石川啄木 一握の砂 原文 現代語訳 対比 |
2015.10.11 更新2016.1.8 2022.08.17
(本頁の短歌の文語文の文法説明は、まだ完成ではありません。説明の誤りに気づかれた方のご指摘を歓迎します。)
格調の高い文語の魅力を忘れないためには、文語で詠われた短歌や俳句に接することが役立ちます。
石川啄木の短歌は、現代人にもわかりやすい文語で詠まれています。
この悲しくも格調の高い短歌を、日本人の宝として忘れずに記憶にとどめていきたいと思います。
子ども版 「声に出して読みたい日本語」 の8冊目に、「石川啄木」をとりあげた齋藤孝さんは、
石川啄木を以下のように説明していてわかりやすいので、紹介します。
石川啄木は、明治19年(1886)に生まれ、明治45年(1912)に亡くなっている。
いわゆる明治人のイメージとはほど遠い、子どもっぽく、頼りない人物であった。
からだも小さく、生活力もあまりない。金銭感覚もあやしい。故郷の岩手県渋民村を追われるようにして出てきた。
同じ岩手県生まれの宮沢賢治とはずいぶん評判がちがう。
高等小学校で同級生だった金田一京助(アイヌ語研究をはじめとする言語学者)にたびたび世話になっている。
母性本能をくすぐるような弱さを持っていたようだ。
弱さというのは、人を惹きつける力になる。私たちは子犬や赤ちゃんに引き寄せられる。
しっかりと自立した強い精神の人間を尊敬しはするが、共感はしにくい。
啄木のもつ「傷つきやすさ」は共感を呼び起こす。大きな身体の人間に対してさえコンプレックスを抱いてしまう。
友だちがみんな偉く見えてしまう日は、花を買ってきて妻と親しむ。
故郷を飛び出してきたくせに、上野駅に故郷のなまりを聴きにゆく。海岸で泣き濡れて蟹とたわむれる。
なんともはや、「センチメンタリズムの巨匠」である。
(中略)
この本で啄木の歌をいくつも覚えてくれれば、その後の人生にきっと潤いが出るだろう。
自分の弱さと向き合い、それをきちんとつかんでいる時点で、その人はもう弱くない。
齋藤孝さんは、この本で「一握の砂」の551首のうち現代文としてもわかりやすい30首を原文のまま紹介しています。
簡単な説明がついていますが、現代語訳や、文法の説明はありません。
私は、文語としてすばらしい歌に、現代語訳と簡単な文法の説明を加えてみました。以下に、100首(2015.10.15)示します。
現代語訳の表記を、赤色太字に変更しました。(2016.1.8)
歌集 「一握の砂」 明治43年12月刊行
明治41年夏以後の作一千余首中より551首を抜きてこの集に収む。
集中五章、感興の来由するところ相近きをたづねて仮にわかてるのみ。
「秋風のこころよさに」は明治41年秋の記念なり。
001 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる
とうかいの こじまのいその しらすなに われなきぬれて かにとたわむる
東海の 小島の磯の 白砂に、私は泣き濡れて 蟹とたわむれる
説明 この場所は、啄木が故郷を追われて移った函館の大森浜と考えられていて、啄木小公園に啄木像があり、
立待岬の眺めのよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面にこの歌が刻まれています。
002 頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず
ほにつたう なみだのごわず いちあくの すなをしめしし ひとをわすれず
頬につたう涙をぬぐわずに 私は 一握の砂を示した人を忘れない
説明 「のごふ」は「ぬぐう」です。
「示しし人」の二番目の「し」は過去の助動詞「き」の連体形ですので、「示した人」という意味になりますが、
「私が示した人」か「私に示した人」のどちらかなのかはわかりません。
日本語には関係代名詞が無いので、「示した人」が「AがBに示した」ときのAなのかBなのか、文法上は曖昧になります。
003 大海に むかひて一人 七八日 泣きなむとすと 家を出でにき
だいかいに むかってひとり ななようか なきなむとすと いえをいでにき
大海に向かって一人 七日八日と泣いてやろうとして 家を出てしまった
説明 「泣きなむ」の「な」は、「してしまう」という確述の助動詞「ぬ」で、
「む」は推量・意志の助動詞なので「泣いてしまおう」という意味になります。
「とすと」は、現代語では「としようと」という意味になると思います。
「出でにき」の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形で、「き」は完了の助動詞なので「〜してしまった」の意味となります。
004 いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて 掘りてありしに
いたくさびし ぴすとるいでぬ すなやまの すなをゆびもて ほりてありしに
ひどく錆びたピストルが出た 砂山の砂を指でもって 掘っていたときに
005 ひと夜さに 嵐来りて 築きたる この砂山は 何の墓ぞも
ひとよさに あらしきたりて きづきたる このすなやまは なにのはかぞも
ある一晩に 嵐が来て築いたこの砂山は、何の墓かなあ
説明 よさ は、夜去り が変化したものと考えられていて。夜 夜さり の意で使われます。
説明 ぞも は、詠嘆の気持ちを示す
006 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもい出づる日
すなやまの すなにはらばい はつこいの いたみをとおく おもいいづるひ
砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く 思い出す日
説明 「出づ」は自動詞「出る」他動詞「出す」の両方の意味をもちます。
007 砂山の 裾によこたはる 流木に あたり見まわし 物言ひてみる
すなやまの すそによこたわる りゅうぼくに あたりみまわし ものいってみる
砂山の裾によこたわっている流木に あたりを見回して 物を言ってみる
008 いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
いのちのない砂の悲しさよ さらさらと 握ると指の間から落ちる
009
しつとりと なみだを吸へる 砂の玉 なみだは重き ものにしあるかな
しっとりと 涙を吸った砂の玉 なみだは重いものなんだな
説明 「ものにし」の「し」は、強調の役割を持つ副助詞です。例:名にし負わば
現在では「果てしない」のような言葉や、「必ずしも」「折しも」「まだしも」というような言葉の中に残っています。
010 大といふ 字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり
大という字を 百あまり 砂に書き 死ぬことを止めて帰って来ました
説明 「来たれり」は動詞「来」の連用形「き」と存続の助動詞「たり」の已然形「たれ」と
完了の助動詞「り」がつながったもので、「来ました」の意味となります。
011
目さまして 猶起き出でぬ 児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな
目をさまして猶起き出さない子の癖は かなしい癖だよ 母よ咎めるな
012
ひと塊の 土に涎し 泣く母の 肖顔つくりぬ かなしくもあるか
ひとくれの つちによだれし なくははの にがおつくりぬ かなしくもあるか
ひと塊の土に 涎を落として 泣く母の似顔をつくった 悲しくもあるかな
013
燈影なき 室に我あり 父と母 壁のなかより 杖つきて出づ
ほかげなき しつにわれあり ちちのはは かべのなかより つえつきていづ
明かりのない部屋に私はいた 父と母が 壁の中から杖をついてでてきた
014 たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
たわむれに ははをせおいて そのあまり かろきになきて さんぽあゆまず
たわむれに 母を背負って、その余りの軽さに泣いて、私は三歩歩まない。
説明 文語の「軽し」(かろし)は、口語では「軽い」(かるい)になり、
「軽き」(かろき)は、口語の「軽さ」に対応するでしょうか。
「三歩あゆまず」は、一歩、二歩と歩くうちに、涙がでてきて、三歩目は歩まず、立ち止まった というような感じでしょう。
啄木の歌稿ノートには、「三歩あるかず」となっているそうで、推敲の結果、「三歩あゆまず」になりました。
「ありく」「あるく」は、歩いて移動することを意味しますが、「あゆむ」は、一歩一歩進むという意味で使われます。
「あゆみ」という言葉は、現代も使います。(2015.11.2修正)
015 飄然と 家を出でては 飄然と 帰りし癖よ 友はわらへど
ひょうぜんと いえをいでては ひょうぜんと かえりしくせよ ともはわらえど
飄然と家を出て 飄然と帰った私の癖 友はわらうのだが
016 ふるさとの 父の咳する 度に斯く 咳の出づるや 病めばはかなし
ふるさとの ちちのせきする たびにかく せきのいづるや やめばはかなし
故郷の父が咳するたびに、このように私にも咳が出るのた、病気になると、はかないものだ。
017 わが泣くを 少女等きかば 病犬の 月に吠ゆるに 似たりといふらむ
わがなくを おとめらきかば やまいぬの つきにほゆるに にたりというらむ
私が泣くのを少女達が聞いたら 病気の犬が月に吠えるに似ているというだろう
018 何処やらむ かすかに虫の なくごとき こころ細さを 今日もおぼゆる
いづくやらむ かすかにむしの なくごとき こころほそさを きょうもおぼゆる
何処だろうか かすかに虫がなくような こころ細さを今日も覚える
019
いと暗き 穴に心を 吸はれゆく ごとく思ひて つかれて眠る
とても暗い穴に 心を吸われてゆくように思って つかれて眠る
020
こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
こころよく 私に 働く仕事よあれ それをし遂げて 死のうと思う
説明 「仕事あれ」の「あれ」は動詞「あり」の已然形・命令形です。どう訳すべきか、今の私にはまだわかりません。
021 こみ合へる 電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの 我のいとしさ
こみあえる でんしゃのすみに ちぢこまる ゆうべゆうべの われのいとしさ
込み合える電車の隅にうずくまる、毎夕毎夕の、私のいとしさ
022 浅草の 夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来し さびしき心
あさくさの よのにぎわいに まぎれいり まぎれいできし さびしきこころ
浅草の夜のにぎわいに、紛れ込み、紛れでてきた、心はさびしい
023 愛犬の 耳斬りてみぬ あはれこれも 物に倦みたる 心にかあらむ
あいけんの みみきりてみぬ あわれこれも ものにうみたる こころにかあらむ
愛犬の耳を切ってみた、あわれだ、これも、物に倦んだ心のせいなのでしょうか
024
鏡とり 能ふかぎりの さまざまの 顔をしてみぬ 泣き飽きし時
かがみとり あたうかぎりの さまざまの かおをしてみぬ なきあきしとき
鏡をとって能うるかぎりの様々な顔をしてみた 泣き飽きた時に
025 なみだなみだ 不思議なるかな それをもて 洗えば心 戯けたくなれり
なみだなみだ ふしぎなるかな それをもて あらえばこころ おどけたくなれり
なみだなみだ、不思議だなあ。それをもって洗うと心がおどけたくなったよ
026
呆れたる 母の言葉に 気がつけば 茶碗を箸もて 敲きてありき
あきれたる ははのことばに きがつけば ちゃわんをはしもて たたきてありき
呆れた母の言葉に 気がつくと 茶碗を箸でたたいていたなあ
027 草に臥て おもふことなし わが額に 糞して鳥は 空に遊べり
くさにねて おもうことなし わがぬかに ふんしてとりは そらにあそべり
草のうえに寝て 思うことがない 私の額に糞をして鳥は空に遊んでいた
028 わが髭の 下向く癖が いきどほろし このごろ憎き 男に似たれば
わがひげの したむくくせが いきどおろし このごろにくき おとこににれば
私の髭の下向く癖が腹立たしい、この頃憎い、男に似ているので
029
森の奥より 銃声聞ゆ あはれあはれ 自ら死ぬる 音のよろしさ
もりのおくより じゅうせいきこゆ あわれあわれ みずからしぬる おとのよろしさ
森の奥から銃声が聞こえる。あわれだ。自ら死ぬ銃声のよろしさ。
参考 この歌の読解については、近藤さんのブログ記事を紹介します。
http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-939b.html
030 大木の 幹に耳あて 小半日 堅き皮をば むしりてありき
たいぼくの
みきにみみあて こはんにち かたきかわをば むしりてありき
大木の、幹に耳をあてて、ほぼ半日、堅い皮をむしっていました。
参考 この歌の読解については、近藤さんのブログ記事を紹介します。
http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-2e8d.html
031
「さばかりの 事に死ぬるや」 「さばかりの 事に生くるや」 止せ止せ問答
さばかりの ことにしぬるや さばかりの ことにいくるや よせよせもんどう
「そのくらいの事に死ぬのか」「それくらいの事に生きるのか」 止せ止せ問答
032
まれにある この平らなる 心には 時計の鳴るも おもしろく聴く
まれにある このたいらなる こころには とけいのなるも おもしろくきく
希にある この平らな心には 時計が鳴るのもおもしろく聴く
033
ふと深き 怖れを覚え ぢつとして やがて静かに 臍をまさぐる
ふとふかき おそれをおぼえ じっとして やがてしずかに ほそをまさぐる
ふと深い怖れを覚えて じっとして やがて静かにへそを まさぐる
034 高山の いただきに登り なにがなしに 帽子をふりて 下り来しかな
たかやまの いただきにのぼり なにがなしに ぼうしをふりて くだりきしかな
高い山の頂上に登り、なにがなしに帽子を振って、降りて来たんだ
035
何処やらに 沢山の人が あらそひて くじ引くごとし 我も引きたし
どこやらに たくさんのひとが あらそいて くじひくごとし われもひきたし
どこやらに沢山の人が争って くじを引くようだ 私も引きたい
036 怒る時 かならずひとつ 鉢を割り 九百九十九 割りて死なまし
いかるとき かならずひとつ はちをわり きゅうひゃくくじゅうく わりてしなまし
怒る時に必ず一つ鉢を割って、999個割って、死にましょう
037
いつも逢ふ 電車の中の 小男の 稜ある眼 このごろ気になる
いつもあう でんしゃのなかの こおとこの かどあるまなこ このごろきになる
いつも会う電車の中の小男のとげとげしい目つきが、このごろ気になる
038
鏡屋の 前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに 歩むものかも
かがみやの まえにきて ふとおどろきぬ こすぼらしげに あゆむものかも
鏡屋の前に来てふと驚いたよ みすぼらしげに歩くものだなあ
039
何となく 汽車に乗りたく 思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし
なんとなく汽車に乗りたくなっただけ 汽車を下りたが行くところはない
040
空家に入り 煙草のみたる ことありき あはれただ一人 居たきばかりに
あきやにいり たばこのみたる ことありき あわれただひとり いたきばかりに
