石川啄木 一握の砂 原文 現代語訳 対比

2015.10.11 更新2016.1.8

(本頁の短歌の文語文の文法説明は、まだ完成ではありません。説明の誤りに気づかれた方のご指摘を歓迎します。)

 格調の高い文語の魅力を忘れないためには、文語で詠われた短歌や俳句に接することが役立ちます。

 石川啄木の短歌は、現代人にもわかりやすい文語で詠まれています。
この悲しくも格調の高い短歌を、日本人の宝として忘れずに記憶にとどめていきたいと思います。

 子ども版 「声に出して読みたい日本語」 の8冊目に、「石川啄木」をとりあげた齋藤孝さんは、
石川啄木を以下のように説明していてわかりやすいので、紹介します。

 石川啄木は、明治19年(1886)に生まれ、明治45年(1912)に亡くなっている。
いわゆる明治人のイメージとはほど遠い、子どもっぽく、頼りない人物であった。

からだも小さく、生活力もあまりない。金銭感覚もあやしい。故郷の岩手県渋民村を追われるようにして出てきた。
同じ岩手県生まれの宮沢賢治とはずいぶん評判がちがう。

高等小学校で同級生だった金田一京助(アイヌ語研究をはじめとする言語学者)にたびたび世話になっている。
母性本能をくすぐるような弱さを持っていたようだ。

 弱さというのは、人を惹きつける力になる。私たちは子犬や赤ちゃんに引き寄せられる。

しっかりと自立した強い精神の人間を尊敬しはするが、共感はしにくい。

啄木のもつ「傷つきやすさ」は共感を呼び起こす。大きな身体の人間に対してさえコンプレックスを抱いてしまう。

友だちがみんな偉く見えてしまう日は、花を買ってきて妻と親しむ。

故郷を飛び出してきたくせに、上野駅に故郷のなまりを聴きにゆく。海岸で泣き濡れて蟹とたわむれる。

なんともはや、「センチメンタリズムの巨匠」である。
(中略) 
この本で啄木の歌をいくつも覚えてくれれば、その後の人生にきっと潤いが出るだろう。
自分の弱さと向き合い、それをきちんとつかんでいる時点で、その人はもう弱くない。

 齋藤孝さんは、この本で「一握の砂」の551首のうち現代文としてもわかりやすい30首を原文のまま紹介しています。
簡単な説明がついていますが、現代語訳や、文法の説明はありません。

 私は、文語としてすばらしい歌に、現代語訳と簡単な文法の説明を加えてみました。以下に、100首(2015.10.15)示します。

 現代語訳の表記を、赤色太字に変更しました。(2016.1.8)

歌集 「一握の砂」  明治43年12月刊行

明治41年夏以後の作一千余首中より551首を抜きてこの集に収む。
集中五章、感興の来由するところ相近きをたづねて仮にわかてるのみ。
「秋風のこころよさに」は明治41年秋の記念なり。

我を愛する歌  1 - 151

001 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる
    東海の 小島の磯の 白砂に、私は泣き濡れて 蟹とたわむれる

説明 この場所は、啄木が故郷を追われて移った函館の大森浜と考えられていて、啄木小公園に啄木像があり、
    立待岬の眺めのよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面にこの歌が刻まれています。

002 頬(ほ)につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず
    頬につたう涙をぬぐわずに 私は 一握の砂を示した人を忘れない

説明 「のごふ」は「ぬぐう」です。
  「示しし人」の二番目の「し」は過去の助動詞「き」の連体形ですので、「示した人」という意味になりますが、
  「私が示した人」か「私に示した人」のどちらかなのかはわかりません。

日本語には関係代名詞が無いので、「示した人」が「AがBに示した」ときのAなのかBなのか、文法上は曖昧になります。

003 大海(だいかい)に むかひて一人 七八日(ななようか) 泣きなむとすと 家を出でにき
    大海に向かって一人 七日八日と泣いてやろうとして 家を出たのだった

