文語で詠われている短歌 

2015.11.19

(2015.9.24に書いた本頁では、石川啄木の短歌を題材としましたが、啄木の短歌は別頁に取り上げなおしましたので、本頁の構成を変更します。
旧頁は、本頁の末尾に残しておきます)

 格調の高い文語を、忘れてしまわないための、最も有効な方法は、文語で詠われた短歌や俳句に接することだと思っています。

わかりやすく詠まれた短歌を、紹介します。

01 石川啄木 明治19年(1886)2月20日 - 明治45年(1912)4月13日 26歳

 石川啄木の歌は、わかりやすく、かつ感銘深いので最初に紹介します。

 最初の歌集「一握の砂」から、100首選んで、石川啄木 一握の砂 現代語訳 の頁にまとめました。

02 若山牧水 明治18年(1885)8月24日 - 昭和3年(1928)9月17日 45歳

 次にわかりやすい短歌として、若山牧水をとりあげました。

白鳥(しらとり)は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
現代語訳 白鳥は哀しくないのか。 空の青にも 海の青にも 染まらず漂う

幾山河(いくやまかは) 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
現代語訳 幾つもの山河を越え去り行けば 寂しさが 果ててしまう国よ。今日も旅ゆく。

説明 「終てなむ国」の「なむ」は、係助詞、終助詞の「なむ」ではなく、確述の助動詞「ぬ」の未然形「な」に、推量・意志の助動詞「む」の連体形「む」が合わさったものであり、きっと果ててしまうであろう国という意味になります。

語句が足りないので、超え去り行くことと、果てなむ国との関係が不明確なのですが、
果てなむ国を求めて、幾山河を超え去り行っていて、今日も旅していると解釈する人が多数のようです。

牧水が、故郷の宮崎に帰省する途中、中国地方を旅したときの作で、「真実に自分が生きてゐると感じてゐる人間の心には、取り去ることの出来ない寂寥(せきりょう)が棲んでゐるものである。行けど行けど尽きない道の様に、自分の生きてゐる限りは続き続いてゐるその寂寥にうち向こうての心を詠んだもの」(「牧水歌話」) と自ら解説しています。

初夏の 曇りの底に 桜咲き居り おとろへはてて 君死ににけり
現代語訳 初夏の 曇り(空)の底に 桜が咲いている おとろえはてて 君は死んでしまったのだなあ

説明 「死ににけり」の二つ目の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形で、助動詞「けり」は、過去の事実に初めて気づいたときの詠嘆を表すので、死んでしまったんだなあと詠嘆する意味になります。

この歌には、「四月十三日午前九時、石川啄木君死す」という詞書が付されています。午前七時頃、啄木の奥さんから啄木危篤の連絡を受け、駆けつけたところ、啄木の竹馬の友である金田一京助氏がいました。啄木は意外に安静で、金田一氏は、このぶんなら大丈夫だろうと、出勤のため帰宅したところ、啄木の容態が急変し、九時半に臨終を迎えてしまいました。

われを恨み 罵りしはてに 噤(つぐ)みたる 母のくちもとに ひとつの歯もなき
現代語訳 私を恨み 罵った果てに 口を噤んだ 母の口元に ひとつの歯もないよ

説明 最後の「なき」は、形容詞「無し」の連体形なので、連体形止めになっています。余韻を残すための手法です。最後に詠嘆を表す終助詞「かな」が省略されたと感じるといいかもしれません。

一人息子の牧水は、大学を卒業しても、就職もせず、故郷にももどってこなかったそうです。父親の病気でもどってきた牧水に、母親がさんざ説教したあとの状景を詠った歌です。

いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや
現代語訳 いざ行きましょう 行ってまだ見ぬ山を見ましょう このさびしさに 君は耐えますか

白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり
現代語訳 白玉の歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに飲むべきだったなあ

説明 酒豪の牧水が、たくさん詠んだ酒の歌のなかで、最も有名な歌だそうです。白玉は、白い宝石ですが、ここでは歯の枕詞のような役割です。酒で健康を害していた牧水が、小諸を訪れたときに治療をうけた田村病院の二階の一室で、一人酒を飲んだときに詠んだ歌だといわれています。

それほどに うまきかと人の とひたらば なんと答へむ この酒の味
現代語訳 それほどにうまいのかと人が問うたなら、なんと答えよう、この酒の味

説明 体をこわすまで、酒を飲んでしまった牧水です。随筆「酒の讃と苦笑」で、この歌に関して、
「真実、菓子好きの人が菓子を、渇いた人が水を、口にした時ほどのうまさをば酒はもっていないかも知れない。
一度口にふくんで咽喉を通す。その後は口に残る一種の余香余韻が酒のありがたさである。
単なる味覚のみのうまさではない。
無論口で味わううまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味わいを持っている。
あの『酔う』というのは心が次第に酒の味を味わってゆく状態」と語っています。

