謡曲 熊野(ゆや)

2020.4.27

登場人物

シテ 熊野(湯谷)

ツレ 朝顔 侍女

ワキ 平宗盛

ワキツレ 侍者 太刀持ち

●ワキ
これは平の宗盛なり。さても遠江の国池田の宿の長をば熊野と申し候。
ここにいますは、平の宗盛です。さて、遠江の国池田の宿の主人は、熊野(ゆや)という名前です。

久しく都にとどめおきて候ふが。老母のいたはりとて度々暇を乞ひ候へども。
長く都に留めおいてございますが、老母が病気だとて、度々、暇乞いをするのですが、

この春ばかりの花見の友とおもひ留めおきて候。
この春だけの花見の友にと思い、引きとどめております。

いかに誰かある。 おい、だれかいるか。

●ワキツレ
御前に候。  御前におります。

●ワキ
熊野きたりてあらば此方へ申し候へ。 熊野がきたならば、私にしらせなさい。

●ワキツレ
畏つて候。  かしこまりました。

●ツレ 朝顔
夢の間惜しき春なれや。夢の間惜しき春なれや。咲く頃花を尋ねん。
夢を見る間も惜しい春でございます。咲く頃合いの桜の花を訪ねましょう。

これは遠江の国池田の宿。長者の御内につかへ申す。朝顔と申す女にて候。
私は、遠江の国池田の宿の長者のお家にお仕えする朝顔という侍女でございます。

さても熊野久しく都に御入り候ふが。此程老母の御いたはりとて。
さて、熊野(ゆや)が長らく都にいらっしゃいますが、この度、老母が御病気だと

度々人を御のぼせ候へども。更に御くだりもなく候ふ程に。
度々、使いの人を都にのぼらせましたが、いっこうにお帰りになりませんので、

此度は朝顔が御むかへにのぼり候。 この度、朝顔がお迎えに上ってまいりました。

此程の旅の衣の日もそひて。旅の衣の日もそひて。幾夕暮の宿ならん。
この度の旅衣を紐解いて、日々を重ねて、何度、夕暮れ時に宿をとったことでしょう

夢も数そふ仮枕。明かし暮らして程もなく。都に早く着きにけり都に早く着きにけり。
仮枕に夢も沢山みて、日々を過ごしていくうちに、早くも都に着きました。

急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。 急ぎましたので、はやくも、都につきました。

これなる御内が熊野の御入り候ふ所にてありげに候。
このお家が、熊野(ゆや)様のいらっしゃる所のようでございます。

まづまづ案内を申さばやと思ひ候。 まずはご案内いただこうと思います。

いかに案内申し候。池田の宿より朝顔が参りて候。それそれおん申し候へ。
もし、ごめんください。池田の宿から朝顔が参りました。それお取次ぎください。

●シテ 熊野
草木は雨露のめぐみ。養ひ得ては花の父母たり。
草木は雨露の恵を得ては、育ち花を咲かすので、雨露の恩は、花の父母です。

況んや人間に於てをや。
ましてや人間においては、言うまでもないことです。

あら御心もとなや何とか御入り候ふらん。
ああ、心配でございます。どうしていらっしゃるでしょう。

●ツレ 朝顔
池田の宿より朝顔がまゐりて候。  池田の宿から、朝顔がまいりました。

●シテ 熊野
なに朝顔と申すか。あらめづらしや。さて御いたはりは何と御入りあるぞ。
なに朝顔ですって。珍しいこと。さて、ご病気は、どのようでいらっしゃいますか?

●ツレ 朝顔
以ての外に御入り候。これに御文の候御覧候へ。
甚だ悪くていらっしゃいます。ここにお手紙が御座います、ご覧ください。

●シテ
あらうれしやまづまづ御文を見うずるにて候。
あら嬉しいこと。まずは、お手紙を見ようと思います。

あら笑止や。此御文のやうも頼み少(ずくの)う見えて候。
おや、とんでもないことです。このお手紙の様子では、長く生きられそうもなくお見うけします。

●ツレ
左様に御入り候。  さようでございます。

●シテ
此上は朝顔をも連れて参り。又此文をも御目にかけて御暇を申さうずるにてあるぞ
このうえは、朝顔を連れてまいり、このお手紙もお見せして、お暇をお願いいたしましょう。