説明 「泣きなむ」の「な」は、「してしまう」という確述の助動詞「ぬ」で、
    「む」は推量・意志の助動詞なので「泣いてしまおう」という意味になります。

  「とすと」は、現代語では「としようと」という意味になると思います。
   「出でにき」の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形で、「き」は完了の助動詞なので「〜してしまった」の意味となります。

006 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもい出づる日
    砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く 思い出す日

説明 「出づ」は自動詞「出る」他動詞「出す」の両方の意味をもちます。

008 いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
    いのちのない砂の悲しさよ  さらさらと 握ると指の間から落ちる

009 しつとりと なみだを吸へる 砂の玉 なみだは重き ものにしあるかな
    しっとりと 涙を吸った砂の玉 なみだは重いものなんだな

説明 「ものにし」の「し」は、強調の役割を持つ副助詞です。例:名にし負わば 
    現在では「果てしない」のような言葉や、「必ずしも」「折しも」「まだしも」というような言葉の中に残っています。

010 大といふ 字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり
    大という字を 百あまり 砂に書き 死ぬことを止めて帰って来ました

説明 「来たれり」は動詞「来」の連用形「き」と存続の助動詞「たり」の已然形「たれ」と
    完了の助動詞「り」がつながったもので、「来ました」の意味となります。

011 目さまして 猶起き出でぬ 児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな
    目をさまして猶起き出さない子の癖は かなしい癖だよ 母よ咎むな

014 たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず
    たわむれに 母を背負って、その余りの軽さに泣いて、私は三歩歩まない。

説明 文語の「軽し」(かろし)は、口語では「軽い」(かるい)になり、

  「軽き」(かろき)は、口語の「軽さ」に対応するでしょうか。

  「三歩あゆまず」は、一歩、二歩と歩くうちに、涙がでてきて、三歩目は歩まず、立ち止まった というような感じでしょう。
   啄木の歌稿ノートには、「三歩あるかず」となっているそうで、推敲の結果、「三歩あゆまず」になりました。

「ありく」「あるく」は、歩いて移動することを意味しますが、「あゆむ」は、一歩一歩進むという意味で使われます。
あゆみ」という言葉は、現代も使います。(2015.11.2修正)

017 わが泣くを 少女(おとめ)等きかば 病犬(やまいぬ)の 月に吠ゆるに 似たりといふらむ
    私が泣くのを少女達が聞いたら   病気の犬が月に吠えるに似ているというだろう

018 何処(いづく)やらむ かすかに虫の なくごとき こころ細さを 今日もおぼゆる
    何処だろうか かすかに虫がなくような こころ細さを今日も覚える

019 いと暗き 穴に心を 吸はれゆく ごとく思ひて つかれて眠る
    とても暗い穴に 心を吸われてゆくように思って つかれて眠る

020 こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
    こころよく 私に 働く仕事よあれ  それをし遂げて 死のうと思う

説明 「仕事あれ」の「あれ」は動詞「あり」の已然形・命令形です。どう訳すべきか、今の私にはまだわかりません。

024 鏡とり 能ふかぎりの さまざまの 顔をしてみぬ 泣き飽きし時
    鏡をとって能うるかぎりの様々な顔をしてみた 泣き飽きた時に

025 なみだなみだ 不思議なるかな それをもて 洗えば心 戯(おど)けたくなれり
   
なみだなみだ、不思議だなあ。それをもって洗うと心がおどけたくなったよ

026 呆れたる 母の言葉に 気がつけば 茶碗を箸もて 敲(たた)きてありき
    呆れた母の言葉に 気がつくと 茶碗を箸でたたいていたなあ

027 草に臥(ね)て おもふことなし わが額(ぬか)に 糞して鳥は 空に遊べり
    草のうえに寝て 思うことがない 私の額に糞をして鳥は空に遊んでいた

031 「さばかりの 事に死ぬるや」 「さばかりの 事に生くるや」 止せ止せ問答
    「そのくらいの事に死ぬのか」「それくらいの事に生きるのか」 止せ止せ問答

