江田浩司 60歳からの楽しい短歌入門 (2007) |
2015.9.26 更新2017.4.13
図書館でこの本にめぐり合いました。これから短歌をはじめようとする人達に最適な入門書と思います。
この本はタイトルをかえて 「今日から始める楽しい短歌入門 (2013)」 として再出版されています。
「今日から始める」シリーズには、俳句や川柳もあり、どれからでも始められます。
以下に、江田さんの紹介する短歌の世界を簡単に紹介します。是非、原著を購入して、短歌を始めてください。
さあ、これから現代短歌の世界にご案内します。
日本の最も歴史のある詩型である短歌は、いつの時代も人々の生活とともにありました。
喜びも悲しみも短歌とともにあったといっても過言ではありません。
短歌は、五七五七七の31音に自分の感情を託して表現する詩型です。
短歌はよく「私」の文学などと言われますが、それは短歌が自分の感情を託す表現としてすぐれた働きを持った詩型であるからです。
(中略)
短歌を作ることの喜びは、もちろん自分を表現することの喜びもありますが、表現された言葉から自己を再発見することにもあると思います。
また、悲しいことを言葉にすることで心が癒され、喜びを表現することで喜びに形を与えることもできます。
短歌は古くは和歌(倭歌)と呼ばれていました。
日本最古の歌集「万葉集」(770年〜780年頃成立か)にすでに和歌という言葉が見られます。
もともと和歌には短歌・長歌・旋頭歌(せどうか)・片歌(かたうた)などの詩型がありました。
しかし、奈良・平安時代から短歌が和歌の主流を占めるようになります。
特に最初の勅撰和歌集「古今和歌集」(905年成立)以後は、短歌のことを和歌というようになりました。
それを改めて短歌と呼ぶようになったのは、正岡子規と与謝野鉄幹による近代の「短歌革新」運動によるものです。
また、和歌が「漢詩」に対して「日本の歌」という意味で用いられ始めたのは、平安時代初頭からであると言われています。
(中略)
明治時代の中期になると、短歌の古い作風を革新しようという気運が高まってきます。
その先頭に立って短歌の革新を行ったのが、落合直文・佐々木信綱・正岡子規・与謝野鉄幹らの歌人たちです。
その中でも特に正岡子規が説いた「写生」という作歌の方法は、多くの歌人に支持されました。
子規の「写生」は西洋絵画の写実の方法を子規流に解釈したもので、「対象をありのままに写し取る」というものでした。
また、それまで重んじられていた『古今和歌集』を否定して、『万葉集』を称揚しました。
子規を継承する弟子の伊藤左千夫らは、1908年(明治41年)に雑誌アララギを創刊し、子規の短歌革新の意味をいっそう深めていきます。
伊藤左千夫以後、アララギの中心にあった歌人は、島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明ですが、この三人の歌人たちは、大正から昭和にかけてアララギを歌壇に君臨する最も勢力のある結社に作り上げます。
そして、この「写生」という方法は、現在でも短歌を作るときの中心的な方法になっています。
一方、与謝野鉄幹は1899年(明治32年)に東京新詩社を結成して、翌年には雑誌「明星」を創刊します。
「明星」は感情・主観・個性などを重んじた「浪漫主義」の歌風を主張した雑誌です。その意味では、子規の主張した「写生」とは対照的でした。
「明星」からは、鉄幹の妻である与謝野晶子をはじめ、石川啄木・北原白秋・窪田空穂(うつほ)などすぐれた歌人が輩出しました。
しかし、その後多くの有力歌人の離反により、アララギのような勢力を保つことができないまま、1908年(明治41年)、第一次「明星」が100号をもって廃刊します。
(中略)
現代短歌には、口語と文語の短歌が両立しています。今後もこの傾向は続いていくと思います。
千数百年の歴史を持つ短歌は、口語と文語の両立する豊穣な時代を迎えているのです。
短歌と俳句の違いは、短歌が31音、俳句が17音の定型詩であるということは言うまでもありませんね。
また、俳句には季語を入れて詠むことが原則になっていますが、短歌にはそのような約束事はありません。
基本的には五七五七七の五句と31音で作ることさえ守っていれば、あとは自由に作ってもいいということです。
その意味では、短歌は俳句よりも自由な発想が生かせる詩型のように思われます。
しかし、短歌と俳句の作り方には決定的な違いがあり、その点を考慮すると、どちらがより自由な発想を生かして作品を作ることができるかは、にわかには決定しがたいといえるでしょう。