空家に入りタバコを飲んだことがあった あわれだ ただ独りで居たかったばかりに
041
何がなしに さびしくなれば 出てあるく 男となりて 三月にもなれり
なにがなしに さびしくなれば でてあるく おとことなりて みつきにもなれり
なんとなくさびしくなると出て歩く男となって
三ケ月にもなった
042 やはらかに 積もれる雪に 熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし
やわらかに つもれるゆきに ほてるほを うずむるごとき こいしてみたし
やわらかく積もった雪にほてった頬を埋めるような恋をしてみたいなあ
043
かなしきは 飽くなき利己の 一念を 持てあましたる 男にありけり
悲しいのは 飽きることない利己の一念をもてあましている男であったのだなあ
説明 最後の助動詞「けり」は、過去から現在まで続いている今まで意識しなかった事実に始めて気づいたことを表し、
「〜だったのだなあ」という詠嘆の意味となります。
044
手も足も 室いっぱいに 投げ出して やがて静かに 起きかへるかな
てもあしも へやいっぱいに なげだして やがてしずかに おきかえるかな
手も足も、部屋いっぱいに投げ出して、やがて静かに起き上がったのさ
045 百年の 長き眠りの 覚めしごと あくびしてまし 思ふことなしに
ももとせの ながきねむりの さめしごと あくびしてまし おもうことなしに
百年の長い眠りが覚めたように 欠伸してみようか 思うことなしに
説明 「欠伸してまし」の「まし」は、事実に反することを仮に想定したり、その想定に基づいて
推量したりする気持ちを表す助動詞で、「欠伸をしてみようか、欠伸をしたものだろうか」という意味になります。
046 腕拱みて このごろ思ふ 大いなる 敵目の前に 躍り出でよと
うでくみて このごろおもう おおいなる てきめのまえに おどりいでよと
腕をくんで
このごろ思う 大きな敵が 目の前におどりでてこいと
047 手が白く 且つ大なりき 非凡なる 人といはるる男に会ひしに
てがしろく かつだいなりき ひぼんなる ひとといわるる おとこにあいしに
手が白く かつ大きかった 非凡な人と言われる男に会ったが
説明 朝日新聞に入社したときの池辺三山主事のことです。
048
こころよく 人を讃めてみたく なりにけり 利己の心に 倦めるさびしさ
こころよく ひとをほめてみたく なりにけり りこのこころに うめるさびしさ
気持ちよく人をほめてみたくなったな 利己の心に飽きたさびしさ
説明 「倦める」は、「倦む」に完了・継続の助動詞「り」がつながり、「飽きてしまった」という意味になります。
049 雨降れば わが家の人誰も誰も沈める顔す 雨霽れよかし
あめふれば わがいえのひと たれもたれも しずめるかおす あめはれよかし
雨が降ると、我が家の人達は、誰もかれも沈んだ顔になる、雨よ晴れてくれ
050
高きより 飛びおりるごとき 心もて この一生を 終るすべなきか
高いところから飛び降りるような気持ちをもって、この一生を終わる方法はないのか
051
この日頃 ひそかに胸に やどりたる 悔ありわれを 笑はしめざり
この日ごろひそかに胸にやどっている悔いがある。私を笑わせないのだ。
052
へつらひを 聞けば腹立つ わがこころ あまりに我を 知るがかなしき
へつらいを聞くと腹がたつ私の心。あまりに自分を知るのが悲しい。
053 知らぬ家 たたき起して 遁げ来るが おもしろかりし 昔の恋しさ
しらぬいえ たたきおこして にげくるが おもしろかりし むかしのこいしさ
知らない家の戸をたたき起こして逃げて来るのが面白かった。昔の恋しさ
054 非凡なる 人のごとくに ふるまえる 後のさびしさは 何にかたぐへむ
非凡な人のようにふるまった後のさびしさは、何にたとえましょうか
説明 「たぐふ」(比ふ、類ふ、副ふ)
とう言葉は死後になりつつあるが、その名詞形「たぐい」は、
たぐいまれ (類希) のような言い回しに生き残っています。
ここでは、何にたとえましょうかというような意味で使っていると思います。
055 大いなる 彼の身体が 憎かりき その前にゆきて 物を言ふとき
おおいなる かれのからだが にくかりき そのまえにゆきて ものをいうとき
大きな彼の体が憎かった。彼の前に行って、ものを言うときに
説明 「大いなる」は、形容詞「大し」の連体形「大き」のイ音便「大い」に断定の助動詞「なり」の連体形が続いたものです。
「おほきなる」という形容動詞の連体形と考えてもいいかもしれません。
どちらにしても、「大きな」という意味になります。現代でも、大きい と 大きな は 両方使いますね。
「大きい」は形容詞ですが、「大きな」は名詞の前にしか使わないので、連体詞と呼ばれています。
「憎かりき」の「憎かり」は、形容詞「憎し」の連用形で、過去に体験したことを示す助動詞「き」が続いて、「憎かった」の意味となります。
説明 朝日新聞に入社したときの、佐藤北江編集局長のことです
056 実務には 役に立たざるうた人と 我を見る人に 金借りにけり
じつむには やくにたたざる うたびとと われをみるひとに かねかりにけり
実務には
役に立たない歌人と 私を見る人に お金を借りたのです
057 遠くより 笛の音聞こゆ うなだれて ある故やらむ なみだ流るる
遠くから笛の音が聞こえる。うなだれているからなのか。涙が流れ落ちることよ
説明 「聞こゆ」は、「聞こえる」です。
「やらむ」もしくは「やらん」は「にやあらん」が変化したもので、断定の助動詞「なり」の連用形「に」と、
係助詞「や」と、動詞「あり」の未然形「あら」と、推量の助動詞「ん(む)」が組み合わさり、「だろうか」という意味になります。
「流るる」は動詞「流る」の連体形「流るる」です。
和歌では、終止形で止めるべきところを、連体形で止めるスタイルもあり、連体止めもしくは連体形止めと呼んでいます。
これは、 なんらかの余韻をねらっています。たとえば、詠嘆を表す終助詞「かな」は、連体形に続いて、
「何々だなあ」「ことよ」といった意味を表しますが、これを補ってみてもいいかもしれません。
058 それもよし これもよしとて ある人の その気がるさを 欲しくなりたり
それもいい、これもいいと言っている人の、その気軽さを、欲しくなってしまった
説明 「とて」は、「と言って」という意味ですが、「とてある」と続いて、「と言っている」の意味となります。
文語の「あり」に対応して、現代口語では、「ある」と「いる」の二つの動詞があります。
基本的には、人や動物があるときは、「いる」、物事や場所があるときは、「ある」を使いますが、
「何々している。」「何々してある。」のように紛らわしいケースもたくさんあります。
「なりたり」の「たり」は、動作が完了し存続している意味を表す助動詞で、「なってしまった」という意味になります。
059 死ぬことを 持薬をのむが ごとくにも 我はおもへり 心いためば
しぬことを じやくをのむが ごとくにも われはおもえり こころいためば
死ぬことを、まるで持薬を飲むように思いました。心がいたんだので。
参照 http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-02a4.html
060 路端に 犬ながながと あくびしぬ われも真似しぬ うらやましさに
みちばたに いぬながながと あくびしぬ われもまねしぬ うらやましさに
道端に犬がながながとあくびをした 私も真似した うらやましさに
061 真剣になりて竹もて犬を撃つ 小児の顔を よしと思へり
しんけんに なりてたけもて いぬをうつ しょうにのかおを よしとおもえり
真剣になって竹棒で犬を撃っている小児の顔を、いいと思った
062
ダイナモの 重き唸りのここちよさよ あはれこのごとく物を言はまし
だいなもの おもきうなりの ここちよさよ あわれこのごとく ものをいわまし
発電機の重たい唸り声の心地よさよ。あわれ。こんなふうに、物を言いたいものだ
063 剽軽の 性なりし友の 死顔の 青き疲れが いまも目にあり
ひょうきんの さがなりしともの しにがおの あおきつかれが いまもめにあり
ひょうきんな性格だった友の死に顔の青い疲れが、いまも目に残っている
064 気の変る 人に仕えて つくづくと わが世がいやに なりにけるかな
気の変わる人に仕えて、つくづくとわが世がいやになってしまったな
065 龍のごとく むなしき空に 躍り出でて 消えゆく煙 見れば飽かなく
りょうのことく むなしきそらに おどりいでて きえゆくけむり みればあかなく
竜のように虚空に躍り出て、むなしく消えてゆく煙、見ていて飽きない
066
こころよき 疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる 後のこの疲れ
こころよい疲れだなあ 息もつかず仕事をした後のこの疲れ
067
空寝入 生あくびなど なぜするや 思ふこと人に さとらせぬため
そらねいに なまあくびなど なぜするや おもうことひとに さとらせぬため
空寝入りや生欠伸などをなぜするのか。思うことを人にさとらせぬためよ。
068
箸止めて ふつと思ひぬ やうやくに 世のならはしに 慣れにけるかな
箸を止めてふっと思った ようやく世間のならわしに慣れたんだなあ
069 朝はやく 婚期を過ぎし妹の 恋文めける文を読めりけり
あさはやく こんきをすぎし いもうとの こいぶみめける ふみをよめりけり
朝早く婚期を過ぎた妹の 恋文のような文を読みましたのでした
070 しっとりと 水を吸ひたる 海綿の 重さに似たる心地おぼゆる
しっとりと みずをすいたる かいめんの おもさににたる ここちおぼゆる
しっとりと水を吸った海綿の重さに似た心地を覚えました
071 死ね死ねと 己を怒り もだしたる 心の底の暗きむなしさ
しねしねと おのれをいかり もだしたる こころのそこの くらきむなしさ
死ね死ねと、おのれを怒り、黙った。心の底の暗いむなしさ。
説明 もだす=だまる
参考 http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-3d72.html
072 けものめく 顔あり口を あけたてす とのみ見てゐぬ 人の語るを
けものめく かおありくちを あけたてす とのみみていぬ ひとのかたるを
けもののような顔がある、口を開け閉めしている、とのみ見ていた、人が語るのを
説明 あけたてす=開け閉てす
参考 http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-84d3.html
073 親と子と はなればなれの 心もて 静かに対ふ 気まづきや何ぞ
おやとこと はなればなれの こころもて しずかにむかう きまづきやなぞ
親と子が離れ離れの心でもって静かに向かい合う、気まずいのは、何で
参考 http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b814.html
074 かの船の かの航海の 船客の 一人にてありき 死にかねたるは
かのふねの こうかいの せんかくの ひとりにてありき しにかねたるは
彼の船の彼の航海の船客の一人でした。死にかねたのは。
参考 http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-03a0.html
075
目の前の 菓子皿などを かりかりと 噛みてみたくなりぬ もどかしきかな
めのまえの かしざらなどを かりかりと かみてみたくなりぬ もどかしきかな
目の前の菓子皿などを、かりかりと、噛んでみたくなった、もどかしいなあ
076 よく笑ふ 若き男の 死にたらば すこしはこの世 さびしくもなれ
よくわらう わかきおとこの しにたらば すこしはこのよ さびしくもなれ
よく笑う若い男が死んだなら、少しは、この世、さびしくなれよ
077 何がなしに 息きれるまで 駆け出して みたくなりたり 草原などを
なにがなしに いききれるまで かけだして みたくなりたり くさはらなどを
何んとなしに、息がきれるまで、駆け出してみたくなった、草原などを
078 あたらしき 背広など着て 旅をせむ しかく今年も思ひ過ぎたる
あたらしき せびれなどきて たびをせむ しかくことしも おもいすぎたる
新しい背広など着て、旅をしよう、そう今年も思い、過ぎてしまった
079 ことさらに 燈火を消して まぢまぢと 思ひてゐしは わけもなきこと
ことさらに ともしびをけして まじまじと おもいていしは わけもなきこと
ことさらに、明かりを消して、まじまじと思っていたのは、たわいもないこと
080 浅草の 凌雲閣のいただきに 腕組みし日の 長き日記かな
あさくさの りょううんかくの いただきに うでくみしひの ながきにきかな
浅草の凌雲閣の頂上で、腕組んだ日の、長い日記だ
081 尋常の おどけならむや ナイフ持ち 死ぬまねをする その顔その顔
じんじょうの おどけならむや ないふもち しぬまねをする そのかおそのかお
尋常のおどけでしょうか、ナイフを持って死ぬまねをする、その顔だ、その顔だ
説明 啄木は、金田一さんの部屋にナイフを持って行き、芝居の人殺しの真似をし、金田一さんは、
部屋の外に逃げ出しました。後で、啄木の部屋で、二人があった時、どちらも、あきれた顔で、顔を合わしました。
082 こそこその 話がやがて 高くなり ピストル鳴りて 人生終る
こそこその はなしがやがて たかくなり ぴすとるなりて じんせいおわる
こそこその話がやがて高くなり、ピストルが鳴って人生終わる
083
時ありて 子供のやうに たはむれす 恋ある人の なさぬ業かな
時によっては こどものようにたわむれをする 恋ある人のしない業だな
084 とかくして家を出づれば 日光のあたたかさあり 息ふかく吸ふ
とかくして いえをいづれば にっこうの あたたかさあり いきふかくすう
あれこれして家を出たら、日光の暖かさがあって、息を深く吸う
説明 兎角(とかく)す=あれこれする
085
つかれたる 牛のよだれは たらたらと 千万年も尽きざるごとし
つかれたる うしのよだれは たらたらと せんまんねんも つきざるごとし
疲れた牛のよだれは、たらたらとして、千万年も尽きないようだ
086 路傍の 切石の上に 腕拱みて 空を見上ぐる男ありたり
みちばたの きりいしのうえに うでくみて そらをみあぐる おとこありたり
みちばたの切り石の上で、腕を組んで、空を見上げる男がいたよ
087
何やらむ 穏かならぬ 目付して 鶴嘴を打つ 群を見てゐる
なにやらむ おだやかならぬ めつきして つるはしをうつ むれをみている
なんだろう、穏やかでない目つきして、鶴嘴を打つ人たちの群れをみている
088
心より 今日は逃げ去れり 病ある獣のごとき 不平逃げ去れり
こころより きょうはにげされり やまいある けもののごとき ふへいにげされり
心から今日は逃げ去ってしまった。病気の獣のような不平が逃げ去った。
089
おほどかの 心来たれり あるくにも 腹に力の たまるがごとし
おおらかな心が来たよ 歩くにも腹に力がたまるようだ
090
ただひとり 泣かまほしさに 来て寝たる 宿屋の夜具の こころよさかな
ただひとり泣きたさに来て寝た宿屋の夜具の心地よいことよ
説明 「泣かまほし」の「まほし」は、動作や状態を実現したいという気持ちを表す助動詞で、「泣きたい」という意味になります。
091 友よさは 乞食の卑しさ 厭ふなかれ 餓ゑたる時は 我も爾りき
ともよさは こじきのいやしさ いとうなかれ うえたるときは われもしかりき
友よ、乞食の卑しさを嫌うな、飢えたときは、私もそうだった
092
