小林昭美 日本語千夜一夜〜古代編〜2 |
2021.02.06 更新2026.08.22
[文字時代以前の日本語]
第032話 マンモスハンターのことば
第033話 縄文時代の日本語
第034話 稲作文化の伝来と日本語
第035話 弥生時代の日本語
第036話 金印の国「奴国」とは何か
第037話 魏志倭人伝の日本語
第038話 古墳時代の日本語
第039話 飛鳥時代の日本語
第040話 地名はことばの遺跡である
第041話 JR駅名の旅
[漢字文化圏のことば]
第042話 北京看板考
第043話 中国の国語教科書
第044話 美国漢字地名
第045話 漢字紳士録
第046話 ソウル街角ウオッチング
第047話 朝鮮漢字音の特色
第048話 朝鮮半島の漢字文化
第049話 文選読みの話
第050話 日本語のなかの朝鮮語
第051話 現代中国語と韓国・朝鮮語
第052話 北京音・朝鮮語音・日本漢字音
第053話 ベトナム漢字音の痕跡
[漢字の読み方]
第054話 漢字に漢字でカナをふる
第055話 唐詩の韻を読み分ける
第056話 言語学者カールグレンの卓見
第057話 声近ければ義近し
第058話 中国語音(声母)の変化
第059話 中国語音(韻母)の変化
.[文字時代以前の日本語]
日本列島に人が住みつき、日本語を話しはじめたのはいつのことだろうか。四方を海に囲まれた日本列島が、ユーラシア大陸から切り離されたのは、洪積世の末期で約2万年前と考えられている。日本列島にはそれ以前から人類が住んでいた痕跡がある。群馬県新田郡笠懸村岩宿で、相沢忠洋が関東ローム層中から旧石器を発見して以来、日本列島における旧石器時代の調査・研究はめざましい進展をみた。確認された遺跡の数は4000ケ所を越えている。
現代日本人の祖先と考えられる集団が日本列島へ最初にやってきたのは、今からおよそ4万〜3万年前である。人類は少なくとも10万年前には「ことば」を獲得していたと考えられているから、日本列島に最初に住みついた人間が「ことば」を話していたことは間違いない。しかし、その「こと
ば」がどんな言語であったかについては、ほとんど手がかりがない。「ことば」は本来空気の振動であり、文字時代以前のことばは、すべて消えてしまっている。
日 本語の文字資料が残っているのは、日本列島に住みついた人類の歴史からみれば、わずか千数百年前のことに過ぎない。3万年前にマンモスを追ってこの島にた
どりついた人びとの言語については、何の痕跡も残されていない。古事記、日本書紀、万葉集などの本格的な文献が現れるのは8世紀以降のことである。
中国語の場合は、紀元前1400年代のはじめころ、すなわち殷王朝が安陽に都して中原に君臨し、古代王朝としての偉容を成就したころから亀甲文が残っている。ヨーロッパの言語の場合は、その祖語は今からおよそ6000年前までたどることができる。それでも、1万年以上前まで遡らせることは、通常受け入れられていない。
先 史時代の日本語はどんなことばだったのだろうか。長野県信濃町の野尻湖畔からはナウマン象やオオツノ鹿の化石とともに旧石器時代の石器や骨器がみつかって
いる。ナウマン象は約2万年前の新生代更新世後期の東アジアに棲息していて絶滅した象の一種である。明治時代初期にお雇い外国人ナウマンが発見したので、
その名がある。日本人の先祖は象を湖に追い込んで、狩をしていたものと思われる。2万年前に日本列島に住んでいたマンモスハンターは、象をなんと呼んでい
たのだろうか。象に遭遇したマンモスハンターたちは「おーい、ナウマン象がきたぞ」とはいわなかったとしても、「おーい、象がきたぞ」と日本語で叫んだの だろうか。
象は中国語で
あり、現代日本語の象(ゾウ)は中国語からの借用語である。象という中国語からの借用語が日本列島にもたらされる以前からこの列島に棲息していた動物は旧
石器時代には何と呼ばれていたのだろうか。現在残されている日本語の資料からみる限り、万葉集の時代には象は象(きさ)と呼ばれていたらしい。
大和には 鳴きてか来らむ 呼ぶ子鳥 象(きさ)の中山 呼びぞ越ゆなる 高市黒人(万70)
昔見し 象(きさ)の小河を 今見れば いよよ清けく なりにけるかも 大伴旅人(万316)
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも
山部赤人(万924)
万
葉集では象(ゾウ)ではなく、象(きさ)というやまとことばがあてられている。 万葉集の時代にはもうナウマン象は絶滅していて大伴旅人も山部赤人も象を
みたことはなかったはずである。絶滅した象にちなんだ地名や河の名前が万葉集の時代まで残っていたということなのだろうか。
平
安時代に編纂された『倭名抄』には「象、和名岐佐(きさ)、獣の名なり。水牛に似て大耳、長鼻、眼細く、牙長き者なり」としている。『倭名抄』の編者であ
る源順は中国の書物を通じて象の形状を記しているにちがいない。しかし、その象の和名に象(きさ)というやまとことばがあったといことは驚くべきことであ る。
江戸時代になると芭蕉の『奥の細道』に象潟という歌枕がよまれている。
象潟や 雨に西施が ねぶの花 (芭蕉)
象潟や 料理何食ふ 神祭 (曾良)
松尾芭蕉の前にも能因法師や西行が象潟を訪ねており、芭蕉はその歌枕を訪ねたのである。芭蕉が訪れたころの象潟は松島のようなおもむきがあったようである。『奥の細
道』で芭蕉は「おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と記している。象潟を訪れる人は象潟の地に芭蕉の面影を求
めるが、今では陸地が隆起して田んぼになってしまっている。田んぼのなかに、その昔は小島だった小高い丘があり、そこに生える松だけが往時の風情をかろう
じて留めている。景観すらも数百年の間に変化してしまう。象(きさ)というこ とばだけが万葉の昔をしのばせる。
それにして
も、「象潟」という地名は、マンモスハンターのことばの痕跡を伝えているのだろうか。鳥海山のふもとの日本海沿岸にも、2万年前には、象が住んでいたとし
ても少しも不思議ではない。マウマン象の化石は野尻湖ばかりでなく、浜名湖や千葉県の印旛村、北海道などでも発見されているのである。象潟でも象の化石が
発見されたことがあるのだろうか。地元の教育委員会に問い合わせてみると、その返事はまったく意外だった。実は象潟は蚶貝(きさがい)がたくさん取れたの
で蚶潟と呼び習わされていたという。蚶貝とは赤貝のことである。名勝象潟は蚶
潟だったのである。蚶潟は万葉集の字を借りて後に象潟に変えたのである。象潟が蚶潟と書かれていたら、歌枕になっていたかはなはだ疑問である。景観は変わ
り易く、ことばもまた消えやすく、変りやすい。
記録によると、歴史時代に入って日本人が初めて象を見たのは1408年(応永15年)のことである。南蛮船が若狭に黒象を一頭もたらして、将軍足利義持に贈ったというのが最初である。その後、1728年
(亨保13年)には、時の将軍吉宗の命によって、清国船がもたらした象が「享保の象」として知られるようになった。象は長崎にもたらされ、翌年3月13日
に長崎を出発、4月16日に大阪に着き、同26日に伏見から京都に入った。そこでこの象は従四位の位が授けられ、「広南従四位白象」という名前がつけられ
て、宮中に参内したという。その後、4月29日に京都を出発、1日に5〜6里の道中をして、5月25日にようやく江戸に着いた。松尾芭蕉が奥の細道の旅に
出たのは元禄二年(1689年)のことだから、芭蕉は亨保の象を見ていない。
日本語の「き
さ」とはなんであろうか。新井白石は『東雅』のなかで「象 キサ 象は西南夷の獣也。古の時、此ノ国に来れりとも聞えず。しかるを呼びてキサといひしは、
其牙(きば)によりて、つゐに獣ノ名のごとくなりしと見えけり」としている。「きさ」の「き」は白石のいうごとく牙「きば」の「き」である可能性がある。
「きさ」の「さ」は朝鮮語で「牛」をさすことば、牛(so)と
関係のあることばではなかろうか。つまり「きさ」は「牙のある牛」である可能性がある。『倭名抄』にも「水牛に似て、大耳、長鼻、眼細く、牙長き者なり」
とある。ただし、「きさ」ということばが、マンモスハンターの時代から使われていたかどうかは、不明である。マンモスハンターが「おーい、象(きさ)がき
たぞ」と叫んだかどうかもまったくわからない。歴史には残念ながら欠落があり、歴史のすべてを残された史料からしることはできない。そのことは、言語にお
いて顕著である。
ことばは不思
議である。日本人がみたことのないものに名前だけが残っていることがある。象ばかりでなく、麒麟や虎はどうだろう。麒麟は動物園にいる首の長いキリンでは
なく、中国では想像上の動物でキリンビールのラベルに描かれている麒麟である。麒麟は日本書紀白雉元年の条にみえる。
昔西の国の君、周の成王の時と、漢の明帝の時とに白雉があらわれた。我が国では応神天皇の世に白烏が宮に巣をつくり、仁徳天皇の時に龍馬が西に見えた。こ
れをもって、古より今にいたるまで、祥瑞時に見えて、有徳に応えることの例は多い。いわゆる、鳳凰、麒麟、白雉、白烏、かかる鳥獣より、草木にいたるま
で、符(しるし)こたえあるは、みなこれ天地のなす所の、よき祥嘉瑞なり。
白雉元年とは
650年のことである。鳳凰も麒麟も想像上の動物で、めでたい動物とされている。中国では聖人が出現するしるしとされ、雄を麒、雌を麟という。一日に千里
走るともいわれる動物である。鳳凰も麒麟も中国語からの借用語である。麒麟は中国語だが虎はちがう。虎は中国語では虎(hu)でその泣き声による。ところが、日本語の虎(とら)は中国語からの借用語ではない。朝鮮語では虎(ho-rang-i)であって、これも日本語の虎とは関係なさそうである。朝鮮語のho-は中国語の虎(hu)をあらわしているのであろう。
虎は日本列島には住んでいない動物である。しかし、日本語には「とら」ということばがある。「とら」ということばはどこから来たのだろうか。柿本人麻呂の長歌に「虎かほゆる」とあり、万葉集の時代には、すでに「虎」という動物は、日本人に知られていた。
小角(くだ)の音も 敵(あだ)見たる 虎かほゆると 諸人(もろひと)の おびゆるまでに 柿本人麻呂(万199部分)
虎に乗り 古屋(ふるや)を越えて 青淵に 鮫龍(みづち)とり来む 剣刀(つるぎたち)もが 柿本人麻呂(万3833)
韓国(からくに)の 虎とふ神を 生取に
八頭(やつ)取り持ち来 その皮を 畳に刺(さ)し 乞食者の詠(万3885部分)
日本語の起源を南島に求める説もあるので、念のため日本に一番近い南島であるグアム島のチャモロ語について調べてみると、チャモロ語では「虎」はtigiriであり、英語のtigerにあたることばである。グアム島はスペインの植民地支配だったのでスペイン語のtigreからの借用語である。南島語のひとつであるマレー語ではharimau
あるいはrimauである。マレー語の「ハリマオ」も、日本語の「とら」と関係のあることばとは思えない。
新井白石も
「虎 トラ 義不詳。虎はもとこれ此国の獣にあらず。貂をテンといひ、黒貂をフルといひ、水豹をアザラシといひ、羊をヒツジといふがごとき、並に海外の方
言によりしもしるべからず」としている。新井白石は漢語以外のことばはすべて「やまとことば」であるとはしていない。未だ明らかにされていないが、海外の
方言に依拠しているものだろうとしている点が注目される。
ちなみに、英語では象はelephant、麒麟はキリンとは違うがgiraffeであり、虎はtigerである。英語の辞書で調べてみるとelephantは中世英語ではelifauntあるいはolifauntであり、古代フランス語のolifantからの借用語であるとある。さらに古くはラテン語のelephant-us、ギリシャ語のelephant-(os)に由来するとある。そして、elephasとは象牙のことであるとしている。英語のgiraffeはフランス語、スペイン語ではgirafaであり、アラビア語のzarafaあるいはzorafaかたきているという。また、tigerは中世英語ではtigreでありフランス語からの借用語であるとしている。ラテン語ではtigris、ギリシャ語もtigrisである。ペルシャ語にtigraということばがあり、矢を意味するが、tigrisの語源はペルシャ語に求められる。
日本語には語
源の明らかでない単語が多い。近隣のことばである朝鮮語や中国語に似たことばがないのである。語源が明らかにできない原因のひとつは、古代日本語も朝鮮語
も独自の文字をもっておらず、古代の言語の記録がいなかったことにある。また、中国語は古い記録を残しているものの、そして漢字は象形文字であり、古代中
国語音の音価を復元することが困難なことも、東アジアの古代言語の解明を妨げている。アルファベットは表音文字だから、発音が変われば綴り字もそれにつれ
て変わるが、漢字は発音が変わっても字形はそのままである。
日本列島では1万2千年前ころから縄文文化が栄えた。北は北海道から南は沖縄にいたる地域で、縄文人は縄文土器を整作し、それが今も発掘されている。青森県の三内丸山遺跡には縄文時代前期から、中期、すなわち、いまから5500年前から4000年前にわたる1500年のあいだ連綿として続いた集落のあとが残されている。
縄 文時代の日本列島には、日本語とは言語構造のことなるアイヌ語を話す人びとも住んでいた。しかし、アイヌ人が縄文土器を共有していた形跡はない。アイヌ人
とは別に、縄文土器を残した人びとがいた。縄文時代の日本列島には少なくともふたつの異なった言語を話す人びとが住んでいた可能性がる。
縄文人は狩猟採集生活を主としていたが、栗などの栽培なども行っていた。縄文時代も中期になると、縄文土器が使われた。煮炊きはもちろん、盛りつけ、食物の貯蔵にも用いられた。また、埋葬用の甕棺なども作られている。紀元前4000年ぐらいになると定住がはじまり、栽培植物として、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、アサ、ウルシなどがみられるようになる。
現代日本語のヒョウタン(瓢箪)、ゴマ(胡麻)、ゴボウ(牛蒡)はいずれも中国語からの借用語であり、縄文時代のことばを伝えているとは考えられない。栗の古代中国語音は栗[gliet]であり、これが借用されて日本語の栗「くり」になったと考えることができる。アサは朝鮮語の麻(sam)
と関係があるかもしれない。漆の古代中国語音は漆[tsiet]であるが、「ウルシ」の「ウル」は「漆」の朝鮮語読みである漆(chil)と関係がある可能性がある。
し かし、縄文時代にクリ、ヒョウタン、ゴマ、コボウなど、縄文生活の基本語彙が中国から借用されていたとは考えにくい。縄文時代を代表するこれらの植物をあ
らわすことばが日本語のなかに入ってきたのは中国文化との接触がはじまって以降のことであろう。縄文時代の日本語と弥生時代の日本語の間には断絶があり、
縄文時代の日本語は消滅してしまった可能性がある。現代の日本語の原形は弥生時代に形成されたと考えざるをえないのではあるまいか。
縄文時代には焼畑耕作が行なわれていた可能性もある。焼畑は南島系の文化で、タロイモなどのイモ栽培を行う。コンニャクもイモ栽培文化の一環である可能性がある。 司馬遼太郎は中国を旅して「コンニャク問答」という文章を書いている。
私はかつて、コンニャクに興味をもち、この方面にくわしそうな人をつかまえては、コンニャクはどこからきたのでしょうか、ときいたりしたが、たれもがかぶりを振った。
また中華料理店へ行くたびに、料理人に、
――コンニャクの料理は、中国にありますか。
ときいたが、たれもが、「ない」と断定するか、「中国人はコンニャクを食べません」というか、もしくは「コンニャクの料理などきいたこともない」という返
答だった。要するに、中国人はコンニャクのような奇妙なもの――栄養にならず、またタケノコのように消化のたすけになるという効用もないもの――は食べな
いかのようなのである。
ところがこまったことに、コンニャク蒟蒻(クニャク)は漢語である。
――わが国では古代から栽培されてきた。
という「古代」が漢字渡来以前とすれば、この植物(または食品)についての大和言葉が存在したはずだが、こんにちにつたわっておらず、方言にも残っていないようにおもえる。(方言に、コンギャクとかコンニャとかいうのがあるが、コンニャクからの転訛であることはいうまでもない。)やはり中国からきたと考えるほうが穏当であろう。
もっとも「蒟蒻」という外来語が日本に根付く以前に、そのモノが日本に存在しなかったということは、断定できない。
縄文時代、私どもは採集食物としては木ノ実、栽培したものとしてはサトイモのたぐいをさかんに食っていた。コンニャクはサトイモ科である。その球茎(コン
ニャク玉)を掘って食うということがなかったかとなると、何ともいえない。ただ、なま芋のまま(あるいは干して粉末にして)食ってうまいかどうか、私は試
していないからなんともいえない。(『街道をゆく20―蜀と雲南のみち』p.35所収)
司
馬遼太郎は結局、現代の中国ではコンニャクは四川地方だけで食べるということを知る。しかし、四川地方でも、もはやコンニャクということばは使われず、磨
芋豆腐(モーユードウフ)あるいは雪磨芋(シュエモーユー)と呼ばれている。豆で作る豆腐と、芋で作る豆腐である蒟蒻の共通点は、いずれもアルカリ系の凝
固剤を使うという点にある。日本で縄文時代に、コンニャクが栽培されていたかどうかは不明である。しかし、日本人の食感にあい、現代の日本人の食卓にもし
ばしばのぼる「コンニャク」も語源をたどれば「蒟蒻」という漢語に行きつく。豆腐や蒟蒻も、結局その起源は中国にあり、ことばも中国語からの借用語であ る。
植物の栽培が
本格的にはじまるのは弥生時代になってからである。定住がはじまり、食物を栽培するようになると、狩猟採集時代にくらべて人口が急激にふえる。食料が安定
的に供給されるようになるからである。原始時代の人類の生活の様子はマリノフスキー、モース、レヴィストロースなど人類学者が報告している未開社会の生活
に近かったであろう。
日本列島にも原始社会があり、狩猟採集生活から焼き畑農業、食物栽培へと移っていった。芋などの栽培植物の名前はどこから来たのだろうか。日本語の芋「いも」は万葉集の時代には「うも」である。「うも」の「う」は中国語の芋(yu)であろう。万葉集にはつぎのような歌がある。
蓮葉(はちすは)は かくこそあるもの 意吉麿(おきまろ)が 家にあるものは
宇毛(うも)の 葉にあらし 長忌寸意吉麻呂(万3826)
四川地方でコンニャクのことを磨芋(モーユー)というとすれば、芋磨(ユーモー)といういいかたはなかったのだろうか。芋磨は日本語のイモに近い。しかし、現代の漢和辞書には芋磨という語はのっていない。
レンコンも万葉の時代から食用にされていたのであろう。この歌では「蓮葉」と書かれているが詞書では「詠荷葉歌」となっていてハスの語源も中国語の荷子[hai-tziə]である。ハチスは「荷+チ+子」であり、「チ」は庭ツ鳥、沖ツ波の「ツ」にあたることばであろう。日本の辞書には蓮は訓がハスで音がレンと書いてあるが、ハスもレンコンも中国語からの借用語であり、ハチスはハスの転用である。
日常日本人の食卓にのぼる根菜類の「大根」や「人参」、「牛蒡」も漢語のようである。しかし、古事記、万葉集の時代の日本語には、「ダイコン」ではなくて「おほね」と呼ばれていた。古事記歌謡につぎのような歌がある。
つぎねふ 山城女(やましろめ)の 木鍬持ち 打ちし淤富泥(おほね) 根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かず来(け)ばこそ 知らずとも言はめ(古事記歌謡)
仁徳天皇の歌
とされるこの歌にある淤富泥(おほね)とは現代日本語の大根(だいこん)のことである。中国語には大根ということばはない。大根(だいこん)は和製漢語で
ある。須之部淑男の『ダイコンをそだてる』(岩波書店)によると、ダイコンの原産地は地中海地方で、西アジア、インド、またシルクロードを経て、中国南
部、北部地方、朝鮮半島にも広がったという。
中国でダイコ
ンについて記録が、はじめて出てくるのは紀元前2世紀頃に完成した『爾雅』である。古代中国ではダイコンのことを蘆菔(ルフ)と呼んでいた。その後、萊菔
(ライフ)あるいは、蘿蔔(ルオポ)と呼ばれて今日にいたっているが、大根(ダイコン)と呼ばれたことはない。ダイコンの学名はラファヌス(Raphanus)で、ギリシャでは今でもダイコンを「ラファニ」と呼んでいる。中国語の「ルフ」は「ラファヌス」から来たものである。
日本では「やまとことば」で「おほね」と呼んでいた。それが、後に和製漢語で大根(だいこん)と呼ばれるようになったのである。現代朝鮮語では大根はmu-uである。朝鮮語のmuは蕪、uは芋であり、中国語からの借用である。直訳すれば蕪芋ということになる。根菜類について中国語、朝鮮語、日本語の関係を調べてみると、意外にも共通語は少ない。これらの多くは外来種である。
日本語 中国語 朝鮮語
大根(ダイコン) 蘿蔔(ルオポ) 蕪芋(ムウ)
人参(ニンジン) 胡蘿蔔(フルオポ)
唐根(タン゚グン)
人参(レンシェン)
牛蒡(ゴボウ) 牛蒡(ニューバン゚) 牛蒡(ウオン゚)
蓮根(レンコン) 藕(オウ)
蓮(ヨン)
ジャガイモ 土豆(トウドウ) 甘蔗(カムジャ)
注:「ン゚」は鼻濁音(-ng) を表わす
中
国の古い辞書にも蓮根や大根ということばがあったという記録はみあたらない。借用は中国語の語彙をそのまま借りるのではなく、荷子がハチスになったように
転移することもある。カボチャが朝鮮語ではジャガイモ(甘蔗)になったりすることもある。日本語では甘藷はサツマイモである。
ジャ
ガイモは大航海時代以降南米から世界に広がったもので、縄文時代には中国にも日本にもない。日本語のジャガイモは「ジャガタラいも」であり、ジャカルタか
ら渡来したと考えての命名であるという。中国語の「土豆」は、フランス語のポムドテール(土のりんご)式の命名である。
カボチャは中国語では「南瓜」、朝鮮語では胡瓠(ho-bak)で
あり、胡(北方の異民族)から伝えられたものと考えられている。日本語のカボチャはカンボジアから来たという説もあるが、どうであろうか。根菜類の名には
縄文時代から受け継がれたと思われるものはほとんど見られず、弥生時代以降中国語を借用したものか、和製漢語を作りだしたものが多いことがわかる。
農耕生活は狩猟採集生活に比べて、はるかに生産性が高く、水田耕作などが始まると人口も増えるのが常である。稲作は鉄器とともに、中国から朝鮮半島を経由し
て入ってきた。稲作と鉄器をたずさえて渡来した優勢な弥生文化に押し崩されて、縄文文化は弥生人によって吸収されてしまった可能性がある。
日
本列島に稲作文化が入ってきたのは、紀元前5世紀ないし4世紀のことだされている。最近の研究では、紀元前10世紀にさかのぼるという報告もある。狩猟採
集生活から定住農耕へかわることによって、歴史は大きく転換する。縄文時代の日本語がかなり深い霧のなかにあるのに比べて、弥生時代の日本語はおぼろげな
がら、その痕跡をたどることができる。
稲
作文化の豊な蓄積を追い求めて、政治権力も進出してくる。漢の武帝は前109年に朝鮮半島を攻める。漢の軍勢は水陸二軍に分かれて、水軍は山東省から渡海
して大同江をのぼって都平壌を突き、陸軍は遼東半島から南下してこれに合流した。水軍の武将楊僕は五万の兵を率いて「斉より渤海に浮かび」衛氏朝鮮を討っ
たと『史記』は伝えている。斉とは山東半島のあたりのことであり、黄河の河口にあたる。朝鮮半島は中国黄河流域の文化の洗礼を、すでに紀元前に受けていた
のである。漢の武帝の版図は、東は朝鮮半島から、南は越南(ベトナム)、西は匈奴の地である敦煌のあたりまで及んだ。後に漢字文化圏と呼ばれる朝鮮半島か
ら日本列島、南はベトナムに至る地域はすでに漢の武帝の時代に、その基礎がほぼ固められたということができる。
朝
鮮半島には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれて、漢の支配は400年間続いた。漢の植民地には多くの官吏、商人、富豪、知識人などが住みつき、中国人
の移民も入植した。平壌にある楽浪郡の遺跡からは四川省で製造された美しい漆器や利器、貨幣類などが見つかっている。楽浪郡の支配範囲は現在のピョンヤン
からソウルのあたりまで及び、玄菟郡は楽浪郡の北から遼東半島へと広がっていた。真番郡は南に現在の光州、木浦のあたり、臨屯郡は東部海岸をその勢力範囲
とした。後に楽浪郡以外は廃止され、楽浪郡の南には帯方郡が置かれたが、最盛時には現在の慶州、釜山など東南部の地域を除く、朝鮮半島全域が中国の植民地 になった。
そ れにともなって、支配者の言語である中国語が、朝鮮半島でも使われるようになり、中国語を母国語としない人々も中国語の語彙を借用した。文字の使用はまだ
少数の支配階級とその官僚たちに限られたに違いない。しかし、中国から送りこまれた役人や、入植した中国人たちは、アルタイ系の言語を話したであろう現地
人とコミュニケーションする必要に迫られた。そこで起ったことは、植民地時代にカリブ海の島々や太平洋の島々で、ヨーロッパからの入植によって起ったこと
を思い起こせば、十分に想像がつく。朝鮮半島に住み着いた中国人は中国語を話し、朝鮮語のなかに中国語の語彙をもたらしたであろうことは、疑いの余地がな い。
中国語と朝鮮語の混交が進み、ピジンやクレオールが生まれた可能性がある。ピジン・クレオールとは共通の言語がない人たちの間で、伝達の手段として用いられ
る混交言語である。ピジンはごく限られた語彙と簡略な文法で、母語の異なる人びとの間のコミュニケーションに使かわれる。ピジンが次の世代に伝えられて、
ある言語社会の母語となったとき、クレオールになる。クレオールは言語としての機能をすべて備えているから、その場しのぎのことばではない。現代の朝鮮語
は漢の時代にクレオール化した言語の末裔である可能性がある。また、弥生時代の日本語のもとになった言語も、朝鮮半島でクレオール化した言語を受け継いで
いる可能性がある。
西暦220年、後漢王朝が崩壊すると中国は三国時代に入り、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が鼎立する。呉は海戦を得意として、229年には海路遼東半島に軍を進め
た。237年には孫権は兵隊2万をもって、揚子江沿岸の江夏郡に進攻した。そのとき孫権は海路経由で高句麗と手を結んでいたという。翌238年、魏は4万
人の遠征軍を遼東に送り、孫権の軍を滅ぼす。魏もまた海路経由で軍隊を派遣し、帯方郡、楽浪郡を支配下に置く。朝鮮半島には陸路からばかりでなく、遼東半
島を経由して海路からも江南の影響力が及んでいた。
400年に及ぶ朝鮮半島の植民地支配は、朝鮮語や日本語の形成に大きな影響を与えた。現代の朝鮮語や日本語は、文献を通じて中国語から語彙を借用しただけでは説
明しきれないほど、中国語から多くの語彙を借用している。『三国志』烏丸鮮卑東夷伝によると「高句麗は遼東半島の東一千里の所にあって、南は朝鮮・濊貊と
接している」としている。濊は倭に通じ、貊は百済に通じる。「濊(わい)は、南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接し、東は大海の岸辺にまで及んで、いま
の朝鮮の南部はみなその土地に含まれる」とあるから、倭人はその昔、朝鮮半島の東部に住んでいた可能性もある。
日本列島でも、弥生時代の末期には生産力が向上し、各地で豪族が富を蓄積し、古墳を築くまでに至った。縄文人の言語は劣勢となり、弥生人の言語が優勢言語と
なっていったであろうと考えるのが自然である。弥生文化の流入にともなって、中国江南地方のことばも日本語のなかに入ってくる。
日本の古墳からは大量の中国鏡が出土する。中国の考古学者王仲殊が明らかにしたように、三角縁神獣鏡と同系の神獣鏡や画像鏡は中国江南地方、呉の故地から出
土しており、日本の前期古墳時代が中国江南地方の文化の強い影響下にあったことがうかがえる。古墳の建造そのものが中国文化の影響下で始まったともいえ
る。遊牧・狩猟民族であったアルタイ系言語を話す人々は、移動して生活していたため薄葬の習慣をもっており、大型陵墓の造営は行わなかった。
古墳文化は、中国大陸から朝鮮半島を経て日本にやってきた、農耕文化の蓄積のうえに花開いた文化である。日本語もまた、中国文化との接触のなかで形成されて
きた。朝鮮半島や日本列島に住んでいたアルタイ系言語を話す人々は、中国から稲、金属器、古墳文化を受け入れるとともに、中国語の語彙も受け入れた。日本
語は中国、朝鮮半島、日本列島という東アジアのトライアングルのなかで育まれてきたのである。
日
本列島の住人である倭人も壱岐、対馬から金海に渡り、朝鮮半島の西岸を北上して、楽浪郡にまで達した。『魏志倭人伝』によると、倭の女王卑弥呼が魏の明帝
に朝貢したのは魏の景初3年とされるから、西暦紀元239年のことである。また、『後漢書東夷伝』によれば「漢委奴国王」の印が後漢の光武帝から与えられ
たとある。建武中元2年のこととすると、西暦紀元57年ということになる。また、奈良県天理市石上神宮に所蔵されている七支刀(国宝)は東晋、太和4年の
紀年銘があるので西暦紀元369年ということになる。
石器時代、縄文時代の日本語についてはその痕跡をたどるのはむずかしい。しかし、弥生時代になると、どうやら日本語の姿がみえてくる。
日本語の起源を考えるうえで、もっとも大きな障害となっているのは、日本語の語源がほとんど不明だということである。日本語の語彙はどのように形成されてきたのであろうか。弥生文化を支えた、稲作と鉄
器にかかわる日本語のルーツをたどってみたい。
○
米 米(こめ)の「め」は中国語の米であろう。米(こめ)の「こ」の語源は不明である。米(こめ)の「こ」は中国語の禾である可能性がある。禾は禾本科植物の禾であり、稲や粟のことである。白川静の『字
通』によれば、中国語には「禾米」ということばがあって、米を意味するという。また、米は現代上海語では米(hmi)と発音されるという(宮田一郎編著『上海語常用同音字典』光生館による)。入りわたり音のhは喉音であり、日本語ではkとなる。日本語の米「こめ」が江南地方の中国語音を文字としてではなく、耳で聞いて借用したものであるとすれば、米の「こ」は現代上海語に残る入りわたり音を写したものである可能性もある。日本書紀歌謡
につぎのような歌がある。
岩の上に 小猿渠梅(こめ)焼く 渠梅(こめ)だにも 喫(た)げて通らせ
山羊(かましし)の老翁(をぢ)(日本書紀歌謡)
米(こめ)は米(よね)とも呼ばれた。『倭名抄』には「米、與禰。穀實なり」とある。米は稲の実のもみがらを除いたものである。万葉集には稲(いね)も詠まれている。
伊禰(いね)舂けば かかる我が手を 今夜もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ
(万3459)
稲(いね)は古代中国語の秈が語源であるという説もある。「秈」は中国語では「うるち米」の
ことである。中国語では「米」は米(mi)、「稲」は稲、「めし」は飯である。朝鮮語では米
(ssal)、稲(pyo)、飯(pap)である。南島語のチャモロ語では米(fa’i)、飯(hineksa’)である。マレー語
では米(beras)、稲(padi)、飯(nasi)である。焼き飯の「ナシゴレン」は、エスニック料理として日
本でも人気がある。マレー語の飯(nasi) は日本語の飯(めし)と関係のあることばである可能性
がある。
○ 鉄
弥生文化のもうひとつのキーワードは「鉄」である。「鉄」にあたる「やまとことば」は
「く
ろがね」である。「くろがね」は「黒金」である。日本語の「くろ」は中国語の「黒」あるい
は「玄」であり、「かね」は中国語の「金」に対応する。鉄は
「くろがね」、金は「くがね」、 銀は「しろがね」であった。山上憶良につぎのような有名な歌がある。
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
山上憶良(万803)
弥生文化を象徴することばのなかには、中国語からの借用語がかなり含まれている。奈良時代以降の日本漢字音と、弥生時代の借用音とは、発音が異なる場合が
ある。金(キン・かね)、秈(セン・しね)などは金(かね)、秈(しね)が古く、金(キン)、秈(セン)は弥生時代以降の発音である。古代日本語には
「ン」で終る音節がなかったので、あとに母音をつけて金(かね)、秈(しね)と発音した。
日本語のなかに定着して「やまとことば」と考えられていることばのなかにも、弥生時代に中国 語から借用したと思われることばが隠されている。酒、味噌、醤油、鮨、茶など、日本人の食卓に は欠くことのできない食物も、その語源は中国語であることが多い。
○ 酒 酒は米を原料とすることから、弥生時代以降にできたと考えられる。『古事記』によると、
酒は応神天皇のとき百済からもたらされたという。「酒」を日本にもたらしたのは秦造(はたのみ
やつこ)の祖、漢直(あやのあたい)の祖であるという。古事記歌謡につぎのような歌がある。
須々許理(すすこり)が 醸(か)みし御酒(みき)に
われ酔(ゑ)ひにけり
ことな酒(ぐし)ゑ酒に われ酔ひにけり(古事記歌謡)
「須々許理」は「酒造」である。朝鮮語で酒は酒(seul)である。日本語の酒「さけ」、あるいは