短歌はどのような材料を使って作品を作る場合にも、ボールの壁打ちのように、投げたボールが自分(私)の手元に返ってくるように作るのが基本です。
それは、自分の感動や衝撃、悲しみを、完結した一首の抒情世界として作り上げるための大切な約束です。
何にどのように心を動かされたのか、短歌は基本的に、他者にも作者と同様の追体験ができる抒情世界を提示します。
しかし、俳句の場合は投げたボールが必ずしも自分の手元に返ってくるように作るわけではありません。
むしろ、表現の対象を自分(私)から切り離して描写し、素材そのものを提示する場合が多く見られます。
俳句の場合は状況説明を極度に切り詰め、対象そのものを提示するのです。
俳句は短歌よりも14音も言葉が少ないわけですから、それは当然の手法かもしれません。
しかし、俳句はそのことによって、投げたボールの受け手である「私」の存在は希薄になります。
つまり、短歌が「私」を中心にした濃厚な叙情性を発揮するのに対して、俳句は基本的に「季語」を中心に構成され、感動の在りかを読み手に委ねる余地が大きいということです。
そのことを次の作品によって確認してみたいと思います。
海を知らぬ 少女の前に 麦藁帽の われは両手を ひろげていたり 「初期歌篇」
夏井戸や 故郷の少女は 海知らず 「花粉航海」
どちらも、寺山修の作品です。俳句が先に作られ、その俳句をベースにして短歌が後から作られています。
短歌のほうは、まだ海を見たことのない少女に、麦藁帽の「私」が両手を精一杯に広げて、「海ってこんなに大きいんだよ」と一生懸命に示している歌です。
(中略)
作者の思いが直接伝わってきて、読者の心を揺さぶる清新で叙情性の豊かな青春歌ですね。
俳句は、故郷の少女が海を知らないということを提示しているだけです。そして、この俳句から作者の深い思いを読み取ることはなかなか容易ではありません。
(中略)
それでは、この俳句が短歌とは違った詩として成立している最大のポイントは何でしょうか。
言うまでもありません。季語である「夏井戸」です。
詳しい鑑賞は省略しますが、「夏井戸」という季語が、この俳句の世界を成立させているのです。
江田さんは、このあと、季語である「夏井戸」と海を知らない「故郷の少女」との取り合わせは、一見何も関係がないが、
「夏井戸」の持つ質感を中心に、海を知らない「故郷の少女」との二物の衝撃が、この俳句を成立させていると、解説しておられます。
この本には、ほかにもたくさんの短歌が紹介されています。自分の短歌をつくることから初めてもいいですが、
先人達の詠んだ作品を味わい、舌をこやすことも大切ですね。
2015.11.20 更新2017.4.13
この本の第1章でとりあげられている歌人は以下のとおりです。生年と没年をつけました。すべて文語の歌人です。
本では、代表歌を示して、詳細な解説がなされていますが、
ここでは、取り上げられた歌の一部について、元歌
と 私なりの現代語訳 と 説明
をつけておきます。
後半分は、まだ、おざなりの翻訳です。ゆっくり直していきます。
●正岡子規 1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日 34歳
久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽きぬかも
アメリカ人の始めたベースボールは、見ても飽きないなあ
説明 「久方の」は、「天、空、雨、月、星」など天に関係のある言葉に係る枕詞で、訳しません。
ここでは、アメリカの「アメ」にかけるというユーモア心を示しています。
「はじめにし」は、動詞「始む」の連用形「始め」に、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」に、過去の助動詞「き」の連体形「し」がつながって、始めてしまった、ないしは、単に、始めたという意味になります。
人丸の のちの歌よみは 誰かあらん 征夷大将軍 みなもとの実朝
(柿本)人麿の後の歌よみは、誰かあるだろうか。征夷大将軍
源実朝。
くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
紅色の ニ尺伸びた 薔薇の芽の 針がやわらかく 春雨が降る
●佐々木信綱 1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日 91歳
ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲
ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上にあるひとひらの雲よ
ありがたし 今日の一日(ひとひ)も わが命 めぐみたまへり 天(あめ)と地(つち)と人と
ありがたい。今日の一日も、我が命を恵んでくれた 天と地と人と。
●太田水穂 1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日 78歳
われ行けば われに随(つ)き来る 瀬の音の 寂しき山を ひとり越えゆく
私が行くと私について来る瀬の音が寂しい山を 独りで越えて行く
雲ひとひら 月の光を さへぎるは しら鷺よりも さやけかりける
雲が一枚(ひとひら) 月の光をさえぎるのは 白鷺よりも さやかだなあ
説明 形容詞「清(さや)けし」は、(1)
はっきりしている、明るい、(2)
清い、すがすがしい、という意味です。
形容動詞「さやかなり」から出来た言葉で、はっきりした音やくっきりした輪郭についていうのが、もともとの意味で、
そこから、清い、すがすがしい気持ちを表すようになりました。
もの忘れ またうちわすれ かくしつつ 生命(いのち)をさへや 明日は忘れむ
もの忘れし、また打ち忘れたことを、隠しつつ、命をさえも、明日は忘れてしまうのかな
●窪田空穂 1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日 89歳
鉦(かね)鳴らし 信濃の国を 行き行かば ありしながらの 母見るらむか
巡礼の鐘を鳴らして 信濃の国を 行き行くと 在りしながらの 母を見るでしょうか
沸きいづる 泉の水の 盛りあがり くづるとすれや なほ盛りあがる
湧き出している泉の水の盛り上がりは くずれようとするのか いやなお盛り上がる
説明 終助詞「や」は、問いかけ、もしくは反語を表します。
●与謝野晶子 1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日 63歳
やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
柔肌の熱い血潮にふれもみないで、さびしくないのか、道を説くあなた
金色(こんじき)の ちひさき鳥の かたちして 銀杏(いてふ)ちるなり 夕日の岡に
金色の小さな鳥の形をして 銀杏が散ります 夕日の丘に
●斎藤茂吉 1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日 70歳
死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはず 天に聞こゆる
死に近い母の添い寝の しんしんと 遠田の蛙 天に聞こえる
説明 「しんしん」は、ひっそりと静まりかえっているさまを表現しますので、周囲一面遠くから蛙が鳴いているのがかすかに聞こえるのでしょうか、それとも、しんしんと冷えるのように、身にしみるさまを表すのでしょうか、それとも、森森と のように茂ってにぎやかなさまを表すのでしょうか。
草づたふ 朝の蛍よ みじかかる われのいのちを 死なしむなゆめ
草をつたう朝の蛍よ 短い私の命を 決して死なせるなよ
説明 「みじかかる」は形容詞「短し」の連体形です。「死なしむ」は、死なせるです。
最後の「ゆめ」は、強い禁止・打消しを表す「ゆめ死なしむな」の倒置表現です。現代でも「ゆめ知らず」の使い方は生き残っています。
●前田夕暮 1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日 67歳
魂よ いづくへ行くや 見のこしし うら若き日の 夢に別れて
魂よ、どこへ行くのか。見残した、うら若き日の夢と別れて。
向日葵は 金の油を 身にあびて ゆらりと高し 日のちひささよ
向日葵は金色の油をあびて、ゆらりと高い。太陽の小ささよ。
●北原白秋 1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日 57歳
春の鳥 な鳴きそ鳴きそ あかあかと 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕べ
春の鳥よ 鳴くな鳴くな。 赤々と水面の草に 日の光が入る夕べ
幽かなれば 人に知らゆな 雀の巣 雀ゐるとは 人に知らゆな
幽かなので 人に知られるな 雀の巣よ。雀がいるとは人に知られるな。
