浄土三部経  

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2020.2.7

 日本では、「南無妙法蓮華経」というお題目に加えて、「南無阿弥陀仏」というお念仏も、親しまれていますが、

 この阿弥陀信仰を支えるのが、浄土三部経です。

 浄土三部経は、『無量寿経』 または『大無量寿経』と、『阿弥陀経』と、 『観無量寿経』とからなり、

それぞれ、大経、小経、観経と呼ばれています。

 無量寿経では、阿弥陀さまが、生けるものを救うために四十八願を発し、それを完成して、仏となり

西方に極楽浄土を建立したと説かれていて、

極楽に往生するためには、阿弥陀さまを信じ、十念すればよいと説かれています。

 阿弥陀経でも、阿弥陀さまと極楽のすばらしさが説かれていて、

極楽に往生するためには、阿弥陀さまの教えに耳を傾け、一心不乱に仏の名を心に保ちなさいと、説かれています。

 

 阿弥陀経の方が、短いので、ひとまず、阿弥陀経の頁を作成しました。

   https://think0298.stars.ne.jp/amida_kyou.html

 今、順次、無量寿経の頁を作成中です。

 

 鎌倉の大仏は、浄土宗高徳院のご本尊で、阿弥陀さまです。

何度かお参りに行きましたが、阿弥陀さまの教えは、何なのか、ちゃんと勉強したいと思っています。

2020.2.10

 浄土三部経については、つばめ堂通信 さんのサイトに、詳しい解説があります。

     http://tubamedou.egoism.jp/Joudo/Joudo00.htm

 この頁の、<序にかえて>と<あとがき> に書かれている解説は、本当にためになりますので、

是非、ご一読を、お勧めします

 ただ、淡々とメリハリ無く書かれていますので、以下に、少し、表示形式を替えて引用します。

著者の承諾を得ていませんので、引用等される場合は、元本を、お使いください。

< 序に代えて >

 インドで紀元前1〜2世紀頃に発達した大乗仏教は、4〜5世紀に入ると急速に変貌します。

 菩薩の荷うべき六波羅蜜が、理想的ではあるが非現実的であるととらえられて、もっと手軽に仏に成る方法が模索されたのです。

 般若波羅蜜という智慧は、遥か遠くに忘れ去られてしまい、大乗はかつての小乗のごとく、またしても空理空論にとらえられてしまいました。

 そこでは、もはや六波羅蜜を実践することなど誰も顧みようとは致しません

 小乗の時代から仏教は、バラモン教の哲学に強く影響を与えてきましたが、

今では行き詰まりの打開を急ぐ仏教が、逆にバラモン教の影響を受けることになりました。

 『一切は心が造りだす』と考える唯識派は、もともとバラモン教のサーンキヤ学派の影響を強く受けていただけに、

ここにまたしてもヨーガ学派の影響を受けることになり、

瑜伽行(ゆがぎょう)唯識派と変質して仏教界を主導するようになります。

 この二つの教えが出会えば、当然起こりうることが、そのまま起こりました。

心を鍛錬すれば、神通力を得ることができ、仏あるいは大力の菩薩に成ることができる』と考えるに至ったのです。

 バラモン教の影響を強く受けた結果は、実践面に於いて、ヨーガの行法を取り入れます。

 智慧を磨くことを止め、心を鍛えることが中心になったということです。

 次のような事が日課となりました。

  (1)心を鍛錬して、超人的な力を得る。
  (2)神に帰依して、礼拝し讃歎する。
  (3)真言(呪文)によって、神に働きかける。 

 このようなものが修行法の中心的役割を荷うようになり、

大乗から、浄土宗、禅宗、真言宗等の日本の諸宗派が生まれる下地ができました。

 インドで5世紀に活躍した瑜伽行唯識派の世親は、『往生論』の中で、

    一礼拝:阿弥陀仏の形像を身にて礼拝する、
    二讃歎:阿弥陀仏の名を口にて称える、
    三作願:極楽に生まれたいと願う、
    四観察:彼の国の荘厳の功徳を観察する、
    五廻向:一切衆生を捨てず、皆共に仏と成るようにと願う。と言い、
  この五念門にて畢竟、極楽に往生し阿弥陀仏にまみえると言っています。

 また、唐で七世紀に活躍した善導は『観経疏』の中で、
  ひたすら
    阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経等の浄土の、経典を読誦し、
    彼の浄土を観察し、
    彼の仏を礼拝し、
    彼の仏の名を口で称え、讃歎供養して、
    彼の国に往生する。と言っています。

 わが国では、法然が、この二人の教えをほぼそのまま引きついで、浄土宗を立てました

 このような中、浄土諸家は仏教全体を二分して、極楽往生を旨とする教えを往生浄土門

その他の雑多な教えを皆ひっくるめて聖道門といいならわし、

また浄土門は船に乗った旅のように安楽であるということから易行道

聖道門は茨の道を気の遠くなる程の時間をかけて行かなくてはならないので難行道と呼んで区別してきたのです。

 以上、大乗から浄土教に至る過程を略してたどって見ました。

 

