角田光代 源氏物語 上 (2017)  

2019.9.6

 角田さん翻訳の源氏物語が、日本文学全集で出版されたいきさつについては、

池澤夏樹、文学全集を編む (2017) にまとめました。

 源氏物語 上 には、桐壺から、少女(おとめ) までの、21帖が含まれています。

 巻末に、訳者あとがき と、藤原克己さんの解題、池澤夏樹さんの解説 があります。

 訳者あとがき には、生命を持つ物語 と、タイトルがついています。

 最初に、この翻訳を行うにあたって、何を重要視したかの説明があります。

 一つは、読みやすさ です。

 源氏物語 全編を読むには、「読むぞ」という覚悟が必要で、なんとなく受験勉強臭がするのですが、

部分だけでなく、全体を長編小説として読んで初めて浮かび上がってくるものがあります。

それをつかまえるには、ある程度短期間でワーッと読まないといけないのではないか。

つまり何年もかけて丹念に読むのではなくて

(そういう読み方にはそういう読み方でしか得られないものがある一方で)、

物語世界を駆け抜けるみたいに読んだほうが、つかまえやすいものもきっとある。

そんなふうに考えて、読みやすさをまず優先した。

 読みやすさの次に私が考えたのは、作者の声のことだ。

自分が書いたものではない小説を、自分の言葉に置き換えるとき、

できるだけ私はそこから聞こえてくる声に文章を合わせようと思っている。

今回も、作者の声に耳をすませて、それに忠実に書きたいと思った。

驚いたのは「帚木」で早くも作者の声が聞こえた(と錯覚できた) ことである。

この作者は、ときどきこちらが恥ずかしくなるほど調子に乗るし、かと思うと取り澄まして見せる。

容赦なく女をこき下ろす残酷さもあるが、ぺろりと舌を出すようなチャーミングさもある。

物語を遠くに置きながら、我慢しきれなくなってひょいと顔を出す。

男について、女について、男女の仲について、この作者には思うところが山とあったのだろうと、

ときどき饒舌になるその声に耳を傾けながら思った。

(中略)

 小説を書くようになって25年が過ぎたとき、私は「小説の力」というものをふいに実感したことがある。

作者がどれほど精魂こめて小説を書いても、小説にそそぐことのできる力は百が限度だ。

その百に到達するのだってうんざりするくらい難しい。

でもときどき、小説は百以上、つまり書き手が与える以上の力を突然持つことがある。

かなしいことに、その力については書き手はどうにもコントロールできない。

作者の手を離れた小説が、それ自体で動くのだ。生きもののように。意思を持ったかのように。

 上巻はまだ物語の三分の一だが、その三分の一で私ははっきりと実感した。

『源氏物語』は、そういった小説の最たるものだ。

作者の意図をはるかに超えて、勝手に力を蓄え、時代とともにその力を失うばかりか

どんどんひとりでに蓄え続けていく、化けもののような物語だ。

 この化けものがどこにいくのか、ぜひ、私といっしょに見守ってほしいと思います。

 

解題 藤原克己

●『源氏物語』の成立

●紫式部の生涯

●紫式部と漢文学

●『源氏物語』全体の攻勢

文人政治家光源氏の誕生 (桐壺巻・その1)

藤壺の宮との宿命的な恋 (桐壺巻・その2)

帝・左大臣・光源氏体制の成立 (桐壺巻・その3)

「中の品」の論に見られる上達部の没落と受領の台頭 (帚木・その1)

帚木三帖の女君たち−夕顔・空蝉・六条御息所

紫の上との出会い (若紫巻)

葎(むぐら)の門の物語のパロディなこめられた受領批判 (末摘花巻と蓬生巻)

紅葉賀巻から葵巻までの流れ

光源氏の不遇時代と人々の心 (賢木巻〜蓬生巻・関屋巻)

藤壺の家出 (賢木巻)

秋好中宮

漢才と大和魂 (少女巻)

 

 

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