短歌を始める 

2015.8.13

 頭の体操の一つとして、俳句や短歌も始めることにしました。図書館で借りてきた 江田浩司著「60歳からの楽しい短歌入門」という本に、短歌と俳句の違いについての、とても分かりやすい説明を見つけましたので、少し長くなりますが、引用して、ご紹介します。

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 短歌と俳句の違いは、短歌が31音、俳句が17音の定型詩であるということは言うまでもありませんね。また、俳句には季語を入れて詠むことが原則になっていますが、短歌にはそのような約束事はありません。基本的には五七五七七の五句と31音で作ることさえ守っていれば、あとは自由に作ってもいいということです。その意味では、短歌は俳句よりも自由な発想が生かせる詩型のように思われます。

 しかし、短歌と俳句の作り方には決定的な違いがあり、その点を考慮すると、どちらがより自由な発想を生かして作品を作ることができるかは、にわかには決定しがたいといえるでしょう。

 短歌はどのような材料を使って作品を作る場合にも、ボールの壁打ちのように、投げたボールが自分(私)の手元に返ってくるように作るのが基本です。それは、自分の感動や衝撃、悲しみを、完結した一首の抒情世界として作り上げるための大切な約束です。何にどのように心を動かされたのか、短歌は基本的に、他者にも作者と同様の追体験ができる抒情世界を提示します。

 しかし、俳句の場合は投げたボールが必ずしも自分の手元に返ってくるように作るわけではありません。むしろ、表現の対象を自分(私)から切り離して描写し、素材そのものを提示する場合が多く見られます。俳句の場合は状況説明を極度に切り詰め、対象そのものを提示するのです。俳句は短歌よりも14音も言葉が少ないわけですから、それは当然の手法かもしれません。しかし、俳句はそのことによって、投げたボールの受け手である「私」の存在は希薄になります。

 つまり、短歌が「私」を中心にした濃厚な叙情性を発揮するのに対して、俳句は基本的に「季語」を中心に構成され、感動の在りかを読み手に委ねる余地が大きいということです。

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 このあと、いくつかの作品を例に具体的な説明が続きますので、興味のあるかたは、是非、原書をお読みください。

2015.8.13

いにしえの聖徳太子も読みしといふ般若心経われも読み初む
いにしえの聖徳太子も読んだという般若心経を私も読み初める

 親父の三回忌が近づいてきたので、お寺で読経される般若心経の言葉の意味を調べてみました。色即是空 空即是色 と空の思想を詠いあげるこのお経は難解です。日本に仏教が伝来した当初から、日本人はこのお経と付き合ってきました。聖徳太子も、このお経を読んだというではありませんか。日本の昔からの名だたる人たちが読み学んできたお経を、私も勉強しているのだという感動を詠んでみました。

補記(2015.8.15)  般若心経を読んだ最も古い人の代表として聖徳太子の名をあげたのですが、出典を忘れてしまいました。聖徳太子は、玄奘三蔵よりも少し前の人ですので、玄奘訳は読んでいないと思いますが、鳩羅摩什訳の般若心経には触れることができたと推測されているようです。

 

 

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