032 まれにある この平らなる 心には 時計の鳴るも おもしろく聴く
    希にある この平らな心には 時計が鳴るのもおもしろく聴く

033 ふと深き 怖れを覚え ぢつとして やがて静かに 臍(ほそ)をまさぐる
    ふと深い怖れを覚えて じっとして やがて静かにへそを まさぐる

035 何処やらに 沢山の人が あらそひて くじ引くごとし 我も引きたし
    どこやらに沢山の人が争って くじを引くようだ 私も引きたい

038 鏡屋の 前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに 歩むものかも
    鏡屋の前に来てふと驚いたよ みすぼらしげに歩くものだなあ

039 何となく 汽車に乗りたく 思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし
    なんとなく汽車に乗りたくなっただけ 汽車を下りたが行くところはない

041 何がなしに さびしくなれば 出てあるく 男となりて 三月にもなれり
    なんとなくさびしくなると出て歩く男となって 三月にもなった

042 やはらかに 積もれる雪に 熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし
    やわらかく積もった雪に熱る頬を埋めるような恋をしてみたいなあ

043 かなしきは 飽くなき利己の 一念を 持てあましたる 男にありけり
    悲しいのは 飽きることない利己の一念をもてあましている男であったのだなあ

説明 最後の助動詞「けり」は、過去から現在まで続いている今まで意識しなかった事実に始めて気づいたことを表し、
   「〜だったのだなあ」という詠嘆の意味となります。

045 百年(ももとせ)の 長き眠りの 覚めしごと あくびしてまし 思ふことなしに
    百年の長い眠りが覚めたように 欠伸してみようか 思うことなしに

説明 「欠伸してまし」の「まし」は、事実に反することを仮に想定したり、その想定に基づいて
   推量したりする気持ちを表す助動詞で、「欠伸をしてみようか、欠伸をしたものだろうか」という意味になります。

048 こころよく 人を讃めてみたく なりにけり 利己の心に 倦めるさびしさ
    気持ちよく人をほめてみたくなったな 利己の心に飽きたさびしさ

説明 「倦める」は、「倦む」に完了・継続の助動詞「り」がつながり、「飽きてしまった」という意味になります。

050 高きより 飛びおりるごとき 心もて この一生を 終るすべなきか
    高いところから飛び降りるような気持ちをもって、この一生を終わる方法はないのかなあ

051 この日頃 ひそかに胸に やどりたる 悔ありわれを 笑はしめざり
    この日ごろひそかに胸にやどっている悔いがある。私を笑わせないのだ。

052 へつらひを 聞けば腹立つ わがこころ あまりに我を 知るがかなしき
    へつらいを聞くと腹がたつ私の心。あまりに自分を知るのが悲しい。

054 非凡なる 人のごとくに ふるまえる 後のさびしさは 何にかたぐへむ
    非凡な人のようにふるまった後のさびしさは、何にたとえましょうか

説明 「たぐふ」(比ふ、類ふ、副ふ) とう言葉は死後になりつつあるが、その名詞形「たぐい」は、
    たぐいまれ (類希) のような言い回しに生き残っています。

    ここでは、何にたとえましょうかというような意味で使っていると思います。

055 大いなる 彼の身体(からだ)が 憎かりき その前にゆきて 物を言ふとき
    大きな彼の体が憎かった。彼の前に行って、ものを言うときに

説明 「大いなる」は、形容詞「大し」の連体形「大き」のイ音便「大い」に断定の助動詞「なり」の連体形が続いたものです。

    「おほきなる」という形容動詞の連体形と考えてもいいかもしれません。

   どちらにしても、「大きな」という意味になります。現代でも、大きい と 大きな は 両方使いますね。
   「大きい」は形容詞ですが、「大きな」は名詞の前にしか使わないので、連体詞と呼ばれています。