酒のめば なみだながるる ならはしの それもひとりの 時に限れる
現代語訳 酒を飲めば涙がながれる習慣の それも一人の時に限られる

説明 「限れる」は、動詞「限る」(かぎる)に、自発を表す助動詞「る」がつながったもので、自然に限られるという意味です。

あたりみな 鏡のごとき 明るさに 青葉はいまし 揺れそめにけり
現代語訳 あたりがみな 鏡のような明るさに 青葉は 今の今 揺れ始めたことよ

説明 副詞「今し」の「し」は強調の副助詞なので、今の今、たった今、の意味となります。「し」は、現代語の、いつしか、果てしない、しかし、などの中に生き残っているほか、副助詞「しも」として、必ずしも、まだしもといった言葉のなかに生き残っています。

蛙鳴く 田なかの道を はせちがう 自転車の鈴 なりひびくかな
現代語訳 蛙が鳴く田中の道を すれ違う 自転車の鈴の鳴り響くことよ

妻が眼を 盗みて飲める 酒なれば あわてて飲み噎(む)せ 鼻ゆこぼしつ
現代語訳 妻の目を盗んで飲んだ酒なので あわてて飲みむせ 鼻からこぼした

説明 「鼻ゆ」の「ゆ」は、古い格助詞で、〜からを意味します。「田子の浦ゆうち出でてみれば」という有名な歌で使われています。

 

2015.9.24

 格調の高い文語を、忘れてしまわないための、最も有効な方法は、文語で詠われた短歌や俳句に接することだと思っています。
 石川啄木は、すばらしい文語の短歌を残してくれました。以下に、それらをとりあげ、記憶に残していきたいと思います。
 以下にできるだけ文法的な解説を加えますが、あいにく、私は文法に強いわけではありませんので、間違っているかもしれません。
 間違っているかも知れないと疑うのを忘れずに、読んでください。

1. ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく      石川啄木 一握の砂 より

 これはれっきとした文語ですが、現代日本人にも、そのまますっと理解できます。
 「なつかし」という形容詞は、口語では「なつかしい」ですが、なつかしいを使うと字余りになります。文語の「なつかし」のままでも、問題なく、理解できます。
 故郷の訛りが無性になつかしくなり、停車場の人ごみのなかに、それを聴きにいく という心が伝わる、美しい短歌だと思います。

2. はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る     石川啄木 一握の砂 より

 これも文語ですが、話し言葉とあまりちがわないので、そのまま意味が伝わってきます。
 「はたらけど」の「ど」は助詞で、口語では「ても」になりますので、「はたらいても」の意になります。

 「楽にならざり」の「ざり」は、文語として少し、問題があります。否定の助動詞「ず」は、他の言葉への接続が不便なため、動詞の「あり」が結合して、
  ざら、ざり、○、ざる、ざれ、ざれ という活用を行うのですが、終止形においては、「ず」で問題がないので、終止形としての「ざり」は、用いられてきませんでした。
 このことに関しては、宮地伸一さんの「歌言葉考言学」抄 に、詳細な解説があります。

 ここでは、「楽にならざり」は、「楽にならず」と同じ意味だとしておきましょう。
 はたらいても、はたらいてもなお、くらしは楽にならない。じっと、手を見る という情景を詠った心にしみる短歌です。

3. ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな     石川啄木 一握の砂 より

 これも文語ですが、そのまま意味が伝わってきます。
 「言ふことなし」の「なし」ですが、文句なし。文句あり。異議なし。異議あり。のように、「なし」、「あり」 で結ぶ文語文章の軽快な力強さは捨てがたく、日常の会話でも、しばしば使われます。
 故郷に帰って、なつかしい山を目の前にして、言葉はででこないけれど、なつかしく、ありがたく思う心境は、よくわかります。

4. たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず     石川啄木 一握の砂 より

 文語の「軽し」(かろし)は、口語では「軽い」(かるい)になり、「軽き」(かろき)は、口語の「軽さ」に対応するでしょうか。
 「三歩あゆまず」は、一歩、二歩と歩くうちに、涙がでてきて、三歩目は歩まず、立ち止まった というような感じでしょう。
 啄木の歌稿ノートには、「三歩あるかず」となっているそうで、推敲の結果な、「三歩あゆまず」になったのでしょうね。

 子供のときは大きく見えた親も、こちらが大人になると相対的に小さくなりますが、年おいた親は、想像以上に軽くなっていて、衝撃をうけているさまを詠った歌です。

5. 頬(ほ)につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず    石川啄木 一握の砂 より

 歌集「一握の砂」のタイトルの一握の砂が登場する歌です。「のごはず」は、「ぬぐわず」です。
 「示しし人」の二番目の「し」は過去の助動詞「き」の連体形ですので、「示した人」という意味になります。「示した人」は、「AがBに示した」ときのAなのかBなのかは、文法上はあいまいです。

 「一握の砂」の最初の歌は、「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」で、この歌は、それに続く二番目の歌です。
 砂浜で蟹とたわむれている啄木が、砂をひとつかみして、誰かに示したと解釈するとき、いったい誰に示したのでしょう。
 それとも、誰か別の人が、啄木に一握の砂を示したのでしょうか。

