉集のなかの外来語
第257話 音と訓の類似
第258話 カールグレンの卓見

[やまとことばとは何か]
第259話 古代日本語の特徴
第260話 人体名称の日本語
第261話 弥生時代の借用語
第262話 日本国憲法を解剖する
第263話 日本語の親戚を求めて
第264話 日本語のルーツ

[万葉集の来た道]
第265話 同源語〜古代中国の漢字音〜
第266話 弥生音〜「やまとことば」の古代中国語〜
第267話 万葉語辞典・あ行
第268話 万葉語辞典・か行
第269話 万葉語辞典・さ行
第270話 万葉語辞典・た行
第271話 万葉語辞典・な行
第272話 万葉語辞典・は行
第273話 万葉語辞典・ま行
第274話 万葉語辞典・や行
第275話 万葉語辞典・ら行
第276話 万葉語辞典・わ行

 

[古代日本語の来た道]

第001話 古代日本語の来た道

日本語はどこから来たのかという問いは、はてしない迷路へと、われわれを迷いこませる。

私たちは日本語であいさつを交わし、日本語の本を読み、悲しみや喜びも、日本語なしでは表現できない。

母語としての日本語は文法をわざわざ学ばなくても、辞書をいちいちひかなくてもわれわれ日本人とともにある。

日本列島に人類が住みついてからずっとこの島で話されていたのだろうか。

日本語とアイヌ語との関係、あるいは中国や朝鮮半島のことばとはどのような関係にあるのだろうか。

さらに考え方をすすめて、日本語は英語やフランス語などとはまったく無関係に誕生したのだろうか。

人類の言語には共通の祖語はあるのだろうか。さまざまな疑問がわいてくる。

●ヨーロッパでは19世紀に言語系統論の研究が盛んに行われて、ヨーロッパのほとんどの言語はサンスクリットなどインド大陸のことばとともにインド・ヨーロッパ語族という言語系統に属することが明らかになった。

しかし、日本語の系統については専門家のあいだにもさまざまな説があり、いまだに定説はない。

●明治時代に来日した外国人も日本語に大いに興味をもった。

英国大使館書記官補アストンは明治12年に「日本語と朝鮮語との比較研究」を発表して日本語と朝鮮語との類縁関係を論じた。

また、フィンランド大使館の代理公使ラムステッドは、日本語がアルタイ系の言語である蒙古語や朝鮮語と関係があることを説いた。

●日本では戦後、皇国史観がくずれてくると新たなアイデンティティーを求めて日本語の起源を求める本があいついで出版されるようになった。

医師の安田徳太郎は『万葉集の謎』という本を書いてレプチャ語を日本語の祖先だとした。

「わたしはヒマラヤの谷底で、万葉時代の日本語を、現にしゃべっている民族につきあたった。

それだけではない。かれらはわたしたちと同じに、アカンとか、ソワソワとか、シドロモドロという言葉までしゃべっていた」。

レプチャ語とはネパールとブータンの中間にあるシッキムで使われていることばである。

●国語学者の大野晋は1957年に『日本語の起源(旧版)』をだして、日本語ブームをリードした。

この時点では、大野晋は日本語アルタイ語起源説だった。

しかし、1980年代になると『日本語とタミル語』をだして『日本語の起源(旧版)』は絶版にしてしまった。

●レプチャ語にしてもタミル語にしても、普通本屋では入門書すらほとんど手にはいらないので、検証することはむずかしい。

●古代の日本には日本語はあったが、それを記録するテープレコーダーもなく、文字すらなかった。

日本語には碑文や金石文もなく、日本が本格的に文字時代に入るのは八世紀である。

古事記、日本書紀、万葉集の時代にはまだカナもなく、日本語は中国語を記録するために作られた漢字によって記録されている。

●現代の日本語のルーツを探ろうとすると記紀万葉の時代の日本語のなかに、それ以前の時代、弥生時代の日本語の痕跡をさぐるよりほかに方法はない。

●幸いなことに万葉集の時代の漢字が唐でどのように読まれていたかは、唐詩の韻を研究することによって、かなり正確に復元できる。

また、最近では隋唐の時代以前の漢字音も『詩経』(紀元前600年ごろ成立)などを研究することによって明らかにされつつある。

これらの成果を取り入れることによって古事記、日本書紀、万葉集などに使われている漢字の音価を再構することができる。

●また、日本の古地名のなかには漢字の読み方が呉音とも漢音とも違うものが数多くある。相模(さがみ)、香山(かぐやま)、當麻(たぎま)、因幡(いなば)、讃岐(さぬき)、敏馬(みぬめ)などである。

文字をもった民族が無文字社会に入ってきて最初に記録する言語は地名や人名などの固有名詞であろう。

地名や人名も古代日本語を解明する鍵を与えてくれる。

●古代の日本人はどんな名前をもっていたのであろうか。

古事記、日本書紀を読むとさまざまな名前の日本人が登場する。

天皇の名前なども、例えば、雄略天皇は「オホハツセワカタケ」と呼ばれていた。

古事記では「大長谷若建」、日本書紀では「大泊瀬幼武」と表記されている。

「ワカ」には日本書紀では「幼」、古事記では「若」があてられているが、これは後の解釈ではないかと思われる。

「王」の中国語音は王(wang)である。相模の相(ソウ)が相(さが)、香山の香(コウ)が香(かぐ)、當麻の當(トウ)が當(たぎ)であるように古代の王(オウ)は日本では王(わけ)と呼ばれていたのではあるまいか。

北「ホク」が北条「ホウジョウ」と音便化したように、5世紀の王「ワカ」は8世紀には王「オウ」と音便化して発音されるようになったのである。

●漢字の読み方には音と訓があり、音は中国語音に準拠したものであり、訓は日本古来のやまとことばを意味の同じ漢字を借りて表記したものだとされている。

梅(バイ・うめ)、馬(バ・うま)、文(ブン・ふ み)、君(クン・きみ)のごとくである。

しかし、梅(うめ)、馬(うま)は文字時代以前における中国語からの借用である可能性が高い。

古代日本語には濁音ではじまることばはなかっただからバ行の濁音は古代日本語ではマ行で置き換えられた。

文(ふみ)、君(きみ)についても同じことがいえる。古代日本語には「ン」で終わる音節はなかった。

だから、文(ブン)は文(ふみ)に君(クン)は君(きみ)に最後の音節に母音を付け加えて発音された。

●日本には国学、漢学、西洋言語学ということばに関する三つの異なる学問の系統がある。

国学は日本の古典を研究する学問である。本居宣長は『古事記』のなかに日本的なるものを見出し、日本文化の独自性を強力に主張した。

「漢(から)ごころを清くはなれる」ことによって、神の御典(みふみ)である『古事記』のなかに「やまとごころ」を見出そうとした。

本居宣長は古代アジアの歴史を規定した中国文化の痕跡を拭い去ることによって、『古事記』を日本の古代文化の中心に据えることができたのであり、日本語の独自性、日本文化の特異性を強調することができた。

この考え方は明治以降も受け継がれて、日本語は日本人、日本文化、近代国家日本と一体のものとして、西洋文化の普遍性に対する、非西洋の特殊性を示す柱として位置づけられてきた。

●漢学は中国文化の精髄である漢語の文献を研究し、漢字文化圏の東の果てである日本に中国文化の精華を伝えることを目的とした学問である。

漢字の伝える文化が大切なのであり、唐詩の韻には関心を示したものの中国語の音韻体系などにはほとんど興味を示さなかった。

中国人との対話はまれにしかなく、しかも筆談でことたりた。

●明治以降はいってきた言語学は西洋の言語を対象としたものであり、インド・ヨーロッパ系の言語にはあてはまっても、それ以外の言語にはあてはまらないことが多かった。

西洋言語学の知見は、その後未開言語の研究などによって進展したが、日本語の系統論の発展にはほとんど寄与することがなかった。

●日本の学問は師資相承であり、国学・漢学・一般言語学はほとんど互いに影響を与えたり、受けたりすることがなかった。

国語学者は言語学について知らず、言語学者は日本語について知らない。

そして、国語学者も言語学者も中国語・朝鮮語をはじめとするアジアの言語についてはほとんど関心をはらわない、とう残念な結果になっている。

理工系の学問では実用上の必要から学際的研究が盛んになってきているが、ことばの学問は専門分野がますます狭くなり、統合する力に欠けているようみえる。

●しかし、古代日本語の来た道を解明するためには、国学・漢学・一般言語学の知見を統合する努力が必要である。

言語の起源の研究は、どうしても、思弁的になりがちである。検証可能な資料により、できるだけ諸説を検証していく実証的な姿勢が求められているのではなかろうか。

第002話 日本語のルーツをたどる

●古事記によれば日本は神代から始まり、神武天皇にいたって人代、つまり人の世になる。

神武天皇は「やまとことば」を話していたのだろうか。

また、イザナギ・イザナミはどのようなことばを話したのだろうか。

そのことばは「やまとことば」と現在呼ばれているものと同じだったのだろうか。

日本の神話のなかにでてくることはば、西欧の神話にあるアダムやイヴのことばと起源が同じなのだろうか。

バベルの塔以前の世界には人類共通の言語があってヘブライ語も日本語も起源は同じなのだろうか。

●現代の歴史観では歴史時代になる前には先史時代があり、文字時代以前から人類の歴史ははじまっている。

文字以前の時代にも人間はことばを話していた。

しかし、そのことばは記録に残っていないから、それを復元する手がかりはない。

日本列島をナウマン象がかけめぐり、マンモスハンターが象を追っていた時代の日本語については何もわかっていない。

●その頃の人類が言語を話していたことについては、学者の間に異論はない。

ただ、「おーい、象が来たぞ」というようなことを日本語で叫んだとは考えにくい。

まして、「おーい、ナウマン象がきたぞ」などという日本語はなかった。

マウマンは明治時代に象の骨を発見した人の名である。

象(ぞう)は中国語からの借用語であり、万葉集の時代には象(きさ)と呼ばれていたことが知られている。

しかし、古代日本語の「きさ」が3万年前までさかのぼることができることばかどうかは分からない。

日本列島にはまず「きさ」ということばがあり、現在の日本語の象は中国語からの借用語であることまでは分かっている。

しかし、マンモスハンターがナウマン象を「きさ」と呼んでいたかどうかについては何も分かっていない。

●古代の日本語についての記録が現れるのは弥生時代になってからである。

中国の文献には日本は「邪馬台国」として記録されている。

しかし、古事記や日本書紀には邪馬台国や卑弥呼の記録はない。

古事記、日本書紀の記録を調べてみると、記紀歌謡「やまとは国のまほろば たたなづく青垣山隠れるやまとし美し」という歌がある。

同じ歌が古事記にも日本書紀にも載録されているのだが、古事記では「夜麻登」と表記されているが、日本書紀では「夜摩苔」と書いて「やまと」と読む。

 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多々那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
 夜摩苔波 區珥能摩保邏摩 多多儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于漏破試

●記紀の時代にはまだ漢字で日本語を表記する標準方式は確立されていない。

上が古事記の表記であり、下が日本書紀の表記である。

日本書紀で「夜摩苔」と書いて「やまと」と読ませているのであれば、魏志倭人伝の「邪馬台」も「たまたい」ではなくて「やまと」のことをさしているのではないだろうかという疑問が当然わいてくる。

現在の日本語史の研究によれば古代日本語には「たい」のような二重母音はなかったことが知られている。

また、古代日本語ではタ行オ段の音にはト(甲)とト(乙)の二種類があり、ト(甲)には刀・斗などの文字が使われており、ト(乙)には等・登・苔などが使われていることが明らかになっている。

つまり、苔の漢字音は苔(タイ)かもしれないが、苔は日本語のト(乙)を表記するために使われた漢字である。

しかし、中国の文献をあつかう漢学者は「邪馬台国」を「やまと国」とは決して読まないし、国学者は日本書紀の「夜摩苔」が邪馬台国のことであるとは言わない。

第003話 文字時代のはじまり

日本列島で漢字が用いられるようになったのは5世紀のことである。

埼玉県行田市にある稲荷山古墳から1968年(昭和43年)に一口の鉄剣が発見された。

その後1978年になって、思いもかけず、剣の両面に金象嵌の115文字の銘文があることがわかった。

辛亥年とある銘は471年もしくは531年にあたり、「獲加多支鹵大王」とあるのは雄略天皇のことと考えられている。

●5世紀の日本語は渡来人が書いたものであり、日本人が書いたものではあるまいという見解もあるが、

当時文字を扱う専門集団である史(ふひと)は渡来人であり、渡来人が大和朝廷を支える専門集団となり、その子孫がやがて日本人を形成していくわけだから、

古墳時代の文字使用者が日本人であったか、渡来人であったかという問いはほとんど意味をなさない。

●朝鮮半島では日本より早くから漢字が使われていた。

高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字が使われている。

漢字は中国語を表記するための文字であったが、朝鮮語を表記するのにも用いられた。

朝鮮半島では誓記体、吏読、郷札など、漢字を使って朝鮮語を表記する試みが早くから試みられていた。

●慶州にある石丈寺の跡から1940年に「壬申誓記石」という石碑が発見された。

そこには「若國不安大乱世 可容行誓之」と記されていた。

「若(もし)国安からず大乱世になれば、可(よろしく)容(すべからく)<忠道を>行わんことを誓う」と読める。

この文章は漢字で書かれているが、その語順は中国語とはまったく違う。

漢字を新羅語の語順で並べたものである。このような漢字の用法を誓記体という。

日本語は朝鮮語と語順が同じだから万葉集などでもこの方法が用いられた。

『人麻呂歌集』にある次の歌はその例である。

   戀事 意追不得 出行者 山川 不レ知来(万2414)
   春楊 葛山 發雲 立座 妹念(万2453)

これらの歌は日本語の助詞や活用語尾が表記されていないから、それを補って読む。

   恋ふる事 なぐさめかねて 出て行けば 山も川も 知らず来にけり
   春楊(はるやなぎ) 葛城山に 発(た)つ雲の 立ちても座(ゐ)ても 妹をしぞ念(おも)ふ

また、壬申誓記石にある「可容行誓之」の「之」は中国語にはない用法だといわれている。

これと同じ漢字の用法が日本にも残されていた。

昭和54年に奈良市で古事記の筆録者である太安万侶の墓誌が発見された。

そこには銅板でつぎのように記されていた。

  左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以葵亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳

「卒之」とある「之」は壬申誓記石で使われている「之」と用法が同じで、朝鮮語の動詞の終止形を表す書記法がそのまま用いられている。

●中国で文字が用いられるようになったのは紀元前1300年ころからであると考えられている。

朝鮮半島では高句麗(前33年建国)の時代にすでに漢字が用いられている。

中国大陸で漢字を使って中国語を記録する方法が発明されてからも、日本列島は無文字社会だった。

日本列島に漢字がもたらされた時、日本にはほかに文字がなかったから、日本語も漢字だけで書かれた。

文字を読み書きできたのは朝鮮半島から渡来した史(ふひと)と呼ばれる職能群である。

万葉集で日本語を表記するのに使われている、いわゆる万葉仮名は、誓記体、吏読、郷札など朝鮮半島での漢字使用の経験を生かして考案されたものと考えられる。

●古代の「やまとことば」は漢字で書かれているが、隋唐の時代の中国語の知識だけでは解明できないものがある。

たとえば、日本の古地名や天皇のおくり名である。

地名や人名のなかには普通に呉音や漢音と呼ばれる音ではない、より古い時代の漢字音が使われていることがある。

また、朝鮮漢字音の痕跡も認められる。日本語は弥生時代の初めから中国語から多くの語彙を借用して「やまとことば」のなかに取り入れてきた。

また、朝鮮半島を経由してきた借用語も多く、朝鮮漢字音の影響もみられる。 

●「やまとことば」は純粋であり、日本文化は特殊であるという考え方が広く受け入れられている。

しかし、「やまとことば」は中国大陸の文化が朝鮮半島や日本列島へと影響を及ぼし、朝鮮半島や日本で国家が形成されてくるなかで中国大陸、朝鮮半島、日本列島を結ぶことばの三角地帯で形成されてきたことは明らかである。

第004話 漢字で外国語を書く方法

北京の街を歩くと漢字で書かれたさまざまな看板に出会う。

なかには外国語を漢字で表記したものもあり、漢字で外国語を書くことのむずかしさを実感する。

可口可楽(コカコーラ)、麦当労(マクドナルド)、肯徳基(ケンタッキー)などは漢字の音を使って外国語をあらわしたものである。

稲荷山鉄剣や万葉集もこれと同じ方法で書かれていると考えることができる。

韓国の街角はハングルの看板でいっぱいである。

しかし、ハングルが読めるようになってみると、韓国語のなかに漢語起源の単語が多いのに驚かされる。

ハングルの文字をアルファベットになおしてみるとyak,i-bal,sik-dang,ta-bang と読める。

これは漢字で書けば「薬」つまり薬局、「理髪」、「食堂」、「茶房」つまり喫茶店である。

朝鮮語では語頭にラ行の音が来ることがないから「理髪」はi-balとなる。

中国語の韻尾(-t)は朝鮮語では記録的に(-l)であらわれる。

地下鉄ji-ha-cheol、万年筆man-nyeon-pilのごとくである。

●朝鮮漢字音は日本漢字音(呉音や漢音)とかなり違うことがわかる。

人名でも李明博(イ・ミョンバク)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、金大中(キム・デジュン)、金泳三(キム・ヨンサム)、盧泰愚(ノ・テウ)、金日成(キム・イソソン)、金正日(キム・ジョンイル)、金成哲(キム・ジョンチョル)などと読む。

スケートのキム・ヨナは金妍児、サッカーのチョンテセは鄭大世、アン・ヨンハは安英学である。

●これらの読み方は朝鮮語訛りということがいえるだろう。

しかし、朝鮮漢字音と中国語原音との間には対応関係があり、しかもその対応は規則的である。

中国語の語頭音のriの音は規則的に脱落して理髪(イ・バル)、李(イ)となり母音がi以外の場合は盧(ノ)となる。

古代日本語も現代の朝鮮語と同じようにラ行の音が語頭にくることはなかった。

だから、陸は陸(リク・おか)になり、梁は梁(リョウ・やな)、粒は粒(リュウ・いぼ)などになり、梨(リ・なし)、浪(ロウ・なみ)、練(レン・ねる)などに転移して、やまとことばのなかに借用語として受け入れられた。

●中国語韻尾の-ngは日本漢字音では堂(ドウ)、房(ボウ)、あるいは泳(エイ)、成(セイ)などの音便形であらわれるが、朝鮮語では中国語原音の-ngを保っている。

金日成、金正日の日(イル)は地下鉄の鉄、万年筆の筆と同じで中国語韻尾の-tが-lに転移したものである。

日本は朝鮮語では日本(イルボン)である。日本語のなかにも中国語原音の-tがラ行音に転移して受け入れられたと思われることばがある。

払(フツ・はらう)、祓(バツ・はらう)、擦(サツ・する)、徹(テツ・とおる)、没(ボツ・うもる)などである。

●朝鮮語では韻尾の-mと-nの区別が保たれていて、金は金(キム)、緊は緊(キン)と区別されているが、日本語では韻尾の-mと-nの区別は失われて金も緊も金(キン)、緊(キン)である。

韻尾の-mと-nの区別は現代の広東方言には残っているが、北京音ではすでに失われている。

朝鮮漢字音で-mと-nの区別が保たれているのは、中国の江南地方の発音に準拠した音を受け継いでいるからだといえる。

朝鮮漢字音に訛りがあると同じように呉音や漢音と呼ばれる日本漢字音にも相当な訛りがある。

しかし、その訛り方は規則的である。

●漢字の発音は中国3千年の歴史のなかで、時代により、地方により大きく変化している。

漢字文化圏のなかで、日本語や朝鮮語は漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡などの植民地をおいて以来、さまざまな中国語音を受け入れてきた。

これらの借用語は「やまとことば」のなかに埋れていて、一見外来語とは気がつかないことがある。

しかし、「やまとことば」のなかに、隋唐以前の時代の中国語や朝鮮語からの借用語が数多く見られたとしても、これらの地域の交流の歴史からみて、何の不思議もないのではなかろうか。

第005話 カナ以前の日本語

8世紀になると古事記、日本書紀、万葉集が成立し、日本語の形が見えてくる。

仮名ができるのは平安時代になってからだから、奈良時代の日本語は漢字だけで書かれている。

古事記は「やまとことば」を漢字で表記したものだと考えられている。

日本書紀は日本語的な表現も含まれているものの、中国語としても読めるように漢文で書かれている。

日本語として読むときにはレ点や返り点をつけて、送り仮名をつけて読む。

万葉集は詞書の部分は漢文で書かれているが、歌は漢字の音や訓を使って「やまとことば」で書いてある。

●万葉集の歌のなかには、その読み方がわからなくなってしまっているもの、読み方に諸説あるものなどがあって、万葉集は完全に解読されているわけではない。

万葉集の漢字の使い方は、朝鮮半島で発達した誓記体、吏読、郷札など、漢字で朝鮮語を表記する方法を継承している。

柿本人麻呂の歌に有名な「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えてかへりみすれば 月傾きぬ」という歌がある。この歌は万葉集では次のように表記されている。

東野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡(万48)

●この歌では「東(の)野(に)炎(の)」というところは日本語の助詞は表記されていないが、「立所レ見而」の「而」、「反見為者」の「者」は日本語の助詞を表記するために用いられている。

これは朝鮮半島で行われた吏読(リトウ)という漢字の使い方と同じである。

例えば、葛項寺造塔記(758年)には「姉者照文皇太后君、、、妹者敬信大王、、、」のように「者」は朝鮮語の主語をあらわす助詞に使われており、日本語に置き換えれば「、、は」にあたる。

柿本人麻呂は朝鮮半島における誓記体や吏読など朝鮮語を漢字で書き表すために考案されたさまざまな書記法を駆使して、漢字で日本語を書き表そうとしている。

万葉集には解読不能な歌が何首もある。秀歌というわれる歌でも読み方は確定しているわけではない。

渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾(万15)

この歌は天智天皇の歌とされている。この歌は一般に次のように読まれている。

わたつみの 豊旗(とよはた)雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきら)けくこそ

●しかし、最後の清明(セイメイ)は日本語の何をあらわしているかについては、古来さまざまな解釈がなされている。

古くは「スミアカクコソ」と読まれていたが、江戸時代に賀茂真淵が「アキラケクコソ」と読みかえた。

主な読み方をあげてみると次のようになる。

 サヤニテリコソ(佐々木信綱)、キヨクテリコソ(伊藤左千夫)、キヨクアカリコソ(武田祐吉)、サヤケカリコソ(斎藤茂吉)、キヨラケクコソ(折口信夫)、 

●斎藤茂吉は「ここは、スミ・アカク、或は、キヨク・テリ、或は、キヨク・アカリの如く小きざみになっては、一首の堂々たる声調を結ぶことが出来ない」として、「サヤケカリコソ」と読むことを提案している。

斎藤茂吉はまず万葉歌の調べはかくあるべしとして、だからこの歌はかく読むべきであるとしている。

たしかに、万葉集の原本は「清明」と漢字で書かれていて、「やまとことば」としての読み方は幾とおりも可能である。

佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫などのそうそうたる歌詠みが、天智天皇に自分の歌を託しているごとくである。

万葉集には「清明」と書いてあるのみで、これをどう訓むのが正しいという証拠がどこかに隠されているわけではない。

万葉集の歌は「やまとことば」の姿をよく伝えているといわれる。

しかし、いわゆる「やまとことば」は純粋ではなく、弥生時代以降中国文化との接触のなかで、中国語から借用された語彙が数多くふくまれている。

弥生時代の借用語は日本語のなかに定着していて、万葉集の時代にはもはや外国語であると意識されなくなってしまっていた。

次にあげる漢字の訓は他人のそら似にしてはあまりにも中国語音に似すぎていないだろうか。

巣 (ソウ・す)、洲(シュウ・す)、舌(ゼツ・した)、竹(チク・たけ)、筆(ヒツ・ふで)、麦(バク・むぎ)、帆(ハン・ほ)、牧(ボク・まき)、幕(バ ク・まく)、枯(コ・かれる)、指(シ・さす)、死(シ・しぬ)、染(セン・そめる)、占(セン・しめる)、耐(タイ・たえ  る)、透(トウ・とお る)、剥(ハク・はぐ)、舞(ブ・まう)、迷(メイ・まよう)、

これらの単語は発音が近く、意味は音も訓も同じである。

訓で読まれ、やまとことばと考えられてきたことばのなかに古い時代の中国語からの借用語が含まれていないか、検証してみる必要がある。

これらの音と訓の間の対応関係が確認されれば、これらのことばは弥生時代、古墳時代における中国語からの借用語だから、呉音でも漢音でもなく、「弥生音」と呼ぶのがふさわしい。

「弥生音」は「やまとことば」のなかにその痕跡を残している。

第006話 やまとことばのなかの借用語

●「やまとことば」のなかに、中国語からの借用語が含まれている可能性があることを最初に指摘したのは、スウエーデンの言語学者カールグレンであった。

カールグレンは『言語学と古代中国語』(1920年)という論文のなかで、日本語の馬「うま」、梅「うめ」、絹「きぬ」、竹「たけ」、麦「むぎ」、鎌「かま」、など24の単語をあげて、これらは古い時代に中国語から借用されて、日本語のなかに取り入れられたことばである主張した。

●これに対して日本人の言語学者亀井孝は”Chinese Borrowings in Preliterate Japanese”「文字時代以前の中国語からの借用語」という英語の論文を書いて詳細に反論している。

確かにカールグレンが例示した単語のなかには論拠不十分なものも含まれているように思われる。

亀井孝はカールグレンのあげた例を三つに分けて反論している。

1.あるいは認めてもよいかと思われる例
   郡(くに)、絹(きぬ)、馬(うま)、梅(うめ)

2.多分に疑わしい例
   琢(とぐ)、剥(はぐ)、築(つく)、析(さく)、槅(かき)、熱(なつ)、閾(ゆか)、邑(いへ)、室(さと)、松(すぎ)、麦(むぎ)、竹(たけ)、盆(ふね)、坩(かま)、鎌(かま)、秈(しね)、

3.間違いなく誤りと認めうる例
 湿(しほ)、蛺(かひこ)

●亀井孝は日本の国語学者のなかでももっとも一般言語学に造詣の深い学者の一人である。

しかし、亀井孝にして「やまとことば」の純粋性に対する確信に迷いはなかったのであろう。

カールグレンの投げかけた主題は検証され、発展されるべきものであった。

しかし、日本の学界は外国の学者に対して鎖国することによって、純粋に日本的なるものを守ろうという方向に動いてしまったのである。

●中国では最近、王力などによって『詩経』など紀元前600年ころに成立した詩の押韻の研究が進み、古代中国語の音韻構造が明らかになってきた。

それにともなって、「やまとことば」のなかには隋唐の時代よりかなり前の中国語音に準拠した借用語があるのではないかということが、次第に明らかになってきた。

●漢字は象形文字であるからアルファベットと違い、発音が変わっても文字の形が変わることがない。

例えば馬という文字は馬(メ・マ・バ)と読み方が変わったとしても「馬」と書かれる。

それに対して、表音文字であるアルファベットでは発音が変わると、やや遅れて文字も変わってしまう。

英語のhorseは古代英語ではhros, horsであり、中期高地ゲルマン語ではros, ors、現代ドイツ語ではross、古代ノルウェー語ではhrossとして表れる。

ラテン語ではcurrereで「走る」という意味である。

ところが漢字文化圏では馬は古代から現代まで「馬」だから、ことばの変化をたどることはむずかしい。

●馬は朝鮮語ではmalであり、モンゴル語ではmoirである。

中国語の「馬」は騎馬民族からの借用語である可能性がある。

『魏志倭人伝』には日本には馬はいないと書かれている。

万葉集では「馬」は馬、宇麻、宇万、牟麻などとしてあらわれる。

「梅」は万葉集では梅、烏梅、宇米、有梅、于梅などとしてあらわれる。

中国語の馬、梅のことだが日本語では中国語と発音が違うことをなんとか示そうとしているようにもみえる。

●カールグレンの提言を検証してみると、梅(うめ)、馬(うま)、ばかりでなく、味(うまい)、美(うまし)、没(うもる)、牧(むまき)、ばかりでなく夢(いめ)、妹(いも)、未(いまだ)や海(うみ)も文字時代以前における中国語からの借用であることが明らかになる可能性がある。

●「やまとことば」のなかには古代中国語からの借用語があり、漢代の中国語音を反映している。

日本漢字音は、呉音も漢音も、隋唐の時代の中国語音に準拠したしているが、その前に、漢代の古代中国語音を継承した弥生時代の借用音があることが明らかになる。

第007話 古代の声を聞く

●中国では唐詩の韻を研究する学問が進んだ。

韻を踏んだ詩を作ることは科挙の試験に合格するための絶対条件だったために、官吏を目指す人びとは進んで唐詩の韻を学んだ。

『韻鏡』という複雑な韻図ができて、これをみれば韻が正しいか、まちがっているかが分かるようになった。

たとえば、杜甫の「春望」についてみると、つぎのようになる。

春望 杜甫
  國破山河在 国破れて山河在り、
  城春草木深 城春にして草木深し。
  感時花濺涙 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ、
  恨別鳥驚心 別れを恨しみて鳥も心を驚かす。
  烽火連三月 烽火(ほうか)は三月に連なり、
  家書扺萬金 家書は万金に扺(あた)る。
  白頭掻更短 白頭掻けば更に短く、
  渾欲不勝簪 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す。