 「憎かりき」の「憎かり」は、形容詞「憎し」の連用形で、過去に体験したことを示す助動詞「き」が続いて、「憎かった」の意味となります。

057 遠くより 笛の音聞こゆ うなだれて ある故やらむ なみだ流るる
    遠くから笛の音が聞こえる。うなだれているからなのか。涙が流れ落ちることよ

説明 「聞こゆ」は、「聞こえる」です。

  「やらむ」もしくは「やらん」は「にやあらん」が変化したもので、断定の助動詞「なり」の連用形「に」と、
    係助詞「や」と、動詞「あり」の未然形「あら」と、推量の助動詞「ん(む)」が組み合わさり、「だろうか」という意味になります。

 「流るる」は動詞「流る」の連体形「流るる」です。
   和歌では、終止形で止めるべきところを、連体形で止めるスタイルもあり、連体止めもしくは連体形止めと呼んでいます。

  これは、 なんらかの余韻をねらっています。たとえば、詠嘆を表す終助詞「かな」は、連体形に続いて、

  「何々だなあ」「ことよ」といった意味を表しますが、これを補ってみてもいいかもしれません。

058 それもよし これもよしとて ある人の その気がるさを 欲しくなりたり
    それもいい、これもいいと言っている人の、その気軽さを、欲しくなってしまった

説明 「とて」は、「と言って」という意味ですが、「とてある」と続いて、「と言っている」の意味となります。

文語の「あり」に対応して、現代口語では、「ある」と「いる」の二つの動詞があります。
基本的には、人や動物があるときは、「いる」、物事や場所があるときは、「ある」を使いますが、

「何々している。」「何々してある。」のように紛らわしいケースもたくさんあります。

「なりたり」の「たり」は、動作が完了し存続している意味を表す助動詞で、「なってしまった」という意味になります。

060 路端に 犬ながながと あくびしぬ われも真似しぬ うらやましさに
    道端に犬がながながとあくびをした 私も真似した うらやましさに

064 気の変る 人に仕えて つくづくと わが世がいやに なりにけるかな
    気の変わる人に仕えて、つくづくとわが世がいやになってしまったな

066 こころよき 疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる 後のこの疲れ
    こころよい疲れだなあ 息もつかず仕事をした後のこの疲れ

067 空寝入(そらねいり) 生あくびなど なぜするや 思ふこと人に さとらせぬため
    空寝入りや生欠伸などをなぜするのか。思うことを人にさとらせぬためよ。

068 箸止めて ふつと思ひぬ やうやくに 世のならはしに 慣れにけるかな
    箸を止めてふっち思った ようやく世間のならわしに慣れたんだなあ

083 時ありて 子供のやうに たはむれす 恋ある人の なさぬ業かな
    時によっては こどものようにたわむれをする 恋ある人のしない業だな

089 おほどかの 心来たれり あるくにも 腹に力の たまるがごとし
    おおらかな心が来たよ 歩くにも腹に力がたまるようだ

090 ただひとり 泣かまほしさに 来て寝たる 宿屋の夜具の こころよさかな
    ただひとり泣きたさに来て寝た宿屋の夜具の心地よいことよ

説明 「泣かまほし」の「まほし」は、動作や状態を実現したいという気持ちを表す助動詞で、「泣きたい」という意味になります。

101 はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る
    はたらいても、はたらいてもなお、私の生活は楽にならない。じっと、手を見る

説明 「はたらけど」の「ど」は助詞で、口語の「ても」なので、「はたらいても」の意になります。

「楽にならざり」の「ざり」は、文語として少し、問題があります。

否定の助動詞「ず」は、他の言葉への接続が不便なため、動詞の「あり」が結合して、
ざら、ざり、○、ざる、ざれ、ざれ と活用しますが、終止形は「ず」で問題がないので、
終止形の「ざり」は、用いられてきませんでした。