 このように一見、大乗の教理からは遠く離れてしまったかにみえる浄土門ではありますが、

しかし完全に離れてしまったかというと、あながちそうとばかりも言えません

 浄土門は、そのまたの名を他力門ともいいます。

  『他力である阿弥陀仏の本願に、完全に身をまかせる』という教えであり、

 それによって、かろうじて『往生浄土門は大乗である。』と言えるだけの面目を保っているのです。

 ある浄土宗の高僧は、『他力の信仰とは、自らを他力にゆだね、まかせきるということである。

 赤子が母親の腕の中で、まったく安心するように、

親様である阿弥陀仏の腕の中に一切をゆだね、それでもって安心を得るということである。

 そのような安心を得たとき、人はただ他の人の為に働くよりしようがないではないか

 他に何をすることがある。

 もし、そうでなければ、他力は大乗であると、どうして言うことができよう。』と言っています。

 或はこの言葉は、大乗の本義を取り戻す、鍵であるやも知れません。

 では、そのあたりを念頭に掛けて、経文を読んでみましょう。

 数ある浄土教関連の経典の中から、特に『仏説無量寿経(康僧鎧訳)』、『仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳)』、『仏説観無量寿経(?良耶舎訳)』を選び浄土三部経と名づけたのは、法然上人です

 法然上人は、この時代も異なり、目的も異なる三部の経典を、敢て一つの経典の如くにして、浄土宗の所依の経典であるとされました。

(中略)

 今回、この三部の経典を取り上げて現代語訳し解説するにあたり、

それとは別に各経典の特色をより際だたせながら三部経を総合的に解説した分を『浄土三部経講義』としてまとめました。

 先に本文を読んで経文の内容に精通し、その後にこれをお読みください。

 その他、各経典の歴史的事実などは、すべて省略します。                   以上

 

< あ と が き >

 もう一年ほども前のことになりますが、維摩経のめどが付いた所でしたので、次は何をやろうかと迷っていました。

 そのことが何気なく声になったのでしょう、ちょうどそこに居合わせた家内に『次は何をやろう。』と問いかけたところ、気のなさそうな声で、『もっと普通のものにすれば?』とつぶやくのが聞こえます。

 これで次が決まりました。 普通のものといえば『浄土三部経』、これ以上にふさわしいものがあるだろうかと。

 『般若心経入門』にはじまる一連の経文解説の中で、『浄土三部経』は、是非ともなさねばならぬ懸案であるのみならず、ある意味での終着点でもあります。

 しかし、取りかかるには少しばかりの準備の必要があり、また躊躇するような理由も残っていました。

 それは、道綽の『安楽集』、善導の『観経疏』、源信の『往生要集』、法然の『選択集』などの優れた論疏を、何のように扱えばよいか、そこの処の態度を、はっきりさせる必要があったのです。

 なかでも『観経疏』は、論議の進め方に独特の妙があって理解しやすく、文章も解りやすく読みやすいので、まさにかっこうの手本として愛読し、座右を離しません。

 これを、解説する上での基底とすれば、どれほど面白かろう。

 しかし、これは明らかに世親の願求往生の態度を継ぐものであり、経の主旨と本来の目的を覆い隠すものである。

 これを何のように扱えばよいか。 迷いに迷いました。

 上に挙げた三部の経典と論疏を、連日のように読みふけり、やがてついに結論するに至ります。

 やはり、本来の目的をつらぬこう、いかに優れたものであれ、目的を阻害するものは、一切を排除しよう。

 と、これが結論です。

 それ以後は順調に進みました。

 現在、お読みいただいているとおりに、各段落、各文章の一字一句から、レイアウト、文字の色と大きさ、背景の色に至るまで、すらすらと何の問題もなく一気にできあがりました。

 要旨も筋がすっきりと通り、曖昧な所がなく明確です。 やはり、これで善かったのです。

 ある経典が作られる時、それ以前の経典はその基礎になりえますが、その後の経典、論疏はその基礎とはなりえません。

 要は、般若経から三部経に至る経文のみにたよりその後に著された文献経文を捨て去ればよかったのです

 これで、経本来の面目を取り戻すことができるのです。

 現代は、前時代の価値感が急速に失われた時代ですが、しかし仏教の価値も同時に失われたとまでは言えません

 行方を見失った時には、基本となる処まで戻り、方向を見定めることが急務です。

 この浄土三部経解説は、このような意義をもって書き上げられました。

 時代の変遷とともに、いつしか寺はその機能を失い、念仏もその魅力を失っております

 念仏が臨終のみのものであれば、それもまた当然のことでしょう。

 皆、飽きるほどの長寿を楽しみ、死ねばそれまでと思っているのですから、念仏の必要など微塵もありません。

 しかし、それは間違っています、平生にこそ念仏は必要なのです。

 念仏とは南無阿弥陀仏、南無とは帰命すること、帰命とは自らの身心を他力に委ねること、これが南無阿弥陀仏です。

 他力にすべてを委ねて、自らのことを計らない

 自ら他力の手足となり、他力の命に随順する。 他力の願いを自らの願いとする。

 勘の鋭い方であれば、もうお分かりでしょう。

 これは大乗の菩薩の空三昧、無相三昧、無願三昧、即ち三三昧と同じものなのです。

 衆生の為に自らを空しうして働く菩薩の心理状態、これが南無阿弥陀仏なのです。

 もし、この根本を見失ってしまえば、他力はただ言葉だけにすぎず、南無阿弥陀仏も、その意義を失ってしまいます。

 願わくは、よろしくこの基本に立ち返り、ここに安心を見出だされんことを。

 そのように読み取っていただければ、それはわたくしの非常なる幸いであります。

       平成二十年一月                  つばめ堂主人 著す

 

 

     

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