●日本漢字音では深「シン」、心「シン」、金「キン」、短「タン」、簪「セン」が韻を踏んでいるようにみえる。

『韻鏡』によって韻を調べてみると、つぎのようになる。

深(沁韻)、心(侵韻)、金(侵韻)、短(緩韻)、簪(覃韻)

●「心」と「金」はともに侵韻であり、心=金で同韻であることがすぐわかる。

また、深(沁韻)は『韻鏡』では侵韻と同じ第38図に収められており、侵韻が平声なのに対して沁韻は去声で四声が違うだけだから、平仄が同じである。

したがって、深=心=金、と押韻していることがわかる。

また、簪(覃韻)は『韻鏡』では深、心、金の次の第39図に載っている。

覃韻と侵韻の違いは、開口音かu介音をともなう閉口音かの違いだから韻は同じであると考えられている。

したがって、「深」、「心」、「金」、「簪」は韻を踏んでいることが『韻鏡』によって確かめられる。

●「短」は、日本漢字音では押韻していそうに思えるが、韻鏡ではまったく別の第24図に掲載されていて、短(緩韻)である。

「短」は「深」、「心」、「金」、「簪」とは押韻ないことがわかる。

韻図は日本でいえば五十音図にあたるものだが、それが43枚にも分かれているのだから、理解するのにもかなりの修行が必要である。

これをアルファベットで表記すれば、深[siəm]、心[syəm]、金[kiəm]、簪[tziəm]は韻尾が[-m]であり、短[tuan]と韻を踏まないことは一目瞭然である。

日本語では中国語の韵尾の[-m] と[-n] がともに「ン」であらわれる。

●日本漢字音は唐代の中国語音に準拠しているから、唐代の中国語音が復元できれば、万葉集の歌の原音をよみがえらせることができる。

漢字の音は反切という方法で、声母(頭子音)と韻母(母音を含む部分)に分けて示される。

例えば、日本書紀の歌謡では「やまと」は「夜摩苔」と表記されているが、「夜摩苔」の唐代中国語音はつぎのように復元される。

 夜(羊・謝)摩(莫・婆)苔(徒・哀)

●「夜」の中国語音の頭子音は「羊」と同じであり、韻母は「謝」と同じであるということが分かる。

日本でも江戸時代には唐代の中国語の韻の研究が盛んに行われた。

しかし、中国語の音韻学は専門的な分野で、現代の日本人にはなじみがない。

これを表音文字であるアルファベットで示せば、夜/jya/ 摩 /muai/ 苔 /tə/ということになる。

8世紀の日本語の「やまと」は唐代の中国語原音では/jya・muai・tə/であるということが知られる。

●ところが、弥生時代の借用音は、原音となっているのが漢の時代の古代中国語音であり、唐代の中国語音より古い中国語に依拠しているので、復元はさらに困難になる。

中国には紀元前600年ころに編纂された『詩経』があり、『詩経』の韻を調べることによって、さらに古い中国語の音を復元することができる。

『詩経』では「夜」は「悪」などと韻を踏んでいる。

また、「夜」は「液」と声符が同じであることから、古代中国語音は夜[jyak]であったと推測できる。

●夜(ヤ・よる)は音が夜(ヤ)、訓では夜(よる)になる。

日本漢字音の夜(ヤ)は唐代の中国語音に依拠したものであり、訓の夜(よる)はそれより古い時代の中国語音である夜[jyak]の痕跡をとどめた、中国語からの借用語である可能性がある。

●また、「墓」という漢字につて調べてみると、唐代の中国語音では墓/ma/であり、日本漢字音は墓「ボ」である。

ところが、「墓」の古代中国語音は「莫」と同じく墓[mak]であることがわかる。

このことから、墓(ボ・はか)は音が唐代の中国語音に依拠したものであり、訓の墓(はか)は詩経の時代の中国語音の痕跡を残した弥生音であることが明らかになる。

古代人の声は残されていないが、残された文字の音を復元することによってよみがえらせることが可能になる。

第008話 万葉集に「やまとことば」の源流を探る

●万葉集の時代にはカナ文字はなかったから、漢字だけで書かれている。

万葉集の本文は漢文で書かれているので、中国人が読んでも理解できたはずである。

歌は漢字で書かれているが「やまとことば」を漢字で表記したものである。

万葉集の時代には文字をあつかう専門集団である史(ふひと)は朝鮮半島から渡来した人びとやその子孫であったから、万葉集の漢字の使い方は、吏読や誓記体、郷札など漢字を用いて朝鮮語を表記する方法を継承している。

●日本列島における文字時代のはじまりは4世紀末から5世紀にかけてと考えられているが、日本が本格的な文字時代になるのは8世紀のことである。

8世紀には古事記、日本書紀、懐風藻、万葉集などが次々に成立する。

このうち、日本書紀、懐風藻は漢文で書かれているが、古事記と万葉集は初期の「やまとことば」を記録した、まとまった文献としては第一級のものである。

万葉集が成立したのは8世紀であるが、5世紀から伝えられた歌もある。

万葉集は弥生時代の日本語や古墳時代の日本語の痕跡さえ留めている。

●万葉集は中国渡来の漢字を使って、朝鮮半島渡来の史(ふひと)の手によって成立したものである。

現在では、幸いなことに、万葉集は韓国語の完訳があるし、中国語にも主要な部分が翻訳されている。

これらの翻訳は万葉集の時代にできたものではないが、漢字だけで書かれた原文の万葉歌を中国語訳、韓国語訳と対比することによって、万葉集のなかの中国的要素、朝鮮語との関連を、中国、朝鮮半島、日本という古代文化のトライアングルのなかに位置づけてみることができる。

●エジプトのヒエログリフがロゼッタストーンを手がかりに解読されたことはよく知られている。

ロゼッタストーンには神聖文字(ヒエログリフ)のほかに通俗文字、ギリシャ語の3ヶ国語が併記されており、それを手がかりに解読された。

万葉集を中国語、朝鮮語との関連のなかで位置づけることによって「やまとことば」とは何かを問いなおす手がかりとなることが期待される。

●例えば、柿本人麻呂の歌「淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしぬにいにしへ思ほゆ」(万266)を万葉集の原文と中国語訳、韓国語訳を対比してみるとつぎのようになる。

[原文] 淡海之海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思怒爾 古所念

[中国語訳]
   淡海之湄、夕波千鳥、汝也嘒嘒、使我心槁、為思古老。(その1)

   淡海海上、夕波千鳥、你的啼声、沁透我心、■思古老。(その2) ■=忄+不

[朝鮮語訳]
     淡海湖水(ho su) ui  夕(jeo nyeok) 波(mul gyeol) eul

     飛(nal eu) neun  川千鳥(mul ttye sae) yeo  汝(ne) ga  鳴(ul myeon)
     心(ma eum) do kop a jyeo 昔(yet il) i 思(saeng gak) na ne

●万葉集には朝鮮語との同源語や中国語からの借用語が多く使われている。

日本語も朝鮮語も、語彙は中国語からの借用語が多い。

「海」は声符が「毎」であり、日本語の海(うみ)は中国語からの古い借用語であろう。

「浪」は現在では波と書いているが、ラ行の音はナ行に転移することが多いから、日本語の波(なみ)は中国語の浪が語源であろう。

「汝」の古代中国語音は汝[njia]であり、これも中国風の呼び方であろう。

朝鮮語訳でも汝は汝(ne)であり、当時「汝」は中国、朝鮮、日本で共通に使われていたことばである可能性がある。

鳴「なく」の古代中国語音は鳴[mieng]であるが、これも中国語音の転移したものである可能性が高い。

また、朝鮮語の鳥は鳥saeである。カラス、カケス、モズなどの「ス」は朝鮮語の鳥と共通の語源をもつことばであろう。

●万葉歌人のなかには『懐風藻』に漢詩を残している人も多い。

大津皇子、文武天皇、大伴旅人、長屋王、などである。

山上憶良も万葉集のなかに漢詩を残している。

当時の貴族社会の人びとや僧侶は日本語と中国語に通じていたことがわかる。

大津皇子は万葉集に「ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(万416)という有名な歌を残しているが、懐風藻にも同じ主題を詠んだ漢詩が残されている。

五言 臨終 一絶   臨終
 金烏臨ニ西舎一  金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み
 鼓声催ニ短命一  鼓声(こせい)短命を催(うなが)す
 泉路無ニ賓主一  泉路(せんろ)賓主なし
 此夕誰家向     この夕 誰が家にか向ふ

●歌も漢詩もいずれも臨終の作である。万葉集の歌では日本の歌の伝統に従って、季節の微妙な移り変わりに心を動かし、美しい自然を愛惜する心情と、死にたいする自分の思いを重ね合わせている。

言語表現のうえでも、万葉集の歌は「ももづたう」という枕詞にはじまり、「雲隠りなむ」という隠喩で終わっていて、事物を直接的に表現せずに余韻を重んずる「やまとことば」の伝統をふまえている。

歌は「毎年北方から飛来する無心の鴨が何かを予知したかのごとく鳴いている。

鴨は来年もまたやって来るであろう。

しかし、私は今日を限りにこの鴨を見ることがなくなるであろう」という感慨がこめられている。

●これにたいして、漢詩では当時宮廷を中心に広がりつつあった、仏教の思想が色濃く映し出されていて、「西舎」「泉路」など仏教の概念が織り込まれている。

「日は西方浄土に傾き、うち鳴らす太鼓の音は、はかない命のリズムを刻む。

黄泉の路には賓(まろうど)も主(あるじ)もない、この夕べどこに宿を求めればよいのやら。

ひとりわが家に別れを告げるのみ」と解釈できる。漢詩は歌より観念的で、かつ明示的である。

●万葉歌は中国語に翻訳しても漢詩になりえないし、漢詩はそのまま日本語にしても万葉の歌にはなりえない。

漢詩は脚韻こそ踏んでいないものの、大津皇子が日本語と中国語を使いこなす、バイリンガルであったばかりでなく、日本文化の伝統と中国や仏教思想に深いかかわりをもっていたことを、うかがわせるに十分である。

第009話 古事記を解読する

●『古事記』は戦前には皇国の聖典であった。しかし、戦後は学校でも『古事記』の神話を教えることはなくなり、『古事記』を読む人はほとんどいなくなってしまった。

神話は歴史そのものを伝えない。けれども、神話は日本人の心のなかに描かれた古代の姿を伝えている。

また、古事記は万葉集とともに、日本最古のまとまった文字資料であり、古代の日本語を知るうえでは、はかりしれない価値をもっている。

●本居宣長は35年の歳月をかけて『古事記』を解読した。

本居宣長は『古事記』の日本語を復元することによって、中国文化の影響を受ける前の日本の姿はどのようなものであったかを明らかにしようとした。

漢語を受け入れる前の「やまとことば」はどんなかたちであったか。

そして、古代の日本人のこころ、「やまとごころ」はどのようなものであったかを解明しようとした。

本居宣長は『古事記伝』のなかで、次のように述べている。

此記は、いささかもさかしらを加(くは)へずて、古へずて、云ひ伝へたるままに記されたれば、その意も事も言も相稱(あひかなひ)て皆上ツ代の実(まこと) なり。是レもはら古ヘの語言(ことば)を主(むね)としたるが故ぞかし。

●また、本居宣長は『うひ山ぶみ』のなかでは、次のようにも述べている。

件の書(古事記書紀の二典)どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固(かた)まりて、漢意(からごころ)におちいらぬ衞(まもり)にもよかるべき也。道を學ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂(たましひ)をかたくする事を、要とすべし。さてかの二典の内につきても、道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし。

●本居宣長は「漢意を清く濯ぎ去る」とはいっているが、江戸時代は漢学の時代であり、本居宣長自身も漢学をうとんでいたわけではなかった。

「漢国をのみ尊く、何事もすぐれたる如くに云て、皇国をば、殊更につとめて賤しめおとして、強(ひい)て夷にするを、卓見のごとく思う」輩に我慢がならなかったのである。

本居宣長は別のところでは、「漢籍を見るも、學問のために益おほし」ともいっている。

●太安麻呂は中国語を表記するために作られた文字を手なずけて日本語を表記するという大事業にとりくんだ。本居宣長は逆に漢字だけて書かれた日本語を解読するという仕事に取り組まざるをえなかった。

両者に十分な漢字の知識と「やまとことば」に対する繊細な感性が求められたことは間違いない。

●現在でも、日本とはなにか、日本語とはなにかを問う人は必ず、本居宣長に、そして『古事記』に回帰する。小林秀雄は13年間にわたって大著『本居宣長』を書きつづけた。

小林秀雄が『本居宣長』を雑誌『新潮』に連載しはじめたのは昭和40年のことであり、終章を擱筆したのは昭和52年のことである。

小林秀雄は『本居宣長』のなかで、次のように述べている。

「古事記」という謎めいた、訳のわからぬ物語を、宣長が、無批判無反省に、そのまま事実として承認し、信仰したについては、宣長が、内にはぐくんだ宗教的情操が、彼の冷静な眼を曇らせた、さう解するより仕方がない、とする考え方に、研究者は誘われ勝ちだが、これはいけないだろう。少なくとも、さういふ余計な考へ方で、話を混乱させる事はないやうに思はれる。

●近世において本居宣長をかりたて、近代になって小林秀雄がそれほどまでこだわりを持ちつづけた理由は何だったのか。

それは、「日本語とは何か、やまとことばとは何か」という問いが、われわれ日本人とは何かという問いと深くかかわりあっているからにほかならない。

本居宣長は『古事記』の編者太安万侶になりきって、『古事記』を読み解こうとした。

小林秀雄は本居宣長になりきって『古事記傳』を読み直そうとした。

そして、「やまとことば」の原初の形をよみがえらせようとした。

日本が神国であるとか、古事記の神話が戦後の民主主義の思想に合うとか、合わないとかいうのではなく、『古事記』が日本という国をどのようにイメージし、日本を形づくった精神はどのようなものであったか、そのありのままの姿をみつめなおそうとしたのである。

●本居宣長は『古事記伝』のなかで「神」について、次のように書いている。

●迦微(かみ)と申す名義(なのこころ)未ダ思ヒ得ず。凡て迦微(かみ)とは、古(いにしへの)御典(みふみ)等(ども)に見えたる諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)る社に坐ス御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何(なに)にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(とこ)のありて可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり。

●本居宣長はまず、神のいうことばの本義は分からないとしている。

しかし、神ということばが古事記、万葉集など日本の古典のなかで、どうのように使われているかを明らかにしようとしている。

神代とは、その時代の人はみな神だったから、神代というのだとしている。

また、雷はいうにおよばす、虎も狼も神という例は日本書紀や万葉集にも見えるとしている。

第010話 日本語の語源

●語源の研究は江戸時代から盛んになっている。

しかし、ことばができた時立会人がいたわけではないから、語源の研究は困難を極める。

神(かみ)は上(かみ)、  竹(たけ)は高(たかい)、 烏(からす)は黒(くろい)、
鼠(ねずみ)は盗(ぬすむ)、墨(すみ)は染(そめる)、

などという語源論が江戸時代にはまことしやかに行われた。

しかし、日本語の犬(いぬ)はなぜ「いぬ」と呼ばれ、猫(ねこ)はなぜ「ねこ」と呼ばれるのだろうという疑問には誰も十分に説得力のある形で答えていない。

●ヨーロッパの言語学では、例えば英語のdogは古代英語ではdocgaであり、中世英語ではdogge、ドイツ語ではHund、フランス語ではchienということが明らかにされている。

英語のcatは古代英語ではcatt、スウェーデン語ではkatt、古代ノルウェー語ではkottr、ウエールス語ではcath、アイルランド語ではcat、ラテン語ではcatus、ドイツ語ではKatze、フランス語ではchatであることは、ちょっとした辞書を調べればすぐわかる。

●ところが漢字文化圏では時代や場所によって発音は変わってもイヌは「犬」、ネコは「猫」だから、時代や地方によって発音がどのように変化したのかは分からない。

東アジアの言語について調べてみると、次のようになる。

 [犬] 朝鮮語kae、 北京語quan、 広東語hyun、 モンゴル語nokhoi、 チベット語kyi、 ビルマ語k’we、 タイ語mah、 インドネシア語anjing、 マレー語anjing、 チャモロ語(グアム島)ga’lagu、 アイヌ語seta、
[猫] 朝鮮語ko-yang-i、 北京語mao、 広東語maau、 モンゴル語muur、 チベット語shi-mi、 ビルマ語caun、 タイ語maa-ou、 インドネシア語kucing、 マレー語kucing、 チャモロ語(グアム島)katu、 アイヌ語meko、

●明治時代に日本初の近代的辞書を編纂した大槻文彦は「語源の説くべきものは、載するを要す。

例ば、くらなゐ(紅)は、「呉の藍」の約なる、(略)びろうど(天鵞絨)は、スペイン語Velludaの転なるが如き、是等の起源、記さざるべからず」としている。そして、猫の項には次のように記されている。

●ねこ(名)[ねこまの下略、寐高麗の義などにて、韓国渡来のものか。上略してこまともいひしが如し。

或云う寐子の義、まは助詞なりと。或は如虎(にょこ)の音転などいふは、あらじ]

●言語学者のフェルデナン・ド・ソシュールは音声の記号と意味の結びつきは恣意的であるとした。

つまり、日本語のイヌあるいはネコということばの音声は、犬とか猫という動物とは何の関係もなく、日本語のイヌは中国語ではケン、英語ではdog、ドイツ語ではHundであり、犬という動物の実体を音声で表したものではないとした。

●しかし、北京語の犬quan、広東語hyun、朝鮮語kae、チベット語kyi、ビルマ語k’weなどに似ているとすれば、それらのことばは同源ではあるまいかという疑問がわいてくる。

日本語のイヌも中国語の語頭母音kが脱落し、韻尾の-nに母音が添加されたのだとすれば、中国語と同源ということになる。

東北地方のまたぎは猟犬のことを「セッタ」と呼んでいる。これはアイヌ語のsetaと同じ源である。

●ネコも北京語mao、広東語maau、モンゴル語muur、アイヌ語のmeko、タイ語maa-ouは似ている。

共通の語源にたどりつく可能性がある。猫の古代中国語音は猫[miô]であり、中国語の猫は泣き声の「ミャオ」にもとづいた疑声語である。

日本語では猫の泣き声は「ニャオ」または「ニャーゴ」である。

中国語の猫も日本語の猫も、猫の泣き声を模した疑声語である可能性がある。

●「やまとことば」の純粋性を信ずる国語学者の多くは、日本語の語源を日本語自体のなかに求めようとしてきた。

それでは日本語の系統も、日本語のなかにしか求められないことになり、日本語は孤立し、日本特殊論に行きつくしか道はない。

明治以降、日本人は西洋の学問を取り入れるのに急なあまり、日本語につながるアジアの言語に無関心でありすぎた。日本語の語源は日本語のなかにのみ求めるのではなく、東アジアの歴史のなかで日本語の形成に寄与してきたアジアの諸言語との関連のなかで日本語の語源を探し求めていかなければならないのではなかろうか。

第011話 やまとことばはクレオールである

●言葉とは何かを探求する言語学は最近ふたつの方向で成果をあげている。

ひとつはチョムスキーなどによる普遍文法の研究である。

言語構造の普遍性についての研究といってもよい。

もうひとつはクレオールの研究である。

太平洋の島々やカリブ海の旧植民地で使われるクレオールやピジンは、まちがったことば、本来のヨーロッパ言語を知らない人の正しくない言語として見捨てられてきた。

しかし、大航海時代以降ヨーロッパの植民者と、インド・ヨーロッパ語族とは系統のまったく違うカリブ海や太平洋の島々の人々とのコミュニケーションのために生まれたピジンやクレオールは、新しいことばが生まれるときの、言語の生成過程を示唆するものとして注目を集めている。

●19世紀に生れた言語の系統論では、言語は生物の進化のように祖語からわかれてきたと考えられていた。

例えばインド・ヨーロッパ語族の場合はインド・ヨロッパ語族の祖語があって、それが系統樹のように先祖が枝分かれして、サンスクリット語、ペルシャ語、バルト・スラブ語、ゲルマン語、ケルト語、ラテン語、ギリシャ語などにわかれる。

ゲルマン語はさらに北部ゲルマン語(スカンジナビア語)、東部ゲルマン語(ゴート語)、西部ゲルマン語(ドイツ語、オランダ語、英語など)に分かれるというものであった。

●生物は突然変異によって何万年もかかって進化する。

生物は異種交配をしないが、ことばは太平洋諸島の言語やカリブ海諸島の言語が植民地支配者の言語とぶつかりあってピジンやクレオールのような混交言語を生みだす。

●日本語と中国語はかなり異なった言語である。

中国語の語順は主語+動詞+目的語であり、日本語は主語+目的語+動詞である。

中国語には声調(四声)があり、日本語にはない。

中国語は孤立語といわれ動詞の活用もなく、名詞に助詞がついて格を示すこともない。

日本語は膠着語といわれ、変化しない語幹に助詞などがのりづけされて語と語の関係を示す。

しかし、日本語は中国語から数多くの語彙を受け入れてきた。

また、最近では屈折語といわれる英語などヨーロッパの言語からも大きな影響を受けている。

●地球の歴史は数億年、人類の歴史は十万年、そのなかで言語の記録が文字に残されているのはおよそ五千年。

日本語の記録は二千年に満たない。文字の記録のない時代のことばは復元できない。

そのために言語の歴史は謎につつまれた部分が多い。

考古学資料が明らかにするところによると、弥生時代に稲作や鉄の文化が中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に伝えられる。

人類は狩猟採集や焼き畑の段階から定住農耕の時代に入ると急激に人口が増え、余剰農産物も生産されて、部族社会から国家らしきものを形成する段階に達する。これは現代人類学の教えるところである。

●現代の日本語につながる「やまとことば」は弥生時代の到来とともに形成されてきたと考えて間違いはない。

弥生時代以前に日本列島に住んでいた人びともことばを話していたに違いない。

しかし、縄文時代以前にこの日本列島で話されていたことばは文字のない社会のことばであり、再現することは不可能である。

●「やまとことば」はそもそものはじまりからクレオールであった可能性が高い。

「やまとことば」の言語構造は朝鮮語と酷似し、語彙は中国語あるいは朝鮮語訛の中国語を多く含んでいる。

神代の時代から純粋な「やまとことば」がこの日本列島で話されていたとう想定は神話にすぎない。

●世界中に人跡未踏の土地がなくなった今、探検家や人類学者がえた結論は、文字をもたない種族は数多くあるが、言葉を話さない人間は未だに発見されていないということである。

しかも、未開の民族の言葉は単純であろうという大方の予測に反して、未開人の言葉も文明人の言葉に勝るとも劣らない複雑さをもっていることが、次第に知られるようになった。

●人間の言語は人間の脳が発達するのにつれて発達していったに違いない。

最近の言語学者は、人間が誰でも言語を話す潜在能力をもっていて、人間だけが言語を操ることができるのは、言語能力が生得のものであり、人間は生まれたときから普遍言語をインプリントされてくるのではないか、と考えるようになった。

言語を話す潜在能力をもって生まれてきた赤ん坊は、大人ならとうてい覚えられないような複雑な言語をたちどころに解明し、習得することができる。

●アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーはある講演で、「火星人からみたら、人間はすべて単一の言語を話している」と述べている。世界には5000を越える言語があるという。

このような言語の多様性にもかかわらず、世界のあらゆる言語の底には普遍性があるとチョムスキーは考える。

日本語も決して世界から孤立した特殊な言語ではない。

言語としての普遍性に支えられた世界の言語のひとつである。

   

[古代日本語の解読]

第012話 邪馬台国は「やまと」である

●日本には3世紀の日本語の記録はない。

しかし、中国の文献である『魏志倭人伝』に日本に関する記述があることばよく知られている。

『魏志倭人伝』は晋の陳寿(233-297)の選んだ『三国志』のひとつで、日本は邪馬台国として登場する。

邪馬台国は中国から見て僻遠の地であった。

『魏志』巻30東夷伝のなかの国々には夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓、などが続き、ようやく倭人の条にいたる。 

●倭人は帯方郡(現在のソウル付近)の東南大海の中にあり、帯方郡より倭に至るには海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、倭の北岸狗邪(くや)韓国に到る。

そこまでが七千里。はじめて一つの海を度(わた)る。その距離は千余里。対馬に至る。

さらに澣海と呼ばれる一つの海を千余里行くと一支(いき)国に至る。

また一つの海を渡り千余里で末盧国に至る。東南に陸路を五百里行くと伊都(いと)国に到る。

世々王あるも、皆女王の国に統属す。帯方郡からの使が往き来する場合常に駐(とど)まる所である。

東南の奴国までは百里。東に進んで不弥(ふみ)国まで行くには百里。

南の投馬(とうま)国までは水路で二十日かかる。南の邪馬台国に至る。

女王が都する所で水路十日陸路一月かかる。

●『魏志倭人伝』から約500年を経た、8世紀の日本で「邪馬台国」に似た「夜摩苔」という国名が記録されている。

古事記、日本書紀にはそれぞれ約120首の歌謡が記録されているが、そのなかにつぎの歌が含まれている。

やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる やまとし美し

●この歌で「やまと」は、日本書紀では「夜摩苔」と表記されている。

夜摩苔波 區珥能摩保邏摩 多多儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之 于漏破試

●『魏志倭人伝』では「邪馬台国」を「やまたい」と読み慣わし、『日本書紀』では「夜摩苔」を「やまと」と読むのが通例となっている。

古代中国語音で邪馬台[jya-mea-də]であり、『日本書紀』が依拠している唐代の漢字音では「夜摩苔」は夜摩苔/jya-muai-də/である。

(古代中国語音をあらわすのには[ ]を用い、唐代の中国語音をあらわすのには/ /を用いる。)

●古代の日本語にはいくつかの特色があったことが知られている。

古代の日本語では二重母音を避ける傾向がある。例えば、万葉集などでは「我妹」を「わぎも」と読み、「我家」を「わぎへ」とする。

古代の日本語には邪馬台「やまたい」のような二重母音はなかったものと思われる。

●また、奈良時代までの日本語にはオ段の音が二種類区別されていたことが知られている。

例えば、日本書紀の歌謡では「と(甲)」と「と(乙)」には、つぎのような漢字が使い分けられている。

と(甲) 斗、度、妬、図、渡、徒、杜、刀、都
ど(甲) 怒、奴
と(乙) 等、苔、謄、登、、縢、藤
ど(乙) 廼、耐、謄、苔

●夜摩苔の「苔」は日本語の「と(乙)」または「ど(乙)」を表わすためにのみ用いられていて、「と(甲)」に用いられことはない。

『日本書紀』歌謡で用いられている漢字の隋唐の時代の漢字音は、つぎのように推定されている。

    等/təng/、 謄/dəng/、 登/təng/、 /təng/、 縢/dəng/、 藤/dəng/、 苔/də/、 廼/nə/、 耐/nə/、

●日本語の「と(乙)」または「ど(乙)」には、中国語音の[-əng]または[-ə]が当てられていることがわかる。

「と(甲)」または「ど(甲)」には、まったく違う漢字が当てられている。

   斗/to/、 刀/tô/、 妬/ta/、 都/ta/、 度/da/、 図/da/、 渡/da/、 徒/da/、 杜/da/、 怒/na/、 奴/na/、

●『随書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」という記述がある。

『隋書』の「邪靡堆」は『魏志』の「邪馬台」にあたるというのである。

しかも、「邪靡堆」は都の名である。「邪靡堆」の古代中国語音は邪靡堆[jya-muai-tuə]であり、『魏志倭人伝』の邪馬台[jya-mea-də]と近い。

文脈のうえからも「倭国はやまとに都す」とすべきであろう。

『随書倭国伝』の「邪靡堆」を「やまと」と読むとすれば、『魏志倭人伝』の「邪馬台」も「やまと」であり、『日本書紀』の「夜摩苔」と同じ「やまと」を指していると考えるのが自然である。

●しかし、わが国では伝統的に漢学者は「邪馬台国」を「ヤマタイ」と現代の日本漢字音で読み慣わし、国学者は日本書紀の「夜摩苔」を「やまと」と読み慣わしていて、「やまと」と「ヤマタイ」は別物のごとく考えられている。

●邪馬台国が九州にあったか、大和盆地にあったかについては、歴史学者の間でも議論がつきない。

最近は邪馬台国九州説のほうが優勢のようだが、言語学的にはどうであろうか。

『魏志倭人伝』では邪馬台国へは投馬国から入る、とある。

投馬の古代中国語音は投馬[do-mea]である。

これは記紀歌謡にみえる當麻(たぎま)である可能性がある。當麻の古代中国語音は當麻[tang-mea]であり、発音がきわめて近い。

 大坂に 会ふや乙女を 道問へば ただには告(の)らず 當藝麻(たぎま)路を告る

●古事記では當藝麻となっているが、和名抄では當麻(たいま)となっている。

この歌は履中天皇の歌で、天皇が大阪から大和に向かう途中で少女に会い、少女が「兵器をもったものどもが数多く山にたてこもっているから、當藝麻路を廻っておいでくださいまし」と云ったのを聞いて天皇は難を免れた、と前書きにある。

當麻は大阪から大和へ向かう道筋にあたる。まさに邪馬台国への入口である。

第013話 神代とはいつの時代か

●古事記・日本書紀の時代認識はまず神代からはじまり、人代に至る。

現代の歴史認識では歴史はまず旧石器時代からはじまり、縄文時代、弥生時代、古墳時代を経て記紀万葉の時代へと進む。

記紀にいう神代とは現代の歴史認識のなかでは、どこにあたるのだろうか。

古事記の天の石屋戸の場面には次のような記述がある。

●天照大御神は機屋で神に奉る神衣を機織女に織らせていた。

するとスサノヲノ命がまだら毛の馬の皮を剥ぎ取って落とし入れてきた。

天照大御神はこれを見て天の石屋戸にたてこもってしまった。

八百万の神が集まって相談し、常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせることにした。次に天の金山の鉄を採って鏡を作らせた。