こなたへ来り候へ。誰か渡り候。  こちらにいらつしゃい。どなたかいらっしゃいますか。

●ワキツレ
誰にて渡り候ふぞ。や。熊野の御まゐりにて候。
どなたでございますか。おや、熊野さまが参られてございます。

●シテ 熊野
わらはが参りたる由御申し候へ。  私が参ったこと、お伝えください。

●ワキツレ
心得申し候。いかに申し上げ候。熊野の御まゐりにて候。
心得ました。申し上げます。熊野さまが参られました。

●ワキ
こなたへ来れと申し候へ。  こちらへくるように言いなさい。

●ワキツレ
畏つて候。こなたへ御参り候へ。 かこまりました。こちらへお出でください。

●シテ
いかに申し上げ候。老母のいたはり以ての外に候ふとて。此度は朝顔に文をのぼせて候。
申し上げます。老母の病気が甚だ悪いと、この度、朝顔に手紙をもたせて上京させてございます。

便(びん)なう候へどもそと見参に入れ候ふべし。
ふとどきではございますが、少し、お目にかけたいと思います。

●ワキ
なにと故郷よりの文と候ふや。見るまでもなしそれにて高らかに読み候へ。
なんと故郷からの手紙でござるか。見るまでもない。そこで声に出して読みなさい。

●シテ
甘泉殿の春の夜の夢。心を砕く端となり。
(漢の武帝が) 甘泉殿ですごしたの春の夜の夢、(李夫人の死により) 心を砕く端緒となり

驪山宮の秋の夜の月終(おわ)なきにしもあらず。
(玄宗皇帝と楊貴妃は) 驪山宮で、秋の夜の月の終りは、ないわけではなかった

末世一代教主の如来も。生死の掟をば遁(のが)れ給はず。
末世一代教主の釈迦如来も、生死の定めをのがれることはできなかった。

過ぎにし二月の頃申しし如く。  去る二月の頃に申しましたように

何とやらん此春は。年ふりまさる朽木桜。 何とも、この春は、ますます古くなっていく朽木桜のようで

今年ばかりの花をだに。待ちもやせじと心弱き。  今年だけの花ですら、待つこともできまいと心弱く

老の鴬逢ふ事も。涙に咽ぶばかりなり。 老いた鴬のように逢う事もできず、涙にむせぶばかりです。

ただ然るべくはよきやうに申し。しばしの御暇を賜はりて。今一度まみえおはしませ。
ただ、そうでありますなら、うまくお伝えもうして、暫くのお暇をいただいて、今一度、顔をみせてください。

さなきだに親子は一世のなかなるに。 さなぎですら、親子の縁は、この世限りの仲でございますのに

同じ世にだに添ひ給はずは。孝行にもはづれ給ふべし。
同じ世にいる間に共に添うことができないのは、孝行の道にはずれることになります

唯かへすがへすも命の内に今一度。見まゐらせたくこそ候へとよ。
ただ、くれぐれも、命のあるうちに、もう一度、お目にかかりたいと願うばかりですと、

「老いぬればさらぬ。別のありといへば。いよいよ見まくほしき君かな」と。
「年老いてさけらけない別れがあるとなれば、いっそうお会いたくなるあなたです」と

古事までも思出の涙ながら書きとどむ。 という古歌までも思い出し、涙ながらに書き記しています。

地歌
そも此歌と申すは。そも此歌と申すは。在原の業平の。 そもそも、この歌は、在原の業平が

其身は朝に隙なきを。長岡に住み給ふ老母の詠める歌なり。
その身は朝廷で暇がないことを、長岡にお住まいの老母が詠んだ歌です。

さてこそ業平も。 だからこそ、業平も

「さらぬ別(わか)れのなくもがな。千代もと祈る子の為」
「(世の中に) 避けられない別れなどなければいいのに。(親の命を)千年もと祈る子供のために。」

説明 避らぬ別れ どうしても避けることのできない別れ=死別

とよみし事こそ。あはれなれ詠みし事こそあはれなれ。
と詠んだことこそ、あわれです。

●シテ 熊野
今はかやうに候へば。御暇を賜はり。東に下り候ふべし。
今は、このようでありますので、お暇を賜り、東国に下りとうございます。

●ワキ
老母の痛はりはさる事なれどもさりながら。この春ばかりの花見の友。いかで見すて給ふべき。
老母の病気は、そういうことだが、しかしながら、この春ばかりは、一緒に花見をしたいと思っているのを、なんで見捨てるのですか。