朝鮮語の酒は、古代中国語の酒[tziu]
あるいは酢[dzak] と関係のあることばである。酒は発酵を止
めないでほうっておくと酢になってしまう。酢と酒はかなり違う飲み物であるが、その製造手法
は同じである。台湾の音韻学者、董同龢によると、「酒」の古代中国語音は酒[tsiog] だという。
日本語の「さけ」の語源が中国語の「酒」であることは、まずまちがいない。朝鮮語の酒
(seul) も語源は中国語であろう。
もっとも、古事記、日本書紀には、スサノオノミコトが「やまたのおろち」を退治するときに、よく醸した酒を、八樽用意させたという記述もあるのから、酒
は神代の時代からあったことになり、『古事記』の応神記の記述は神代の記述とは矛盾している。『古事記』によれば、スサノオノミコトは十拳剣(とつかつる
ぎ)を抜いてその蛇(おろち)を退治したとある。また、蛇の尾の中からは太刀がでてきたとあるから、日本の神代には米や酒ばかりでなく鉄のような、弥生時
代を象徴するものがすべてそろっていたというのが『古事記』の想定である。
現代北京語では「酒」は酒(jiu) で
ある。中国の酒には蒸留酒、醸造酒、果実酒がある。蒸留酒は貴州の茅台酒が有名で、アルコール分が55度ある。コウリャンと小麦を原料とした酒である。四
川省には五粮液という酒があって、コウリャン、米、小麦、トウモロコシ、もち米の5種類の穀物を原料として作る。茅台酒のような強い酒が中国にできたのは
元の時代である。中国人は蒸留酒の製造法を蒙古のアラキから学んだという。
醸
造酒は逝江省の紹興酒がよく知られている。老酒(ラオチュウ)というのは年代物の俗称である。中国では女の子が生まれると甕に入れた紹興酒を地中に埋め
て、その子が結婚するときに、年代物の酒を客にもてなす習慣のある地方もあるという。その故事にあやかって「女児紅」などという名の古酒も売られている。
日本の酒は茅台酒系の蒸留酒ではなくて、紹興酒系の醸造酒である。
日
本では中国料理店にいけばどこでも紹興酒を飲めるが、中国では内陸部ではレストランにも紹興酒は置いてない。醸造酒は江南地方の酒であり、蒸留酒は内陸の
酒である。洋酒は威士忌(ウイスキー)、白蘭地(ブランデー)、拿破侖(ナポレオン)、馬丁尼(マティーニ)、老伯威(オールドパー)、白馬(ホワイト
ホース)などがある。ビールは中国では啤酒(ピジュウ)であり、青島(チンタオ)啤酒が有名である。
韓国ではビールは麦酒(メクチュ)であり、OB
麦酒とクラウン麦酒が寡占状態にある。韓国の酒では真露(チンノ)とマッカリ(濁り酒)であろう。慶州には法酒(ポプチュ)という日本酒によく似た酒があ
る。「日本酒にそっくりですね」というと、「日本酒が法酒にそっくりなのよ」といわれる。ちなみに韓国では、日本酒のことを正宗(チョン゚ジョン゚)とい う。
○ 味 噌、醤油。 日本人の食卓に欠くことのできない味噌、醤油も、その起源は中国に求めること ができる。西暦100年ころ成立した『説文解字』(以下『説
文』という)には「醤は醢(しおか ら)なり」とある。肉を細く切り、麹と塩をまぜ、酒を加えて密蔵したもので、日本の塩辛にあた る。醤には魚醤、肉
醤、豆醤があり、魚醤は塩辛の類である。魚醤を濾したものがタイではナンブ ラーであり、日本では秋田のショッツルが魚醤である。ショッツルはハタハタな
どの小魚を原料と して作る。能登のイシリも魚醤で、イカやイワシを原料として作る。香川ではイカナゴを使う。
「味噌」はもと「未醤」と書いた。現代では「味噌」と書いている。新井白石は、未醤とは高麗 醤のことであるとしている。日本の味噌は、中国の醤が朝
鮮半島で高麗醤となり、それを高麗から 日本人は学んだ可能性がある。中国や朝鮮半島では毎朝味噌汁を飲むというような習慣はないが、 日本食には欠かせ
ないものになっている。日本の「醤油」は大豆と大麦とを蒸して作った麹(こう じ)に食塩水を加えてしぼったものである。日本語「醤油」も「味噌」も語源
は中国語である。朝 鮮語の醤(ジャン)も中国語起源である。漢字は味噌・醤油文化圏でもある。
味噌、醤油の原料である「むぎ」の古代中国語音は麦[muək]であり、弥生時代の日本語では麦「むぎ」である。古代日本語には濁音ではじまることばはなく、語中・語尾では清音も濁音化する 傾向があった。奈良時代以降麦(むぎ)麦(バク)と発音されるようになり、現代の日本漢字音で は麦(バク)である。現代の朝鮮語では麦(pori)である。朝鮮語の麦(pori)も語源は中国語の「麦」 と関係のあることばであろう。朝鮮語も古代の日本語と同じように、語頭に濁音がくること がな いので、語頭の子音が清音のpになった。
豆(まめ)の中国語は豆[do]であり、朝鮮語は豆(kkong)である。日本語の豆(まめ)は、中国語にも朝鮮語にも類似語がなく、語源は不明である。おそらく、「丸い」などと関係のあることばであろう。
○ 鮨 鮨はいまや日本料理の代表格で、世界中で健康食としてもてはやされている。しかし、日
本語の「すし」も中国伝来である可能性がある。周代から漢代の諸儒が諸経書の伝注を採録し
た『爾雅』や、後漢の許慎の選による字書『説文』に、すでに鮨の記録がある。
『説文』によると、鮨は「魚の腊醤なり」としている。「腊」は肉の塩辛である。それに対し て、魚の腊が「鮨」である。この時代の中国には鮨(塩辛)と
鮓(馴れずし)があった。「鮓」 は弥生時代の貴重品である米と塩で魚を醸して熟したもので、日本の鮒鮨のような製法である。 日本語の「すし」の「す」
は「鮓」あるいは「腊」であり、「すし」の「し」は中国語の「鮨」 であろう。日本で生魚を鮨で食べるようになったのは江戸時代以降のことであろう。鮨屋
ははじ め屋台で営業していた。江戸東京博物館に行くとその屋台が今でも展示されている。
○
茶 茶は今日では、世界中で愛飲されている。また、茶という中国語も「ティー」、「チャ
イ」などとなって世界中で使われている。弥生時代の日本人が茶を飲んだという証拠はない。
茶
は仏教とともに日本へ入ってきた。香りを楽しむばかりでなく、薬効があるといわれ、特に禪 宗では座禅のとき睡魔を払う効果も期待された。日本では喫茶の
習慣ができたのは鎌倉時代から である。ヨーロッパにおける喫茶の流行は、アヘン戦争を引き起こす原因の一つにまでなった。
茶
はもと荼といったらしい。といっても、茶ということばが一般に中国語に定着するのは唐代以 降のことであり、茶を最初に喫したのは漢民族ではなく、巴(現
在の四川省重慶あたり)や蜀 (現在の四川省成都あたり)の少数民族であった。中国の古い辞書である『爾雅』や『説文解 字』には荼(ト)のほかに檟
(カ)、艹/舜*(シュン)、蔎(セツ)、茗(メイ)などの名前でも 出てくる。茶も蒟蒻と同じように、今の四川省や貴州省に住んでいるヤオ族、シェー族、イ族な ど少数民族のことばを、漢族が借用したものである。今日の中国語では、北京語では茶 (cha)、 広東語では茶(chah)、福建語では茶(ta)と呼ばれている。少数民族のタイ族はla、ミャオ族はji
hu、chu taなどと呼んでいるという。*艹/舜*=草冠+舜
弥生時代の日本語の語彙はすでに、朝鮮アルタイ系のものは少なく、中国語を語源とするものが多い。朝鮮語も農耕技術とともにかなりの中国語の語彙を受け入れている。漢字文化圏は稲作や鉄の到来とともに東にひろがった。
弥生時代の日本語を再構築する手がかりは極めて少ない。金石文のなかにその痕跡を探すか、中国の文献にわずかに記録されたものを解読するかしか方法はない。しかも、それらはすべて断片的なものにならざるをえない。『後漢書』倭人伝にはつぎのような記述がある。
建武中元二年(紀元57年)、倭の奴国が貢を奉じて朝貢した。使人は自ら大夫と称した。倭国の 極 南界である。光武帝(25−57年在位)は印綬を賜うた。
この印綬とい
うのが、博多沖の志賀島から出た金印ではないかとされている。金印は天明四年(1784年)に志賀島で、甚兵衛という農民によって大石の下から発見され
た。その噂を耳にした庄屋の長谷川武蔵は、「掘り出し物は早々に郡代官所に差し出さないと大変なことになる」と甚兵衛を促がして、上申書を作って提出し
た。金印は黒田藩のものとなり、甚兵衛には銀50枚が下賜されたという。
金印は厚さ8ミリ、一辺が2.3センチの正方形で、「漢委奴国王」と刻印されている。これを、なんと読むかが問題である。古くは「漢の委奴(いと)の国王」と読んで、『魏志倭人伝』にある伊都国に擬していた。明治25年(1892年)に三宅米吉博士が、「委」は「倭」の省略形であると指摘して、以後「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読み改めた。金石文ではしばしば省略形が用いられる。鏡=竟、神=申、祥=羊、銅=同などである。金印は発見から約100年間は、「漢の伊都の国王」と読まれ、その後の約百年間は「漢の倭の奴の国王」と読まれて、現在に至っていることになる。
現代でも
「奴」とは何か、という問は完全に解決したわけではない。中国語で「奴」とは奴婢のことである。つまり、奴隷である。「委」が「倭」だとしても、「奴」が
奴婢では「漢委奴国王」は奴隷の国王となってしまって、いかにもかっこうがつかない。現在では一般に、「奴」は『魏志倭人伝』に出てくる儺県、つまり那津
に比定され、博多の近くの地名とされている。つまり、「漢の倭の儺の国王」ということになる。
「奴」は高句麗語で「国」を意味するともいわれている。韓国の言語学者である李基文は『韓国語の歴史』のなかで、つぎのように述べている。
高句麗語は新羅語(及び中世語)、日本語、ツングース語等の語彙と共通要素を多く持っている。例えば高句麗語には、「奴、悩、内、那」(土、壌)等で表記された語がある。母音が円唇性を帯びていたと考えられるので、*nuaぐらいに再構されることができそうであるが、この語は南方ツングース諸語のna(地)、新羅語の「内」(世)、中世語のnarah(国、rahは接尾辞)、古代日本語のna(地)に比較される。(『韓国語の歴史』p.44)
『三国志』東夷伝には、高句麗の五族として涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部があげられている。「奴」の字のついた部族が多い。韓(弁辰)の地名に
も楽奴国があるほか、倭人の条でも弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国などがある。「奴」が「国」を表わすとすれば、「漢委奴国
王」は「漢の倭国の国王」ということになる。よく知られているように、『魏志倭人伝』のなかにも、金印紫綬の記述がみられる。
景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願いでた。大守の劉夏(りゅうか)は役人と兵士をつけて京都(みやこ)まで案内させた。その年の一二月、倭の女王への詔書が下された。
「親魏倭王・卑弥呼に制詔(みことのり)を下す。帯方太守の劉夏が使を遣わして、汝の大夫の難升米、副使の都市牛利を送り、汝の献上物、奴隷四人、女の奴
隷六人、班布(はんぷ)2匹2丈を奉じてやってきた。汝は遥か遠い土地にいるにもかかわらず、使者を送って献上物を届けてきた。これは汝の忠孝のあらわれ
であり、我はなはだ汝を哀れむ。今汝を親魏倭王となし、金印紫授を仮し、その印綬は封印して帯方太守に託し、汝に仮授せしめる。
卑弥呼が与えられた金印は、帯方郡の太守に託して届けられている。志賀島の金印も、実際には楽浪郡などの長官を通して与えられたものと考えられる。『魏志倭人伝』には日本の地名や古代の人名がでてくる。
卑弥呼は「日の御子」であろう。朝鮮語でも日は日(hae)で
ある。三世紀の日本列島はまだ、日本という国家が律令国家として成立するはるか前であり、中国文明が朝鮮半島を通して日本列島に及びはじめたころであり、
東アジアは一つの文明圏を形成していた。『魏志倭人伝』は倭人の条のみに関心が集まっているが、倭人伝は東夷伝の一部であり、夫余、高句麗、東沃沮(とう
よくそ)、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓を経てはじめて倭人の国に到る。『魏志倭人伝』もそのような文脈のなかでとらえなおすことが必要であろう。
日本には3世紀の日本語の記録はない。しかし、3世紀になると、中国の文献に日本に関する記述があらわれるようになる。『魏志倭人伝』は晋の陳寿(233
−297)の選んだ『三国志』のひとつで、日本の地名や日本人の名前が、漢字で表記されている。『魏志倭人伝』によって弥生時代の日本語のかたちを垣間見
ることができる。三国志の『魏志』巻30は烏丸伝、鮮卑伝、東夷伝の三部構成になっていて、3世紀当時中国の東北部にあった異民族の国家を列挙している。
「東夷伝」の冒頭の部分は次のような書き出しになっている。
『尚書』(禹貢篇)に
は次のような記述がみられる。「東の海に入るまで、西は流沙に及ぶまでの地域に、中国の教化が広がった」中国の教化が広がった地域については、しっかりと
した根拠に基づいて書くことができる。しかし、九州(中国の支配地域)からさらに彼方の地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国にやって
くることはあっても、中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、土地のありさまについて知る者はなかった。
邪馬台国は中国から見て僻遠の地であった。『魏志』巻30東夷伝のなかの国々には夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓、などが続き、ようやく倭人の条にいたる。
倭人は帯方郡(現在のソウル付近)の東南大海の中にあり、帯方郡より倭に至るには海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍
(あるい)は東し、倭の北岸狗邪(くや)韓国に到る。そこまでが七千里。はじめて一つの海を度(わた)る。その距離は千余里。対馬に至る。さらに澣海と呼
ばれる一つの海を千余里行くと一支(いき)国に至る。また一つの海を渡り千余里で末盧国に至る。東南に陸路を五百里行くと伊都(いと)国に到る。世々王あ
るも、皆女王の国に統属す。帯方郡からの使が往き来する場合常に駐(とど)まる所である。東南の奴国までは百里。東に進ん不弥(ふみ)国まで行くには百
里。南の投馬(とうま)国までは水路で二十日かかる。南の邪馬台国に至る。女王が都する所で水路十日陸路一月かかる。
魏志倭人伝の
倭人の条には地名あるいは国名が31、官名14、人名8が記録されている。対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥
(ふみ)、投馬(とうま)、邪馬台(やまたい)が倭人の住んでいる国である。対馬、一支は現代の対馬、壱岐である。末盧は肥前松浦郡、現在の唐津の付近に 比定される。
『魏志倭人伝』の時代から約500年を経て、日本で編纂された『古事記』には末羅、『日本書紀』には松浦として登場する。『万葉集』には麻都良我多、麻都
良河波、松浦乃宇美、松浦船などとして出てくる古代の交通の要衝である。
松浦県(まつらがた) 佐用比賣(さよひめ)の子が 領布(ひれ)振りし 山の名のみや
聞きつつ居らむ 山上憶良(万868)
足姫(たらしひめ) 御船泊(はて)てけむ 松浦(まつら)の海 妹が待つべき 月は経につつ (万3685)
二番目の歌は万葉集巻15にある歌で、「天平8年丙子夏6月、使を新羅に遣はしし時、使人等各別を悲しみて贈りて答へる、また海路の上に旅を慟み思を陳べて作れる歌、また所に當りて誦詠へる古き歌」という詞書がある。松浦は当時新羅や中国へ船出する港であった。
伊都は怡土郡、今の糸島郡のあたりであろうとされている。奴は一般に儺県、那津、今の那珂郡博多のあたりとされている。不弥(ふみ)
の「弥」は卑弥呼(ひみこ)などと同じく、古くは弥(み)と読む。
場所は特定できない「弥」は呉音が弥(ミ)、漢音が弥(ビ)とされている。「弥」の尓は爾で中国語音韻学でいう日母であり、音価は爾[njiai]である。尓は尓[miai]が口蓋化して爾[njiai]になったものであろう。任那(みまな)、壬生(みぶ)などではマ行であらわれ、弥生(やよい)、弥太郎(やたろう)などではヤ行であらわれる。中国語の日母は朝鮮語では頭子音が規則的に脱落して日本(il-bon)、仁川(in-cheon)などとしてあらわれる。「弥」を弥(ヤ)と読みならわすのは朝鮮漢字音を継承したものであろう。
投 馬国については定説がない。投馬国は現代の日本漢字音では投馬国(とうまこく)と読んでいるが、当麻国(たぎまこく)に相当する可能性がある。日本の古地
名では相模(さがみ)、相楽(さがらか)、香山(かぐやま)、伊香(いかご)、望多(まぐた)などのように、現代日本語でウ音便であらわれるところがガ行
であらわれることが多い。古代中国漢字音の韻尾[-ng]は調音の位置が[-k]と同じであり、日本語のカ行音に近かった。
『魏
志倭人伝』のなかに漢字で表記されている日本の人名や地名を正しく読み取り、3世紀の日本語を復元するためには、3世紀の中国語音を再構成できなければな
らない。しかし、漢字は象形文字であるため、時代とともにその読み方が変わっても、その痕跡を文字のうえに残してくれない。
随唐の時代の漢字がどのように発音されていたかについては、かなり研究が進んでいる。唐代には杜甫、李白などの漢詩が多く作られた。漢詩は韻を踏んでいる
から、その韻を調べていけば、どの漢字がどの漢字と押韻していたかが分かる。また、漢字は象形文字として出発したが、音を表わす声符をもったものが多い。
声符の一致する文字は、ある時代に同じ発音であったことが推測される。たとえば、「江」は声符が「工」であり、「河」の声符は「可」であるから、「江」は
「工」と同じ発音であり、「河」は「可」と同じ発音であることが知られる。しかし、3世紀の中国語音を復元するのは、唐代の中国語音を再構築するよりは困
難である。時代を遡るにしたがって、残されている文字資料が限られてくるばかりでなく、その音価を復元するために必要な、押韻などの事例が少ない。
唐
代以前にも漢詩は残されていて、たとえば紀元前600年ころに成立した『詩経』の韻は、唐詩の韻とはかなり違っていることが知られている。唐代の音で読ん
で韻を踏まない文字が『詩経』では脚韻字として使われていることがある。そこで、『詩経』などの韻を調べてみることによって、唐代以前の漢字音について
も、その音価を推定することができる。王力、董同龢などの学者が古代中国漢字音の音価を推定している。しかし、随唐の時代以前になると学者によってかなり
復元された音が違う場合がある。
王
力は中国の学者であり、『詩経』の押韻を研究して、『詩経韻読』、『同源字典』などを著わした。王力の古代中国語音は、白川静の『字通』にも載録されてい
るので、日本でも簡便に参照することができる。王力によると、『魏志倭人伝』に出てくる日本の地名の古代中国語音は、つぎのように復元できる。
倭人[iuai-njien]、 邪馬台[zya-mea-də]、 対馬[tuət-mea]、 一支[iet-gie]、 末盧[muat-la]、
伊都[iei-ta]、
不弥[piuə-miai]、 投馬[do-mea]
中
国語の音韻体系は日本語と違うので、中国語の発音をそのまま古代の日本語にあてはめることはできない。また、王力の古代中国語音は、紀元前600年ころに
成立した『詩経』の韻をもとに復元されているので、『魏志倭人伝』の時代である3世紀の中国語音とは異なっている部分もあることを、前提としなければなら
ない。そのうえ、朝鮮半島や日本などの地名や人名は、朝鮮語音の影響を考慮しなければならないので、復元はさらに困難になる。
○「邪馬台国」 王力によれば邪馬台国の古代中国語音は邪馬台国[zya-mea-də]国である。王力の 『同源字典』(p.161)をみると、邪[zya]
は耶[jya]と同源であり、與[jia]と声が近いという。「邪」 には「耶」の音もあるので、邪馬台国[jya-mea-də]と読むこともできる。邪の朝鮮漢字音は邪 (sa/ja)であり、邪を邪(や)と読むのは朝鮮ご読みであるということもできる。中国語ではサ行 の頭音がi介音の前で脱落することが、しばしばある。たとえば、つぎのような漢 字は同じ声 符をもっていながら、一方はサ行で発音し、他方はヤ行で発音する。
詳[ziang]・ 羊[jiang]、 俗[ziok]・ 欲[jiok]、 誦[ziong]・ 甬[jiong]、 舒[sjia]・
予[jia]、
説・悦、船・沿などもサ行頭音が脱落した例といえる。サ行の頭音の次にi介
音(わたり音)が くるとき頭音が失われる、という法則性が認められる。したがって、邪馬台国は「やまだ」ある いは「やまと」に限りなく近い。日本書紀
歌謡には「やまとは 国のまほろば たたなづく 青 垣山籠れる やまとし うるわし」の「やまと」に「夜摩苔」の漢字があてられている。魏志 倭人伝の
「邪馬台」も「やまと」を漢字で表記したものであろう。
古代音の復元はかなり専門的な分野にならざるをえないが、台湾の言語学者董同龢は『上古音韻表稿』のなかで旨、耆、赤、郝、示、祁などの上古音は旨[k-]、耆[k’-]、赤[g-]、郝[c-]、示[c’-]、祁[j-]であったのではないかとしている。一支は一支[iet-tjie]ではなく、一支[iet-gie]と再構される。確かに稲荷山鉄剣の銘は獲加多支鹵(ワカタケル)とあり、支は支(ケ)とカ行で読まれている。
投馬国についても董同龢は投[d’ûg]と復元している。日本の古地名でも相模(さがみ)、香山(かぐやま)、望多(まぐた)、楊生(やぎふ)、當麻(たぎま)など現在ではウ音便で発音している文字が[-g]であらわれる例は多い。投が投げ(とぐ)あるいは投(たぐ)だったとすると投馬国は當麻(たぎま)に比定できる。記紀歌謡に履中天皇と歌としてつぎのような歌がある。
大坂に 会ふや乙女を 道問へば ただには告(の)らず 當麻路を告る。(記紀歌謡)
當麻は難波から大和へ向かう道筋にあたり、魏志倭人伝の投馬国が邪馬台国の直前に置かれているのと整合する。
ア
ジアにおいて中国以外に国家という概念が存在しない時代にあって、大陸の東北部と日本列島は「東夷」として、一つの地域として位置づけられていた。邪馬台
国だけを独立してとらえる視点ではなく、東アジアの一地域としてとらえてみる視点の必要になる。同じ『魏志倭人伝』の韓の条には「卑弥(ひみ)国」という 国もある。
韓。 帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接している。民は定住していて、穀物を植え、蚕桑の技術を知っていて、綿や布を作る。伯済国、狗廬国、
卑弥国、不弥国など五十余国がある。漢の時代には楽浪郡の支配下におかれ、季節ごとに役所にやってきて朝謁していた。その後倭と韓は帯方郡の支配を受ける
ことになる。男たちは時に入れ墨をする者がある。
高
句麗。高句麗の五族として涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部があげられている。魏志東夷伝の高句麗の条には「言語諸事は多く夫余と同じ」とあり高句
麗は夫余と同じ濊貊系の民族であったと考えられる。同書東沃沮の条に「その言語は句麗と大いに同じくして、ときにすこしく異なる」、また濊の条に「言語風
俗は大抵句麗と同じ」とあることから、夫余・高句麗・沃沮・濊が同一の言語であったことがわかる。倭人は濊貊系とまではいわなくとも、これに近い民族で
あって、夫余、高句麗、沃沮と同じく中国東北部から朝鮮半島に漁労をともなった原始的な農業を営んでいた。
濊。南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接している。同姓の者は結婚しない。虎を神として祭る。
辰韓。辰韓では、自分たちは秦の労役を逃れて韓の国にやってきた、という言い伝えをもっている。楽浪郡の人のことを阿残と呼ぶ。楽浪郡の人はもの残余だから「阿残」というのだという。
弁 辰。弁辰楽奴国、弁辰弥烏邪馬国、弁辰狗邪国、斯廬国などの国がある。土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、布を織る。
国は鉄を産し、韓、濊、倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。男女の様子は、倭人たちに近く、入れ墨もしている。弁辰は、辰韓の者と住む所が入りくん
でいる。言語や掟もにている。
このような地域の一つに邪馬台国はある。邪馬台国のさらにむこうには、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、邪馬国、烏奴国、奴国、狗奴国などがあることになっている。
モンゴル学者
で、中国語、朝鮮語にも通じる長田夏樹は魏志倭人伝が書かれたころの洛陽の中国語をもとに再構している。(長田夏樹『邪馬台国の言語』学生社)そこでは邪
馬台国の地名や人名は次のように再構されている。邪馬台(ヤマド)、投馬(ドマ)、卑弥呼(ヒムカ)、難升米(ナニソゴム)、臺与(ドキ)、卑奴母離(ヒ
ナモラ)などとあるが、あまり成功しているとはいえない。それは長田夏樹の再構が粗雑だからではない。むしろ精緻すぎるくらい精緻を極めている。しか
し、中国語の音韻構造は東夷諸国の言語と音韻構造が違う漢字で外国の地名や人名を写すとき必ず転移が起こるからである。
アメリカは日
本では米国、中国では美国帝国主義である。フランスも日本では仏国、中国では法国である。漢字の米と美、仏と法をいくら厳密に再構してもアメリカやフラン
スにはたどりつけない。パリは日本では巴里、中国では巴黎である。夏目漱石はロンドンを倫敦として『倫敦塔』を書いたが、森鷗外は「竜動」と書いている。
文字はちがっても指しているものは同じである。
『古事記』の伝えるところによれば、応神天皇のときに百済の使者阿直岐(あちき)が来た。天皇は「もし賢き人がいたら奉れ」といわれた。そして、阿直岐の
推挙によって、和邇(わに)という史(ふひと)が百済から使わされてきたという。和邇はこのとき『論語』10巻、『千字文』1巻、あわせて11巻をもたら したという。
最 近の考古学の発達によって、日本人は5世紀には漢字を習得していたことが明らかになってきた。このことを物語る史料として、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の
鉄剣の銘文をあげることができる。稲荷山古墳は全長118.5メートルの前方後円墳で、二重の濠をめぐらしている。昭和43年に行なわれた発掘で、武人の
被葬者が発見され、副葬品のなかには鉄剣が含まれていた。当時、この鉄剣はサビで覆われており、文字の存在はまったく気づかれていなかった。10年後の昭
和53年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理中に判明した。その銘文はつぎのようなものである。(傍点は固有名詞)
(表)辛亥年七月中記乎 獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加 利獲居其子名
多加披次獲居其 児名多沙鬼獲居其児名半 弖比
(裏)其児名加 差披余其児名乎獲居臣世々爲杖刀人首奉 事来至今獲加多支鹵大王寺在斯
鬼宮
時吾左治天下令作此百錬利刀記吾奉事根原也
この銘はつぎのように解読されている。
(表)辛亥の年、7月中に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ。 その子はタカリ
の 宿禰。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキ ワケ。
その子の名はハテヒ。
(裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の 首(おびと)とし
て仕え今に至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき、吾は天下を治めるの を補佐した。此の百錬の利刀を作らしめ、吾が仕えてきた事の由来を記す。
この鉄剣には「辛亥(しんがい)の年7月中記す」
という年紀が刻まれている。辛亥年は471年(または531年)で、5世紀末か6世紀の初めに作られたものだと考えられている。文章は漢文だが、固有名詞
は当時の日本語をうつしている。
鉄剣には115字の銘文が刻まれている。銘文の主
人公はヲワケ(乎獲居)である。その祖先とされるオホヒコ(意富比垝)から8代の系譜が記されている。銘文のなかの名前を中国の言語学者、王力の古代中国
語音で読んでみるとつぎのようになる。
乎 獲居[ha・hoak・kia]、 意富比垝[iək・piuək・piei・ngiuai]、
多加利足尼[tai・keai・liet・tziok・niei]、 弖已加利獲居[tyei・jiə・keai・liet・hoak・kia]、
多加披次獲居[tai・keai・phiai・tsyei・hoak・kia]、 多沙鬼獲居[tai・sheai・kiuəi・hoak・kia]、
半弖比[puan・tyei・piei]、 加差披余[keai・tsheai・phiai・jia]、 獲加多支鹵[hoak・keai・tai・tjie・la]大
王、斯鬼[sie・kiuəi]宮
古代文字の解読は専門家の領域で、一般の人には
理解できないものと、従来考えられてきた。しかし、古代中国語の音価をアルファベットに近い形で表記してみると、誰でも解読に参加できる。
○
乎・獲 「乎獲居」の乎[ha]、獲[hoak]の頭音[h]は日本語音にはない喉音である。調音の位置が日本
語のカ行に近いので、日本漢字音ではそれぞれ乎(コ)、獲(カク)とカ行で読む。しかし、5世紀の日本語では喉音の[h]が失われて「ヲ」、「ワケ」とワ行音にあてられて
いる。
○ 居 「居」の古代中国語音は居[kia]であり、日本漢字音は居(キョ)である。朝鮮漢字
音は居 (keo)である。朝鮮漢字音では頭音[k-]のあとのわたり音[-i-]は失われる。例えば、九(ku)、久(ku)、 許(heo)である。稲荷山鉄剣の漢字は朝鮮漢字音の影響を受
けている可能性がある。
○ 足・尼 「足尼」は宿禰である。日本漢字音では宿
は呉音が宿(スク)、漢音が宿(シュク) である。宿の朝鮮漢字音では宿(suk) で
あり、呉音は朝鮮漢字音に近い。日本語の漢字の読み方は、朝鮮漢字音の影響を受けており、日本語の宿禰(すくね)は朝鮮漢字音の影響である。
○
意・富 「意富比垝」の「意富」の朝鮮漢字音は意(ui)、富(pu)である。古代中国語音は中国語 は意[iə]、富[piuək]である。中国語のわたり音(i介音)は隋唐の時代以降に発達したものだとされて
いるから、5世紀の中国語音は意[ə]、富[puək]に近かったものと思われる。富は声符が福と同じで
あり、中国語音は韻尾に[-k]があったと思われるが、ここでは日本語の「ほ」対 応している。「意富比垝」は「おほひこ」に比定できる。
○
支 「獲加多支鹵」の「支」は飛鳥時代の日本語を 写した推古遺文でも「支」は「キ(乙)」とし て用いられている。漢字には同じ声符が、
カ行とサ行に読み分けられるものがかなりある。「支」の日本漢字音は「シ」だが、「岐阜」では「ギフ」 であり、「技術」は「ギジュツ」であ る。同じ声符をカ行とサ行で
読み分ける漢字は多い。
技[gie]・ 枝[tjie]、 感[həm]・ 鍼[tjiəm]、 勘[khəm]・ 甚[zjiəm]、
堅[kyen]・ 腎[zjiən]、 喧[xiuan]・ 宣[siuan]、 公[kong]・ 頌[ziong]、
絢爛(けん
らん)・旬(じゅん)、伯耆(ほうき)・嗜好(しこ う)、祇園(ぎおん)・氏(し)、 活(かつ)・舌(ぜつ)、 宦官(かんがん)・臣(しん)、
乾坤(けんこん)・神(し
ん)
などでも、同じ声符がカ行とサ行に読み分けられている。いずれも頭音の後にわたり音(i介音)が続く場合であり、カ行のほうが古くサ行音 のほうが新しい。
台湾の言語学者である董同龢は『上古音韻表稿』(p.16)に例をあげて「旨tś:耆g’、赤tś’:郝x、示dź’:祁g’などは上古に於てはk-、k’-、g’-などでであった」としている。「獲加多支鹵(ワカ
タケル)」の「支(ケ)」は古い中国語音を留めている。
稲荷山鉄剣に使われている文字は5世紀の日本漢字
音の基準点ともなるべきものである。これらを手がかりに銘文を読むとつぎのようになる。
乎
獲居(をわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加利(たかり)の足尼(すくね)、弖已加利獲居(てよかりわけ)、多加披次獲居(たかはしわけ)、半弖比(はて
ひ)、加差披余(かさはよ)、獲加多支鹵(わかたける)大王、斯鬼(しき)の宮、
ここまで解読できると、『古事記』や『日本書紀』
にでてくる人物に近い名前が見えてくる。「意富比垝」は『古事記』では「大毘古命」(『日本書紀』では「大彦」)である。「獲加多支鹵」は「大長谷若建
