由木義文 阿弥陀経 (1991) |
2020.2.10
阿弥陀さまと、阿弥陀経の読み方を教わるために、この本を買いました。
著者は、1944年に、埼玉県加須市の浄土宗龍蔵寺に生れ、この本を書かれた時は、副住職でしたが、
ウィキペディアによると、今現在は、住職をなされていて、慶應義塾大学で、長年にわたり宗教学の教鞭をとられたそうです。
また、脚本家という肩書もお持ちで、Dr.スランプ アラレちゃん の脚本や、ドラゴンボールの第98話の脚本を手掛けられたようです。
さて、私は、本は、「あとがき」から読むタイプの人間ですので、最後の「あとがきにかえて」を先に読みました。
(推理小説やクイズなら、筋に従って、考えながら読むべきなのでしょうが、
目的のある本ならば、どこに到達するのか、あらかじめ知って読むほうが効果的だと思うからです。)
著者は、歎異抄の九章を読んで、「目が開いた」と述懐されます。少し、引用します。
167頁
ありがたい念仏を称えるが、少しも踊りあがって喜ぶ心が起こってこない、いったいこれはどうしたことなのか。
これに対し、親鸞はそれは煩悩のはたらきが盛んであるから、そうなるのだという。
また、苦しみに満ちたこの世を離れ、浄土に行こうとする気持ちが起こってこないのも、
実はこの煩悩のせいだとしている。
そして、阿弥陀仏は、このような煩悩に振り回され、苦しんでいる、煩悩具足である私たちを
救いの対象としているのだという。実にありがたいと思う。
私は毎日、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えている。でも何も感ずることができない。
実はそれは私の中にある煩悩によるわけで、そんな煩悩に振り回され、悩み、苦しんでいる
私を阿弥陀さまは救ってくださるといっているのである。
私はこの文で、なるほどとうなずけたのである。
こんなふうに思いつつ、念仏を称えていると、不思議と阿弥陀さまが身近に感ぜられ、
ありがたいなという気持ちになってくる。
宗教は、ジレンマを孕んでいると、私は、思っています。
宗教は、罪を犯した人に、悔い改めなさい、そうすれぱ救われると説きます。
しかし、これを逆手にとって、最後に、悔い改めさえすれば、いくら、罪を犯してもいいのだと解釈してしまうと
とんでもないことになります。
阿弥陀経や、観無量寿経は、どうすれば救われるのか、というお話が書かれているお経なので、
このような問題と、もろにぶつかります。
私も、早急に判断はせず、ゆっくりと、この本を読み、ゆっくりと考えたいと思っています。
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