●シテ
御ことばをかへせば恐なれども。花は春あらば今に限るべからず。
お言葉をかえすのは、恐縮ですが、花は春になれば咲きます。今年にかぎるわけではありません。

これはあだなる玉の緒の。永き別となりやせん。
これは、はかない命の、永遠の別れとなるやもしれません

ただ御暇を賜はり候へ。 ただただ、お暇をくださいませ。

●ワキ
いやいや左様に心よわき。身に任せてはかなふまじ。
いやいや、そのように心弱きふうに身を任せては、どうにもならない。

いかにも心を慰めの。花見の車同車にて。ともに心を慰まんと。
いかにも、心を慰める、花見の車に、同車して、一緒に心を慰めましょうと。

●地歌
牛飼(うしかい)車寄せよとて。牛飼車寄せよとて。  牛飼と車を寄せなさいと言うけれど

これも思ひの家の内。はや御出と勧むれど。心は先に行きかぬる。
これも思いの家の内。はやく出なさいと勧めるが、心は、先に行きかねます。

説明 法華経の牛車に乗って火宅を逃げ出すことに掛けているようですが、まだ、未調査です

足弱車の力なき花見なりけり。 足元のおぼつかない車での弱弱しい花見でした。

熊野は、花見車に乗り、車窓を眺めるが、時折、悲しむ様子をみせる。

●シテ
名も清き。水のまに/\とめくれば。  名も清い清水寺のほうにすすんでいくと

●地
河は音羽の。山桜。  加茂川の水音が響き、音羽山の山桜が見える

●シテ
東路(あづまじ)とても東山せめて。其方のなつかしや。
東路とはいっても、東山の方向ではあるが、せめて其方向のなつかしいこと

●地
「春前に雨あつて花の開くる事早し。 「春先に雨が降ると開花が早くなる

 秋後に霜なうして落葉遅し。  晩秋に霜が降りなければ落葉は遅れる

 山外に山有つて山尽きず。  山の向こうに山があって山は尽きない

 路中に路多うして道きはまりなし。」 道の途中に道が沢山あり、道の尽きる事はない」

●シテ
山青く山白くして雲来去す。  山は青く、また白くなって、雲が去来する

●地
人楽み人愁ふ。これみな世上の有様なり。  人は楽しみ、人は憂う。これはみな地上の有様です。

誰か言ひし春の色。げに長閑(のどか)なる東山。 誰が言ったか、春の色、本当に長閑な東山

「四条五条の橋の上。四条五条の橋の上。  四条や五条の橋の上で

老若男女貴賎都鄙。  老若男女も、貴戸も、賎しい人も、都会人も、田舎人も

色めく花衣袖を連ねて行末の。 色めく花衣の袖を連ねて行き交い

雲かと見えて八重一重。   行く末に雲のように見える八重桜、一重桜が咲き、

さく九重の花ざかり。   九重の桜も花盛り

名に負ふ春の。けしきかな名におふ春のけしきかな。   名高い春の景色です。

●地
河原おもてを過ぎゆけば。急ぐ心の程もなく。  賀茂川の河原おもてを過ぎると、急ぐ心も、まもなく

車大路や六波羅の。地蔵堂よと伏し拝む。  大和大路や、六波羅、地蔵堂だと、伏し拝み

●シテ
観音も同座あり。闡提救世の。方便あらたにたらちねを守り給へや。
観音も同座されている。闡提救世のご利益新たに、どうか母上をお守りください

●地
げにや守の末すぐに。  本当に、お守りの結末がすぐにありますように。

たのむ命は白玉の。愛宕の寺も打ち過ぎぬ。六道の辻とかや。

●シテ
実に恐ろしや此道は。冥途に通ふなるものを。心細鳥辺山。

●地
煙の末も薄霞む。声も旅雁のよこたはる。

●シテ
北斗の星の曇なき。

●地
御法の花も開くなる。

●シテ
経書堂はこれかとよ。

●地
其たらちねを尋ぬなる。子安の塔を過ぎ行けば。

●シテ
春の隙行く駒の道。

●地
はや程もなくこれぞこの。

●シテ
車宿。

●地
馬留。こゝより花車。おりゐの衣播磨潟飾磨の徒歩路清水の。仏の御前に。念誦して母の祈誓を申さん。

●ワキ
いかに誰かある。  誰かいるか

●ワキツレ
御前に候。    御前におります

●ワキ
熊野はいづくにあるぞ。  熊野(ゆや)はどこにいるか

●トモ
いまだ御堂に御座候。  いまだ清水の御堂ににおります。

●ワキ
何とて遅なはりたるぞ急いでこなたへと申し候へ。
どうして遅れているのか。急いでこちらに来るように言いなさい。

●ワキツレ
畏つて候。いかに朝顔に申し候。  かしこまりました。さあ、朝顔殿に、申し上げる。

はや花の本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐりあれとの御事にて候。其由仰せられ候へ。
はや花の下で主演が始まっています。急いで参られるようにとのことです。そうお伝えください。

●ツレ
心得申し候。 心得ました。

いかに申し候。はや花の本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐりあれとの御事にて候。
もう上げます。はや花の下で主演が始ま野ました。急いで参られ余のとことでございます。