命」(『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」)であろう。大長谷若建命「オホハツセワカタケルノミコト」とは雄略天皇の和名である。雄略天皇という漢風の名
前は『古事記』にも『日本書紀』にもまだ現れていない。天皇の名前が仁徳とか雄略というように、漢風諡号で呼ばれるようになったのは後のことである。この
系譜には比垝、足尼、獲居など身分的呼称が含まれている。比垝は彦、足尼は宿禰、獲居は「別」あるいは「幼」であるとされている。
雄略天皇の時代に日本で漢字が使われるようになっ
ていたことは、日本語の成立を知るうえで重要な手がかりを与えてくれる。『万葉集』巻一の最初の歌が雄略天皇の歌である。また、古事記歌謡では雄略歌群が
その中心をなしている。5世紀の歌である『古事記』や『万葉集』にある雄略天皇の歌は、一般には5世紀から8世紀まで口承によって伝えられたと考えられて
いるが、5世紀には稲荷山鉄剣の刻印にみられるように日本列島で漢字が使われていたことは明らかであり、5世紀にはすでに史(ふひと)によって漢字で記録
され、8世紀に『古事記』や『万葉集』が成立するとそれらの記録をもとに載録された可能性がある。
『古事記』は推古天皇の時代までの歴史が記録され
ているが、雄略天皇より後は王室の系譜を記すのみである。『古事記』の編者である太安万侶は帝紀や本辞などを参考にして『古事記』を編纂している。『古事
記』の記述が雄略天皇までの時代について詳しいのは、『古事記』の依拠した原典はすでに5世紀には存在していた可能性を示唆している。『古事記』や『万葉
集』の編者は5世紀から伝えられた文字資料を利用できた可能性すらある。
日本には金石文の記録は多くはない。しかし、飛鳥時代になると漢字によって記録された日本語はかなり多くなる。推古遺文と呼ばれるものである。推古天皇の
時代(593年〜)から持統天皇の時代(〜697年)までの約100年間である。この時代の金石文には伊予道後温泉碑文、法隆寺金堂薬師光背銘、元興寺丈
六光背銘などがある。
飛鳥字時代の金石文には『伊予国風土記』逸文には聖徳太子が法興6年(596年)伊予の温泉の湯元をみて碑文を作られたという記録が残されている。碑は現存していないが、碑文は『伊予国風土記』逸文に伝えられている。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。隋華台而開合、沐神井而療瘳疹。詎舛落花池而化羽。窺望山岳之厳崿、反冀平子之能往。
聖徳太子の憲法が漢文で書かれているように、この碑文も漢文である。話し言葉としてのやまとことばはあったにしても、文章は漢文で書いた時代である。しかも、中国の故事に思いをはせるなど、発想も漢字文化圏のなかにある。この文章を日本語にすれば、およそ次のようになる。
それ、日月は天上から光を降り注ぎ、万物にたいして分けへだてがない。神聖な温泉も地下からわき出て絶えることがない。政治はこのようにこそあるべきであ
る。万民もみななびく。万民が分け偏てなく恩恵にあずかれば天寿国と何らかわることがない。花が咲きまた散るように温泉は湧き出し病を治す。この花が降り
注ぐ温泉池をさしおいて天上にはばたくことなどできようか。眺望は厳しい山岳に及び、かの後漢の張平子が驪山に出かけた故事のように、足しげく通うことを
願うものである。
これに対して法隆寺薬師仏造像記は日本語の語順に従って漢字で書かれている。
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病平欲坐故将造寺薬師像作奉詔然當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
これを日本語に読み下すと次のようになる。
池辺(いけのべ)の大宮に天下治(あめのしたしろ)しめしし天皇、大御身労(や)み賜ひし時、歳(とし)丙午(ひのえうま)に次(やど)る年に大王天皇と
太子とを召して、誓ひ願ひ賜はく、我が大御病、太平に坐(いま)さむと欲(おも)ほすが故に、寺を造り薬師の像を作り仕(つか)へ奉(まつ)らむと詔(の
たま)ひき。然ありども、当時、崩(かく)り賜ひて造り堪(あ)へざりければ、小治田(おはりた)の大宮に天下治しめし大王天皇と東宮聖王と大命受け賜は
りて歳丁卯に次る年に仕へ奉りつ。
元興寺尺迦丈六像光背造像記は、実物は存在しないが、記文のみが伝えられている。元興寺塔露盤銘をみると漢字音は呉音にも漢音にも当てはまらないものが多く含まれている。
大和国天皇、斯
帰斯麻(しきしま)宮治天下、名阿米久爾意斯波羅支比里爾波弥己等(あめくにおしはらきひろにはみこと)世、奉仕巷宜(そが)名伊那米(いなめ)大臣時、
百済国正明王上啓云、萬法之中佛法最上也。是以天皇并大臣聞食之、宜善哉、則受佛法造立倭国。然天皇大臣等受報業尽。故天皇之女、佐久羅韋等由良(さくら
ゐとゆら)宮治天下、名等已弥居加斯支夜比弥之弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)及甥名有麻移刀等已刀弥々乃弥己等(うまやとことみみのみこと)
時、奉仕巷宜名有麻子(そがうまこ)大臣爲領、及諸臣等讃云、魏々乎、善哉善哉、造立佛法、父天皇父大臣也。(「元興寺塔露盤銘」の部分。『元興寺縁起』所収)
この銘文はつぎのように解読できる。
大和の国の天皇(すめらみこと)、シキシマの宮に天の下治(しろ)しめしし、名はアメクニオシハラキヒロニハのミコトの世に、奉仕(つかへまつり)しソガ
の名はイナメの大臣(おほまへつきみ)の時、百済の国の正明王が上啓(まをしぶみ)に云(まをさ)く、萬の法(のり)の中に佛の法最上也(すぐれたるな
り)。是を以(もて)天皇と大臣と并(とも)に聞こし食(め)して、之の善哉(よきかな)と宣(のり)、則て佛の法を受けて倭の国に造立(はじめ)き。然
(しか)はあれど天皇と大臣と等(とも)に報(むくい)の業を受けて尽(はて)き。故れ天皇の女(ひめみこ)サクラヰのトユラの宮に天下治(しろしめ)
す、名はトヨミケカシキヤヒミのミコトの甥名はウマヤトのトヨトミミのミコトの時、奉仕しソガの名はウマコの大臣を領(かみ)と為(し)て、諸の臣(まへ
つきみ)等(たち)及(と)讃(たたへ)て云く、魏魏乎(かたきかもかたきかも)、善哉善哉(よきかもよきかも)、立佛の法造(つくりはじめ)し父の天皇 父の大臣也。
この例文だけでも、現代の日本漢字音では読めない、推古遺文特有の漢字音をいくつか使われている。米(め)、久(く)、爾(に)、弥(み)、有(う)は呉音に近い。しかし、次の漢字の読み方はどう説明すればいいのだろうか。
意(お)、支(き)、里(ろ)、巷(そ)、宜(が)、良(ら)、已(よ)、弥(み・め)、
居(け)、移(や)、
これらの漢字の古代中国語音は次のように再構できる。
意[iə]、 支[tjie/gie]、 里[liə]、 巷[heong]、
宜[ngiai] 、 良[liang]、 已[jiə]、 弥[miai]、 居[kia]、 移[jiai]、
現代の日本漢字音でイ段で発音される漢字がア段やオ段で発音されているものが多い。意(イ)、里(リ)、宜(ギ)、良(リョウ)、弥(ミ)、居(キョ)などである。中国漢字音では、子音と母音を結ぶわたり音(i介音)は隋唐の時代以降に発達してきたものだとされている。飛鳥時代の日本漢字音はわたり音が発達する以前の古い中国語音を反映している可能性がある。わたり音(i介音)が弱かったとすれば、これらの漢字は意[ə](お)、里[lə](ろ)、宜[ngai](が)、良[lang](ら)、弥[mai](め)、居[ka](け)と聞こえたとしても不思議はない。
言語学者の大矢透は大矢透は『假名の研究』のなかで次のようにのべている。
押を意斯、廣庭を比里爾波、蘇我を巷宜、、、これ等の音に対しては、従来学者の説なきにはあらざしも、わずかに漢呉音の転用ならずば、古韓音なるべしとなして、やめるのみなりき。
詩経において多宜は同声母なるが故に、一韻となれりとするときは、我が国における仮名の中に移侈ありて、これを普通の仮名のごとく、漢呉音のイシと呼ば
で、ヤタにあたるものは宜と同じく多を声母とせるによるもののごとし。かくて我が古仮名の音の、周代古韻と一致せるにはまず胸おどりぬ。
『假名の研究』は大正12年に学位論文として京都大学に提出されたものである。大矢透は推古遺文の漢字音が隋唐の時代の中国漢字音を規範とした漢音・呉音とずれているのは、周の時代の漢字音に依拠しているからだと考えた。
わが国の数少ない金石文のなかで仏足跡歌碑にも注目しなければならない。時代は少しくだって天平勝宝5年(753年)の完成とされているが、21首の和歌が万葉仮名で刻まれている。いくつか例をあげると、次のごとくである。
美阿止都久留 伊志之比鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須禮 知々波々賀多米爾
毛呂比止乃多米爾
御足跡(みあと)作る 石の響きは 天(あめ)に到り 地さへ揺すれ 父母がために
諸人のために(第1歌)
彌蘇知阿麻利 布多都乃加多知 夜蘇久佐等 曾太禮留比止乃 布美志阿止々己呂
麻禮爾母阿留可毛
三十余り 二つの相(かたち) 八十種(やそぐさ)と 備(そだ)れる人の
踏みし足跡どころ 稀にもあるかも(第2歌)
與伎比止乃 麻佐米爾美祁牟 美阿止須良乎 和禮波衣美須弖 伊波爾恵利都久 多麻爾恵利都久
善き人の 正夢(まさめ)に見けむ 御足跡すらを 我はえ見ずて 石に彫(え)りつく
玉に彫りつく(第3歌)
己乃美阿止乎 多豆禰毛止米弖 與伎比止乃 伊麻須久爾々波 和禮毛麻胃弖牟 毛呂毛呂乎為弖
この御足跡を 尋ね求めて 善き人の 在す国には 我も参てむ 諸々を率(ゐ)て(第8歌)
ここでは止(シ)が止(と)に用いられているのが注目される。中国の音韻学者である王力の『詩経韻読』によると止[tjiə]は次のように押韻している。注:( )内の数字は詩経の詩の通しナンバー。
子[tsiə](14)、 歯[thjiə]、 俟[zhiə](52)、 杞[khiə]、 母[mə](162)、 騏[giə](178)、 海[xə]、
友[hiuə](183)、
士[dzhiə](185)、 否[piuə](195)、 梓[tziə]、 裏[liə]、 在[dzə](197)、
起[khiə](202)、 畝[mə]、 耔[tziə]、
薿[ngiə]、 喜[xiə]、 右[hiuə]、 有[hiuə](211)、 理[liə]、
事[dzhiə](237)、 使[shiə](252)、 晦[xuə](255)、
悔[xuə](256)、 之[tjiə]、 思[siə]、
哉[tzə]、 玆[tziə](288)、 里[liə]、
現
在の音で読むと韻を踏まない文字が多く使われているのは、後代に語音が変化をおこしたためである。母(ボ)、海(カイ)、在(ザイ)、哉(サイ)、右(ユ
ウ)、有(ユウ)などは現在では止(シ)と韻を踏むようには思えないが詩経の時代には同じ韻であった。「止」と「母」は同じ韻であった。母、海、晦、悔、
畝など母を声符とする文字はすべて韻が同じである。詩経のなかで声符号が母の文字と押韻している文字を探してみると次のようになる。
母[mə]、
有[hiuə](71)、 晦[xuə]、 已[jiə]、 子[tziə]、 喜[xiə](90)、 畝[mə]、 母[mə](101)、 ��[muə]、
偲[tsə](103)、 梅[muə]、 裘[giuə]、哉[tzə](130)、 梅[muə]、 絲[siə]、 騏[giə](152)、 杞[khiə]、
母[mə](169)杞[khiə]、 李[liə]、 母[mə]、 已[jiə](172)、 梅[muə]、 尤[hiuə](204)、 杞[khiə]、
子[tziə]、 事[dzhiə]、
母[mə](205)、 誨[xuə]、 載[tzə](230)、 母[mə]、 婦[biuə](240)、
悔[xuə]、 祉[thiə]、 子[tziə](241)、 玆[tziə]、 饎[thjiə]、 子[tziə]、 母[mə](251)、 理[liə]、
海[xə](262)、 誨[xuə]、 寺[ziə](264)、 喜[xiə]、 母[mə]、
士[dzhiə]、 有[hiuə]、 祉[thjiə]、
歯[thjiə](300)、
こ
れらの文字が「止」と同じ母音要素をもっていたことになる。同じように址、沚、祉、耻など止を声母とする文字はすべて韻が同じである。このような作業を繰
り返すことによって、はじめて古代中国における「止」の音価を再構できる。推古遺文における止(と)は古代中国語音の痕跡を留めている。「止」の訓とされ
ている止(とまる)もまた、古代中国語音と関係のあることばである可能性がある。
地名は先住民の言語の、あるいは古代の言語の痕跡
を伝える化石である。日本には北海道や東北地方に、アイヌの地名が残っていることが知られている。山田秀三さんという研究家が、『山田秀三著作集――アイ
ヌ語地名の研究1〜4』という専門的な研究書や、『アイヌの地名を歩く』(北海道新聞社)のようなすぐれたエッセイを書いている。山田さんは元農商務省の
役人で、アイヌの地名と思しき地名を地図のうえに見つけると、その地に立ってみなくてはいられないという人らしい。「北海道から東北地方にかけて、アイヌ
語系の地名が残っている土地を見に行くのが私の楽しみで、ここ四十何年の間、飽きもしないでそれを続けてきた。」と『アイヌ地名を歩く』のまえがきに書い ている。
札 幌はsat-poro(乾 いた大きな)という意味である。本来pet(川)
ということばが後ろについてサッ・ポロ・ペッ(乾いた・大きな・川)だったものが、ペッが失われて札幌になったと考えられている。幌別は大きな川であり、
ポロ・ペッ・コタンといえば大きな川の村という意味になる。川はペッだがサハリンでは川はナイである。稚内はワッカ・ナイ(冷たい・川)である。そのナイ
が宮城県の保呂内「ホロナイ」、青森県の母衣内「ホロナイ」、までひろがっていて、北海道に多い幌内と同じである。ちなみに、青森県の縄文遺跡、三内丸山
の「サンナイ」も名称はアイヌ語起源である可能性がある。「ナイ」という地名は急流のあるところにある。襟裳岬はエンルム岬である。エンルムはアイヌ語の
岬であり、襟裳岬はアイヌ語の岬に日本語の岬を重ねたバイリンガルである。
ヨーロッパではマンチェスター、ウインチェス
ター、ランカスターなどの地名はローマ人の残した地名である。これらの地名はラテン語の野営地(castra) を意味する。ロンドン、パリ、ウイーンはケルト語
起源だといわれている。ベルリン、ライプチヒ、ドレスデンはスラブ系の地名である。
アメリカにはインディアンの地名が残っている。
シカゴ、ミルウオーキー、マサッチュセッツ、ウイスコンシン、ミシガン、イリノイなどはいずれもインディアンの地名に由来する。
日本の古地名のなかにも、日本語の起源に結びつく
痕跡を探すことができるかもしれない。日本の古地名には、呉音や漢音にない読み方をするものが多くある。漢字は読み方が変っても文字は変らないので、古地
名は漢字の古い読み方を留めている。本居宣長に『漢字地名転用例』という著作があって、日本の古地名に用いられている漢字の使い方について述べている。
さて国郡郷の名、かくの如く好字を択び、必ず二字に書くにつきては、字音を借りて書く名は、尋常(よのつね)の仮字の例にては、二字に約(つづ)めがた
く、字の本音のままにては、その名に叶へ難きが多き故に、字音をさまざまに転じ用ひて、尋常の仮字の例とは、異なるが多きこと、相模(さがみ)の相(さ
が)、信濃(しなの)の信(しな)などの如し。かかるたぐひ皆これ、物々しき字を択びて、必ず二字に約めむために、止む事を得ず如此(かく)さまに音を転
用したる物なり。然るに後の世の人、此の義(こころ)をたどらずして、国郡郷の名どもの、その字音にあたらざることを、疑ふ者多し。殊に漢学者などは、た
だ漢籍を見馴れたる心にて、字を本と心得るから、其音に当らざる地名をば、後に訛れるものとして、たとへば相模はもとさうも、 信濃はしんのうなりしをさがみ、しなのと
は、後に訛れるなりとやうにさへ思ふめり。これいみしきひがことなり。さ がみ、しなのは、本よりの名なるに、相模、信濃などの字は、後に填(あて)たるものにて、末
なることを弁へざるものなり。(本居宣長『漢字地名転用例』)
続日本紀の和銅六年(713年)五月の詔に
「畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字を選んで
つけよ」とあり、また、延喜式に「凡そ諸国部内の郡里などの名は二字を用い、嘉名をつけよ」とある。つまり、中国風に地名を漢字二字で表記するように改め
たのである。そのために本来3音節や4音節であった日本の地名が、二字で書き表されるようになり、呉音や漢音にない無理な読み方になってしまったのだと考 えられていた。
漢学者は相模は「そうも」、信濃は「しんのう」
だったものが、後に訛って相模(さがみ)、信濃(しなの)になったと考えた。しかし、本居宣長の説では、相模、信濃はもともと3音節で、「さがみ」、「し
なの」であったものを、地名には2字の好字を選ぶようにというご沙汰があったので、後になって相や信の字をあてて相(さが)、信(しな)と読ませるように
なったのだということになる。それでは、なぜ相や信の字が「さが」、「しな」を表記する字として選ばれたの だろうか。
相、信の古代中国語音は相[siang]、信[sjien] である。中国の音韻学者である王力によれば古代中 国 語の韻尾[-ng] は[-k]
に音が近く、逆[ngyak]・迎[ngyang]、読[dok]・誦[ziong]、陟[tiək]・登[təng]、�燹 �[tong]・督[tuk]
は同源だという。相の古代中国語音は相[siak] あるいは相[sak]に近く、日本の地名 で相を相(さが)と読むの は、古代中国音を反映していることになる。
また、信を信(しな)と韻尾の-nに母音をつけて読むのは、日本語には本来「ン」
で終わる音節 がなかったので-nの後に母音を添加して信(しな)という日本語の音
節に近づけたのである。信(し な)は日本語に撥音「ン」が導入される以前の、古い読み方を留めているといえる。つまり、信濃 を信濃(しなの)と読む
のは、日本語の古い音韻構造を留めているといえる。平安時代の辞書であ る『倭名抄』も古地名の読み方を載せている。
相模(佐加三)、信濃(之奈乃)、因幡(以奈八)、讃岐(佐奴岐)、駿河(須流加)、
播磨(波里萬)、敦賀(都留我)、愛宕(於多岐)、愛甲(阿由加波)、揖保(伊比保)、
これらの古地名はいずれも呉音でも漢音でもな
い、古い時代の借用音を留めている。相(ソウ・ さが)、信(シン・しな)、因(イン・いな)、讃(サン・さぬ)はいずれも中国語の韻尾-nに母音 を添加したものである。駿(シュン・
する)、播(ハン・はり)、敦(トン・つる)は中国語の韻 尾[-n]がラ行に転移したものである。ナ行とラ行は調音の
位置が同じであり、転移しやすい。宕(ト ウ・たぎ)の古代中国語音は宕[dang]であり、中国語の韻尾-ngは相では相(さが)になり、宕では 宕(たぎ)あ
るいは宕(たご)となってあらわれる。甲(コウ・かは)、揖(ユウ・いひ)の古代 中国語音は甲[keap]、揖[iəp]であり、甲(かひ)、
揖(いひ)は中国語の韻尾をあらわしている。
平安時代には漢字の発音が変わってしまって、
相は相(さが)ではなく相(ソウ)、信は信(し な)ではなく信(シン)と発音されるようになっていたと考えられる。そこで、『倭名抄』は特に 地名の
読み方を取り上げて、地名の読み方は平安時代の漢字音ではないことを示しているのであ る。日本の古地名の読み方は弥生時代、古墳時代の中国語からの古 い
借用音であり、古代の中国語 音を留めているといえる。
日本はかりでなく、朝鮮半島でも、中国にならっ
て地名を漢字二字に変えるということは行われた。しかし、日本の古地名の多くは和銅六年以前からすでに二字のものが多く、古代中国語音の痕跡を留めてい る。
古代中国語の韻尾[-ng] に対応する読み方は二つある。
(1)ガ行で読む
相模(さがみ)、愛宕(おたぎ)、
相楽(さがらか)、香山(かぐや ま)、
伊香(いかご)、當麻(たぎま)、 楊生(やぎふ)、望多(うまぐた)、
これらの漢字の古代中国語音は相[siang]、宕[dang]、香[xiang]、當[tang]、楊[jiang]
、望[miuang] であり、いずれも中国語の韻尾[-ng] で終っている。中国語の韻尾[-ng] は[-g] と調音の位置が同じで あり、転移しやすい。日本
漢字音では相(ソウ)、宕(トウ)、香(コウ)、當(トウ)、楊 (ヨウ)、望(ボウ)と読んでいる。
現代の日本語でも祝儀、句読点、北条などの入声音[-k] が、
祝儀(シュウギ)、格子戸(コウシ ド)、拍子(ヒョウシ)、北条(ホウジョウ)などとの形で現れることがある。これらの地名の読 み方は、訓ではなく
古代中国語音に基づいた弥生音である。
(2)マ行またはバ行で読む
浪 坂(なむさか)、霜見(しもみ)、 頸城(くびき)、
浪、霜、頸の古代中国語音は浪[lang]、霜[shiang]、頸[kieng] である。中国語韻尾の[-ng] は鼻音で あり、調音の方法が[-m]
と 同じである。中国の音韻学者、王力によれば、つぎの対語は同源であ る。
鏡[kyang]・ 鑑[keam]、 痛[thong]・
疼[duəm]、 陵[liəng]・ 隆[liuəm]、 嵩[siong]・ 崇[dzhiuəm] 、
日本の古地名の浪(なみ)、霜(しも)、頸(くび)などの読み方は、訓ではなく、古代中国語 音に基づいた古い時代の漢字音である。
古代中国語の韻尾[-n]、[-m] に対応する読み方は三つある。
(1) ナ行で読む
信濃(しなの)、因幡(いなば)、
讃岐(さぬき)、引佐(いなさ)、 難波(なには)、
丹波(たには)、乙訓(おとくに)、敏馬(みぬめ)、 雲飛(うねび)、信太(しのだ)、
これらの漢字の古代中国語音は因[ien]、引[jien]、難[nan]、丹[tan]、訓[xiuən]、讃[tzan]、敏[miən]、 雲[hiuən]、信[sjien]
である。古代日本語には「ン」で終る音節はなかっ たので、寄生母音をつけて ナ行で発音した。
(2) マ行で読む
鎌倉(かまくら)、浜名(はまな)、男信(なましな)、安曇(あづみ)、 印南(いなみ)、
肝属(きもづき)、
これらの漢字の古代中国語音は鎌[gliam]、浜[pien]、男[nəm]、信[sjien]、曇[dəm]、印[iən]、南 [nəm]、肝[kan]
である。中国語の韻尾[-n] と[-m] はいずれも古代日本語にはない音であった。[-n] と[-m]
はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。[-n] と[-m] は日本語では区別され ず、古地名ではいずれも マ行 であらわれる。
鎌倉の鎌は現代北京語音では鎌(lian) で
あり、日本の漢字字典にも鎌「レン」を正音として載せている。鎌の声符は兼(ケン)であり、日本では古くから鎌足(かまたり)などと読まれてきた。
スウェーデンの東洋言語学者カールグレンは鎌の古代中国語音は鎌[gliam] だ
と推定している。古代中国語の[l-]には[g-]という入りわたり音があって、兼は兼(ケン)、あ
るいは暖簾(ノレン)のようにカ行とラ行に読みわけられるようになったという。鎌には鎌[giam] という読み方があったものと考えられる。日
本語の鎌(かま)は古代中国語の鎌の古い時代における借用音であり訓ではない。
(3)ラ行で読む
駿河(するが)、播磨
(はりま)、敦賀(つるが)、 平郡(へぐり)、群馬(くるま)、
これらの漢字の古代中国語音は駿[tziuən]、敦[tuən]、播[puan]、郡[giuən]、群[giuən] である。中国語韻尾の[-n] は[-l]
と調音の位置が同じであり、転移しやすい。日本の 古地名では[-n] がラ行で現れることがある。[-t]、[-n]、[-l] はいず
れも調音の位置が同じで、転移しやすい。群馬は現在では群馬(ぐんま)と読み慣わしているが、もとは群馬(くるま)であり、九州の久留米などと同じ
名称であったものと思われる。
古代中国語の入声音[-p、-t、-k]の読み方。
(1)韻尾の[-p] はハ行またはマ行で読む。
愛甲(あゆかは)、揖保(いひほ)、 雑賀(さひか)、給黎(きひれ)、 渋川(しぶかは)、
揖宿(いぶすき)、鴨部(かもべ)、
これらの漢字の古代中国語音は甲[keap]、揖[iəp]、雑[dzəp]、給[həp]、渋[shiəp]、鴨[keap] である。中国語の入声音の[-p]
は旧かな使いでは蝶[thyap] (てふ)のようにハ行で表記した。ハ行、バ行、マ行はいずれも鼻音で調音の方法が同 じである。
(2)韻尾の[-t]
はタ行で読む。
設楽(しだら)、秩父(ちちぶ)、 越後(えちご)、薩摩(さつま」、 出雲(いづも)、
葛野(かどの)、葛飾(かつしか)、
(3) 韻尾の[-k] はカ行で読む。
美作(みまさか)、博多(はかた)、 竹野(たかの)、安直(あぢき)、 小塞(おぜき)、
邑楽(おはらき)、佐伯(さへき)、菊池(きくち)、 筑紫(つくし)、筑摩(ちくま)、
筑波(つくば)、揖宿(いぶすき)、
日本の地名のなかには、中国語の韻尾を示すため に末音が添記されている例がある。
甲斐、揖斐川、 揖保、英虞湾、 伊良虞、香具山、
末音添記は新羅の郷歌で使われている書記法である。日本の古地名は、文献時代になって唐の時 代の新しい発音が導入されると、古い読み方がわからなく
なってしまったにちがいない。そこで、 古来からの発音で正しく読んでもらうために、末音を添記する表記法が用いられるようになった。 甲[keap](かひ・コウ)、揖[iəp](いぷ・ユウ)、の場合は、末音[-p]
を示すために甲斐、揖 斐、
揖保を補い、英[yang](あご・エイ)、良[liang](らご・リョウ)、香[xiang](かご・コウ)の 場 合は、末音[-ng] を
示すために英虞、伊良虞、 香具山を補った。
漢字の訓のなかには「やまとことば」ではな
く、古い時代の中国語からの借用語が含まれてい る。古地名の読み方はその古い借用音の痕跡を留めているものが多い。
浪(なみ)、霜(しも)、
頸(くび)、鎌(かま)、 浜(はま)、肝(きも)、 鴨(かも)、
竹(たけ)、直(じき)、 塞(せき)、菊(きく)、 葛(くず・かづら)、 楊(やなぎ)、
渋(しぶい)、作(つくる)、
これらの借用語の音は、一定の法則にしたがって、古代中国語の原音から変化しており、意味 は中国語と同じである。音義ともに一致し た借用語ということができる。
楊(やなぎ)の「な」は現代の日本語の「の」に
あたることばである。水無月、神無月の「な」 も同じ用法である。楊が木であることから「ヤン゚の木」という連想で「やなぎ」となった。日本 語の関(せ
き)の語源は中国語の塞(ソク)が語源であり、後に同義語の関とい文字をあてたもの である。「ふさぐ」は中国語の「閉塞」でろう。また、葛(カツ)は日本語の葛(くづ)あるいは葛
(かづら)の語源である。。
地名は文字にとらわれずに、漢字の音に注目する 必
要がある。諏訪・周防、群馬・久留米、安 房・阿波、駿河・敦賀などは、文字は異なるが、音は近く、関連のある地名である。仙台も川内の 当て字であろ う。仙
台(せんだい)と河内(かわち)は同義である可能性がある。
日本の古地名のなかには、漢字の字義で解釈するよ
りも、朝鮮語で解釈したほうが理にかなったものもある。金沢庄三郎は『日韓古地名論考』、「地名の研究」のなかで日韓の古地名について、さまざまな考察を
している。「はる」、「はら」とつく地名は新羅語の村である。「こる」、「くら」などは高句麗語の城である。また、李基文の『韓国語の歴史』(p.48)によると「き」は百済語の城であり、「さき」は新
羅語ので城であるという。朝鮮語の村(ぷる)、城(こる・き・さき)、野(つる)、山(むれ)、に関係ある日本の地名をあげれば、つぎのようになる。
村(ぷる):香春(かはる)、橿原、名張(なばり)、大原、柏原、吉原、三 原、榛原(はい
ばら)、尾張、新治(にいばり)、給黎(きひれ)、ソウル(徐伐または徐羅伐)。
天孫降臨の添山(そ ほりやま)は新羅の徐伐山と同じである。
城(こる):相楽、足柄(あしがら)、新座(にいくら)、小倉、鎌倉、平群、
城(き):頸城、茨城、結城、高城、坂城、讃岐、佐伯、新羅、臼杵、安芸、 敦賀、佐賀、
伊香、英虞、邑久、愛宕
城(さき):志木、佐久、滋賀、安来、揖宿、来次、飛鳥、春日、葛飾、大坂、 赤坂、敷 島
防人(さきもり)も城と関係がある。「ももしきの」は大宮にかかる枕詞であるが、
「百城」であろう。
都留(つる):山梨県の都留、福井県の敦賀、京都府の舞鶴、大阪の鶴橋、横浜の 鶴見
「つる」は朝鮮語で「野」を意味する地名である。このほか魏志倭人伝にも出てくる「末盧」 などもこの系統のことばである。
牟礼(むれ):辟支山(へきのむれ)、沙山(さのむれ)、居曾山(こそのむ れ)、
日本書紀でも山(むれ)と読む例は多い。記紀歌謡にも「をむろ」あるいは「をむら」とある が、「小山」の意味である。
御吉野の 小牟漏(をむろ)が嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に申す
(古 事記歌謡、部分)
倭(やまと)の 小村(をむら)の 岳に
鹿猪伏すと 誰か 此のこと 大前に奏 (まを)す(日 本書紀歌謡、部分)
地名の読み方は時代とともに変ることがある。日光
は二荒(ふたら)山神社の二荒を音読して日光(ニッコウ)としたものである。比叡は日枝になり、さらに日吉になる。神戸の六甲山はもともとは武庫(むこ)
山だったものを六甲(ロッコウ)としたものである。武庫はさらに、その意味をとって兵庫となる。武庫という地名は古く、万葉集にも武庫の海、武庫の浦、六
児乃泊、武庫能和多里などと詠まれている。
住吉(すみのえ)の 得名津(えなつ)に立ちて 見渡せば 武 庫(むこ)の泊(とまり)ゆ
出づる船人(万 283)
武庫(むこ)の浦を こぎ廻(み)る小舟 粟島を背向(そがひ)に見つつ ともしき小舟
(万358)
高知県の足摺岬は万葉集に佐田の浦とある所であ る。佐田の浦は蹉跎とも書く。「蹉跎」は「つまづく」の意があり、これをとって足摺岬としたものである。
おきつ波 邊(へ)波の來寄る 左太の浦の このさだ過ぎて 後戀ひむかも(万2732)
地名の表記のしかたは時代とともに変わる。鹿児
島県の「揖宿」は、読みやすい字を選んで「指宿」に変えてしまった。そのほかにも永田町(長門町)、世田谷(勢多)、日本橋(二本橋)、日暮里(新堀)、
鬼怒川(毛野川)前橋(厩橋)などがある。東京駅の八重洲口はオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったことからこの名がついた。この事実を知らなければ
八重洲は日本語だと思っても不思議はない。
地名は古い時代の日本語にたどりつく手がかりを与
えてくれることばの遺跡である。日本の古地名には古い中国語音の痕跡や朝鮮語の語彙が残されている。やまとことばは日本列島のなかで孤立して生れたもので
はなく、中国大陸、朝鮮半島、日本列島という東アジアのトライイアングルのなかで形成されたものである。その証を古地名は留めている。しかし、地名や人名
は体系をなしていないから、その意味がわからなくなってしまうことも多い。
JRの時刻表には全国の駅名が記されており、しかもその読み方がひらがなで書いてあるので、日本の地名を調べるには大変つごうのよい資料である。そのなかからいくつかを選んでみた。はたしていくつ読めるだろうか。
妹背牛、母恋、舞木、左沢、笑内、桑折、水鳥、大嵐、京終、放出、有年、敬川、美袋、鮎喰、
川水流、厳木
これらの地名に使われている漢字はとりわけむずかしいわけではない。しかし、地名や人名には、その土地や人を知らない人には読めないものが多い。次の地名はいずれもJRの駅名である。これも音で読むのか訓で読むのかはその土地の人に聞いてみなければわからない。
千里、川内、三田、上郷、西条、余部、神田、神戸、小倉、常盤、東雲、
千
里は千里(せんり)とも読めるし千里(ちさと)とも読める。古事記や万葉集が解読できないばかりでなく、現在使われている地名も読み方がわからないのであ
る。千里を音で読もうと訓で読もうとその土地の人にとって、わが町の名を「千里」と漢字で書くことが大事なのだという考えかたもある。漢字にはそれぞれ意
味があって千里(せんり)と読まれようと千里(ちさと)と読まれようと「千里」という漢字がわが町を想起させるのだと考える人もいるだろう。しかし、一方
文字は読むための記号だから、千里(せんり)と読むのか千里(ちさと)と読むのか、読む人に伝えられない文字は文字として機能していないに等しいと考える 人もいる。
これは、文字とは何か、ことばとは何か、という基本問題にゆきあたらざるをえない。ソシュールによると言語(ラング)とは記号(signe)の
体系であるという。言語は記号である能記(シニフィアン)とその表現内容である所記(シニフィエ)によってなりたっている。千里という町がある。それが所