ここでは、「楽にならざり」は、「楽にならず」と同じ意味だとしておきましょう。

104 水晶の 玉をよろこび もてあそぶ わがこの心 何の心ぞ
    水晶玉をよろこんでもてあそぶ 私のこの心 何の心か

105 事もなく 且つこころよく 肥えてゆく わがこのごろの 物足らぬかな
    何事もなく かつ快く肥えてゆく 私のこのごろの 物足らないことよ

106 大いなる 水晶の玉を ひとつ欲し それにむかひて 物を思はむ
    大きな水晶の玉がひとつ欲しい それにむかって物を思いたい

118 たんたらたら たんたらたらと 雨滴(あまだれ)が 痛むあたまに ひびくかなしさ
    たんたらたら たんたらたらと 雨垂れが 痛むあたまにひびく悲しさ

119 ある日のこと 室(へや)の障子を はりかえぬ その日はそれにて 心なごみき
    ある日のこと部屋の障子をはりかえた その日はそれにて心がなごんだ

123 誰が見ても われをなつかしく なるごとき 長き手紙を 書きたき夕(ゆうべ)
    誰が見ても私をなつかしくなるような長い手紙を書きたい夕べ

127 あたらしき 心もとめて 名も知らぬ 街など今日も さまよひて来ぬ
    新しい心を求めて 名も知らぬ街などを 今日もさまよって来た

128 友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
    友がみんな私より偉く見える日よ 花を買って来て 妻と親しむ

132 人みなが 家を持つてふ かなしみよ 墓に入るごとく かへりて眠る
    人がみな家庭を持つという悲しみよ 墓に入るように帰って眠る

133 何かひとつ 不思議を示し 人みなの おどろくひまに 消えむと思ふ
    何かひとつ不思議を示して 人がみなおどろく間に消えたいと思う

135 叱られて わつと泣き出す 子供心 その心にも なりてみたきかな
    叱られてわっと泣き出す子供心 その心にもなってみたいな

139 顔あかめ 怒りしことが あくる日は さほどにもなきを さびしがるかな
    顔を赤めて怒ったことが あくる日には さほどにもないことを さびしがるよ

  152 - 252

152 病のごと 思郷のこころ 湧く日なり 目にあおぞらの 煙かなしも
    病気のように故郷を思う心が湧く日です。目に青空の煙が悲しいことよ。

説明 「病のごと」の「ごと」は、「〜のたび」とも解釈できると思いますが、
「ごとし」の「し」が省略されたとして「〜のごとく」と解釈されているようです。

最後の「悲しも」の「も」は、詠嘆をあらわす終助詞で、「悲しいことよ」という意味になります。

153 己が名を ほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし
   
自分の名を仄かに呼んで涙した十四の春にかえる術がない

説明 「涙せし」の「し」は動詞「す」の連用形、「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形で、「涙した春」となります。

154 青空に 消えゆく煙 さびしくも 消えゆく煙 われにし似るか
    青空に消えていく煙 さびしくも消えていく煙 私に似ているか

158 教室の 窓より遁げて ただ一人 かの城址(しろあと)に 寝に行きしかな
    教室の窓から逃げて ただ一人 あの城跡に寝に行ったものだ

159 不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心
    不来方のお城の草に寝転んで 空に吸われた十五の心

199 ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
    故郷の訛りがなつかしい、停車場の人ごみのなかに、それを聴きにいく

説明 「なつかし」は、口語では「なつかしい」です。口語を使うと字余りになります。

200 やまひある 獣のごとき わがこころ ふるさとのこと 聞けばおとなし
    病ある獣のような私の心 ふるさとのことを聞けばおとなしい

210 かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川
    あれこれと 渋民村は恋しいです おもいでの山 おもいでの川

説明 「かにかくに」は、「あれこれと、いろいろと」という意味です。

「とにかく」という言葉は現在も生き残っていますが、同じ意味のようです。

「恋しかり」は、「恋し」という形容詞に動詞「あり」がつながって、「恋しからず」のような否定形を作るのですが、
終止形の「恋しかり」は昔は使いませんでした。
ここでは、終止形として使っているようですが、詳しいことは私もわかりません。