●縄文時代の家畜は犬くらいで、馬や鶏はいない。

『魏志倭人伝』には「その地(邪馬台国)には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(さぎ)なし」とある。

また、『古事記』応神天皇の条に「百済の王が牡馬一匹、牝馬一匹を貢上した」とある。

古事記の天の岩戸の段の馬に関する記述は応神天皇の条の記述と明らかに矛盾する。

スサノヲノ命が馬の皮を剥ぎとって投げいれたとなると、天照大御神の時代には日本にすでに馬がいたことになる。

となると、神代は3世紀以降まで続いたということなのだろうか。

●また、日本書紀によると、雄略天皇は皇后に蚕を飼うことを奨励するように促したとある。

日本で養蚕が本格的に行なわれるようになったのは5世紀のことである。

神代で蚕を飼っていたということは、神代は5世紀ころまで続いたということなのだろうか。

●また、古事記の五穀の起源の条には「オホゲツヒメノ神の頭からは蚕が生まれ、目からは稲の種が生まれ、耳からは粟が生まれ、鼻からは小豆が生まれた。陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた。

これが五穀の種となった」とある。これはまさに農耕時代のはじまりの物語である。

●古事記の神代の記述には弥生時代の文物がいくつも登場する。

八俣のおろちの退治の段では酒船に酒を満たして大蛇に飲ませ、酔いつぶさせてしまう。

酒を醸すのも穀物の栽培があってはじめてできることである。

古事記では一方、応神天皇の時に「酒を醸むことを知れる人、名は仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)が渡来した」とある。

日本で酒を醸すようになったのも4〜5世紀以降であろう。

●古事記には、「八百万の神が集まって相談し、天の金山の鉄を採って鏡を作らせた」ともある。

また、須佐之男命が大蛇を退治する話には、「スサノオノ命は十拳剣(とつかつるぎ)を抜いて、その蛇(おろち)を切り散らした。

すると、蛇の体のなかから草薙の太刀が出てきた」とある。鉄もまた弥生時代にもたらされたものである。

●これらを総合すると、日本の神代とは石器時代のことでも、縄文時代のことでもなく、弥生時代のことであるということになる。

古事記・日本書紀が描く神代は、米が作られ、酒が醸され、蚕から生糸が取られ、鉄から鏡や刀が作られた時代として思い描かれている。

神代とは弥生時代を舞台に神話作家の心に描かれた時代である。

第014話 天皇のおくり名

●昭和43年に埼玉県行田市稲荷山古墳で行なわれた発掘で、武人の被葬者が発見され、副葬品のなかには鉄剣が含まれていた。

当時、この鉄剣はサビで覆われており、文字の存在はまったく気づかれていなかった。

10年後の昭和53年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理中に判明した。

その銘文は漢字で書かれているが、解読するとつぎのようなる。

 (表)辛亥の年、7月中に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ。その子はタカリの宿禰。

その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。

(裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(おびと)として仕え今に至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき、吾は天下を治めるのを補佐した。此の百錬の利刀を作らしめ、吾が仕えてきた事の由来を記す。

●日本人の祖先はなんと不思議な名前をもっていたのであろう。ワカタケルとは雄略天皇のことである。古事記や日本書紀には雄略天皇という天皇がいたかのように書かれているが、雄略天皇というのは実は後に贈られて漢風諡号(おくり名)であり、実際にはオホハツセワカタケノ命と呼ばれていた。古事記には大長谷若建命と記され、日本書紀では大泊瀬幼武天皇と記されている。上田正昭は天皇のおくり名が「応神天皇以後の和風の名が、それ以前とは性質を異にする」という注目すべき指摘をしている。

●おくり名や諱(いみな)は、応神天皇以後と以前では異なっている。(A)名の中にイリヒコをつける崇神・垂仁両天皇、(B)名の中にタラシをつける景行・成務・仲哀の各天皇と神功皇后、(C)応神に始まり履中・反正などの天皇はワケをつける。つまり応神天皇よりワケ系のおくり名が登場してくる。景行・神功のタラシが、舒明天皇以後のおくり名を投影したものであることは、すでにこれまでにも指摘されているところである。応神天皇から継体天皇までの和風の名が、名号としては最も原型に近いものであることも認められてきている。とすれば、応神天皇に始まるワケ系の大王家は、イリヒコ系の大王家とは違った名号であり、それを断続と見るか連続と見るかは別問題としても、王家の歴史に飛躍があったことは、ほぼ認めてさしつかえないだろう。(『大和朝廷―古代王権の成立―』p.169) 

●上田正昭はイリヒコとは何か、タラシとは何か、ワケとは何かについては、慎重に言及を避けている。ここでは言語史の立場から、まず(C)ワケについて推論を試みることにする。古代の天皇には「ワケ」という称号をもった天皇が多い。

漢風諡号  和風諡号  日本書紀の表記

開化   ワカヤマトネコヒコオホヒヒ 稚日本根子彦大日日
景行   オホタラシヒコオシロワケ  大足彦忍代別
成務   ワカタラシヒコ       稚足彦
応神   ホムタワケ        誉田別
履中   イザホワケ         去来穂別
反正   ミツハワケ         瑞歯別
允恭   ヲアサヅマワクゴノスクネ  雄朝津間稚子宿禰 
雄略   オホハツセノワカタケ    大泊瀬幼武
清寧   シラカノタケヒロクニオシワケヤマトネコ 白髪武広国押稚日本根子
武烈   ヲハツセノワカサザキ    小泊瀬稚鵻鷯
天智   アメミコトヒラカスワケ   天命開別

●「ワケ」には「幼」「稚」「別」の文字が用いられていることから、「若い」とか「分家」という意味に解されることが多い。しかし、「ワケ」は古代中国語の「王」に対応することばである可能性がある。中国語では「王」は王(wang)である。韻尾の[-ng]は、日本の古地名などでは、當麻(たぎま)、相楽(さがらか)、望多(まぐた)、相模(さがみ)などのように、カ行またはガ行で発音される。中国語の王(wang)は古代中国語では王[wak]に近い音であったはずであり、古代日本語「ワケ」は古代の中国語音を継承していると考えることができる。

●中国の音韻学者王力は『同源字典』のなかで、中国語韻尾の-kは-ngに転移するとしている。そして読[dok]:誦[ziong]、逆[ngyak]:迎[ngyang]、陟[tiək]:登[təng]、溢[jiek]:盈[jieng]などの対語は同源だとしている。王(wang)もまた、古代中国では王(ワケ)に近い発音であったと考えることはできないだろうか。古代日本の天皇の名前にみられる「ワケ」が王だとすると「ワケ」という名をもった天皇の名前の意味は明快になる。

●雄略天皇のおくり名である「オホハツセノワカタケ」は、百済と関係のある名前である可能性がある。「ハツセ」は日本書記では「泊瀬」と表記されている。古代中国語音では「泊」は泊[beak]であり、瀬「せ」は済[tzyei]と通ずる。百済の古代中国語音は百済[peak-tzyei]であり、朝鮮語では百済(paek-je)である。日本語の「泊瀬」は「百済」の「百」の音を「泊」で表わし、「済」を「瀬」で表わしたものである可能性がある。「オオハツセノワカタケ」は「百済の王武」ということになり、百済の官位をもっていたものと解釈できる。

それでは次に「イリヒコ」と「タラシ」とは何だろうか。古代の天皇で「イリヒコ」あるいは「タラシ」のおくり名をもった天皇は次のとおりである。

イリヒコ

 漢風諡号  和風諡号
 崇神    ミマキイリビコイニヱ
 垂仁    イクメイリビコイサチ

タラシ

漢風諡号  和風諡号
孝安    ヤマトタラシヒコクニオシヒト
景行    オホタラシヒコオシロワケ
成務    ワカタラシヒコ
仲哀    タラシナカツヒコ
神功    オキナガタラシヒメノミコト
舒明    オキナガタラシヒヒロヌカ
皇極    アメトヨタカライカシヒタラシヒメ
斉明    アメトヨタカライカシヒタラシヒメ

●古事記歌謡にミマキイリビコを詠んだ歌がある。

美麻紀伊理毘古はや 美麻紀伊理毘古はや
  己(おの)が命(を)を 盗み殺(し)せむと
  後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ
  前つ戸よ い行き違ひ
  窺(うかが)はく 知らにと
  美麻紀伊理毘古はや

●この歌は、大彦の命が越の国に行ったとき、山代の幣羅(へら)坂で、少女が歌ったものとされている。これと似た歌が日本書紀にもある。

瀰磨紀異利寐胡はや
  己(おの)が命(を)を 殺(し)せむと
  盗まく知らに 姫遊びすも
  (一に云う、大城戸より窺(うかが)ひて 殺さむとすらくを知らに 姫遊びすも。)

●日本書紀の伝承は、古事記とは少し違っていて、大彦の命が和珥(わに)坂にさしかかったときに、少女が歌ったものだとしている。「イリヒコ」あるいは「イリビコ」とは何だろうか。「ヒコ」は「日子」つまり天子である。これは中国語の「天子」にあたる。古代中国では、王と天子は同義語であり、天子とは仁徳をそなえた天の子として世を統治する王である。

●「日」朝鮮漢字音は日(il)、つまり「イリ」である。朝鮮語では中国語の「日」の語頭音[nj-]は規則的に失われる。また、語尾の[-t]は規則的に[-l]になる。「イリ・ヒコ」の「イリ」は「日」の朝鮮語読みでである。また、朝鮮語では「日」は日(hae)である。朝鮮語では中国語からの借用語と朝鮮語語源のことばを重ねる習慣がある。これを両点という。「日」は両点で読むと、「日」の朝鮮漢字音日(il)と、朝鮮語の訓日(hae)を重ねて、「イル・ヒ」あるいは「イリ・ヒ」となる。単に「日子」というべきところを、「イリ・ヒ・コ」と重ねて、音と義を明らかにしようとしている。「イリ(日の朝鮮漢字音)・ヒ(朝鮮語の訓)・コ(子)」である。「ミマキイリビコイニヱ」は「ミマキ日子イニヱ」と解読できる。「ミマキ」の「キ」は百済語で「城」を意味する。李基文は『韓国語の歴史』(p.48)のなかで、次のように述べている。

●百済語には新羅語や中世語で発見することのできない、特異な単語のあることもわかる。百済語で「城」を意味する語が*ki(己只)」であったことは確実である。例。悦城県ハ本百済ノ悦己県、儒城県ハ本百済ノ奴只県、潔城県ハ本百済ノ結己郡。この語は新羅語にも高句麗語にも見ることのできないものである。古代日本語の*ki(城・柵)はこの百済語の借用だと考えられる。(『韓国語の歴史』p.48)

●ここまで解読が進むと、「ミマキイリビコイニヱ」は「ミマ城の日子イニヱ」と解釈することができる。「ミマ」は「任那」と関係があるとことばであろう。「ミマナ」の「ナ」は「国」だから、「任那国の城の天子イニヱ」となる。 

●「タラシ」は古事記では「帯」、日本書紀では「足」と表記されている。「帯」の古代中国語音は帯[tat] である。中国語の韻尾[-t]は朝鮮語では規則的にlに変化するから、帯[tat]の朝鮮漢字音は帯(tal) になる。高句麗の高位の官名に大対盧、対盧などがあり、百済では「達率」として受け継がれている。「タラシ」は高句麗の官位「対盧」あるいは百済の官位「達」と関係がある。

●日本書紀で「タラシ」が「足」と表記されているのは、朝鮮語で「足」のことを足(ta-ri)というからである。日本語の「タラ・シ」は朝鮮語の足「たる」と日本語の足「あし」の両点である。かくして、「タラシ」は高句麗の官位「対盧」、あるいは百済の官位「達」にあやかった称号であることが判 明する。

●これによってただちに、「ワケ」は楽浪、帯方郡などの中国系、「イリヒコ」は百済系、「タラシ」は高句麗系、などと分類すること拙速である。事実、景行天皇のように「オホ・タラシ・ヒコ・オシロ・ワケ」などのように、いくつもの称号をもっている天皇もある。しかし、日本の古代の支配階層が朝鮮半島と深いつながりもち、中国、高句麗、百済などの尊称をもっていたことは確かであろう。

第015話 古地名のなかの日本語

●日本の古地名のなかには読み方がむずかしいものがかなりある。相模(さがみ)、信濃(しなの)、安房(あは)などは現在も使われているが、現在普通に使われている漢字と読み方がちがう。本居宣長は『地名字音転用例』のなかで次のように説明している。

●『続日本紀』の和銅六年五月の詔(みことのり)に「畿内七道諸国郡の名は好字をつけよ」とあ り、『延喜式』には「およそ諸国部内の郡里などの名は、みな二字を用い必ず嘉名を取れ」などと あり、地名を無理に二字に縮めたために、漢字音をさまざまに転じて用いるようになったのだ。相模の相(さが)、信濃の信(しな)などはその例だ。だから、相模、信濃などの文字は後にあてた 当て字である。

●本居宣長の説は今でも国学者の間で受け入れられている。しかし、古地名の読み方には一定の法則
があるように思われる。

 相模(さがみ)、相楽(さがらか)、伊香(いかご)、香美(かがみ)、久良(くらき)、
 愛宕(おたき)、余綾(よろき)、美嚢(みなき)、玉造(たまつくり)、

 相(ソウ・さが)、香(コウ・かご・かが)、良(リョウ・らき)、宕(トウ・たき・たご)、
 綾(リョウ・ろぎ)、嚢(ノウ・なき)、造(ゾウ・つく(り))、

●つまり、現代の漢字音では音便形で表記しているところが、古地名の読み方では規則的に「カ行」または「ガ行」に置き換わっているのである。古代日本語には音便形はなかったから「カ行」あるいは「ガ行」に転移したのではなかろうか。

 これらの漢字の古代中国語音は白川静の『字通』によれば次のようになる。

  相[siang]、 香[xiang]、 良[liang]、 宕[dang]、 綾[liəng]、 嚢[nang]、 造[dzuk/dziuk]、

●これらの漢字に共通していることは韻尾に[-ng]または[-k]の音をもっていることである。「造」の日本漢字音は造「ゾウ」であり、造「つくる」は訓であると考えられている。しかし、中国語音韻史をたどってみると造の古代中国語音は造(ぞく)あるいは造(つく)に 近く、それが隋唐の時代に音便化して造(ゾウ)に変化したもののようである。中国語音韻史はかなり専門的な分野であり、最近特に発展した学問の分野であるが、藤堂明保編『学研漢和大辞典』(学習研究社)を調べてみると、専門家でなくともその概略がわかる。「造」の古代中国語音は造[dzɔg]であり、それがdzɔg-dzau-tsauとなり、現代北京音では造(zao)になった、とある。台湾の音韻学者である董同龢の『上古音韵表稿』でも造は造[ts’ ôg] あるいは[dz’ôg] であり、古代中国語音は造(ツクる)に近く、造(ゾウ)はいわば後に音便化したものであるらしい。つまり、日本の古地名である玉造の造(ツクり)は日本漢字音の造(ゾウ)よりも古い中国語音の痕跡を留 めているということになる。

●中国の言語学者である王力は『同源字典』のなかで、次のような対語は同源語であるとしている。

  逆(ギャク)・迎(ゲイ)、読(ドク)・誦(ショウ)、董(トウ)・督(トク)。

●中国語の韻尾[-ng]と[-k]は調音の位置が同じであり、転移しやすい。意味が同じで音の近いことばは同源語である可能性が高い。日本漢字音でも同じ声符をもった漢字が交通「こうつう」・比較「ひかく」のように二通りの読み方があるものがいくつかみられる。広大・拡大、暴発・爆発、 容・欲、雙・隻、兢・克などである。また同じ漢字でも音便形とそうでない読み方と両方あるものもみられる。 読書・句読点、祝杯・祝儀、格式・格子、拍手(ハクシュ)・拍子(ヒョウシ)などである。

●日本漢字音は一般に隋唐の時代の中国漢字音に準拠したものであるが、日本の古地名の読み方のなかには隋唐の時代以前の漢字音の読み方に依拠したものが含まれているらしいのである。平安時代の辞書である『和名抄』のなかの地名をみてみると、漢字の読み方が現在の漢字音と違うものがかなり多くあることに気がつく。

 信濃(しなの)、因幡(いなば)、丹波(たには)、讃岐(さぬき)、員弁(いなべ)、
 引佐(いなさ)、印南(いなみ)、信夫(しのぶ)、

●古代日本語には「ン」で終わる音節はなかった。だから、信、因、丹、讃、員、引、印、南など「ン」で終わる音節には母音をつけて読んだのである。古代日本語には[-n]や[-m]で終わる音節はなかった。また、[-ng]で終わる音節はなかった。

●そのため、中国語原音で[-n]、[-m]、[-ng]で終わる音節は韻尾が失われることもあった。 信濃の濃「ノウ・の」、因幡の幡「バン・ば」、員弁の弁「ベン・べ」などである。そのほかには次のような地名があげられる。

○中国語の韻尾[-n][-m]が脱落した例:
   安芸(あき)、安宿(あすかべ)、安那(あすな)、隠岐(おき)、信太(した)、
  仁多(にいた)、幡多(はた)、飛騨(ひた)、

○中国語の韻尾[-ng]などが脱落した例:
   安房(あは)、香取(かとり)、球珠(くす)、球麻(くま)、久良(くらき)、
  香川(かかは)、巨濃(この)、諏方(すは)、周防(すはう)、周敷(すふ)、能登(のと)、  芳賀(はが)、養父(やぶ)、山香(やまか)、

●このような例は古地名の読み方ばかりでなく、「やまとことば」のなかにも数多くみられる。浜辺(はまべ)の浜(はま)は「ン」に母音を添加したものであり、辺(べ)は韻尾の「ン」が脱落したものである。これらの漢字音は呉音・漢音以前に日本語のなかに定着したものであり、仮にここでは「弥生音」と呼ぶことにする。以下にあげる「やまとことば」は中国語からの借用語である可能性がきわめて高い。

○ 中国語の韻尾[-n][-m]が脱落したもの:
   辺「べ」、津「つ」、田「た」、帆「ほ」、

○ 中国語の韻尾[-n][-m]に母音が添加されたもの:
  甘「あまい」、金「かね」、兼「かねる」、鎌「かま」、簡「かみ」、坩「かめ」、君「きみ」、 絹「きぬ」、困「こまる」、混「こむ」、肝「きも」、沁・ 滲・浸「し みる」、占「しめる」、
 蝉「せみ」、侵「せめる」、染「そめる」、段・壇「たな」、店「たな」、弾「たま」、
 殿「との」、浜「はま」、嬪「ひめ」、繙「ひも」、文「ふみ」、

○ 中国語の韻尾[-ng]などがカ行または「ガ行」であらわれる例:
  影・景「エイ・ケイ・かげ」、奥「オウ・おく」、燠「おき」、嗅・臭 「キュ ウ・かぐ」、
 筐「キョウ・かご」、茎「ケイ・くき」、光「コウ・かげ」、香 「コウ・かぐ」山、
 相「ソウ・さが」 模、性「セイ・さが」、咲「ショウ・さく」、清「セイ・すがし」、
 双「ソウ・すご」六、造「ゾ ウ・つくる」、塚「チョウ・つか」、宕「トウ・たぎ」、
 羊「ヨウ・やぎ」、楊「ヨウ・やぎ・やなぎ」、

●代日本語の「かげ」には、日の当らない所の意味の「影」と「つきかげ」などのように「月の光」をさす「かげ」と二つがある。「影」の古代中国語音は影[yang]あるいは景[kyang]であり、「光」の古代中国語音は光[kuang]である。影「かげ」も光「かげ」もいずれも中国語からの借用語である。

●奥「おく」、澳「おき」、燠「おき」はいずれも中国語からの借用語である。燠は灰の奥に火種をたくわえておくものだが、現在では使われなくなってしまっている。澳は川をさかのぼった陸の奥にも使われ、現在でも川上の地名に残っているところがある。海のかなたの「おき」は現在では沖の文字が使われている。

●「やなぎ」は現在では柳が一般に使われ、楊は川楊に使われている。日本語の「やなぎ」あるいは「やぎ」は中国語の楊の借用である。日本語の「やぎ」は現在では山羊と表記され、羊「ひつじ」とは区別されているが、語源的には「羊」のほうが「やぎ」の語源であろう。

●無文字社会だった日本に文字がもたらされて、最初に記録した日本語は地名や人名だったのではなかろうか。中国語を表記するための文字である漢字を使って地名をつける、ということもあったかもしれない。呉音や漢音といわれる日本漢字音が唐の時代の漢字音に準拠しているのに対して、日本の古地名の漢字音は周の時代の漢字音の痕跡を留めていると考えざるをえないものもみられる。

第016話 日本はなぜジャパンなのか

●日本は中国語では日本(ri-ben)、朝鮮語では日本(il-bon)と発音する。日本はなぜ中国語では「リーベン」、朝鮮語では「イルボン」、そして英語では「ジャパン」なのだろうか。日本語でも文字は日本と決まっているが、読み方は「ニホン」となったり「ニッポン」となったりする。そもそも、元祖「日本」はどこにあるのだろうか。

●国名が漢字では決まっているが、読み方が定まらないというのはどういうことなのだろうか。本居宣長などは日本をやまとことばで日本(ひのもと)の国などと読みかえている。古くは中国人は日本のことを倭(倭人・倭国)と呼んでいた。「日本」という国名が中国の歴史書にでてくるのは唐代以後のことである。

●日本国は倭国の別種なり。その国日辺にある故を以て、日本を以て名となす。あるいはいう。倭国自らその名雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと(『旧唐書』)
倭の名を悪み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日出ずる所に近し、以(ゆえ)に名となすと(『新唐書』)

●日本はもともと中国では倭と呼ばれていた。日本人自身が自らを倭と呼んでいたわけではない。日本人は倭奴とも呼ばれた。倭奴は矮奴にも通じ、小びとを意味する。国家としての威信を高めつつあった大和政権は唐に対してもっと尊厳の保てる名で呼んでほしいと主張したに違いない。当時、文字をもった国家は中国にしかなかったから、高句麗も新羅も百済も日本も国名は漢字で書かれた。

●大業3年、隋の煬帝の時(推古15年・607年)、「多利思比狐」は小野妹子を遣わして隋に朝貢した。その国書が中国側で問題になった。

●その国書にいうには、「日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)はないか、云々」と。帝はこれをみて悦ばず、鴻臚郷(こうろけい)に命じた。「蛮夷(倭国をさす)の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(天子に申上げる)するな」と。(『隋書』倭人伝) 

●鴻臚郷(こうろけい)とは今の外相である。「日出ずる処の天子」という表現が尊大であるとして問題になった。しかし、日本側からすれば日本と改名するのが目的でにあったのだから、もくろみどおりになったともいえる。律令制をととのえつつあった飛鳥時代の日本は、中国にならって華夷思想を輸入して自らを大宇の中心に据えようと必死で努力していたのである。日本という国名の由来は中国語にある。もちろん、日本側の「日出ずる処の天子」というような自負を配慮してのことではあろうが、もはや邪馬台国を名のる時代ではなかった。

●漢字の日本は時代や地方によって読み方が変わる。しかし、この名が命名さらた隋唐の時代の中国語音を基点として解明するとわかりやすい。

 古代中国語    北京語   広東語 朝鮮語  英語
   日本[njiet puən]   ri ben   yaht bun   il bon    Japan

●隋唐の時代の日本の中国語音は日本[njiet puən]であった。現代の北京語では古代中国語の日母[nj-] の頭音が失われてr音にとって替わられている。たとえば、中国料理の青椒肉絲(チンジャオロウスウ)、回鍋肉(ホイクオロウ)の「肉」は肉[njiuk]ではなく、現代北京語音では肉(rou) と発音される。語尾の[-t] が現代北京音では失われている。現代北京音では古代中国語の日母[nj-] は規則的にr音であらわれるという法則があり、韻尾の[-t]は失われて発音されない。したがって、「日本」は中国語では日本(ri ben)になる。

●朝鮮語では語頭の日母[nj-] の頭音は規則的に失われる。朝鮮語では肉は肉(yuk)、つまり肉(ユッケ)である。朝鮮語では中国語韻 尾[-t] はl になるという法則がある。例えば、万年筆(man nyeon pil)、地下鉄(ji ha cheol) のごとくである。したがって、日本の「日」は朝鮮語では日(il) となる。また、朝鮮語では語中の子音は濁音になるという法則があるから本[puən]は本(bon)になる。したがって、「日本」は朝鮮語では日本(il bon) になる。

●英語の「ジャパン」は、マルコポーロが中国に来たとき「日本」を「ジパング」と聞き間違えたのが、はじまりであるとされている。それ以降「日本」はヨーロッパでは 「ジャパン」「ヤーパン」「ハポン」などと呼ばれるようになったというのが通説である。マルコポーロが中国に来たのは元の時代で13世紀のことである。13世紀の中国では、古代中国語の日母[nj-] は日[dj-] に近い音に変わっていた。日本漢字音でも日「ニチ」が呉音であり、日「ジツ」が漢音である。日「ニチ」が古く日「ジツ」が新しい。マルコ・ポーロが中国に来た元の時代には、「日本」は中国では日本 [njiet puən] ではなく、 日本/djiet puən/ と発音されていたはずである。「ジャパン」というよりは「ヂヤパン」である。したがって、マルコ・ポーロが聞き間違えたのではなく、「ジパング」はむしろ元の時代の中国音を正確に伝えているということになる。

●日本語でニッポン、ニホンと読み方が定まらないのは、日本(ニッポン)が撥音便であり、「やまとことば」の音韻体系におさまらないからである。「日本」の中国語音が日本(ニッポン)に近かったとしても、日本語では日本語の音韻体系にしたがって日本(ニホン)としか発音のしようがなかった。促音便が日本語のなかに入ってきたのは後のことである。したがって、日本(ニホン)が古く日本(ニッポン)が新しい。

●辞書を引いてみると日(ニチ)が呉音で、日(ジツ)が漢音だと書いてある。一日(イチニチ)は呉音で元日(ガンジツ)は漢音である。日(ジツ)は日(ヂツ)に近かったに違いない。日(ニチ)のnと日(ヂツ)のdとは調音の位置が同じであり、転移しやすい。現代の日本語では「ヂ」と「ジ」の区別がなくなり「ジ」に合流している。中国語の日母[nj-] にはふたつの読み方がある。

     日、 児、 若、   柔、   女、  如、  人、  仁、  然
  呉音 ニチ、ニ  ニャク、 ニュウ、 ニョ、 ニョ、 ニン、 ニ ン、 ネン
  漢音 ジツ、ジ  ジャク、 ジュウ、  ジョ、 ジョ、 ジン、 ジン、 ゼン

●呉音でナ行で発音されているものは、漢音では規則的にザ行に変化する。呉音は中国の江南音であると言われ、仏教系では呉音が多く使われる。漢音は中国北方の音を伝えているものと言われ、儒教では漢文を読むのに漢音を使う。

●現代の日本語では漢音と呉音が両方使われている。 人間(ニンゲン)・人物(ジンブツ)、天然(テンネン)・自然(シゼン)、縁日(エンニチ)・ 元日(ガンジツ)などである。「日本人」と言う時は日(ニチ)は呉音であり、人(ジン)は漢音である。「人間」も、漢音だけで読もうとすると「ジンカン」になってしまう。

中村元によると「人間」という日本語は仏教用語であるという。もし人間ということばが儒教から入ってきていれば「ジンカン」になっていたに違いない。

●日本語は長期間にわたって中国語の語彙を取り入れてきた。借用語はその時代の現地音を反映している。日本語の漢字音が多様で統一性に欠けるのは、中国語と日本語の長い間にわたる交流の歴史と、その間に起こった中国語の音韻変化を反映しているからである。

第017話 日本国憲法の日本語を解剖する

●日本書紀によると推古天皇12年(604年)に聖徳太子は憲法十七条を作った。「和をもって貴しとなす」ではじまる憲法である。その原文をみてみると次のようになっている。

  一曰、以和為貴、無忤為宗。 人皆有黨。 亦少達者。 是以、或不順君父。
  乍違于隣里。 然上和下睦、諧於論事、 則事理自通。 何事不成。

●万葉集の成立からおよそ150年前の宮廷では中国語が公用語であったらしい。少なくとも書きことばは中国語であった。現代人はこれを読み下して「和を以て貴しと為す」とか「和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為(な)す」と和語で読んだりしているが、これを当時の宮廷でどのように読んだかは明らかではない。

●憲法といっても当時の憲法は近代の憲法と異なり、官僚や貴族に対する規範を示すものであったから「和をもって貴しとなせ」という意味だったのではないかとも考えられる。聖徳太子憲法第一条は次のように解される。

●第一条 和をもって貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党あり、ま た達(さとれ)るもの少なし。ここをもって、あるいは君父にしたがわ ず、また隣里に違(たが)う。しかれども、上が和し下が睦(むつ)んで、諧(おだやかに)議論をすれば、すなわち事理お のずから通ず。何事か成らざらん。

●7世紀初頭の官吏が憲法を棒読みしたにしろ、返り点やレ点をつけて読んだにしろ、漢字だけで書かれた文章を理解できたということは確かであろう。あるいは、こうも云える。当時の日本にはこれだけの概念を表現できる日本語が成熟していなかった。また、日本語があったとしても、漢字で日本語を表記する体系が整備されていなかったのである。