記(シニフィエ)である。問題は千里という漢字が能記(シニフィアン)なのか、あるいは千里(ちさと)あるいは千里(せんり)という声が能記(シニフィア
ン)なのかということになる。
表
音文字を使うヨーロッパ人は声が能記(シニフィアン)であり、文字は声を写したものであるという。しかし、表意文字である漢字文化圏の人びとのなかには文
字こそが能記(シニフィアン)であると考える人も多い。いずれにしても、冒頭にあげたJRの駅名の読み方は次の通りである。
妹背牛 もせうし(函館本線)
母恋 はこ(室蘭本線)
舞木 もうぎ(磐越線) 左沢 あてらざわ(左沢線)
笑内 おかしない(秋田内陸縦貫鉄道) 桑折 こおり(常磐線)
水鳥 みどり(東海道本線) 大嵐 おおそれ(飯田線)
京終 きょうはて(桜井線) 放出 はなてん(片町線・大阪)
有年 うね(山陽本線) 敬川 うやかわ(山陰本線)
美袋 みなき(伯備線) 鮎喰 あくい(徳島線)
川水流 かわずる(高千穂鉄道) 厳木 きゅうらぎ(唐津線)
人
名には人名に使える漢字のいうのが決まっていて、それによって出生届けをする。しかし、地名は漢字制限が決まるずっと前から使われているものだから制限は
ない。しかも、人名も地名も漢字の読み方にはなんの制限もない。千里などの駅名も訓で読むところもあり、音で読むところもある。
千里
せんり(北大阪阪急線) 千里 ちさと(高山本線)
川内 せんだい(鹿児島本線) 川内 かわうち(山田線)
三田 さんだ(福知山線) 三田
みた(芸備線)
上郷 かみさと(飯田線) 上郷 かみごう(山口線)
西条 にしじょう(中央本線) 西条 さいじょう(山陽本線)
余部 よべ(姫新線) 餘部 あまるべ(山陰本線)
神田 かんだ(山手線) 神田 こうだ(松浦鉄道)
神戸 こうべ(東海道本線)
神戸 ごうど(わたらせ渓谷鉄道)
小倉 おぐら(和歌山線) 小倉 こくら(鹿児島本線)
常盤 ときわ(宇部線) 常磐 じょうばん(常磐線)
東雲 しののめ(りんかい線) 東雲 とううん(石北本線)
日本語には音
と訓があり、音読みにするか訓読みにするかを判断をしなければならない。千里(せんり・ちさと)、川内(せんだい・かわうち)を読み分けるだけでなく、三
田(サン・だ)、上郷(かみ・ゴウ)、西条(にし・ジョウ)、餘部(あまる・ベ)などのように重箱読み、湯桶読みも自由自在である。小倉(こくら・おぐ
ら)はいずれも訓読みである。小山(こやま・おやま)なども同じである。御宿(おんじゅく)、御代田(みよた)、御所(ごぜ)なども知っていればこそ読め
るが、あらかじめ知らなければどう読んでいいかわからない。常磐(ときわ)、東雲(しののめ)は慣用だから個別に覚えるにしても、常磐(ジョウバン)、東
雲(トウウン)という駅も別の場所にあるのだから切符を買う時にも用心しなければならない。
万葉集の時代
から日本語は漢字を使って日本語を表記する方法を開発してきた。音は中国語の日本式発音であり、訓は翻訳であり、当て字である。馬酔木(あせび)、時鳥
(ほととぎす)から秋刀魚(さんま)、秋桜(コスモス)までありである。朝鮮語では新羅の頃は音読みと訓読みがあり、それが郷歌(ヒヤンガ)の解読をむず
かしくしているが、現代の朝鮮語では漢字は音読みのみに使われている。しかし、日本語では現在も音読みと訓読みが併用されていて便利な反面、煩雑でもあ
る。漢字を音で読むか訓で読むかはまったく恣意的であり、同じ発音の地名でも違う漢字を用いることも少なくない。
常陸 ひたち(常磐線)、 日立
ひたち(常磐線)
仙台 せんだい(東北本線)、 川内 せんだい(鹿児島本線)
河内 こうち(小野田線)、 高知 こうち(土讃線)
岩城 いわき(羽越線) 磐城 いわき(常磐線)
神崎川 こうざき(阪急神戸線) 幸崎 こうざき(日豊本線)
朽網 くさみ(日豊本線) 草道 くさみ(肥薩おれんじ鉄道)
若桜 わかさ(若桜鉄道) 若狭高浜 わかさ(小浜線)
違う漢字が同じ音をあらわし、同じ漢字が違う音をあらわすということが日常的に起こる。これでは地名解読辞典が必要になる。
下馬 げば(仙石線)
馬下 まおろし(磐越西線)
稲荷 いなり(奈良線) 荷稲 かいな(土佐くろしお鉄道中村線)
動橋 いぶりはし(北陸本線)
石動 いするぎ(北陸本線)
さらに問題を複雑にしているのは漢字の音が前後の関係で変わってくることである。
勝川
かちかわ(東海道本線) 勝浦 かつうら(外房線)
大船 おおふな(東海道本線) 長船 おさふね(赤穂線)
立川
たちかわ(中央本線) 立石 たていし(日豊線)
金谷 かなや(東海道本線) 金丸 かねまる(七尾線)
金浦 このうら(羽越本線) 金田 かねだ(平成筑豊鉄道伊田線)
白川 しらかわ(常磐線) 白石 しろいし(東北本線)
信濃白鳥 しらとり(飯山線) 白鳥高原 しろとり(長良川鉄道)
地名は知って
いる人には読めるが、知らない人には読めない。すでに知っている人にしか読めない文字というのはいったいなんだろうか。神戸と書いて神戸(こうべ)と読め
るは神戸という大きな町があることを知っているからである。神戸という漢字は神戸(かんべ)かもしれないし、神戸(ごうど)かもしれない。
次の駅名は飯田線にある駅名であるが、普通の日本人にはどれくらい読めるだろうか。
出馬、水窪、大嵐、小和田、小沢、鶯巣、為栗、金野、駄科、八幡、上郷、本郷、沢渡、
これも特別にむずかしい漢字が使われているわけではないが、地元の人がどう読んでいるかは漢字だけからは判断できない。正解は下記のごとくである。
出馬(いずんま)、 水窪(みさくぼ)、 大嵐(おおそれ)、
小和田(こわだ)、 伊那小沢(いなこざわ)、 鶯巣(うぐす)、
為栗(してぐり)、
金野(きんの)、 駄科(だしな)、
伊那八幡(やわた)、 伊那上郷(かみさと)、 伊那本郷(ほんごう)、
沢渡(さわんど)、
日本の地名は日本人にも読めない、と言わざるをえない。そこで登場したのが「かな書き」の市町村名である。これは町村合併によって増えてきている。
[北海道]
えりも(襟裳)町、新ひだか(日高)町、せたな(瀬棚)町、むかわ(鵡川)町、
[東北地方]
むつ(陸奥)市、つがる(津軽)市、おいらせ(奥入瀬)町、にかほ(仁賀保)町、いわき(磐 城)市、
[関東地方]
つくば(筑波)市、ひたちなか(常陸那珂)市、かすみがうら(霞ケ浦)市、つくばみらい(筑波 未来)市、さくら(桜)市、みどり(緑)市、みなかみ(水上)市、さいたま(埼玉)市、ふじみ(富 士見)野市、ときがわ(都幾川)町、いすみ(夷隅)市、あきる(秋留・阿伎留)野市、
[中部地方]
かほく(河北)市、あわら(芦原)市、おおい(大飯)町、みよし(三好)市、あま(海部)市、いなべ(員弁)市、
[近畿地方]
南あわじ(淡路)市、たつの(龍野)市、かつらぎ(葛城)町、みなべ(南部)町、すさみ(周参見)町、
[四国地方]
さぬき(讃岐)市、東かがわ(香川)市、まんのう(満濃)町、つるぎ(剣)町、東みよし(三好)町、いの(伊野)町、
[九州地方]
うきは(浮羽)市、みやこ(京都)町、みやま(三山)市、みやき(三養基)町、あさぎり(朝霧)町、えびの(蝦野)市、いちき(市来)串木野市、南さつま(薩摩)市、さつま(薩摩)町、
[沖縄]
うるま(宇流麻)市、
このほかに、カタカナの地名もある。北海道ニセコ町、山梨県南アルプス市である。筑波(つくば)、埼玉(さきたま)、いなべ(員弁)、かつらぎ(葛城)、
さぬき(讃岐)、さつま(薩摩) は万葉集などにもみられる日本の古地名である。しかし、現在の漢字音は筑(チク)、埼(キ)、員(イン)、弁(ベン)、
讃(サン)というのが一般的である。
古い地名を守
ろうという運動が各地に起こっているが、地名は読めなくなると変わることもあった。鹿児島県の指宿はかつては揖宿と表記していたが「揖」の発音が揖「ユ
ウ」と音便化してしまい揖宿「いぶすき」とは読めなくなってしまったので指宿に改めた。揖の古代中国語音は揖[iəp]であり日本漢字音では揖「いぶ」であった。それが音便化してしまったため漢字を変えて指宿とした。そうめんの「揖保の糸」の場合は揖だけでは揖「いぼ」と読めなくなってしまったために送りがなとして「保」をつけくわえて揖保「いぼ」と読めるようにしたものである。甲斐の国の「斐」も甲[keap]が音便化して甲「かひ」が甲「こう」となってしまったために「斐」をおぎなって二文字で甲斐「かひ」と確実に読めるようにしたものである。
アルファベッ
トなどの表音文字を使っている国では、地名も人名も表音文字だけで書く。漢字のような表意文字は文字の発音が変わってしまっても文字はそのまま残るから、
読めなくなってしまうということが起こる。その場合、字義を大切にして昔のままの漢字を使い続けるか、新しい表記法を採用するかという選択を迫られること になる。
中国語には仮名はないから中国の地名だけでなく、世界中の地名を漢字だけで表記しなければならない。中国語の地図を開いてみると次のような漢字が飛び込んでくる。
巴 黎、羅馬、米蘭、伯爾尼、維也納、莫斯科、貨盛頓、紐約、聖弗朗西斯科、洛杉磯、夏威夷、
火奴魯魯、新加坡、菲律賓、馬尼拉、越南、胡志明、河内、
日本では幸いにカタカナがあるから外国の地名はカタカナで書くことにしている。上の地名に対応する日本語の表記はつぎのようになる。
パリ、ローマ、ミラノ、ベルリン、ウイーン、モスクワ、ワシントン、ニューヨーク、
サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワワイ、ホノルル、シンガポール、フィリピン、マニラ、
ベトナム、ホーチミン、ハノイ、
韓国では地名や人名もハングルで表記する。日本語の地名はカタカナで表記したら、ほんとうにその漢字が担ってきた歴史が失われてしまうのだろうか。古事記や万葉集に解読できない部分があるだけでなく、現代の日本語も解読不能な文字体系に依存している。
[漢字文化圏のことば]
中国では今でも仮名やアルファベットにあたる表音文字はなく、漢字だけを使っているので、外国語の地名や人名を表記するのにはさまざまな工夫が行なわれてい
る。最近は北京や上海の街を歩いていると、さまざまな看板が目に飛び込んでくる。開放経済の影響で外国語を漢字で表記したものも多い。「麦当労」と書いて
「マクドナルド」と読む。「肯徳基」は「ケンタッキーフライドチキン」である。「肯」は日本漢字音では肯定の肯「コウ」だが現代北京音は肯(ken) である。
可口可楽 百事可楽 労力士 派克 柯達 登喜路
コカコーラ ペプシコーラ ローレックス パーカー コダック ダンヒル
日本漢字音に慣れ親しんだ日本人には、初見では分かりにくい。しかし、現代中国語音と日本漢字音の違いがこれによってわかることもある。現代の北京音では、これらの看板はつぎのように読む。
麦当労(mai-dang-lao)、 肯徳基(ken-de-ji)、 可 口可楽(ke-kou-ke-le)、
百事可楽(bai-shi-ke-le)、 労力士(lao-li-shi)、 柯達(ke-da)、 登喜路(deng-xi-lu)
現代の北京語では韻尾の子音が失われているが、広東語や上海語では韻尾の子音が残っている。たとえば広東語では麦当労(mahk-dong-louh)、肯徳基(hang-duk-gei)、柯達(hoh-daaht)
となる。
日本人にはずいぶん乱暴な当て字と思われる。しかし、なかなか理屈にあっている。「マクドナルド」は英語ではMac-do-naldと三音節である。漢字の麦当労も三音節である。
「ケンタッキー」もKen-tuck-yと
三音節である。日本語読みのほうが「マ・ク・ド・ナ・ル・ド」とか「ケ・ン・タッ・キ・ー」などと多音節になって、原音からは遠くなってしまう。日本語の
音節は開音節であり、子音+母音を基本とするが、古代中国語の音節構造は子音+わたり音(介音)+母音+子音であり、英語の音韻構造とにている。だから、
漢字による表記は英語の一音節にひとつの漢字で対応しており、漢字の特性を生かした表記であるともいえる。
日本でも明治時代までは漢字を使って外国語を表記した。日本語のローマ字表記を考案した「ヘボン」は平文先生と呼ばれた。ヘボンはHepburn で
ある。戦後のハリウッドのスターはオードリー・ヘップバーンもキャサリン・ヘップバーンも、ともにヘップバーンである。「ヘッ・プ・バ・ー・ン」は綴字には忠実だが「ヘ・ボン」に比べて原音に近いとは云いがたい。英語ではHep・burnは二音節に発音されるからである。日本人の英語が外国人に通じない原因のひとつは、音節の数をいたずらに増やしてしまうカタカナ表記にあるのかも知れない。北京や上海の街角では日本の企業の広告も目に付く。
佳能 柯尼卡 美能達・萬能達 尼克・尼康 新力 山葉
キャノン コニカ ミノルタ ニコン ソニー ヤマハ
佳能、尼康は現代北京音では佳能(jia-neng)、尼康(ni-kang)である。中国語の韻尾[-ng]は息が鼻に抜ける鼻音であり、日本漢字音の能「ノウ」、康「コウ」とは違う。英語のsing
a
songのような音である。日本語にはない音なので便宜上「カノン゚」、「ニコン゚」と表記して「カノン」、「ニコン」と区別することにする。上海語では-ngと-nの区別がないから、佳能(jia-nen)、尼康(ni-kan)となり、さらに日本語の「キャノン」、「ニコン」に近くなる。「柯尼卡」の「卡」は「卡拉OK」などにも用いられて、「カラオケ」として中国でも親しまれている字である。山葉「ハマハ」のように、音によらないで意味を生かして漢字で書いている例としては、富士、五十鈴、豊田、三菱などがあげられる。この場合には発音は中国語読みで山葉(shan-ye)、富士(fu-shi)、五十鈴(wu-shi-ling)、豊田(feng-tian)、三菱(san-ling)となる。
現代の中国では外国語からの借用語もよく用いられているがみんな漢字で書かれている。
巴士(バス)、的士(タクシー)、的士高(デイスコ)、咖啡(コーヒー)、啤酒(ビール)、
三明治(サンドイッチ)、三文魚(サーモン)、沙律(サラダ)、熱狗(ホットドック)、
奥林匹克(オリンピック)、高爾夫(ゴルフ)、保齢球(ボーリング)愛滋病(エイズ)、
「熱
狗」や「保齢球」、「愛滋病」などは、発音を表わすばかりでなく、漢字の意味も加味されている。漢字は音を表わすばかりでなく、意味を伴っているので外国
語を表記するのにも意味の要素をまったく無視することはできない。啤酒や三文魚もそれぞれ酒、魚であることが文字のうえでも示されている。外国の地名も、
中国語ではカナ書きにすることができないので漢字で書く。
巴黎(パリ)、羅馬(ローマ)、米蘭(ミラノ)、伯爾尼(ベルリン)、維也納(ウイーン)、
莫斯科(モスクワ)、貨盛頓(ワシントン)、紐約(ニューヨーク)、聖弗朗西科
(サンフランシスコ)、洛杉磯(ロサンゼルス)、夏威夷(ハワイ)、火奴魯魯(ホノルル)、
新加坡(シンガポール)、菲律賓(フィリピン)、馬尼拉(マニラ)、越南(ベトナム)
胡志明(ホーチンミン)、河内(ハノイ)、
パ
リは日本では「巴里」とも書く。漱石には『倫敦塔』という作品がある。明治の日本人はロンドンを「倫敦」と表記した。地名や人名の漢字による表記は、必ず
しも統一されていたわけではない。福沢諭吉はロンドンを「竜動」と書いている。「倫敦」も「竜動」も日本漢字音ではロンドンとは読みにくい。当時の中国人
が書いたものに倣って書いたか、あるいは上海、香港あたりに来ていたイギリス人が使っていたものを流用したものであろう。「倫敦」の現代北京語読みは倫敦(lun-dun)
であり、「竜動」は竜動(long-dong) である。「竜動」は日本漢字音ではロンドンとは読めない。上海語では-ng が-n
に近いので「竜動」は外国に対して早くから開けた上海語の発音を反映しているかもしれない。
「河内」はベトナムでは河内(Hanoi)
であり、日本では河内「かわち」である。ベトナムという国名自体が中国語の「越南」のベトナム語読みで越南(Viet-nam)
である。トンキン湾も漢字で書けば「東京湾」となり東京湾(Tong King) が原音である。
「東
京」とは江戸のことだが、明治になってから東京「トウキョウ」と読むべきか東京「トウケイ」と読むべきか定まらなかったという。電車の京浜急行などは京浜
「ケイヒン」であり、関西でも京阪神は京阪「ケイハン」である。地名や人名の漢字表記は、書き方も読み方はそう簡単ではない。書く方と読む方に共通の理解
がないと、理解できないばかりか、地名の場合は行く先を取り違えてしまい、人名の場合は人違いをしてしまうことにもなりかねない。
現在の中国では、外国人の人名を漢字で表記する方法が決められている。新華通信社訳名資料組編の『英語姓名訳名手冊』(第2次修訂本・商務所書館1991年)にはつぎのような例をあげられている。
喬治(ジョージ)・布什(ブッシュ)、約翰(ジョン)・肯尼迪(ケネデイー)、尼克松
(ニクソン)、福徳(フォード)、弗蘭克林(フランクリン)・羅斯福(ルーズベルト)、亜伯拉罕(アブラハム)・林肯(リンカーン)、温斯頓(ウインストン)・邸吉爾(チャーチル)、
日本人の名前は漢字で表記すると、中国では中国語読みになる。小林(xiao lin)、田中(tian zhong) 、鈴木(ling mu)
、佐藤(zuo teng) 、小泉(ziao quan) などとなる。
ペ
リーが浦賀に来た直後に、ロシアのプチャーチンが艦隊を従えて長崎に入港した。当時の日本では英語もロシア語も通じなかったので、国書には母国語のほか
に、漢文とオランダ語の翻訳が添えられていた。ロシアの国書の冒頭には「大君皇帝首仁幸来」とあった。漢学者は「首仁幸来」という部分が解読できなかっ
た。「仁を首(はじめ)として幸が来る」と読み下したが、意味が通じない。オランダ語訳では「首(はじめ)の仁幸来(にこらい)」となっていたので、「仁幸来」が「ニコライ」であることがかろうじて判明したという。地名や人名などの漢字表記は字義にまどわされやすい。外国語を漢字で表記することは、今も昔もむずかしい。
日 本の地名や人名を、はじめて漢字で表記しようとした史(ふひと)たちは、現代の中国人が漢字だけを使って外国の地名や人名を表記するときに直面するのと同
じ問題に出会ったに違いない。同じロンドンを表わすのに「倫敦」と書く人と「竜動」と書く人がいたのでは、それが同じ地名を表わしているのか、違う所なの
か分からなくなってしまう。また同じく「河内」と書いても日本では「かわち」、ベトナムでは「ハノイ」と読むというように、地方によって読み方が違ってし
まうこともある。だから、漢字だけで書かれた古代の日本語を解読するのはむずかしい。
現在中国では小学校の1学年からローマ字による国語教育を行っている。小学校の教科書には、表紙からローマ字が併用されていて『語文』(yŭ
wén)と現代北京語の読み方がローマ字で示されている。6年制義務教育小学試用課本をみてみると次のような例がある。
馬mă、 牛niú、
羊yáng、 毛máo、 頭 tóu、 人rén、 耳ě r 、 口kŏu、 目mù、 牙yá、
木mù、 米mǐ、 豆dòu、 鳥niăo、
虫chóng、 飛fēi、 爪zhăo、 出chū、 入rù、 来lai 、
北
京音は日本漢字音とはかなり違う。しかし、違いは日本漢字音との間にだけあるのでではなく、中国国内でも発音はかなり違う。漢字の国中国では漢字で書けば
全国でことばが通じるが、発音は地域によりかなり違うので会話は通じないことが多い。テレビの番組も北京語を理解できない人のために、漢字を字幕で示して
いる。そこで、教育によって北京語音を普及させ、各地の方言のほかに北京語音を全国共通語として普及させようというわけである。例えば広東語では次のよう になる。
( )内は北京音。
馬máh(mă)、 牛ngàuh(niú)、 羊yèuhng(yang)、 毛mòuh(máo)、 頭tàuh (tóu)、
人yàhn(rén)、 耳yíh (ěr)、
口háu (kŏu)、 目muhk (mù)、 牙ngàh(yá)、 木muhk(mù)、 米máih
(mǐ)、 豆dauh (dòu)、 鳥nuíh (niăo)、 虫chùhng (chóng)、 飛fèi(fēi)、 爪jáau(zh ăo)、
出chēut(chū)、 入yahp(rù)、 来lòih (lai)、
カラー印刷で絵入りの教科書を開いてみるとつぎのようになっている。
kàn yìn jié dú zì yīn
看 音 節 読 字 音
yī èr sān sì wŭ liù qī bā
jiŭ shí
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
shàng zhōng xià dà xiăo
上
中 下 大 小
rì yuè shuǐ huŏ shān shí tián tŭ jǐng
日 月 水 火 山 石
田 土 井
dāo gōng chē zhōu qì yún yŭ diàn
刀 弓 車 舟 気
雲 雨 電
表音文字をも
たない中国では、古来漢字の音を示すために反切という方法が試みられてきた。漢字に漢字でカナをふるのである。例えば、「月」は頭音である声母と母音を含
む韻尾である韻母にわけて、月(玉掘切)とする。これによって、「月」の頭音は「玉」と同じであり、母音を含む韻尾は「掘」と同じであることを示す。
馬(姥雅切)、牛(宜求切)、羊(移強切)、鳥(泥了切)、人(人寅切)、耳(而矣切)、
口(可欧切)、目(莫禄切)、牙(宜遐切)、木(莫禄切)、米(密禮切)、日(仁逸切)、
これは漢詩の韻を調べたりするのには便利だが煩雑である。月は北京語では月(yuè)であり広東語では月(yuht)であるが、反切の「玉掘」北京語では玉掘(yù-
jué)、であるが、広東語では玉掘(yuhk-gwaht)であるため、「月」を北京の人は月(yuè)と理解し、広東の人は月(yuht)と理解してしまう可能性がある。つまり、漢字で漢字にカナをふるのは循環論になってしまうのである。
経国家教委中小学教材審定委員会審査試用の九年義務教育六年制小学教科書の語文(Yŭ Wén)
第三冊(人民教育出版社小学語文室 編著)のなかの「狼と子羊の話」の一部をみると次のようになる。(原文は簡体字)
láng hé xiăo yáng
狼 和 小 羊
láng lái dào xiăo xī biān
狼 来 到 小 渓 辺、
kàn jiàn xiăo
yáng zài nà ér hē shuǐ
看 見 小 羊 在 那児 喝 水。
láng xiăng chī xiăo yáng
狼 想 吃 小 羊、
jiù gù yì zhăo chá ér
就 故 意 找 石査* 児、
shuō nǐ bă wŏ
hē de shuǐ nòng zāng le
説: ”你 把 我 喝 的 水 弄 髒 了!
nǐ ān de shén me xīn
你 安 的 甚 末 心?”
xiăo yáng chī le yì jīng
小 羊 吃 了 一 惊、
wēn hé de
shuō wŏ zěn me huì bă nín hē de shuǐ nòng zāng ne
温 和 地 説:” 我 怎 末 会 把 您 喝 的
水 弄 髒 呢?
nín zhàn zài shàng yóu shuǐ shì cóng nín nà ér liú dào wŏ zhè ér
lái de
您 站 在 上 游、水 是 従 您 那 児 流 到 我 這 児 来 的、
bú shì cóng wŏ zhè ér liú
dào nín nà ér qù de
不 是 従 我 這 児 流 到 您 那 児 去 的。”
*石査=石偏+査
中
国では革命後漢字を簡略化した。そして、さらにその漢字の読み方を、表音文字であるローマ字によって小学校の段階から教えて、北京語の発音を共通語として
いこうという試みが続けられている。現在では、日本人が中国語の発音を学習するのにも、アルファベットが用いられている。現代の北京語音は日本漢字音とは
かなり違うから、北京語音を習うには表音文字であるアルファベットによったほうが間違いが少ない。
日
本漢字音は主として唐代の漢字音に依拠している。千数百年の間に、中国語の発音も変わり、日本語の発音も変わった。どちらかといえば、日本漢字音のほうが
中国語の古いかたちを留めているといえる。北京語は元代に韻尾の子音を失ったので、日本漢字音は北京語よりも広東語に近い。
日本語にはカナがあるため外国の地名は表音文字であるカナで表記することになっている。しかし、中国語にはカナがないため、漢字だけで表記しなければならない。アメリカは日本では米国と書くこともあるが、中国では美国である。米国も美国もA-mer-i-caのなかのアクセントを伴う音節(mer)の音をとりだして表記したものである。しかし、漢字は一字一字が意味をもっているから、日本式表記ではアメリカはRice
Countryであり、中国式ではBeautiful Countryという意味を伴うことになる。フルネームで書けば「美利堅合衆国」となる。
漢字の音を使って地名を表記するとはいえ、意味のうえでもよい字を選ぶ傾向はある。ハリウッドはHollywood(シイラギ林)であるが、故意にか間違ってか、漢字では「聖林」と書く。世界に何千、何万とある地名にひとつひとつ漢字をあてはめるのだから、中国の地図作りは大変である。中国の「世界地図冊」で美国州名を調べてみると次のようになる。
阿拉巴馬(アラバマ)州、阿拉斯加(アラスカ)州、亜利桑那(アリゾナ)州、加利福尼亜
(カリフォルニア)州、南北・卡羅来納(カロライナ)州、科羅拉多(コロラド)州、康乃狄克
(コネチカット)州、達科塔(ダコタ)州、徳拉瓦(デラウエア)州、仏羅里達(フロリダ)州、 喬治亜(ジョージア)州、夏威夷(ハワイ)州、愛達荷(ア
イダホ)州、伊利諾(イリノイ)州、 愛荷華(アイオワ)州、堪薩斯(カンサス)州、肯塔基(ケンタキー)州 路易士安那
(ルイジアナ)州、麺因(メイン)州、馬里蘭(メリ−ランド)州、麻薩諸塞(マサチュセッツ)州、密西根(ミシガン)州、明尼蘇達(ミネソタ)州、密西西比(ミシシッピ)州、密蘇里
(ミゾウリ)州、蒙大拿(モンタナ)州、内布拉斯加(ネブラスカ)州、内華達(ネヴァダ)州、 新罕布夏(ニューハンプシャー)州、紐澤西(ニュージャー
ジー)州、新墨西哥(ニューメキシコ)州、紐約(ニューヨーク)州、俄亥俄(オハイオ)州、奥克拉荷馬(オクラホマ)州、俄勒岡
(オレゴン)州、賓夕法尼亜(ペンシルヴァニア)州、羅徳島(ロードアイランド)州、田納西
(テネシー)州、徳克薩斯(テキサス)州、猶他(ユタ)州、仏蒙特(ヴァーモント)州、
維吉尼亜(ヴァージニア)州、華盛頓(ワシントン)州 威斯康辛(ウイスコンシン)州、懐俄明(ワイオミング)州、
このなかにも日本漢字音で読むとどの州なのかわからないものがある。しかし、その違和感をつきつめてみると、日本漢字音の特質がみえてくる。
ジョージア州は喬治亜(qiao-zhi-ya)である。ジョージ・ブッシュ大統領は喬治布什(qiao-zhi-bu-shi)となる。喬の日本漢字音は喬(キョウ)でありジョージとは読みにくい。喬の古代中国語音は喬[giô]であり、日本漢字音の方が古代中国語音に近い。わたり音(i介音)の影響で北京語音のほうが変化したのである。青島は青島(qing-dao)であり、この場合は日本漢字音が青(セイ)であり、サ行であらわれる。広東語音では喬(kiuh)、青(ching)であり、カ行イ段、サ行イ段、タ行イ段はわたり音
(i介音)の影響で転移しやすい。
ハワイは夏威夷である。布哇とも書く。夏威夷のほうは意味もこめられているのであろう。しかし、夏威夷と書いてなぜハワイと読めるのだろうか。夏威夷の現代北京語音は夏威夷(xia-wei-yi)である。夏はハとは読みにくい。ニューハンプシャーは新罕布夏(han-bu-xia)であり、夏は夏(シャー)にあてられている。夏の古代中国語音は夏[hea]であり、広東語音は夏(hah)である。夏威夷は広東語音の夏威夷(hah-wai-yih)に依拠しているといえる。日本漢字音の夏(カ)は古代中国語の喉音[h]が転移したものである。ホノルルは火奴魯魯(huo-nu-lu-lu)である。日本語では火は火(カ)が音で、火(ひ)あるいは火(ほ)はやまとことばであるとされているが、ホノルルでは火(huo)がホノルルの「ホ」に対応している。火(ひ)、火(ほ)も古代における中国語からの借用語である可能性が高い。
イリノイ州は伊利諾と書いたのでは日本漢字音では伊利諾(イリダク)になってしまう。伊利諾の現代北京音は伊利諾(yi-li-nuo)である。諾の古代中国語音は諾[nak]である。広東語音は諾(nohk)である。t・d・nは調音の位置が同じであり転移しやすい。日本漢字音の諾(ダク)はナ行音が濁音に転移したものである。古代中国語の韻尾[-k]は広東語音、日本漢字音はたもっているが北京音では失われている。モンタナの蒙大拿(meng-da-na)でも北京語の拿(na)は日本漢字音では拿(ダ)であらわれる。
アイダホ・愛荷華(ai-he-hua)、オクラホマ・奥克拉荷馬(ao-ke-la-he-ma)では「荷」は「ダ」・「ホ」であらわれている。荷の古代中国語音は荷[hai]と推定されている。広東語音は荷(hoh)であり、日本語のハスも荷子が語源である。愛荷華(アイダホ)の荷(ダ)は転移であろう。日本語の荷(に)も転移である可能性がある。
ネヴァダ・内華達(nei-hua-da)、ワシントン・華盛頓(hua-sheng-dun)では華が「ヴァ」と「ワ」に使われている。華の古代中国語音は[hoa]であり、広東語音は華(wah)である。中国語の喉音[h-]はしばしば脱落する。華盛頓(ワシントン)は頭音が脱落した例であり、広東語音に近い。内華達(ネヴァダ)は広東語音の華(wah)が、中国語音にはないvに転用された例である。喉音の越[hiuat]は越南では越南(Viet
Nam)となる。日本語の花(はな)も中国語の華、あるいは花と関係のあることばであろう。
ニュージャジー・紐澤西(niu-ze-xi)、ニューヨーク・紐約(niu-yue)では紐が紐(ニュー)に使われている。紐は日本漢字音では紐(チュー)である。干支で牛を丑とするのは牛(ギュウ)と丑(チュウ)の中国語音が近いからである。現代の北京音では牛(niu)、丑(chou)であるが、牛と丑は北京音では調音の位置が同じである。
オハイオ・俄亥俄(e-hai-e)、オレゴン・俄勒岡(e-lei-gang)、ウィオミング・懐俄明(huai-e-ming)の俄の古代中国語音は俄[ngai]であるが現代北京音は俄(e)であり、広東語音は俄(ngoh)である。同じ声符をもつ我は北京音は我(wo)、広東語音は我(ngoh)である。万葉集などの日本語で我を「あ」あるいは「わ」といのは中国語の我と同源である。
ペンシルヴァニア・賓夕法尼亜(bin-xi-fa-ni-ya)、ヴァーモント・仏蒙特(fo-meng-te)、ヴァージニア・維吉尼亜(wei-ji-ni-ya)では英語のvをあらわすのに法(fa)、仏(fo)、維(wei)が使われている。いずれの場合も中国語の両唇音を英語の歯唇音に転用している。
漢字による地名の表記には一部字義が使われることもある。新罕布夏(ニューハンプシャー)州、新墨西哥(ニューメキシコ)州、南北・
卡羅来納(カロライナ)州羅徳島(ロードアイランド)などである。聖路易斯(セントルイス)、聖安東尼奥(サンアントニオ)などの聖は聖(Saint)である。費城(フィラデルフィア)、堪薩斯城(カンサスシティー)の「城」も義を生かしている。洛杉磯(ロスアンゼルス)、長灘(ロングビーチ)も漢字によって土地のイメージを伝えようとしている。匹慈堡(ピッツバーク)、聖彼得斯堡(セント・ピータースバーク)、聖何塞(サンディエゴ)も義をいかそうとする工夫がみられる。サンフランシスコは今は聖弗朗西斯科と書くが、ゴールドラッシュの名残で「金山」と表記したこともあった。イギリスではOxford牛津、Cambridge剣橋なども使われている。
次の地名はいずれもアメリカの地名である。このうちいくつ解読できるだろうか。
1.芝加歌、2.底特律、3.布法羅、4.康科徳、5.奥克蘭、6.波徳蘭、
7.奥烏哈、8.曼哈頓、9.里士満、10. 邁阿密、 11. 休斯敦、12.
孟菲斯、
13. 杰克遜、 14. 歌倫布、15. 西雅図、
漢字は中国語
を表記することを目的として作られた音節文字だから、音節構造の違う外国語を表記するのは困難である。古事記や万葉集を漢字だけで書いた史(ふひと)の苦
心がしのばれる。表記するのがむずかしいばかりでなく、解読するのはさらに困難である。現代では地名や人名の表記はかなり標準化されているが、倫敦と竜
動、あるいは巴里と巴黎のように書記者によって使う漢字が違う場合もあるので、それが同じロンドンあるいはパリを指すのか、字が違うから違う都市を指すの
かの判断も求められる。ちなみに、上記のアメリカの地名はそれぞれ次のようになる。
1.
芝加歌(シカゴ)、 2.底特律(デトロイト)、 3.布法羅(バッファロー)、
4.康科徳(コンコード)、5.奥克蘭(オークランド)、6.波徳蘭(ポートランド)、
7.奥烏哈(オマハ)、 8.曼哈頓(マンハッタン)、9.里士満(リッチモンド)、
10. 邁阿密(マイアミ)、 11. 休斯敦(ヒューストン)、12.