214 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消えるときなし
    石をもって追われるごとく ふるさとを出た悲しみは 消える時がない

247 ふるさとに 入りて先ず 心痛むかな 道広くなり 橋もあたらし
    ふるさとに入ってまず 心が痛むことよ 道が広くなり 橋も新しい

252 ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
    ふるさとの山に向かって言うことがない ふるさとの山はありがたいな

説明 「言ふことなし」の「なし」ですが、文句なし(あり)、異議なし(異議あり)のように、
「なし」、「あり」 で結ぶ文語文章の軽快な力強さは捨てがたく、日常の会話でも、しばしば使われます。

秋風のこころよさに 253 - 303

253 ふるさとの 空遠みかも 高き屋に ひとりのぼりて 愁ひて下る
    ふるさとの空の遠いことよ 高い建物にひとり登って愁いて下りる

説明 「遠み」とは、「高み」と同じ語法で、「遠いところ」という意味ですが、
万葉集などで、「遠みかも」と詠われて、「遠すぎることよ」と解釈されています。

280 いつしかに 泣くといふこと 忘れたる 我泣かしむる 人のあらじか
    いつのまにか、泣くということを忘れてしまった私を、泣かせる人はいないのだろうか。

説明 「いつしかに」は、いつのまにかという意味の副詞「いつしか」に、時を示す格助詞「に」が加わり
「いつのまにかに」という意味を表します。

「忘れたる」の「たる」は、動作や状態が存続・完了したことを示す助動詞「たり」の連体形で、我を修飾し、
「忘れてしまった私」という意味になります。

 「泣かしむる」の「しむる」は、使役を表す助動詞「しむ」の連体形で、続く「人」にかかり、「泣かさせる人」という意味になります。

 「あらじ」の「じ」は、打消し推量を示す助動詞「じ」で、「(あら)ないだろう」という意味となり、
疑問や問いかけを表す格助詞「か」がついて、「ないだろうか」という意味となります。

忘れがたき人人  304 - 436

304 潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
    潮かおる北の浜辺の砂山のあのハマナスよ 今年も咲いたか

説明 函館の石川啄木記念像建設期成会の人々によって市内日ノ出町の小公園に建てられた啄木銅像の台石に刻まれています。

318 しらなみの 寄せて騒げる 函館の 大森浜に 思ひしことども
    白波が寄せて砕ける函館の 大森浜で思った事ども

321 いくたびか 死なむとしては 死なざりし わが来しかたの をかしく悲し
    いくたびか死のうとしては死ななかった 私の来た道のおかしく悲しいことよ

339 札幌に かの秋われの  持てゆきし しかして今も 持てるかなしみ
    札幌にあの秋 私が持っていった、そして今も持っている悲しみよ

342 かなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき ひとびとの 声の荒さよ
    悲しいのは小樽の町よ 歌うことのない人達の声の荒さよ

373 今夜こそ 思ふ存分 泣いてみむと 泊まりし宿屋の 茶のぬるさかな
    今夜こそ思う存分泣いてみようと 泊まった宿屋の茶のぬるさよ

415 いつなりけむ 夢にふと聴きて うれしかりし その声もあはれ 長く聴かざり
    いつだったろうか 夢にふく聴いてうれしかった その声もああ 長く聴かない

417 さりげなく 言ひし言葉は さりげなく 君も聴きつらむ それだけのこと
    さりげなく言った言葉は さりげなくあなたも聴いたでしょう それだけのこと

419 世の中の 明るさのみを 吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
    世の中の明るさのみを吸うような 黒い瞳が 今も目にある