●聖徳太子の時代からおよそ千二百年後、明治政府はヨーロッパから輸入された新しい概念を、漢語に翻訳して明治憲法を作りあげた。現代の日本国憲法も漢訳語を多く使っている。

日本国憲法第9条を例に、日本語と中国語訳とを比べてみると、つぎのようになる。

[日本語の原文]
第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

[中国語訳](原文は中国簡体字)
第9条「日本国民 真誠希求 基于正義 与秩序的 国際和平、永遠放棄以国権発動的戦争、以武力威嚇 或武力行使 作為解決 国際争端的手段」(『日 本政治概論』東方出版社)

●日本国憲法には英語の原案があったとされているが、できあがった憲法には英語からの借用語はひとつもなく、漢語が多く使われている。日本語の原文と中国訳を対比してみると、日中共通語は次のようにな る。

[日本語]  日本国民、正義、秩序、基調、国際平和、誠実、希求、国権、発動、戦争、
[中国語]  日本国民、正義、秩序、基于、国際和平、真誠、希求、国権、発動、戦争、

[日本語] 武力、威嚇、行使、国際紛争、解決、手段、永久、放棄
[中国語] 武力、威嚇、行使、国際争端、解決、手段、永遠、放棄

●日本語の書きことばは聖徳太子の時代も今も漢字語なしには成り立たないのである。憲法の文章で「やまとことば」といえるのは「て、に、を、は」の部分だけということになってしまう。

これをさらに朝鮮語訳とくらべてみると、どうなるだろうか。

[朝鮮語訳](ローマ字の部分の原文はハングル)
第9条「日本国民neun、 正義wa  秩序reul  基調ro ha-neun国際平和reul  誠実hi希求ha-go、 国権 nui  発動in  戦争gwa、 武力e ui-han  威嚇 tto-neun  武力ui  行使neun、 国際戦争eul  解決   ha-neun  手段eu-ro-seo-neun、 永久hi i-reul  放棄han-da」(『日本近代化研究』高麗大学出版  部)

●日本語と朝鮮語は語順も同じである。朝鮮語でも漢字の部分は日本語、中国語とほとんど同じである。言語を文法構造と語彙に分けると、日本語の文法構造は朝鮮 語と同じであり、中国語とはかなり違う。語彙は日本語、中国語、朝鮮語に共通のものが圧倒的に多い。日本語が朝鮮語と同じ文法構造を持っていること。日本 語も朝鮮語も漢字文化圏の言語であり、漢字を借りてはじめて文字時代に入ったこと。現代でも漢字語は日本語でも朝鮮語でも抽象概念などをあらわすには欠か せない要素になっていることがよくわかる。

●憲法第1条についても調べてみることにする。

[日本語の原文]
第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

[中国語訳]
第1条「天皇是 日本国的象徴、是日本国民 統一的象徴、其地位 以主権所在的 全体日本国民的 意志 為依拠。」

[朝鮮語訳]
第1条「天皇eun  日本國ui  象徴i-yo  日本國民統合ui  象徴in koe-tti-myeo i 地位neun  主権neul    ka-jin  日本國民ui  總意e pa-ttang-eul keo-tti-da」

●日本人は、明治時代以降の近代化の過程で、西欧から輸入した新しい概念を漢語に翻訳してきた。それが中国や韓国で使われるようになって、漢字語は日本語、中 国語、朝鮮語に共通な語彙として定着している。西周や福沢諭吉が、西洋の概念を漢語に翻訳しえたのは、中国の古典を読んでいて、西洋の新しい概念に相当することばを、中国語のなかに見出しえたからである。「会議」、「演説」などは福沢諭吉が広めたことばだとされている。丸山真男によれば、「主権」などのことば、はむしろ上海で早くから翻訳語として使われていたという。

●中国では革命後簡体漢字を使っているので、日本で使われている漢字と違うものもある。また韓国は漢字を制限しているので、一般には使われなくなってしまっている漢字も多い。しかし、漢字で表記してみると、日本語、中国語、朝鮮語は多くの語彙を共有している。もちろん中国語、朝鮮語、日本語はそれぞれ音韻体系 が違うから、同じ漢字を使っても読み方は違う。語彙は共有しているものの、読み方はちがうから、筆談はできるが、はなしことばとして理解できるわけではな い。

例:   戦争    放棄  正義   秩序  希求  武力
 中国語  zhan zheng fang qi zheng yi zhi xu xi qiu wu li
 朝鮮語  jeon jaeng pang gi jeong ui jil seo hui gu mu ryeok

●ことばを言語の構造からみれば、日本語は朝鮮語に近く、中国語とは疎遠である。

しかし、これだけ多数の中国語の語彙を受け入れたということは、文化的、社会的にみれば、日本語も朝鮮語も漢字文化圏の言語であるということになる。

言語の系統の違いよりも、三千年の歴史をもつ漢字文化の力のほうが、圧倒的な力を もっていたからにほかならない。

日本語はアルタイ系の文法構造のうえに、中国語の語彙を受け入れたクレオールである。

第018話 五十音図の来た道

●日本人は誰でも小学校に入ると、国語の時間に五十音図というものを教わる。

もっとも小学校では「ひらがなひょう」などという名前で教わるから、すぐに五十音図という名前を知るわけではない。日本語の音 節は五十音で構成されている。

●本居宣長は『漢字三音考』のなかで「皇国の古言は五十の音を出ず。

これ天地の純粋の音のみ用ひて。混雑不正の音をまじへざるがゆえ也」としている。

また「外国人の音は。すべて朦朧と濁りて。たとへば曇 り日の夕暮の空を見るがごとし」といっている。

●日本語の五十音図はいつごろできたものなのだろうか。五十音図は仏教の世界で最初にできたもののようである。初期の五十音図は漢字で書かれている。天台座主良源によるとされる「五韻次第」はつぎのよう になっている。

 阿 伊 烏 衣 於
 可 枳 久 計 古
 左 之 酒 世 楚
 多 知 津 天 都
 那 爾 奴 禰 乃
 波 比 不 倍 保
 摩 彌 牟 廖〔
 夜 以 由 江 與
 羅 利 留 禮 呂
 和 為 于 恵 遠

●日本で音韻学が盛んになり、日本語の音韻構造が明らかになってきたのは空海の時代ころからのことである。平安時代の学問の中心は大学寮であった。大学寮には明経、文章(もんじょう)、明法(みょうほう)、算(さん)などがあった。明経は行政を学ぶ。明法は今日でいう法科で、律令国家のしくみを学ぶ。文章は詩文・歴史を学ぶ学問である。算は天文歴数を学ぶ。そのほかに音博士(おんはかせ)について唐の正音を学ぶ音韻学があり、空海もこれを学んだらしい。

●中国の音韻学はサンスクリット語(梵語)で書かれた仏典の研究によって発達した。サンスクリット語の世界では、言語哲学が古くから発達しておりサンスクリット文法の長い伝統があって。また、聖語であるサンスクリットが、すべての宇宙のなりたちと動きに対応するものであるとされていた。空海が唐に留学したころの中国では 仏典を原典のサンスクリット語で読むことが盛んに行われており、それにともなって中国語の音韻構造も明らかにされつつあった。空海は中国でインド僧を教師としてサンスクリット語(梵語)を学んだ。

●空海から34年遅れて入唐した天台宗の円仁は『入唐求法巡礼行記』、『在唐記』などを残しているが、そのなかでサンスクリットの字母である悉曇の音価について詳細に述 べている。サンスクリットには全部で10の母音がある。サンスクリットの音図では母音を次のような順序で並べている。サンスクリット語には長音と短音の区別があるが、それを除くとサンスクリットの音図の順序は、五十音図の順序とまったく同じである。

a(阿)、ā(阿引)、i(伊)、ī(伊引)、u(塢)、ū(汚引)、e(曀)、ai(愛)、o(汚)、au(奥)

●サンスクリットの子音は33ある。サンスクリットの子音を音図の順に並べて、それにあたる漢字音を示すと、日本語の(ア)カサタナハマヤラワの順になる。

カ行  ka (迦)kha(佉) ga(誐) gha(伽) nga(仰)
サ行  ca (遮) cha(磋) ja (惹) jha(酇)  njia(嬢)
タ行  ţa(吨)ţha(咤)ɖa(拏)ɖha(荼)nɖa(拏)ta(多)tha(他)da(娜)dha(駄)
ナ行  na(曩)
ハ行  pa(跛)pha(頗)ba(麼)bha(婆)
マ行  ma(莽)
ヤ行  ya(野)
ラ行  ra(囉)la(邏)
ワ行  va(嚩)
      sha(捨)sjia(灑)sa(娑)ha(賀)
(注:ţ、ɖは反舌音)

●日本語にない音を省いて並べればカ、サ、タ、ナ、ハ、マ、ヤ、ラ、ワとなる。このほかにahとaɱがある。これは仁王像の憤怒の形相の「あ」・「うん」、あるいは狛犬さんの「あ・うん」にあたる。五十音図ではɱ が「ン」になって、番外につけられている。

●サンスクリットは紀元前1500年ころまで遡ることのできる古い言語である。仏典を求めてインドに行った玄奘三蔵などが、中国に持ち帰り、それを漢訳した。日本では空海、最澄、円仁などの 留学僧が中国でサンスクリットを学んだ。五十音図は母音の並べ方も、子音の並べ方も、サンスクリットの音図の順番通りである。日本の五十音図は、サンスクリットの音韻学の影響を受けて平安時代に真言宗や天台宗の僧侶によって作られたものであることがわかる。

●五十音図は平安時代に成立したものだから、平安時代の日本語の音韻体系を反映している。奈良時代の日本語には母音が八つあったはすだが、五十音図には母音は五つしかない。平安時代の日本語では濁音は語頭にたつことがなかった。林(はやし)は語頭では林(はやし)と発音するが、語中では小林(こばやし)と濁音で発音されるのがきまりだったので、濁音を別にたてる必要はなかった。しかし、中国語の語彙がたくさん日本語のなかに取り入れられるようになって、学校(がっこう)とか疑問(ぎもん)という語が恰好(かっこう)とか鬼門(きもん)という語と区別して使われるようになると、濁音を表記する必要が生じてきた。「ン」は中国語の韻尾[-n]、[-m]を表記するために生れたものである。

●日本語では、どの音も均等に現れるわけではない。『広辞苑』で、それぞれの行に費やしているページ数を調べてみると、つぎのようになる。

  [ア行]  375、  [カ行]  548、  [サ行]  510、  [タ行]  337、
  [ナ行]  128、  [ハ行]  334、  [マ行]  162、  [ヤ行]   92、
  [ラ行]   79、   [ワ行]   23、

●日本語ではア行、カ行、サ行の3行で始まることばが、3分の1をしめる。日本語には元来ラ行で始まることばはなかった。ラ行の頭音がないのはアルタイ語の共通の特色であり、朝鮮語にもない。螺鈿、轆轤などはいずれも中国語からの借用語である。明治以降はヨーロッパなどからの借用語もありラ行ではじまる日本語 の語彙はふえている。

●『広辞苑』ではラ行で始まる言葉が辞書にして79ページ、全体の約3パーセントもある。『時代別国語辞典(上代)』と『広辞苑』ではかなりの変化がみられる。(数字は%、上代→現代)

  [ア行] 20.0→14.4、[カ行] 17.3→21.1、[サ行] 11.6→19.7、[タ行] 12.2→13.0、
  [ナ行]  7.0→4.9、[ハ行] 10.9→12.9、[マ行]  10.8→6.2、 [ヤ行] 6.3→3.5、
  [ラ行] 0.4→3.0、 [ワ行]  3.4→0.8、

●ラ行ではじまることばは上代ではきわめて少ないが、『広辞苑』では『時代別国語大辞典(上代)』の約8倍になっていることがわかる。

第019話 五十音図のなかの外来音

●日本語にはラ行ではじまることばはなかった。ラ行ではじまることばはなかったが、ラ行の音そのものが日本語になかったわけではない。たとえば万葉集にある持統天皇の歌をみてみると

  春(はる)過ぎて 夏来るらし 白(しろ)妙の 衣(ころも)ほしたり 天の香具山(万28)

●語中や語尾にはラ行の音はあらわれる。しかし、語頭にあらわれることはない。万葉集ではラ行ではじまることばが使われている歌はただ一首だけである。

池神の 力士儛(りきしまひ)かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛びわたるらむ
(万3831)

●「力士舞」というのは伎楽の一種であり、金剛力士に扮した男が面をつけ、桙をもって舞った。「力士」は万葉集のなかで用いられている数少ないラ行で始まることばであり、中国語からの借用語である。源氏物語のころになるとラ行のことばは、仏教用語を中心にかなり使われるようになる。ラ行で始まる日本語は、明治以前は中国語から、明治以降は英語などヨーロッパの言語から入ってきた。

螺鈿(らでん)、駱駝(らくだ)、蘭(らん)、栗鼠(りす)、龍(りゅう)、瑠璃(るり)、
      輪廻(りんね)、流転(るてん)、坩堝(るつぼ)、黎明(れいめい)、蓮華(れんげ)、
蓮根(れんこん)、櫓(ろ)、蝋燭(ろうそく)、轆轤(ろくろ)、

  ライオン、 ラジオ、 ラシャ、 ラムネ(レモネードの転)、 ランプ、 リズム、
  リボン、  レコード、 レストラン、 レモン、 ロザリオ、

●ラ行ではじまることばがないのはアルタイ系言語の特色のひとつであり、朝鮮語にもラ行ではじまることばはない。古代にさかのぼれば、さかのぼるほど日本語と朝鮮語は似ている。朝鮮語では今でもラ行で始まる言葉はナ行音に置き換えられ、イ段ではラ行の頭音が脱落する。

盧武鉉(のむひょん)、 盧泰愚(のてう)、 李承晩(いするまん)、
  蝋燭(nap-chop)、  蘭(nan)、  櫓(no)、  轆轤(nok-ro)、
  龍(yong)、  瑠璃(yu-ri)、  蓮華(yeon-hwa)、

  「龍」、「蓮華」の日本漢字音はイ段でないが、語頭のlが失われるのは、中国語の原音が龍[liong]、蓮華[lian-hoa] であり、i介音が含まれているからである。外国語の発音は受け入れられる側の言語に同化する。日本語でも「硫黄」を硫黄「いおう」と読むのは、頭音のlが失われたものである。「やまとことば」のなかにも、中国語の lがナ行、タ行に転移した例、ラ行音が脱落した例などがある。

 ナ行に転移: 梨(リ・なし)、  浪(ロウ・なみ)、  練(レン・ねる)、
  タ行に転移: 龍(リュウ・たつ)、滝 (リュウ・たき)、 粒(リュウ・つぶ)、
          立(リツ・たつ)
  頭音の脱落: 陸(リク・おか)、 梁(リョウ・やな)、 粒(リュウ・いぼ)、

●ラ行とナ行、タ行は調音の位置が同じである。調音の位置が同じ音は転移しやすい。これらのことばは、日本人がラ行の頭音を発音できるようになる以前に、借用語として日本語のなかに取り入れられたものである。

●古代の日本語ではラ行音が語頭にくることがなかったはかりでなく、鼻濁音が語頭にくることもなかった。現代の東京方言ではガ行鼻濁音が失われつつあるという。音楽学校ということばは標準語では「オンカ゜クガッコウ」と発音するのが正しいとされていた。「カ゜」というのは鼻濁音をあらわす。音楽の「カ゜」は 語中にあるから鼻濁音になり、学校の「ガ」は語頭にあるから鼻濁音にはならない。現代の東京方言では「オンガクガッコウ」と発音されることが多い。しかし、古代の日本人は語頭の鼻濁音を発音することができなかった。

●朝鮮語では現在もガ行鼻濁音が語頭に立つことはない。中国語のガ行鼻濁音[ng-] は朝鮮漢字音では失われる。

  魚 (eo)、 愕 (ak)、 我 (a)、 御(eo)、 牙 (a)、 雁 (an)、 愚(u)、 月 (wol)、 五 (o)、 玉 (ok)

「やまとことば」のなかにも、ガ行鼻濁音が失われたものがある。

  魚(ギョ・うお)、 顎(ガク・あご)、  我(ガ・あ)、 吾(ゴ・あ)、
  御(ギョ・お)、  仰(ギョウ・あおぐ)、牛(ギュウ・うし)、

●日本語の魚(うお)、顎(あご)などは中国語の鼻濁音が語頭で失われたものであり、朝鮮漢字音と共通である。「我」、「吾」は万葉集などでは「あ」「あれ」「わ」「われ」とし使われている。

 吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山の雫に ならましものを(万108)

 吾を吾(あ)とするのも語頭の鼻濁音が失われたもので、朝鮮漢字音と共通である。

●中国語には日母と呼ばれる語頭子音がある。「日本」の日(ニチ)にあたる音である。日本漢字音でも呉音は日(ニチ)、漢音は日(ジツ)と発音される。日母は天然(テンネン)・ 自然(シゼン)などのように不安定な音で転移しやすい。「日本」は現代の北京音では日本(ri-ben)、広東語では日本(yaht-bun) であり、上海語では日本(zhek-ben) である。朝鮮語では頭子音が失われて日本(il-bon) になる。日本語のなかには中国語の日母[nj-] が脱落したと思われることばがいくつかある。

  熱(あつい・ネツ)、  入(いる・ニュウ)、 潤(うるおう・ジュン)、
  柔(やわら・ジュウ)、 軟(やわらか・ナン)、譲(ゆずる・ジョウ)、
  弱(よわい・ジャク)、 若(わかい・ジャク)、

●これらのことばは「やまとことば」と思われているが、朝鮮半島を経由して日本語に借用された、中国語起源のことばであろう。これらの漢字の朝鮮漢字音は次のとおりである。

    熱(yeol)、 入(ip)、 潤(yun)、 柔(yu)、 軟(yeon)、 譲(yang)、 弱(yak)、 若(yak)、

●日本語の訓と現代朝鮮漢字音は完全には対応していないが、少なくとも頭子音は対応しているようにみえる。また、これらの漢字の現代広東語音は次のとおりで、古代の江南音もこれに近かったのではないかと思われる。

熱(yiht)、 入(yahp)、 潤(yeuhn)、 柔(yauh)、 軟(yuhn)、 譲(yeuhng)、 弱(yeuhk)、 若(yeuhk)、

●呉音にしても漢音にしても日本漢字音は唐代の中国語の漢字音を規範として、定められ日本における漢字音の規範として辞書などにも掲載されてきた。しかし、中国の江南地方の音や、朝鮮漢字音の影響を受けた発音を日本語は訓(やまとことば)のなかに継承しているのではなかろうか。

第020話 いろは歌の誕生

●五十音図が日本語の母音を縦軸に、子音を横軸に構成されているのに対して「いろは歌」は体系的でない。しかし、五十音図の順番は意味がないのに対して手習い歌のひとつ として伝えられてきた「いろは歌」には意味があり、覚えやすいという利点がある。そのため「いろは順」は中世から近世にかけて広く利用されてきた。明治 24年に日本最初の近代的日本語辞書である『言海』が五十音順を採用して出版された。福沢諭吉は『言海』が五十音順であるのに眉をひそめて「寄せの下足札が五十音図でいけますか」といったという。当時五十八歳の福沢にはイロハ順が染みついていて、五十音順は新しすぎたのである。

 いろはにほへと 色は匂へど
 ちりぬるを 散りぬるを
 わかよたねそ 我が世誰ぞ
 つねならむ 常ならむ
 うゐのおくやま 有為の奥山
 けふこえて 今日越えて
 あさきゆめみし 浅き夢見じ
 ゑひもせす 酔ひもせず

●いろは歌はすべての仮名を重複することなく網羅しているが、五十音図と違って意味のある歌になっている。その内容は仏教の思想である諸行無常の思想である。

●末尾に「ん」をつけて「ゑひもせすん」とするものもみられるが、日本語には「ん」で終わる音節はなかったのだから、「ん」はない方が正式である。中国語の君 は、日本語に「ん」で終わる音節がなかったから、君(きみ)として日本語に受け入れられ、やがて君(クン)と中国語音に近く発音されるようになってくる。同じように中国語の浜は日本語では浜(はま)と母音をつけて受け入れられ、やがて浜(ヒン)と発音されるようになってくる。

●いろは歌には濁音は使われていない。しかし、読むときは「匂へど」「誰ぞ」「夢みじ」「酔ひもせず」 などと濁音で読む。日本語では濁音が語頭にたつことはなかった。いろは歌でも濁音は語尾に限られている。小林、栗林などの林は「ばやし」と読む。しかし、「ばやし」ということばは辞書にはない。林(はやし)が語中では林(ばやし)と濁音化するという規則があるから「ばやし」は「はやし」のことであると理解できる。

●朝鮮語を表記するハングルでは韓国(han-kuk)と書いて「ハングック」と読む。時間(si-kan)は「シ・ガン」、時刻(si-kak)は「シ・ガク」となる。語頭では清音、語中では濁音になるという規則が生きているから、文字のうえで清音と濁音を分別する必要がない。景福宮(keong-puk-kung)と書いて「キョン゜・ボックン゜」と読む。福はハングルでは福(puk)である。しかし、福は語頭では福(フク)と読むが語中では福(ブク)と読むという約束ごとになっている。福(フク)は語頭だけに来て、語中では福(ブク)と読むがハングルでは区別しない。林はハングルで はhayasiであり、小林はkohayasiと書いて「こばやし」と読む。これを言語学では相補分布(complimentary distribution)という。

●古代日本語では濁音が語頭にくることはなかった。しかし、語頭に濁音をもつ中国語の語彙が大量に日本語のなかに入ってくると柿(かき)と餓鬼(がき)、釜(かま)と蝦蟇(がま)、口(くち)と愚痴(ぐち)などは文字として書きわけないと分別できなくなってきた。しかし、いろは歌のできた平安時代には「くちくちに」と書いて「くちぐち(口々)に」とよむことができた。だから、いろは歌には濁音の文字を使う必要はなかった。

●いろは歌は諸行無常を歌ったもので「有為変転は世のならい」という仏教思想を伝えている。現存する最古のいろは歌は『金光明最勝王経音義』(1079年)にあるものといわれていて、いろは歌もまた五十音図と同じく僧侶の世界で生れた。

  以呂波耳本へ止
  千利奴流乎和加
  餘多連曾津祢那
  良牟有為能於久
  耶万計不己衣天
  阿佐伎喩女美之
  恵比毛勢須

●以呂波は仏典の読書音を示すための仮名として誕生した。漢字だけで書かれているが、漢字の使い方にはいくつかの特徴がみられる。

○ 韻尾の-n、-ngなどが脱落している。
    本(ほ)、千(ち)、連(れ)、良(ら)、有(う)、能(の)、万(ま)、天(て)、
○ わたり音iが脱落している。
    流(る)、久(く)、須(す)、
○ 古い漢字音が使われている。
    耳(に)、止(と)、祢(ね)、女(め)、

●中国語韻尾の-n、-ngが脱落して、開音節である日本語の音節に適応する使い方は万葉仮名と同じである。

流[liu]、久[kiuə]、須[sio]のわたり音iが脱落するのは朝鮮漢字音の特色であり、朝鮮漢字音では流(ryu)、久(ku)、須(su)にも通じる。日本漢字音では流(る)、久(く)、須(す)は呉音とされている。呉音とは朝鮮系漢字音のことでもある。

耳(に)、止(と)、祢(ね)、女(め)などは推古遺文にみられるかなり古い音を継承しているものと思われる。

●いろは歌の最古の記録は平安時代のものであるとはいえ、『金光明最勝王経音義』の漢字の使い方はかなり古いのである。例えば天平時代の遺物とされる薬師寺の国宝・仏足跡歌碑の碑文と比べてみることにする。

美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須礼 知々波々賀多米尓、
 みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさへゆすれ ちちははがために
 (御跡作る   石の響きは   天地に至り  土さへ揺すれ  父母がために)

己乃美阿止乎 多豆祢毛止米弖 与伎比止乃 伊麻須久尓々波 和礼毛麻胃弖牟
 このみあとを たづねもとめて よきひとの いますくにには われもまゐらむ
 (この御跡を  尋ね求めて   よき人の  います国には  我も参てむ)

止(と)、久(く)、須(す)、祢(ね)などの古代中国語音は止[tjiə]、久[kiuə]、須[sio]、祢[myei] であるとされている。これらの漢字音は唐代に口蓋化が起こり、わたり音iを伴うようになったものである。仏足跡歌碑の漢字音は、口蓋化する前の中国語音を留めている可能性がある。

●つまり、止[tə]、久[kuə]、須[so]、祢[mei]に近い音を継承していると考えられる。ちなみに、これらの漢字の朝鮮漢字音は止(ji)、久(ku)、須(su)、祢(ni)であり、朝鮮漢字音にも通じる。古代日本の姓(かばね)のひとつである宿祢なども、仏足跡歌碑の漢字の読み方と同じであり、天平時代から伝わる朝鮮系の読み方だということができる。「宿祢」の朝鮮漢字音は宿祢(suk-ni)である。耳、止、祢、女などの漢字音は一般に次のように考えられている。

耳 止 女 祢 須 久
 呉音 ニ シ ニョ ネ・ ナイ ス ク
 漢音 ジ シ ジョ デ イ・ネイ シュ キュ ウ
訓 み み と まる め・ おんな

●これらの漢字の古代中国語音は耳[njiə]、止[tjiə]、女[njia]、祢[myei/njiai]、須[sio]、久[kiuə]である。中国語音では隋唐の時代に口蓋化が起こっているので、口蓋化以前の中国語音を推定すると耳[miə]、止[tə]、女[nia/mia]、祢[mei/nai]となる。耳(み)、止(と)、祢(ね)、女(め)隋唐の時代以前の中国語を継承したものであると考えられる。止(シ)は止(と)が口蓋化して転移したものである。また、女(め)は訓とされているが、口蓋 化以前の中国語音を留めたものである。

●中国語の音節は次のような構成になっている。

頭子音+わたり音(i介音、u介音、iu介音)+主母音+末子音(p-t-k、m-n-ng)

●このうえに四声(平声、上声、去声、入声)がかぶさっている。わたり音は隋唐の時代に発達した。

良[liang]を良(ら)に用いているのも「良」が良[lang]であった時代の中国語音の痕跡を留めている。

●これらを総合すると、いろは歌の記録が最初にあらわれるのは平安時代であるが、古い中国語音の痕跡を留めている。

初期のいろは歌は「ひらがな」ではなく漢字で書かれている。

いろは歌は仏典の読み方を示す仮名として発達してきた。

「ひらがな」も「カタカナ」も仏典の読み方を示す漢字を簡略化したものから生れたものである。

仏典の読み方を示すのに使われる漢字は当初は固定していたわけではないが、次第に定着してきた。

以呂波は「いろは」となり、「イロハ」は伊呂八から生れた。

  

[万葉集の日本語]

第021話 万葉人の言語生活

●万葉集は759年ころ成立した。万葉集の成立より早い751年には、漢詩集『懐風藻』ができている。「やまとごころ」を詠った万葉集よりも、中国語の詩集である『懐風藻』のほうが先にできたのである。万葉集の歌人のなかには『懐風藻』に漢詩を残している人が何人もいる。大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、大伴旅人、境部王、背奈王行文、刀利宣令、長屋王、安倍広庭、吉田宣、藤原宇合、石上乙麻呂などは、万葉集に歌を残しているばかりでなく、漢詩も残している。万葉集の時代には「やまとことば」で歌を作るばかりでなく、中国語の詩を書ける人が数多くいたのである。そのなかの一人である大津皇子は『万葉集』と『懐風藻』辞世の歌と漢詩を残している。

[万葉集の歌]
大津皇子、被レ死之時、磐余池陂流レ涕御作歌一首
  百傳 磐余池爾 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟(万四一六)

[懐風藻の漢詩]
   五言 臨終 一絶

金烏臨ニ西舎一
   鼓声催ニ短命一
   泉路無ニ賓主一
   此夕誰家向

●これらの歌と詩は次のように読む。

 [万葉集の歌]
   大津皇子の被死(みまか)らしめらゆる時、磐余の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流し作りましし御歌一首
  ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

[懐風藻の漢詩]   

臨終
金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み
  鼓声(こせい)短命を催(うなが)す
  泉路(せんろ)賓主なし
  この夕 誰が家にか向ふ

●歌も漢詩もいずれも臨終の作である。万葉集の歌では日本の歌の伝統に従って、季節の微妙な移り変わりに心を動かし、美しい自然を愛惜する心情と、死にたいする自分の思いを重ね合わせている。これにたいして、漢詩では当時宮廷を中心に広がりつつあった、仏教の思想が色濃く映し出されている。言語表現のうえでも、万葉集の歌は「ももづたう」という枕詞にはじまり、「雲隠りなむ」という隠喩で終わっていて、事物を直接的に表現せずに余韻を重んずる「やまとことば」の伝統をふまえている。歌は「毎年北方から飛来する無心の鴨が何かを予知したかのごとく鳴いている。鴨は来年もまたやって来るであろう。しかし、私は 今日を限りにこの鴨を見ることがなくなるであろう」という感慨がこめられている。