& nbsp;孟菲斯(メンフィス)、
13. 杰克遜(ジャクソン)、 14. 歌倫布(コロンブス)、 15. 西雅図(シアトル)、
最近は中国の新聞などでは外国の地名や人名をローマ字で表記することも多くなってきている。中国の新聞は横書きであり、ローマ字は国民が小学校の低学年から慣れ親しんでいる。
人間が言語で
使う子音や母音の数は、どの言語でも限られている。だから、限られた表音文字を使って無限にある事象や地名・人名を表記することができる。しかし、表意文
字の場合は無限にある事象にたいして無限に近い数の文字を作りださなければならなくなる。漢字の数は5万字くらいあるといわれている。『康熙字典』は42
巻もあって、そこに集録されている漢字の数は4万9030字だといわれている。諸橋轍次の『大漢和辞典』は5万字を越えるともいう。
それでも漢字一字で森羅万象をすべて表記しようとすれば足りるはずがない。固有名詞にいたってはほとんど無限にある。ソシュールは言語とは記号(signe)の
体系であると規定した。記号とはシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)が結びついたものだという。「能記」、「所記」という漢語は定訳になっている
が、能記とは「語ること」の意味であり、所記とは「語られるもの」をさす。固有名詞の場合、人が1億人いれば、それに対応するシニフィアン(能記)も1億
必要だということになる。それでは『康熙字典』も『大漢和辞典』もまったく間に合わない。
人や物は無限
だが言語の記号は有限である。無限の事象を有限の記号によって語るのが言語でもある。エジプトのヒエログリフも象形文字だといわれているが、管見したとこ
ろ表音的要素もある。例えば、波を三つ描いて「水」をあらわすが、その文字は所有格をあらわす助詞としても使われる。発音が同じだから転用されたのであ
る。クレオパトラのような固有名詞は美人の絵を描いて示すわけではない。固有名詞はカートウシュという楕円形で囲むことになっていて、カートウシュで囲ん
であれば固有名詞だということがわかる。そして、クレオパトラの「レオ」の部分にはライオンが描かれる。
英語の場合も
固有名詞は最初の文字を大文字で表記することになっていて、大文字がでてきたら固有名詞だという信号を伝えてくれる。しかし、漢字の場合は固有名詞も普通
名詞も同じ漢字で書かれている。中国人の名前にはある程度パターンがあるから読めるが、外国人の場合は音韻の構造も違うので、次々に登場してくる外国人の
名前を新聞などで表記するのも大変である。中国には『英語姓名翻訳手冊』(新華社通訊社訳名資料組編)というものがあって、新聞などに登場する外国人名を
表記する目安になっている。
柯林頓(クリントン)、葉爾欽(エリツイン)、密特朗(ミッテラン)、梅傑(メジャー)首相、
伊莉莎白二世(エリザベス女王)、馬丁・路徳・金(マーチン・ルター・キング)、約翰・亨利・
史密斯(ジョン・ヘンリー・スミス)、瑪丹那(マドンナ)、麦可・傑克森(マイケル・
ジャクソン)、湯姆・克魯斯(トム・クルーズ)、凱文・柯斯納(ケビン・コスナー)、労勃・
瑞福(ロバート・レッドフォード)、保羅・紐曼(ポール・ニューマン)、史恩・康納莱
(ショーン・コネリー)、伍迪・艾倫(ウディー・アレン)飽伯・狄倫(ボブ・ディラン)、
艾維斯・普里斯莱(エルビス・プレスリー)、約翰・藍儂(ジョン・レノン)、珍・芳達
(ジェーン・フォンダ)、馬龍・白蘭度(マーロン・ブランド)、莎莉・麦考琳(シャーリー・
マックレーン)、葛雷哥莱・畢克(グレゴリー・ペック)、華徳・狄斯耐(ウオルト・ディズニー)、
『英語姓名翻訳手冊』は新聞社やテレビ局に備えてあるばかりでなく、街の印鑑屋にもあって、外国からの観光客が記念に自分の名前を印鑑に彫ってもらう時なども便利に使われている。ABC順で、Aのページから主なものをひろっただけでも大変な数になる。
Aaron阿倫、 Abel埃布尓、 Abraham亜伯拉罕、
Acheson艾奇遜、 Achilles阿基利斯、 Adam亜当、
Adams亜当斯、 Adlai阿徳莱、 Adolf阿道夫、
Adolfson阿道夫森、 Agatha阿加莎、 Agnes阿格尼絲、
Agnew阿格紐、 Albee阿尓比、 Albert艾伯特、
Alberts艾伯茨、 Albertson艾伯森、 Albin阿尓賓、
Alcott奥尓科特、 Alex亜�匚郢曄� Alexander亜�匯蛎隋�
Alexis亜�匚鄒昌曄� Alfred艾尓弗雷徳、 Alice艾麗斯、
Alistair阿利斯泰尓 Allan阿倫、 Allen艾倫、
Allenby艾倫比、 Allison阿林森、 Amadeus阿馬迪厄斯、
Anable阿納布尓、 Anastasia阿納斯塔西婭 Andersen安特森、
Andie安迪、 Andre安特烈、 Andrew安徳魯、
Angel安杰尓、 Angela安杰拉、 Angeles安杰利斯、
Angelica安杰莉卡 Ann安、 Anna安娜、
Anne安妮、
Annie安妮、 Annenberg安嫰伯格、
Anthony安東尼、 Antonio安東尼奥、 Apollo阿波羅、
Appleby阿普尓比、 Aragon阿拉貢、 Archibald阿奇博尓徳、
Archimedes阿基米得、 Arlington阿林頓、
Armitage阿米蒂奇、
Armstrong阿姆斯特朗、Arnold阿諾徳、 Aston阿斯頓、
Astar阿斯特、
Astoria阿斯托里亜、 Atchison艾奇遜、
Attenborough阿縢伯勒、Attlee阿特利、 Audrey奥特麗、
Austin奥斯汀、 Avalon阿瓦隆、 Axel阿克塞尓、
漢字の音を使った表記である。中国語の音節と英語の音節構造は違うから、転用や転移が起こる。しかし、注意深くみると一定の転移の法則があることがわかる。Aは阿(a/e)、埃(ai)、亜(ya)、艾(ai/yi)、奥(ao)が使われている。また、Anには安(an)が使われている。接尾辞の-sには斯(si)、絲(si)が用いられ、-sonあるいは-senには遜(xun)、森(sen)があてられている。Ann安、Anna安娜、Anne安妮、
Annie安妮などは書きわける工夫はしているが、完全に書き分けられているわけではない。
そこで問題である。次の固有名詞を漢字で表記せよ。
1.アレキサンダー大帝、2.アリストテレス、3.アルキメデス、
4.アマデウス・モーツアルト、5.アダム・スミス、6.アブラハム・リンカーン、
7.アルバート・アインスタイン、8.アラン・ポー、9.アンディー・ウイリアムス、
10. オードリー・ヘプバーン、
正解は次のとおりである。
1.亜�匯蛎臑臘襦■押グ[せ杪親繊■魁グご霾篤澄■粥グで�迪厄斯・莫沢特、5.阿当・史密斯、6.亜伯拉罕・林肯、7.艾伯特・愛因斯担、8.阿倫・波、9.安迪・威廉斯、10.
奥特麗・
赫伯恩、
日常生活のなかででてくると思われる固有名詞をあげてみてもとうてい漢字では書けそうもない。
○歴史上の人物:凱撤(シーザー)、拿破崙(ナポレオン)、富蘭克林(フランクリン)、希特勒 (ヒトラー)、
○科学者・発明家:達爾文(ダーウイン)、哥白尼(コペルニクス)、伽利略(ガリレオ)、牛頓 (ニュートン)、諾貝爾(ノーベル)、愛迪生(エジソン)、福特(フォード)、史懐哲
(シュバ イツアー)、
○哲学者:畢達哥拉斯(ピタゴラス)、蘇格拉底(ソクラテス)、欧幾里徳(ユークリッド)、
笛卡爾(デカルト)、康徳(カント)、馬克斯(マルクス)、湯恩比(トインビー)、
○冒険家:哥倫布(コロンブス)、馬可・孛羅(マルコ・ポーロ)、
○作曲家:巴哈(バッハ)、貝多芬(ベートーベン)、䔥邦(ショパン)、莫札特
(モーツアルト)、柴可夫斯基(チャイコフスキー)、華格納(ワグナー)、舒伯特
(シューベルト)、舒曼(シューマン)、海頓(ハイドン)、韓徳爾(ヘンデル)、
○画家:畢卡索(ピカソ)、梵谷(ファン・ゴッホ)、達・文西(ダ・ビンチ)、塞尚
(セザンヌ)、米開蘭基羅(ミケランジェロ)、羅丹(ロダン)、
○作家:莎士比亜(シエクスピア)、海明威(ヘミングウエー)、史担貝克(スタインベック)、
托爾斯泰(トルストイ)、馬克・吐温(マーク・トウエイン)、哥徳(ゲーテ)、杜斯妥也夫斯基 (ドストエフスキー)、狄更斯(ディッケンズ)、湯瑪士・曼(トーマス・マン)、
日本語では普
通外国人の名前は中国人、韓国人など漢字文化圏の人の名前を除いてカタカナで書くことになっているから、こんな苦労をする必要はない。しかし、日本人の名
前は漢字だけで書き、しかも、漢字の音と訓をまじえて読むから、中国語の場合よりもやっかいである。人名漢字は、あらかじめその読み方を知っている人にし か読めない。
中国大陸で布教活動をした宣教師がたちにとっても、キリスト教の神や使徒の名前などの固有名詞を漢字でどう表記するかは、大問題だった。イエス・キリスト(Jesus
Christ)は耶蘇基督、新約聖書の使徒はそれぞれマタイ (Matthew) 馬太、マルコ (Mark) 馬可、ルカ(Luke) 路加、ヨハネ(John)
約翰などである。そのほかのおもな登場人物をあげてみると次のようになる。
○聖書人名:亜伯拉罕(アブラハム)、亜當(アダム)、但以理(ダニエル)、大衞(ダビデ)、
雅各(ヤコブ)、馬利亜(マリア)、摩西(モーゼ)、保羅(パウロ)、彼得(ペテロ)、
耶和華 (エホヴァ)、
○異教:阿拉(アラー)、可蘭(コーラン)経、穆罕黙徳(モハメッド)、猶太(ユダヤ)教、
○事項:巴別(バベル)、聖経(バイブル)、聖誕節(クリスマス)、天主教(カトリック)、
○地名:巴比倫(バビロン)、伯利恒(ベスレハム)、大馬色(ダマスカス)、伊甸園(エデン)、 埃及(エジプト)、耶路撤冷(エルサレム)、約但(ヨルダン)河、挪亜(ノア)、尼羅
(ナイル)河、巴勒斯担(パレスチナ)、波斯(ペルシャ)、
日本語訳の聖
書は中国語訳聖書の表現を踏襲している。実はかなり多くの言葉が、すでに中国で使われていた。聖書語に関する限り、儒教や仏教の経典と同じく、中国経由な
のである。しかし、教派によって異なった日本語訳聖書を使っていたので翻訳の異なるものもあった。なかでも問題だったのは、キリスト教の神と仏教や儒教の
神の概念とどこでおりあいをつけるかという問題があった。
フ
ランシコ・ザヴィエルは「デウス」にあたる言葉として「大日」を採用した。中国で布教したマテオ・リッチは儒教の経典のなかにでてくる「上帝」が、「天
主」であると説いた。中国の都には天の「上帝」を祭るための天壇といわれる祭壇がある。その後、ローマ・カトリックでは「上帝」ではなく「天主」を用いる
ことに落ち着いた。プロテスタントでは「上帝」「神」、いずれも一致を見いだせなかった。「神」を主張する側にはアメリカ系の宣教師が、そして「上帝」を
主張する側にはイギリス系の宣教師がいた。
キリスト教の聖典であるBibleの訳語は中国語では聖経であり、日本語では聖書である。「聖書」という言葉自体は、中国では『史記』などに存在していることばである。キリスト教の中心概念であるloveは「仁」とか「いつくしみ」ということばが使われていたが「愛」が使われるようになった。「愛」はキリスト教の概念をとりいれることによって、従来の日本語の意味を変えてしまった。
ソウルの街はハングルの洪水である。漢字の表示のほとんどない。街で耳慣れないことばを聞いていると、これがわが隣国なのかと不思議な気分になり、朝鮮語
は本当に日本語に近い言語なのかと、いぶかしく思えてくる。ソウルの中心街から地下鉄(チハチョル)に乗ってみることにする。ロッテホテルのすぐ前がsi-cheong(シジョン゜)である。si-cheong
は「市廳」の朝鮮語読みである。
朝鮮語では韻尾の-tは規則的に-lに
転移するので、地下鉄(チカテツ)はチハチョルになる。また、朝鮮語ではラ行の音は語頭にこないから「ロッテホテル」という名はハイカラな外来語のイメー
ジを韓国の人には与えるに違いない。老人や田舎の人は語頭にくる「ロ」の音は発音できないから「ノッテホテル」と発音してしまうはずである。
ソウルの地下鉄はハングルの読めない人のために、駅にナンバーがついているのが、せめてもの救いである。ハングルは表音文字なので地下鉄の駅名をローマ字にしてみると、次のようになる。
�� si-cheong、��eul-ji-ro-ip-gu、��eul-ji-ro3ga、��eul-ji-ro4ga、��tong-dae-mun
-un-dong-jang、
�� jam-sil、
これがもし漢字で書いてあったら、同じ漢字文化圏に属する日本人には、もっと理解できるはずである。地下鉄の駅名を漢字で書いてみると、次のようになる。
�〇堋�、��乙支路入口、�2技拵�三街、�げ技拵�四街、�ヅ貘臾膠親鮎譟↓飴充次�
中国語の庁(ting)、東(dong)、動(dong)、場(chang)
はそれぞれ鼻濁音「ン゚」である。日本漢字音では庁「チョウ」、東「トウ」、動「ドウ」、場「ジョウ」と発音されるが、朝鮮漢字音では庁(cheong)、東(tong)、動(dong)、場(jang)のように鼻濁音を保っている。「乙支路入口」の「入」の古代中国語音は入[njiəp]である。朝鮮漢字音では語頭の[nj-]
は 失われて入(ip) となる。古代中国語の語頭の日母[nj-]
は朝鮮漢字音では規則的に失われて、日本は日本(il-bon)になる。朝鮮語では「入口」は入口(ip-gu)、「出口」は出口(chul-gu)
で、いずれも中国語からの借用語である。
「門」は門(mun) 、「運」 は運(un) である。「蚕」 は蚕(jam)
である。日本語では門(モン)、運(ウン)、蚕(サン)となり、韻尾の[-n]
と[-m]は区別されないが、朝鮮漢字音では区別されている。これは古代中国語の韻尾の違いを反映したものである。古代中国語では「門」、「運」、「蚕」はそれぞれ門[muən]、運[hiuən]、蚕[dzəm]で、[-n]と[-m]が区別されている。現代の北京語では[-m]
[-n] の区別は失われて門(men)、運(yun)、蚕(can)で、いずれも語尾は-nになっている。
「乙」、「室」の古代中国語音は乙[eat]、室[sjiet]である。古代中国語の韻尾の[-t]
は朝鮮漢字音では規則的に-lに変化する。室[sjiet]は朝鮮漢字音では室(sil)であり、出口の出[thjiuət] も出(chul)になる。
トイレのハングル表示も「男」は男(nam)、「女」は女(yo)である。いずれも中国語語源である。韓国語の女(yo)は古代中国語音の女[njia]の頭音の[nji-]
が失われたものである。朝鮮半島の地名も朝鮮漢字音で読まれている。
平壌(pyeong yang)、 仁川(in cheon)、 板門店(pan
mun jeom)、 慶州(kyeong ju)、 光州(kwang ju)、 済州島(je ju do)、 漢江(han gang)、
洛東江(nak tong gang)、 元山(won san) 、 蔚山(ul san) 、
朝鮮漢字音は古代中国語音を基準点にすると、規則的に対応している。[ ]内が古代中国語音である。
平壌[being-njiang]、
仁川[njien-thjyuən]、 板門店[piuan-muən-tyəm]、 慶州[khyang-tjiu]、 光州[kuang-tjiu]、
済州島[tzsyei-tjiu-tô]、 漢江[xan-kong]、 洛東江[lak-tong-kong]、 元山[ngiuan-shean]、
蔚山[iuət-shean]、
「壌」、「仁」の語頭の[nj-]は失われて、朝鮮漢字音では壌(yang)、仁(in)になる。「店」の韻尾は、朝鮮漢字音ではmとnが区別されて店(jeom)である。
「漢」は中国語音、朝鮮語音では喉音[xan]であるが、日本漢字音ではカ行に置き換えられて漢(カン)に転移している。この場合、朝鮮漢字音のほうが日本漢字音より中国語原音に近いといる。
「洛」は、朝鮮語では語頭にlの音がくることないので、洛(nak) となってnに転移している。この場合は日本漢字音の方が朝鮮漢字音よりは中国語原音に近い。
「元」の語頭の鼻濁音[ng-]は朝鮮漢字音では失われるので、元(won)となる。中国の通貨は元「ゲン」であり、韓国の通貨は「ウオン」であるが、漢字で書けば同じく「元」である。
「蔚」は慰、尉ともに日本漢字音は蔚(い)だが、古代中国語音は蔚[jiuət]で韻尾に-tの音があった。朝鮮漢字音の蔚(ウル)は中国語の韻尾-tを-lの音で留めている。朝鮮漢字音のほうが、日本漢字音より古いかたちを残していることになる。
ソウルの街に出るとyak、i-bal、ta-bangなどの看板が目につく。「薬」、「理髪」、「茶房」である。「薬」は日本でも最近目にする「薬局」の看板である。朝鮮語ではラ行の音は語頭にこないから中国語の理[liə]
は、朝鮮語では理(i)になる。「理髪」の「髪」は語中では濁音になって、髪(pal) ではなくて髪(bal)
となる。食堂(sik-dang)に入って、冷麺(naeng-myeon)でも食べて、麦酒(maek-ju)でも飲みたいのだが、一歩観光ルートをはずれると、メニューもすべてハングルだけで書かれている。
日本と韓国は漢字を共有しているはずなのに、韓国では漢字はもはやほとんど使われていない。また、もし漢字のメニューがあったとしても、朝鮮漢字音は日本漢字音とはかなり発音が違う。漢字(カンジ)も朝鮮漢字音では漢字(han-ja)である。ハングルで書いてあるメニューも、漢字で表記すればつぎのようになるはずである。
料理(yo-ri)、 冷麺(naeng-myeon)、 参鶏湯(sam-gye-ttang)、 河豚湯(pok-eo-tang)、
肉醤(yuk-jang)、 魚粥(eo-juk)、 麦飯(po-ri-ban)、 豆腐(to-bu)、 饅頭(man-du)、
日本語の「ふぐ」は朝鮮語の河豚(pok) と同源である。日本語の魚(うお)は中国語の魚の朝鮮語音である魚(eo)
である。「豆腐」、「饅頭」は日本語も朝鮮語も中国語からの借用語である。
朝鮮語で「麦」は麦(po-ri)
である。『古事記』に五穀の起源の話があり、速須佐之男之命に殺された大宜津比売の体から五穀が生まれたとされている。「頭は蚕になり、目は稲穂になり、耳からは粟が生まれた。鼻は小豆になり、陰(ほ
と)からは麦が生まれた。尻には大豆ができた」とされている。陰(poto) から麦(pori)
が生まれたというのは、朝鮮語の語呂合わせである。朝鮮語では語尾の-tは-lになるから、陰(poto) と麦(pori) は近い。
韓
国では故朴大統領の時代に、国語浄化運動が行われて漢字が姿を消した。漢字ばかりでなくすべての日本文字、アルファベットもみられなくなった。現在でも韓
国では学校で教える漢字の数は中学校で900字、高等学校で900字と制限されている。北朝鮮ではハングルだけで、たてまえ上漢字はまったく使用されてい
ない。しかし、韓国では最近は国際化の影響もあって韓国企業の広告が世界中で目につくようになった。現代(Hyundai)、三星(Sam
Seong)、大宇(Daewoo)、双竜(Ssang
Yong)などローマ字の看板が、韓国国内ばかりでなく、ニューヨークやシンガポールでも目につく。成田空港などで韓国企業のロゴが入ったカートを見るのも稀ではない。そこにはハングルはほとんどなく、もっぱら漢字とアルファベットが用いられている。
現 在の日本では韓国・朝鮮の地名・人名は、現地読みするものと、日本語読みするものが入り混じっている。首都の「ソウル」は漢字がないから日本語でも「ソウ
ル」だが、慶州も「キョン゚ジュ」というよりは「ケイシュウ」といったほうが通りがいい。戦前の「ソウル」は京城であり、中国語では今でも漢城である。
戦
後、新聞や放送では一時、中国・朝鮮の地名・人名を現地音のカナ表記にした。しかし、仁川(ニンセン)が急に仁川(インチョン)になったりして、従来の慣
行と大きく異なっていたため一般に理解されなかった。朝鮮戦争中は「パンムンジャム」、「インジョン」などの地名は「板門店」、「仁川」と漢字で書いた。
放送でも板門店(ハンモンテン)、仁川(ジンセン)と読まないと年配者には理解されなかった。
最
近では韓流ドラマの人気俳優「ペ・ヨンジュン」や「チェ・ジウ」やサッカー選手の「アン・ヨンハツ」、「リ・ハンジュ」、野球選手や芸能人の「ソン・ドン
ヨル」、「チョ・ソンミン」、「チョ・ヨンピル」などの名前が、現地の発音に近い形で、カナで書かれるようになった。放送で現地読みが採用されたのは1994年のことである。それまでは、韓国大統領の名前も日本漢字音で読まれていた。李承晩、朴正煕、全斗煥は李承晩(リ・ショウバン)、朴正煕(ボク・セイキ)、全斗煥(ゼン・トカン)であった。最近では朝鮮語読みで呼ばれるようになった。
盧泰愚(ノ・テウ)、金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、
盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李承晩(イ・スルマン)、朴正煕(パク・ジョンヒ)、
全斗煥(チョン・ドファン)
昭
和58年に崔昌華という在日韓国人の牧師がNHKに出演した時に自分の名前は崔昌華(チョエ・チャンホア)だと申し出たのに、放送では崔昌華(サイ・ショ
ウカ)と紹介された。これに対して崔牧師は1円の損害賠償を求める裁判を起こした。裁判は最高裁で敗訴したが、この裁判をきっかけで日本のマスコミでは朝
鮮語読みに変わった。「冬のソナタ」の人気俳優やスポーツ選手は漢字をあてるとつぎのようになる。
裴勇俊(ペ・ヨンジュン)、崔志宇(チェ・ジウ)、安英学(アン・ヨンハツ)、
鄭大世(チョン・テセ)、 洪明甫(ホン・ミョンボ)、宣銅烈(ソン・ドンヨル)、
趙成泯(チョ・ソンミン)、金妍児(キム・ヨナ)
朝鮮漢字音で
はラ行の音が語頭にくることがないから、韓国では「李さん」は一般に「イさん」である。しかし、北朝鮮では最近「李さん」を意図的に「リさん」と発音する
ように、指導しているという。古代日本語でもラ行の音が語頭にくることはなかった。しかし、現代の日本語では「ラジオ」、「りんご」「冷蔵庫」など日常語
のなかに、ラ行で始まることばが多く使われている。古代までさかのぼると日本語も朝鮮語も語頭にラ行音が立たなかったという点では同じである。
日本語も朝鮮語も古くから中国語の語彙を大量に受け入れている。日本語も朝鮮語も、中国語の語彙を借用するときに、中国語の原音を一定の法則にしたがって
転移させている。日本漢字音には日本語訛りがあり、朝鮮漢字音には朝鮮語訛りがある。日本語は古くから朝鮮半島を通じて中国語の語彙を受け入れているの
で、日本語のなかにも朝鮮漢字音の痕跡が残されていることがある。中国語からの借用語がいったん朝鮮半島に定着して、朝鮮漢字音の影響を受けたと考えられ
るものが、日本語のなかにはいくつかある。「やまとことば」だと考えられていることばのなかにも、中国語起源のことばや、朝鮮半島でいったん朝鮮語訛の影
響を受けているものがある。
朝鮮漢字音には、日本漢字音とは違ういくつかの
特徴がある。朝鮮漢字音の特徴を調べてみると、日本語のなかに朝鮮漢字音の痕跡を探しだすこができる。
[清音と濁音]
○ 朝鮮語では語頭
音は清音となり、語中では濁音となる。
例、技術(ki-sul)・ 演技(yeon-gi)、団体(tan-che)・ 集団(jip-dan)、
独立(tok-rip)・ 孤独(ko-dok)、本能(pon-neung)・ 日本(il-bon)、
朝鮮語では語頭音は清音となり、語中では濁音とな
る。例えば、「本」の朝鮮漢字音は本(pon)であるが、語中では濁音となって日本(il-bon)となる。「朴」は朴(pak)であるが、「質朴」は質朴(jil-bak)となり、清音が濁音にかわる。清濁の交替は規則的
である。ハングルではすべて清音で表記されているが、実際の発音は語頭では清音、語中・語尾では濁音となる。朝鮮語では清音と濁音は相補分布すると、言語
学ではいう。日本語の「いろは歌」なども清音だけで書かれている。しかし、語頭のことばは清音で、語中のことばは濁音で読まれる。
い
ろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
「色
は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」
この歌が読めるのも、語頭では清音となり、語中
では濁音となるという表記の規則があるからである。朝鮮語では現在でも、いろは歌のように清音で書いたものを語頭では清音で読み、語中では濁音で読み分け
るということをやっている。例えばkopayasiと書いてコバヤシと読む。古代の日本語でも濁音が
語頭にくることはなかった。学校、胡麻、ガラス、ガソリンなど、現代の日本語で濁音で始まることばは、いずれも外来語である。
[語頭子音の特色]
�� 朝鮮語ではラ行音が語頭にくることがない。ラ行の 音はイ段ではイになり、イ段以外ではナ行に 置き換えられる。(第2音節ではラ行で発音される。)
例:李承晩(i-seung-man)、料理(yo-ri)、理髪(i-bal)、料金(yo-geum)、旅行(yeo-haeng)、歴史 (yeok
-sa)、 双竜(ssang-yong)、盧武鉉(no-mu-hyeon)、 乙支路(eul-ji-ro)、
冷麺(naeng-myeon) 来年(nae-nyeon)、冷蔵庫(naeng-jang-go)、
�� 朝鮮語では疑母[ng-]は発音されない。
例:盧泰愚(no-ttae-u)、魚粥(eo-yuk)、銀行(eun-haeng)、外国人(oe-guk-in)、 英語(yeong-eo)、
国語(kuk-eo)、 海岸(hae-an)、 会議(hui-ui)、 企業(ki-eop)、
��
朝鮮語では日母[nji-]は発音されない。
例:女優(yo-u)、女児(yo-a)、人形(in-hyeong)、
商人(sang-in)、日本(il-bon)、 休日(hyu-il)、
肉(yuk)、仁川(in-chyeon)、
責任(chaek-im)、入口(ip-gu)、 自然(ja-yeon)、
�� 中国語の喉音は朝鮮語では喉音を留めている。(日
本語ではカ行になる。)
例:朴正煕(pak-jeong-hui)、会話(hui-hwa)、香水(hyang-su)、現代(hyeon-dae)、
化学(hwa-hak)、 学生(hak-saeng)、花壇(hwa-dan)、 地下鉄(ji-ha-chyeol)、 祝賀(chuk-ha)、
旅行(yeo-haeng)、 人形(in-heong)、 故郷(ko-hyang)、
「や
まとことば」のなかにも、朝鮮漢字音の影響を受けた、中国語からの借用語がある。
�� (a)古代中国語のlが失われた例。
陸[liuk] お か、良[liang] よ き・よい、梁[liang] や な、硫黄[liu-huang] い おう、劣[liuat] お とる、
粒[liəp] い ぼ、
(b)古 代中国語のlがナ行で代替された例。
浪[lang] な み、狼[lang] の
ろ、狼煙 のろし、
現代の朝鮮漢字
音では陸(yuk)、良(yang)、梁(yang)、硫黄(yu-hwang)、劣(yol)、粒(ip)、浪 (nang)、狼(nang)である。硫黄は古くから日本語に取り入れられたこ
とばで、『倭名抄』にも 「硫黄 和名由乃阿和俗云由王」とある。
�� 古代中国語の疑母[ng-]が失われた例。
顎[ngak] あ ご、吾[nga] あ・ あれ、我[ngai]あ・ あれ、魚[ngia] う お、御[ngiak] お、
仰[ngiang] あ
おぐ、餓[ngai] う える
現代の朝鮮漢字音は顎(ak)、吾(o)、我(a)、魚(eo)、御(eo)、仰(ang)、餓(a)である。古代日本語 では「吾」は「あ」であり、
「吾児」は「あぎ」、「吾妹」は「わぎもこ」である。これらの 日本語は古代中国語からの借用語であり、朝鮮漢字音の影響を受けている可能性が高い。
��
古代中国語の日母[nji-]が失われた例。
熱[njiat] あ つい、若[njiak] わ かい、弱[njiôk] よ
わい、柔[njiu] や わら、入[njiəp] い る、
潤[njiuən]う るおう、念[niəm]お もう、尼女[niei njia] あ ま、
現代の朝鮮語音は熱(yol)、若(yak)、弱(yak)、柔(yu)、入(ip)、潤(yun)、念(yom)、尼(i)である。
ア、ヤ行、ワ行の音は転移しやすい。
�� 中語語の喉音にあたる音は日本語にはない。朝鮮漢
字音では中国語の喉音を留めているが、 日本漢字音ではカ行に転移する。しかし、古代の日本語では中国語の喉音、暁母[x-] と匣母 [h-]
がハ行であらわれていると思われる例がみられる。
火[xuai] ひ、 花[xoa] は な、華[hoa] は な、灰[xuai] は
い、脛[hyeng] は ぎ、閑[hean] ひ ま、
戸[ha] へ、降[hoəm] ふ る、荷子[hai・tziə] は す、衡[heang]
は かり、哮[xeu] ほ える、
惚[xuət] ほ れる、
これらの漢字の現代の朝鮮語音はつぎのとおり
である。日本語の訓といわれているものは古 代中国語音あるいは現代朝鮮漢字音に近い。
火(hwa)ひ、 花(hwa)・ 華(hwa)は
な、灰(hoe)は い、脛(hyeong)は ぎ、閑(han)ひ ま、戸(ho)へ、
降(hang)ふ る、荷(ha)は す、衡(hyeong)は
かり、 哮(hyo)ほ える、惚(heul)ほ れる、
日本語のハ行は、記紀万葉の時代の日本漢字音で
は、唐代中国語音のpと対応している。し かし、奈良時代以前、古墳時代あるいは弥生時代には、中国語音の喉音[x・h]が日本語のハ行 音になっている可能性がある。そ
こには朝鮮漢字音の影響もあるものと考えることができ る。
[韻尾音の対応]
� …�鮮漢字音では 中国語の語尾[-t] は
規則的に-lに転移する。
例:宣銅烈(seon-dong-ryeol)、 趙容弼(jo-yong-pil)、 地下鉄(ji-ha-cheol)、
万年筆(man-nyeon-pil)、乙支路(eul-ji-ro)、 蚕室(jam-sil)、 理髪(i-bal)、
動物園(tong-mul-won)、
�◆|羚餮譴留と�の[-p] は朝鮮漢字音では保たれている。
例:企業(ki-eop)、
海峡(hae-hyeop)、 俸給(pong-geup)、急行(keup-haeng)、
蝶(jeop)、 葉(yeop)、
接(jeop)、 立(ip)、
これらの漢字の古代中国語音は業[ngiap]、峡[keap]、給[həp]、急[giəp]、蝶
[thyap]、葉[jiap]、 接[tziap]、立[liəp]で
あり、朝鮮漢字音のほうが古代中国語韻尾が忠実に保たれている。日本 漢字音では業(ギョウ)、峡(キョウ)、給(キュウ)、急(キュウ)、蝶(チョウ)、
葉 (ヨウ)、接(セツ・ショウ)、立(リツ・リュウ)などとなる。旧仮名遣いの蝶(テフ) は中国語の韻尾を忠実に伝えようとした表記である。
�� 中国語の語尾の[-n]と[-m] の区別は朝鮮漢字音では保たれている。
例[-n]:趙成泯(jo-seong-min)、
東大門(tong-dae-mun)、板門店(pan-mun-jeom)、
仁川(in-chyeon)、
冷麺(naeng-myeon)、万年筆(man-nyeon-pil)、 商人(sang-in)、
現代(hyeon-dae)、安寧(an-nyeong)、
例[-m]:金泳三(kim-yeong-sam)、蚕室(jam-sil)、参鶏湯(sam-gye-ttang)、 料金(yo-geum)、
相談(sang-dam)、心臓(sim-jang)、 記念碑(ki-nyeom-bi)、 責任(chaek-im)、
感謝(kam- sa)、
日本漢字音では古代中国語の韻尾[-n]も[-m]も「ン」で表記される。
�� 中国語の語尾の[-ng]
は朝鮮漢字音では原形を忠実に留めている。
例:趙成泯(jo-seong-min)、 金泳三(kim-yeong-sam)、
金大中(kim-dae-jung)、
市庁(si-cheong)、東大門(tong-dae-mun)、 運動場(un-dong-jang)、
茶房(ta-pang)、
食堂(sik-dang)、慶州(kyeong-ju)、
日本漢字音では成(セイ)、泳(エイ)、中
(チュウ)、庁(チョウ)、東(トウ)、動 (ドウ)、場(ジョウ)、房(ボウ)、堂(ドウ)、慶(ケイ)などと音便化する。もっと も、最近では趙成泯
(チョ・ソン゜ミン)、金泳三(キム・ヨン゜サム)、東大門(トン゜ デムン)などと「ン゜」に読む読み方もみられる。その場合も、成泯の成(ソン゜)と泯
(ミン)の区別、東大門の東(トン゜)と門(ムン)の区別は失われる。
いままで「やまとことば」と考えられてきた日本語
のなかにも、朝鮮漢字音の影響を受け た、中国語からの借用語を探すことができる。
�� 古代中国語の語尾の[-t] がラ行に転移したことば。
払[piuət] はらう、刷[shoat] する、擦[tsheat] する、掘[giuət] ほる、出[thjiuət] い でる・でる、
撮[tsuat] とる、絶[dziuat] た える、没[muət] う もる、叱喝[tsiet-hat] し かる、
