謡曲 吉野天人

2019.11.23

登場人物

前シテ 里女

後シテ 天人

ワキ 都人

ワキツレ 同行者

●ワキ、ワキツレ

花の雲路(くもぢ)をしるべにて。/\。吉野の奥を尋ねん。
桜の花が咲いて雲のように見える所を、行き先の目当てとして、吉野の奥を訪ねましょう。

説明 雲路=雲の中にあるといわれる道。しるべ=手引き、道案内

説明 吉野=奈良県吉野郡吉野山

●ワキ

これは都方(みやこがた)に住居(すまい)する者にて候。さてもわれ、春になり候へば。
私は、今日の都のあたりに住む者でございます。さて、私達は、春になりましたので、

ここかしこの花を一見(いっけん)仕(つかまつ)り候。 あちこちの桜の花を見物しているところです。

中にも千本(ちもと)の桜を年々(としどし)に眺め候。 なかでも、千本桜を毎年眺めております。

説明 千本の桜=京都、嵐山の桜のこと

この千本(ちもと)の桜は。三吉野の種取りし花と承り及び候ふ間。
この千本桜は、御吉野山の千本桜を種取りした桜だと聞いておりますので

説明 後嵯峨上皇が、嵯峨亀山に吉野の桜を移植したことから、嵐山の桜も吉野の桜を移植したとの伝説

若き人々をも伴ひ。この度(たび)は和州(わしゅう)に下向仕り候。
若い人達をつれて、この度は、大和の国に下向するところでございます。

●ワキ、ワキツレ

この春は。殊に桜の花心。/\。  この春は、特に、桜の花の心が、

色香に染むや深緑(ふかみどり)。糸捻(より)かけて青柳の露も乱るる春雨の。
色香に染まって、深緑の青柳が、糸をより合わせて貫く露が、降る春雨で乱れ動き、

説明 「浅緑糸よりかけて白露を玉にも貫(ぬ)ける春の柳か」 古今集、僧正遍昭 をひいています。

  訳 薄緑色の糸をより合わせて、白露を玉のように貫き通している春の柳であるなあ

夜ふりけるか花色の。朝じめりして気色立つ。
夜が更けてきたのでしょうか、桜の花が、朝露の湿りに濡れて、気色だっている

説明 気色立つ は、それらしい様子があらわれる、きざす、の意。気色だって、美しく見えるようす。

吉野の山に着きにけり。/\。  吉野の山に着きました。

●ワキ 詞

急ぎ候ふ程に。是は、はや吉野の山に着きて候。
急いで参りましたので、はやくも、吉野の山に着きましてございます。

御覧候へ峰も尾上(おのえ)も花にて候。尚々奥深く分入らばやと思ひ候。
御覧なさい。峰も山頂も桜でございます。さらになお、奥深く入りたいと思います。

●シテ 呼掛

なう/\ あれなる人々は何事を仰せ候ふぞ。 もしもし、そちらの方々は、何を言っておられるのですか。

●ワキ

さん候これは都の者にて候ふが。この三吉野の花を承り及び。始めてこの山にわけ入りて候。
そうです。私達は、都の者でございますが、この三吉野の桜のことを聞き及び、初めて、この山に分け入ったのです。

又見申せばやごとなき御姿なるが。この山中に入(い)らせ給ふは。いかなる人にてわたり候ふぞ。
拝見しますと高貴な御姿でおられますが、こんな山中にいらっしゃいますとは、どのようなお方であられますか。

●シテ

これはこのあたりに住む者なるが。春立つ山に日を送り。
私は、このあたりに住む者ですが、春の気配が立つこの山で日をすごし

さながら花を友として。山野に暮らすばかりなり。
まるで花を友として、山野に暮らすだけのことです。

●ワキ

げに/\花の友人は。他生の縁といひながら。われらも同じ其心。
まことに、花を友とする人は、他生の縁とは言いながら、われらも同じ心であります。

●シテ

処も山路の。  ここは、山道ですので

●ワキ

友なれや。   山道の友なのですね。

●地上歌

見もせぬ人や花の友。/\。知るも知らぬも花の蔭に。相(あい)やどりして諸人(もろびと)の。
見知らぬ人も、花の友、知り合いであろうとなかろうと、花のおかげで、一緒に夜を明かして、人々が