新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓ゑたる腹に 沁むがかなしも
あたらしき いんくのにおい せんぬけば うえたるはらに しむがかなしも
新しいインクのにおいが、栓を抜くと、飢えた腹に、しみてくるのが悲しい
093
かなしきは 喉のかわきをこらへつつ 夜寒の夜具にちぢこまる時
かなしきは のどのかわきを こらえつつ よさむのやぐに ちぢこまるとき
悲しいのは、喉の渇きをこらえながら、夜寒の夜具に、縮こまる時だ
094
一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと
いちどでも われにあたまを さげさせし ひとみなしねと いのりてしこと
一度でも私に頭を下げさせた人は、皆死ねと、祈ったことがある
説明 祈りてしこと=祈り+て(完了の助動詞「つ」の連用形)れし(過去の助動詞「き」の連体形)
095
我に似し 友の二人よ 一人は死に 一人は牢を出でて今病む
われににし とものふたりよ ひとりはしに ひとりはろうを いでていまやむ
私に似た二人の友よ、一人は死に、一人は牢をでて今病気だ
096
あまりある 才を抱きて 妻のため おもひわづらふ友をかなしむ
あまりある さいをいだきて つまのため おもいわづらう ともをかなしむ
余りある才能を抱いて、妻の為に思い患っている友を、悲しく思う
097
打明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ
うちあけて かたりてなにか そんをせし ごとくおもって ともとわかれぬ
打ち明けて語って、何か損をしたように思って、友と別れた
098
どんよりと くもれる空を 見てゐしに 人を殺したく なりにけるかな
どんよりと くもれるそらを みていしに ひとをころしたく なりにけるかな
どんよりと曇った空を見ていたが、人を殺したくなってしまったよ
099
人並の 才に過ぎざる わが友の 深き不平も あはれなるかな
ひとなみの さいにすぎざる わがともの ふかきふへいも あわれなるかな
人並みの才能に過ぎない我が友の、深い不平も、あわれなものだ
100
誰が見ても とりどころなき男来て 威張りて帰りぬ かなしくもあるか
たれがみても とりどころなき おとこきて いばりてかえりぬ かなしくもあるか
誰が見てもとりえのない男が着て、威張って返った、悲しいことではないか
101 はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る
はたらけど はたらけどなお わがくらし らくにならざり じっとてをみる
はたらいても、はたらいてもなお、私の生活は楽にならない。じっと、手を見る
説明 「はたらけど」の「ど」は助詞で、口語の「ても」なので、「はたらいても」の意になります。
「楽にならざり」の「ざり」は、文語として少し、問題があります。
否定の助動詞「ず」は、他の言葉への接続が不便なため、動詞の「あり」が結合して、
ざら、ざり、○、ざる、ざれ、ざれ と活用しますが、終止形は「ず」で問題がないので、
終止形の「ざり」は、用いられてきませんでした。
ここでは、「楽にならざり」は、「楽にならず」と同じ意味だとしておきましょう。
102 何もかも 行末の事みゆるごとき このかなしみは 拭ひあへずも
なにもかも ゆくすえのこと みゆるごとき このかなしみは ぬぐいあえずも
何もかも行く末の事が見えるようだ、この悲しみは、ぬぐうことができないなあ
103
とある日に 酒をのみたくてならぬごとく 今日われ切に 金を欲りせり
とあるひに さけをのみたくて ならぬごとく きょうわれせちに かねをほりせり
とある日に、酒を飲みたくてならないように、今日私は、切に、金を欲しがりました
説明 欲(ほ)りす=欲しがる
104
水晶の 玉をよろこび もてあそぶ わがこの心 何の心ぞ
水晶玉をよろこんでもてあそぶ 私のこの心 何の心か
105
事もなく 且つこころよく 肥えてゆく わがこのごろの 物足らぬかな
何事もなく かつ快く肥えてゆく 私のこのごろの 物足らないことよ
106
大いなる 水晶の玉を ひとつ欲し それにむかひて 物を思はむ
大きな水晶の玉がひとつ欲しい それにむかって物を思いたい
107 うぬ惚ぼるる 友に合槌うちてゐぬ 施与をするごとき心に
うぬぼるる ともにあいづち うちていぬ ほどこしをする ごときこころに
うぬぼれている友に相槌うっていた、施しをするような心で
108
ある朝の かなしき夢の さめぎはに 鼻に入り来し 味噌を煮る香よ
あるあさの かなしきゆめの さめぎわに はなにいりきし みそをにるかよ
ある朝の悲しい夢のさめぎわに、鼻に入ってきた味噌を煮る香よ
109
こつこつと 空地に石をきざむ音 耳につき来ぬ 家に入るまで
こつこつと あきちにいしを きざむおと みみにつききぬ いえにいるまで
こつこつと空き地で石をきざむ音が、耳についてきた、家に入るまで
110
何がなしに 頭のなかに 崖ありて 日毎に土の くづるるごとし
なにがなしに あたまのなかに がけありて ひごとにつちの くずるるごとし
何んとなしに、頭の中に崖があって、日ごとに土が崩れていくようだ
111
遠方に 電話の鈴の鳴るごとく 今日も耳鳴る かなしき日かな
えんぽうに でんわのりんの なるごとく きょうもみみなる かなしきひかな
遠方に電話のベルが鳴るように、今日も、耳鳴りがする、悲しい日だな
112
垢じみし 袷の襟よ かなしくも ふるさとの胡桃 焼くるにほひす
あかじみし あわせのえりよ かなしくも ふるさとのくるみ やくるにおいす
垢じみた袷の襟よ、悲しいことに、古里のクルミを焼いたにおいがする
113
死にたくて ならぬ時あり はばかりに人目を避さけて 怖き顔する
しにたくて ならぬときあり はばかりに ひとめをさけて こわきかおする
死にたくてならないときがある、便所に人目を避けて、怖い顔をする
114
一隊の兵を見送りて かなしかり 何ぞ彼等の うれひ無げなる
いったいの へいをみおくりて かなしかり なにぞかれらの うれいなげなる
兵を一隊見送って、悲しかった、何で、彼らは、憂いがなさそうなのだ
115
邦人の 顔たへがたく 卑しげに 目にうつる日なり 家にこもらむ
くにびとの かおたえがたく いやしげに めにうつるひなり いえにこもらむ
邦人の顔がたえがたく卑しげに目に映る日だった、家にこもろう
116
この次の 休日に一日寝てみむと 思ひすごしぬ 三年このかた
このつぎの やすみにいちにち ねてみむと おもいすごしぬ みとせこのかた
この次の休日に一日中寝てみようと、思っていて過ごした、この三年間
117
或る時の われのこころを 焼きたての 麺麭に似たりと思ひけるかな
あるときの われのこころを やきたての ぱんににたりと おもいけるかな
或る時の私の心が、焼きたてのパンに似ていると思ったのでした
118 たんたらたら たんたらたらと 雨滴が 痛むあたまに ひびくかなしさ
たんたらたら たんたらたらと あまだれが いたむあたまに ひびくかなしさ
たんたらたら たんたらたらと 雨垂れが 痛むあたまにひびく悲しさ
119 ある日のこと 室の障子を はりかえぬ その日はそれにて 心なごみき
あるひのこと へやのしょうじを はりかえぬ そのひはそれにて こころなごみき
ある日のこと部屋の障子をはりかえた その日はそれにて心がなごんだ
120 かうしては居られずと思ひ 立ちにしが 戸外に馬の嘶きしまで
こうしては おられずとおもい たちにしが おもてにうまのいななきしまで
こうしてはいられないと思い、立ったのだが、外に馬がいなないただけだ
121
気ぬけして 廊下に立ちぬ あららかに 扉を推せしに すぐ開きしかば
きぬけして ろうかにたちぬ あららかに どあをおせしに すぐあきしかば
気が抜けて、廊下に立った、荒々しくドアを押したら、すぐに開いたので
122
ぢっとして 黒はた赤のインク吸ひ 堅くかわける 海綿を見る
じっとして くろはたあかのいんくすい かたくかわける かいめんをみる
じっとして、黒、はたまた赤のインクを吸う、固く乾いた海綿を見る
123
誰が見ても われをなつかしく なるごとき 長き手紙を 書きたき夕
たれがみても われをなつかしく なるごとき ながきてがみを かきたきゆうべ
誰が見ても私をなつかしくなるような長い手紙を書きたい夕べ
124 うすみどり 飲めば身体からだが水のごと透すきとほるてふ 薬はなきか
うすみどり のめばからだが みずのごと すきとおるてふ くすりはなきか
うすみどりで、飲むと体が水のように透き通るという薬はないか
125
いつも睨む ラムプに飽きて 三日ばかり 蝋燭の火に したしめるかな
いつもにらむ ランプにあきて みかばかり ろうそくのひに したしめるかな
いつも睨んでいるランプに飽きて、三日ばかり、ろうそくの火に、したしんだかな
126
人間のつかはぬ言葉 ひょっとして われのみ知れる ごとく思ふ日
にんげんの つかわぬことば ひょっとして われのみしれる ごとくおもうひ
人間の使わない言葉、ひょっとして、私のみ知っているかのように思う日だ
127
あたらしき 心もとめて 名も知らぬ 街など今日も さまよひて来ぬ
新しい心を求めて 名も知らぬ街などを 今日もさまよって来た
128 友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
友がみんな私より偉く見える日よ 花を買って来て 妻と親しむ
129 何すれば 此処に我ありや 時にかく打驚きて 室を眺むる
なにすれば ここにわれありや ときにかく うちおどろきて へやをながむる
何をすると、ここに私があるのか、時々こんなに驚いて、部屋を眺める
130
人ありて 電車のなかに 唾を吐く それにも 心いたまむとしき
ひとありて でんしゃのなかに つばをはく それにも こころいたまんとしき
人がいて電車の中に唾を吐いた、それにも、心が傷つこうとした
131
夜明けまで あそびてくらす 場所が欲し 家をおもへば こころ冷たし
よあけまで あそびてくらす ばしょがほし いえをおもえば こころつめたし
夜明けまで、遊んで暮らす場所が欲しい、家のことを思うと心が寒い
132
人みなが 家を持つてふ かなしみよ 墓に入るごとく かへりて眠る
人がみな家庭を持つという悲しみよ 墓に入るように帰って眠る
133
何かひとつ 不思議を示し 人みなの おどろくひまに 消えむと思ふ
何かひとつ不思議を示して 人がみなおどろく間に消えたいと思う
134 人といふ人のこころに 一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ
ひとという ひとのこころに ひとりづつ しゅうじんがいて うめくかなしさ
どんな人の心にも 一人ずつ囚人がいて 呻いている悲しさ
135
叱られて わつと泣き出す 子供心 その心にも なりてみたきかな
叱られてわっと泣き出す子供心 その心にもなってみたいな
136 盗むてふ ことさへ悪しと 思ひえぬ 心はかなし かくれ家もなし
ぬすむてふ ことさえあしと おもいえぬ こころはかなし かくれがもなし
盗むということすら悪いと思うことができない心が悲しい。隠れ家もない。
137
放たれし 女のごときかなしみを よわき男の 感ずる日なり
はなたれし おんなのごとき かなしみを よわきおとこの かんずるひなり
放たれた女のような悲しみを、弱い男が感じる日です
138
庭石に はたと時計をなげうてる 昔のわれの 怒りいとしも
にわいしに はたととけいを なげうてる むかしのわれの いかりいとしも
庭石に、ぱしっと時計を投げ打った 昔の私の怒りが愛しい
説明 はたと は、はったと、ぽんと、ぱしっと
139
顔あかめ 怒りしことが あくる日は さほどにもなきを さびしがるかな
顔を赤めて怒ったことが あくる日には さほどにもないことを さびしがるよ
140 いらだてる 心よ汝は かなしかり いざいざすこし あくびなどせむ
いらだてる こころよなれは かなしかり いざいざすこし あくびなどせむ
いらだっている心よ、汝は、悲しいのだな、いざいざ、少しあくびなどしてみよう。
説明 かなしかり は、形容詞 かなし のカリ活用で、悲しくあり が、悲しかり と変化したと考えられます
141 女あり わがいひつけに背かじと心を砕く 見ればかなしも
おんなあり わがいいつけに そむかじと こころをくだく みればかなしも
女がいる、私のいいつけにそむくまいと、心を砕いている、それを見るといとおしい
説明 女 は、この場合 妻のこと
142 ふがひなき わが日の本の女等を 秋雨の夜に ののしりしかな
ふがいなき わがひのもとの おんならを あきさめのよに ののしりしかな
ふがいないわが日本の女達を、秋雨の夜、ののしりました
143 男とうまれ 男と交り 負けてをり かるがゆゑにや秋が身に沁む
おとことうまれ おとことまじり まけており かるがゆゑにや わがみにしむ
男として生まれ、男と交際し、負けている、しかるがゆえに、我が身に沁むる
144 わが抱く思想はすべて 金なきに 因するごとし 秋の風吹く
わがいだく しそうはすべて かねなきに いんするごとし あきのかぜふく
私が抱く思想はみんな、金がないことに起因するようだ、秋風が吹く
145 くだらない小説を書きて よろこべる 男憐れなり 初秋の風
くだらない しょうせつをかきて よろこべる おとこあわれなり はつあきのかぜ
下らない小説を書いて喜んでいる男、あわれです、初秋の風
146 秋の風 今日よりは彼のふやけたる 男に口を 利かじと思ふ
あきのかぜ きょうよりはかの ふやけたる おとこにくちを きかじとおもう
秋風の今日から、あのふやけた男には、口をきくまいと思う
147 はても見えぬ 真直の街をあゆむごとき こころを今日は持ちえたるかな
はてもみえぬ ますぐのまちを あゆむごとき こころをきょうは もちえたるかな
果てが見えない真っすぐの街を歩くような心を、今日は持つことができたかな
148 何事も 思ふことなく いそがしく 暮らせし一日を 忘れじと思ふ
なにごとも おもうことなく いそがしく くらせしひとひを わすれじとおもう
何も思うことなく、忙しく暮らした一日を、忘れまいと思う
149 何事も 金金とわらひ すこし経て またも俄かに 不平つのり来
なにごとも かねかねとわらい すこしへて またもにわかに ふへいつのりく
何事も、金、金と笑い、すこし経て、またも俄かに、不平がつのって来る
150 誰そ我に ピストルにても 撃てよかし 伊藤のごとく 死にて見せなむ
たそわれに ピストルにても うてよかし いとうのごとく しにてみせなむ
誰か私に、ピストルででも撃ってくれ。伊藤のように死んで見せましょう。
151 やとばかり 桂首相に 手とられし 夢みて覚めぬ 秋の夜の二時
やとばかり かつらしゅしょうに てとられし ゆめみてさめぬ あきのよのにじ
えいや
とばかり、桂首相に手をとられた夢をみて、覚めた。秋の夜の二時
152
病のごと 思郷のこころ 湧く日なり 目にあおぞらの 煙かなしも
やまいのごと しきょうのこころ わくひなり めにあおぞらの けむりかなしも
病気のように故郷を思う心が湧く日です。目に青空の煙が悲しいことよ。
説明 「病のごと」の「ごと」は、「〜のたび」とも解釈できると思いますが、
「ごとし」の「し」が省略されたとして「〜のごとく」と解釈されているようです。
最後の「悲しも」の「も」は、詠嘆をあらわす終助詞で、「悲しいことよ」という意味になります。
153
己が名を ほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術(すべ)なし