現代の朝鮮語音は払(pul)、刷(swal)、擦(chal)、掘(kul)、出(cheul)、撮(chwal)、絶(jeol)、没 (mol)、叱(jil)、喝(kal)である。達磨を達磨(だるま)と読むのも、タ行音
のラ行音への転移 である。
�� 古代中国語の韻尾の[-p] は保たれていることば。
旧かな使いでは蝶「てふ」のようにハ行であらわした。日本語のなかにも中国語韻尾の[-p] をハ行あるいはマ行の音で留めていると思われるこ
とばものもある。(送り仮名は便宜上旧 かな使いとした。)
蝶[thyap] てふ、吸[xiəp] すふ、合[həp] あ
ふ、渋[shiəp] しぶい、葉[jiap] は、 汲[giəp] くむ、
湿[sjiəp] しめる、甲[keap] かめ、鴨[keap]
かも、甲兜[keap-to]かぶと、解答[ke -təp] こ たへ、
現代の朝鮮語音は蝶(jeop)、吸(heup)、合(hap)、渋(sip)、葉(yeop)、汲(keup)、湿(seup)、甲 (kap)、鴨(ap)、答(tap)である。朝鮮語では語頭以外のpは濁音化してbあ
るいはmに近い発 音になるので、日本語では汲(くむ)、甲(かめ)あるいは渋(しぶい)のようになる。 「葉」は現代北京語では葉(ye)
であるが、広東語では葉(yihp) で ある。日本語の「はっ ぱ」、「は」は中国語の「葉」と関係がある可能性がある。
��
現代朝鮮語では中国語の語尾の[-n]と[-m] は区別が保たれているが、日本漢字音では「ン」 と
なって、[-n]と[-m]の区別は失われている。古代の日本語音(弥生音) では、[-n]、[-m] とも にナ行、あるいはマ行であらわれる。
例:古代中国語音[-n]のことば
壇(ダン・たな)、絹(ケン・きぬ)、殿 (デン・との)、浜(ヒン・はま)、
弾(ダン・たま)、文(ブン・ふみ)、君(クン・きみ)、蝉(ゼン・せみ)、
肝(カン・きも)、混(コン・こむ)、呑(ドン・のむ)、眠(ミン・ねむる)、
困(コン・こまる)、蛋子(タンシ・たまご)、
例:古代中国語音[-m]のことば
金(キン・かね)、 兼(ケン・かね
る)、稔(ネン・みのる)、滲(サン・しみる)、 浸(シン・しみる)、侵(シン・せめる)、占(セン・しめる)、染(セン・そめる)、
古代の日本語音では、古代中国語音の[-n]は韻尾に母音が添加されて日本語音のナ行、あるい
はマ行であらわれる。(ナ行の音は傍点で示し、マ行の音は傍線で示した。)古代中国語音の[-m]も、古代の日本語音では韻尾に母音が添加されてナ
行あるいはマ行であらわれる。日本語では古代中国語音の[-n]と[-m]は弁別されていない。[-n]、[-m]はいずれも鼻音であり、調音の位置も近く転移しや
すい。
朝鮮漢字音では韻尾の[-t] が規則的に[-l] であらわれるが、古代の日本語でも中国語音の[-n]、
[-m] がラ行であらわれる場合もある。
漢[xan] から、雁[ngean] かり、塵[dien] ちり、練[lian]
ねる、昏[xuən] くれ、玄[hyuen] くろ、
嫌[hyam] きらう、俺[iuam] おれ、
[t-]、[n-]、[l-]は調音の位置が同じであり、転移しやすい。
日本語、朝鮮語はいずれも中国語から多くの語彙を
借用している。中国語からの借用語は日本
語、朝鮮語の音韻構造の影響を受けて、それぞれ発音が転移している。日本漢字音が定着する以 前の中国語から日本語への借用語のなかには、いったん朝鮮半島
で朝鮮漢字音の影響を受けて朝 鮮漢字音として定着したものが、その後さらに日本語に借用されるというケースもあった。「や まとことば」と考えられているこ
とばのなかには朝鮮漢字音の影響を受けた、中国語からの借用 語もある。
朝
鮮半島は日本列島より早く漢字文化の洗礼を受けた。日本の弥生時代にあたる紀元前109年に漢の武帝は朝鮮半島北部に楽浪郡など4郡を置き植民地経営にの
りだした。統治のための言語は当然中国語であった。紀元前37年ごろには高句麗が成立しているが、高句麗では早くから文字が使われていた痕跡がある。当然 漢字である。
朝 鮮語は、日本語と同じように、文字をもたなかったため、朝鮮半島では話しことばは朝鮮語、書きことばは漢文という時代が続いた。やがて、漢字を使って朝鮮
語を表記する工夫が行われるようになった。そこに生まれたのが「誓記体」、「吏読」および「郷札」である。李基文の『韓国語の歴史』、金思��の『古代朝鮮
語と日本語』などを参考にしながらその軌跡をたどってみることにする。
○ 誓記体
誓記体とは「壬申誓記石」から名づけられたものである。1940年に慶州にある石丈寺の跡から「壬 申誓記石」という石碑が発見された。この石にはつぎのような文章が刻まれている。
壬申年六月十六日 二人并誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失 天大 罪得誓 若國不安大乱世 可容行誓之 又別先辛未年七月廿二日大誓 詩尚書礼伝倫得誓三年
この碑文はつぎのように読みくだすことができる。
壬申年六月十六日、二人并んで誓って記す。天の前に誓う。今より三年後に 忠道を執持し、過 失のないことを誓う。若(もし)此の事を失すれば、天の大罪
を得んことを誓う。若(もし)国 安からず大乱世になれば、可(よろし)く容(すべから)く(忠道を)行わんことを誓う。ま た別に先の辛未年七月二十
二日に大きく誓った。詩経、尚書、礼記、左伝を倫得(相次いで習 得)することを誓ったが、(その期間を)三年ときめた。
この文章は漢字で書かれているが、その語順は中国語とはまったくちがう。漢字を新羅語の語順で並べたものである。誓記体の構文は朝鮮語と同じである。しか
し、朝鮮語の助詞とか活用語尾のような、文法的関係を表わす要素は表記されていない。新羅語、朝鮮語、日本語は語順が同じだから、助辞を補って読めば日本
語としても読みくだすことができる。
誓記体は、万葉集で『人麻呂歌集』などに用いられている略体表記と呼ばれる表記法と、まったく同じである。
戀事 意追不得 出行者 山川 不レ知来(万2414)
春楊 葛山 發雲 立座 妹念(万2453)
これらの歌には日本語の助詞や活用語尾は表記されていないから、それを補って読む。
恋ふる事 なぐさめかねて 出で行けば 山も川をも 知らず来にけり
春楊(はるやなぎ)
葛城山に 発(た)つ雲の 立ちてもゐても 妹をしぞ念(おも)ふ
『人麻呂歌集』は誓記体と同じ表記法で書かれているということになる。日本語を漢字を使って表記する方法は、朝鮮半島で漢字を使って朝鮮語を表記する方法をふまえて、発展しているとみて間違いない。
壬申誓記石の壬申年は552年(あるいは612年)と考えられているから、6世紀ないしは7世紀初頭の朝鮮語の記録である。「可容行誓之」
は「よろしくすべからく行わんことを誓う」と読みくだしている。この「之」は朝鮮語の表記で動詞の終止形を示すものとされている。日本にもこのような
「之」の用例をみることができる。昭和54年に奈良市で『古事記』の撰述者である太安万侶の墓誌が発見された。銅版の墓誌には2行にわたって、つぎのよう
に記されていた。
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
「卒之」とある「之」が壬申誓記石で使われている「之」と同じで、動詞の終止形を表わす朝鮮語の書記法をそのまま用いている。
○ 吏読
吏読は吏吐とも呼ばれる。誓記体が助辞、活用語尾などの文法要素を表記していないのにたいし て、吏読ではそれらの文法要素が添記されている。その一例として「慶州南山新城碑」(591 年建立)をあげることができる。
辛亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三年崩破者 罪教事為 聞教令誓事之、
傍線を引いた文字は朝鮮語の助辞である。「節、以、者、教、為、令、之」は朝鮮語の送り仮名 (これを吐という)にあたる。これらの漢字の読み方は音
読みで、朝鮮語の助辞にあてられてい る。「節」は「、、のとき」、「以」は「、、で」で、この碑文はつぎのように読みくだすことが できる。
辛亥年二月二十六日、南山に新城を作るとき 法に如(したが)って作る。 後三年崩壊すれば、 罪せしめらるる事と聞かされ、 誓はしむる事なり
つぎの文は慶尚北道金陵郡開寧面にある葛項寺の石塔記(758年建立)の一節である。
二塔天宝十七年戊戌中立在之
娚姉妹三人業以成在之
娚者零妙寺言寂法師在弥
姉者照文皇太后君妳在弥
妹者敬信大王妳在也
傍線の部分は吐である。「之」、「弥」、「妳」、「也」は活用語尾をあらわし、「中」、 「以」、「者」は助詞、「為」は接尾辞であり、「在」は敬語法である。碑文はつぎのように読み くだすことができる。
二塔は天宝十七年戊戌に立てられた。娚・姉・妹三人で立て た。娚は零妙寺の言寂法師であら せ
られ、姉は照文皇太后君である。妹は敬信大王であらせられる。
「之」、「者」などは日本語の表記でもよく使われている。本来の中国語にはあまりない用法 で、和臭と呼ばれて、荻生徂徠など江戸時代の漢学者はできるだけ避けようと努めた。
この表記法は、万葉集で最も多く用いられている「常体」あるいは「非略体」と呼ばれる表記法 と同じである。朝鮮半島で工夫された、漢字で朝鮮語を書き表す方法は、同じアルタイ系言語であ る日本語の表記にも転用された。
君之齒母 吾代毛所レ知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(万10)
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山(万28)
熟田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜(万8)
これらの歌はつぎのように読みくだされている。
君がよも 吾が世も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな
春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣乾したり 天(あめ)の香来山
熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出な
ここでも万葉集の表記法は、朝鮮半島における経験をふまえているとみて間違いない。
○ 郷札
郷札とは朝鮮の万葉集にあたる郷歌(ひやんが)の表記法をさしている。『三国遺事』に載録 されている新羅の歌謡13首と、『均如伝』にある均如大師作の
讃仏歌「普賢十願歌」11首が 残っているだけである。卿歌の卿は片田舎の意味であり、中国本土から遠く離れた、新羅の国の 方言で書かれた歌を意味す
る。戦前から小倉進平などが解読を試みたが、韓国では最近は梁柱東 が『古歌研究』などを著わして詳細な論究を行っている。しかし、未だ完全に解読される
にはい たっていない。景徳王(在位742−764年)の時代の月明大師の作で、「亡き妹のため、齋 を營む歌」は漢字で、つぎのように表記されている。
[原文]
生死路隠 此矣有阿米次肹伊遣
吾隠去内如辞叱都 毛如云遣去内尼叱古
於内秋察早隠風未 此矣彼矣浮良落尸葉如
一等隠枝良出古 去奴隠處毛冬乎丁
阿也 弥陀刹良逢乎吾 道修良待是古如
金思��の訳文はまことに詩的で、つぎのようになっている。
[訳文]
生死の路はとどめえず 行くとも言えで逝くならめ、秋告ぐ風に ここかしこ、
枝より落つる木の葉はも、いずち行くやは知りがたし。
さあれ 行きつく果は弥陀浄土 また逢う日もあらん
道を修めて期(とき)待たん。
郷札は語幹の部分は原則として朝鮮語の訓で読み、助辞など文法的要素は音読する。たとえば「‐隠」は[-n]で
日本語の「、、は」にあたる。吏読に比べて朝鮮語の助詞や活用語尾がていねいに書き込まれている。漢字は音読と訓読が混用されていて、どれを音読して、ど
れを訓読すべきか、判別のつきかねる場合も多い。韓国の郷歌研究の大家である梁柱東の『古歌研究』によると、この歌はつぎのように読みくだす。(原文のハ
ングルの部分はローマ字で表記した。訓読の文字は傍点で示した。音読の文字は傍線で示した。)
生死路隠
生死路(nən)
此矣有阿米次肹伊遣
此矣(ye) 有阿米(i-sya-mae) 次肹伊 (jeo-hi) 遣(go)
吾隠去内如辞叱都
吾隠(na-nən) 去内如(ka-nə-da) 辞叱都(mal-t-do)
毛如云遣去内尼叱都
毛如(mot-da)
云遣(nit-go) 去内尼叱古(ka-nə-nit-go)
於内秋察早隠風未
於内(eo-nə) 秋察(kə-zəl)
早隠(i-reun) 風未(pə-rə-mae)
此矣彼矣浮良落尸葉如
此矣(i-e) 彼矣(tyeo-e)
浮良落尸(pteo-dil) 葉如(nip-da-i)
一等隠枝良出古
一等隠(hə-dən) 枝良(ka-jae)
出古(na-go)
去奴隠處毛冬乎丁
去奴隠(ka-non) 處(got) 毛冬乎丁(mo-də-on-dyeo)
阿也 弥陀刹良逢乎吾
阿也(a-eu) 弥陀刹良(弥陀刹ae) 逢 (mat-bo) 乎(ol) 吾(nae)
道修良待是古如
道修良(道dat-ga) 待是古如(ki-deu-ri-go-da)
郷
歌の解読はかなり専門的な分野だが、古代新羅の人びとが、漢字を使って新羅語の歌を表記しようとした苦闘の跡が素人にもみてとれる。ここには中国語からの
借用語、漢字を朝鮮語にあてはめた訓読のことば、中国語音を借りて朝鮮語の音を表わしたもの、音読みにするのか訓読みにするのかの手がかりを与えるために
末音添記したもの、と四種類の使い方が識別できる。
[中国語からの借用語] 生死路、弥陀刹、道、
[訓読字] 此(i)、 有(it)、
吾(na)、 去(ka)、 如(da)、 辞(mal)、 云(ni-rə)、 秋(kə-zəl)、 早(i-reu)、 風 (pə-rəm)、
彼(tyeo)、 浮(pteu)、 落(ti)、 葉(nip)、 如(da-i)、 一等(hə-dən)、 枝(kat)、 出(na)、 處(got)、
乎(on)、 逢(mat-bo)、 修(dat)、 待(ki-deu-ri)、 是(i)、
[音借字] 隠(nən)、 矣(e)、 阿(a)、
米(mae)、 次(jeo)、 肹(heul)、 伊(i)、 遣(go)、 内(nə)、 叱(t)、 都 (do)、 毛(mo)、 尼(ni)、
古(go)、 於(eo)、 察(zəl)、 未(mae)、 良(eo)、 尸(r)、 奴(no)、 冬(tə)、 丁 (tyeo)、 阿也(a-eu)、
乎(o)、
音借の文字は助詞(隠、矣、米、遣、良、)、疑問詞(古)、助動詞(内)、活用語尾(阿、良、乎)などに使われている。また「於内」のように2字の音を借りて、朝鮮語の「何」という意味を表わす場合もある。
[末音添記]
郷歌には末音添記という表記法がある。たとえば、「秋察」では「秋」が音読みではなく、訓で秋(kə-zəl)と読むべき字であることを示すために「察」が添記されている。朝鮮語では「察」は察(chal)
と読む。「風未」 の場合も「風」を訓で風(pə-rəm)と読むように、「未」を添記している。「待是」の場合は「待」を待(ki-da-ri)
と読むのを助けるために、末音の是(i) が添記されている。
末音添記という表記法は、両点とともに古代朝鮮語解読の鍵となる。末音添記は漢訳仏典などでもよく用いられている。「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」などの「無」は「南」の末音が[-n]ではなくて[-m]であることを表わすための、末音添記である。「ナム」はサンスクリットで「帰依する」を意味することばで、「阿弥陀仏に帰依する」、「法華経に帰依する」という意味になる。中国語の韻尾[-m]と[-n]は地方によって、区別されているところと、混用されているところがある。「南」は北京語ではnan、広東語ではnaahm、上海語ではneu、福建語ではlamとなり、朝鮮漢字音ではnam、日本漢字音ではnanとなる。サンスクリットの原音ではnamなので、その原音を明記するために末音「無」を添記したものである。
日本の古地名でも、甲斐、揖保、 紀伊、斐伊川などは、末音添記である。「甲斐」の場合は、甲[keap]
の韻尾が甲(コウ)でなくではなく、古音の甲(カヒ)であることを喚起するために「斐」を添記している。「揖保」の揖[iəp]
も揖(ユウ)ではなく、古音の揖「イヒ」であることを示すために、「保」を添記したものである。現代語では「三味線」の「味」も三線の「三」が「サン」ではなく「サム」と発音されるように添記したものである。
郷 歌は未だに完全に解読されているわけではない。郷歌は新羅語の古音を留めているので、まずその音の復元が、乏しい資料からは困難である。また、郷歌は漢字
の音と訓を混用しているため、どれを訓で読んで、どの漢字を音で読むかを特定することが専門家でもむずかしい。中国語専用の文字であった漢字で、朝鮮語と
いうまったく系統の異なる言語を表記することがいかに困難であったか、郷歌は雄弁に物語っている。郷札は高麗初期までは存続したが、その後はしだいに消滅
の道をたどった。表記法が複雑すぎて、解読が困難だったためである。しかし、朝鮮半島で試みられた漢字による朝鮮語表記法は、朝鮮半島出身の史たちによっ
て万葉仮名など、漢字による日本語表記法へと行き継がれていく。そしてまた、万葉仮名も、平安時代に「かな」が発明されることによって、消えていく運命を
たどるのである。
朝鮮語では中国語からの借用語について、音訓併用で読むことがよく行われる。これを両点という。朝鮮語研究の第一人者である小倉進平(1882-1944)は、「國語及朝鮮語のために」のなかで、つぎのように書いている。
朝鮮語では訓と音とを必ず併唱する。例へば国語で「人」、「犬」なる漢字を讀む場合には「人」は「ひ
とという字」、「犬」は「いぬという字」と訓でこそいふが、更に進んで之を「ひとのじんの字」、「いぬのけんの字」というふ風に唱へることをしない。然るに朝鮮語にありては、「人」なる漢字を讀む場合には、必ず
(sa-ram-in)、 犬なる漢字を讀む場合には、必ず (kae-kyeon)
と訓音併唱することを必要條件とするのである。(『小倉進平博士著作集(四)』p.105)注:ハングル表記の部分はローマ字に書き換えた。
古代の日本語でも二ヶ国語を併記したことばが見られる。例えば「わたつみの」は、海にかかる枕詞として万葉集などに使われているが両点である。「わた」は朝鮮語で海(pa-da)
であり、「み」は日本語の海「うみ」である。「つ」は「沖つ波」、「庭つ鳥」などの「つ」で、現代日本語では「の」にあたる。また、古代の天皇の名前にみられる「イリヒコ」「タラシ」なども、「イリ(「日」の朝鮮漢字音il)+ヒ(朝鮮語の日haeあるいは日本語の日「ヒ」)+子、「タリ(朝鮮語の足tari)+アシ(日本語の「足」)であり、二か国語併記といえる。両点・二か国語併記は古代日本語を解く一つの鍵になる。
わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明くこそ(万15)
御間城(みまき)入彦はや おのが命(を)を 死せむと 竊(ぬす)まく知らに 姫遊びすも (日本書紀歌謡)
言語学者、金沢庄三郎(1872-1967)によると、朝鮮では今日でも「天」は「ハナル・チョン」、「地」は「ストウ・タ」というように、両点で読んでいるという。「ハナル」は朝鮮語の訓で天(ha-nal)
であり、「チョン」は「天」の朝鮮漢字音、天(chyeon) である。「スト」は朝鮮語の「地」の訓で地(stu) であり、「タ」は朝鮮漢字音地(ta)
である。金沢庄三郎は「朝鮮研究と日本書紀」(p.49)のなかで、つぎのように述べている。
漢字を音読する場合にも、昔は和訓を添へて読む風習があって、これを両点と称へた。仮名文字遣に「青簇せいぞくとあをやかなり」遊仙窟に歎二郷関之眇邈一(ベウベクトはるかなる)、また博陵ノ王之苗裔(ベウエイはつまごの)慶長九年刊千字文に福縁ノ善慶(ヒョクエンノゼンケイさいはひによつてよくよろこぶ)などの類で(中略)朝鮮では、今日もなほ天を
(ha-nal・chyeon) 、 地を (stə・ji)
と両点に訓んでゐるのは周知の事実である。(『日韓古地名の研究』p.49)注:ハングル表記の部分はローマ字表記に書き換えた。
古代日本語を
復元し解読するためには、古代の中国語音に基づくばかりでなく、朝鮮半島における漢字による書記法の発達をも考慮に入れなければならない。古代日本語の書
記者、史(ふひと)は朝鮮半島の出身者であり、朝鮮半島における漢字の用法を日本語の表記に応用した蓋然性が高いからである。日本でも漢文を読むのに、文
選読みという読み方が江戸時代まで行われていた。漢文を中国語の発音で読んで、続けて日本語の訓をつけ加えるというものである。音読みだけでは理解できな
い中国語に、訓を加えることによって、日本語として理解しやすくしようという試みである。例えば『詩経』の詩は、つぎのように読む。
關々睢鳩 関々(カンカン)として鳴く睢鳩(ショウキュウ)のみさごは
在河之洲 河の洲(しま)にあり
窈窕淑女 窈窕(ヨウチョウ)と静かに正しき淑女の乙女は
君子好逑 君子うま人のよき連れ合いなり
「睢
鳩(ショウキュウ)=みさご」、「窈窕(ヨウチョウ)=静かに正しき」、「淑女=乙女」、「君子=うま人」はいずれも両点・2ヶ国語併記である。漢詩の読
み下しは日本語に翻訳することでもあった。中国語音による音読に、日本語の訓を併記して、その音と義の両方を表わすこの方法は、朝鮮語における両点と同じ
である。つぎのような例も、両点の手法である。
八島國 妻枕(ま)きかねて 春日(はるひ)の 春日(かすが)の國に
麗(くは)し女(め)を ありとし聞きて 宜(よろ)し女を ありと聞きて 真木(まき)さく 檜の板戸を 押し開き 我入り坐(ま)し 後(あと)取り
端(つま)取りして 枕取り 端(つま)取りて 妹が手を 我に枕(ま)かしめ 我が手をば 妹に枕かしめ 真木葛(まさきづら) 手抱(たた)き交
(あざ)はり 鹿(しし)くしろ 熟睡寝(うまいね)し間(と)に 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴くなり 野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 愛(は)しけく
も いまだ言はずて 明けにけり 我妹
(日本書紀歌謡)
飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君が辺(あたり)は 見えずかもあらむ
(万78)
こ
れらはいずれも文選読みの一種である。日本語も朝鮮語も、語彙は中国語からの借用がきわめて多く、実態上混合言語である。借用語について音と訓を併記し
て、その音と意味が間違いなく伝えられるように工夫したのが両点である。現代の日本語でも、英語と日本語を併記している例がみられる。シテイバンク銀行、
ロングアイランド島などは現代における両点といえるだろう。また、センソウジ・テンプル、ゾウジョウジ・テンプル、タマガワ・リバー、エドガワ・リバーな
ども2ヶ国語併記の例である。
中国語は古代の東アジアにおいて文字をもった唯一の言語であり、朝鮮語や日本語にたいして優勢言語であった。日本語や朝鮮語は中国語の語彙を数多く借用した。非優勢言語の話者は通常、優勢言語をいくぶん知っている。そこで両点という二か国語併記の方法も工夫された。
文 字は通常、大規模に組織化された政治的、宗教的集団によって使われはじめる。大和朝廷が成立すると、王の英雄的行為の記録が現れた。それが『古事記』であ
り、『日本書紀』である。また、朝廷はその社会に伝えられた口承説話、詩、歌を漢字で記録した。それが『万葉集』、『風土記』などとして今日に伝えられて
いる。日本語専用の文字である仮名ができるのは、平安時代のことである。それまでの日本語は中国語を表記するための文字である漢字のなかに埋もれている。
漢 文で書かれた『日本書紀』のような文献は、中国語の知識さえあれば、読みこなすことができる。しかし、漢字を使って土語である朝鮮語や日本語を書き記した
文献は、周到な解読技術を駆使しない限り、読み解くことは不可能である。『古事記』は漢字を使って書いた日本文であり、『万葉集』はいわゆる万葉仮名を駆
使して書いた日本語である。漢字という文字にはじめて接した古代の朝鮮人や日本人は、どうしたら漢字を使って自分たちのことばを表記できるか、さまざまな
試行錯誤を重ねた。「文選」読みはその努力の痕跡を今に伝えている。
現代日本語では、さまざまな朝鮮語語源のことばが使われている。「のっぽ」、「ちょんが」、「しゃり」、「ちゃりんこ」はいずれも朝鮮語である。「ちゃりんこ」は自転車の朝鮮語読み自転車(ja-jeon-geo)
からきたものであり、「しゃり」は朝鮮語の米(ssal)
である。朝鮮語の「しゃり」はさらに語源をたどれば、仏舎利の「舎利」にいたる。俗語ばかりでなく、日本語として定着していることばのなかにも、朝鮮語と同源と思われることばはある。専門家は次のような
朝鮮語を同源語としてあげている。
例:水(mul)、 涙(nun-mul)、 日(hae)、 火(pul)、 朝(a-chim)、 春(pom)、
雲(ku-reum)、 島(seom)、
寺(jeol)、 畑(pat)、 麦(mil)、 瓜(o-i)、 舟(pae)、 靴(ku-du)、
袖(so-mae)、 針(pa-neul)、 酒(sul)、 腹(pae)、 爪(ttop)、 唾(chim)、 馬(mal)、 蛇(paem)、
蟹(ke)、 亀(keo-buk)、 鳩(pi-dul-gi)、
蜂(peol)、 熊(kom)、 鶴(tu-ru-mi)、 群(muri)、
朝鮮語の姉(eon-ni)、俺(u-ri)も日本語の姉「あね」、俺「おれ」に似ている。古語では徒歩「かち」、子どもという意味の「あぎ」などが朝鮮語と同源であるといわれている。「あぎ」は朝鮮語では赤ん坊(a-gi)
であり、記紀万葉の歌にも詠まれている。
馬買はば 妹(いも)徒歩(かち)ならむ よしゑやし 石は踏むとも 吾(あ)は二人行かむ
(万葉集3317)
いざ吾君(あぎ) 野に蒜(ひる)摘みに 蒜摘みに 我(わ)が行く道に 香はし 花橘
(日本書紀歌謡、部分)
弥 生時代以来、朝鮮半島も日本列島も強力な漢字文化圏のなかに飲み込まれて、中国語から数多くの語彙を借用した。日本語と朝鮮語は、語順が同じであり、助辞
(てにをは)を使い、動詞や形容詞に活用があり、敬語を使うなど共通点が多い。日本語と朝鮮語はともにアルタイ系の言語だと考える学者も多い。しかし、日
本語と朝鮮語に共通な語彙をくわしく調べてみると、もとは両方とも中国語からの借用語である場合もある。
○ 馬(うま) 日本語の馬(うま)は朝鮮語の馬(mal)、古代中国語の馬[mea] と
共通の語源にたどりつく。日本語や朝鮮語が中国語の語彙を借用したのか、中国語が騎馬民族である朝鮮族からアルタイ系のことばを借用したのか、現存する資
料からは判定できない。アルタイ系の騎馬民族である朝鮮民族のほうが早くから馬に親しんでいたであろうから、中国語のほうがアルタイ語から借用した可能性 がたかい。
○ 雲(くも) 日本語の雲(くも)は朝鮮語の雲(ku-reum)
と同源だと考えられている。しかし、朝鮮語も日本語もその源をたどれば中国語にたどりつく可能性がある。「雲」の古代中国語音は雲[hiuən]
である。「雲」は日本漢字音では雲(ウン)であり、朝鮮漢字音でも雲(un)である。しかし、日本語の雲(くも)も朝鮮語の雲(ku-reum)も、随唐の時代以前の古代中国語音である雲[hiuən]にたどりつく可能性がたかい。古代中国語の喉音[h-]
は隋唐の時代になると介音[-i-]、あるいは[-iu-]
の前では規則的に失われて雲(yun)になった。日本語の雲(くも)、朝鮮語の雲(ku-reum)はいずれも、古代中国語音の喉音[h-]が転移したものである。喉音[h-]は調音の位置が[k-]に近く、転移しやすい。
熊(くま)も古代中国語音は熊[hiuəng] あるいは[hiuəm]
と推定されるから、熊(くま)が古代中国語音の痕跡を伝える古い形であり、熊(ユウ)は唐代以降の発音である、と考えることができる。
○ 寺(てら) 日本語の寺(てら)は中国語の刹[sheat]と関係があるかも知れない。「刹」の朝鮮漢字音は刹(chal)である。古代中国語の刹[sheat]が朝鮮語では刹(chal)になり、日本語では刹(てら)になった可能性は十分にある。
また、「寺」は「特」と声符が同じであり、古代中国語の「寺」は「特」と同じ発音であった可能性もある。古代中国語の「寺」に寺[dək]
という発音があったのであれば、寺[dək]
が朝鮮漢字音では寺(jeol)になり、日本語の寺(てら)になった可能性もある。いずれにしても、仏教が中国から朝鮮半島を経て日本に伝えられたことは、歴史的事実であり、「寺」もまたその道を通って日本に伝えられたことは間違いない。
○ 蛇(へび) 日本語の「へび」には「蛇」の字があてられているが、中国語には「蟠」という字もある。古代中国語の蟠[buan]が朝鮮語では蟠(paem)
になり、日本語では蟠(へみ・へび)になった可能性がある。沖縄の「はぶ」、あるいは魚の鱧「はも」なども中国語の「蟠」を語源としていると考えることができる。
○ 袖(そで) 日本語の袖(そで)は朝鮮語の袖(so-mae) に近い。朝鮮漢字音では「袖」(so)
である。日本語の袖(そで)も朝鮮語の袖(so-mae)も、中国語の「袖」と関係のあることばであろう。日本語の袖「そで」は朝鮮漢字音の袖(so)を継承している。袖(そで)の「で」は「手」の連想であろう。
古代中国語を語源として、朝鮮語、日本語に入ったと考えられる語彙はかなり多い。日本語、朝鮮語を古代中国語と比較対照してみると、つぎのようになる。
古代中国語 朝鮮語 日本語 古代中国語 朝鮮語 日本語
雲 雲[hiuən] ku-reum くも 島 洲[tjiu]
seom しま
寺 刹[sheat] chal てら 麦 麦[muək] mil むぎ
瓜 瓜[koa] o-i うり 舟
舫[piuang] pae ふね
靴 靴沓[xuai-dəp] ku-du くつ 袖 袖手[ziu-sjiu] so-mae そで
酒
酢[dzak] sul さけ 腹 腹[piuk] pae はら
爪 爪牙[tzheu-ngea] ttop つめ 唾
唾沫[thuai-muat] chim つば
馬 馬[mea] mal うま 蛇 蟠[buan] paem へび
蟹
蟹[ke] ke かに 亀 甲[keap] keo-buk かめ
蜂 蜂[biong] peol はち 熊 熊[hiuəm]
kom くま
こ
のなかには、現在慣用で使われている漢字と違う漢字が原音になっているものも見受けられる。寺(=刹)、蛇(=蟠)、島(=洲)、舟(=舨)、酒(=
酢)、靴(=靴沓)、唾(=唾沫)、袖(=袖手)、爪(=爪牙)などである。中国語から、朝鮮語あるいは日本語への借用は、文字時代に入る前からも行なわ
れているため、現在用いられている漢字が原音になっているとは限らない。
日本語で「足りる」、「足りない」に「足」の字を使うのは朝鮮語の足(ta-ri)の転用である。藤原鎌足の名前が鎌足(かまたり)
と読めるのは、鎌足自身の出自はともかくとして、鎌足の一族が朝鮮語で「足」のことを「たる」と言うことを知っていたからにほかならない。
借用語は、古
代中国語の原音と、一定の法則にしたがって対応している。日本は弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島を通して中国文化を受け入れてきた。弥生時代の日
本語のなかには、まだ文字が普及する以前に、話しことばとして中国語から朝鮮語に借用され、朝鮮語として定着したあと、日本語のなかに取り入れられたこと
ばがかなりある。
現代の日本人
は中学や高校で中国語や朝鮮語を学習することはほとんどない。大学でも英語やフランス語は習うが、中国語や朝鮮語を習う人は少ない。しかし、中国語や朝鮮
語は古代日本語の形成に重要な役割を果たしてきた。古代の日本語を解明するには、中国語や朝鮮語がどのような言語であるか、少なくともその骨格を理解して
おくことが不可欠である。語彙や音韻構造についてはすでにふれた。日常会話を通して文章の構造をみてみることにする。
[日本語] [中国語]
[朝鮮語]
こんにちは 你好(ニーハオ) 安寧(アンニョン゚)ハセヨ
ありがとう 謝謝(シェーシェー)
感謝(カムサ)ハムニダ
さようなら 再見(ツァイチェン) 安寧(アンニョン゚)ハシムニカ
日本語の「こんにちは」は中国語では「你好」である。「你」は「あなた」、「好」は日本語の「元気」にあたる。中国語では「あなた元気?」ということになる。
中 国語には四声があって「好」は、がっかりしたときの「あーあ」のような調子で後半ゆるやかに上がる。「好」が「好き」の意味のときは、日本語の返事の「は
い」のように下がる。英語のアクセントは疑問形のときは上がり平常文では下がるが、中国語の四声は文字ごとに決まっていて、「好」は健康の意味では上が
り、好きの意味では下がる。同じ「ハオ」でも「蒿」は平声で、「豪」は上がる調子、「浩」は下がる調子である。もっと具体的に「体の調子はどうですか?」というときは「你身体嗎?」という。「嗎」は中国語の口語で質問、疑問をあらわす。中国語の「你好」、「謝謝」、「再見」を日本語に直訳すれば「あなた健康か」「感謝、感謝」「再び会おう」ということになる。中国語では助詞が発達していないし、動詞や形容詞の活用形もない。