いつしか馴れて花衣の。袖ふれて木(こ)のもとに立ちよりいざや眺めん。
いつしか、馴れ親しんで、花衣の袖を触れ合って、木の下に立ち寄って、さあ、眺めましょう。

げにや花のもとに。帰らん事を忘るるは。美景(びけい)によりて花心。
本当に、花の下で、帰ることを忘れるのは、美しい景色によって、花心に

馴れ馴れ初(そ)めて眺めん いざいざ馴れて眺めん。
馴れ、なれ初めて、さあ、眺めましょう、馴れ親しんで眺めましょう。

●ワキ詞

いかに申すべき事の候。 さて申し上げたいことがございます。

かやうに家路を忘れ花を眺め給ふ事。いよ/\不審にこそ候へ。
このように家に帰ることを忘れ、花を眺めておられること、いよいよ、不審でございます。

●シテ

げに御不審は御理(おんことわり)。  誠に、御不審は、ごもっともです

今は何をか包むべき。   いまは、何をかくしましょう。

真はわれは天人なるが。花に引かれて来りたり。
本当は、私は、天人なのですが、花に惹かれて参ったのです。

今宵はこゝに旅居して。信心を致し給ふならば。その古(いにしえ)の五節の舞。
今晩は、ここにお泊りになって、信心をなさいますならば、その昔の、五節の舞で、

説明 五節の舞は、天武天皇が吉野に行幸された時、天人が袖を五回翻して舞ったという舞

小忌(おみ)の衣の羽袖(はそで)を返し。月の夜遊(やゆう)を見せ申さん。暫くこゝに待ち給へと。
小忌の衣の羽袖を返て、月の夜遊をお見せしましょう。暫くここにお待ちください。

説明 小忌の衣は、神祭りに舞人が上に着る齊服。天人の衣を小忌の衣になぞらえている。

●地上歌

夕ばえ匂ふ花の蔭(かげ)。/\。月の夜遊を待ち給へ。
夕日に美しく照りはえて美しい花の蔭で、月の夜遊をお待ちください。

少女(おとめ)の姿現して。必ずここに来(きた)らんと。
天女姿をあらわして、必ず、ここに来るでしょうと

迦陵頻伽(かりょおびんが)の声ばかり雲に残りて失せにけり雲に残りて失せにけり。
迦陵頻伽の声だけが、雲に残って、天人の姿は消えてしまいました。

説明 迦陵頻伽は、梵語で、妙音鳥。極楽浄土に住むという美声の鳥。

●来序中入「。

●ワキ

不思議や虚空(こくう)に音楽聞え。異香(いきょう)薫(くん)じて花降れり。
不思議な事に、虚空に音楽が聞こえ、不思議な香りがして、花が降ってきた。

●地

これ治まれる御代とかや。  これは天下泰平の御代であるからか。

●上歌

云ひもあへねば雲の上。/\。  言い終わらぬうちに、雲の上に

琵琶(びわ)琴(こと)和琴(わごん)笙(しょう)篳篥(ひちりき)。鉦鼓(しょうご)羯鼓(かっこ)や糸竹(いとたけ)の。
琵琶、琴、和琴、笙篳篥。鉦鼓。羯鼓といった糸竹(管弦楽)の。

説明 糸竹は、管弦楽のこと。糸が、弦、竹が、笛や笙。

声澄み渡る春風の。天つ少女の羽袖を返し。花に戯れ舞ふとかや。
音が澄み渡る春風の中で、天女が、羽袖を返して、花に戯れて舞うとかいう。

●中ノ舞

●地

少女(おとめ)は幾度(いくたび)君が代を。/\。撫でし巌(いわお)もつきせぬや。
天女が、何度も撫でた大岩は、君が代のように、撫でても尽きることがないのでしょうか。

説明 「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなん」拾遺集 読人不知 をひく。
  翻訳 君が代は、天人が希に来て、羽衣が触れても尽きることのない大岩のようになりますように

春の花の。梢に舞ひ遊び。飛び上り飛び下る。
春の花が、梢に舞い遊んで、飛び上り飛び下る。

げにも上なき君の恵。治まる国の天つ風。雲の通ひ路吹き閉(と)づるや。
本当にこの上もない君主の恵みです。天下泰平の国の天つ風が雲の間の道を閉さしてしまったのでしょうか。

少女の姿。留まる春の。霞もたなびく三吉野の。山桜うつろふと見えしが。
天人の姿が、立ち留まり、春の霞もたなびく御吉野山の山桜がうつろいゆくと見えたのですが、

また咲く花の。雲に乗り。また咲く花の。雲に乗りて行くへも知らずぞ。なりにける。
また、天人は、咲く花の雲に乗って行方知れずになってしまいました。

 

 

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