自分の名を仄かに呼んで涙した十四の春にかえる術がない
説明 「涙せし」の「せ」は動詞「す」の連用形、「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形で、「涙した春」となります。
154
青空に 消えゆく煙 さびしくも 消えゆく煙 われにし似るか
青空に消えていく煙 さびしくも消えていく煙 私に似ているか
155 かの旅の 汽車の車掌が ゆくりなくも 我が中学の 友なりしかば
かの旅の、汽車の車掌が 思いがけなくも 我が中学の 友だったよ
説明 ゆくりなし=�〇廚い�けない、突然である ��不用意である、軽はずみである
156 ほとばしる ポンプの水の 心地よさよ しばしは若き こころもてみる
ほとばしるポンプの水の心地よさよ しばらくは若い心で眺める
157 師も友も 知らで責めにき 謎に似る 我が学業の おこたりの因
しもともも しらでせめにき なぞににる わががくぎょうの おこたりのもと
158
教室の 窓より遁げて ただ一人 かの城址(しろあと)に 寝に行きしかな
教室の窓から逃げて ただ一人 あの城跡に寝に行ったものだ
159 不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心
不来方のお城の草に寝転んで 空に吸われた十五の心
説明 不来方は、岩手県盛岡市
160 かなしみと いはばいふべき 物の味 我の嘗めしは あまりに早かり
かなしみと いわばいうべき もののあじ われのなめしは あまりにはやかり
161 晴れし空 仰げばいつも 口笛を 吹きたくなりて 吹きてあそびき
162 夜寝ても 口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の 歌にしありけり
163 よく叱る 師ありき髭の 似たるより 山羊と名づけて 口真似もしき
よく叱る師がいた。髭が似ているので、山羊と名付けて、口真似もした
164 われと共に 小鳥に石を 投げて遊ぶ 後備大尉の子もありしかな
われとともに ことりにいしを なげてあそぶ こうびたいいの こもありしかな
165 城址の 石に腰掛け 禁制の 木の実をひとり 味しこと
しろあとの いしにこしかけ きんせいの このみをひとり あじわいしこと
166 その後に 我を捨てし友も あの頃は 共に書読み ともに遊びき
そののちに われをすてししもも あのころは ともにふみよみ ともにあそびき
167 学校の図書庫の裏の 秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず
がっこうの としょぐらのうらの あきのくさ きなるはなさきし いまもなしらず
168 花散れば 先づ人さきに 白の服 着きて家出づる 我にてありしか
はなちれば まずひとさきに しろのふく きていういづる われにてありしか
169 今は亡き 姉の恋人の おとうとと なかよくせしを かなしと思ふ
いまはなき あねのこいびとの おとうとと なかよくせしを かなしとおもう
170 夏休み 果ててそのまま かへり来ぬ 若き英語の 教師もありき
なつやすみ はててそのまま かえりこぬ わかきえいごの きょうしもありき
171 ストライキ 思ひ出でても 今は早や 吾が血躍らず ひそかに淋し
すとらいき おもいいでても いまははや わがちおどらず ひそかにさびし
172 盛岡の 中学校の バルコンの 欄干に最一度 我を倚らしめ
もりおかの ちゅうがっこうの ばるこんの てすりにもいちど われをよらしめ
173 神有りと 言ひ張る友を 説きふせし かの路傍の 栗の樹の下
かみありと いいはるともを ときふせし かのみちばたの くりのきのもと
神ありと言い張る友を説き伏せた かの道端の栗の樹の下
174 西風に 内丸大路の 桜の葉 かさこそ散るを 踏みてあそびき
にしかぜに うちまるおおじの さくらのは かさこそちるを ふみてあそびき
175 そのかみの 愛読の書よ 大方は 今は流行らず なりにけるかな
そのかみの あいどくのしょよ おおかたは いまははやらず なりにけるかな
176 石ひとつ 坂をくだるが ごとくにも 我けふの日に 到り着きたる
いしひとつ さかをくだるが ごとくにも われきょうのひに いたりつきたる
177 愁ひある 少年の眼に 羨みき 小鳥の飛ぶを 飛びてうたふを
うれいある しょうねんのめに うらやみき ことりのとぶを とびてうたうを
178 解剖せし 蚯蚓のいのちも かなしかり かの校庭の 木柵の下
ふわけせし みみずのいのちも かなしかり かのこうていの もくさくのもと
179 かぎりなき知識の慾に 燃ゆる眼を 姉は傷みき 人恋ふるかと
かぎりなき ちしきのよくに もゆるめを あねはいたみき ひとこうるかと
180 蘇峯の書を 我に薦めし 友早く 校を退きぬ まづしさのため
そほうのしょを われにすすめし ともはやく こうをしりぞきぬ まずしさのため
181 おどけたる 手つきをかしと 我のみは いつも笑ひき 博学の師を
おどけたる てつきおかしと われのみは いつもわらいき はくがくのしを
182 自が才に身をあやまちし人のこと かたりきかせし 師もありしかな
じがさいに みをあやまちし ひとのこと かたりきかせし しもありしかな
183 そのかみの 学校一のなまけ者 今は真面目に はたらきて居り
そのかみの がっこういちの なまけもの いまはまじめに はたらきており
184 田舎めく 旅の姿を 三日ばかり 都に曝し かへる友かな
いなかめく たびのすがたを みっかばかり みやこにさらし かえるともかな
185 茨島の 松の並木の街道を われと行きし少女 才をたのみき
ばらじまの まつのなみきの かいどうを われとゆきしおとめ さいをたのみき
186 眼を病みて 黒き眼鏡を かけし頃 その頃よ一人 泣くをおぼえし
めをやみて くろきめがねを かけしころ そのころよひとり なくをおぼえし
187 わがこころ けふもひそかに 泣かむとす 友みな己が 道をあゆめり
わがこころ きょうもひそかに なかむとす ともみなおのが みちをあゆめり
188 先んじて恋のあまさと かなしさを 知りし我なり 先んじて老ゆ
さきんじて こいのあまさと かなしさを しりしわれなり さきんじておゆ
189 興来れば 友なみだ垂れ 手を揮りて 酔漢のごとく なりて語りき
きょうきたれば ともなみだたれ てをふりて よいどれのごとく なりてかたりき
190 人ごみの 中をわけ来くる わが友の むかしながらの 太き杖かな
ひとごみの なかをわけくる わがともの むかしながらの ふときつえかな
191 見よげなる 年賀の文を書く人と おもひ過ぎにき 三年ばかりは
みよげなる ねんがのふみを かくひとと おもいすぎにき みとせばかりは
192 夢さめて ふっと悲しむ わが眠り 昔のごとく 安からぬかな
ゆめさめて ふっとかなしむ わがねむり むかしのごとく やすからぬかな
193 そのむかし 秀才の名の 高かりし 友牢にあり 秋のかぜ吹く
そのむかし しゅうさいのなの たかかりし ともろうにあり あきのかぜふく
その昔、秀才の名の高かった友が牢にいる。秋風が吹く
194 近眼にて おどけし歌をよみ出でし 茂雄の恋も かなしかりしか
ちかめにて おどけしうたを よみいでし しげおのこいも かなしかりしか
195 わが妻の むかしの願ひ 音楽の ことにかかりき 今はうたはず
わがつまの むかしのねがい おんがくの ことにかかりき いまはうたわず
196 友はみな 或日四方に 散り行きぬ その後八年 名挙げしもなし
ともはみな あるひしほうに ちりゆきぬ そののちやとせ なあげしもなし
197 わが恋を はじめて友に うち明けし 夜のことなど 思ひ出づる日
わがこいを はじめてともに うちあけし よるのことなど おもいいづるひ
198 糸切れし 紙鳶のごとくに 若き日の 心かろくも とびさりしかな
いときれし たこのごとくに わかきひの こころかろくも とびさりしかな
199 ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
故郷の訛りがなつかしい、停車場の人ごみのなかに、それを聴きにいく
説明 「なつかし」は、口語では「なつかしい」です。口語を使うと字余りになります。
200
やまひある 獣のごとき わがこころ ふるさとのこと 聞けばおとなし
病ある獣のような私の心 ふるさとのことを聞けばおとなしい
201 ふと思ふ ふるさとにゐて 日毎聴きし 雀の鳴くを 三年聴かざり
ふとおもう ふるさとにいて ひごとききし すずめのなくを みとせきかざり
202
亡くなれる 師がその昔 たまひたる 地理の本など 取りいでて見る
なくなれる しがそのむかし たまいたる ちりのほんなど とりいでてみる
203
その昔 小学校の 柾屋根に 我が投げし鞠 いかにかなりけむ
そのむかし しょうがっこうの まさやねに わがなげしまり いかにかなりけむ
204 ふるさとの かの路傍のすて石よ 今年も草に 埋もれしらむ
ふるさとの かのみちばたの すていしよ ことしもくさに うずもれしらむ
205
わかれをれば 妹いとしも 赤き緒の 下駄など欲しと わめく子なりし
わかれおれば いもといとしも あかきおの げたなどほしと わめくこなりし
206 二日前に 山の絵見しが 今朝になりて にはかに恋し ふるさとの山
ふつかまえに やまのえみしが けさになりて にわかにこいし ふるさとのやま
二日前に山の絵を見たが 今朝になって にわかに恋しい 故郷の山
207
飴売うりの チャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし
あめうりの ちゃるめらきけば うしないし おさなきこころ ひろえるごとし
飴売りの チャルメラを聴くと 失った幼い心を 拾ったかのようだ
208 このごろは 母も時時 ふるさとのことを言ひ出いづ 秋に入れるなり
このごろは ははもときどき ふるさとの ことをいいいづ あきにいれるなり
この頃は 母も時々 故郷の ことを言いだす 秋に入ったなあ
209
それとなく 郷里のことなど 語り出でて 秋の夜に焼く 餅のにほひかな
それとなく くにのことなど かたりいでて あきのよにやく もちのにおいかな
それとなく故郷のことなど語り出して 秋の夜に焼く 餅のにおいかな
210
かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川
あれこれと 渋民村は恋しいです おもいでの山 おもいでの川
説明 「かにかくに」は、「あれこれと、いろいろと」という意味です。
「とにかく」という言葉は現在も生き残っていますが、同じ意味のようです。
「恋しかり」は、「恋し」という形容詞に動詞「あり」がつながって、「恋しからず」のような否定形を作るのですが、
終止形の「恋しかり」は昔は使いませんでした。
ここでは、終止形として使っているようですが、詳しいことは私もわかりません。
211 田も畑も 売りて酒のみ ほろびゆくふるさと人に 心寄する日
たもはたも うりてさけのみ ほろびゆく ふるさとびとに こころよするひ
田も畑も売って 酒を飲んで滅んで行く 故郷の人に 心を寄せる日
212
あはれかの我の教へし 子等もまた やがてふるさとを 棄てて出づるらむ
あわれかの われのおしえし こらもまた やがてふるさとを すてていづるらむ
あわれだ、あの私が教えた子等もまた、やがて故郷を捨てて出るのだろう
213
ふるさとを 出で来し子等の 相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし
ふるさとを いできしこらの あいあいて よろこぶにまさる かなしみはなし
ふるさとを出てきた子等が 互いに会って 喜ぶにまさる 悲しみはない
214 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消えるときなし
石をもって追われるごとく ふるさとを出た悲しみは 消える時がない
215 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
やわらかに やなぎあおめる きたかみの きしべめにみゆ なけとごとくに
やわらかく柳が青んだ北上の岸辺が 目に見える 泣けというかのように
216 ふるさとの 村医の妻の つつましき 櫛巻なども なつかしきかな
ふるさとの そんいのつまの つつましさ くしまきなども なつかしきかな
故郷の村医者の妻のつつましさよ くし巻きなども
なつかしいことよ
217 かの村の 登記所に来て 肺病みて 間もなく死にし 男もありき
かのむらの とうきしよにきて はいやみて まもなくしにし おとこもありき
かの村の登記所に来て 肺を病んで 間もなく死んだ 男がいたなあ
218 小学の首席を我と争あらそひし 友のいとなむ 木賃宿かな
しょうがくの しゅせきをわれと あらそいし とものいとなむ きちんやどかな
小学校の首席を争った 友が営む 木賃宿だなあ
219 千代治等も 長じて恋し 子を挙げぬ わが旅にして なせしごとくに
ちよじらも ちょうじてこいし こをあげぬ わがたびにして なせしごとくに
220 ある年の 盆の祭に 衣貸さむ 踊れと言ひし 女を思ふ
あるとしの ぼんのまつりに きぬかさむ おどれといいし おんなをおもう
221 うすのろの 兄と不具の 父もてる 三太はかなし 夜も書読む
うすのろの あにとかたわの ちちもてる さんたはかなし よるもふみよむ
222 我と共に 栗毛の仔馬 走らせし 母の無き子の 盗癖かな
われとともに くりげのこうま はしらせし ははのなきこの ぬすみぐせかな
223 大形の 被布の模様の 赤き花 今も目に見ゆ 六歳の日の恋
おおがたの ひふのもようの あかきはな いまもめにみゆ むつのひのこい
224 その名さへ 忘られし頃 飄然と ふるさとに来て 咳せし男
そのなさえ わすれられしころ ひょうぜんと ふるさとにきて せきせしおとこ
その名さえ 忘れられた頃 飄然と 古里に来て 咳をした男
225
意地悪の 大工の子なども かなしかり 戦に出でしが 生きてかへらず
いじわるの だいくのこなども かなしかり いくさにいでしが いきてかえらず
226 肺を病む 極道地主の 総領の よめとりの日の 春の雷かな
はいをやむ ごくどうじぬしの そうりょうの よめとりのひの はるのらいかな
227 宗次郎に おかねが泣きて 口説き居り 大根の花 白きゆふぐれ
そうじろに おかねがなきて くどきおり だいこんのはな しろきゆうぐれ
228 小心の 役場の書記の 気の狂れし 噂に立てる ふるさとの秋
しょうしんの やくばのしょきの きのふれし うわさにたてる ふるさとのあき
229 わが従兄 野山の猟に 飽きし後 酒のみ家売り 病みて死にしかな
わがいとこ のやまのかりに あきしのち さけのみいえうり やみてしにしかな
230 我ゆきて 手をとれば泣きてしづまりき 酔ひて荒れしそのかみの友
われゆきて てをとればなきて しずまりき えいてあばれし そのかみのとも
231 酒のめば 刀をぬきて妻を逐ふ 教師もありき 村を遂はれき
さけのめば かたなをぬきて つまをおう きょうしもありき むらをおわれき
酒をのむと 刀を抜いて 妻を追う教師がいました 村を追われました
232 年ごとに肺病みの 殖えてゆく 村に迎へし 若き医者かな
としごとに はいびょうやみの ふうてゆく むらにむかえし わかきいしゃかな
233 ほたる狩 川にゆかむといふ我を 山路にさそふ 人にてありき
ほたるがり かわにゆかむと いうわれを やまじにさそう ひとにてありき