朝鮮語の場合
は、「こんにちは」は「アンニョンハシムニカ」あるいは「アンニョンハセヨ」である。「アンニョン」は漢字で書けば「安寧」である。「カムサハムニダ」の
「カムサ」も「感謝」であり、いずれも中国語からの借用語である。借用語に助詞や活用語尾を補っているから、朝鮮語として定着していて、借用語として意識
されることはない。
朝鮮語は中国語から多くの語彙は借用しているが、中国語の表現をそのまま借用しているわけではない。中国語の表現を朝鮮語にあてはめて、「你好(ニーハオ)ハセヨ」とか「謝謝(シェーシェー)ハムニダ」などとは決していわない。朝鮮語独特の表現を作り出している。
朝 鮮語の語順は日本語と同じである。朝鮮語のあいさつは、日本語に直訳すれば「安寧ですか」、「感謝しています」、「安寧でいてね」ということになる。「感
謝」は日本語でも使われるが、「安寧」という漢語が日本語の会話のなかで使われることは、まずない。日本語の場合も「こんにちは」は「今日は?」であり、「さようなら」は「左様なら」だとすれば、日常の挨拶は中国語からの借用語だということになる。しかし、現代の日本人はこれを中国語からの借用語だと意識する人はいないだろう。
借 用語の場合、語彙はその使い方が変化することがしばしばある。朝鮮語で「あなた」のことを「タン゚シン」という。「タン゚シン」は中国語の「当身」という
古い俗語の借用である。しかし、中国では「当身」ということばはもう今は使われていない。朝鮮語では議論は「相談」であり、発明は「弁解」、工夫は「勉
強」であり、日本語とは慣用が違う。
古代日本語においても、中国語の慣用がそのまま日本語になっているとは限らない。例えば、関所のことを日本語では「せき」といい、漢字では「関」をあてているが、古代中国語は塞[sək]
だった可能性がある。また、「ふさぐ」ということばは「やまとことば」だと考えられているが、中国語の閉塞[pyet-sək]の借用語であるかもしれない。「あわれ」、「みじめ」は哀憐[əi-lyen]、無惨[miua-tsəm]
の借用語である可能性も否定しきれない。また、「ひめる」、「ひそむ」は秘密[piuet-miet]、秘潜[piet-tzyəm]
の借用語であるかもしれない。借用語は意味が近く、原語との間に音韻対応がみられる。
つぎに日常の挨拶よりもう少し複雑な会話を、日本語、中国語、朝鮮語で比較してみることにする。
[日本語] 私の名前は小林です。
[中国語] 我(ウオ)叫(チャオ)小林(シャオリン)。
[朝鮮語] 私(チョエ)名前(イルム)ン 小林(ソリム) イムニダ。
[日本語] お茶を一杯ください。
[中国語] 請給(チン゚ゲイ)我(ウオ)一杯茶(イーペイチャ)。
[朝鮮語]
茶(チャ)一(ハン)盞(ジャン)チョセヨ
中国語の「我叫小林」は漢文として読み下せば「我は小林(シャオリン)と叫(よば)う」ということになる。「請給我一杯茶」は「我に一杯の茶を請(こ)い給え」である。中国語は日本語を語順が違うから「我ハ叫バウニ小林ト一」、「請イニ給エ、我ニ一杯ノ茶ヲ一」のように順序を入れ替えないと日本語にならない。
中国語では助詞が発達していないから、語順を換えると意味が違ってしまう。中国語の語順は日本語や朝鮮語とは違う。中国語の語順はS(主語)V(述語)O(目的語)で、英語とほとんど同じである。日本語や朝鮮語はS(主語)O(目的語)V(動詞)で、動詞が文章の末尾にくる。
朝鮮語の語順は日本語と同じである。「イムニダ」は日本語の「です」に相当する。「チョセヨ」は日本語の「ください」である。朝鮮語の「一」は「ハン」あるいは「ハナ」である。朝鮮語の「ジャン」の原語は古代中国語の盞[dzian]であり、「さかづき」のことである。同じ中国語からの借用語でも、日本語では「一杯」、朝鮮語では「一盞」である。「盞」のほうは現代の中国語ではもはや使われていない。現代の中国語では「杯」が使われている。
「ビールをく
ださい」であれば、中国語では「一瓶(イーピン゚)啤酒(ピーチュウ)」となり、朝鮮語では「麦酒(メッチュ)一瓶(ハン・ピョン゚)」である。ビールは
英語あるいはドイツ語からの借用語であるが、中国語では音を借用して啤酒(ピーチュウ)となり、朝鮮語では意味を借用して麦酒(メッチュ)となった。
小林は中国語読みすれば「シャオリン」であり、朝鮮語で発音すれば「ソリム」になる。朝鮮語では小[siô] の介音[i ] が失われて「ソ」となり、林[liəm]
は「リン」ではなく「リム」となる。現代北京語では韻尾の[-m] は[-n] に合流して[-n]
だけになっているから、朝鮮語のほうが現代の北京語より、古い中国語音を留めていることになる。中国語では、日常使われる語彙は時代によって変わるばかりでなく、地方によっても異なる。
あなた ありがとう さようなら 今日
[北京語] 你ni 謝謝xie xie 再見zai jian
今天jian tian
[広東語] 你neih 唔該ngh goi 再見joi gin 今日gam yaht
[上海語]
儂non 謝謝儂xhia xhia non 再会zae huae & nbsp;今朝jin zao
ホテル ワイン ご飯
ボールペン
[北京語] 飯店fan dian 葡萄酒pu tao jiu 米飯mi fan 圓珠筆yuan zhu bi
[広東語] 酒店jau
dim 紅酒huhng jau 白飯baahk faahn 原子筆yuhn ji bat
[上海語] 飯店vae di 葡萄酒bhu dhao
jioe 飯vae 原子筆neue zi bik
最近は日本でも公共の場所の表示が日本語と英語だけでなく、中国語や朝鮮語で表記されていることがある。たとえば、シルバーシトは中国語では博愛座(bo-ai-zuo
)、朝鮮語では優先席(u-seon-seok )である。トイレは中国語では公共厠所( gong-gong-ce-suo)、朝鮮語では化粧室(
hwa-jang-sil)である。朝鮮語の名称は中国語起源だが、中国語の慣用とは異なる。同じ語彙でもまったく意味がちがってしまう場合すらある。たとえば「手紙」という単語は日本語にも中国語にもあるが、中国語ではトイレット・ペーパーのことであるという。
古 代の朝鮮語や日本語が江南方面の中国語の影響を強く受けているから、中国語からの借用語も、北京語ではなく、古代の上海語あるいは広東語の痕跡を留めてい
る可能性がある。さらに、日本の漢字文化は朝鮮半島を経てきたことは確実であり、朝鮮半島で慣用語となったものを借用した可能性も考えておく必要がある。
日本漢字音と中国語原音、あるいは朝鮮漢字音との
間には一定の音韻対応がある。例えば、調音の位置が同じ音は転移しやすい。また、調音の方法が同じ音は転移しやすい。日本語と中国語、朝鮮語はそれぞれ音
韻体系が違うので、中国語や朝鮮語にあって、日本語にない音は近い音で代替される。たとえば、中国語の喉音は日本語にはないので、借用語ではカ行で代替さ
れる。朝鮮語や古代日本語ではラ行の音は語頭にたたないので、脱落するか、ナ行で代替される。
一から十までの数字について、現代の北京語音、日
本漢字音と朝鮮漢字音の関係はつぎのようになる。いずれも古代中国語音から一定の法則にしたがって変化してきている。基準となる古代中国語音は王力の『同
源字典』によった。
古代中国語音 現代の北京音 現代の朝鮮 語音 現代の日本語音
一 [iet] yi il イ チ
二 [njiei] er i ニ
三 [səm] san sam サ ン
四 [siet] si sa シ
五 [nga] wu o ゴ
六 [liuk] liu yuk ロ ク
七 [tsiet] qi chil シ チ
八 [pet] ba pal ハ チ
九 [kiu] jiu ku キュ ウ
十 [zjiəp] shi sip ジュ
ウ
現代の日本語、中国語、朝鮮語の数詞は並べて見
てもほとんど何の関連性も見出せない。しかし、古代中国語音を基準点として比較して見ると中国語、朝鮮語、日本語の数詞が共通の語源から出ていることは一 目瞭然である。
○ 韻尾音 現代の北京音では、古代中国音の韻尾[-t]、[-k]、[-p] はすべて失われている。朝鮮語音 では古代中国語の韻尾[-t]
は一(il)、七(chil)、八(pal)のようにlで代替されている。[-k]、[-p] は六 (yuk)、十(sip)となって中国語の原音が
保たれている。日本 語では[-k]、[-t]
はイチ(ichi)、ロク (roku)、シチ(shichi)、ハチ(hachi)などのように母音をともなって二音節になっているが、古代 中国語の韻尾は保たれている。[-p]
は十「ジプ」となるべきところを、十「ジュウ」という音便 形で、かろうじて痕跡を留めている。
古代中国語の韻尾[-n]、[-m]
は現代朝鮮語では区別されているが、日本語、現代の北京語では区別 は失われて、-nに合流している。古代中国語の三[səm] は現代朝鮮語ではsam、北京語では
san、日本語ではサン(san) である。
○語頭音 古代中国語の声母[nj-]
は北京語、朝鮮語では失われている。古代中国語の二[njiei] は現 代の北京語では二(er)、現代朝鮮漢字音では二(i)
となっている。日本漢字音では二(ni) となっ て、ナ行音になる。日本[njiet
puən]の場合も、現代北京語では日本(ri-ben)、現代朝鮮語では日 本 (il-bon)となる。
古代中国語の声母[ng-]
も北京語、朝鮮語では失われている。古代中国語の五[nga] は、現代北京語では五(wu)、現代朝鮮漢字音では五(o )となっている。日本漢字音では五(go)
である。古代中国語音は五[nga] であり、鼻濁音だから「コ゚」となるべきところであるが、日本語では鼻濁音が語頭にくることはないので五「ゴ」で代替されている。
古代中国語の語頭音[l-]は、現代朝鮮語音では失われている。古代中国語の六[liuk]は朝鮮語音では六(yuk)である。日本語音は六(roku)
である。古代の日本語ではラ行の音が語頭にくることはないので、これは新しい借用語であることがわかる。
日
本の漢字音が唐代の長安の標準語音に依拠するようになったのは、奈良時代以降であり、それ以前の借用語は江南音によっている可能性がある。また、朝鮮半島
で朝鮮漢字音としていったん定着したものを借用したものもある。古代日本語のなかの借用語(弥生音)は江南音や朝鮮漢字音などとも比較してみる必要があ る。
すべての単語について中国語の方言を網羅するのは
大変な作業であるが、少数の例でも変化の法則を垣間見ることができる。ちなみに、現代の中国語方言や朝鮮漢字音で「北京、上海、広東、平壌、日本、東京」
の発音を比較してみると、つぎのようになる。
北京語 広東語 上海語 朝鮮漢字音
北京 bei-jing bak-ging
bok-jin puk-gyeong
上海 shang-hai seuhng-hoi zhan-hae sang-hae
広東
guang-dong gwong-dung guan-don kwang-dong
平壌 ping-rang pihng-yeuhng
bhin-nian ppyeong-yang
日本 ri-ben yaht-bun zhek-ben il-bon
東京
dong-jing dung-ging don-jin tong-gyeong
現代の日本の漢和字典には漢字音として呉音と漢音
だけがとりあげてあり、朝鮮漢字音は全く記されていない。また、中国における漢字の読み方も、漢音の基礎となった唐代の音だけが記されていて、古代中国語
音はほとんど記載されていない。しかし、古代の日本文化が中国江南地方の文化の影響を受けていること、また中国文化が弥生時代に、中国大陸から朝鮮半島を
経て日本列島にたどり着いたことを考えると、朝鮮半島における漢字の使用が日本漢字音に与えた影響は無視することはできない。現代の中国語音との比較で見
る限り、日本漢字音は朝鮮漢字音にもっとも近く、中国語方言では北京語よりも、むしろ広東語の発音に近い。
古代中国語音を復元する作業は『詩経』の韻を調
べることによって行なわれている。また、漢字の声符も重要な手がかりを与えてくれる。漢字には発音を示す声符と、字義を示す義符がある。声符が同じ漢字は
同じ発音をしていた可能性がある。
○頭音の脱落
奇(キ)・椅(イ)、 景(ケイ)・影(エイ)、 軍(グン)・運(ウン)、
船(セン)・沿(エン)、 説(セツ)・悦(エツ)、 夕(セキ)・液(エキ)、
多(タ)・移(イ)、 桶(トウ)・甬(ヨウ)、 沢(タク)・駅(エキ)、
これらの漢字は、文字ができた時には同じ発音であり、その痕跡を声符に留めているものと思われる。漢詩の韻の研究は韻部については、古代の発音の痕跡を残
しているが、声母(語頭音)については、何のてがかりも与えてくれない。漢字の声符は声母が転移したことを示唆している。
○頭音の交替(カ行とサ行、サ行とタ行、カ行と タ行)
技(ギ)・枝(シ)、 喧(ケン)・宣(セン)、 勘(カン)・甚(ジン)、
戦(セン)・単(タン)、 占(セン)・店(テン)、 眞(シン)・鎮(チン)、
嘆(タン)・漢(カン)、 歎(タン)・漢(カン)、 恬(テン)・活(カツ)、
また、韻尾の音の交替があったことを示唆する
痕跡も多く残されている。
○韻尾音の交替(nとt、kとt)
産(サン)・薩(サツ)、 欣(キン)・欠(ケツ)、 本(ホン)・鉢(ハチ)、
柵(サク)・冊(サツ)、 益(エキ)・溢(イツ)、 析(セキ)・折(セツ)
○韻尾音の脱落
液(エキ)・夜(ヤ)、 壁(ヘキ)・避(ヒ)、 福(フク)・富(フ)、
察(サツ)・祭(サイ)、 割(カツ)・害(ガイ)、 喫(キツ)・契(ケイ)、
日本語の訓のなかには中国語の古い発音の痕跡を留
めていると思われるものが、少なからずみられ る。
○カ行頭音脱落
今(いま・コン)、 寄(よる・キ)、 犬(いぬ・ケン)、 根(ね・コン)、
禁(いむ・キン)、
○カ行、サ行、タ行頭音の交替
辛(からい・シン)、臭(くさい・シュウ)、清(きよい・セイ)、声(こえ・セイ)、
子(こ・シ)、 小(こ・ショウ)、 倉(くら・ソウ)、 草(くさ・ソウ)、
作(つくる・サク)、散(ちる・サン)、 床(とこ・ショウ)、 尽
(つくす・ジン)、
束(つか・ソク)、 盾(たて・ジュン)、 照(てる・ショウ)、取(とる・シュ)、
戸(と・コ)、
○韻尾[-k] と[-t] の交替
冊(サク・サツ)、 匹 (ヒキ・ヒツ)、 叱 (しかる・シツ)、 突 (つく・トツ)、
沸(わく・フツ)、
○韻尾[-t] と[-n] の交替
本(もと・ホン)、音(おと・オン)、
琴(こと・キン)、盾(たて・ジュン)、
断(たつ・ダン)、管(くだ・カン)、 肩(かた・ケン)、棉(わた・メン)、
幡(はた・バン)、堅(かたい・ケン)、満(みつる・マン)、
これらの例では、訓は弥生時代の中国語からの借用
音であり、音は奈良時代前後の借用音である可能性が高い。日本における漢字の読み方には音と訓があり、音には呉音、漢音、唐音などがあるとされている。し
かし、訓読みがすべて「やまとことば」かというと、そうではないらしい。訓とされていることばのなかには、日本が本格的な文字時代に入る以前に中国語から
借用された語彙がかなりふくまれている。それを仮に弥生音と名づけることにする。
弥生音は隋唐の時代以前の中国語音を反映してお
り、朝鮮漢字音の影響を受けているものもある。日本語に借用される過程で日本語の音韻構造に影響されて、音が転移しているものもみられる。しかし、その転
移のしかたには一定の法則があり、古代日本語の起源を解明する鍵になる。
漢字文化圏は中国大陸、朝鮮半島、日本列島ばかりでなく、ベトナムにも及んでいる。ベトナムは漢の武帝の時代から約千年にわたって中国の植民地であった。
ベトナムという呼称も中国語の「越南」をベトナム漢字音で読んだものである。ベトナム漢字音は日本漢字音や朝鮮漢字音とは違った発音がある。越南(ベトナ
ム)、河内(ハノイ)、胡志明(ホー・チミン)などはいずれもベトナム語読みである。中根谷徹の『ベトナム漢字音の研究』によると、ベトナム漢字音はつぎ のようになる。
越南veit nam、 河内ha noi、 胡志明ho chi-ming
ベトナムでも漢字を使ってベトナム語を表記する方法は試行錯誤の連続だった。ベトナムでは漢字でベトナム語を表記するのに字喃「チュノム」という文字が工夫された。漢字の意味とベトナム語の音を組み合わせる方法で、例えば「百/林*」と書いて林「ラム」と読む。「百」が意味を表し、「林」がベトナム語の音を表す。また、「南年*」と書いて南「ナム」と読む。南「ナム」が音を表わし、「年」が意味を表わす。「足多*」は音は「タ」、意味は蹴るである。吶は音は「ノイ」、意味は云うである。一時は公式の文書も字喃(チュノム)で書かれ、中国語の文学作品が字喃に翻訳されたこともあったが、結局は漢字をさらに複雑にすることになり、使われなくなってしまった。
*百/林*=百冠+林、南年*=南+年、*足多*=足+多、
17世紀にはイエズス会の宣教師によってローマ字表記の「クオック・グウ(国語)」が請考案され、フランス植民地時代には中国との繋がりを断つために積極的に使われるようになった。ベトナムの地名や人名の漢字音は江南地方の古い中国語音の痕跡を留めている。
清化(タインホア)、西山(タイソン)、新安(タンアン)、昇龍(タンロン)、
占城(チャンパ)、順化(フエ)、奠邊府(ディエン・ビエン・フー)、湄公(メコン)、
阮愛国(グエン・アイクオック)、高王(カオヴォン)、陳仁宗(チャン・ニャントン)、
○
ベトナム語では、古代中国語の越[jiuat]、王[hiuang]、文[miuən]などのように中国語の[-iu-] 介音が 「ヴ」であらわれる。
雲(van)、 文(van)、 萬(van)、 物(vat)、 偉(vi)、 尾(vi)、 院(vien)、 炎(vien)、 越(viet)、
亡(vong)、 雨(vu)、 武(vu)、 無(vu)、 王(vuong)、
○
ベトナム漢字音では中国語の喉音は保たれて河(ha)、胡(ho) のようにあらわれる。
○
日本漢字音のサ行はベトナム漢字音では、タ行で現れることがある。
志(chi)、 之(chi)、 旨(chi)、 脂(chi)、 肢(chi)、
至(chi)、 止(chi)、
施(thi)、 斯(tu)、 手(thu)、 散(tan)、 作(tac)、 常(thuong)、 辰(than)、
時(thoi)、 盾(thuan)、 十(thap)、 絶(tuyet)、
ベトナム漢字音は、中国南部の古い発音を受け継いでいる。日本語でも音でサ行に発音されることばが、訓ではタ行で発音されることがあり、江南地方の古代音との関係を考えてみる必要がある。
手(シュ・て)、 散(サン・ちる)、 作(サク・つくる)、 常(ジョウ・つね)、
辰(シン・たつ)、 時(ジ・とき)、 盾(ジュン・たて)、 十 (ジュウ・とを)、
絶(ゼツ・たえる)、堪(ジン・たえる)、出(シュツ・でる)、津(シン・つ)、
照(ショウ・てる)、床(ショウ・とこ)、束(ソク・つか)、 取(シュ・とる)、
中
国江南地方の方言でタ行音として発音されることばが、弥生音として古代日本語に受け入れられて手「て」、散「ちる」、作「つくる」などの日本語になった可
能性がある。その後タ行音は摩擦音化してサ行音になり、手「シュ」、散「サン」、作「サク」と発音されるようになったと推論することができる。同じ声符を
もった漢字でカ行とサ行に読み分けるものがかなりあることも、その傍証となる。
石(セキ)・拓(タク)、折(セツ)・哲(テツ)、
失(シツ)・鉄(テツ)、
説(セツ)・脱(ダツ)、植(ショク)・直(チョク)、豆(ズ)・頭(トウ)、
カ行とサ行の関係は中国語音でも複雑である。たとえば、現代北京語のjin
、qin、xinは日本漢字音 では「キン」と「シン」あるいは「ジン」となる。日本語のカ行音・サ行音と現代北京語音との関 係は複雑で、つぎのようになる。
北京語音 日本語音カ行「キン」 日本語音サ行「シン」
jin 斤、近、禁、巾、今、金、 浸、津、進、晋、尽、
筋、謹、緊、錦、
qin 芹、勤、欽、禽、琴、 侵、寝、親、秦、沁
xin 欣、
心、芯、辛、新、信、
北京語のqin はchin に近く、xin はshin
に近く発音する。中国語では「北京」は北京(Beijing)であり、青島は青島(Qingdao)
である。北京のローマ字表記は、今は北京(Beijing)とするのが一般的だが、かつては北京(Peking)と書き慣わしていた。これらの漢字の中国語方言音、朝鮮漢字音、ベトナム漢字音を調べてみると、つぎのようにな対応がみられる。
古代中国語音 北京語 広東語 上海語 朝鮮語 ベトナム語
斤 kiən jin gan jin
keun can
欣 xiən xin yan xin heun han
侵 tsiəm qin cham qin chim xam
浸 tziəm jin
jam jin chim tam
北京語の斤(jin)は古代中国語の[k-] が介音iの影響で前舌音となり/tji-/
に近い音になり、それが破擦音化して斤(jin) となったものであろう。欣(xin) は喉音であり、広東語では頭音が失われている。浸(jin)
の古代中国語音が侵[tziəm] であり、北京語の浸(jin)
は古代中国語音に近い。ベトナム語音はi介音が失われて浸(tam)になり、朝鮮語音ではi介音の影響で口蓋化して浸(chim) になった。
日
本漢字音は一般に朝鮮漢字音にもっとも近い。しかし、弥生時代の借用音のなかにはベトナム語音の影響、あるいは中国江南地方の方言の影響ではないかと思わ
れるものがある。ベトナム語音は江南地方の古代音の痕跡を残している可能性があるので、古代の日本語音を復元するのには、ベトナム漢字音も参考にする必要 がある。
作(サク・つくる)、散(サン・ちる)、時(ジ・とき)、手(シュ・て)、取(シュ・とる)、十(ジュウ・とを)、出(シュツ・でる)、盾(ジュン・たて)、照(ショウ・てる)、
床(ショウ・とこ)、常(ジョウ・つね)、辰(シン・たつ)、津(シン・つ)、
堪(ジン・たえる)、絶(ゼツ・たえる)、束(ソク・つか)、
これらの弥生音は中国江南地方の古代音を継承している可能性がある。ベトナム漢字音はその傍証となる。
[漢字の読み方]
日本語には漢
字のほかにカナがあるから、読み方の分からない文字には、カナをふることができる。しかし、中国語には漢字しかないから、漢字に漢字でカナをふるよりほか
に方法がない。中国には古くから反切という方法があって、漢字の読み方を声母(頭子音)と韻母(母音を含む部分)で示す。例えば、「東」は東(徳反紅)と
表示して、「東」は頭子音が「徳」と同じであり、韻母(母音を含む部分)は「紅」と同じであることを示す。
カナ以前の日本語は漢字だけで書かれているから、古代の日本語をよみがえらせるためには、唐代の中国語音を復元しなくてはならない。中国語の韻書には、随の陸法言が編纂した『切韻』(601年)と、宋代に成書した『広韻』(1008年)
などがある。これらはいずれも随唐の時代の中国語音を反映している。記紀万葉の日本語は隋唐の漢字音に依拠しているので、隋唐の中国語音によって記紀万葉
の原音を復元することができる。たとえば、日本語の「やまと」は古事記では「夜麻登」と表記されているから、唐代の中国語原音で読むと、つぎのようにな る。
夜(羊反謝)麻(莫反霞)登(都反縢)
「夜」の声母は「羊」と同じであり、韻母は「謝」と同じ韻であることを表わす。「麻」は声母が「莫」、韻母が「霞」である。また、「登」は声母が「都」、韻母が「縢」ということが分かる。古事記歌謡を反切を頼りに解読し、「やまとことば」に復元すると、つぎのようになる。
夜(羊謝) 麻(莫霞) 登(都縢) 波(博禾)
久(挙有) 爾(児氏) 能(奴登) 麻(莫霞) 本(布忖) 呂(力 挙)
婆(薄波)
多(得何) 多(得何) 那(諾何) 豆(田候) 久(挙有)
阿(烏何) 袁(雨元) 加(古牙) 岐(巨支)
夜(羊謝) 麻(莫霞) 碁(渠之) 母(莫厚) 禮(盧改) 流(力求)
夜(羊謝) 麻(莫霞) 登(都縢) 志(職吏) 宇(羽倶) 流(力求)
波(博禾) 斯(息移)
こ
れによって、多(得何)、那(諾何)、阿(烏何)の韻母は「何」であり、同じ韻母であることが分かる。また「登」は登(都縢)であり、「能」が能(奴登)
であることから、「登」、「縢」、「能」は同韻であり、これらを連結することによって、「登」、「縢」、「能」が同じ韻母であることが明らかになる。しか
し、反切は循環論になっているから、反切に用いられている文字の音価が分からなければ、万葉時代の声を復元することはできない。たとえば麻(莫反霞)と
あっても、「莫」を「マク」と読むか「バク」と読むかによって、「麻」は「マ」とも読め、「バ」とも読めてしまう。「夜麻登」は「登」を登「トウ」と読む
と夜麻登「ヤマトウ」、「久爾能」は「キュウジノウ」と読んでしまう可能性がある。
反切には限界はあるものの、反切にもとづいて日本の古代歌謡を、ある程度復元することが可能である。反切をもとにして古事記歌謡を読むと、およそつぎのようになる。
やあ・まあ・とう・ふぁ
きゅう・にい・のう・まあ・ふぉん・りょ・ふあ
たあ・たあ・なあ・づう・きゅう
うあ・うん・かあ・きい
やあ・まあ・きい・もう・れい・りゅう
やあ・まあ・とう・しい・うう・りゅう・ふぁ・しい
奈良時代の日本語音については、不明のことがまだ多い。しかし、唐代漢字音をもとにして、か なり万葉時代の日本語音を復元することができる。
○日本語のハ行は「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」だった。
記紀万葉時代の日本語はハ行が「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」だった。「やまとは」 の「は」
の頭音は波(博禾)で唇音である。「うるはし」の「は」 も同じく波(博禾)である。「まほろ ば」の「ほ」 は本(布忖)であり、「ば」
は婆(薄波)で、いずれも中国語の脣音が当てられて いる。奈良時代の日本語音は「やまとふぁ」、「まふぉりょふあ」、「うるふぁし」に近かった ことになる。
○ 「やまと」の「と」はどんな音だったか。
奈良時代の日本語には「と(甲)」と「と(乙)」があって、「やまと」の「と」は「と(乙)」であった
といわれている。しかし、「と(甲)」と「と(乙)」の音価がどのように違うかは明らかではない。 「やまと」の「と」の唐代の中国語音は登(都縢)である。「くにの」
の「の」は能(奴登)、 「ま ほろば」の「ろ」は呂(力挙)、「やまごもれる」の「ご」は碁(渠之)、「も」は母(莫 厚)である。
「やまと(乙)」、「くにの(乙)」、「まほろ(乙)ば」、「やまご(乙)も(乙)れ る」はいずれもオ段乙の音
である。オ段乙の音は反切では「登」、「縢」、「能」、「厚」、で表されている。このことか ら、オ段乙の音は登(トウ)、縢
(トウ)、能(ノウ)、厚(コウ)に近い音であったものと思わ れる。「母」は「厚」と同じ韻母だとされているから、母(モウ)に近い音であったことが 推測 できる。
○ 「久」、「呂」、「流」はどう読むか。
「久」、「呂」、「流」の唐代漢字音は、久(挙有)、呂(力挙)、流(力求)である。古事記 歌謡を漢字音に忠実に読むとすれは「きゅう・にい・の
う・まあ・ふぉん・りょ・ばあ」、「や あ・まあ・とう・しい・うう・りゅう・ふぁ・しい」と読むことになる。しかし、記紀万葉の時 代の漢字は朝鮮
半島出身の史(ふひと)によって書かれているので、朝鮮漢字音の影響を受けて いるかも知れない。「久」の朝鮮漢字音は久(ku)
である。現代の朝鮮漢字音では「呂」、「流」 は、呂(ryeo)、流(ryu)である。
朝鮮漢字音では中国語の介音(わたり音)iが失われることがある。宿なども朝鮮漢字音では宿 (suk) で
あり、宿「しゅく」とはならない。日本語の「宿禰」も「すくね」であって「しゅく ね」とはならない。「呂」は呉音では呂(ろ)、漢音では呂(りょ)で
ある。「流転」も呉音で 流転(るてん)と読む。古事記歌謡の表記に使われている「久」、「呂」、「流」は、朝鮮漢字 音の影響で介音[i]
が失われて、久(く)、呂(ろ)、流(る)と発音されていた可能性がある。 古代日本語の漢字音は、朝鮮漢字音の影響もあり、中国語原音だけでは復元することはできない 場合もある。
「碁」は碁(渠之)であり、反切音に忠実に読むと碁(ギ)になってしまう。「碁」は「其」や「期」 と同じ声符をもっている。「期」の日本漢字音は期
(キ)のほかに、末期(マツゴ)、帝国海軍の 最期(サイゴ)などの読み方もある。「将棋」の「棋」は声符が「碁」と同じであり、碁の協会は 日本棋院(キイン)、「碁石」は碁石(ゴイシ)と読み分けられている。碁(ゴ)は古代中国語音 を継承したものである。碁[giə]
の介音[i] は古代中国語音にはなく、隋唐の時代の中古中国語音で発 達してきた音である。「将棋」の「ギ」は棋[giə] は介音[i]
が生かされたもので、中古中国語音を反 映している。これらの修正を加えて古事記歌謡を復元すると、およそつぎのようになる。
やまと(乙)ふぁ くにの(乙)まふぉろ(乙)ば たたなづく あをがき
やまご(乙)も(乙)れる やまと(乙)しうるふぁし
古事記歌謡のなかでもよく知られたもうひとつの歌、須佐の男の命が出雲の須賀の地にたどりつ いたとき詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌 の、中国語音の反切はつぎのようになる。
夜(羊謝)久(挙有)毛(莫袍)多(得何)都(當孤)
伊(於脂)豆(田候)毛(莫袍)夜(羊謝)弊(弼祭)賀(胡箇)岐(巨支)
都(當狐)麻(莫霞)碁(渠之)微(無非)爾(児氏)
夜(羊謝)弊(弼祭)賀(胡箇)岐(巨支)都(當狐)久(挙有)流(力求)
曾(作縢)能(奴登)夜(羊謝)弊(弼祭)賀(胡箇)岐(巨支)袁(雨元)
唐代漢字音をもとに8世紀の日本語音を復元してみると、つぎのようになる。
やあ・きゅう・もう・たあ・とお
い・づう・もう・やあ・ばい・があ・きい
とお・まあ・きい・みい・にい
やあ・べい・があ・きい・とお・きゅう・りゅう
そう・のう・やあ・べい・があ・きい・うん
ここでも久(挙有)、碁(渠之)、流(力求)は中国語音では拗音(介音[-i-]
を含む)になってい る。古代日本語には二重母音がなかったから、介音[i]が失われて久(く)、碁(ご)、流(る)と 発音されたにちがいない。弊(弼祭)も二重母音が避けられて、弊(ばい)ではなく、「べ」ある いは「へ」と單母音に発音された。大野晋は『日本語の起源(旧版)』のなかで、日本語のエ段につ いて、つぎのように述べている。
それらの母音(イ(乙)、エ(乙)、エ(甲))
は、古い日本語本来の母音ではなく、後世になって新しく発達した母音であるらしい。というのは、イ(乙)、エ(乙)、エ(甲)という音は、単語の終わりの部分や、活用語尾に多く現われ、単語のはじめにくることがほとんどない。
またエ(甲)、
エ(乙)の母音を重ねる単語がないことも、エ列の音が後世の発達だということを示すものである。たとえばtaka(タカ)、mata(マタ)、naga(ナガ)などaaという母音を重ねた単語は 多く存在し、tökö(トコ)、tömö(トモ)などオ(乙)という母音を重ねた単語も多く存在する。し かし、teke(テケ)、mete(メテ)、nëgë(ネゲ)などという母音の結合の単語は一つも存在しな い。これはつまり、エ・ケ・セ・テ・ネなどエ列の音が古代日本語の本来の音ではなく、 ai→
エ(乙)、ia→ エ(甲)というような変化によって、後世(といっても奈良時代以前であるが)発達 した母音だかららしい。(『日本語の起源(旧版)』p.162)
これらの点を配慮して解読すると、古事記の歌謡はつぎのように復元できる。
やくも(甲)たとう いづもやふぇ(甲)がき(甲)
つまご(乙)み(乙)に
やふぇ(甲)がき(甲)つくる そ(乙)の(乙)やふぇ(甲)がき(甲)を
日本語に母音が八つあった時代は奈良時代で終わり、五十音図ができあがる平安時代には、日本語 の母音は現在と同じ五つになり、古代日本語音の記憶は日本人のなかから失われる。
唐代になると中国漢字音の音価は、かなり正確に復元することができる。それは唐詩の押韻の研究が進んでいるからである。中国では役人への登竜門である科挙
で、唐詩の韻を正確に読み分けて、自身も正しく韻を踏んだ詩を作ることが必須条件とされた。日本でも中国にならって唐詩を重んじたため、唐代の中国音の研
究は進んだ。たとえば杜甫の「絶句」の押韻はどうなっているのだろうか。
絶句 杜甫
江碧鳥逾白 江(こう)は碧(みどり)にして鳥逾(いよ)いよ白く
山青花欲燃 山は青くして花は燃えんと欲す
今春看又過
今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ
何日是歸年 何の日か是(こ)れ帰る年ぞ
この詩の燃
(ネン)と年(ネン)は韻を踏んでいそうである。そこで反切で調べてみると、然(如反延)、年(奴反顛)である。「燃」と「年」とが押韻するためには、
「延」と「顛」とが同韻でなければならない。『広韻』のような韻書によると反切の上字(語頭の子音を表わす文字)は452個、下字(韻尾の音を表わす文
字)にいたっては1095個もある。中国語の韻は1000以
上もあるわけではないから、反切では同じ韻に異なった文字があてられている可能性もある。「延」と「顛」が押韻しているかどうかを知るためには、かなりの