●漢詩はもっと観念的で、「西舎」「泉路」など仏教の概念が織り込まれている。「日は西方浄土に傾き、うち鳴らす太鼓の音は、はかない命のリズムを刻む。黄泉の路には賓(まろうど)も主(あるじ)もない、この夕べどこに宿を求めればよいのやら。ひとりわが家に別れを告げるのみ」と解釈できる。漢詩は歌より観念的で、かつ明示的である。万葉歌は中国語に翻訳しても漢詩になりえないし、漢詩はそのまま日本語にしても万葉の歌にはなりえない。漢詩は脚韻こそ踏んでいないものの、大津皇子が日本語と中国語を使いこなす、バイリンガルであったばかりでなく、日本文化の伝統と中国や仏教思想に深いかかわりをもっていたことを、うかがわせるに十分である。

●大津皇子は天武天皇の第3皇子(持統紀)とも長子(『懐風藻』)ともいわている。大津は少年時代に壬申の乱を経験している。天武天皇崩御の後、大津皇子は謀反の企てがあるとの嫌疑によって死を賜った。万葉集の歌も懐風藻の漢詩も、辞世の作とされている。漢詩のほうは中国に類似の詩があることが研究者によって明らかにされている。しかし、この詩が大津皇子の作に擬せられているということは、大津皇子が「やまとことば」で歌を詠むばかりでなく、中国語を駆使して漢詩を作る素養があったことを示唆している。日本書紀は大津皇子について、つぎのように伝えている。

●持統天皇2年冬10月2日、皇子大津の謀反が発覚、皇子大津を逮捕。あわせて直広肆八口朝臣音橿(じきこうしやくちのあそみおとかし)等30余人を捕えた。3日、皇子大津に訳田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜った。時に年24才であった。妃の山辺皇女は髪を乱してはだしで走って殉死した。見る者皆嘆く。皇子大津は天武天皇の第3子である。目鼻立ちがとおり言語明朗で天智天皇に愛されていた。長ずるに及んで才学に富み、特に文筆を愛された。詩賦の興隆は大津に始まる。

●「詩賦の興隆は大津に始まる」というのは大変な賛辞である。大津皇子は「やまとことば」で歌を作り、中国語で詩を書いた。漢詩は宮廷の社交場である詩宴で、長屋王を中心に作られ、披露された。漢詩は限られた支配階級の文化であり、詩宴に招かれたのは当時の知識人の代表である僧侶、貴族のみであった。宮廷では官 吏の服装も唐の装束をそのまま写したものであった。唐の官吏にならって漢詩を作ることが、官吏の重要な仕事のひとつとされていた。

●唐代の中国では、風格のある詩を作ることは、儒者の仕事のなかで最も重要視されていた。よい詩が作れなければ科挙の試験に通らないばかりでなく、儒者として の資質を疑われることにもなりかねなかった。万葉人もまた、中国の伝統に則って、詩作にしのぎを削った。この時代の宮廷の風俗は、唐の文化を規範としていた。文字をもった中国文化こそが唯一のぶんかであり、漢字文化圏である高句麗、百済や新羅の宮廷文化もまた大和朝廷と同じであった。

懐風藻が宮廷文化を反映しているのにたいして、万葉歌は、「やまとことば」しか話さない層も含めた、幅広い層の歌をおさめている。万葉集には、東歌や防人の歌など、漢字文化と接点のない人々の歌も含まれている。万葉時代の日本人の言語生活は三つの層から成り立っていたと考えることができる。

1.漢字文化に造詣が深く『懐風藻』に漢詩を載せた宮廷人。
 2.『懐風藻』には漢詩を載せ、『万葉集』には和歌も残した人びと。
 3.『万葉集』にのみ和歌を残した人びと。

万葉集を代表する歌人のひとりである山上憶良は、歌もつくり、漢詩をものす国際人であった。遣唐使にも選ばれた山上憶良の漢詩は、宮廷詩集である『懐風藻』には掲載されていない。山上憶良は宮廷のサークルに属する高位高官ではなかった。しかし、山上憶良の漢詩は万葉集の題詞のなかに残っている。

  [漢詩]
 神龜五年六月二十三日 蓋聞、四生起滅、方ニ夢皆空一、 三界漂流、喩ニ環不一 レ息(中略)泉門一 掩、無レ由ニ再見一、嗚呼哀哉。

  愛河波浪已先滅
 苦海煩腦亦無レ結
 從来猒ニ離此穢土一
 本願託ニ生彼浄刹一

  [万葉歌]
日本挽謌一首 大王能 等保乃朝庭等 斯良農比 筑紫國爾 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀爾母

伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良禰婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀爾 宇知那毘枳 許夜斯 努禮 伊波牟須弊 世武須弊斯良爾 石木乎母 刀比佐氣斯 良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿禮乎婆母 伊可爾世与等可 爾保鳥能 布多利那良毘為 加多良 比斯 許々呂曾牟企 弖 伊弊社可利伊摩須(万 794)

これらの詩と歌はつぎのように解されている。

 [題詞]
神亀五年六月二十三日 蓋(けだ)し聞く、四生の起滅は夢の皆空しきが方(ごと)く、三界の漂 流は環(たまき)の息(や)まぬが喩(ごと)し。(中略)泉門一たび掩(おほ)はれて、再(また)見るに由無し、嗚呼哀(かな)しきかも。

 [漢詩]
  愛河の波浪は已先(すで)に滅(き)え、
  苦海の煩悩も亦結ぼほるといふことなし。
  従来(むかしより)この穢土(ゑど)を厭離(えんり)す。
  本願をもちて生を彼(そ)の浄刹に託(よ)せむ。

 [万葉歌]
大王(おほきみ)の とほの朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣子なす した ひきまして いきだにも いまだやすめず 年月も いまだあらねば こころゆも おもはぬあひだに うちなび き こやしぬれ いはむすべ せむすべしらに 石木(いはき)をも とひさけしらず いへならば かたちはあらむを うらめしき いものみことの あれをばも いかにせよとか にほ 鳥の ふたり ならびゐ かたらひし こころそむきて いへざかりいます(万794)

 この詩と歌は、大伴旅人が妻を亡くした時に山上憶良が詠んだもので、大伴旅人の歌を受けて詠んだものである。大伴旅人の歌は山上憶良のすぐ前にのせられている。

  世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 憶良の漢詩も歌もこの歌を受けている。漢詩の大意は「愛する妻もすでに亡くなってしまっ たばかりでなく、煩悩もまたなくなってしまった。以前からこの世は厭わしいと思っていたが、願わくば浄土にこの生を託したい」というものである。愛河は愛欲を河にたとえたもので、ここでは妻をさす。苦海の煩悩は俗世間の煩悩のことである。仏教の考え方に精通し、中国語の慣用句をかなり知らなければこの漢詩は書けない。

 歌はほとんどが音仮名だけで書かれている。歌はことばのリズムを愛でる文学だから、日 本語のリズムを失わないことを最重点に、音仮名の文字を選んだに違いない。山上憶良の日本挽歌には、漢文では書き表せない、日本的なセンチメントが充満し、浮遊しているのを感じる。「やまとことば」には、漢詩では表現しきれない何かがあるからこそ、万葉人は漢字を使って「やまとことば」を書きあらわそうと努力を重ねたのであろう。漢詩は「からごころ」で作り、歌は「やまとごころ」を謳いあげている。

「大王の とほの朝廷と しらぬひ 筑紫国に 泣子なす 慕ひきまして」はかなり修辞的なことばづかいだが「遠い筑紫の国の勤務先まで慕いきて」ということをいっているにすぎない。「やまとことば」には「やまとことば」のいいまわしがあって「大王の とほの朝廷」、「しらぬひ 筑紫国」、「泣子なす 慕ひきまして」と形容詞や枕詞、副詞句を重ねることによって、ことばは深みを増し、こころに響く。最後の部分の「うらめしき 妹の命の 我をばも いかにせよとか  鳰鳥の 二人並び居 語らひし 心そむきて 家ざかりいます」でも「うらめしき 妹の命」「鳰鳥の 二人並び居」なども、漢詩では表現つくしえない心情であろう。

 大津皇子、山上憶良の万葉歌と漢詩をみただけでも、万葉集の時代の人びとの多くが、二 つの言語世界をもち、「やまとことば」には「やまとことば」でなければ表現しきれない心情世界があったことがわかる。それだからこそ、漢字をなんとか手なづけて、「やまとごころ」を託すことができる文字を手にいれようとしたのであろう。その悪戦苦闘の足跡を、万葉集の漢字は伝えている。

第022話 柿本猨とは誰か

万葉集を代表する歌人柿本人麻呂の生涯は、正史に記録がないことから、謎につつまれている。柿本人麻呂は山上憶良とちがって漢詩を残してはいない。人麻呂が 唐の文化にあこがれ、宮廷で漢詩を作るグループに属していなかったことだけは確かである。柿本朝臣を名のる人物で正史に登場するのは、天武10年(681年)に小錦下(しょうきんげ)を授けられ、和銅元年(708年)に従四位下で亡くなった、柿本猨(さる)という人物だけである。

『日本書紀』には「柿本臣猨など、あわせて十一人に小錦下の位を授けたまふ」(681年)とあり、『続日本紀』には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年)とある。この柿本猨と柿本人麻呂とは、どのような関係があるのだろうか。柿本人麻呂と柿本猨とは別人物だと考える人も多い。申年に生まれたから猨と呼ばれ たという説もある。猨は柿本人麻呂と同一人物だと考える人も、万葉集を代表する歌人に猨という名前はふさわしくないと感じている。

柿本人麻呂が歌を詠んだのは680年から709年ころの間である。柿本猨は和銅元年(708年)に亡くなったとされているから、人麻呂が創作活動をした時代とほぼ重なっている。『日本書紀』や『続日本紀』に登場する柿本猨は、柿本人麻呂と同一人物である可能性がある。

柿本「猨」あるいは柿本朝臣「佐留」は、「猿」ではなくて、百済などの官位「率」である。「率」の古代中国語音は率[shiuət] である。中国語韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に[-l] になるから、百済の官位「率」は百済語では率(sol/jol) になる。そして、日本語では卒「そち」と呼ばれた。百済の官位十六品は上から順に、つぎのようになっている。

1.左平、2.達率、3.恩率、4.徳率、5.扞率、6.奈率、7.将徳、8.施徳、9.固徳、10. 季徳、11. 対徳、12. 文督、13. 武督、14. 佐軍、15. 振武、16. 克虞、

 「率」は百済ではかなり高い官位である。『日本書紀』には「左魯」あるいは「佐魯」とい う名前の人物が、ほかにも二人登場する。一人は任那の人で「左魯那奇」という。もう一人は、百済の人で「佐魯麻都」である。左魯あるいは佐魯は名前ではな く百済、任那の官位「率」である。日本書紀編纂当時、日本漢字音では「率」は率「そち」と読んでいた。「率」では日本語として「さる」と読めないから、音 仮名で「左魯」あるいは「佐魯」と表記したもので、「任那の率・那奇」、「百済の率・麻都」である。『日本書紀』の「柿本臣猨」、『続日本紀』の「柿本朝臣佐留」は「柿本臣卒(そち)」あるいは「柿本朝臣卒(そち)」にあたる百済の官位であると考えることができる。

日本書紀のなかの朝鮮の地名や人名は日本風に読んでいるものが多い。しかし、現地での発音を考慮する必要がある。たとえば、『日本書紀』のつぎのような記述はどうだろうか。

任 那の左魯(さる)・那奇他甲背(なかたかふはい)等が計を用ゐて、百済(くだら)の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を爾林(にりむ)に殺す。爾林は高麗(こ ま)の地なり。帯山城(しとろもろのさし)を築きて、東道を距ぎ守る。粮運ぶ津を断へて、軍をして飢え困びしむ。百濟の王(こきし)、大いに怒りて、領軍 古爾解(こにげ)・内頭莫古解(まくごげ)等を遣して、衆を率て帯山(しともろ)に趣きて攻む。(顕宗三年、478年)

秋 七月に、百済、安羅(あら)の日本府と新羅と計を通すを聞きて、前部(ぜんほう)奈率(なそち)鼻利莫古(びりまくこ)・奈率宣文(せんもん)・中部 (ちゅうほう)奈率木眯淳(もくらまいじゅん)・紀臣奈率弥麻沙(みまさ)等を遣して、(紀臣奈率は、蓋し是紀臣の、韓の婦を娶りて生める所、因て百済 に留りて奈率(なそち)と為れる者なり。未だその父を詳にせず。他も皆此にならえ。)安羅(あら)に使して、新羅に到れる任那の執事を召して、任那を建てむことを謨らしむ。別に安羅の日本府の河内直(かふちのあたひ)の、計を新羅に通すを以て、深く責め罵る。(百済本記に云はく、加不至費直(かふちのあた ひ)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等という。(欽明二年、541年)

まず、「任那の左魯・那奇他甲背」は「任那の率」である。「率」と書いたのでは率「そち」と日本風に読まれてしまうので、音で「左魯」と表記したものである。「前部奈率鼻利莫古」、「奈率宣文」、「中部奈率木眯淳」、「紀臣奈率弥麻沙」は、百済の官位で第六位の奈率「なさる」である。「奈」は百済語で「国」を意味するから、「国の率」ということになる。「佐魯麻都」は音で書かれているが「率麻都」である。

こ れらの記録は百済本記をもとにして書いているものだが、日本書紀の一般的な読み方としては「率」と書いてあれば率(そち)、「佐魯」と書いてあれば佐魯 (さる)と読む。だから、「率」が「佐魯」と同一の官位を指していることが、わからなくなってしまう。「佐魯麻都」を「さる・まつ」と読むとすれば、「紀 臣奈率弥麻沙」も「きのおみ・なさる・みまさ」と呼ぶべきであろう。

日本書紀の朝鮮の地名や人名は、朝鮮の表記法をそのまま継承しているため、日本語で読むと理解しにくい場合がある。例えば、「那奇他甲背」の甲背は甲背(か ふはい)と詠んでいるが甲背(かひ)であろう。朝鮮語には末音添記という表記法があって郷歌(ひやんが)などでよく用いられている。甲の古代中国語音は甲[keap]で甲(かひ)に近い。しかし、韻尾の[-p]の音は音便化して甲(かひ)とは読めなくなってしまったので、末音の[-p]を「背」と添記したものである。日本でも地名の甲斐の「斐」は甲[keap]の末音[-p]が音便化して甲(コウ)となり甲(かひ)とは読めなくなってしまったために添加したものである。揖保の糸の保も揖[iəp]の[-p]が音便化して揖だけでは揖(いぼ)と読めなくなってしまったために「保」を補ったものである。また鹿児島県の指宿(いぶすき)は揖宿という地名であったが揖 が音便化して揖(いぶ)とは読めなくなってしまったので指宿と漢字のほうを変えてしまった。「莫古」も莫古(まくこ)ではなく莫古(まこ)であろう。 「古」は莫[mak] の韻尾[-k] を添記したものである。

日本書紀の記述によれば、紀臣奈率は紀臣が韓(から)の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率になった人だという。この後には、つぎのような記述もあ る。「佐魯・麻都は韓国の生まれである。的臣、吉備臣、河内臣などはみんな佐魯・麻都の指揮に従って日本府の政務をほしいままにしている」。日本の高位高 官が百済に赴き、国際結婚をして現地に留まり、高い官位をえて朝廷のなかで発言権をもっていたことが、この記述からわかる。逆に百済の高官が日本に来て朝 廷のなかで高い地位についたり、官位を与えられていたとしてもおかしくはない。この時代には国境を越えた貴族社会が形成されていたのである。

柿本一族は百済の官位、率「さる」に匹敵するほど官位を与えられる家柄だったことになる。仮に柿本猨が柿本人麻呂本人でなかったにしても、柿本一族は百済の朝廷に近い、国際貴族社会の一員であったとみて 間違いないであろう。『日本書紀』には、つぎのような記述もある。

天智天皇四年の春二月、百済国の官位の階級を勘校した。なお、佐平福信の功績によって鬼室集斯(くるしつしふし)に小錦下の位を授けた。その本の位は達率(だちそち)である。また、百済の民、男女四百人あまりを近江の国の神崎郡(かむさきのこほり)に移住させた。(天智四年、665年)

 百済滅亡後、 多数の百済人が渡来した。百済で官位が与えられていた人には、それに相応する日本の官位を与え、農民には土地を与えた。鬼室集斯の百済での位は達率である というから、百済では二番目に高い位である。日本人が百済の官位を授けられただけでなく、百済人もまた大和朝廷から官位を授けられているのである。百済で官位が達率だった者には、大和朝廷では小錦下が授けられている。柿本猨は 猨(さる)つまり百済では率(さる)であるから日本で小錦下の位を授けられたとしても至当な扱いである。猨は率「そち」であり、決して猿に通ずる蔑称など ではありえない。

第023話 万葉集は解読されていない

「万葉集」は平安時代にはすでに一部解読不能になっていた。天暦5年(951年)に村上天皇が万葉集の解読を命じたという記録がある。万葉集にはいわゆる難読歌という のがあって、未だに解読されていない。未だに解読されていないというよりは、もはや解読できなくなってしまったというべきかも知れない。本来中国語を記録 するために発明された漢字を、言語構造のまったく違った日本語に転用するのだから、漢字の使いかたには新たなルールが必要であった。次の歌は額田王が紀伊 の温泉に行った時に詠んだ歌とされているが、古来有名な難読歌である。

 莫 囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本(万9)

 前半はほとん ど判読不能である。後半は「わが背子が い立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本」と読むのが一般的である。万葉集が成立した当時は、書記者と読者の間に漢 字の使い方、読み方についての約束事があって、日本語として解読できたはずである。その約束事が後世まで伝わらなかったために、解読できなくなってしまったのである。次の歌も難解である。

  春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野爾(万1874)

  しかし、この歌は解読されている。

  春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に

こ の歌を解読する鍵は「三伏一向」にある。「三伏一向」を「つく」と読むことが分かれば、比較的簡単に日本語として読める。「三伏一向」とは万葉時代のゲー ムで、四枚の札を投げて三枚が裏、一枚が表になったのを「三伏一向」といい、これを「つく」という。一枚が裏、三枚が表になった場合は「一伏三向」で「こ ろ」いう。

  菅根之 根毛一伏三向凝呂爾 吾念有 妹爾縁而者、、、 (万3284部分)

この歌も「一伏三向」が「ころ」であるということが分かっていれば解読できる。

  菅の根の ねもころごろに わが思(も)へる 妹によりては、、、

また次の歌では「切木四」の読み方が鍵になる。

左 小壮鹿之 妻問時爾 月乎吉三 切木四之泣所レ聞  今時来等霜(万 2131)
  さ男鹿の 妻問ふ時に 月を良み 雁が音(ね)聞ゆ 今し来らしも

「切 木四之泣」を「雁が音」と読む。「切木四」と書いて「かり」と読むのは「かりうち」というゲームに由来する。「かりうち」は四枚の木の札を削り、両端をとがらせたもので、半面を白く塗り半面は黒く塗ってある。白い方2枚に雉を描き、黒い方2枚に小牛を描き、それを投げてその札の色によって勝負する。4枚の 札を使うので「切木四」と書いて「かり」にあてている。

『時代別国語大辞典〜上代編〜』によると「三つ伏して一つが上向いたのをツク、一つ伏して三つ上向いたのをコロなどと呼んだ。遊びの名はカリウチ、樗蒲(ちょぼ)ともいう。大陸渡来の遊びで、朝鮮では最 近に至るまで行なわれていたという」とある。

万葉集には戯書と呼ばれる文字の使い方がある。「二二」と書いて「し」、「十六」と書いて「しし」、「八十一」と書いて「くく」などである。

獦 路乃小野爾 十六社者 伊波比拝目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝(万239部分)

ここでは「十六」を「しし」と読むというのが約束事である。

獵 路(かりぢ)の小野に 猪鹿(しし)こそは い匍(は)ひ拝(をろ)がめ 鶉(うづら)こそ い匍(は)ひ廻(もと)ほれ 猪鹿(しし)じもの い匍 (は)ひ拝(をろ)がみ

 この歌は柿本人麻呂の長歌の一部分で、「十六」 は掛け算で「しし」と読ことによって解読できる。

垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿 異母二不レ相 而(万 2991)

この歌の難解な部分は「馬聲蜂音石花蜘蟵」にある。「馬聲蜂音」と書いて「いぶ」、「石花」は「せ」、「蜘蟵」「くも」と読む。馬の声、蜂の音はうるさいことから、このような表記がうまれた。この部分が解読できないと、この歌を読み下すことはできない。

たらちねの 母が養(か)ふ蠶(こ)の 繭隠り 馬聲蜂音石花蜘蟵(いぶせくも)あるか
妹に逢はずして

このような例はほかにもある。「十六自物」は「ししじもの」(万1019)、「八十一隣之宮爾」は「くくりのみやに」(万3242)、「三五月之」は「も ちづきの」(万196)と読む。柿本人麻呂の長歌にはこのような表記が多い。人麻呂は戯れにこのような文字をも用いたのだろうか。また、このような表記は 万葉歌人の発明なのだろうか。

高句麗の碑文として知られる広開土王碑文の第1面5行目には「好太王二九登祚」と記さ れている。この「二九」は掛け算の表記で十八を表す。「好太王は十八歳で王位に登った」と解されている。碑文であるから、高句麗の正式な書記法にのっとって書かれているはずであり、戯れに文字が選ばれているはずがない。これは漢字を使って高句麗語を表記するために、朝鮮半島で工夫された表記法のひとつである。柿本人麻呂は、広開土王碑文を書いた高句麗の書記法の伝統を、受け継いでいると考えるのが自然である。柿本人麻呂自身が広開土王碑について知っていたかどうかは分からない。しかし、高句麗出身の史(ふひと)はこのような書記法になじんでいたであろう。その書記法が万葉集に取り入れられたものと考えられ る。

 漢字を使って中国語を書いた漢文の文章は、表記 法のルールが確立しているから、必ず解読できる。しかし、中国語を専ら表記するために作られた漢字を使って外国語である日本語や朝鮮語を書いた文章は、必ずしも正確に復元できるとは限らない。しかも、1000年以上も前に漢字を使って書かれた日本語は、解読 不能になっても不思議ではない。万葉集は未だに、完全に解読されているわけではない。

第024話 万葉集は解読できるか

万葉集は、難読歌といわれるものでなくても、読み方が確定していないものが多い。つぎの歌は天智天皇(=中大兄皇子)の歌とされ、万葉集のなかでも屈指の秀歌とされているが、読み方が確定しているわけではない。

渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比紗乃 今夜乃月夜 清明己曾(万15)

この歌は一般につぎのように読みくだしている。

わたつみの 豊旗(とよはた)雲に 入日さし 今夜(こよい)の月夜 清明(あきら)けくこそ

最後の「清明」の部分の読み方については、古来さまざまな説がある。古くは「スミアカクコソ」であった。それを江戸時代に賀茂真淵が「アキラケクコソ」と読みかえた。主な読み方をあげてみると次のようになる。

ス ミアカクコソ(仙覚・契沖)、アキラケクコソ(賀茂真淵)、サヤニテリコソ(佐々木信綱)、キヨクテルコソ(伊藤左千夫)、キヨクアカリコソ(武田祐 吉)、マサヤケクコソ(島木赤彦)、サヤケカリコソ(齋藤茂吉)、キヨラケクコソ(折口信夫)、マサヤカニコソ(沢瀉久孝)

このほかにもキヨクテリコソ、スミアカリコソ、サヤケシトコソ、サヤケクモコソ、サヤケカリコソ、マサヤケクコソ、マサヤケミコソ、などの読み方がある。これを整理してみると、つぎのようになる。

「清」 スミ、アキラカ、サヤカ、マサヤカ、キヨシ、キヨラカ、
 「明」 アカキ、アカリ、テル、 

齋 藤茂吉は「ここは、スミ・アカク、或は、キヨク・テリ、或は、キヨク・アカリの如く小きざみになつては、一首の堂々たる声調を結ぶことが出来ない」として、「サヤケカリコソ」と読むことを提案している。茂吉はまず歌の解釈はかくあるべしとして、あるいは万葉歌の調べはかくあるべしとして、従ってこの歌はこのように読むべきであるとしている。佐々木信綱、齋藤茂吉、折口信夫などの諸家がそれぞれの解釈を示している。原本の「清明」は、音ではなく訓で書かれているために、いく通りもの読み方が可能になる。現代の歌人や万葉学者は、自分の心のなかに万葉歌のあるべき格調、姿を思い描いて、天智天皇の歌にもとづいて、我が心の万葉歌を詠んでいるようにもみえる。

 万葉集には 「清明」という用例はほかにはない。高木市之助によれば「きよし」ということばは、万葉集では音仮名によるもののほかに、「浄」、「不穢」、「清」などと 書かれている。また、「さやけし」は、「浄」、「明」、「亮」、「清」などと書かれている。使われ方の頻度を表で示すと、つぎのようになる。

        音仮名   浄   不穢   清   明    亮      計
  「きよし」  21   5    1  56             83
 「さやけし」 11   2       30   1   1     45
            「萬葉集に於ける清なるもの」(『吉野の鮎』所収)より作成

「きよし」というのは川、浜、瀬などによく使われる。「吉欲伎月夜尓」(万3900)「伎欲伎都久欲仁」(万4453)のように、「きよきつくよに」と月を清 いという用例もある。「さやけき」も川などに使われることが多い。「川見れば 左夜気久清之」(万3234)では川を「さやけくきよし」と詠んでいる。 「まさやか」は「色深く 夫(せな)が衣は 染めましを 御坂たばらば 麻佐夜可尓美無」(万4424)のように、衣の色が「まさやか」である、というように用いられている。

漢 字の「清」と「明」は意味が近い。万葉集でも「不清」を「おほほしく」(万982)と読み、「不明」もまた「おほほしく」(万1921)と読みくだしてい る例がある。「山川乎 清清」という用例もあって、これは「山川を 清(きよ)み清(さやけ)み」(万907)と読みくだしている。しかし、これとても 「川見れば さやけく清し」のように「山川を さやけく清(きよ)み」と読むこともできる。訓読の漢字は、いわば漢語の日本語への翻訳だから、さまざまな 読み方が可能であり、日本語としての読み方はひとつに確定し難い。

記 紀万葉時代の「清」には「すがし」という読みもある。古事記には「清明」という文字が使われている。須佐之男命が天の安の河で天照大御神と誓約を交わし、 天の石屋戸で勝ちさびるところで「我心清明」といったのがそれである。本居宣長は『古事記伝』でこれを「我が心アカキ」と読ませている。最近の学者は「我 が心キヨクアカシ」と読んでいる。須佐之男命は、出雲の須賀の地に着いたときに、「我御心須々賀々斯」といっている。これは音で書かれているから、「我が み心スガスガシ」とよむことは間違いない。日本書紀では同じところが「吾心清清之」という表記になっている。日本書紀の「清清之」は、古事記と同じ場面だ から、「スガスガシ」と読むのが自然であろう。

「清」の古代中国語音は清[tsieng] である。性[sieng] を性(セイ・さが)と読むことからして、清(セイ・すが)という読み方があってもおかしくない。日本の古地名でも相模(さがみ)、香美(かがみ)、香山(かぐやま)、當麻(たぎま)のように、相[siang]、香[xiang]、當[tang]など中国語韻尾の[-ng]はガ行で読んでいる。中国語の韻尾[-ng]は古代中国語音では[-g]に近かったのである。しかし、人麻呂の歌は「清明」を「すがらけくこそ」と読む提案は誰もしていない。「すがらけくこそ」では歌の調子がととのわず、万葉秀歌にはふさわしくないからであろう。

音読の漢字で書いた歌では、大伴家持の歌に「磯城島(しきしま)の 倭の国に 安伎良気伎 名に負う伴の緒 こころ努めよ」(万4466)という歌がある。字音で表記されているから、万葉の時代に「あきらけき」 ということばがあったことが確かめられる。記紀歌謡のように字音だけで書いた歌は当時の日本語の姿を復元できるが、漢字の本来の意味を生かして、訓で書いた万葉集の歌が、むしろ解読できなくなってしまっている。
 
 万葉集にはこのような歌が4516首もあるのだから、解読は容易ではない。万葉集は最後の歌が大伴家持が天平宝字三年正月(759年)に詠んだ歌であることから、そのころに編纂されたと考えられている。しかし、天智天皇の「わたつみの とよはたぐもに いりひさし こよいのつくよ 清明けくこそ」が作られたのは万葉集の編纂よりも百年も前のことである。この歌の詞書には「右の一首の歌、今案ずるに反歌に似ず。ただし、旧本この歌をもちて反歌に載す。故に今なほ此次に載す。」とある。万葉集の編纂者にもすでにこの歌の位置づけがよくわからなくなってしまっていたのである。

第025話 万葉集を解読する

万葉集の漢字の使い方には、大きく分けて三つの方法がある。

1.古事記や日本書紀の歌謡のように漢字の音だけを使って表記したもの。
2.漢字の訓を使って表記し、日本語の助詞、活用語尾などを音訓で書き加えたもの
3.訓のみを使って表記し、助詞、活用語尾などは表記しないもの。

漢字の音だけを使って表記したものは、万葉集20巻のうち巻5、巻14、巻15、巻17、巻18、巻20に多い。東歌、防人歌など万葉集の編者が採取したと思われる歌は、ほとんどが音だけで記されている。大伴家持など後期の作家の作品にも、音表記が多く用いられている。

漢 字の訓を生かして表記し、日本語特有の助詞や活用語尾は音借で表記した2番目の表記法は万葉集研究者の間では常体と呼ばれて、万葉集では最も多く使われて いる。助詞や活用語尾の添加は時代がさがるにしたがって緻密になる。このような書記法は朝鮮半島で行われていた吏読と共通である。