234 馬鈴薯の うす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に
ばれいしょの うすむらさきの はなにふる あめをおもえり みやこのあめに
235 あはれ我がノスタルジヤは 金のごと 心に照れり清くしみらに
あわれわが のすたるじやは きんのごと こころにてれり きよくしみらに
236 友として遊ぶものなき 性悪の 巡査の子等も あはれなりけり
ともとして あそぶものなき しょうわるの じゅんさのこらも あわれなりけり
237 閑古鳥 鳴く日となれば 起こるてふ 友のやまひのいかになりけむ
かんこどり なくひとなれば おこめちょう とものやまいの いかになりけむ
238
わが思ふこと おほかたは正ただしかり ふるさとのたより 着ける朝あしたは
わがおもうこと おおかたはだしかり ふるさとのたより つけるあしたは
239 今日聞けば かの幸うすき やもめ人 きたなき恋に身を入るるてふ
きょうきけば かのさちうすき やもめびと きたなきこいに みをいるるてふ
240 わがために なやめる魂をし づめよと 讃美歌うたふ 人ありしかな
わがために なやめるたまを しずめよと さんびかうたう ひとありしかな
241 あはれかの 男のごときたましひよ 今は何処に 何を思ふや
あわれかの おとこのごとき たましいよ いまはいずこに なにをおもうや
242 わが庭の 白き躑躅を 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ
わがにわの しろきつつじを うすづきの よに おりゆきし ことなわすれそ
243 わが村に 初めてイエス・クリストの道を説きたる 若き女かな
わがむらに はじめていえす くりすとの みちをときたる わかきおんなかな
244 霧ふかき 好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ
きりふかき こうまのはらの ていしゃばの あさのむしこそ すずろなりけれ
245 汽車の窓 はるかに北に ふるさとの 山見え来れば 襟を正すも
きしゃのまど はるかにきたに ふるさとの やまみえくれば えりをただすも
246 ふるさとの 土をわが踏めば 何がなしに足軽くなり 心重れり
ふるさとの つちをわがふめば なにがなしに あしかろくなり こころおもれり
247
ふるさとに 入りて先ず 心痛むかな 道広くなり 橋もあたらし
ふるさとに入ってまず 心が痛むことよ 道が広くなり 橋も新しい
248 見もしらぬ 女教師が そのかみの わが学舎の 窓に立てるかな
みもしらぬ おんなきょうしが そのかみの わがまなびやの まどにたてるかな
見も知らない女教師が、その当時の私の学び舎の、窓に立ったのですよ
説明 其の上 (そのかみ) は、そのころ、当時 の意
249 かの家の かの窓にこそ 春の夜を 秀子とともに 蛙聴きけれ
かのいえの かのまどにこそ はるのよを ひでことともに かわずききけれ
かの家のかの窓にこそ、春の夜、秀子と共に、カエルを聴いたなあ
説明 堀田秀子は、啄木が1906年に、故郷渋民で、代用教員をしていたときの同僚
250 そのかみの 神童の名の かなしさよ ふるさとに来て 泣くはそのこと
そのかみの しんどうのなの かなしさよ ふるさとにきて なくはそのこと
その当時の神童の名のかなしさよ 古里にきて 泣くのはそのこと
251 ふるさとの停車場路の 川ばたの 胡桃の下に小石拾へり
ふるさとの ていしゃばみちの かわばたの くるみのしたに こいしひろえり
古里の 停車場道の 川端の クルミの下に 小石を拾った
252 ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
ふるさとの山に向かって言うことがない ふるさとの山はありがたいな
説明 「言ふことなし」の「なし」ですが、文句なし(あり)、異議なし(異議あり)のように、
「なし」、「あり」 で結ぶ文語文章の軽快な力強さは捨てがたく、日常の会話でも、しばしば使われます。
253
ふるさとの 空遠みかも 高き屋に ひとりのぼりて 愁ひて下る
ふるさとの空の遠いことよ 高い建物にひとり登って愁いて下りる
説明 「遠み」とは、「高み」と同じ語法で、「遠いところ」という意味ですが、
万葉集などで、「遠みかも」と詠われて、「遠すぎることよ」と解釈されています。
254 皎として 玉をあざむく 小人も 秋来といふに 物を思へり
かうとして たまをあざむく しょうじんも あきくというに ものをおもえり
255 かなしきは 秋風ぞかし 稀にのみ 湧きし涙の 繁に流るる
かなしきは あきかぜぞかし まれにのみ わきしなみだの しじにながるる
256 青に透く かなしみの玉に 枕して 松のひびきを 夜もすがら聴く
あおにすく かなしみのたまに まくらして まつのひびきを よもすがらきく
257 神寂びし 七山の杉 火のごとく 染めて日入りぬ 静かなるかな
かみさびし ななやまのすぎ ひのごとく そめてひいりぬ しずかなるかな
258 そを読めば 愁ひ知るといふ 書焚ける いにしへ人の 心よろしも
そをよめば うれいしるという ふみたける いにしえびとの こころよろしも
259
ものなべてうらはかなげに 暮れゆきぬ とりあつめたる悲しみの日は
ものなべて うらはかなげに くれゆきぬ とりあつめたる かなしみのひは
260 水潦 暮れゆく空と くれなゐの 紐を浮べぬ 秋雨の後
みずたまり くれゆくそらと くれないの ひもをうかべぬ あきさめののち
261 秋立つは 水にかも似る 洗はれて 思ひことごと 新しくなる
あきたつは みずにかもにる あらわれて おもいこととごと あたらしくなる
262 愁ひ来て 丘にのぼれば 名も知らぬ 鳥啄めり 赤き茨の実み
うれいきて おかにのぼれば なもしらぬ とりついばめり あかきばらのみ
263 秋の辻 四すぢの路の 三すぢへと 吹きゆく風の あと見えずかも
あきのつじ よすじのみちの みすじへと ふきゆくかぜの あとみえずかも
264 秋の声 まづいち早く 耳に入る かかる性持つ かなしむべかり
あきのこえ まずいちはやく みみにいる かかるさがもつ かなしむべかり
265 目になれし 山にはあれど 秋来くれば 神や住まむと かしこみて見る
めになれし やまにはあれど あきくれば かみやすまむと かしこみてみる
266 わが為さむこと 世に尽きて 長き日を かくしもあはれ物を思ふか
わがなさむこと よりつきて ながきひを かくしもあわれ ものをおもうか
267 さらさらと 雨落ち来り 庭の面の 濡れゆくを見て 涙わすれぬ
さらさらと あめおちきたり にわのもの ぬれゆくをみて なみだわすれぬ
268 ふるさとの 寺の御廊に 踏みにける 小櫛の蝶を 夢にみしかな
ふるさとの てらのみろうに ふみにける おぐしのちょうを ゆめにみしかな
269
こころみに いとけなき日の 我となり 物言ひてみむ人あれと思ふ
こころみに いとけなきひの われとなり ものいいてみむ ひとあれとおもう
270 はたはたと 黍の葉鳴れる ふるさとの 軒端なつかし 秋風吹けば
はたはたと きびのはなれる ふるさとの のきばなつかし あきかぜふけば
271 摩れあへる 肩のひまより はつかにも 見きといふさへ 日記に残れり
すれあえる かたのひまより はつかにも みきというさえ にっきにのこれり
272 風流男は 今も昔も 泡雪の 玉手さし捲く 夜にし老ゆらし
みやびおは いまもむかしも あわゆきの たまてさしまく よにしおゆらし
273
かりそめに 忘れても見まし 石だたみ 春生ふる草に 埋るるがごと
かりそめに わすれてもみまし いしだたみ はるおうるくさに うもるるがごと
274 その昔 揺籃に寝て あまたたび 夢にみし人か 切になつかし
そのむかし ゆりかごにねて あまたたび ゆめにみしひとか せちになつかし
275 神無月 岩手の山の 初雪の 眉にせまりし 朝を思ひぬ
かみなづき いわてのやまの はつゆきの まゆにせまりし あさをおもいぬ
276 ひでり雨 さらさら落ちて 前栽の 萩のすこしく乱れたるかな
ひでりあめ さらさらおちて せんざいの はぎのすこしく みだれたるかな
277 秋の空 廓寥として 影もなし あまりにさびし 烏など飛べ
あきのそら かくりょうとして かげもなし あまりにさびし からすなどとべ
説明 廓寥 ひろびろとしてからっぽなさま、もの寂しいさま
278 雨後の月 ほどよく濡れし 屋根瓦の そのところどころ光るかなしさ
うごのつき ほどよくぬれし やねがわらの そのところどころ ひかるかなしさ
279
われ饑ゑて ある日に細き 尾を掉りて 饑ゑて我を見る犬の面よし
われうえて あるひにほそき おをふりて うえてわれをみる いぬのつらよし
280 いつしかに 泣くといふこと 忘れたる 我泣かしむる 人のあらじか
いつのまにか、泣くということを忘れてしまった私を、泣かせる人はいないのだろうか。
説明 「いつしかに」は、いつのまにかという意味の副詞「いつしか」に、時を示す格助詞「に」が加わり
「いつのまにかに」という意味を表します。
「忘れたる」の「たる」は、動作や状態が存続・完了したことを示す助動詞「たり」の連体形で、我を修飾し、
「忘れてしまった私」という意味になります。
「泣かしむる」の「しむる」は、使役を表す助動詞「しむ」の連体形で、続く「人」にかかり、「泣かさせる人」という意味になります。
「あらじ」の「じ」は、打消し推量を示す助動詞「じ」で、「(あら)ないだろう」という意味となり、
疑問や問いかけを表す格助詞「か」がついて、「ないだろうか」という意味となります。
281 汪然として ああ酒のかなしみぞ 我に来れる 立ちて舞ひなむ
おうぜんとして ああさけの かなしみぞ われにきたれる たちてまいなむ
282
いとど鳴く そのかたはらの石に踞し 泣き笑ひして ひとり物言ふ
いとどなく そのかたわらの いしにきょし なきわらいして ひとりものいう
283 力なく 病みし頃より 口すこし 開きて眠るが 癖となりにき
ちからなく やみしころより くちすこし あきてねむるが くせとなりにき
284 人ひとり 得るに過ぎざる 事をもて 大願とせし 若きあやまち
ひとひとり うるにすぎざる ことをもて たいがんとせし わすきあやまち
285 物怨ずる そのやはらかき 上目をば 愛づとことさらつれなくせむや
ものえずる そのやわらかき うわめをば めづことことさら つれなくせむや
286 かくばかり 熱き涙は 初恋の 日にもありきと 泣く日またなし
かくばかり あつきなみだは はつこいの ひにもありきと なくひまたなし
287 長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く
ながくながく わすれしともに あうごとき よろみびをもて みずのおときく
288 秋の夜の 鋼鉄の色の 大空に 火を噴く山も あれなど思ふ
あきのよの はがねのいろの おおぞらに ひをはくやまも あれなとおもう
289 岩手山 秋はふもとの 三方の 野に満つる虫を 何と聴くらむ
いわてやま あきはふもとの さんぽうの のにみつるむしを なにときくらむ
290 父のごと秋はいかめし 母のごと 秋はなつかし 家持たぬ児に
ちちのごと あきはいかめし ははのごと あきはなつかし いえもたぬこに
291 秋来れば 恋ふる心の いとまなさよ 夜もい寝がてに 雁多く聴く
あきくれば こうるこころの いとまなさよ よもいねがてに かりおおくきく
292 長月も 半ばになりぬ いつまでか かくも幼く 打出でずあらむ
ながつきも なかばになりぬ いつでも かくもおさなく うちいでずあらむ
293
思ふてふ こと言はぬ人の おくり来し 忘れな草も いちじろかりし
おもうてふ こといわぬひとの おくりきし わすれなぐさも いちじろかりし
294 秋の雨に 逆反りやすき 弓のごと このごろ君の したしまぬかな
あきのあめに さかぞりやすき ゆみのごと このごろきみの したしまぬかな
295 松の風 夜昼ひびきぬ 人訪はぬ 山の祠の 石馬の耳に
あきのかぜ よひるひびきぬ ひととわぬ やまのほこらの いしうまのみみに
296
ほのかなる 朽木の香かをり そがなかの 蕈の香りに 秋やや深し
ほのかなる くちきのり そがなかの たけのかおりに あきややふかし
297 時雨降る ごとき音して 木伝ひぬ 人によく似し 森の猿ども
しぐれふる ごときおとして こづたひぬ ひとによくにし もりのさるども
298 森の奥 遠きひびきす 木のうろに 臼ひく侏儒の 国にかも来し
もりのおく とおきひびきす きのうろに うすひくしゅじゅの くににかもきし
299 世のはじめ まづ森ありて 半神の 人そが中に火や守りけむ
よのはじめ まずもりありて はんしんの ひとそがなかに ひやまもりけむ
300
はてもなく 砂うちつづく ゴビの野に 住みたまふ神は 秋の神かも
はてもなく すなうちつづく ゴビののに すみたまうかみは あきのかみかも
301 あめつちに わが悲しみと 月光と あまねき秋の 夜となれりけり
あめつちに わがかなしみと げっこうと あまねきあきの よとなれりけり
302 うらがなしき 夜の物の音 洩れ来くるを 拾ふがごとくさまよひ行きぬ
うらがなしき よるのもののね もれくるを ひろうがごとく さまよいゆきぬ
303
旅の子の ふるさとに来て 眠るがに げに静かにも 冬の来しかな
たびのこの ふるさとにきて ねむるがに げにしずかにも ふゆのきしかな
304
潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや
しおかおる きたのはまべの すなやまの かのはまなすよ ことしもさけるや
潮かおる北の浜辺の砂山のあのハマナスよ 今年も咲いたか
説明 函館の石川啄木記念像建設期成会の人々によって市内日ノ出町の小公園に建てられた啄木銅像の台石に刻まれています。
305 たのみつる 年の若さを 数へみて 指を見つめて 旅がいやになりき
たのみつる としのわかさを かぞえみて ゆびをみつめて たびがいやになりき
306
三度ほど 汽車の窓より ながめたる 町の名なども したしかりけり
みたびほど きしゃのまどより ながめたる まちのななども したしかりけり
307 函館の 床屋の弟子を おもひ出でぬ 耳剃らせるが こころよかりし
はこだての とこやのでしを おもいいでぬ みみそらせるが こころよかりし
308
わがあとを 追ひ来て知れる 人もなき 辺土に住みし 母と妻かな
わがあとを おいきてしれる ひともなき へんどにすみし ははとつまかな
309 船に酔ゑひてやさしくなれる いもうとの 眼見ゆ 津軽の海を思へば
ふねにゑひて やさしくなれる いもうとの めみゆつがるの うみをおもへば
310 目を閉とぢて 傷心の句を 誦してゐし 友の手紙のおどけ悲しも
めをとじて しょうしんのくを ずしていし とものてがみの おどけかなしも
311 をさなき時 橋の欄干に 糞塗りし 話も友は かなしみてしき
おさなきとき はしのらんかんに くそぬりし はなしもともは かなしみてしき
312 おそらくは 生涯妻をむかへじと わらひし友よ 今もめとらず
おそらくは しょうがいつまを むかえじと わらいしともよ いまもめとらず
おそらくは生涯妻を迎えまいと 笑った友よ 今もめとっていない
313
あはれかの 眼鏡の縁を さびしげに 光らせてゐし 女教師よ
あわれかの めがねのふちを さびしげに ひからせていし おんなきょうしよ
あわれだ。かのメガネの縁をさびしげに光らせていた女教師よ
説明 若くて美しかった弥生小学校教員 高橋すゑ子のこと