420 かの時に 言いそびれたる 大切の 言葉は今も 胸にのこれど
    あの時に言いそびれた大切な言葉は、今も胸に残っているが

説明 「かの」は、話し手 聞き手から遠く離れた事物を指します。現代では、あの を使いますが
かのじょ とか かなた という言い方に、少し生き残っています。

427 病むと聞き 癒えしと聞きて 四百里の こなたに我は うつつなかりし
    病気だと聞き、治ったと聞いて 四百里のこなたの私は 正気がなかったよ

428 君に似し 姿を街に見る時の こころ躍り(おどり)を あはれと思へ
    あなたに似た姿を、街に見つけたときの私のこころ躍りを、不憫と思いなさい

説明 「似し」の「し」は、過去を表す助動詞「き」の連体形「し」で、続く「姿」にかかり
「君に似た姿」という意味になります。

「あはれ」は、いろんな意味があると思いますが、ここでは「不憫と思え」というような意味だと思います。

433 時として 君を思へば 安かりし 心にはかに 騒ぐかなしさ
    時に君を思うと、安らかだった心がにわかに騒ぐ悲しさよ。

434 わかれ来て 年を重ねて 年ごとに 恋しくなれる 君にしあるかな
    わかれ来て 年を重ねて 年毎に 恋しくなった君なんだよ

説明 「わかれ来る」は「わかれて来る」「わかれが来る」のどちらもあると思い、「わかれ来る」のままにしました。

「君にしあるかな」の「し」は、強調の副助詞です。

436 長き文 三年(みとせ)のうちに 三度(みたび)来ぬ 我の書きしは 四度(よたび)にかあらむ
    長い文が三年のうちに三度来た。私の書いたのは四度かなあ。

手套(てぶくろ)を脱ぐ時 437 - 551

437 手套(てぶくろ)を 脱ぐ手ふと休(や)む 何やらむ こころかすめし 思ひ出のあり
    手袋を脱ぐ手をふと休む 何だろう こころをかすめた思い出がある

説明 「やらむ」は「にやあらむ」が変化したもので、「〜だろうか、〜ではなかろうか」の意味となります。

438 いつしかに 情をいつはる ことを知りぬ 髭を立てしも その頃なりけむ
    いつのまにか気持ちをいつわることを知った。髭をはやしたのもその頃だったろう。

490 よく怒(いか)る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ
    よく怒る人であった私の父が、この日ごろ怒らない。怒れと思う

492 ゆゑもなく 海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みて たへがたき日に
    理由もなく海が見たくて海に来た こころが傷んでたえがたい日に

