国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった |
2015.2.18
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。」これは、川端康成の小説「雪国」の冒頭の文章で、日本人が心から愛する文章です。暗いトンネルから抜け出したとたんに、目の前に広がる銀世界を見て、雪国に来たんだという実感をうたった文章です。英語にすると、以下のような文になります。
We went out of the long border tunnel, and there we were in the snow country.
しかし、この文章を翻訳家のサイデンステッカーは、以下のように翻訳します。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
読者は汽車の外にいて、汽車がトンネルから出て、銀世界のなかを進もうとしている情景を目に浮かべます。
元の日本文が、主観を記述しているのに対し、翻訳の英文は客観を記述しているといえるでしょう。日本人は、主観を愛し、目の前にひろがる風景を楽しみます。欧米人は、上空から映した写真のように、風景を楽しむということでしょうか。
美的感覚、ものの考え方の根本的な違いが、ここにあると思います。もし、雪国を、主観の立場から翻訳したら、ノーベル文学賞はとれたでしょうか、とれなかったでしょうか。
2015.7.19
図書館で山口明穂さんの「国語の論理 古代語から近代語へ」(東京大学出版会、1989)を借りてきました。その第一章の主格意識のところで、雪国の冒頭がとりあげられていました。
その一部を引用します。
冒頭の一文は、最後に「そこは雪国であった」という主人公の判断が加わっている。そのことで、その前の「トンネルを抜ける」の部分で、移動する主人公の視点があることが分かる。つまり、「トンネルを抜ける」のは汽車であるが、それは、ただ走る汽車ではなく、主人公の乗った汽車なのである。むしろ、汽車に乗った主人公なのである。
もう一箇所、引用します。
「国境の」で始まる文で、何が「抜け」たのかは言葉の上に現れていない。主語が明示されていない。もし、この文が「汽車がトンネルを抜けると」とあれば、「汽車」と「抜ける」とが「が」でつながることで、「抜ける」は、「汽車」という文中の他の語句との関係ができ、意味内容が限定される。しかし、本来のこの文では、その「汽車」という語がないことで、「抜ける」の部分に文中に現れない内容、この場合は話の主人公であるが、それが関係してくることになる。このように、話の進み方によって文中には現れない内容の関係してくることが言葉にはあるのである。
汽車がという主語があったとしても、この文章は、汽車に乗っている話者が見て感じた主観が書かれているわけです。
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