314 友われに飯を与へき その友に背きし我の 性のかなしさ
ともわれに めしをあたえき そのともに そむきしわれの さがのかなしさ
友が私に飯を与えた。その友に背いた私の性格のかなしさよ。
315 函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
はこだての あおやぎちょうこそ かなしけれ とものこいうた やぐるまのはな
函館の青柳町こそ、懐かしかったよ。友の恋歌や矢車の花。
316
ふるさとの 麦のかをりを 懐かしむ 女の眉に こころひかれき
ふるさとの むぎのかおりを なつかしむ おんなのまゆに こころひかれき
317 あたらしき 洋書の紙の 香をかぎて 一途に金を 欲しと思ひしが
あたらしき ようしょのかみの かをかぎて いちづにかねを ほしとおもいしが
318
しらなみの 寄せて騒げる 函館の 大森浜に 思ひしことども
しらなみの よせてさわげる はこだての おおもりはまに おもいしことども
白波が寄せて砕ける函館の 大森浜で思った事ども
319 朝な朝な 支那の俗歌を うたひ出づる まくら時計を 愛でしかなしみ
あさなあさな しなのぞくかを うたいいづる まくらとけいを めでしかなしみ
320
漂泊の 愁ひを叙して 成らざりし 草稿の字の 読みがたさかな
ひょうはくの うれいをじょして ならざりし そうこうのじの よみがたさかな
321
いくたびか 死なむとしては 死なざりし わが来しかたの をかしく悲し
いくたびか しなむとしては しなざりし わがこしかたの おかしくかなし
いくたびか死のうとしては死ななかった 私の来た道のおかしく悲しいことよ
322 函館の 臥牛の山の半腹の 碑の漢詩も なかば忘れぬ
はこだての がぎゅうのやまの はんぷくの ひのからうたも なかばわすれぬ
323 むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき
むやむやと くちのうちにて とうとげの ことをつぶやく こじきもありき
324 とるに足らぬ 男と思へと言ふごとく 山に入りにき 神のごとき友
とるにたらぬ おとことおもえと いうごとく やまにいりにき かみのごときとも
325 巻煙草 口にくはへて 浪あらき 磯の夜霧に立ちし女よ
まきたばこ くちにくわえて なみあらき いそのよぎりに たちしおんなよ
326
演習の ひまにわざわざ 汽車に乗りて 訪ひ来し友と のめる酒かな
えんしゅうの ひまにわざわざ きしゃにのりて といきしともと のめるさけかな
327 大川の 水の面を見るごとに 郁雨よ 君のなやみを思ふ
おおかわの みずのおもてをみるごとに いくうよきみの なやみをおもう
328 智慧とその 深き慈悲とを もちあぐみ 為すこともなく 友は遊べり
ちえとその ふかきじひとを もちあぐみ なすこともなく ともはあそべり
329
こころざし 得ぬ人人の あつまりて 酒のむ場所が 我が家なりしかな
こころざし えぬひとびとの あつまりて さけのむばしょが わがいえなりしかな
330 かなしめば 高く笑ひき 酒をもて 悶を解すといふ 年上の友
かなしめば たかくわらいき さけをもて もんをげすという としうえのとも
331 若くして 数人の父となりし友 子なきがごとく 酔へばうたひき
わかくして すにんのちちと なりしとも こなきがごとく よえばうたひき
若くして数人の父となった友 子どもがいないかのように 酔っては歌った
332
さりげなき高き笑ひが 酒とともに 我が腸に沁みにけらしな
さりげなき たかきわらいが さけとともに わがはらわたに しみにけらしな
333 あくび噛み 夜汽車の窓に別れたる 別れが今は 物足らぬかな
あくびかみ よぎしゃのまどに わかれたる わかれがいまは ものたらぬかな
334 雨に濡れし 夜汽車の窓に 映りたる 山間の町のともしびの色
あめにぬれし よぎしゃのまどに うつりたる やまあいのまちの ともしびのいろ
335
雨つよく 降る夜の汽車の たえまなく 雫流るる 窓硝子かな
あめつよく ふるよのきしゃの たえまなく しずくながるる まどがらすかな
336 真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢の 古き痍あと
まよなかの くっちぁんえきに おりゆきし おんなのびんの ふるききずあと
337
札幌に かの秋われの 持てゆきし しかして今も 持てるかなしみ
札幌にあの秋 私が持っていった、そして今も持っている悲しみよ
338 アカシヤの なみきにポプラに 秋の風 吹くがかなしと 日記に残れり
あかしやの なみきにぽぷらに あきのかぜ ふくがかなしと にっきにのこれり
339 しんとして 幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の 焼くるにほひよ
しんとして はばひろきまちの あきのよの とうもろこしの やけるにおいよ
340 わが宿の 姉と妹のいさかひに 初夜過ぎゆきし 札幌の雨
わがやどの あねといもとのいさかいに しょやすぎゆきし さっぽろのあめ
341
石狩の 美国といへる 停車場の 柵に乾してありし 赤き布片かな
いしかりの びくにといえる ていしゃばの さくにほしてありし あかききれかな
342
かなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき ひとびとの 声の荒さよ
悲しいのは小樽の町よ 歌うことのない人達の声の荒さよ
343 泣くがごと 首ふるはせて 手の相を 見せよといひし 易者もありき
なくがごと くびふるわせて てのそうを みせよといいし えきしゃもありき
344 いささかの 銭借りてゆきし わが友の 後姿の 肩の雪かな
いささかの ぜにかりてゆきし わがともの うしろすがたの かたのゆきかな
345
世わたりの 拙きことを ひそかにも 誇りとしたる我にやはあらぬ
よわたりの つたなきことを ひそかにも ほこりとしたる われにやはあらぬ
346 汝が痩せし からだはすべて 謀叛気の かたまりなりと いはれてしこと
ながやせし からだはすべて むほんぎの かたまりなりと いわれてしこと
347 かの年の かの新聞の 初雪の 記事を書きしは 我なりしかな
かのとしの かのしんぶんの はつゆきの きじをかきしは われなりしかな
348
椅子をもて 我を撃たむと 身構へし かの友の酔ひも 今は醒めつらむ
いすをもて われをうたむと みがまえし かのとものよひも いまはさめつらむ
349 負けたるも 我にてありき あらそひの 因も我なりしと 今は思へり
まけたるも われにてありき あらそいの もともわれなりしと いまはおもえり
350 殴らむといふに 殴れとつめよせし 昔の我のいとほしきかな
なぐらむというに なぐれとつめよせし むかしのわれの いとおしきかな
351 汝三度 この咽喉に剣を擬したりと 彼告別の辞に言へりけり
なれみたび こののどにけんを ぎしたりと かれこくべつの じにいえりけり
352
あらそひて いたく憎みて 別れたる 友をなつかしく 思ふ日も来ぬ
あらそいて いたくにくみて わかれたる ともをなつかしく おもうひもきぬ
353 あはれかの 眉の秀でし 少年よ 弟と呼べば はつかに笑みしが
あわれかの まゆのひしでし しょうねんよ おとうととよべば はつかにえみしが
354 わが妻に 着物縫はせし 友ありし 冬早く来る 植民地かな
わがつまに きものぬわせし ともありし ふゆはやくくる しょくみんちかな
355 平手てもて 吹雪にぬれし 顔を拭く 友共産を主義とせりけり
ひらてもて ふぶきにぬれし かおをふく ともきょうさんを しゅぎとせりけり
356
酒のめば 鬼のごとくに 青かりし 大いなる顔よ かなしき顔よ
さけのめば おにのごとくに あおかりし おおいなるかおよ かなしきかおよ
357 樺太に 入りて新しき 宗教を 創めむといふ 友なりしかな
からふとに いりてあたらしき しゅうきょうを はじめむという ともなりしかな
358 治まれる 世の事無さに 飽きたりと いひし頃こそ かなしかりけれ
おさまれる よのことなさに あきたりと いいしころこそ かなしかりけれ
359 共同の 薬屋開き 儲けむと いふ友なりき 詐欺せしといふ
きょうどうの くすりやひらき もうけむと いうともなりき さぎせしという
共同の薬屋を開き、儲けようという友だった。詐欺をしたという。
360 あをじろき 頬に涙を光らせて 死をば語りき 若き商人
あおじろき ほほになみだを ひからせて しをばかたりき わかきあきびと
361 子を負ひて 雪の吹き入る 停車場に われ見送りし 妻の眉かな
こをおいて ゆきのふきいる ていしゃばに われみおくりし つまのまゆかな
362 敵として 憎みし友と やや長く 手をば握りき わかれといふに
てきとして にくみしともと ややながく てをばにぎりき わかれというに
363 ゆるぎ出づる 汽車の窓より 人先に 顔を引きしも 負けざらむため
ゆるぎいづる きしゃのまどより ひとさきに かおをひきしも まけざらむため
364
みぞれ降る 石狩の野の 汽車に読みし ツルゲエネフの物語かな
みぞれふる いしかりののの きしゃによみし つるげえねふの ものがたりかな
365 わが去れる 後の噂を おもひやる 旅出はかなし 死ににゆくごと
わがされる のちのうわさを おもいやる たびではかなし しににゆくごと
366 わかれ来て ふと瞬けば ゆくりなく つめたきものの 頬をつたへり
わかれきて ふとまたたけば ゆくりなく 詰めた着物のほほをつたえり
367 忘れ来し 煙草を思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き 雪の野の汽車
わすれきし たばこをおもう ゆけどゆけど やななおとおき ゆきのののきしゃ
368 うす紅く 雪に流れて 入日影 曠野の汽車の窓を照せり
うすあかく ゆきにながれて いりひかげ あらののきしゃの まどをてらせり
369
腹すこし 痛み出でしを しのびつつ 長路の汽車に のむ煙草かな
はらすこし いたみいでしを しのびつつ ちょうろのきしゃに のむたばこかな
370 乗合の 砲兵士官の 剣の鞘 がちゃりと鳴るに 思ひやぶれき
のりあいの ほうへいしかんの けんのさや がちゃりとなるに おもいやぶれき
371 名のみ知りて 縁もゆかりも なき土地の 宿屋安けし 我が家のごと
なのみしりて えんもゆかりも なきとちの やどややすけし わがいえのごと
372 伴なりし かの代議士の 口あける 青き寐顔を かなしと思ひき
つれなりし かのだいぎしの くちあける あおきねがおを かなしとおもいき
373
今夜こそ 思ふ存分 泣いてみむと 泊まりし宿屋の 茶のぬるさかな
今夜こそ思う存分泣いてみようと 泊まった宿屋の茶のぬるさよ
374 水蒸気 列車の窓に 花のごと 凍てしを染むる あかつきの色
すいじょうき れっしゃのまどに はなのごと いてしをそむる あかつきのいろ
375 ごおと鳴る 凩しのあと 乾きたる 雪舞ひ立ちて 林を包めり
ごおとなる みがらしのあと かわきたる ゆきまいたちて はやしをつつめり
376 空知川 雪に埋もれて 鳥も見えず 岸辺の林に 人ひとりゐき
そらちがわ ゆきにうもれて とりもみえず きしべのはやしに ひとひとりいき
377 寂莫を 敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を 送る人もあり
せきばくを てきとしともとし ゆきのなかに ながきいっしょうを おくるひともあり
378
いたく汽車に 疲れて猶も きれぎれに 思ふは我の いとしさなりき
いたくきしゃに つかれてなおも きれぎれに おもうはわれの いとしさなりにき
379 うたふごと 駅の名呼びし 柔和なる 若き駅夫の眼をも忘れず
うたうごと えきのなよびし 集をなるわかきえきふの めをもわすれず
歌う如くに 駅の名を呼んだ 柔和な若い駅員の眼を忘れない
380
雪のなか 処処に 屋根見えて 煙突つの 煙うすくも空にまよへり
ゆきのなか しょしょにやねみえて えんとつの けむりうすくも そらにまよえり
381 遠くより 笛ながながと ひびかせて 汽車今とある 森林に入る
とおくより ふえながながと ひびかせて きしゃいまとある しんりんにいる
382 何事も 思ふことなく 日一日 汽車のひびきに 心まかせぬ
なにごとも おもうことなく ひいちにち きしゃのひびきに こころまかせぬ
383 さいはての 駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき
さいはての えきにおりたち ゆきあかり さびしきまちに あゆみいりにき
384 しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな
しらしらと こおりかがやき ちどりなく くしろのうみの ふゆのつきかな
385 こほりたる インクの罎を 火に翳し 涙ながれぬ ともしびの下
こおりたる いんくのびんを ひにかざし なみだながれぬ ともしびのもと
386 顔とこゑ それのみ昔に 変らざる 友にも会ひき 国の果にて
かおとこえ それのみむかしに かわらざる ともにもあいき くにのはてにて
顔と声、それだけは昔と変わらない友にも会った、国の果てにて
387 あはれかの 国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を 啜るごとくに
あわれかの くにのはてにて さけのみき かなしみのおりを すするごとくに
388
酒のめば 悲しみ一時に 湧き来るを 寐て夢みぬを うれしとはせし
さけのめば かなしみいちじに わきくるを ねてゆめみぬを うれしとはせし
389 出だしぬけの 女の笑ひ 身に沁みき 厨に酒の凍る真夜中
だしぬけの おんなのわらい みにしみき くりやにさけの こおるまよなか
390 わが酔ひに 心いためて うたはざる女ありしが いかになれるや
わがよいに こころいためて うたわざる おんなありしが いかになれるや
私の酔いに、心をいためて、歌わない女がいたが、どうなったのか
391 小奴と いひし女の やはらかき 耳朶なども 忘れがたかり
こやっこと いいしおんなの やわらかき みみたぼなども わすれがたかり
392 よりそひて 深夜の雪の中に立つ 女の右手のあたたかさかな
よりそいて しんやのゆきの なかにたつ おんなのめての あたたかさかな
寄り添って深夜の雪の中に立つ 女の右手の暖かさよ
393
死にたくは ないかと言へば これ見よと 咽喉の痍を 見せし女かな
しにたくは ないかといえば これみよと のんどのきずを みせしおんなかな
394 芸事も 顔もかれより 優れたる 女あしざまに 我を言へりとか
げいごとも かおもかれよりすぐれたる おんなあしざまに われをいえりとか
395 舞へといへば 立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひに たふるるまでも
まえといえば たちてまいにき おのづから あくしゅのよいに たふるるまでも
396
死ぬばかり 我が酔ふをまちて いろいろの かなしきことを 囁やきし人
しぬばかり わがゑふをまちて いろいろの かなしきことを ささやきしひと
397 いかにせしと言へば あをじろき 酔ひざめの 面に強ひて 笑みをつくりき
いかにせしといえば あおじろきよいざめの おもてにしいて えみをつくりき
398 かなしきは かの白玉の ごとくなる 腕に残せし キスの痕かな