495 汽車の旅 とある野中の 停車場の 夏草の香の なつかしかりき
    汽車のたび とある野中の停車場の 夏草の香のなつかしかったことよ

506 ゆゑもなく 憎みし友と いつしかに 親しくなりて 秋の暮れゆく
    ゆえもなく憎んだ友と、いつのまにか親しくなって、秋が暮れゆく

529 十月の 朝の空気に あたらしく 息吸ひそめし 赤坊(あかんぼ)のあり
    十月の朝の空気に新しく息を吸い始めた赤坊がいる

説明 明治43年10月4日午前2時に、啄木の長男 真一 が生まれました。

535 晴れし日の 公園に来て あゆみつつ わがこのごろの 衰へを知る
    晴れた日の公園にきて歩きながら 私のこの頃の衰えを知る

544 夜おそく つとめ先より かへり来て 今死にしてふ 児を抱けるかな
    夜おそく勤め先から帰ってきて 今死んだという子を抱いているんだ

説明 「死にしてふ」の文法がよくわからないので、とりあえず「死んだという」と訳しました。

「死ぬ」という動詞に対し、古語には「死ぬ」「死にす」「死す」とたくさんの動詞があります。

「死んだという」に対する古語は「死にきてふ」となるのかと思うのですが、よくわかりません。

全543首からなる本歌集の出版準備がすすみ、出版社から見本組みが届いた10月27日に、
生後24日の長男真一が亡くなってしまった。

啄木は急遽、長男への挽歌8首を詠み歌集の末尾に付け加えました。

545 二三こゑ いまはのきはに 微かにも 泣きしといふに なみだ誘はる
    二三声いまわのきわにひそかにも泣いたということに涙が誘われる

546 真白なる 大根の根の 肥ゆる頃 うまれてやがて 死にし児のあり
    真っ白な大根の根が肥えるこる 生まれてすぐさま死んだ子がいたんだ

547 おそ秋の 空気を 三尺四方ばかり 吸ひてわが児の 死にゆきしかな
    晩秋の空気を三尺四方くらい吸って わが子は死んで行ったのだなあ

548 死にし児の 胸に注射の 針を刺す 医者の手もとに あつまる心
    死んだ子の胸に注射の針を刺す医者の手元に集まる心

549 底知れぬ 謎に対ひて あるごとし 死児のひたひに またも手をやる
    底知れない謎に対しているようである 死んだ子の額にまたも手をやる

550 かなしみの つよくいたらぬ さびしさよ わが児のからだ 冷えてゆけども
    悲しみがつよく来ないさびしさよ わが子の体が冷えてゆくけど

551 かなしくも 夜明くるまでは 残りゐぬ 息きれし児の 肌のぬくもり
    悲しくも夜が明けるまでは残っているんだ 息のきれた子の肌のぬくもりは

説明 「残りゐぬ」の「ゐぬ」の「ゐ」は動詞「ゐる」の連用形で、「ぬ」は確述を表す助動詞「ぬ」の終止形なので、
「きっと残っているのだ」という意味になります。

参考 近藤典彦「一握の砂」全歌評釈 http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage8.html

 

2016.1.8

 新潮文庫の「一握の砂・悲しき玩具」を買いました。

 「悲しき玩具」は、明治45年、啄木の死の二ヵ月後に出版されました。「一握の砂」の出版が明治43年ですから、
2年しかたっていないのですが、「悲しき玩具」のほうは、読みやすく、訳をつけなくてもいいものがほとんどです。

 「悲しき玩具」のあとがきを、土岐哀果が書いています。いくつかの文章を抜き書いて紹介します。

石川は遂に死んだ。それは明治45年4月13日の午前9時30分であった。

その四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであった。

で、すぐさま東雲堂へ行つて、やっと話がまとまつた。

石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。

やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとつてくれ、 その陰気な、」とすこし上を向いた。

ひどく痩せたなアと、その時僕はおもつた。

石川は、灰色のラシヤ紙の表紙をつけた中版のノートをうけとつて、ところどころ披いたが、

「さうか。では、万事よろしくたのむ。」と言つて、それを僕に渡した。

それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし、笑ひながら語つた。

かへりがけに、石川は、襖を閉めかけた僕を「おい」と呼びとめた。

立つたまま「何だい」と訊くと、「おいこれからも、たのむぞ」と言つた。

これが僕の石川に物をいはれた最後であつた。

石川は死ぬ、さうは思つていたが、いよいよ死んで、あとの事を僕がするとなると、実に変な気がする。

表題は、あの時、何とするか訊いておけばよかつたのであるが、あの寝姿を前にして、全快後の計画を話されてはもう、そんなことを訊けなかった。

 文庫本末の解説は、同郷の無二の親友、金田一京助が書いています。悲しき玩具に関する部分を一箇所だけ紹介します。

 第一歌集に比較をすると、いよいよ一家の風が、あざやかに出て、すっきりしたものが多くなって来た。

「痛む歯をおさへつつ、日が赤赤と、冬の靄の中にのぼるを見たり。」は、まだ誰もここまでは来なかったと斎藤茂吉翁の評した歌である。

 やがて病に倒れるので、この集には病気の歌が多く、啄木の死を外遊中で知らなかった与謝野寛氏夫妻が、帰朝して、

どうしても啄木が死んだと思えなかったが、この歌集を読むに及んで、なるほど死んだかなあと、悲しくも合点が行ったと歎かれた。

 それにもかかわらず屈託知らずの啄木には、明るい歌も間間に出て来る。

 

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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