修行を積まなければならない。反切上字と下字の音価をすべて知らなければ、唐詩は読みこなすことはできないし、まして漢詩を作ることは困難である。
そ
こで、『韻鏡』という韻図があって、反切よりは簡便に韻を調べることができる。『韻鏡』は43枚の韻図で成り立っている。『韻鏡』は『広韻』に比べれば、
だいぶ整理されたことになる。杜甫の絶句について『韻鏡』を調べてみると、「然」は仙韻、「年」は先韻となる。『韻鏡』では「仙」と「先」は同じ第23図
にあり、ともに平声であるから、「然」と「年」は韻を踏んでいることが確かめられる。『韻鏡』は、その簡便さから、中国よりもむしろ日本の漢学者に愛用さ
れた。また、「春望」についてみると、つぎのようになる。
春望 杜甫
國破山河在 国破れて山河在り、
城春草木深
城春にして草木深し。
感時花濺涙 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ、
恨別鳥驚心 別れを恨しみて鳥も心を驚かす。
烽火連三月
烽火(ほうか)は三月に連なり、
家書扺萬金 家書は万金に扺(あた)る。
白頭掻更短 白頭掻けば更に短く、
渾欲不勝簪
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す。
日本漢字音では深(シン)、心(シン)、金(キン)、短(タン)、簪(セン)が韻を踏んでいるようにみえる。『韻鏡』によって韻を調べてみると、つぎのようになる。
深(沁韻)、 心(侵韻)、金(侵韻)、短(緩韻)、簪(覃韻)
「心」と「金」はともに侵韻であり、心=金で同韻であることがすぐわかる。また、深(沁韻)は『韻鏡』では侵韻と同じ第38図に収められており、侵韻が平
声なのに対して沁韻は去声で四声が違うだけだから、平仄が同じである。したがって、深=心=金、と押韻していることになる。また、簪(覃韻)は『韻鏡』で
は深、心、金の次の第39図に載っている。覃韻と侵韻の違いは、u介
音が伴うかどうかの差であると考えられている。したがって、侵韻と覃韻も押韻する。結局、「深」、「心」、「金」、「簪」は韻を踏んでいることが『韻鏡』
によって確かめられる。「短」は、日本漢字音では押韻していそうに思えるが、韻鏡ではまったく別の第24図に掲載されていて、短(緩韻)である。したがっ
て、「短」は「深」、「心」、「金」、「簪」とは押韻ない。
『韻鏡』を理解するのにも、かなりの修行が必要である。これをアルファベットで表記すれば、専門家でなくとも誰にでも理解できる。杜甫の詩「春望」の中国語原音はアルファベットで表記すればつぎのようになる。
深[siəm]、 心[syəm]、 金[kiəm]、 短[tuan]、 簪[tziəm]
簪[tziəm]は韻尾が[-m]であり、短[tuan] と韻を踏まないことは一目瞭然である。日本語では中国語の韵尾の[-m] と[-n]
が弁別されず、ともに「ン」であらわれる。しかし、唐代の中国語原音では明瞭に区別されていた。
スウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレン(1889-1978)は中国言語学の専門家であり、英語、フランス語で膨大な論文を残している。その研究分野は中国語ばかりでなく、日本語、朝鮮語、ベトナム語など、漢字文化圏全体に及んでいる。カールグレンは英語の著書『言語学と古代中国』(1920年、オスロ)のなかで、概略つぎのように述べている。
中 国語と日本語は恐らく系統の異なる言語である。そのことは間違いあるまい。日本語と中国語は文法体系も、単語の形態も、音韻体系も、英語と日本語ほどに隔
たりがある。もし九州に最初に渡来した人びとが日本語の原型を作り、現在の日本民族の主要な構成分子になったとすれば、その最初の渡来者が中国人であった
とは考えられない。しかし、このことは日本語が、中国文化の強い影響のもとで、中国語からの借用語を受け入れていたという想定を妨げるものではない。日本
人が、最初は朝鮮半島を経由して、後には中国大陸から直接に、中国の文化を政治的にも社会的にも大量に輸入し始める5世紀より以前から、日本人はかなりの
文化をもっていた。それは『古事記』や『日本書紀』を見ても明らかである。日本文化は日本列島のなかで独自に育まれたものだろうか。あるいは、中国文化と
の接触のなかで、その影響を受けてきたものだろうか。その答えは不明である。しかし、中国文化との接触を通じて、日本列島に文化が花開いたとすれば、それ
は何らかの形で言語にも反映されているはずである。
日
本が中国文化の圧倒的な影響を受けた7世紀以降には、何千という中国語の単語が借用語として日本語のなかに取り入れられた。これらの借用語の読み方には、
呉音、漢音などがあり、日本語のなかに定着している。呉音も漢音も中国語原音をはなれて、日本語の音韻体系に順応して変化した読み方なので、日本漢字音と
呼ぶ。中国語の語彙は、朝鮮語やベトナム語にも大量に取り入れられて、それぞれ朝鮮漢字音、越南漢字音として定着している。
し
かし、日本人は記紀万葉が成立し、日本漢字音が定着する8世紀よりも遥か以前から中国文化と接触しており、古代中国語の語彙を取り入れている可能性があ
る。このような漢語は「やまとことば」の音韻体系のなかに完全に取り入れられて、日本語化しているので、日本古来のことばと思われている場合が多い。今ま
で純粋な「やまとことば」と考えられてきたことばのなかに、7世紀以降の日本漢字音とはかなり違う借用語が混入している可能性がある。
文
献時代以前の借用語は、文字を通して借用されたものではないから、古代日本語の音韻体系に馴化して「やまとことば」のなかに埋もれている。しかし、注意深
く観察すると、古代中国語音と「やまとことば」の間には、一定の法則にしたがって変化した、音韻対応があることが明らかになる。借用語は自国の言語の音韻
構造に適合するように変化する。カールグレンは中国語と日本漢字音の違いを五つあげている。
1.日本語には中国語の韻尾[-p]、[-t]、[-k]
で終わる音節はない。日本漢字音では韻尾に母音をつけて発音する。
2. 日本語には[b-]、[d-]、[g-]
など濁音で始まることばはない。中国語の濁音は語頭では清音に変化する。
3.日本語では子音が連続することはないので、単子音に変化する。
4.中国語の拗音(i介音を含む母音)や合音(u介音を含む母音)にあたる音は日本語にはない。中国語の介音は失われて日本語では単母音になる。
5.中国語にあって日本語にない母音は似た母音で代替される。日本漢字音にはさまざまな中国語原音が合流している。
カールグレンのあげた五つの原則について具体例をあげると、中国語原音と日本漢字音の対応はつぎのようになる。
1.日本語には中国語の韻尾[-p]、[-t]、[-k] で終わる音節はない。日本漢字音では韻尾に母音をつけて 発音する。
例:福[piuək]
フク、菊[kiuk] キク、蜜[miet] ミツ、吉[kiet] キチ・キク、
活[huat]カツ、室[sjiet] シツ、甲[keap]
カフ、蝶[thyap] テフ、
福(フク)、菊(キク)、蜜(ミツ)、甲(カフ)、などのようにウ段の母音がつくことが多いが、吉(キチ・キツ)のようにイ段の母音がつくこともある。旧かな使いでは、「甲」、「蝶」は甲(カフ)、蝶(テフ)で第2音節が古い中国語の韻尾[-p]の痕跡を留めている。現代の日本語では甲(コウ)、蝶(チョウ)になって、中国語の韻尾の[-p]
は失われている。
2.日本語には[b-]、[d-]、[g-]
など濁音で始まることばはない。日本漢字音では中国語の濁音は語頭で は清音に変化する。
例:勤[giən] キン、健[gian]
ケン、強[giang] キョウ、局[giok] キョク 、 陳[dien] チン、
頭[do] トウ、特[dək] トク 、 唐[dang]
トウ、長[diang] チョウ、皮[biai] ヒ 、 父[biua] フ、
浮[biu] フ、並[byeng] ヘイ、敗[beat] ハイ、
これらの漢字の日本漢字音は清音だが、唐代の中国語原音は濁音である。
3.日本語では子音が連続することはないので、中国語の複合子音は単子音に変化する。たとえば、 「諌」と「練」は同じ声符「柬」だが、カ行とラ行とに読み分けられている。
例:諌(カン)・練(レン)、 果(カ)・裸(ラ)、 檻(カン)・藍(ラン)、
兼(ケン)・簾(レン)、 格(カク)・洛(ラク)、京(キョウ)・涼(リョウ)、
カールグレンは、これらの漢字の古代中国語音は[kl-]
あるいは[gl-]
だったと考えている。古代中国語音で諌[klean]・練[klian]であったものが後に、諌(カン)と練(レン)に分かれた。このような漢字がいくつもあることは、古代中国語に[kl-]
という子音の連続があったと考えれば説明がつく。日本語にはもともと語頭で子音が連続することがなかった。
4.中国語の拗音(i介音を含む母音)や合音(u介音を含む母音)にあたる音は日本語にはない。中国語の介音は失われて日本語では単母音になる。
例:火[xuai] カ、 管[kuan] カン、 魂[khuən] コン、 光[kuang] コウ、
国[kuək] コク、 村[tsuən] ソン、
半[puan] ハン、 乱[luan] ラン、
炎[jiam] エン、 音[iəm] オン、 健[gian] ケン、 香[xiang] コウ、
石[zjyak] セキ、貞[tieng] テイ、 列[liat] レツ、 連[lian] レン、
亀[kiuə] キ、 君[giuən] クン、
屈[khiuət] クツ、 反[piuan] ハン、
尾[miuəi] ビ、 文[miuən] ブン、 方[piuang] ホウ、 塁[liuai]
ルイ、
中国語では頭子音と母音の間に介音(わたり音)があるが、日本語は重母音を避ける傾向があるので
、中国語の介音は日本漢字音ではほとんど失われている。
5.中国語にあって日本語にない母音は似た母音で代替される。日本漢字音にはさまざまな中国語
原音が合流している。
例「カク」:隔[kek]、 閣[kak]、 革[kək]、 角[keok]、 較[keôk]、 格[keak]、
郭[kuak]、
拡[khuak]、 確[kheôk]、 穫[huak]、 劃[hoek]、 獲[hoak]、 鶴[hôk]、
「コン」:根[kən]、 紺[kəm]、 今[kiəm]、 昆[kuən]、 魂[khuən]、 困[khuən]、 昏[xuən]、
恨[həm]、
日本語には喉音がないので中国語の[x-]、[h]はカ行で発音される。
例:獲[hoak]
カク、鶴[hôk] カク、昏[xuən] コン、恨[hən] コン、
また、日本語には中国語の[ng-]
が語頭にくることがないので、ガ行で発音される。中国語の原音 は鼻濁音であり、「カ゚」であるが、日本漢字音では「ガ」となる。
例:岩[ngeam] ガン、顔[ngean] ガン、元[ngiuan] ゲン、原[ngiuan] ゲン、
日本語では古代中国語の韻尾の[-n]、[-m] は区別されずに「ン」になる。
例:今[kiəm] コン、困[khuən]
コン、根[kən] コン、紺[kəm] コン、
カールグレンは日本漢字音の特徴として五つをあげているが、これらのなかには朝鮮漢字音と共 通の特色もある。たとえば、語頭に濁音がこないこと、子音が連続することがないこと、二重母音 を避ける傾向があること、などである。
朝鮮語では語頭に[ng-]、[l-]
がくることがない。語頭の[ng-]は失われ、[l-]はナ行で代替されるか、あ るいは失われる。古代の日本語でもラ行の音が語頭にくることはない。鼻濁音の[ng-]
が語頭にたつ こともない。
中国語は音節
言語であり、ひとつの漢字がひとつの音節を表わし、一音節がひとつの意味の単位になっている。このため、音節の数は単語の数と同じだけ必要になる。言語学
者の王力は「声近ければ義近し」として、音の近い漢字は字義も近い、という問題提起をした。例えば、陰(イン)・隠(イン)、花(カ)・華(カ)、強
(キョウ)・剛(ゴウ)などは文字でみればかなり違うが、音は近く、意味も近い。王力はこの原則に基づいて『同源字典』を編纂した。
中国語の音節は一般に声母(子音)と韻母の二つの部分からなっている。例えば、「良」は反切では「呂反張」であり、「呂」が声母であり「張」が韻母である。それを、もう少しこまかく見ると、「良」は良[l-i-a-ng]
に分解できる。[l-] が声母であり、[i]は介音(わたり音)、そして[-a-] が主母音である。主母音の前に介音がきて、母音のあとに韻尾[-ng]
がつく。中国語音「良」の構成要素は、つぎのように解析できる。
これと同じように「夜麻登」の唐代中国語音を復元してみると、つぎのようになる。
中
国語の音節を反切のように声母と韻部のふたつに分解するのではなく、韻母をさらに三つに分解して、これをアルファベットで表記することによって、中国語の
音節構造は飛躍的に簡潔にとらえられるようになる。たとえば『広韻』では206韻とされてきた中国語の韻母を、王力は29に整理している。
次の表で「横」に並んでいる音は、韻尾が同じで転移しやすい。また、「縦」に並んでいる音は主母音が近く転移しやすい。王力はこの表で横の転移を「旁転」
と呼び、縦の転移を「対転」または「通転」と呼んでいる。旁転、対転、通転の音は「声近ければ義近し」で同源語が多い。
古代中国語の韻表
たとえば、つぎのようなことばは中国語では同源である。
○ [-k・-ng]、[-t・-n]、[-p・-m]
は転移しやすい。
[-k・-ng] 逆[ngyak]・ 迎[ngyang]、 読[dok]・ 誦[ziong]、
[-t・-n]
粋[siuət]・ 純[zjiuən]、 別[biat]・ 判[phuan]、 絶[dziuat]・ 断[duan]、
[-p・-m]
匣[keap]・ 函[ham]、 侵[tsiəm]・ 襲[ziəp]
韻尾の[-k]・[-ng] 、[-t]・[-n] 、[-p]・[-m]
は調音の位置が同じであり対転である。中国語音の[-ng] は [-k]
から派生した。一般に、[-p]、[-t]、[-k]、のほうが[-m]、[-n]、[-ng]よりも古い形であると考えられ
ている。日本漢字音でも祝儀(シュウギ)、北条(ホウジョウ)、句読点(クトウテン)などでは 「祝」を「シュウ」、「北」を「ホウ」、「読」を「トウ」と音便形で読む。
「粋」は日本漢字音では粋(スイ)であるが、古代中国語では韻尾に[-t] の音がある。中国語でも 唐代には韻尾の[-t]
は失われたが、同じ声符をもつ「卆」は韻尾の[-t]
を留めている。「嗚咽」の咽(エツ)は、声符が因(イン)であるのにもかわらず嗚咽(オエツ)と読む。[-t]と[-n]は調音の位置
が同じであり、転移しやすい。因(イン)の古代中国語音は咽(エツ)と同じく因(エツ)であっ た可能性がる。
『説文』など中国の古い辞書を調べてみても、王力のあげている対語は意味が近い。したがって、 これらのことばは、音義ともに近く同源語である。
逆・迎、 読・誦、 純・粋、 判・別、 断・絶、 匣・函、 侵・襲
中国語では純粋、判別、断絶のように、同義語をふたつ並べて熟語をつくることがある。
○ 韻尾の入声音[-p]、[-t]、[-k]、は脱落することがある。また、転移する場合もみられる。
[〇・-k] 改[kə]・ 革[kək]、
無[miua]・ 莫[mak]、句[ko]・ 曲[khiok]、 報[pu]・ 復[biuk]、
眸[miu]・ 目[miuk]、
[〇・-t] 施[sjiai]・ 設[sjiat]、 枯[kha]・ 渇[khat]、
[-t・-p] 内[nuət]・
入[njiəp]、 内[nuət]・ 納[nəp]、
[〇・ 〇] 吾[nga]・ 我[ngai]、汝[njia]・ 爾[njiai]、
奢[sjya]・侈[thjiai]、
(注:[○]は開音節とあらわす)
改革、報復、施設、枯渇などは同音同義語を重ねた熟語である。日本漢字音でも壁(ヘキ)は韻尾の入声音[-k]を留めているが、同じ声符を持つ避(ヒ)は「避難」のように、入声音を失っている。日本漢字音は比較的よく韻尾の入声音(-p、-t、-k)を留めているといえる。現代の北京音では入声音すべて失われている。中国語の方言では広東語がもっともよく入声音を留めている。
中国語方言(入声音)
北 目 月 鉄 葉 甲
広東語 bak muhk yuht tit yihp gaap
福建語 pak bak goeh thih hioh kah
上海語 bok mok nik tik yak jiak
北京語 bei mu yue tie ye jia
日本漢字音は古代中国語の入声音を比較的よく留めているものの、奥[uk]
のように古代中国語の韻尾を失ったものもある。「奥」は奥(おく)が古代中国語音を留めた弥生時代の借用語であり、奥(オウ)は唐代の漢字音である奥/ô/に依拠している。日本漢字音のなかにも古代中国語の入声音が失われたものもある。
夜[jyak]、 腋[jyak]、 造[dzak]、 漬[dziek]、 嗅[thjiuk]、 墓[mak] 、 地[diet]、 祭[tziat]、
帯[tat]、
未[miuət]、 置[tjiək]、 至[tjiet]、 甲[keap]、 頬[kyap]、 葉[jiap]、 畳[dyap]、
峡[heap]、 吸[xiəp]、
合[həp]、
これらのことばのなかには、日本語の訓として古代中国語の韻尾を留めている。
夜(よる)、腋(わき)、 造(つくる)、漬(つける)、嗅(かぐ)、墓(はか)、
地(つち)、祭(まつり)、帯(たらし)、未(いまだ)、
至(いたる)、置(おく)、
甲(かめ)、頬(ほほ)、葉(は)、畳(たたみ)、 峡(かひ)、吸(すふ)、 合(あふ)、
○ 韻尾の[-m]、[-n]、[-ng]、はいずれも鼻音であり、転移しやすい。
[-m・-n] 陰[iəm]・ 隠[iən]、
稔[njiəm]・ 年[nyen]、
[-ng・-m] 鏡[kyang]・ 鑑[keam]、 痛[thong]・ 疼[duəm]、
陵[liəng]・ 隆[liuəm]、
嵩[siong]・ 崇[dzhiuəm]、
[-ng・-n] 強[giang]・
健[gian]、 広[kuang]・ 寛[khuan]、 剛[kang]・ 堅[kyen]、
瞑[myeng]・ 眠[myen]、
これらのことばのなかにも、日本語に借用されたものが含まれている。
みのる(稔・年)、かがみ(鏡・鑑)、
いたむ(痛・疼)、ねむる(瞑・眠)、
「年」は穀物が実るときである。『説文』には「季(年)、穀孰也」とあり、「稔、穀孰也」とあり、「年」と「稔」は音義ともに近い。また、「鏡」は「鑑」である。『玉篇』に「鏡、鑑也」とある。鏡[kyang]と鑑[keam]はともに鼻音であり、古代中国語ではおそらく、鏡[kyang]も鑑[keam]に限りなく近い発音であった。「鑑」とは大盆のことである。大盆に明水を入れれば、月を写すことができる。鑑(カン)は音韻変化の結果鏡(キョウ)になった。日本語の「かがみ」は、「鑑」と関係のあることばであろう。
現代の北京語では[-m] と[-n] の区別は失われている。また、上海語では[-ng] が[-n] に合流してい る。
現代中国語方言
春 天 金 飲 香 港
広東語 cheun tin gam yam heung gong
福建語
chhun thin kim lim hiun kang
上海語 cen ti jin in xian gan
北京語 chun tian
jin yin xiang gang
広東語では-n、-m、-ngの区別がよく保たれている。福建語では-ngの一部が-nに合流している。上海語では-ngが完全に失われて-nになっている。「飲」は広東語では飲(yam)
であり、飲茶(ヤムチャ)は広東語読みである。
○ 韻尾の[-m]、[-n]、[-ng] は失われることがある。
[〇・-ng]
起[khiə]・ 興[xiəng]、 筥[kia]・ 筐[khiuang]、 無[miua]・ 亡[miuang]、
聚[dzio]・ 叢[dzong]、
[〇・-n] 飢[kiei]・ 饉[giən]、 鵞[ngai]・ 雁[ngean]、 在[dzə]・ 存[dzuən]、 喜[xiə]・
欣[xiən]、
耐[nə]・ 忍[njiən]、 悔[xuə]・ 恨[hən]、 語[ngia]・ 言[ngian]、
[〇・-m] 耐[nə]・ 任[njiəm]、 治[jiə]・ 融[jiuəm]、
飢饉、存在、欣喜(雀躍)、忍耐、悔恨、言語などは同義語を重ねた熟語である。これらの同源語のなかにも、日本語として定着しているものがある。
おきる(起・興)、かご(筥・筐)、 なき(無・亡)、かり(鵞・雁)、たえる(耐・忍)、
くいる(悔・恨)、 ことば(語・言)、
『説
文』には「興、起也」とある。また、同じく『説文』によると、「匡」は飯器であり、「筥」のことであるという。中国では「無は亡」であり、『説文』以来さ
まざまな辞書で「無、亡也」とされている。「鵞」は「雁」と同源である。「鵞」は家鴨のことであり、「雁」は野生の鴨のことだともいう。また、鵞は東国の
方言であり、雁は南方の方言であるともいう。「忍」と「耐」も同源である。『一切經音義』には「耐、忍也」とあり、音義ともに近い。
○
入声音[-t]・[-k] は[-ng]、 [-m]・[-n] に転移することがある。
[-t・-ng] 界[keat]・ 境[kyang]、
界[keat]・ 疆[kiang]、 滅[miat]・ 亡[miuang]、
[-t・-m] 殺[sheat]・ 斬[tzheam]、
[-k・-n] 額[ngeak]・ 顔[ngean]、 暮[mak]・ 晩[miuan]、 幕[mak]・ 幔[muan]、 隙[khyak]・
間[kean]、
[-k・-m] 極[giək]・ 窮[giuəm]、
境界、滅亡、斬殺、幔幕、間隔、窮極などはいずれも、同源語を重ねた熟語である。「窮」と「極」とは同源である。『説文』では「窮、極也」としている。
「窮」は海の果てであり、「極」は地の果てであるともいう。また、中国語の古い注釈書には「亡、滅也」とある。日本語に借用された弥生音としては、つぎの
ようなものをあげることができる。
ほろぶ(滅・亡)、きわめる(極・窮)、
日本語の「ほろぶ」は中国語の滅[miat]
の語頭の[m-] が無声音の[p-] になり、韻尾の[-t] が朝鮮漢字音の影響で[-l]
になったものであろう。王力の『同源字典』は日本語には翻訳されていないが、白川静の『字通』で紹介され、かなり引用されているので、『字通』をみればその概要を知ることはできる。
中国語の韻母
は漢詩の押韻の研究などから、かなり古い音を復元できるようになったが、頭子音(声母)については、押韻は何の手がかりも与えてくれない。しかし、子音に
ついても調音の方法、調音の位置などを手がかりに、その音韻変化をたどることができる。次の紐表は、王力の『同源字典』によって古代中国語の声母を分類し
たものである。(『同源字典』p.18参照)
頭子音は調音の場所と調音の方法によって分類されている。調音の場所は口腔の奥から喉、牙(舌根)、舌、歯、脣の順になる。後口蓋、前口蓋と呼ばれることもある。調音の方法は塞音、鼻音、辺音、擦音がある。清音と濁音、送氣と不送氣などに下位区分されているものもある。
この表で横に並んでいる音は、調音の場所が同じで転移しやすい。また、縦に並んでいる音は調音の方法が同じで転移しやすい。王力は、この表で横に並んで
いるものを「旁紐」と呼び、縦に並んでいるものを「鄰紐」と呼んでいる。旁紐、鄰紐のことばには同源語が多い。王力によれば、つぎのことばは同源である。
○ 旁紐(調音の位置が同じ)
王力はつぎのような対語を旁紐であり、同源語であるとしている。
[牙音]
久[kiuə]・旧[giuə]、 高[kô]・ 喬[giô]、 剛[kang]・ 強[giang]、
國[kuək]・ 域[hiuk]、
乾[kan]・ 旱[han]、 頸[kieng]・ 茎[heng]、
曲[khiok]・ 局[giok]、 隙[khyak]・ 間[kean]、
寛[khuan]・ 広[kuang]、
恐[khiong]・ 兇[xiong]、 枯[kha]・ 涸[hak]、 掘[giuət]・ 搰[huət]、
花[xoa]・ 華[hoa]、 悔[xuə]・ 恨[hən]、 顕[xian]・ 現[hyan]、
[舌頭音] 党[tang]・ 徒[da]、
潮[diô]・ 朝[tiô]、 傳[diuan]・ 轉[tiuan]、
大[dat]・ 泰[that]、 疼[duəm]・ 痛[thong]、
涕[thyei]・ 涙[liuei]、
[舌面音] 肢[tjie]・ 翅[sjie]、 抒[djia]・ 舒[sjia]、 示[djiei]・
視[zjiei]、
神[djien]・ 䰠[sjien]、 侈[thjiai]・ 奢[sjia]、 深[sjiəm]・ 甚[zjiəm]、
[舌音] 州[tjiu]・ 島[tô]、 跳[dyô]・ 躍[jiôk]、
[正歯音] 事[dzhiə]・ 史[shiə]、
斬[zheam]・ 殺[sheat]、
[歯頭音] 走[tzo]・ 趨[tsio]、 清[tsieng]・ 浄[dzieng]、
揖[tziəp]・ 集[dziəp]、
此[tsie]・ 斯[sie]、 侵[tsiəm]・ 襲[ziəp]、 晶[tzieng]・
星[syeng]、
籍[dzyak]・ 席[zyak]、 昔[syak]・ 夕[zyak]、
[脣音] 報[pu]・ 復[biuk]、
分[piuən]・ 判[phuan]、 判[phuan]・ 別[biat]、
背[puək]・ 負[biu]、 & nbsp;伏[biuək]・
覆[phiuək]、 爆[peok]・ 暴[bok]、
間隔、悔恨、徒党、疼痛、鬼神、奢侈、深甚、跳躍、斬殺、清浄、判別、報復、などの熟語は、同源同義のことばを重ねた熟語である。これらのことばのなかにも、日本語のなかに取り入れられたと思われることばがある。
茎 (くき)、枯(かれる)、 涸(かれる)、寛(ひろい)、 広(ひろい)、掘(ほる)、
花(はな)、華(はな)、 跳(とぶ)、疼(いたむ)、 痛(いたむ)、示(しめす)、
止(とまる)、定(さだめ)、集(あつまる)、侵(せめる)、襲(おそふ)、星(ほし)、
報(むくいる)、伏(ふす)
茎(くき)は茎[heng]
の頭音がカ行で代替されたものである。涸(かれる)も涸[hak]が日本語ではカ行で代替されている。寛「ひろい」、広「ひろい」は寛[khuan]、広[kuang]
の頭音が調音の位置の近い[h] で代替されたものである。掘「ほる」も古代中国語の掘[giuən] の頭音が、調音の位置が近い[h-]
に転移したものであり、旁紐である。また、日本語の「はな」は中国語の花[xoa] または華[hoa]
と関係のあることばである。「はな」の「な」は朝鮮語で木あるいは植物をあらわす木(na mu) である可能性がある。
○ 隣紐(調音の方法が同じ)
王力はつぎのような対語を「隣紐」であり、同源語であるとしている。
[塞音] 影[yang]・ 景[kyang]、 翁[ong]・
公[kong]、
[擦音] 純[zjiuən]・ 粋[siuət]、
[鼻音] 耐[nə]・ 忍[njiən]、 乃[nə]・
而[njiə]、
[辺音] 遼[lyô]・ 遥[jiô]、 涙[liuei]・ 洟[jiei]、
[塞音・擦音]
(舌音)頭[do]・ 首[sjiu]、 杻[thiu]・ 手[sjiu]、 登[təng]・ 昇[sjiəng]、
撞[deong]・
鐘[tjiong]、 撞[deong]・ 衝[thjiong]、 撞[deong]・ 舂[sjiong]、
伸[sjien]・ 展[tian]、
深[sjiəm]・ 潭[dəm]、 畜[thiuk]・ 育[jiuk]、
(歯音)疏[shia]・ 粗[tsa]、 縮[shiuk]・
蹴[tziuk]、 掻[su]・ 爪[tzheu]、
薯[zjia]・ 山[shean]、 嵩[siong]・ 崇[dzhiuəm]、
率[shiuət]・ 遵[tziuən]、
(舌音・歯音)読[dok]・ 誦[ziong]、 處[thjia]・ 所[shia]、
統[thong]・ 総[tzong]、
是[zjie]・ 此[tsie]、 断[duan]・ 絶[dziuat]、 膳[zjian]・
饌[dzhiuan]、
痬[jiang]・ 痒[ziang]、 傷[sjiang]・ 瘡[tshiang]、 食[djik]・ 飼[ziə]、
屯[duən]・ 村[tsuən]、 順[djiuən]・ 馴[ziuən]、
[鼻音・辺音] 命[mieng]・ 令[lieng]、
麦[muək]・ 来[lə]、 勉[mian]・ 励[liat]、 耄[mô]・ 老[lu]、
[塞音・辺音] 陶[du]・ 窯[jiô]、
灘[than]・ 瀬[lat]、
[擦音・辺音] 夕[syak]・ 夜[jyak]、 昔[syak]・ 夜[jyak]、 象[ziang]・
豫[jia]、
純粋、忍耐、遼遥、伸展、総統、断絶、命令、勉励、耄老、陶窯などは、音義ともに近い同源語を重ねた熟語である。これらの漢字はある時代に、ある地方で同
じ発音で、同じ物をさしていたが、後に違う漢字を当てられるようになった可能性がある。漢字の発生は多元的であり、同じ事象あるいは概念をあらわす漢字が
異なった場所で、異なった書記者によって作られて、同義語になった可能性がある。発音の近い漢字には同源語が多い。日本語のなかにも、中国語と同源語だと
思われることばがある。
影・景(か げ)、翁・公(きみ)、 純・粋(すみ)、 耐・忍(たえる)、
杻・手(て)、 統・総(すめる)、
屯・村(たむろ)、断・絶(たえる)、
灘・瀬(なだ)、夜・夕(よる)、 令・命(みこと)、撞・衝・舂(つく)、
これらのことばは、日本漢字音が定着する以前の弥生時代、古墳時代に中国語から日本語のなかに入り、弥生音として定着したものである。
ことばはゆっくりとではあるが変わる。普通は誰も気がつかないような穏やかな速度で変化する。随唐の時代にあった入声音(-p、-t、-kで終る音)は元の時代に失われて、現代の北京語はない。むしろ、日本漢字音のほうが古い時代の中国語音を継承している。つぎの漢字音は[
]が古代中国語音を示し、その後に現代の北京音を示す。
例:北 [pək]- bei、赤[thjyak]-chi、 石[zjyak]-shi、
玉[ngiok]-yu、 特[dək]-te、徳[tək]-de、
作[tzak]-zuo、 借[tzyak]-jie、
祝[tjiuk]-zhu、 宿[siuk]-xiu、
鉄[thyet]-tie、 室[sjiet]-shi、
舌[djiat]-she、月[ngiuat]-yue、説[sjiuat]-shuo、
切[tsyet]-qie、七[tsiet]-qi、
屈[khiuət]-qu、脱[thuat]-tuo、
甲[keap]-jia、 狭[heap]-xia、 葉[jiap]-ye、
十[zjiəp]-shi、 合[həp]-he、吸[xiəp]-xi、集[dziəp]-ji
中国の古代音:日本語の弥生音、唐代の中国語音:日本の漢字音、それに現代北京音とを対比してみると、つぎのようになる。
古代中国語音:「弥生音」
唐代中国語音:「日本漢字音」 現代北京音
夜 [jyak] : 「よる」 /jya/ : 「ヤ」 ye
造 [dzuk] :「つくる」
/dzung/ : 「ゾウ」 zao
漬 [dziek] :「つける」 /dzie/ : 「ジ」・「シ」 zi
嗅 [thjiuk]
:「かぐ」 /hiəu/ : 「キュウ」 xiu
墓 [mak] : 「はか」 /mo/ : 「ボ」 mu
地 [diet] :
「つち」 /di/ : 「チ」 di
舌 [djiat] : 「した」 /dziet/ : 「ゼツ」 she
祭 [tziat]
: 「まつり」 /tsiei/ : 「サイ」 ji
擦 [tsheat] :「する」 /tshat/ : 「サツ」 ca
吸
[xiəp] : 「すふ」 /hiəp/ : 「キュウ」 xi
頬 [kyap] :「ほほ」 /kep/ : 「キョウ」 jia
「やまとことば」のなかには古代中国語音の痕跡を留めているものがあることがわかる。入声音ばかりでなく、[-n]、[-m]、[-ng] などの韻尾も変化する。古代中国語音の[-n]、[-m]
は現代北京語では(-n)に合流している。
古代中国語音:「弥生音」 唐代中国語音:「日本漢字音」 現代北京音
眠 [myen]
:「ねむる」 /mien/ :「ミン」 mian
稔 [njiəm] :「みのる」 /niəm/ :「ネン」 ren
侵
[tziəm] :「せめる」 /tshiəm/ :「シン」 qin
浸 [tsiəm] :「しみる」 /tsiəm/ :「シン」 jin
頸 [kieng] :「くび」 /kieng/ :「ケイ」 jing
茎 [heng] :「くき」 /heng/ :「ケイ」 jing
中 国語音は古代中国語音から唐代音へと変った。一方、借用語を受け入れた日本語のほうも、弥生音から日本漢字音へと変化した。中国語から日本語への借用音
は、中国語原音の変化と、日本語のなかの音韻変化と、両方の影響を受ける。中国語原音は一般に唐代中国語音を基準として考えられているが、弥生時代の借用
音については古代中国語音を基準にしないと、古代日本語の成立過程は解明することができない。
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