かなしきは かのしらたまの ごとくなる うでにのこせし きすのあとかな
399
酔ゑひてわがうつむく時も 水ほしと眼めひらく時も 呼びし名なりけり
ゑいてわが うつむくときも みずほしと めひらくときも よびしななりけり
400 火をしたふ 虫のごとくに ともしびの 明るき家に かよひ慣れにき
ひをしたう むしのごとくに ともしびの あかるきいえに かよいなれにき
401
きしきしと 寒さに踏めば 板軋む かへりの廊下の 不意のくちづけ
きしきしと さむさにふめば いたきしむ かえりのろうかの ふいのくちづけ
きしきしと寒さに踏むと板が軋む、帰りの廊下の不意の口づけ
402 その膝に枕しつつも 我がこころ 思ひしはみな我のことなり
そのひざに まくらしつつも わがこころ おもいしはみな われのことなり
その膝に枕しつつも、私の心、思ったのはみな、自分のことです
403
さらさらと 氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜の ゆきかへりかな
さらさらと 氷の屑が なみになる いそのつきよの ゆきかおりかな
404
死にしとか このごろ聞きぬ 恋がたき 才あまりある 男なりしが
しにしとか このごろききぬ こいがたき さいあまりある おとこなりしが
死んだとか この頃聞いた 恋敵 才能があまりある 男であったが
405 十年まへに 作りしといふ 漢詩を 酔へば唱へき 旅に老いし友
ととせまえに つくりしという からうたを よえばとなえき たびにおいしとも
406
吸ふごとに 鼻がぴたりと 凍りつく 寒き空気を 吸ひたくなりぬ
すうごとに はながぴたりと こおりつく さむきくうきを すいたくなりぬ
407 波もなき 二月の湾に 白塗の 外国船が 低く浮かべり
なみもなき にがつのわんに しろぬりの がいこくせんが ひくくうかべり
波もない二月の湾に、白塗りの外国船が低く浮かんでいる
408 三味線の 絃のきれしを 火事のごと 騒ぐ子ありき 大雪の夜に
さみせんの いとのきれしを かじのごと さわぐこありき おおゆきのよに
三味線の弦が切れたのを 火事のように騒ぐ子がいた 大雪の夜に
409
神のごと 遠く姿をあらはせる 阿寒の山の 雪のあけぼの
かみのごと とおくすがたを あらわせる あかんのやまの ゆきのあけぼの
神のように遠くに姿をあらわしている 阿寒の山の雪の曙
410 郷里にゐて 身投げせしことありといふ 女の三味さみにうたへるゆふべ
くににいて みなげせしこと ありという おんなのさみに うたえるゆうべ
故郷にあって身投げしたことがあるという 女の三味線に歌った昨夜
411 葡萄色の 古き手帳にのこりたる かの会合の 時と処かな
えびいろの ふるきてちょうに のこりたる かのあいびきの ときとところかな
葡萄色になった古い手帳に残っていた かの逢引の時と場所だよ
412
よごれたる 足袋穿く時の 気味わるき 思ひに似たる 思出もあり
よごれたる たびはくときの きみわるき おもいににたる おもいでもあり
汚れた足袋を履くときの気味の悪い思いに似ている思い出もある
413 わが室に 女泣きしを 小説の なかの事かと おもひ出づる日
わがへやに おんななきしを しょうせつの なかのことかと おもいいづるひ
私の部屋で 女が泣いたのを 小説の中のことかと思い出す日
414
浪淘沙 ながくも声を ふるはせて うたふがごとき 旅なりしかな
ろうとうさ ながくもこえを ふるわせて うたうがごとき たびなりしかな
415
いつなりけむ 夢にふと聴きて うれしかりし その声もあはれ 長く聴かざり
いつだったろうか 夢にふく聴いてうれしかった その声もああ 長く聴かない
416 頬の寒き 流離の旅の人として 路問ふほどの こと言ひしのみ
ほのさむき りゅうりのたびの ひととして みちをとうほどの こといいしのみ
417
さりげなく 言ひし言葉は さりげなく 君も聴きつらむ それだけのこと
さりげなく言った言葉は さりげなくあなたも聴いたでしょう それだけのこと
418 ひややかに 清き大理石に 春の日の 静かに照るは かかる思ひならむ
ひややかに きよきなめいしに はるのひの しずかにてるは かかるおもいらむ
419
世の中の 明るさのみを 吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
世の中の明るさのみを吸うような 黒い瞳が 今も目にある
420 かの時に 言いそびれたる 大切の 言葉は今も 胸にのこれど
あの時に言いそびれた大切な言葉は、今も胸に残っているが
説明 「かの」は、話し手
聞き手から遠く離れた事物を指します。現代では、あの を使いますが
かのじょ とか かなた という言い方に、少し生き残っています。
421
真白なる ラムプの笠の 瑕のごと 流離の記憶 消しがたきかな
ましろなる ランプのかさの きずのごと りゅうりのきおく けしがたきかな
422 函館の かの焼跡を 去りし夜の こころ残りを 今も残しつ
はこだての かのやけあとを さりしよの こころのこりを いまものこしつ
423 人がいふ 鬢のほつれの めでたさを 物書く時の 君に見たりし
ひとがいう びんのほつれの めでたさを ものかくときの きみにみたりし
424 馬鈴薯の 花咲く頃と なれりけり 君もこの花を 好きたまふらむ
ばれいしょの はなさくころと なれりけり きみもことはなを すきたまうらむ
425 山の子の 山を思ふが ごとくにも かなしき時は 君を思へり
やまのこの やまをおもうが ごとくにも かなしきときは きみをおもえり
426
忘れをれば ひょっとした事が 思ひ出の 種にまたなる 忘れかねつも
わすれをば ひょっとしたことが おもいでの たねにまたなる わすれかねつも
427
病むと聞き 癒えしと聞きて 四百里の こなたに我は うつつなかりし
病気だと聞き、治ったと聞いて 四百里のこなたの私は 正気がなかったよ
428 君に似し 姿を街に見る時の こころ躍り(おどり)を あはれと思へ
あなたに似た姿を、街に見つけたときの私のこころ躍りを、不憫と思いなさい
説明 「似し」の「し」は、過去を表す助動詞「き」の連体形「し」で、続く「姿」にかかり
「君に似た姿」という意味になります。
「あはれ」は、いろんな意味があると思いますが、ここでは「不憫と思え」というような意味だと思います。
429 かの声を 最一度聴かば すっきりと 胸や霽れむと 今朝も思へる
かのこえを もいちどきかば すっきりと むねやはれむと けさもおもえる
430 いそがしき 生活のなかの 時折の この物おもひ 誰のためぞも
いそがしき くらしのなかの ときおりの このものおもい たれのためぞも
431 しみじみと 物うち語る 友もあれ 君のことなど 語り出でなむ
しみじみと ものうちかたる とももあれ きみのことなど かたりいでなむ
432
死ぬまでに 一度会はむと 言ひやらば 君もかすかに うなづくらむか
しぬまでに いちどあわむと いいやらば きみもかすかに うなづくらむか
433
時として 君を思へば 安かりし 心にはかに 騒ぐかなしさ
時に君を思うと、安らかだった心がにわかに騒ぐ悲しさよ。
434
わかれ来て 年を重ねて 年ごとに 恋しくなれる 君にしあるかな
わかれ来て 年を重ねて 年毎に 恋しくなった君なんだよ
説明 「わかれ来る」は「わかれて来る」「わかれが来る」のどちらもあると思い、「わかれ来る」のままにしました。
「君にしあるかな」の「し」は、強調の副助詞です。
435 石狩の 都の外の 君が家 林檎の花の 散りてやあらむ
いしかりの みやこのそとの きみがいえ りんごのはなの ちりてやあらむ
436 長き文 三年(みとせ)のうちに 三度(みたび)来ぬ 我の書きしは 四度(よたび)にかあらむ
長い文が三年のうちに三度来た。私の書いたのは四度かなあ。
437 手套を 脱ぐ手ふと休む 何やらむ こころかすめし 思ひ出のあり
てぶくろを ぬぐてふとやむ なにやらむ こころかすめし おもいでのあり
手袋を脱ぐ手をふと休む 何だろう こころをかすめた思い出がある
説明 「やらむ」は「にやあらむ」が変化したもので、「〜だろうか、〜ではなかろうか」の意味となります。
438
いつしかに 情をいつはる ことを知りぬ 髭を立てしも その頃なりけむ
いつしかに じょうをいつわる ことをしりぬ ひげをたてしも そのころなりけむ
いつのまにか気持ちをいつわることを知った。髭をはやしたのもその頃だったろう。
439 朝の湯の 湯槽のふちに うなじ載せ ゆるく息する 物思ひかな
あさのゆの ゆぶねのふちに うなじのせ ゆるくいきする ものおもいかな
440 夏来れば うがひ薬の 病ある 歯に沁しむ朝の うれしかりけり
なつくれば うがいぐすりの やまいある はにしむあさの うれしかりけり
夏が来ると うがい薬が 病ある歯にしむる朝の うれいかったこと
441 つくづくと手をながめつつ おもひ出いでぬ キスが上手じやうずの女なりしが
つくづくと てをながめつつ おもいいでぬ キスがじょうずの おんななりしが
つくづくと手を眺めつつ思い出した キスが上手な女であったが
442 さびしきは 色にしたしまぬ 目のゆゑと 赤き花など 買はせけるかな
さびしきは いろにしたしまぬ めのゆえと あかきはななど かわせけるかな
443 新しき 本を買ひ来て 読む夜半の そのたのしさも 長くわすれぬ
あたらしき ほんをかいきて よむよわの そのたのしさも ながくわすれぬ
444 旅七日 かへり来ぬれば わが窓の 赤きインクの 染みもなつかし
たびなのか かえりきぬれば わがまどの あかきインクの しみもなつかし
445 古文書の なかに見いでし よごれたる 吸取紙を なつかしむかな
こもんじょの なかにみいでし よごれたる すいとりがみを なつかしむかな
446 手にためし 雪の融くるが ここちよく わが寐飽きたる 心には沁む
てにためし ゆきのとくるが ここちよく わがねあきたる こころにはしむ
447 薄れゆく 障子の日影 そを見つつ こころいつしか 暗くなりゆく
うすれゆく しょうじのひかげ そをみつつ こころいつしか くらくなりゆく
薄らいでいく障子の日陰 それを見つつ こころがいつしか 暗くなっていく
448 ひやひやと 夜は薬の香かのにほふ 医者が住みたるあとの家かな
ひやひやと よるはくすりのかのにおう いしゃがすみたる あとのいえかな
ひやひやと夜には薬の香りがにおう 医者が住んだ後の家だなあ
449 窓硝子まどガラス 塵ちりと雨とに曇くもりたる窓硝子にも かなしみはあり
まどガラス ちりとあめとに くもりたる まどガラスにも かなしみはあり
窓ガラス 塵と雨とで曇っている 窓ガラスにも悲しみがある
450 六年ほど 日毎日毎に かぶりたる 古き帽子も 棄てられぬかな
むとせほど ひごとひごとに かぶりたる ふるきぼうしも すてられぬかな
六年程 毎日毎日かぶった古い帽子も、捨てられないものだなあ
451 こころよく 春のねむりを むさぼれる 目にやはらかき 庭の草かな
こころよく はるのねむりを むさぼれる めにやわらかき にわのくさかな
452 赤煉瓦 遠くつづける 高塀の むらさきに見えて 春の日ながし
あかれんが とおくつづける たかべいの むらさきにみえて はるのひながし
453 春の雪 銀座の裏の 三階の 煉瓦造に やはらかに降る
はるのゆき ぎんざのうらの さんがいの れんがづくりに やわらかにふる
454 よごれたる 煉瓦の壁に 降りて融け 降りては融くる 春の雪かな
よごれたる れんがのかべに ふりてとけ ふりてはとくる きるのゆきかな
455 目を病やめる 若き女の 倚りかかる 窓にしめやかに 春の雨降る
めをやめる わかきおんなの よりかかる まどにしめやかに はるのあめふる
456 あたらしき 木のかをりなど ただよへる 新開町の 春の静けさ
あたらしき きのかおりなど ただよえる しんかいまちの はるのしずけさ
457 春の街 見よげに書ける女名の 門札などを 読みありくかな
はるのまち みよげにかける おんななの かどふだなどを よみありくかな
458 そことなく 蜜柑の皮の 焼くるごとき にほひ残りて 夕となりぬ
そことなく みかんのかわの やくるごとき においのこりて ゆうべとなりぬ
459 にぎはしき 若き女の集会の こゑ聴き倦みて さびしくなりたり
にぎわしき わかきおんなの あつまりの こえききうみて さびしくなりたり
460 何処やらに 若き女の 死ぬごとき 悩ましさあり 春の霙降る
どこやらに わかきおんなの しぬごとき なやましさあり はるのみぞれふる
461 コニャックの 酔ひのあとなる やはらかき このかなしみの すずろなるかな
コニャックの よいのあとなる やわらかき このかなしみの すずろなるかな
462 白き皿 拭きては棚に 重ねゐる 酒場の隅の かなしき女
しろきさら ふきてはたなに かさねいる さかばのすみの かなしきおんな
463 乾きたる 冬の大路の 何処やらむ 石炭酸の にほひひそめり
かわきたる ふゆのおおじの いづくやらむ せきたんさんの においひそめり
464 赤赤と 入日うつれる 河ばたの 酒場の窓の 白き顔かな
あかあかと いりひうつれる かわばたの さかばのまどの しろきかおかな
465 新しき サラドの皿の 酢のかをり こころに沁しみて かなしき夕
あたらしき サラドのさらの すのかおり こころにしみて かなしきゆうべ
466 空色の 罎より 山羊の乳をつぐ 手のふるひなど いとしかりけり
そらいろの びんよりやぎの ちちをつぐ てのふるいなど いとしかりけり
467 すがた見の 息のくもりに 消されたる 酔ひうるみの 眸のかなしさ
すがたみの いきのくもりに けされたる ゑいうるみの まみのかなしさ
468 ひとしきり 静かになれる ゆふぐれの 厨にのこる ハムのにほひかな
ひとしきり しずかになれる ゆうぐれの くりやにのこる ハムのにおいかな
469 ひややかに 罎のならべる 棚の前 歯せせる女を かなしとも見き
ひややかに ビンのならべる たなのまえ はせせるおんなを かなしともみき
470 やや長き キスを交して 別れ来きし 深夜の街の 遠き火事かな
ややながき キスをかわしてわかれきは しんやのまちの とおきかじかな
やや長いキスを交わして別れてきた 深夜の町の遠い火事だ
471 病院の 窓のゆふべの ほの白き 顔にありたる 淡き見覚え
びょういんの まどのゆうべの ほのじろき かおにありたる あわきみおほへえ
病院の窓の
ゆうべの ほの白い顔にあった淡い見覚え
472 何時なりしか かの大川の遊船に 舞ひし女をおもひ出にけり
いつなりしか かのおおかわの ゆうせんに まいしおんなを おもいでにけり
何時だったか かの大川の遊覧船に 舞った女を思い出したよ
473 用もなき 文など長く 書きさして ふと人こひし 街に出てゆく
用もなき ふみなどながく かきさして ふとひとこいし まちにでてゆく
474 しめらへる 煙草を吸へば おほよその わが思ふことも 軽くしめれり
しめらえる たばこをすえば おおよその わがおもうことも かろくしめれり
475 するどくも 夏の来きたるを 感じつつ 雨後の小庭の 土の香を嗅ぐ
するどくも なつのきたるを かんじつつ うごのこにわの つちのかをかぐ
476 すずしげに 飾り立てたる 硝子屋の 前にながめし 夏の夜の月
すずしげに かざりたてたる ガラスやの まえにながめし なつのよのつき
477 君来ると いふに夙起き 白シャツの 袖のよごれを 気にする日かな
きみくると いうにとくおき しろシャツの そでのよごれを きにするひかな
君がくるというので 早く起きて 白シャツの袖の汚れを気にする日だよ
