瀬戸内寂聴 源氏物語 巻1 (2001) 

2020.4.21

 源氏物語は、いろんな人が現代語に翻訳されていますが、私には、

一番かどうかはわかりませんが、瀬戸内さんの訳が、読みやすく、分かりやすい、素晴らしい訳だと思います。

 瀬戸内さんは、1996年から98年にかけて、講談社から、「現代語訳源氏物語」全10巻を出版し、

2001年から02年にかけて『源氏物語(新装版)』を出版し、

この新装版を底本として、2007年に講談社文庫本版が出版されました。私が持っているのも、これです。

  さて、源氏物語(新装版)には、著者から「新しい読者のために」という語りかけがありましたが、

文庫本版ではカットされました。文庫版所有者のために、一部を、ご紹介します。

 源氏物語の現代語訳を完了してから、早くも三年が経つ。

その三年間に、日本全国はおろか、海外にまで空前の源氏ブームが沸きおこった。

信じられないほどのこの源氏ブームに、訳者の私は呆然として思いがけない喜びに包まれている。

(中略)

 今度、新装版として、前より廉価で、若い人々にも手に入り易い本になって世に出ることはたいそう嬉しい。

学生さんにも、この本なら入手していただけるだろう。

 一人でも多くの人が、源氏物語になじんで下さることを心から祈っている。

 

 紫式部日記の1008年12月1日の条に、源氏物語の記述があることを根拠として、

2008年に、源氏物語千年紀として、記念事業が開催されることに合わせて、文庫本版も出版され

さらに廉価に入手できるようになりましたが、全十冊なのでそれなりの金額です。

 しかし、電子書籍を厭わない方であれば、全十冊の超合本版が、キンドルでは、4620円とさらに廉価です。

キンドル版の利点は、本文に、巻末の語句解釈へのリンクがあることです。

 文庫本版では、本文になんの印もないため、巻末にせっかく語句解釈があるのに、利用し難くなっているのが残念です。

 

 巻一は、一帖 桐壺、二帖 帚木、、三帖 空蝉、四帖 夕顔、五帖 若紫、の五帖です。

巻末に、源氏のしおり と題する、訳者解説があります。

最初に源氏物語全体に関する解説がありますので、少し紹介します。

 「源氏物語」は、日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長篇の大恋愛小説である。

(中略)

 一帖ごとに帖名をたてた全五十四帖は、「桐壺」の帖から「夢浮橋」まで、

現代の四百字詰原稿用紙では、大方四千枚に達する量である。

登場人物の数も四百三十人に及んでいる。

(中略)

 紫式部がなぜこんな大作を書き残すことが出来たのか。

それはひとえに彼女に天賦の文学的才能が恵まれていたからである。

さらにその才能を研鑽する努力が払われ、それを可能にする境遇が具わっていたからであろう。

(中略)

 おそらく紫式部は、この未婚時代から、あるいは十三、四歳から、もう物語に筆を染めていたのではないだろうか。

紫式部ほどの天才は、早熟と決まっていて、そうした才能は、早々と芽を出すものだからである。

 三田誠広さんの「源氏物語を反体制文学として読んでみる」を読んで、

紫式部は、時の左大臣 源雅信土御門邸の近くに住んでいて、小さい頃から、左大臣家に出入りして、

そこに仕える女房達のために、源氏物語の「若紫」の帖くらいからお話をつくり始めていたところ、

その左大臣家に、実力者になる前の藤原道長が、入り婿としてやってきたという

奇跡のようなことが起こったことを知りました。

 

 年表を作ってみますと

970-978年 紫式部生まれる

     紫式部の家は、左大臣源雅信の土御門邸の斜め向かいにあり、

     雅信の正室穆子(あつこ)は、紫式部の父の姉という関係から、

     土御門邸には、子供の頃から出入りしていた可能性がある。

     雅信の娘 倫子 (964-1053) は、天皇の后にはなれず、母 穆子の強い勧めで、道長と結婚する。

987年 藤原道長(22歳)が入り婿となる その際に、倫子(24歳)付きの女房として紫式部が出仕した可能性がある

990年 定子 入内

993年 清少納言 定子に仕える

995年 彰子 入内

997年 定子 第一子・脩子内親王を出産

998年 紫式部 山城守・藤原宣孝と結婚

999年 定子 第一皇子・敦康親王を出産

999年 紫式部 一女・藤原賢子(大弐三位)を産む

1000年 彰子 中宮となる  『栄花物語』で「かかやく藤壺」と称される

1000年 定子 第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御

  媄子内親王は、東三条院詮子が、脩子内親王・敦康親王は、定子の末妹御匣殿が養育
  詮子、御匣殿が相次いで死去
  敦康親王は、継母の彰子が、両内親王は母后の実家で養育

  敦康親王を引き取った彰子の局は、藤壺(飛香舎)。清少納言も従った可能性あり

1001年5月10日 紫式部 宣孝と死別した

1006年1月31日or1007年1月20日より、紫式部 彰子の女房兼家庭教師役として仕える

1008年 彰子 土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産

1009年 彰子 敦良親王(後朱雀天皇)を産む

 歴史に残る結構重大な出来事が、紫式部の周辺で起きていたことがわかります。

 

 

     

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