三田誠広 源氏物語を反体制文学として読んでみる (2018) |
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2020.1.22
最近、三田誠広さんの本をいくつか読んでいるので、順番に紹介したいと考えています。
まず、この本です。藤原氏が全盛の頃、紫式部が、源氏物語という本を書いて、
それを藤原道長は、何故擁護するのかということは、大きな不思議でした。
三田さんの調査では、紫式部と藤原道長は、道長が出世する前のかなり若い頃からの知り合いだったそうです。
紫式部は、父が、藤原為時で、家の斜め向かいに、左大臣の源雅信(まさざね)の土御門殿という大邸宅がありました。
そこにも大勢の女房が仕えていて、宮中と同様の呼び名が用いられていたそうです。
左大臣 源雅信の正室の藤原穆子(あつこ)は、父の藤原為時の姉という親戚関係なので、
紫式部も、子供の頃から、土御門殿に出入りしていたと考えられ、
そこで、物語作家としての才能を開花させ、源氏物語を書き始めたのではないかと推測されます。
源氏物語は、『若紫』の巻が最初に書かれたのではないかといわれていますが、
これは、伊勢物語の冒頭の、元服したばかりの若者が、奈良の春日の里で狩りをしていて、麗しい姉妹を見かけ、
和紙の用意がなかったので、狩衣の裾を切って、和歌をしたためるという話と、符合しています。
春日野の 若紫の すり衣 しのぶのみだれ 限り知られず
(春日野の若紫色に摺り染めしたこの狩衣のしのぶ摺りのように、私のしのぶ心の乱れは計り知れません)
この歌は、百人一首の河原左大臣 (源融) の歌を踏まえています。
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
(陸奥の信夫の捩摺(もぢずり)模様は、誰のせいで乱れているのか、乱れはじめた私のせいではない、(すべてあなたのせいなのに))
『若紫』の巻で、病を得た貴公子が山寺を訪ねて美貌の少女を見かけるくだりを聞きながら、
土御門殿の女房達は、『伊勢物語』を連想し、この巻は、『若紫』とよばれ、ヒロインは、紫の上と呼ばれます。
当時、藤式部と呼ばれていた紫式部は、いつしか、紫式部と呼ばれるようになったと考えられます。
さて、この貴公子は、源氏のヒーローなのですが、当時、土御門殿には、ヒーローというべき妙齢の男子はいませんでした。
ところが、藤原道長が、入り婿 として土御門殿にやってきたのです。
道長は、摂政の藤原兼家の三男に生れますが、長男は道隆、次男は道兼です。
兼家は、長男の道隆と、次男の道兼を優遇して、官職を与えたため、傍流の藤原一族からも批判を受けます。
兼家は、娘の詮子を、円融天皇の女御とし、詮子は、一条天皇を産みますが、父の兼家を信用できず、
左大臣の源雅信を味方にし、源雅信の娘、倫子(ともこ)が、婚期を逸していたため、弟の道長を入り婿とします。
兼家が62歳で病没し、38歳の道隆が後を継ぎますが、道隆も、43歳で病没し、その数日後に、道兼も病没します。
そして、道隆の嫡男、伊周との権力争いを制して、道長の時代となります。
道長が国司の任免権を掌握した直後、紫式部の父の藤原為時が、淡路守に任じられましたが、
道長が一条天皇のもとに参内して、越前守に決まっていた源国盛と、為時の職務を交換させました。
紫式部は、越前に同行しますが、一年余の滞在の後、単身で帰京します。
遠縁の藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためですが、父 為時のいない邸宅に通ってきたのは、
夫の宣孝ではなく、道長ではないかと三田さんは、推測します。
紫式部は、まもなく懐妊して、女児を産みます。
小倉百人一首で、大弐三位と表記されている藤原賢子(かたこ)です。
賢子は、道長の正室 倫子の四女で、後朱雀天皇に入内し御冷泉天皇を産んだ嬉子(よしこ)の乳母となり、
出産の後亡くなった嬉子の代わりに、皇子の養育にもあたったと思われます。
御冷泉天皇が即位したときに、従三位となりますが、受領クラスの娘としては異例の待遇なので、
賢子は、幼少の頃から摂関家の後見を受けていたとも考えられます。
賢子の生まれた999年、道長の娘の彰子が12歳で入内します。
一条天皇は、あいかわらず定子を溺愛していますが、1001年、定子が難産で亡くなります。
定子の同母妹で、定子に瓜二つの御匣殿(みくしげどの)が、遺児の世話をします。
一条天皇は、御匣殿を寵愛し、御匣殿が懐妊するのですが、1002年に、難産で命を落とします。
道長は、遺児達の後見を申し出、その世話を彰子の女房達が務めます。
15歳の彰子も、ままごとのような母代わりをつとめます。
そして、紫式部も出仕します。おりしも内裏に火災があり、東三条院、そして、一条院が内裏裏となり、
出入りの自由があることから、紫式部も出仕を決断したと思われます。
彰子のそばには、赤染衛門がいて、紫式部に加えて、和泉式部や、伊勢大輔も送り込みます。
この戦略は見事に当たり、一条天皇は、彰子のもとに通うようになり、
1008年、21歳の彰子は、のちの後一条天皇を産むことになります。
さて、紫式部日記の初めの方に、早朝に紫式部が渡殿から庭園を眺めていると、
道長が近づいてくる場面が描かれています。二人は和歌を交わします。
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明かしたるつとめて、
夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞ 真木(まき)の戸ぐちに たたきわびつる
返し
ただならじとばかりたたく水鶏(くいな)ゆへ あけてはいかにくやしからまし
渡殿の部屋で寝ていた夜、戸を叩く人がいると聞いたけれど、おそろしさに、返事もせず夜を明かしたその翌朝、
一晩中、クイナよりも一層鳴きましたよ、真木の戸口で、叩きあぐねましたよ
返歌 ただごとではないとばかりに叩くクイナなので、開けたらさぞ後悔したことでしょう
三田さんは、道長と紫式部が、長く交際を続けた深い関係にあることが明らかに示されていると指摘します。
さて、第3章 摂関家の権威と専横 のところで、三田さんは、こう語ります。
注目しなければならないのは、『源氏物語』が書かれたのが、
藤原道長の父 兼家が摂政となり、絶対的な権勢を確立した時代だったということだ。
わたしが『源氏物語』を「反体制文学」と呼ぶ時の、「体制」というのは、
この兼家が確立した摂関政治の黄金期の体制を指している。
そこにはまだ、道長は登場していない。
しかし道長が歩んだ道は、すでに父の兼家によって開拓されていたのだ。
道長は父が敷いたレールの上を粛々と進んでいったにすぎない。
この「粛々と」というところが、道長の特色かもしれない。
雌伏の時期が長かったせいもあって、兼家の権力志向はあからさまで強引なものだった。
そのため摂関家そのものに対する批判が蔓延することになった。
源氏一族はもとより、傍流の藤原一族の間にも、批判と怨念がくすぶり始めていた。
道長はそういう父の轍は踏まず、傍流の文官たちを自分の味方に引き込むことによって、
徐々に盤石の体制を築き上げていった。
紫式部が源氏物語を書いたとき、まわりでは、このようなことが起こっていたのです。
紙も墨も高価だった時代に、源氏物語という超大作が書きあげられたのは、本当に奇跡のようなことです。
日本文学の宝として、今後ともながく、読み続けられていくことを期待したいです。
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