6. いつしかに 泣くといふこと 忘れたる 我泣かしむる 人のあらじか    石川啄木 一握の砂 より

 「いつしかに」は、いつのまにかという意味の副詞「いつしか」に時を示す格助詞「に」が加わって「いつのまにかに」という意味を表していると考えます。
 「忘れたる」の「たる」は、動作や状態が存続しているもしくは完了したことを示す助動詞「たり」の連体形で、我を修飾して、「忘れてしまった私」という意味になります。
 「泣かしむる」の「しむる」は、使役を表す助動詞「しむ」の連体形で、続く「人」にかかって、「泣かさせる人」という意味になります。

 「あらじ」の「じ」は、打消し推量を示す助動詞「じ」で、「(あら)ないだろう」という意味となり、疑問や問いかけを表す格助詞「か」がついて、「ないだろうか」という意味となります。
 全体として、「いつのまにか、泣くということを忘れてしまった私を、泣かさせる人はいないのだろうか。」という意味となります。

7. 君に似し 姿を街に見る時の こころ躍り(おどり)を あはれと思へ     石川啄木 一握の砂 より

 「似し」の「し」は、過去を表す助動詞「き」の連体形「し」で、続く「姿」にかかり「君に似た姿」という意味になります。
 「あはれ」は、いろんな意味があると思いますが、ここでは「不憫と思え」というような意味だと思います。
 「あなたに似た姿を、街に見つけたときの私のこころ躍りを、不憫と思いなさい」という意味になります。

8. 非凡なる 人のごとくに ふるまえる 後のさびしさは 何にかたぐへむ      石川啄木 一握の砂 より

 「たぐふ」(比ふ、類ふ、副ふ) とう言葉は死後になりつつあるが、その名詞形「たぐい」は、たぐいまれ (類希) のような言い回しに生き残っています。
 ここでは、何にたとえましょうかというような意味で使っていると思います。
 全体として、非凡な人のようにふるまった後のさびしさは、何にたとえましょうか。というような意味でしょうか。

9. 大いなる 彼の身体(からだ)が 憎かりき その前にゆきて 物を言ふとき           石川啄木 一握の砂 より

 「大いなる」は、形容詞「大し」の連体形「大き」のイ音便「大い」に断定の助動詞「なり」の連体形が続いたものです。
 「おほきなる」という形容動詞の連体形と考えてもいいかもしれません。どちらにしても、「大きな」という意味になります。
 現代でも、大きい と 大きな は 両方使いますね。「大きい」は形容詞ですが、「大きな」は名詞の前にしか使わないので、連体詞と呼ばれています。

 「憎かりき」の「憎かり」は、形容詞「憎し」の連用形で、過去に体験したことを示す助動詞「き」が続いて、「憎かった」の意味となります。
 全体として、「大きな彼の体が憎かった。彼の前に言って、ものを言うときに。」という意味になります。啄木は、小柄だったんですね。

10. 遠くより 笛の音聞こゆ うなだれて ある故やらむ なみだ流るる       石川啄木 一握の砂 より

 「聞こゆ」は、「聞こえる」です。
 「やらむ」もしくは「やらん」は「にやあらん」が変化したもので、断定の助動詞「なり」の連用形「に」と、係助詞「や」と、動詞「あり」の未然形「あら」と、推量の助動詞「ん(む)」が組み合わさり、「だろうか」という意味になります。

 「流るる」は動詞「流る」の連体形「流るる」です。和歌では、終止形で止めるべきところを、連体形で止めるスタイルもあり、連体止めもしくは連体形止めと呼んでいます。

 なんらかの余韻をねらっています。たとえば、詠嘆を表す終助詞「かな」は、連体形に続いて、「何々だなあ」「ことよ」といった意味を表しますが、これを補ってみてもいいかもしれません。

 「遠くから笛の音が聞こえる。うなだれているからなのか。涙が流れ落ちることよ。」といった意味になるでしょうか。

 

11. それもよし これもよしとて ある人の その気がるさを 欲しくなりたり        石川啄木 一握の砂 より

 「とてある」の「とて」は、「と言って」という意味ですが、「とてある」と続いて、「と言っている」の意味となります。
文語の「あり」に対応して、現代口語では、「ある」と「いる」の二つの動詞があります。

 基本的には、人や動物があるときは、「いる」、物事や場所があるときは、「ある」を使いますが、
「何々している。」「何々してある。」のように紛らわしいケースもたくさんあります。

 「なりたり」の「たり」は、動作が完了し存続している意味を表す助動詞で、「なってしまった」という意味になります。
 「それもいい、これもいいと言っている人の、その気軽さを、欲しくなってしまった。」という意味です。

12. 路端に 犬ながながと あくびしぬ われも真似しぬ うらやましさに       石川啄木 一握の砂 より

13. 気の変る 人に仕えて つくづくと わが世がいやに なりにけるかな      石川啄木 一握の砂 より

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加