●シテ
何と早御酒宴の始まりたると申すか。  何とはや酒宴が始まったというのですか。

●ワキツレ
さん候。   そうでございます。

●シテ
さらば参らうずるにて候。  それでは参りましょう。

●シテ
なうなう皆々近う御参り候へ。  さあさあ皆さま、近くにいらしてください。

あら面白の花や候。  あら、面白い花でございますこと。

今を盛と見えて候ふに。何とて御当座などをもあそばされ候はぬぞ。
今を盛りと咲いていますのに、何故、ご当座(即興で歌を詠む遊び)をなさらないのですか。

実に思ひ内にあれば。色外に現る。  本当に、心配事が内にあると、それが外に現れてしまうのですね。

●地
よしやよしなき世のならひ。歎きてもまた余あり。
本当にままならないことが世の常ですが、嘆いても嘆ききれない身の上です。

●シテ
花前に蝶舞ふ紛々たる雪。 花の前に舞う蝶は、乱れ降る粉雪のよう

●地
柳上に鴬飛ぶ片々たる金。  柳の木の上を飛び交う鴬は、ひらひらと輝く金片のよう。

花は流水に随(したが)って香の来る事疾し。 花は流れる水に従って香を速やかに伝え

鐘は寒雲を隔てて声の至る事遅し。  別れを告げる鐘は、寒空の雲にさえぎられて音の届くのが遅い

清水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。諸行無常の声やらん。
清水寺の鐘の声は、祇園精舎を表して、諸行無常の声でありましょう。

地主権現の花の色。娑羅双樹のことわりなり。

生者必滅の世のならひ。実にためしある粧。仏ももとは捨てし世の。

半は雲に上見えぬ。鷲の御山の名を残す。寺は桂の橋柱。

立ち出でて峯の雲。花やあらぬ初桜の祇園林下河原。

●シテ
南を遥に眺むれば。

●地
大悲擁護の薄霞。熊野権現の移ります御名も同じ今熊野。

稲荷の山の薄紅葉の。青かりし葉の秋また花の春は清水の。

唯たのめ頼もしき春も千々の花盛。

●シテ
山の名の。音羽嵐の花の雪。

●地
深き情を。人や知る。  深い情けを、人はわかるだろうか。

●シテ
妾御酌にまゐり候ふべし。  私は、御酌にまいりましょう。

●ワキ
いかに熊野。一さし舞ひ候へ。   では熊野よ。ひとさし舞ってみせなさい。

●地
深き情を。人や知る。  深い情けを、人はわかるだろうか。

●シテ
なうなう俄に村雨のして花の散り候ふは如何に。 もしもしにわか雨が降って、花が散りますよ。なんともはや。

●ワキ
げにげに村雨の降り来つて花を散らし候ふよ。  本当ににわか雨が降って、花を散らしてしまいます。

●シテ
あら心なの村雨やな春雨の。  ああなんと心無いにわか雨ですこと。春雨が

●地
降るは涙か。降るは涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。
降るのは、涙でしょうか。桜が散るのを惜しまぬ人は、いませんよ。

●ワキ
由ありげなる言葉の種取上げ見れば。 わけありげな歌なので、取り上げて見ると

「いかにせん。都の春も惜しけれど。 「どうしましょ。都の春を見ないのも惜しいが

●シテ
なれし東の花や散るらん。   見慣れた東国花も散っているのでしょうね。」

●ワキ
げに道理なりあはれなり。早々暇とらするぞ東に下り候へ。
まことに、もっともであり、哀れである。早々に暇をとらすぞ。東国に下りなさい。

●シテ
何御いとまと候ふや。  なに、お暇とおっしゃるのですか。

●ワキ
中々の事とくとく下り候ふべし。 そのとおり。早々にお下りなさい。

●シテ
あら嬉しや尊やな。これ観音の御利生なり。これまでなりや嬉しやな。
あら嬉しい、有難い。これは観音様のご利益です。これでお暇です。ああ嬉しい。

●地
是までなりや嬉しやな。  これでお暇です。ああ嬉しい。

かくて都に御供せば。またもや御意のかはるべき。
このまま都まで音もすると、またもや、お心が変わるでしょう。

ただ此ままに御いとまと。 「ただ今このままでお暇を」と言って

木綿附(いうつけ)の鳥が鳴く東路さして行く道の。 
夕暮れを告げる鳥が鳴く中を、東路めざして行く道すがら

やがて休らふ逢坂の。関の戸ざしも心して。明け行く跡の山見えて。
そのうち休息を取る逢坂の関の、関の錠も、心して開け、明け行く山々が後ろに見え

花を見すつる雁(かりがね)のそれは越路
都の花を見捨てて帰る雁は越路

我はまた。東に帰る名残かな東に帰る名残かな。
私は、また、東国に帰ります、お別れです。東国に帰ります、お別れです。

 

     

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