478 おちつかぬ 我が弟の このごろの 眼のうるみなど かなしかりけり
おちつかぬ わがおとうとの このごろの めのうるみなど かなしかりけり
479 どこやらに 杭打つ音し 大桶を ころがす音し 雪ふりいでぬ
どこやらに くいうつおとし おおおけを ころがすおとし ゆきふりいでぬ
480 人気なき 夜の事務室に けたたましく 電話の鈴の 鳴りて止みたり
ひとけなき よのじむしつに けたたましく でんわのりんの なりてやみたり
人気のない夜の事務室に けたたましく電話のベルが 鳴って止まった
481 目さまして ややありて 耳に入り来たる 真夜中すぎの話声かな
めさまして ややありて みみにいりきたる まよなかすぎの はなしこえかな
目を覚まして すこしして 耳に入ってきた 真夜中すぎの 話し声だな
482 見てをれば 時計とまれり 吸はるるごと 心はまたも さびしさに行く
みておれば とけいとまれり すわるるごと こころはまたも さびしさにゆく
見ていると 時計が止まった 吸われるごとく 心はまたも さびしさに行く
483 朝朝の うがひの料の 水薬の 罎がつめたき 秋となりにけり
あさあさの うがいのしろの すいやくの ビンがつめたき あきとなりけり
毎朝のうがいに使う水薬の ビンが冷たい秋になったよ
説明 料(しろ) は、ある事に使用するもの、材料、ある事に支払う料金
484 夷かに 麦の青める 丘の根の 小径に赤き 小櫛ひろへり
なだらかに むぎのあおめる おかのねの こみちにあかき おぐしひろえり
485 裏山の 杉生のなかに 斑なる 日影這ひ入る 秋のひるすぎ
うらやまの すぎふのなかに まだらなる ひかげはいいる あきのひるすぎ
486 港町 とろろと鳴きて 輪を描く鳶を圧あつせる 潮ぐもりかな
みなとまち とろろとなきて わをえがく とびをあっせる しおぐもりかな
487 小春日の 曇硝子ガラスに うつりたる 鳥影を見て すずろに思ふ
こはるびの くもりガラスに うつりたる とりかげをみて すずろにおもう
488 ひとならび 泳げるごとき 家家の 高低の軒に 冬の日の舞ふ
ひとならび およげるごとき いえいえの たかひくののきに ふゆのひのまゆ
489 京橋の 滝山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな
きょうばしの たきやまちょうの しんぶんしゃ ひともるころの いそがしさかな
490 よく怒る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ
よくいかる ひとにてありし わがちちの ひごろおこらず おこれとおもう
よく怒る人であった私の父が、この日ごろ怒らない。怒れと思う
491 あさ風が 電車のなかに 吹き入れし 柳のひと葉 手にとりて見る
あさかぜが でんしゃのなかに ふきいれし やなぎのひとは てにとりてみる
492
ゆゑもなく 海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みて たへがたき日に
理由もなく海が見たくて海に来た こころが傷んでたえがたい日に
493 たひらなる 海につかれて そむけたる 目をかきみだす 赤き帯かな
たいらなる うみにつかれて そむけたる めをかきみだす あかきおびかな
494 今日逢ひし 町の女の どれもどれも 恋にやぶれて 帰るごとき日
きょうあいし まちのおんなの どれもどれも こいにやぶれて かえるごときひ
495
汽車の旅 とある野中の 停車場の 夏草の香の なつかしかりき
きしゃのたび とあるのなかの ていしゃばの なつくさのかの なつかしかりき
汽車のたび とある野中の停車場の 夏草の香のなつかしかったことよ
496 朝まだき やっと間に合ひし初秋はつあきの 旅出の汽車の 堅かたき麺麭かな
あさまだき やっとまにあいし はつあきの たびでのきしゃの かたきぱんかな
497 かの旅の 夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑの かなしかりしかな
かのたびの よぎしゃのまどに おもいたる わがゆくすえの かなしかりしかな
498 ふと見れば とある林の停車場の時計とまれり 雨の夜よの汽車
ふとみれば とあるはやしの ていしゃばの とけいとまれり あめのよのきしゃ
499 わかれ来て 燈火小暗き 夜の汽車の 窓に弄もてあそぶ 青き林檎りんごよ
わかれきて あかりさぐらき よのきしゃの まどにもてあそぶ あおきりんごよ
500 いつも来る この酒肆の かなしさよ ゆふ日赤赤と 酒に射し入いる
いつもくる このさかみせの かなしさよ ゆうひあかあかと さけにさしいる
501 白き蓮沼に 咲くごとく かなしみが 酔ゑひのあひだにはっきりと浮く
しろきはすぬまに さくごとく かなしみが ゑひのあひだに はっきりとうく
白い蓮沼に 咲いているように 悲しみが 酔いの間に はっきりと浮く
502 壁かべごしに 若き女の 泣くをきく 旅の宿屋の 秋の蚊帳かな
かべごしに わかきおんなの なくをきく たびのやどやの あきのかやかな
壁越しに若い女が泣くのを聴く 旅の宿屋の秋の蚊帳です
503 取りいでし 去年の袷の なつかしき にほひ身に沁む 初秋の朝
とりいでし こぞのあわせの なつかしき においみにしむ はつあきのあさ
504 気にしたる 左の膝の痛みなど いつか癒りて 秋の風吹く
きにしたる ひだりのひざの いたみなど いつかなおりて あきのかぜふく
505 売り売りて 手垢きたなき ドイツ語の 辞書のみ残る 夏の末かな
うりうりて てあかきたなき ドイツごの じしょのみのこる なつのすえかな
506
ゆゑもなく 憎みし友と いつしかに 親しくなりて 秋の暮れゆく
ゆえもなく憎んだ友と、いつのまにか親しくなって、秋が暮れゆく
507 赤紙の 表紙手擦れし 国禁 書を行李の 底にさがす日
あかがみの ひょうしてすれし こくきんの ふみをこうりの そこにさがすひ
508 売ることを 差し止とめられし 本の著者に 路にて会へる 秋の朝かな
うることを さしとめられし ほんのちょしゃに みちにてあえる あきのあさかな
509 今日よりは 我も酒など呷らむと 思へる日より 秋の風吹く
きょうよりは われもさけなどあふらんと おもえるひより あきのかぜふく
510 大海の その片隅に つらなれる 島島の上に 秋の風吹く
だいかいの そのかたすみに つらなれる しまじまのうえに あきのかぜふく
511 うるみたる目と 目の下の 黒子のみ いつも目につく友の妻かな
うるみたるめと めのしたの ほくろのみ いつもめにつく とものつまかな
うるんだ眼と 目の下のホクロのみが いつも目に付く 友の妻です
512 いつ見ても 毛糸の玉を ころがして 韈を編む 女なりしが
いつみても けいとのたまを ころがして くつしたをあむ おんななりしが
いつ見ても 毛糸の玉をころがして 靴下を編む 女であったが
513 葡萄色の 長椅子の上に 眠りたる 猫ほの白ろき 秋のゆふぐれ
えびいろの ながいすのうえに ねむりたる ねこほのじろき あきのゆうぐれ
エビ色の長椅子の上に眠っている猫ががほの白い 秋の夕暮れ
514 ほそぼそと 其処此処に虫の鳴く 昼の野に来て読む手紙かな
ほそぼそと そこらここらに むしのなく ひるののにきて よむてがみかな
細々とそこらここらに虫が鳴く 昼の野に来て読む手紙かな
515 夜おそく 戸を繰りをれば 白きもの 庭を走れり 犬にやあらむ
よるおそく とをくりおれば しろきもの にわをはしれり いぬにやあらむ
夜遅く 雨戸を繰っていると 白いものが 庭を走った 犬でしょうか
516 夜の二時の窓の硝子を うす紅く 染めて音なき火事の色かな
よるのにじの まどのガラスを うすあかく そめておとなき かじのいろかな
夜の二時の 窓のガラスをうす赤く染めて 音のない火事の色かな
517 あはれなる 恋かなと ひとり呟きて 夜半の火桶に 炭添そへにけり
あわれなる かいかなと ひとりつぶやきて よわのひおけに すみそえにけり
518 真白なる ラムプの笠に 手をあてて 寒き夜にする 物思ひかな
ましろなる ランプのかさに てをあてて さむきよにする ものおもいかな
519 水のごと 身体をひたす かなしみに 葱の香などの まじれる夕
みずのごと からだをひたす かなしみに ねぎのかなどの まじれるゆうべ
520 時ありて 猫のまねなど して笑ふ 三十路の友の ひとり住みかな
ときありて ねこのまねなど してわらう みそじのともの ひとりずみかな
521 気弱なる 斥候のごとく おそれつつ 深夜の街を 一人散歩す
きよわなる せきこうのごとく おそれつつ しんやのまちを ひとりさんぽす
気弱なスパイのように おそれつつ 深夜の街を 一人散歩する
522 皮膚がみな 耳にてありき しんとして 眠れる街の 重き靴音
ひふがみな みみにてありき しんとして ねむれるまちの おもきくつおと
523 夜おそく 停車場に入り 立ち坐り やがて出でゆきぬ 帽なき男
よるおそく ていしゃばにいり たちすわり やがていでゆきぬ ぼうなきおとこ
524 気がつけば しっとりと 夜霧下りて居り ながくも街をさまよへるかな
きがつけば しっとりと よぎりおりており ながくもまちを さまよえるかな
525 若しあらば 煙草恵めと 寄りて来る あとなし人と深夜に語る
もしあらば たばこめぐめと よりてくる あとなしびとと しんやにかたる
526 曠野より 帰るごとくに 帰り来ぬ 東京の夜を ひとりあゆみて
あらのより かえるごとくに かえりきぬ とうきょうのよを ひとりあゆみて
荒野から帰ったように、帰ってきた、東京の夜を、一人歩んで
527 銀行の 窓の下なる 舗石の 霜にこぼれし 青インクかな
ぎんこうの まどのしたなる しきいしの しもにこぼれし あおインクかな
銀行の窓の下にある敷石の 霜にこぼれた青インクかな
528 ちょんちょんと とある小藪に 頬白の 遊ぶを眺む 雪の野の路
ちょんちょんと とあるこやぶに ほほじろの あそぶをのぞむ ゆきのやのみち
529
十月の 朝の空気に あたらしく 息吸ひそめし 赤坊のあり
じゅうがつの あさのくうきに あたらしく いきすいそめし あかんぼのあり
十月の朝の空気に新しく息を吸い始めた赤坊がいる
説明 明治43年10月4日午前2時に、啄木の長男 真一 が生まれました。
530 十月の産病院の しめりたる 長き廊下のゆきかへりかな
じゅうがつの さんびょういんの しめりたる ながきろうかの ゆきかえりかな
531 むらさきの 袖垂れて 空を見上げゐる支那しな人ありき 公園の午後
むらさきの そでたれて そらをみあげる しなびとありき こうえんのごご
532 孩児の 手ざはりのごとき 思ひあり 公園に来て ひとり歩めば
おさなごの てざわりのごとき おもいあり こうえんにきて ひとりあゆめば
533 ひさしぶりに 公園に来て 友に会ひ 堅かたく手握り口疾に語る
ひさしぶりに こうえんにきて ともにあい かたくてにぎり くちどにかたる
534 公園の 木の間に小鳥 あそべるを ながめてしばし 憩ひけるかな
こうえんの このまにことり あそべるを ながめてしばし いこいけるかな
535
晴れし日の 公園に来て あゆみつつ わがこのごろの 衰へを知る
はれしひの こうえんにきて あゆみつつ わがこのごろの おとろえをしる
晴れた日の公園にきて歩きながら 私のこの頃の衰えを知る
536 思出の かのキスかとも おどろきぬ プラタヌの葉の 散りて触れしを
おもいでの かのキスかとも おどろきぬ プラタヌのはの ちりてふれしを
537 公園の 隅のベンチに 二度ばかり 見かけし男 このごろ見えず
こうえんの すみのベンチに にどばかり みかけしおとこ このごろみえず
538 公園のかなしみよ 君の嫁ぎてより すでに七月 来きしこともなし
こうえんの かなしみよ きみのとつぎてより すでにななつき きしこともなし
539 公園の とある木蔭の 捨椅子に 思ひあまりて 身をば寄せたる
こうえんの とあるこかげの すていすに おもいあまりて みをばよせたる
540 忘られぬ 顔なりしかな 今日街に 捕吏にひかれて 笑める男は
わすられぬ かおなりしかな きょうまちに 捕吏にひかれて ゑめるおとこは
541 マチ擦すれば 二尺ばかりの 明るさの 中をよぎれる 白き蛾のあり
マチすれば にしゃくばかりの あかるさの なかをよぎれる しろきがのあり
マッチをすると、二尺ほどの明るさの中をよぎった白い蛾がいた
542 目をとぢて 口笛かすかに 吹きてみぬ 寐られぬ夜の 窓にもたれて
めをとじて くちぶえかすかに ふきてねぬ ねられぬよるの まどにもたれて
目を閉じて 口笛をかすかに吹いてみた 寝られぬ夜の窓にもたれて
543 わが友は 今日も母なき子を負ひて かの城址に さまよへるかな
わがともは きょうもははなき こをおいて かのしろあとに さまよえるかな
我が友は、今日も母無き子を背負って、かの城址に
さまよっているかな
544
夜おそく つとめ先より かへり来て 今死にしてふ 児を抱けるかな
夜おそく勤め先から帰ってきて 今死んだという子を抱いているんだ
説明 「死にしてふ」の文法がよくわからないので、とりあえず「死んだという」と訳しました。
「死ぬ」という動詞に対し、古語には「死ぬ」「死にす」「死す」とたくさんの動詞があります。
「死んだという」に対する古語は「死にきてふ」となるのかと思うのですが、よくわかりません。
全543首からなる本歌集の出版準備がすすみ、出版社から見本組みが届いた10月27日に、
生後24日の長男真一が亡くなってしまった。
啄木は急遽、長男への挽歌8首を詠み歌集の末尾に付け加えました。
545
二三こゑ いまはのきはに 微かにも 泣きしといふに なみだ誘はる
にさんこえ いまわのきわに かすかにも なきしというに なみださそわる
二三声いまわのきわにひそかにも泣いたということに涙が誘われる
546
真白なる 大根の根の 肥ゆる頃 うまれてやがて 死にし児のあり
真っ白な大根の根が肥えるこる 生まれてすぐさま死んだ子がいたんだ
547
おそ秋の 空気を 三尺四方ばかり 吸ひてわが児の 死にゆきしかな
晩秋の空気を三尺四方くらい吸って わが子は死んで行ったのだなあ
548
死にし児の 胸に注射の 針を刺す 医者の手もとに あつまる心
死んだ子の胸に注射の針を刺す医者の手元に集まる心
549
底知れぬ 謎に対ひて あるごとし 死児のひたひに またも手をやる
そこしれぬ なぞにむかいて あるごとし しじのひたいに またもてをやる
底知れない謎に対しているようである 死んだ子の額にまたも手をやる
550
かなしみの つよくいたらぬ さびしさよ わが児のからだ 冷えてゆけども
悲しみがつよく来ないさびしさよ わが子の体が冷えてゆくけど
551
かなしくも 夜明くるまでは 残りゐぬ 息きれし児の 肌のぬくもり
悲しくも夜が明けるまでは残っているんだ 息のきれた子の肌のぬくもりは
説明 「残りゐぬ」の「ゐぬ」の「ゐ」は動詞「ゐる」の連用形で、「ぬ」は確述を表す助動詞「ぬ」の終止形なので、
「きっと残っているのだ」という意味になります。
参考 近藤典彦「一握の砂」全歌評釈 http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage8.html 001から151まで
ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。
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