3 番目の表記法は一般に略体と呼ばれている。巻10、巻11、巻12に多く、「人麻呂歌集」など万葉集成立より前の段階の表記法を、受け継いでいるものと考 えられている。略体という名称は、現代の日本語表記法を基準にして省略があるために名づけられたもので、動詞の活用語尾や助詞などを補ってはじめて日本語 として読むことができる。中国語では用言の活用がなく、助詞も発達していないから、中国語を母国語とする人にとってはあたりまえの表記法ということもでき る。このような表記法は朝鮮半島では誓記体と呼ばれている。

同じ万葉集のなかに、このように多くの表記法が用いられていること自体が、漢字で日本語を表記するということが、万葉人とっていかに困難なことだったかを雄弁に物語っている。

1.音表記を主として用いた歌としては、つぎのようなものがある。

  余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理(万793)
  大伴旅人
  銀母 金母玉母 奈爾世武爾 麻佐禮留多可良 古爾斯迦米夜母(万803)山上憶良
 筑波禰爾 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉児呂我 爾努保佐流可母(万3351)東歌

これらの歌は、つぎのように読むことができる。

世の中は 空(むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
 銀(しろがね)も  金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
 筑波嶺(つくばね)に 雪かも  降らる 否(いな)をかも 愛(かな)しき児ろが
 布(にの)乾さるかも  

音で表記されているため、読み方についてほとんど異説はありえない。東歌や防人歌は音で表記されてものが多く、万葉の時代の方言音を留めている。「筑波嶺に、、、」の歌は東歌で、関東地方の訛がそのまま表記されている。降る「降らる」、子ら「児ろ」、布「にの」などは、当時のお国訛を写している。

 この歌は唐代の中国語音である、いわゆる中古音で復元してみると、およそつぎのようになる。復元にあたっては中国の言語学者、王力の『同源字典』をもとにしながら、広韻、『韻鏡』など唐代の中国語音を参考にして、若干の修正を加えてある。

[中国中古音]
  余 能    奈  可    波
jia・ nə ・ nai・ khai・ puai

牟   奈  之 伎  母   乃  等
 miu・ nai・ tziə・gie・ mə・   nə・ təng 

志  流  等  伎  子
 tjiə・ liu・ təng・ gie・ tziə

伊   与  余 麻  須  万  須
 iei・ jia・ jia・ mea・ sio・ muan・ sio  

加  奈  之  可  利  家  理
 keai・ nai・ tziə・ khai・ liei・ kea・ liə

万葉集の時代の日本語には八つの母音があったと考えられている。国語学者の研究をもとに、万葉集の時代の日本語音はつぎのようなものだったと考えることができる。(甲)、(乙)は母音の区別を示す。

[万葉時代の日本語音]
よ(乙)の(乙)な かふぁ むなしき(甲)もの(乙)と(乙)  しると(乙)き(甲)しいよ(乙)よ(乙)ますます
かなしかりけり

山上憶良の歌は、つぎのように復元できる。

[中国中古音] 
  銀  母  金 母  玉  母
銀・ mə ・ 金・ mə・ 玉・ mə 

奈 爾 世 武   爾
 nai・ njiei・ sjiai・ miua・ njiei

麻 佐 禮 留 多 可 良
 mea・ tzai・ lyei・ liu・ tai・ khai・ liang

古 爾 斯 迦 米 夜 母
  ka・ njiei・ sie・ keai・ myei・ jya・ mə

 [万葉時代の日本語音] 
  銀も 金も玉も なにせむに まされるたから こ(甲)に しかめ(乙)やも

東歌を同じ方法で復元すると、つぎのようになる。

 [中国中古音]
筑 波 禰   爾   由  伎 可 母 布  良 留  
 tiok・puai・nyei・ njiai・ jiu・ gie・ khai・ mə ・ pa・ liang・ liu

伊   奈 乎   可   母
 iei・ nai・ ha・ khai・ mə

加  奈  思   吉   児 呂 我
keai・ nai・ siə ・ kiet ・ 児・ lia・ ngai

爾 努 保 佐 流 可 母
 njiei・ na・ pu・ tzai・ liu・ khai・ mə

[万葉時代の日本語音] 
  筑波ねに ゆき(甲)か もふらる いなをかも かなしき(甲)こ(甲)ろ(乙)か゚  
 にの(甲)ふぉ さるかも

 音だけによる表記は訓表記に比べて読み誤ることがないように見えるが、古代の中国語音と対応させてみると、漢字を日本語にあてはめるのがいかに困難だったかがよく分かる。万葉集の時代の日本語は、ハ行が中国語の/p-/ で書き表されている。当時の日本語のハ行は「ふぁ、ふい、ふ、ふぇ、ふぉ」だったものと考えられる。中国語では子音と母音の間に/i/、/u/、/iu/、などのわたり音(介音)が入ることがある。これは日本語にはない音である。また、中国語には/-m/、/-n/、/-ng/や/-p/、/-t/、/-k/など子音で終る音節がある。等/təng/、万/muan/、良/liang/ 、吉/kiet/ は日本語では「と(乙)」、「ま」、「ら」、「き(甲)」に用いられていて、中国語の韻尾は失われている。中国語音と日本語音との対応を整理してみるとつぎのようになる。

○ わたり音(介音)が失われている例。
  加/keai/ か、迦/kea/ か、波/puai/ は、麻/mea/ ま、万/muan/ ま、良/liang/ ら、須/sio/ す、
 牟/miu/ む、留/liu/ る、流/liu/ る、世/sjiai/ せ、禰/nyei/ ね、米/myei/ め(乙)、 禮/lyei/ れ、由/jiu/ ゆ、
 呂/lia/ ろ(乙)、
 古代日本語は二重母音を避ける傾向があったから、主母音を生かして中国語のわたり音は、多く の場合失われた。

○ わたり音(介音)が生かされている例。
    伊/iei/ い、伎/gie/ き(甲)、 之/tziə/ し、志/tziə/ し、子/tziə/ し、斯/sie/ し、思/siə/ し、爾/njiei/ に、   利/liei/ り、理/liə/ り、武/miua/ む、家/kea/ け、
   主母音があいまい音の/ə/ のときは/i/ 介音のほうが生かされる傾向がある。

○ 韻尾の/-n/、/-ng/ が失われている例。
    万/miuan/ ま、等/təng/ と(乙)、 良/liang/ ら
   日本語の音節は母音で終る開音節なので、中国語韻尾の/-n/、/-ng/ は失われた。

○ 韻尾の子音(入声音)が失われた例。
   吉/kiet/ き(甲)、
  地名の「筑波」の場合は、筑/tiok/の韻尾/-k/は保たれている。日本の古地名は古い中国語音の痕  跡を留めていたものと思われる。中国語の入声音/-p/、/-t/、/-k/は、現代広東語では残っている   が、北京語では元の時代以降失われた。

2.万葉集の表記では、音と訓をまじえて書いた歌が最も多い。音と訓を使い分けた歌の例としては、つぎのようなものがある。

三吉野之 耳我嶺爾  時無曾 雪者落家留 間無曾  雨者零計 類 其雪乃 時無如 其雨乃
  間無  如 隈毛不レ落  念乍叙来 其山道乎(万25) 天武天皇

君之行 気長久成奴 山多豆乃  迎乎将レ徃 待爾者不レ待(万90) 衣通王

未通女等之 袖振山乃  水垣之 久時従  憶寸吾者(万501) 柿本人麻呂

これらの歌は一般につぎのように読みくだす。

三吉野の 耳我の嶺に  時無そ 雪は落(ふり)ける 間無そ  雨は零(ふり)ける 其雪の 時無が如 其雨の 間無が如 隈(くま)も落(おち)ず 念(おもひ)乍ぞ来し 其山道を

君が行き 日(け)長く成ぬ 山たづの  迎を行かむ 待には待たじ

未通女(をとめ)等が 袖振山の  水垣の 久しき時ゆ  憶(おもひ)き吾は

  これらの歌における漢字の使い方は、朝鮮半島における吏読、あるいは郷歌の漢字の使い方とほ とんど同じである。漢字の音と訓を混用しながらこの歌が読め るのは、名詞、動詞など主として 意味を伝える部分は訓で表記して、助詞、活用語尾などは、主として音仮名で表記するという規 則が、暗黙のうちに了解されているからである。

○ 訓読みの名詞、動詞などの例。
  三吉野(みよしの)、耳我嶺(みみがのみね)、時(とき)、無(なく)、雪(ゆき)、
 落(ふる)、如(ごと)、間(ま)、雨(あめ)、零(ふる)、隈 (くま)、落(おちる)、  念(おも ふ)、来(くる)、山(やま)、道(みち)、君(きみ)、行(ゆく)、
 長(ながい)、迎(む かへ)、往(ゆく)、待 (まつ)、未通女 (をとめ)、
 袖振山(そでふりやま)、水(みづ)、垣(かき)、久(ひさしい)、憶(おもふ)、
 吾(われ)、

○ 訓借の助辞などの例。
    之(の)、之(が)、者(は)、其(その)、不(ず)、不(じ)、乍(つつ)、将(む)、   等(ら)、従(ゆ)、寸(き)

○ 音読みの助辞などの例。
  爾(ニ)、曾(ソ)、家留(ケル)、計類(ケル)、乃(ノ)、毛(モ)、叙(ゾ)、
 乎(ヲ)、久(ク)、奴(ヌ)、

○ 音借の名詞の例。
    氣(ケ)

 気長久成奴(けながくなりぬ)の氣「ケ」は「日」の意味に使われている。現代の日本語でも二日(ふつか)、三日 (みっか)というときは、「日」をカ行で発音する。「日長久成奴」と書いたのでは「ひながくなりぬ」と読めてしますので「気」としたのであろう。

日本漢字音では「日」は呉音が日(ニチ)、漢音が日(ジツ)とされている。日(ひ)は訓なのだろうか。日(か)も訓なのだろうか。日本語の日(ひ)は現代朝鮮語の日(hae)と同源である。朝鮮語のhは喉音であり、日本語では一般にカ行であらわれる。「韓国」の韓(han)、「漢字」の漢(han) などは、日本語では韓(カン)、漢(カン)となる。しかし、弥生時代の日本語では日(hae) はハ行であらわれた。したがって、日(ひ)が古く、日(カ)あるいは日(ケ)のほうが新しい。

朝鮮語の日(hae)は古代日本語では「ひ」として「やまとことば」のなかに定着した。しかし、8世紀になると日本語のハ行は唇音の「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」に変わってしまったので、朝鮮語の喉音hは、日本語では調音の位置の近い、カ行で発音されるようになったと考えることができる。

一方、日本語の火(ひ)は古代中国語からの借用語である。「火」の古代中国語音は火[xuəi] であり、「火」も「火事」などのように、音読すると火(カ)になる。古代中国語の火[xuəi] は弥生時代には、日本語では火「ひ」として借用され「やまとことば」のなかに定着した。ところが、日本語のハ行が脣音の「ふぁ」に移行したため、中国語の喉音[x-] は調音の位置の近いカ行音に移動した。日本語の日(ひ)は訓であり、日(か)も訓である。火(ひ)は訓であり、火(カ)は音である。しかし、日(ひ)は朝鮮語と同源であり、火(ひ)は中国語からの借用語である。古代日本語では「日」は「ひ(甲)」であり、「火」は「ひ(乙)」で区別されていた。これを整理してみると、つぎのようになる。

古代中国語音 朝鮮漢字音 朝鮮語訓 日本漢字音 日本語訓
   日 [njiet] il      hae    ニチ・ジツ   ひ(甲)・か
  火 [xuəi] hwa     pul     カ         ひ(乙)

3.訓のみによる表記の例。
  万葉集には訓だけを使って、助辞や活用語尾を添記しない表記が、人麻呂歌集の歌などに多く見  られる。

戀死 戀死哉 我妹 吾家門 過行(万2401)

狛錦 紐解開 夕谷 不レ知有命 戀有(万 2406)

足常 母養子 眉籠 隠在妹 見依鴨(万2495)

これらの歌は助辞などを加えてつぎのように読む。

戀死なば 戀も死ねとや 我妹子(わぎもこ)が 吾家(わぎへ)の門(かど)を
     過ぎて行く らむ

高麗錦 紐解き開け て 夕(ゆふべ)だに 知らざる命 戀つつかあらむ

たらちねの 母が養 (か)ふ蠶(こ)の 繭隠(まよごもり) 隠れる妹を
     見むよしもがも

  このような表記法を万葉学者は略体とか古体と呼んでいる。この表記法は古代朝鮮における誓記体と同じである。人麻呂歌集では徹底して訓のみを使って歌を記 録しようとしている。万葉集の人麻呂の歌をくわしく見ると、正訓(やまとことばを漢字の義をとってあてはめたもの)と借訓(「鶴鴨」をやまとことばの「つ るかも」にあてるなどのように、漢字の正訓を借用してやまとことばを表記したもの)、朝鮮語読みなどがある。
 [正訓] 戀(こひ)、哉(や)、家(いへ)、門(かど)、過(すぎ)、狛(こま)、
    錦(にしき)、紐(ひも)、解(とく)、開(あけ)、夕(ゆふべ)、不(ず)、
有(ある)、命(いのち)、母(はは)、養(かふ)、子(こ)、籠(こもる)、
隠(こもる)、在(ある)、見(みる)、
[借訓] 谷(たに)、常(つね・ちね)、眉(まゆ)、依(よし)、鴨(かも)、
 [朝鮮語読み] 足(たる)、
 
 「足」は現代朝鮮語でも足(ta-ri) である。足(たる)あるいは足(たり)と読むのは朝鮮語からの訓借である。朝鮮半島から渡来した史(ふひと)が朝鮮語の訓として慣用していたものを、そのまま日本語のなかに受け継いだものである。
訓のなかには、弥生時代、あるいは古墳時代に「やまとことば」のなかに取り入れられて、記紀万葉の時代には日本語のなかに同化してしまった中国語音も含まれている。      
 [弥生音] 死[siei] しぬ 、 我[ngai] あ・わが、吾[nga] あ・わが、行[heang] ゆく、知[tie] しる、      常[zjiang] つね・ちね、妹[muəi] いも、

○ 死(しぬ)の語幹は中国語と同音同義であり、日本語の「死」は中国語の死[siei]を動詞として活用させたものである。

○ 我(あ)、吾(あ)は古代中国語の我[ngai]、吾[nga] の声母[ng-] が失われたもので、朝鮮漢字音の影響が認められる。朝鮮漢字音では「我」、「吾」は我(a)、吾(o) である。我(あ)、吾(あ)はいずれも弥生時代に朝鮮半島を経て「やまとことば」に入ってきたことばであることがわかる。

○ 行(ゆく)は古代中国語音の行[heang]の頭音hが失われたものである。中国語の喉音h日本語ではカ行音であらわれることが多いが、はしばしば失われる。例:絵[huai](え・カイ)、会[huai](あう・ゴウ)、合[həp] (あう・ゴウ)、恵[hyuei](え・ケイ)などである。なかには黄[huang](コウ・オウ)のようにh音のある読み方とh音の脱落した読み方の両方が残っている場合もある。また、軍[hiuən](グン)・運[hiuən](ウン)のように同じ声符の漢字が二通りに読みわけられる場合もある。

○ 知(しる)は知[tie]が摩擦音化したものであり、常(つね)は常[zjiang]の中国語の頭音が口蓋化する前の姿を留めている。

○ 妹(いも)は中国語の妹[muə i]の前に母音が添加されたものである。同じような例は梅[muə]が梅(むめ・うめ)、馬[mea]が馬(むま・うま)などがある。

助 詞や助動詞の大部分が文字化されない表記法を、齋藤茂吉は「手控え」と名づけた。「手控え」というのは、作者自身が手控えのために、簡潔に書き留めておい たものであるという趣旨である。万葉学者は「略体歌」といい、「馬上体」あるいは「枕上体」とも呼んでいる。「略体歌」というのは、助辞や活用形を添記し た「非略体歌」に対していうもので、本来あるべき助詞や活用語尾が省略されているという意味がこめられている。「馬上体」、「枕上体」は、馬上での手控 え、枕上での手控えという意味で、齋藤茂吉の「手控え」と同じ趣旨である。これを仲間に見せるとか、歌集に入れるときには浄書する。メモ書きだから助詞や 助動詞を省略したのだという見方である。いずれの説も現代の漢字仮名混じり文を完成された形と見なして、万葉集の表記は未完成な形だとしている点で一致している。

これにたいして稲岡耕二は、略体歌は非略体歌より古い形であるとして「古体歌」と名づけた。

古体歌に付属語表記が極端に少ないのは、文字化の方法をすでに獲得した上でこれを省略したのではなく、日本語そのものの分節化の度合いに対し、表記の分節化 が未熟なのである。(『人麻呂の表現世界』p.26)

古体歌の表記を、新体歌までの不完全な段階のように考えるのは誤りである。新たな歌の表記として、それ自体工夫を凝らしたもので、新体歌から仮名書きの付属 語を削除すれば古体歌になるというわけではない。(『人麻呂の表現世界』p.123)、

 日本語を漢字で表記する方法は、朝鮮語を漢字によって表記する方法にならって発達してきたものである。日本語を漢字で書く仕事に最初に取り組んだのは、朝鮮半島からき た史(ふひと)たちである。略体歌は朝鮮半島で用いられた誓記体という表記法を日本語に転用したものであり、「手控え」とはいえない。

「戯書」も、戯れに書いたものというよりは、漢字を使って外国語を表記するためにあみ出された、史たちの苦肉の策、あるいは懸命な努力のあらわれとみるべきで あろう。日本語は漢字によって文字を獲得した。しかし、中国語専用のために作られた漢字で文法や音韻の構造の異なる日本語を表記するためには、史(ふひ と)たちは一足先に漢字文化圏の仲間入りをした朝鮮語の表記を参考にしつつも、荒馬を馴らすごとく、日本語という新しい言語に手なずけなければならなかっ た。その悪戦苦闘の痕跡が万葉集には余すところなく残されている。

第026話 万葉集は誰が書いたか

『古事記』の編者は太安万侶だとされている。『古事記』には太安万侶の序がある。しかし、『万葉集』の編者は不明である。万葉集最後の歌が大伴家持の歌である ことから、編者は大伴家持であろうというのが通説である。万葉集最後の歌は天平宝字二年(758年)正月に大伴家持が詠んだ歌である。

  新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(万4516)
 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)

万葉集第一番目の歌は泊瀬朝倉宮(雄略天皇)の歌とされているから、万葉集の歌は五世紀後半から八世紀後半まで約三百年にわたる歌のなかから選ばれていることになる。万葉集の時代には文字を使うことのできる人は限られていた。東歌や防人の歌は作者が文字化したものではなく、史(ふひと)が記録したものであろう。また柿本人麻呂の歌も漢字の訓だけを使って助詞などは記されていないもの、吏読のように日本語の助詞や活用語尾を書きくわえてあるものなど、さまざまな書記法が使われているので、万葉集の編者はさまざまな史の手を経て伝えられた歌を万葉集に載せたのであろう。雄略天皇の歌な古事記や日本書紀の歌謡にいくつか載録されているが、使われている漢字の音価を詳細に調べてみると、万葉集の歌の史と記紀歌謡の史の漢字の使い方は違う。三百年もの間には同じ漢字でも読み方が変わってしまう。

万葉集の歌を実際に漢字で記録したのはどのような人だったのだろうか。国語学者の橋本進吉の著作に「万葉集は支那人が書いたか」という一文がある。

三十餘年前のことであるが、或高等學校の文科の學生であつた某氏が、國語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を發したといふ話を聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の學者でもどうかすると閑却しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧、意味深長なものがあるのではあるまいか。
 右の某氏は、萬葉集が漢字で書いてあるのを見てこのやうな質問を發したのであらう、勿論萬葉集が支那人の著でない事は疑ふ余地が無い。しかし當時の日本人は、文字としては漢字の外に知らなかつた のであつて、この點において支那人と同様であつたばかりでなく、又當時は正式な文としては漢文の外になかつたのである。苟も文字あるものは多少漢籍又は佛 典を學び、文を書く場合には未熟であつても漢文を書いたのである。英文が英語の文であると同じく、漢文は支那語の文である。たとひ日本人が書いたものであつても、必ず支那人が書いたものと同様に、支那人には理解せらるべきものである。當時我國で漢文をどんなによんでゐたかは未だ確かにはわからないが、もし 全部音讀したとすればそれは言語としては支那語であり(發音の正しくない爲、支那人が聞いてはわからない所があつたかも知れないが)、もし現代に於けるごとく、音讀せずして訓讀ばかりしてゐたとしても、日本人が書いた漢文を支那人が讀めば、立派に支那語になるべきものである。たとひ未熟な爲に破格な文となつて支那人にわからない所が出來たとしても、ブロークンでも英語は英語であると同じく、漢文はやはり支那語の文であつて、決して日本語を冩した日本の文ではない。(中 略)
かやうに考え來れば、かの某氏の問は、必ずしも愚問として棄て去るべきでは無い。之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。(『上代語の研究』p.32)

  橋本進吉は『上代特殊仮名遣』を著わし、奈良時代の日本語には、母音が五つではなく、八つあったことを発見した大学者である。確かに万葉集は全部漢字で書かれている。しかし、漢字で書かれているからといって、全部漢文であるわけではない。題詞の部分は 漢字で書かれていて、日本人が読んでも中国人が読んでも意味を理解することはできる。歌の部分は漢字を借用して日本語を表記しているので、中国語としては 読めない。 

記紀万葉の時代の日本語を漢字で表記したのは、朝鮮半島から渡来した史(ふひと)たちであった。彼らの多くは中国人の末裔であると主張していた。漢字こそが 中国文明の真髄であり、史は文字によって中国文化をになうことを誇りとしていた。史は世襲性であった。史はアジアで唯一の文字文化を構築した中国人の末裔 でなければならなかった。

それではなぜ、橋本進吉にとって「万葉集は中国人が書いたか」という設問が重要だったのだろうか。万葉集が日本人のアイデンティティを支える、日本的なるものの象徴であり、日本人以外の誰が書いたものであってもならない、という暗黙の前提がであったからである。万葉集は混じりけのない「やまとことば」で書かれている。だから、「万葉集は中国人が書いたか」という設問自体が逆説であり、「いや、決してそんなことはない、日本人以外に万葉集は書けるはずがない」という意味がこめられている。橋本進吉は「万葉集は支那人が書いたか」の結論として「之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。」としているだけで、万葉集を書いたのは日本人であるとも、中国人であるともいっていない。

 万葉集は誰が書いたのだろうか。万葉集最初の歌は雄略天皇の歌だと伝えられている。万葉集の歌は次のように記されている。

籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目  家呼毛名雄母

ほとんどが一字一音の漢字で書かれていて、次のように解読されている。

籠(こも)よ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岳(をか)に 菜(な)つます児(こ)家聞かな 告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそは座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも (万1)

日本で文字の普及が顕著にみられるようになるのは五世紀後半の雄略朝のころである。埼玉県行田市で昭和43年に稲荷山古墳から鉄剣鉄剣が発見された。当時こ の鉄剣はサビで覆われており、文字の存在はまったく気づかれないでいた。十年後の昭和五十三年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理 中に判明した。その銘文は次のようなものである。

(表)辛亥七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名
            多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王在斯鬼
         宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

この銘は次のように解読されている。

(表)辛亥の年七月に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ、その子はタカリの宿祢。 その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。そ        の子の名はハテヒ。

(裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(おびと)として   仕え今に至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき、吾は天下を治めるのを補   佐した。此の百錬の利刀を作らしめ、吾が仕えてきた事の由来を記す。

こ の鉄剣には「辛亥年七月に記す」という紀年が刻まれている。辛亥年は471年(または531年)で、五世紀末か六世紀の初めのものだと考えられる。銘文の 主人公はヲワケ(乎獲居)で、ワカタケル(獲加多支鹵)とあるのは雄略天皇のことである。この鉄剣の銘は五世紀の歴史を理解するうえでの定点ともいうべき ものである。雄略天皇が中国に使節を送り中国の皇帝に上表文を届けたことが中国側の文書である『宋書倭国伝』に伝えられている。その文面は漢文で書かれて いる。

 封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廊土遐畿累葉朝宗不愆于歳(宋書倭国伝)

雄略天皇が使節を遣わしたのは順帝の昇明二年(476年)のこととされている。これを読みくだすと概略つぎのようになる。

封 国(倭国)は偏遠にして藩を外になす。昔から祖禰(父祖)みずから甲冑をきて、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆 夷を服すること六十六国、渡って海北を平らげること九十五国、王道は融泰にして、土をひらいて畿をはるかにした。代々、中国に朝宗(天子に拝謁し帰服) し、歳をたがえることがなかった。

 雄略天皇は使持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙すことを求めている。この文章は完全な漢文で書かれている。万葉集の成立から300年も昔のことである。雄略天皇の歌は万葉集第九巻の冒頭にも一首おさめられている。

 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜(万1664)

 この歌は次のようによみくだす。

  夕されば 小椋の山に 臥(ふ)す鹿は 今夜(こよひ)は鳴かず 寝(い)ねにけらしも

この歌は訓を主体の表記法で、日本語の助詞や活用語尾を補っている。者(ば)、尓(に)、者(は)、家良霜(けらしも)があるから日本語として読み解くことができる。万葉集第一巻冒頭の歌が、ほとんど漢字一字に日本語の音節ひとつが対応しているのといい対照をなしている。

雄 略天皇の歌は古事記や日本書紀の歌謡にもいくつか載録されている。記紀の歌は音だけを使って記録されている。古事記、日本書紀にはそれぞれ120首あまり の歌謡が載録されているが、そのうち50首あまりは同じ伝承の歌である。雄略天皇の歌も古事記の伝承と日本書紀の伝承は一部重複している。上段が古事記、下段は日本書紀である。

  美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 多禮曾○○○○ 意富麻弊爾麻袁須
 野麼等○能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 柁例柯擧能居登 飫裒麻陛儞麻嗚須

  夜須美斯志和賀淤富岐美能 斯志麻都登 ○○○○○○○ ○○○○○
 ○○○○○○○飫裒枳瀰簸 ○○○○○ 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能

阿 具良爾伊麻志 斯漏多閉能 ○○○○○○○ ○○○○○ ○○○○○○
 阿娯羅儞陀々伺 絁都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々磨都登 倭我伊麻西麼

○○○○○  ○○○○○○ 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐都岐○
 左謂麻都登 倭我陀々西麼 ○○○○○○ 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳都

曾 能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 ○○○○○ ○○○○○○○○○
 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞麼都羅符

○○○○○○○○  加久能碁登 那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁
 儺我柯陀播於柯武 ○○○○○ ○○○○○○ ○○○○ ○○○○○○○

阿 岐豆志麻登布○○○
 婀枳豆斯麻○○野麻登

古事記の伝承と日本書紀の伝承は多少違うが、古事記にしたがって読み下すと次のようになる。

御吉野の 小牟漏が嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に申す やすみしし 吾が大君の
猪鹿(しし)待つと 呉床(あぐら)にいまし しろたへの 袖着具(そな)ふ たこむらに
虻かきつき その虻を蜻蛉早ぐひ かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ。

雄 略天皇の歌は古事記に4首、日本書紀に2首のっている。古事記、日本書紀ともに歌謡は音のみを使って記している。古事記歌謡と日本書紀歌謡は伝承が違うばかりでなく、表記の体系が違う。日本書紀の歌謡では濁音が清音に使われていることが多い。賊(そ)、題(て)、陀(た)、謀(も)などである。古事記で 「阿牟」とあるところは、日本書紀では「阿武」と表記している。「多古牟良爾」は日本書紀では「陀倶符羅爾」となる。

 もっとも注目されるのは「が」の表記である。古事記では「和賀淤富岐美能」のごとく「賀」が用いられているが、日本書紀では「倭我伊麻西麼」「倭我陀々西麼」「儺我柯 陀播於柯武」のように一貫して「我」が使われていて「賀」は使われていない。これは雄略天皇だけに限られたものではなく、記紀歌謡を通していえることである。古事記歌謡では賀が142回、何が4回使われている。それに対して日本書紀歌謡では餓が63回、我が40回、峨が1回使われている。これらの日本漢字 音はいずれも「が」だが、中国語原音は違っている。賀[hai]何[hai]は喉音であり、餓[ngai]・我[ngai]・峨[ngai]は鼻濁音である。つまり古事記の史(ふひと)は一貫して喉音を日本語の「が」にあてており、日本書紀の史は一貫して鼻濁音を日本語の「が」にあてている、ということになる。

 古代日本語では濁音が語頭に立つことはなかった。「が」も語中、語尾のみにあらわれる。朝鮮漢字音では我は頭音が脱落して我(a)となる。古事記の史は鼻濁音が脱落する、朝鮮語系の音韻体系をもっていたために我を使わなかった可能性がある。日本書紀の史は唐代の正音を身につけており、鼻濁音を発音できたから日本書紀歌謡の表記に鼻濁音の「我」を日本語の「が」に使うことができたのであろう。

 いずれにして も、雄略天皇が上表文に正式な漢文も書き、万葉集の音訓を交えた日本語文を書き、古事記、日本書紀という違った音韻体系をもった文書に自分の歌を自分の手 で書いたものとは考えられない。史(ふひと)には百済系、高麗系などさまざまな背景をもった人たちがいた。日本書紀には阿直岐史をはじめ船史(ふねのふび と)、白猪史(しらゐのふびと)、津史(つのふびと)などが登場して、徴税や外国からの賓客の接待にあたっている。

 なかでも、敏 達元年5月のこととして語られている、高麗の使節からの表䟽(ふみ)をもろもろの史を集めて読み解かせたが、誰も読み解くことができなかったという話は興 味深い。結局船史の祖である王辰爾のみが読み解くことができたという話で、烏の羽に書いてあったから読めなかったという話になっているが、史といえどもすべての表記法に通じていたわけではないことを物語っている。