説明 「知らゆな」の「ゆ」は、助動詞で、自発・受身・可能の意味を持ちますので、ここでは、知られるなの意となります。
●若山牧水 1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日 43歳
白鳥(しらとり)は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
白鳥は哀しくないのか。 空の青にも 海の青にも 染まらず漂う
幾山河(いくやまかは) 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
幾つもの山河を越え去り行けば 寂しさが 果ててしまう国よ。今日も旅ゆく。
説明 「終てなむ国」の「なむ」は、係助詞、終助詞の「なむ」ではなく、確述の助動詞「ぬ」の未然形「な」に、推量・意志の助動詞「む」の連体形「む」が合わさったものであり、きっと果ててしまうであろう国という意味になります。
語句が足りないので、超え去り行くことと、果てなむ国との関係が不明確なのですが、
果てなむ国を求めて、幾山河を超え去り行っていて、今日も旅していると解釈する人が多数のようです。
●釈迢空 1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日 65歳 折口信夫(おりくち しのぶ)
葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を 行きし人あり
葛の花が踏みしだかれていて、色が新しい。この山道を通った人がいる。
人も 馬も 道ゆきつかれ 死ににけり。旅寝かさなる ほどのかそけさ
人も、馬も、道を行く疲れ、死んでしまいました。旅寝がかさなるほどのかすかさ。
説明 「かそけさ」は、消えてしまいそうなかすかさの意味です。
●土屋文明 1890年(明治23年)9月18日 (戸籍上は1月21日) - 1990年(平成2年)12月8日
この三朝 あさなあさなを よそほひし 睡蓮の花 今朝はひらかず
この三朝、毎朝を装った睡蓮の花が今朝は開かない
さまざまの 七十年すごし 今は見る 最もうつくしき 汝(なれ)を柩に
様々な七十年をすごして、今は見ます、最も美しいあなたを柩に
●前川佐美雄 1903年(明治36年)2月5日 - 1990年
春がすみ いよよ濃くなる 間昼間の なにも見えねば 大和と思へ
春霞がいよいよ濃くなる間昼間に、何も見えなければ大和と思え
●斎藤史 1909年(明治42年)2月14日 - 2002年(平成14年)5月26日 93歳
ひつそりと 馬は老いつつ 佇(た)ちてゐき からだ大きければ いよいよ悲し
ひっそりと馬は老いつつ佇んで行き、からだが大きいのでいよいよ悲しい
●佐藤佐太郎 1909年(明治42年)11月13日 - 1987年(昭和62年)8月8日 77歳
連結を はなれし貨車が やすやすと 走りつつ行く 線路の上を
連結を離れた貨車が、やすやすと走りながら進む、線路の上を
●宮 柊二 1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日 74歳
大雪山の 老いたる狐 毛の白く 変わりてひとり 径を行くとふ
大雪山の老いた狐が、毛が白く変わって、独り道を行くという
●近藤芳美 1913年(大正2年)5月5日 - 2006年6月21日 93歳
世をあげし 思想の中に まもり来て 今こそ戦争 憎む心よ
世をあげた思想の中に、守り来て、今こそ戦争を憎むこころよ
●塚本邦雄 1920年(大正9年)8月7日 - 2005年6月9日 84歳
馬を洗はば 馬のたましひ 冱ゆるまで 人恋はば 人あやむるこころ
馬を洗うなら馬の魂が冴えるまで、人を恋するなら、人を殺める心
●前登志夫 1926年(大正15年)1月1日 - 2008年(平成20年)4月5日) 82歳
かなしみは 明るさゆゑに きたりけり 一本の樹の 翳(かげ)らひにけり
悲しみは明るさの故に来たのだった。一本の樹が翳ったのでした。
●岡井 隆 1928年(昭和3年)1月5日 -
死といふは 他者の死つねに わが生を 確かならしめて 死こそ賑やか
死というものは、他者の死がつねに私のせいを確かならしめて、死こそ賑やか
●馬場あき子 1928年(昭和3年)1月28日 -
水ぎはは いかなるものぞ 小次郎も 武蔵にやぶれ たりし水きは
水際は、いかなるものか。小次郎も武蔵に敗れてしまった水際。
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