別冊太陽 万葉集入門 (2011) 

2015.12.4

 万葉集に詠われた歌を読むことも、私の教養に加えたいと思います。

 しかし、万葉集は、百人一首や、古今和歌集のようにひらがなと漢字で書かれたのではなく、すべて漢字でかかれていました。

 日本人がカタカナやひらがなを手に入れるまでの歴史については、日本語の表記の歴史 梅原猛 の頁をご参照ください。

 漢字で書かれた万葉集は難しくて読めません。それが現在の形になるまでの歴史の解説が、
別冊太陽の万葉集入門にありますので、簡単に紹介します。

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万葉集の古写本 金沢英之 北海道大学大学院准教授

 万葉集が20巻から成る歌集として成ったのは、収録歌に付された年次から八世紀半と考えられる。
ただし、原本万葉集はすでに伝わらず、それがどのようなものであったか、あるいはその成立が奈良時代か、
それとも平安時代にまで下がるか、直接に知るすべは、じつはない。
私たちにいま残されているのは、平安時代以降に書き写され伝わった種々の万葉集である。
それらは、必ずしも同一の姿を持っていない。

 もともと万葉集は漢字のみを用いて書かれており、その方式も、
漢字の字義を主体としてテニヲハの部分を万葉仮名で表したもの、
一首全体を一字一音式の万葉仮名で書き下したものなどさまざまである。

さらに、「こひ(恋)」を「孤悲」と書くなど、漢字の音と字義を二重映しにするような独自な文字表現上の工夫が随所に凝らされている。
それだけに、文字で書かれた歌から口頭のことばの歌を再現するにはかえって困難をともなう場合も多い。
書かれて以後時代が下がるとともに、その難しさはいっそう増したと思われる。

そこで天暦5年(951)、源順(みなもとのしたごう)らいわゆる梨壷の五人に万葉集の解読作業が命じられ、
短歌を中心とした多くの歌に訓みがつけられた。
これを古点というが、このときの本もまた現存しない。

鎌倉時代前期の僧、仙覚が諸本を校訂し、従来無訓だった歌すべてに訓みを付した。
これを新点というが、新点のなかに古点も留められている。

 新点と古点の間に、さまざまな人物によってつけられた訓みをまとめて次点といい、
この段階の姿を伝える写本が、いずれも完本ではないものの現存する。
桂本、藍紙本、元暦校本、金沢本、広瀬本、類聚古集等である。

これら次点本を見ると、とくに短歌では、歌の本文を掲げた左に平仮名・片仮名による訓みを本文と同大に並べている。
こうした訓みを通じて読まれることで、万葉集が本来持っていた文字表現上の特質、それゆえのことばそのものとの距離は消え、
ただちに口頭のことばの歌として享受されることとなる。
こうして万葉集は仮名を主体に書かれた古今集以下の勅撰集と接続され、詠歌の手本となり得たのである。

 仙覚による新点はこの方向性を徹底した。
同時に、訓みは傍訓として本文に付属する方式に統一され、漢字の本文と仮名の訓みとの一体化が果たされた。
ここに万葉集という漢字テクストはことばの歌集として完成する。

江戸時代、仙覚の付訓に基づく寛永版本が刊行され流布した結果、契沖や賀茂真淵ら国学者による万葉集研究が深化し、
現代の万葉学に到るが、それも新点本の登場がもたらした枠組みの上でなされてきたのだった。
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 別冊太陽の万葉集入門には、名首百首が解説されていますので、興味のあるかたは、是非お読みください。

 コラム記事に、万葉歌人の柿本人麿に関する面白い記事がありましたので、紹介します。

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柿本人麿 上野誠 奈良大学教授

 あまりこういう原稿に似つかわしくない出だしなのだが、日本の歴史学者や日本文学者で、梅原猛さんの説を嫌う人は多い。
私もどちらかといえば、好きではない。ではなぜ、嫌うのか。そこが重要ではないのか。

今日の研究は、細分化され、個別に深化しているから、個々の研究者は己の小さな領域にタコ壷のように閉じ籠って仕事をしている。
ところが、梅原さんは縦横無尽に、次々とさまざまな研究領域に進出し、圧倒的文章力と発信力で、社会に影響力のある説を出し続けているのだ。
いわば、何千というタコ壷の上に、突然ヘリコプターでやって来るのに等しいのだ。

 しかし、タコ壷型学者の方も反省が必要ではないのか。
自分の行っている研究が社会にうまく発信できないのは、自分の力不足と努力不足ではないのか。
じつは、私もタコ壷の中にいる万葉学者のひとりなのだが、そんな思いを秘めて、この原稿を書いている。

 なんといっても、梅原さんの柿本人麿の刑死説は、衝撃的であった。
あの歌聖として崇められている柿本人麿が、刑死したというのだから。

 梅原猛「水底の歌−柿本人麿論−」(新潮社、1973年)が説くのは、人麿が石見国に流罪となり、水死刑に処せられたというのである。
はっきり言って、この説は成り立たない。
(中略)
 梅原氏の方法は、歌が人の情感を伝えるものであることを利用し、自分の空想を歌に背負わせているに過ぎない。
そのわずかな手掛かりとするものが、中世の伝承なのだが、とすれば後の人麿伝承を古代の歌に強制挿入しているに過ぎないのだ。
だから、賢明な読者におかれては、梅原説にまどわされてはならない、と申し上げたい。

 が、しかし、私は梅原さんが、なぜ人麿が刑死したという伝承が生まれたかという点を考えた点については、
高く評価されなくてはならないし、重要な問題を提起したと思っている。

東洋においては、偉大なる文学者はまずもって不幸でなくてはならないという文化的伝統があるのだ。
実際に、文を業とするものは、その影響力の故に、政治的不遇となる者も多い。
李白も杜甫も、竹林の七賢人もそうだ。

つまり、人麿刑死説は、日本詩歌史1400年のうちに、巨大なダムのごとくに存在する歌聖にとって、もっともふさわしい死に方なのである。
小野小町の卒塔婆小町伝説、紫式部が死後地獄に落ちたという伝説。
文学というものは、万人の心を惑わせ、その心を奪うものであり、その栄光を償うべく偉大なる文学者には、不幸な死が待っているのだ。

そういう伝説の背後にある心性のごときものを梅原さんは見事に炙り出した、と私は思う。
私を含め世の国文学者は、その不明を恥じなくてはなるまい。これは、きわめて重要な問題提起ではないのか。
ちまちまとした批判の前に、自らの不明を恥じるべきだ。 (後略)
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ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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