 万葉集にはさ まざまな表記法が併用されている。柿本人麻呂の歌は人麻呂が書写し、雄略天皇の歌は雄略天皇が漢字を選んで書いたとするのは無理がある。万葉集は三百年に わたる時代の歌を大集成している。日本語としての表記法が成熟していなかった時代にはさまざまな表記法が試みられた。それをまとめえたのは史(ふひと)た ちのみであったろう。史の多くは朝鮮半島からの渡来人であった。しかし、渡来人も出張期間が過ぎると母国へかえって行くという人びとではなく、二世三世になると日本の文化をささえる中核となる日本人になっていった。そして、在来からの日本人も渡来の漢字文化を受け入れて律令国家を形成していった。

第027話 万葉集は中国語で書かれているか

万葉集は漢字だけで書かれている。詞書の部分は漢文で書かれているので中国人が読んでもわかる。しかし、歌は日本語で歌われたものを漢字で表記したのだから、その表記法に通じていないと解読できない。例えば万葉集巻1にある額田王の歌は次のように書かれている。

  天皇遊獦蒲生野逝時額田王作歌
 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流(万20)

  皇太子答御歌
 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方(万21)
  紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉

  詞書の部分は漢文と同じように読み下せばよい。「天皇が蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌」、「皇太子の答えませる歌」となる。皇太子はこの場 合、後の天武天皇である。「紀に曰く、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野に従猟したまいき。時に大皇の弟、諸王、内臣と群臣、悉く皆これに従ひき」と読める。歌は日本語を漢字で表記したものだから、漢字で書かれていても中国人には読めない。

  茜(あかね)さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 吾恋めやも

  名詞や動詞などの中核となる概念には主に訓をもちい、助詞や動詞の活用などは音を使って表記されている。中国人が読んだとしても「茜草、野、逝、標野、 行、野守、見、君、袖」「紫草、妹、人嬬故、吾戀」くらいは察しがつくかもしれない。しかし、残余の部分は日本語を知らないと解読できない。

  万葉集にはさまざまな表記法がもちいられていて、助詞などが表示されていないものもある。初期の人麻呂歌集は、日本語の助辞が書き添えられていないので、 中国語の影響があるのではないかと考える専門家もいる。略体歌あるいは古体歌と呼ばれる歌は『人麻呂歌集』を含む巻7、巻9、巻10、巻11、巻12 に多い。しかし、中国語として書かれているわけではない。ちなみに、万葉集の中国語訳である『万葉集精選』(銭稲孫訳、中国友誼出版公司)で比較してみると、つぎのようになる。

[原文]    戀死    戀死哉   我妹    吾家門過行(万2401)
 [中国語訳] 思恋縦云死 亦任死恋思 豈其吾妹子 過門若無知

[原文]   狛錦 紐解開  夕谷不知有命  戀有(万2406)
 [中国語訳] 高麗錦紐帯 不解亦自開 未知我命運  徒思有餘哀

[原文]   足常 母養子 眉隠  隠在妹  見依鴨(万2495)
 [中国語訳] 慈母養嬌娥  深蔵在閨中 如何得見之 蚕蛾蔵繭宮

 もとより、中国語訳は現代の翻訳であり、万葉集が成立した当時に2か国語で併記されたわけではないから、厳密な対訳にはならない。しかし、万葉集の表記のままのでは、現代の中国人に理解できないことは明らかである。

 人麻呂歌集は、訓読の漢字で書き連ねてあり、読む人は文字に現れていない助辞や活用語尾を補って読むという約束ごとなっている。

[原文]    戀死   戀死哉    我妹   吾家門過行(万2401)
 [読み方] 恋死なば 恋も死ねとや 吾妹子が 吾家(わぎへ)の門を過て行くらむ

[原文]   狛錦 紐解開  夕谷不知有命    戀有(万2406)
 [読み方] 高麗錦 紐解き開けて 夕べだに知らざる命 恋つつか有らむ

[原文]   足常  母養子    眉隠     隠在妹    見依鴨(万2495)
 [読み方] 足常の 母がかふこの まよごもり  こもれる妹を 見むよしもかも

中国語では日本語の「てにをは」にあたる助詞はほとんど使わない。しかし、助詞をはぶいたからといって中国語になるわけでもない。また、日本語として読むためには助詞や活用語尾を補わない日本語にもならない。人麻呂歌集の表記法は、漢文でもなく日本文でもない。

こ のような表記法は、漢字による新羅語の表記法である「誓記体」にみることができる。誓記体では語順は新羅語と同じであり、助辞や活用語尾は表記されていな いので、読むときに補って読む。李基文の『韓国語の歴史』(藤本幸夫訳、大修館)によれば、誓記体というのは「壬申誓記石」の碑文から名づけられたもので、そこには次のように書かれている。

壬申年六月十六日 二人幷誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失
天大罪得誓 若国不安大乱世 可容誓之 又別先辛未年七月廿二日大誓 詩尚書礼伝倫得誓三年

朝鮮語は語順が日本語と同じだから、漢字をその順番に訳せば日本語としても読める。

壬 申年六月十六日に、二人が共に誓って記す。天の前に誓う。今より三年後に、忠道を執持し、過失無きを誓う。もし此事を失えば、天に大罪を得んことを誓う。 もし国が安からず大いに世が乱れるならば、よろしくすべからく(忠道を)行わんことを誓う。また別に先に辛未年七月二十二日に大きく誓った。詩経、尚書、 礼記、左伝をを順々に習得することを誓ったが、三年で行った。

 壬申年は 552年(または612年)と推定されているが、いずれにしても万葉集の成立よりかなり古い時代に新羅ではこのような、漢字による新羅語の表記法が行われ ていた。これと同じような表記法の碑文はほかにもいくつか発見されているという。漢字によって自国語を表記しようとする努力は高句麗や百済でも行われてい た。誓記体のほかにも、助詞を漢字で補う「吏読」や、新羅の歌を音と訓をまじえて表記する「郷札」などが知られている。

朝鮮半島から渡来した史は、このような表記法をふまえて漢字による日本語の表記に取りくんだに違いない。『人麻呂歌集』を書いた史もまた「誓記体」を知っていた可能性がある。

第028話 対訳万葉集

●最近、リービ英雄の『英語で読む万葉集』(岩波新書)が注目を集めている。

柿本人麻呂の歌をみてみると次のように翻訳されている。

Plover skimming evening waves
on the Ōmi Sea,
when you cry
so my heart trails
pliantly
down to the past.

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(万266)

万葉集の原文は次のようになっている。

淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所レ念

●あまり知られていないことだが万葉集は中国語や朝鮮語にも翻訳されている。

朝鮮語訳は金思の『韓譯萬葉集』(成甲書房)完訳があり、中国語訳は完訳ではないが銭稲孫の『万葉集精選』(中国友誼出版公司)がある。

 [中国語訳](訳は2種類ある)
之一 淡海之湄、夕波千鳥、汝也嘒嘒、使我心槁、為思古老。
之二 淡海海上、夕波千鳥、你的啼声、沁透我心、■思古老。 ■=忄+不
  [朝鮮語訳](原文はハングル表記)    
    oomi(淡海) hosu(湖水) ui  jeo nyeok(夕) mul gyeol(波) eul
    nal eu(飛) neun mul ttye sae(川千鳥) yeo  ne(汝) ga ul myeon(鳴 く)
     ma eum(こころ) do kop a jyeo yet il(昔日) i saeng gak(思う) na ne 

●日本語の語順は朝鮮語とまったく同じである。日本語の助詞と現代朝鮮語の助詞は形はあまり似ていないが、使われ方は全く同じである。また、使われている場所も同じである。

[日本語]   淡海の海 
[朝鮮語訳] oomi(淡海)hosu(湖水) ui 

[日本語]   夕波千鳥
[朝鮮語訳] jeo nyeok(夕)mul gyeol(波) eul nal eu(飛) neun mul ttye sae(川千鳥) yeo

[日本語]   汝が鳴けば
[朝鮮語訳]  ne(汝) ga ul myeon(鳴く)

[日本語]   心もしぬに
[朝鮮語訳]  ma eum(こころ) do kop a jyeo

[日本語]   昔思ほゆ
[朝鮮語訳]  yet il(昔日) i saeng gak(思う) na ne

 日本語と朝鮮語は語順が同じであり、「てにをは」などの助辞の置かれている位置も同じであることがよくわかる。日本語の語彙のなかにも、中国語や朝鮮語と同源とみられるものがある。

○ 海 古代中国語の「海」は海[xə] である。現代中国語音は上海の海(hai) である。日本漢字音は海  (カイ)であり、朝鮮漢字音は海(hae) である。「海」の声符は「毎」であり、日本語の「うみ」
は中国語の海(hai)あるいは毎(mei)と関係のあることばであろう。現代の上海方言では「毎」は毎  (hmae) と発音され、[m] の前に[h] という入りわたり音が聞こえるという。(宮田一郎編著『上海語常用音字典』光生館)

 現代の北京語音は、上海方言にその痕跡を留める、毎(hmae) の語頭のh が発達して海(hai) とな
り、古代日本語では語頭のh が失われて海(み)となったと考えられる。日本語には喉音がないの
で、中国語音のhは失われやすい。
 海は朝鮮語ではpadaである。万葉集の枕詞などにみられる「わたつみの」は「わた」(朝鮮語の
海 pada) に「み」(日本語の海(うみ))を重ねたもので、新羅の郷歌(ヒヤンガ)などでしば
しば用いられる両点といわれるものである。「つ」は「の」の意味で 「わた(朝鮮語の海)のうみ (日本語の海)の」という修辞的な表現である。朝鮮語のあとに日本語を併記したバイリンガル表 記ともいえる。

○ 浪 「浪」の古代中国語音は浪[lang]である。日本語や朝鮮語などアルタイ系言語では語頭に[l-]    がくることはないという原則があるから、語頭の[l-] は[n-] で代替される。朝鮮語では今でも盧泰愚 (ノ・テウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)のように中国語のlはnに転移する。現代朝鮮語では「浪」  は浪(nang) である。日本語では波(なみ)という漢字があてられているが、日本語の「なみ」の語源は中国語の「浪」である。浪(なみ)と発音するのは、朝鮮語読みの影響があるものと思われる。

○ 鳥 「鳥」は現代の北京音では鳥(niao)であり、朝鮮語ではsaeである。古代中国語音は中国の音
韻学者王力によれば鳥[tyô] であり、台湾の音韻学者董同龢によれば鳥[tiog] と推定されている。日
本語の鳥(とり)は古代中国語の鳥[tyô]と関係がある可能性がある。朝鮮語の「鳥」は鳥(sae) で
日本語の鳥の名前に多く取り入れられている。 「うぐいす」、「からす」、 「かけす」、などの
「す」は朝鮮語の鳥を表す。

○ 汝 日本語の古語にある汝「な」の語源は古代中国語の汝[njia] である。中国語の「汝」は日本語
では汝(な)になり、朝鮮語では汝(ne) になった。日本語の「われ」、「あ」の語源は古代中国語
の我[ngai] あるいは吾[nga] の語頭音[ng-] が脱落したものである。朝鮮漢字音では「我」、「吾」
は我 (a)、吾(o) である。君(きみ)は古代中国語の君[giuən] からの借用語である。現代日本語の
「僕」も漢語である。「おれ」は中国語の俺[iuam]であり、朝鮮語の我(uri) とも関係のあることば
であろう。

○ 鳴 日本漢字音の鳴(メイ)であり、古代中国語音は鳴[mieng]である。日本語の「なく」は、中
 国語の「鳴」の変化したものである可能性がある。日本語では中国語の[m-] が[n-] であらわれる場
 合がしばしばある。中国語の苗[miô]は日本語では苗「なえ」、名[mieng]は名(な)であり、無
 [miua]は無(ない)となる。[m-] と[n-] はいずれも鼻音であり転移しやすい。鳴[mieng]の韻尾[-ng]は  [-k]と調音の位置が同じである。古代中国語音は鳴[mieg]に近く、それが隋唐の時代に音便化して鳴 [mieng]となったと考える学者もいる。

   万葉集でもっとも多く用いられている表記法は常体と呼ばれている。日本語の助詞や活用語尾を漢字の音や訓を使って表記したものである。これも朝鮮半島に おける「吏読」を援用したものである。万葉集の中国語訳に加えて朝鮮語訳と比較してみると、日本語と中国語の関係、日本語と朝鮮語の関係が明らかになる。

[日本語原文]
  楽浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂變所見(万1715)人麿謌集

[中国語訳]
  微波湖水中、風下比良山、遥見釣魚人、翩翩衣袖翻。

[朝鮮語訳](原文はハングル表記)
sasanami(楽浪) hira(比良)ui san(山)param(風) i、  pada(海) e pul(吹く) eo dae ni、 nakk(釣る) si ha neun 、eo bu(漁夫) ui、 so mae(袖) ga、 peon deuk im i 、po i(見える) ne

[日本語読みくだし文]
  楽浪の 比良山風の 海吹けば 釣する海人(あま)の 袖かへる見ゆ

  朝鮮語訳の語順は、日本語とまったく同じである。使われている助辞は日本語とは違うが、使われている場所は日本語をほとんど同じである。これにたいして、 中国語訳では日本語の助辞はまったく現れない。この歌は訓のみで書かれている。日本語の助辞も音借ではなく、訓で之(の)、者(ば)、所(ゆ=動詞の活用 形)などと表記されている。現代朝鮮語では中国語からの借用語を音で読むことが多い。山(san)、漁夫(e bu)はいずれも中国語からの借用語で、朝鮮漢字音で読んでいる。

○ 風 中国語で風は風(feng)である。朝鮮語では風(param) である。中国語の風(feng)と朝鮮語の風   (param)は一見関係ないように見えるが同源である。古代中国語音は風[piuəm]であり、それが隋唐 の時代には風/piuəng/ に変化したと中国語音韻学では考えられている。朝鮮語の風(param)は古代中 国語音の風[piuəm]を継承したものである。『詩経』(紀元前600年頃成立)では「風」は心[siəm]
 と押韻している。これによって「風」の韻尾は[-ng]ではなく[-m]であったことがわかる。

○ 海 朝鮮語の海( pada) は万葉集では、「わたつみの」のように、海の枕詞として使われている。 「つ」は古代日本語の助辞で、「沖つ波」「庭つ鳥」などの「つ」である。つまり、「わたつみ」は 「わた(=朝鮮語の海)つ(の)み(=日本語の海)」である。

○ 漁夫 日本漢字音では「漁夫」は漁夫(ギョフ)である。朝鮮語では語頭の疑母[ng-]は規則的に
 失われて、漁夫(eo bu) となる。「漁夫」の古代中国語音は漁夫[ngia・piua] である。日本語の魚
 (うお)も、朝鮮漢字音の魚(eo)に依拠している。万葉集の時代には魚(いお)あるいは魚(う
 お)といわれていた。

○ 袖 「袖」の朝鮮漢字音は袖(so) である。日本語の「そで」は朝鮮語の袖(so mae) に近い。日本語
 の袖(そで)も朝鮮語の袖(so mae) も中国語の「袖」と同源であろう。日本語の「そで」は「袖
 手」の連想から、「そで」になった可能性もある。

●つぎの歌は額田王の歌とされるものである。日本語の助辞の表記には音と訓が両方使われている。

[日本語原文]
  熟田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜(万八)額田王

[中国語訳]
  駕言乗舟、熟田之津、俟月既生、潮漲海浜、鼓楫邁矣、今当其辰

[朝鮮語訳]
Nigitasseu(熟田津)e seo pae(舟) tta ryeo go tal(月) tteu gi reul ki da ri(待つ) ni padat mul(海水) do al mat do da(ほどよい) i jen pae(舟) jeo eo tteo na(発つ) ja gu na

[日本語読みくだし]
  熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

●日本語原文にある「爾」、「登」、「者」、「沼」、「菜」は、日本語の助詞や活用語尾爾(に)、登(と)、者(ば)、沼(ぬ)、菜(な)を表すために用いら れたもので、中国語にはまったく現れない。「爾」、「登」は漢字の音を借用した音借であり、「者」、「沼」、「菜」は漢字の訓読みを借りた借訓である。万 葉集では「月待てば」を「月待者」とし、「汝が鳴けば」を「汝鳴者」のように使われている。「者」は古代朝鮮語でも助辞に使われている。

 日本語や朝鮮 語は膠着語であり、「てにをは」にあたる助詞や活用語尾が、ことばとことばを糊しろのように貼り付けしていく。これにたいして、孤立語である中国語には助 詞や活用語尾がほとんどない。そこで初期の日本語を表記した史たちは、朝鮮語を漢字で表記した経験をもとにして、日本語の助辞や活用語尾を表記した。この歌にも中国語、あるはい朝鮮語からの借用語が使われている。

○ 舟 朝鮮語の舟(pae)は日本語では、長崎の「ぺーろん」などに使われている。日本語の舟(ふ
 ね)は朝鮮語の舟(pae) と関係があることばであろう。日本語の舟(ふね)も朝鮮語の舟(pae)も、
 さらにその語源をたどれば、中国語の舨[piuan] に行きつく可能性がある。

○ 潮 日本語の潮「しほ」は中国語の潮[diô] と同源である可能性がある。古代中国語の[di-]は日本語 ではサ行で現れるものが多い。知(チ・しる)、澄(チョウ・すむ)、直(チョク・すぐ)、沈(チ ン・しずむ)、潮(チョウ・しほ)などである。この場合のサ行は弥生時代の借用音であり、タ行 の音のほうが新しい。

○ 今 日本語の今(いま)は中国語の今[kiəm] の語頭子音が脱落したものである可能性がある。同じ ような例としては甘[kam] (あまい)、根[kən](ね)、間[kean](ま)、禁[kiəm] (いむ)、犬      [khyuan](いぬ)、弓[kiuəm](ゆ み)などをあげることができる。また、同じ声符をもった漢字
 でも、語頭の子音が脱落する場合がある。奇(キ)・椅(イ)、甲(コウ)・押(オウ)、景 (ケ イ)・影(エイ)、完(カン)・院(イン)などである。日本語の今(いま)は今(コン)の頭音が脱落したものである可能性がある。

●つぎの歌は、万葉集でも屈指の秀歌とされる天智天皇の歌である。

[日本語原文]
   渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比紗之 今夜乃月夜  清明己曾(万15)

[中国語訳]
  之一 滄海靡旌雲 云愛*云逮* 映斜曛 占知今夜月 輝素必可欣
  之二 洋洋大海上 落日照雲彩 今夜的月光 清明定加倍
    *云愛*=云+愛、*云逮*=云+逮

[朝鮮語訳]
han(大) pa da(海)ka ro(横) gil ge ppeol chin ku reum(雲) e、  ji neun
hae(日)pit(光) in o neul(今日)pam(晩)tal(月) eun palk(明るい) ge pi chwo(照る) ju oet eu myeon

[日本語読みくだし]
渡津海の 豊旗雲に 入日さし  今夜の月夜 清明けくこそ

●この歌も構文は朝鮮語と同じであり、語彙は中国語や朝鮮語から取り入れている。万葉集の歌は中国語や朝鮮語の知識がなければ、ただしく理解することは困難である。

○ 「わたつみの」海にかかる枕詞である。朝鮮語では海は海(pada)である。「わた(=朝鮮語の   海)・つ・み(=日本語の海)・の」は朝鮮語の海(pada)と日本語の海(うみ)を重ねたバイリンガルである。「つ」は古代日本語の助詞で、「の」にあたる。

○ 海(うみ) 海の声符は毎[muə] である。海(うみ)は梅[muə]、馬[mea] などと同じく、弥生時
  代の借用語であり、語頭の[m-] の前に「う」がついて、海(うみ)、梅(うめ)、馬(うま)と
  なった。

○「とよはたぐも」 「とよはたぐも」は「豊かな旗のような雲」と解するのが一般的であるが、
  少し無理がある。「はた」はやはり朝鮮語の海(pada)であろう。「とよはたぐも」は「豊な海
  雲」ということになり、「豊かな大きな海雲に日がさして」という情景が浮かびあがってくる。

○ 雲(くも) 日本語の雲(くも)は古代中国語の雲[hiuən] の弥生音である。朝鮮語のは雲(ku       reum) も中国語の雲[hiuən]と同源であろう。大野晋は『日本語の起源』(岩波新書1957年、旧版)のなかで、日本語の「雲」は朝鮮語の雲(ku reum) が語源であろうとしている。しかし、日本語の雲「くも」も朝鮮語の雲(ku reum)も、中国語の雲[hiuən] と同源である可能性が高い。 古代中国語の頭音[h-] は介音[-iu-] が続く場合は失われる。熊[hiuəm]も熊(くま)であったものが頭音が失われて熊(ユウ)になった。同様に雲[hiuən]も雲(くも)であったものが頭音が失われて雲 (ウン)になった。現代朝鮮語では「熊」は熊(kom)である。

○ 入(い)る 日本語の入(いる)は古代中国語か らの借用語である可能性がある。「入」の古代  中国語音は入[njiəp] であり、朝鮮漢字音では日母[nj-]は規則的に脱落して入(ip)となる。朝鮮語で 「入口」は入口(ip-gu) である。
  朝鮮漢字音では「日」も日(il) であり、「入り日」は「いり(=日の朝鮮語漢字音)ひ(=朝鮮語
  の訓で日)」を掛けた、ことば遊びの要素がある可能性もある。

○ 射(さ)す 日本語の射(さす)は中国語からの借用である。「射」の古代中国語音は射 [djiyak] である。また、朝鮮漢字音は射(sa) である。日本語の「指す」「刺す」「差す」「挿す」などは
いずれも中国語語源であろう。

○ 今夜(こよひ) 日本語の今夜(こよひ)は中国語の今[kiəm] 夜[jyak] が語源である。「夜」の古代 中国語音は夜[jyak] である。液(エキ)、腋(ワキ)などと同じく韻尾に[-k]の音があって、それが 脱落したものである。日本漢字音の夜(ヤ)は隋唐の時代の中国語音に依拠したものであり、日
 本語の夜(よる)あるいは夜(よひ)は古代中国語音の夜[jyak]を継承している。

○ 清(きよい)「清」の古代中国語音は清[tsieng] だとされている。古代中国語音清[tsi-] は謎が多  く、[ti-] あるいは[ki-] が摩擦音になったものが多い。「清」は清[kieng]という古代中国語音が摩擦
 音化しものである可能性がある。「支」なども古音は支(キ)である。「清」の原音が清[kieng]
 であれば、日本語の清(きよき)は中国語語源である可能性は否定できない。「清」の朝鮮漢字
 音は清 (cheong) である。青島の中国語音は青島(Qingdao)である。「清」の中国語方言音、ベトナム
 語音、漢字音、朝鮮漢字音は、つぎの通りである。

北京語 上海語 福建語 広東語 ベトナム語 朝鮮語
   清 qing qin chheng ching thanh cheong

「清」は南に行くほど日本語のタ行に近く、北に行くと日本語のカ行に近くなる。推古遺文でも子 [tziə] が、音読漢字に混じって子(コ)と読まれており、古代中国語の[tsi-] はカ行に近かった可能性がある。

以上の分析をもとに「わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明けくこそ」の歌の語源をたどってみると、つぎのように分析することができる。

朝鮮語: わた(海)、はた(海)、ひ(日)
中国語: 海(うみ)、雲(くも)、入(いる)、射(さす)、今夜(こよひ)
日本語: 豊(とよ)、月(つき)、つ、の、とよ、に、

清(きよい)も中国語語源である可能性がある。このことからも、万葉集の日本語は純粋な「やまとことば」などではなく、天智天皇の時代にはすでに中国語や朝 鮮語の語彙を取り入れていたことが明らかになる。漱石や鴎外の日本語が漢語を取り入れることによって書きことばとして豊かになったのと同じように、万葉集の日本語も中国語や朝鮮語の語彙を取り入れることによって、表現力を豊かにしていたのである。

第029話 文字文化の担い手・史(ふひと)

『日本書紀』に史のことがしばしば書かれている。史のことがはじめて登場するのは応神天皇の時代のことである。

●応神15年秋8月6日、百済王は阿直岐(あちき)を遣わして、良馬二匹を奉った。それを大和の軽の坂上の厩で飼わせた。阿直岐に掌らせて飼わせた。その馬飼いをしたところを厩坂という。阿直岐はまたよく経書を読んだ。それで太子莵稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師とした。天皇は阿直岐に「お前よりもすぐれた博士(ふみよみひと)がいるか」と問われた。これに対して「王仁(わに)という者がおり、秀れております」と申しあげた。上毛野(かみつけの)君の先祖の 荒田別(あらたわけ)・巫別(かむなきわけ)を百済に遣わして、王仁を召された。阿直岐は阿直岐の史の先祖である。(現代語訳)

●文字は馬とともにもたらされた。『魏志倭人伝』には邪馬台国には馬はいないと書いてあるから、馬も文明とともに大陸からもたらされたのであろう。6世紀になると史の記録がしばしば登場する。

●欽明14年秋7月4日、樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸された。蘇我大臣稲目宿禰(いなめのすくね)が勅を承って、王辰爾(おうしんに)を遣わし船の 税を記録させた。王辰爾を船司(ふねのつかさ)とし、姓を賜って船史(ふねのふびと)とした。今の船連(ふねのむらじ)の先祖である。

●欽明30年夏4月、胆津の白猪田部の丁者(よほろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。これにより田戸(たへ)の正確な戸籍ができた。天皇は胆津が戸籍を定 めた功をほめて、姓を賜い白猪史(しらいのふびと)とされた。田令(たつかい)に任ぜられて、葛城山田の直(あたい)瑞子(みつこ)の副官とされた。

●史の役割は徴税から戸籍の作成まで幅広い。敏達天皇の時代にはあの有名な烏羽の上表というエピソードが記されている。

●敏達元年5月15日、天皇は高麗(こま)の国書をとって、大臣に授けたまう。諸の史(ふびと)を召し集めて、読み解かしめた。史たちは3日かかっても、誰も 解読することができなかった。そのとき船史(ふねのふびと)の祖先、王辰爾(おうしんに)が読み解いてつかまつったので、天皇と大臣は共にほめて、『よく やった。辰爾(しんに)。さすがだ。お前がもし学問に親しんでいなかったら、誰がこの文章を読み解き得たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように』といわ れた。そして東西の(大和と河内の)史 に、『お前たちの習業はまだ足りない。お前たちの数は多いが、辰爾一人に及ばないではないか』といわれた。高麗のたてまつった文書は、烏(からす)の羽に 書いてあった。字(もじ)は烏の羽の黒いのに紛れて、誰も読める人がなかった。辰爾は羽を炊飯の湯気で蒸して、帛(ゆれきぬ・柔らかい上等の絹布)に羽を 押しつけ、全部その字を写しとった。朝廷の人々は一様にこれに驚いた。

●高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字を使用していて、『留記』という国史百巻を編集している。朝鮮半島では漢字で朝鮮語を表記する方法も早くから試みられていた。助辞を音訓の漢字で書 き加える吏読体、朝鮮語の語順によって漢字を書き連ねる誓記体、音と訓を併用し多くの添読字を加える郷札体などの表記法があった。『日本書紀』の逸話は烏 の羽に書いてあったというのはフィクションだとしても、高麗からの国書が、正規の漢文でなく、朝鮮半島で工夫された表記法で書かれていた可能性を示唆している。日本に渡来した史は、出身地や渡来した時期によって、違った表記法を身につけていたものと考えられる。

●応神期に、西史(かふちのふひと)の王仁が、はじめて文字を日本に伝えたといわれている。西暦でいうと四世紀の終りか5世紀の初頭にあたる。後に東漢(やま とのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡来してこれに加わる。5世紀後半には百済・任那の人びとが日本列島に渡来し、6世紀中葉には高句麗からの渡来 者がきた。船史(ふなのふひと)は船の賦を掌り、白猪史(しらゐのふひと)は屯倉、津史(つのふひと)は難波津の賦を掌った。7世紀中ごろには百済が滅亡 して数千人の亡命者があった。これらの人びとは正規の漢文を書くだけでなく、漢字によって日本語を記録する必要にせまられていたに違いない。漢字で日本語 を表記する方法は、万葉集が成立する何世紀も前から準備されていたのである。

●やがて8世紀になると、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』が相次いで成立する。『日本書紀』は正式の漢文で書かれている。『古事記』は、太安万侶の序文 は漢文で書かれているが、本文はいわゆる変体漢文で書かれている。『万葉集』は題詞は漢文で書かれているが、歌は音を主体に書かれているもの、訓を主体に 書かれているもの、助辞が省略された表記、助辞を添記した表記など、朝鮮半島で発達したさまざまな表記法が混用されている。それは、史の家系によって、漢 字による日本語の表記法が一様でなかったことを示唆している。万葉集についてみると、同じ柿本人麻呂の歌でも、表記法はさまざまである。

楽浪之       思賀乃辛崎 雖幸有   大宮人之 船麻知兼津(万30)
楽浪(ささなみ)の 志賀の辛崎 幸く有れど 大宮人の 船まちかねつ

左散難弥乃 志我能 大和太 與杼六友  昔人二  亦母相目八毛(万31)
ささなみの 志賀の 大わだ よどむとも 昔の人に 亦も相(あは)めやも

●『人麻呂歌集』になると助詞などはほとんど表記されていない。

春楊 葛山   発雲   立座         妹念(万2453)
  春楊 葛城山に 発つ雲の 立ちても座(い)ても 妹をしそ念(おも)ふ

恋死   恋死哉       我妹        吾家門 過行(万2401)
  恋死なば 恋も死ね哉(とや) 我妹(わぎも)こが 吾家(わぎへ)の門(かど)を
 過ぎて行くらむ。

●現代の文学者は文体を重んじ、字くばりも文体と考えて文字を選ぶ。

しかし、柿本人麻呂が歌の内容にあわせて表記法を変えたとは考えにくい。

また、人麻呂が何種類もの表記法に通じていて、ときと場合によってそれらを使い分けたというのも説得力に欠ける。

●人 麻呂の活躍した時代は680年から709年の間であり、万葉集が成立したとされる天平宝字三年(759年)からみると半世紀以上前のことになる。

人麻呂の筆跡がそのまま残っていて万葉集に載録されたとは考えにくい。

『人麻呂歌集』の歌は『人麻呂歌集』の編纂に携わった史(ふひと)の手で文字化され、万葉集 巻1から巻3までを担当した史がいて、その他の巻についてもそれぞれ編纂に携わった史がいて、それぞれの史の家に伝えられた表記法を選んだと考えるのが穏当ではなかろうか。

●万葉集の時代には、懐風藻に詩を残した宮廷の人びとや僧侶、山上憶良などは不自由なく漢字をあやつることができたに違いないが、文字をあつかうのは史(ふひと)という専門職の専有物だったのである。

第030話 万葉集のなかの外来語

●国語学者の大野晋は日本古典文学大系(岩波書店)のなかの『万葉集』を担当したが、その感想をつぎのように書き記している。

●漢字の字音については頼惟勤氏、朝鮮語については張暁氏に示教を仰いだところがある。

これらの方々にあつく感謝の意を表したい。

朝鮮語といえば、第一冊に、朝鮮語と日本語との間で、同源と思われる単語四十たらずを揚げたところ、大いに歓迎された向きもあり、また、無用の長物として非難排斥される向きもあった。

日本語の語源は、とかく不明のまま放置されやすいので、多少なりと、確実と思われるものを提示することは無意味なこととは思わない。

それにわずか四十 語ほどの記載がそれほどの関心を呼ぶものとも私は思わなかった。

その後『日本語の起源』(岩波新書)を書く機会が与えられ、旧作を書き改めたことがある。

私はその中に、手持ちの朝鮮語と日本語との対照の語彙を表示したので、それからは朝鮮語を万葉集の中に書き込むことを、あまりしないように心がけた。(日本古典文学大系第7巻附録(月報59)より)

●この文章は昭和37年に書かれたものである。

大野晋はつぎのような単語を朝鮮語と同源としてあげている。

くし(串):kos、 のる(告):nil= 話す、ごと(如):kət= のような、さで(小網):sadul、
くしろ(釧):kusil、 くはし(美):koph= 美、さつ(矢):sal= 矢、まねし(多):man= 多、 つら(弦):tʃul= 弦 はこ(篋):pakɯlmi、 風のむた(共に):moto、 から:満州蒙古語でkala・xala、 しし(猪鹿):səsɯm、 はた(織機):pəit’ ɯl、 おも(母):am= 牝・母、むしぶすま(苧麻):mosi、 たく(楮):tak、 なは(縄):no(縄) +pak(綱)、 はち(蜂):pəl、 かち(徒歩):kəl、 たち(等):tɯl、 くち(口):kul、 つる(鶴):turumi、

●日本人のなかには、万葉集のような日本を代表する古典のなかに、朝鮮語と語源を同じくすることばが点在するということはあってはならないことだ、「やまとことばは純粋である」と考える人がかなりいる。

しかし、日本の歴史は、時代を遡ればさかのぼるほど、中国文化や朝鮮半島の文化との接触によって、国際化のな かで形成されていることがわかる。

大野晋はさらに『日本語の起源』(旧版)のなかで、次のような単語を朝鮮語と同源だとしている。

かささぎ(鵲):kač’ičak、 かた(堅):kut、 こほり(郡):kut、 き(杵):ko、
くも(雲):kurum、 くろ(黒):kam、 さく(咲):sak、 しる(汁):sïl= 酒、
しま(島):syöm、 す(酸):sï、 たけ(竹):tui、 とり(鳥):tərk、
なた(鉈):nat= 鎌、 にこ(熟):nik、 へみ(蛇):pəiyam、 ひ(火):pïl、
はぎ(脛):pal=足、ひぢ(臂):p’əl、 はら(腹):pəi、 みつ(満):mit= 及、
むぎ(麦):mil、 もと(本):mit、 かせ(枷):k’al、 くち(口):kul、
かが(影):kəri、 かく(掛):köl、 かく(書):kïl、 うし(牛):syo、
いまだ(未):mot= できない、 うまし(味):mas、 はら(腹):pəi、 つま(爪):t’op、
あぎ(小児):aka、 かめ(亀):köpuk、 な(汝):nö、 かに(蟹):köi、
おも(母):ömi、 かり(雁):kïiryoki、 かはら(瓦):kiwa、 いも(女):am(牝)、
くま(熊):kom、 くぐひ(鵠):khohai、 す(酸):sï、 たづぬ(尋):tötïm、
ひじ(臂):pïl→p’əl、 ちり(塵):tït-kïl、

●しかし、これらの朝鮮語は中国語が語源だと思われるものがほとんどである。

日本語も朝鮮語も文字をもった文明の言語である中国語からたくさんの語彙を借用している。

大野晋に限らず学者はなぜかそれを無視している。

日本語と中国語という言語構造も違い、系統も違うといわれる言語の間では語彙の借用も行われないと考えたのであろうか。

それは最近の言語学におけるクレオール研究の知見と異なる。

●これらの単語の古代中国語音は下記の通りであり、朝鮮語、日本語ともに中国語からの借用語である可能性が高い。

小児[njie]あぎ(児の朝鮮漢字音は児a)、妹[muət/muəi]いも 未[miuət] いまだ、味[miuət]うまし、 牛[ngiu]うし(牛の朝鮮語はsyo)、 母[mə]おも(母の朝鮮語はeo meo ni)、 堅[kyen]かたい、
郡[giuən]こほり、杵[thjia]・ 午[nga]き、雲[hiuən]くも、熊[hiuəm] くま、黒[xək]・ 玄[hyuen]くろ、 鎌[(k)liam]かま、枷[keai]かせ、口[kho]くち、影=景[kyang]かげ、掛[kyue]かける、書=劃[hoek]かく、蟹[he] かに(朝鮮語はke)、 雁[ngean] かり、瓦[nguai]かはら、鵠[kuk] くぐひ、鵲[syak]さぎ 咲[siô]さく、汁[sjiəp]しる、島=洲[tjiu]しま、酸=酢[dzak]・ 醋[tsak]す、竹[tiuk]たけ、塵[dien]ちり、 鳥[tyô]とり、  爪[tsheu]つめ、尋[ziəm]たづねる、 汝[njia]な(朝鮮語はnyeo)、 鉈[dai]なた、 熟[njiuk]にこ、蛇=蟠[buan]へみ、火[xuəi]ひ、 脛[hyeng]はぎ、臂[phiei]ひじ、腹[piuk]はら、満[muan]みつ、麦 [muək]むぎ、本[puən]もと、

●朝鮮半島は紀元前108年に楽浪郡などがおかれて以来中国文明の影響を受けてきた。

ことばも中国語の影響を受けた。日本でも大和朝廷が成立して国家としての体裁をととのえることができたのは、早い時期から中国と間接、直接に接触して、中国文化を取り入れてきた結果である。

●万葉集には布施、法師、波羅門、博士、琵琶、塔(たふ)など、仏教を介した漢語も使われている。

また、万葉集のなかには、中国語や朝鮮語からの借用語も「やまとことば」のなかにその痕跡を留めている。

たとえば、つぎの歌のなかには中国語からの借用語が使われている。

旭時等        鶏鳴成      縦恵也思  獨宿夜者    開者雖明(万2800)
旭(あかとき)と 鶏(かけ)は鳴くなり よしゑやし ひとり寝る夜は 明けば明けぬとも

●この歌のなかにも中国語からの借用語と思われることばがいくつか含まれている。

○ 鶏(かけ) 鶏を鶏(かけ)と読むのは、中国語の家鶏[kea-kyei] に由来する。

万葉集では鶏は  「にはつとり」「いへつとり」「かけ」などであらわれる。

鶏(かけ)は古事記歌謡にも使われて いる。

阿遠夜麻邇  奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久
青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉(きぎし)はとよむ 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く
                                      (古事記歌謡)

●古事記歌謡は音仮名だけで書かれているから「カケ」ということばがあったことが確かめられる。 

古事記歌謡の「迦祁」は万葉集の鶏(かけ)であり、中国語の「家鶏」からきていることは疑う余地がない。

○ 時(とき) 「時」 は声符が「特」と同じであり、「時」の古代音は時[dək] であった可能性がある。

時の北京語音は時(shi)、広東語音は時(shih)である。特の北京語音は特(te)であり、広東語音は特 (dahk)である。広東語音は古い韻尾を残しているものが多く、北京語音では韻尾の入声[-p-t-k]は失われている。同じ声符をもった漢字でも韻尾が保たれているものと脱落したものがみられる。

  亜・悪、 意・憶、 試・式、 債・責、 置・直、 避・壁、 富・福、 墓・莫、

●また、同じ漢字でも二つの読み方があるものもある。

易(イ・エキ)、塞(サイ・ソク)、作(サ・サク)などである。

中国語の入声韻尾は時代とともに失われつつある。

日本語の時(とき)は中国語の古い発音を留めている。

○ 鳴(なく) 古代中国語の「鳴」は鳴[mieng] である。中国語の明母[m-] が、日本語ではナ行に  なって現れる例はほかにもいくつかある。

 猫[miô]( ねこ)、 苗[miô](なえ)、 名[mieng](な)、 無[miua](ない)、 眠[myen](ねむる)

 明母[m-]は両唇鼻音であり、同じく鼻音である[m-]と調音の位置が近い。調音の方法が同じ音は転移 しやすく、調音の位置が近い音は転移しやすい。日本語の鳴(なく)は中国語の鳴[mieng]の転移し たものである。古代中国語音の韻尾[-ng]は[-g]にちかかったから、鳴[mieg]が鳴(なく)に転移した と考えてもよい。

○ 眠(ねる) 「眠」の古代中国語音は眠[myen] である。日本語ではマ行とナ行の交替はしばしば
  起こるので、中国語の眠は古代日本語では眠(ねむる)あるいは眠(ねる)になった。

○ 夜(よ)日本漢字音では夜は呉音でも漢音でも夜(ヤ)であるとされている。しかしの音の夜  (ヤ)と訓の夜(よ)あるいは夜(よる)はよく似ている。夜(ヤ)と夜(よ)とは中国大陸と日 本列島で別々に生れたことばなのだろうか。古代中国語の「夜」は夜[jyak] である。韻尾の[-k] は失わ れて、唐代の中古音は夜/jya/ となった。日本語の夜(よる)は古代中国語音の夜[jyak] に依拠したも のであり、夜(ヤ)は唐代中国語音の夜/jya/を継承している。夜(よ)もまた韻尾の[-k]が失われて 以降に日本に入ってきた中国語語源のことばである。夜(よ)が夜(や)に変わったのは隋唐の時 代以降中国でわたり音i(i介音)が発達してきたためである。したがって、日本語として古い順に並 べると次のようになる。夜(よる)→夜(よ)→夜(や)。

●このような観点で万葉集の歌を解読してみると、万葉集の「やまとことば」のなかには、さまざまな中国語からの借用語がかなり含まれていることがわかる。万葉 集の歌はどのひとつを取り上げてみても中国語や朝鮮語からの借用語が含まれている。人麻呂歌集にある次の歌はどうであろうか。

山科  強田山   馬雖在  歩吾来        汝念不得(万2425)
山科の 木幡の山を 馬あれど 歩(かち)ゆわが来し 汝を思ひかね 

○ 山 山(やま)は中国語の山[shean]の頭音が脱落したものである可能性がある。

○ 田 田(た)は中国語の田[dyen]の韻尾が脱落したものである可能性がある。

○ 幡 幡(はた)は中国語の幡[phiuan]である。中国語の韻尾の[-t]のなかには[-n]に転移したものがみられる。鉢(はち)、嗚咽(おえつ)、薩摩(さつま)などは古い音を留めている。

○ 馬 馬(うま)は中国語の馬[mea]からの借用語である。また、朝鮮語の馬(mal)とも関係のあることばである。万葉集には馬、宇麻、宇万、牟麻などの表記であらわれる。日本の馬(うま)は梅(うめ)などとともに中国語からの借用語である。

○ 歩 歩(かち)は御徒町の「かち」で朝鮮語のkeol(歩く)と同源である。

○ 来 来(くる)は中国語の来[lə]と関係のあることばである。古代中国語音では[l]の前に[k-]あるいは[h-]のような、入りわたり音があったと考えられている。このため同じ声符をもった漢字でカ行とラ行に読みわけられるものが多い。

課・裸、監・覧、兼・簾、京・涼、各・洛、諫・練、剣・斂、楽(ガク・ラク)、

来も古代中国語音は来[klə]に近い音であった可能性があり、日本語の来(くる)はこれを継承している可能性がある。

○ 汝 汝(な)は中国語の汝[njia]の借用語である。朝鮮語でも汝は汝(neo)である。

○墓 墓の古代中国語音は墓[mak]である。墓(はか・ボ)は声符が莫(バク)と同じであり、日本 語の墓(はか)は中国語からの借用語である可能性がある。

●高橋連虫麿歌集にある次の歌の読み方については古来から二つの読み方が提案されている。 

 墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母
 墓の上(へ)の 木(こ)の枝靡けり 聞きし如 血沼(ちぬ)壮士(をとこ)にし寄りにけらしも(万1811)

 「墓」を墓(はか)と読む説と墓(つか)という説もある。万葉集には墓を詠み込んだ歌が二首ある。

  やすみしし わご大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に(万155)

 という額田王の歌では「御陵」を御陵(みはか)と読ませている。

また、高田女王の歌には「墓」が 訓借として使われている。

 わが背子に または逢はじかと 思墓(おもへばか)今朝の別れの すべなかりつる(万540)

 「塚」を詠んだ歌もある。

 玉桙の道の辺近く磐構へ作れる冢(つか)を、、(万1801)

 この歌の詞書きには「葦屋處女(あしやのをとめ)の墓を過ぐる時に作れる歌一首」とあって、墓(はか)を見て塚(つか)と詠んだことになる。

●『時代別国語大辞典』(上代編)は墓の項で「ツカがその外形に基づく称であるのに対し、死者を葬る場所という目的に基づく名称かと考えられる」としている。墓の声符は莫[mak]であり、墓(はか)の韻尾が脱落したものが墓(ボ)である。墓(はか)が古くて墓(ボ)が新しい。古代日本語には濁音ではじまることばがなかったから墓は墓(ばか)ではなく墓(はか)となった。

● 「冢」の古代中国語音は冢[tiong]である。中国語の韻尾[-ng]は古代には[-g]に近かったから冢は冢[tog] に近かった。それが唐の時代になると塚(チョウ)と音便化されるようになった。わたり音(i介音) も隋唐の時代に発達してきたものである。

中国語の音韻史をふまえていえば墓(はか)も塚(つか)も古代中国語音に依拠した借用語である。 墓(はか)が古く、墓(ボ)が新しい。塚(つか)が古く、塚(チョウ)が新しい。日本の漢字研究 は白川静、藤堂明保など一部の専門家をのぞいて唐代の中国語音を規範としているので、訓と思われているもののなかにある古代中国語音の痕跡を見のがしてしまいがちである。

第031話 万葉集の成立を考える

●万葉集は5世紀から8世紀中葉までの、3百余年にわたる歌の集大成である。

万葉集の第1番の歌は、よく知られているように雄略天皇の歌とされる歌である。

5世紀の天皇の歌は8世紀に万葉集が成立するまで、どのように伝承されてきたのだろうか。

そして、万葉集は5世紀の日本語の痕跡をどの程度留めているのだろうか。

ここでは、万葉集の成立について考察してみることにする。まず、万葉集の巻頭の歌である。

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳爾 菜採須児 家吉閑 名告紗根虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目家呼毛名雄母(万1)

籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持(ち) 此(の)岳に 菜採(ま)す児家きかな 名告(ら)さね 虚見つ 山跡の國は 押(し)なべて 吾こそ居(れ) しきなべて 吾こそ座(せ) 我こそは 告(ら)め 家をも名をも

●この表記では日本語の助詞などは音や訓を使ってかなり書き込まれているが( )をつけた動詞の活用語尾などははぶかれている。

この歌に使われている文字は訓読、訓借、音読があり、通常つぎのように分類できる。

訓読:籠(こ)、持(もち)、此(この)、岳(をか)、菜(な)、採(つむ)、児(こ)、
家(いへ)、名(な)、告(のる)、虚(そら)、見(み)、國(くに)、吾(われ)、居(をれ)、座(ます)、我(われ)、

訓借:乳(ち)、根(ね)、津(つ)、山跡(やまと)、者(は)、押(おす)、戸(へ)、
手(て)、名(な)、背(そ)、歯(は)、目(め)、雄(を)、

音借:毛(モ)、與(ヨ)、美(ミ)、母(モ)、布(フ)、久(ク)、思(シ)、夫(フ)、君(ク)、志(シ)、爾(ニ)、須(ス)、吉(き)、閑(カナ)、紗(サ)、乃(ノ)、 奈(ナ)、許(コ)、曾(ソ)、師(シ)、倍(ベ)、己(コ)、呼(ヲ)、

●万葉集に使われている訓読字のなかには、古代中国語の痕跡を留めている古い音や朝鮮漢字音の影響を受けたと思われる弥生時代の借用音が含まれている。

○籠の日本漢字音は呉音が籠(ル)、漢音が籠(ロウ)、訓は籠(かご)である。

中国語音は籠[long]である。

古代中国語音では[l-]の前に入りわたり音[g-]があったことが、スウェーデンの東洋言語学者カールグレンや中国の音韻学者王力によって指摘されている。

籠の古代中国語音は籠[glog] であった可能性がある。

古代日本語では語頭にラ行音がくることはなかったから、籠は籠(かご)となって日本語のなかに取り入れられた。

正確にいうと、籠(カゴ)ではなくて鼻濁音の籠(カコ゜)である。

一方、籠には籠(こもる)という詠み方もある。

韻尾の[-ng]は鼻音であり、調音の方法が[-m]とおなじである。

籠は籠(こも)にも転移した。この歌では「籠毛」となっている。

毛(も)は助詞であるという説もあるが、籠を籠(かご)ではなく籠(こも)と読ませるための末音添記で、いわば送り仮名である。

末音添記は新羅の郷歌などにしばしばみられる表記法である。

○岳(おか)、吾(われ)、我(われ)の中国漢字音は岳[ngeok]、吾[nga] 、我[ngai] であり、朝  鮮漢字音では頭音[ng-] が規則的に脱落して岳(ak)、吾(o)、我(a)となる。

日本語の岳(おか)、吾(われ・あ)、我(われ・わが)などは朝鮮漢字音の影響を受けた中国語からの借用語である。

万葉集では「われ」は吾、我、和例、和礼などと表記されている。

吾、我は吾(あ)、我(あ)あるいは吾(あれ)、我(あれ)にもあてられている。

○名(な)、津(つ)、目(め)の中国漢字音は名[mieng] 、津[tzien] 、目[miuk] である。

日本語の 名(な)、津(つ)、目(め)は中国語の韻尾が脱落したものである。

目[miuk] は眸[miu]、眼[ngən]にも近い。

○家(いへ) 、居(をる) 、根(ね)は古代中国語の家[kea] 、居[kia] 、根[kən]の頭音が脱落した ものである。

○戸(へ)、手(て)は中国語音の戸[ha] 、手[sjiu] の頭音が変化したものであろう。

ベトナム漢字 音では手は手(thu)である。

江南地方の古代音にはベトナム漢字音に近い音があったものと考えられる。

日本漢字音でも拿捕の拿(だ)の声符は手である。

5世紀の「やまとことば」のなかに、すでに中国語からの借用語がある。

訓読字はじつは古代中国語音に依拠した弥生音である。

この歌のなかで使われている中国語からの借用語は、つぎのようになる。

 籠(こも)、岳(をか)、吾(われ)、我(われ)、名(な)、津(つ)、目(め)、家(いへ)、居(をる)、根(ね)、戸(へ)、手(て)、

●万葉集第1番の歌は5世紀の日本語を写してはいるが、300年前に雄略天皇が使っていた漢字がそのまま使われているわけではない。

5世紀の日本語には母音が八つあったはずである。

しかし、この歌の表記では「も(甲)」と「も(乙)」が区別されていない。

「家呼毛名雄母」のように、助詞の「も(乙)」に「毛」と「母」が混用されている。

『古事記』では「も」の音が「も(甲)」と「も(乙)」のふたつに区別されている。

古事記では「毛」は「も(甲)」にのみ使われて、「母」は「も(乙)」だけに使われている。

もし、万葉集の雄略天皇の歌が雄略天皇の書記法をそのまま伝えているとすれば、古代日本語にあった「も(甲)」と「も(乙)」の区別を伝えているはずである。

●雄略天皇の歌は古事記歌謡の中心をなしているといっても過言ではない。

古事記歌謡では雄略天皇の歌は、つぎのように表記されている。

美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由々斯伎加母 加志波良袁登賣
御諸の  厳白檮がもと  白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原乙女

美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
御諸に  築くや玉垣   築き余し  誰にかも依らむ 神の宮人

久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 々母志岐呂加母
日下江の  入江の荷子   花荷子   身の盛り人   羨(とも)しきろかも

●この歌では「母」は「も(乙)」にだけ使われている。「毛」は一度も使われていない。

古事記では「毛」は「も(甲)」専用の文字である。

万葉集巻1の編纂にかかわった史は、マ行オ段の甲乙を区別することができなかった。

記紀万葉が編纂された8世紀はマ行オ段の「も(甲)」と「も(乙)」の区別が失われつつあった時代であった。

古事記では毛「も(甲)」と母「も(乙)」は確実に区別して使われている。

日本書紀では区別が失われている。

万葉集では巻によって、区別して使われている巻と混用されている巻とがある。

300年に及ぶ伝承のなかで、雄略天皇の歌は史たちによって、何回も書写され、その間に使われる漢字も変り、書記法も史によって変わったと考えざるをえない。

『古事記』の歌謡も雄略天皇が5世紀に書いた表記を、そのまま伝えているという証拠はない。

たとえば、つぎの歌は古事記と日本書紀の両方に載録されているが、古事記と日本書紀では伝承が少し違う。

伝承が違うばかりでなく、使われている漢字も違う。

美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 多禮曽○○○○ 意富麻弊爾麻袁須 

野麼等能  嗚武羅能陀該儞 之々符須登 柁例柯擧能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須

 

夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志麻都登 阿具良爾伊麻志 斯漏多閉能

飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺 絁都魔枳能

 

蘇弖岐蘇那布  ○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○ ○○○○○○

阿娯羅儞陀々伺 斯々磨都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 

 

多古牟良爾 阿牟加岐都岐  曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登

陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳都 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 

 

那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布(古事記)

飫裒枳瀰儞麼都羅符 儺我柯陀播於柯武  婀枳豆斯麻野麻登(日本書紀)

●伝承が同じ部分には傍線を付した。古事記歌謡の読みくだしは、つぎのようになる。

み 吉野の 小牟漏(をむろ)が嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ大前に申す やすみしし 吾が大君の 猪鹿待つと 呉床(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ) の 袖著(そでき)具(そな)ふ 手胼(たこむら)に 虻掻き著き その虻を 蜻蛉(あきつ)早咋ひ かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭の国を蜻蛉島とふ 

●この2種の異伝はいずれも雄略天皇の作とされている。

古事記に歌を書写した史と日本書紀の史では音韻体系が違う。

古事記の歌謡も日本書紀の歌謡も、5世紀に雄略天皇自身が使った漢字をそのまま伝えているとは考えるのはかなり無理がある。

雄略天皇の歌は5世紀の史が記録して伝えたものを、それぞれ別の系統の史が、古事記、日本書紀、万葉集の歌として書写したものである、と考えるしか説明のしようがない。

●万葉集の歌は、歌人が自分で文字を選んで書いたものであると考える万葉学者が多い。

現代の文学作品では、文字の選び方も創作活動の重要な一部をなしているので、万葉の歌人にとっても文字の選び方は創作活動と不可分のものだと考えるからである。

しかし、日本語の書記法が確立していない時代にあって、それは困難であったと思われる。

万葉集の歌は個人の作とされているものでも、その社会に伝承され、民衆の間に伝えられてきたものが多い。

つぎの歌などは、天武天皇の歌として万葉集に収められているが、伝承された民謡をふまえている。

淑人乃     良跡吉見而      好常言師   芳野吉見与  良人四来三
淑(よき)人の 良しと吉(よ)く見て 好しと言ひし 芳野吉よく見よ 良き人よくみ(万27)

●この歌は吉野の地をことほぐ祝い歌で、ことばの調子は民謡に近い。

淑(よき)、良(よし)、吉(よく)、好(よし)、芳野(よしの)、吉(よく)、良(よき)、 四来(よく) と音の反複が歌の重要な要素になっている。

音がまずあって、それを文字が写したものである。

この歌は天武8年に天皇が吉野に行幸した時の歌として伝えられている。

天武8年(679年)といえば壬申の乱(672年)から10年もたっていない。

兄天智との確執の舞台となった吉野離宮への行幸に、このような心のはなやぎがあったのだろうか。

この歌の明るさには、ただ驚かされるばかりである。

●もし万葉集の歌が歌人自身の筆になるものであるとすれば、柿本人麻呂などは2種類以上の書記法を身につけていたことになる。

戀死    戀死哉     我妹   吾家門   過行(万2401)
恋ひ死なば 恋ひも死ねやと  吾妹子が 吾家の門を 過ぎて行くらむ

我妹  戀無乏    夢見   吾雖レ念不レ所レ寐(万2412)
我妹に 恋ひて術なみ 夢見むと 吾はおもへど 寐(い)ねらえなくに

●これは、いずれも万葉集巻11に柿本人麻呂歌集からとして収められているものである。

助詞や活用語語尾がほとんど表記されていない。

同じ人麻呂歌集の歌でも巻3に収められているつぎの歌は、助詞や活用語尾が表記されている。

三吉野之 御船乃山爾 立雲之   常将レ在跡  我思莫苦二(万244)
み吉野の み船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに

●この違いは、万葉集巻3と巻11では、書写した史の系統が違うからであろう。

朝鮮半島から来た史たちが、朝鮮半島で確立されつつあった吏読、誓記体、郷札などを参考にしながら、日本語を漢字で表記する方法を確立していった。その足跡を万葉集は留めている。

●万葉集最後の歌は、天平宝字3年(759年)正月1日因幡国庁での宴で、大伴家持が作った歌である。

新年乃始乃    波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(万4516)
新しき年の始めの 初春の   今日ふる雪の  いや重(し)け吉事(よごと)

●万葉集の成立を760年ころとすれば、大伴家持の歌はその前年に作られたことになる。

家持は万葉集の編者にも擬せられており、万葉集の成立したのと同時代の人だから、家持自身の書いた文字の形を、そのまま伝えている可能性がある。

●万葉集第1番目の歌は雄略天皇の歌は、万葉集の成立の時代からは300年も前の歌である。

5世紀の日本列島には、すでに文字を使いこなす人がいたことは、稲 荷山鉄剣に刻まれた漢字などから明らかである。

しかし、金石文と違って、古事記や万葉集の場合は、史たちによって何回も書写され、その表記は確立されていなかったために、史によってたびたび変わったにちがいない。

●古事記歌謡では雄略天皇の歌が最後のグループをなしている。

その雄略天皇の歌が万葉集の冒頭を飾っている。

万葉集の編者はおそらく、古事記歌謡との接続を意識して雄略天皇の歌を冒頭に置いたのであろう

古事記歌謡は5世紀の半ばで終り、万葉集に受け継がれている。

●万葉集は最初の2巻が、原万葉集の痕跡を留めていることは歌の選び方、配列のしかたからして確かであろう。

万葉集巻2は仁徳天皇から元明天皇まで3世紀にわたる歌を載せている。

万葉集の原形をなす巻1、巻2は奈良遷都(710年)前後にはできあがっていたものと思われる。

遷都後約2年で古事記が成立し、それから8年目に日本書紀が完成した。

古事記、日本書紀、万葉集の成立は、律令国家の成立と深くかかわった国家的事業であった。

万葉集の編者は原万葉集である巻1、巻2に引き続いて、およそ50年の歳月をかけて、それ以後の巻を完成させていった。

●万葉集巻1、巻2の完成以前にも個別の歌集は完成され、伝承されていた。

人麻呂歌集、山上憶良類聚歌林のほか古歌集など、万葉集の原本になった歌集のなかには、5世紀にはすでに成立していたものもあったかもしれない。

万葉集には異伝も多く、「或る本の歌」などと注がついている。

また、同じ歌でも伝承によって表記が違う。

それらの歌は万葉集成立の謎を解く貴重な鍵を与えてくれる。

万葉集は、日本人がはじめて文字と遭遇した紀元前後から、数世紀にわたる文字との格闘の跡を色濃く留めている。

そして、万葉集に使われている「やまとことば」は決して日本列島に孤立して成立したものではなく、弥生時代の借用語を数多く含んでいる。

「やまとことば」は東アジアの三角地帯、中国、朝鮮半島、日本列島の交流の賜物であることを、万葉集の解読から読み取ることができる。

  

  

 

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