謡曲 土蜘蛛 |
2018.5.20
登場人物
前シテ:僧
後シテ:土蜘蛛の精
ワキ:一人武者
ツレ:小蝶
トモ:従者
ツレ:源頼光
●ツレ 胡蝶
浮き立つ雲の行方(ゆくえ)をや。浮き立つ雲の行方(ゆくえ)をや。風の心地を尋ねん。
空に湧き上がる雲の行方を、風に尋ねましょう。頼光様のお風邪の加減もたずねましょう。
これは頼光の御内(みうち)に仕へ申す。胡蝶と申す女にて候。
私は、頼光様の御家中にお仕えしております、胡蝶という女でございます。
説明 源頼光(944-1021)は、源満仲の子で、清和源氏の3代目。酒呑童子討伐や、土蜘蛛退治で知られる。
さても頼光例ならず悩ませ給ふにより。
さて、頼光さまが、いつになく病でお悩みでございますので、
典薬の頭(かみ)より御薬(おんくすり)を持ち。唯今頼光の御所(ごしょ)へ参り候。
典薬の頭からいただいたお薬を持って、ただいま、頼光様の御宿所へ参上いたします。
いかに誰(たれ)か御入(おんに)り候。 もし、どなたかいらっしゃいますか。
●トモ 従者
誰にて御座候ふぞ。 どなたで御座いますか。
●胡蝶 胡蝶
典薬の頭より御薬を持ち。胡蝶が参りたるよし御申し候へ。
典薬の頭からいただいた御薬を持って、胡蝶が参りたること、お伝えください。
●トモ 従者
心得申し候。御機嫌を以って申し上げうずるにて候。
心得てございます。ご機嫌のいい折に、お伝えいたしましょう。
●ツレ 頼光
ここに消えかしこに結ぶ水の泡の。浮世に廻(めぐ)る身にこそありけれ。
ここで消え、あそこで生まれる水の泡が浮くように、浮世に廻る我が身であったなあ。(と歌われているが)
説明 千載集の藤原公任の歌
げにや人知れぬ。心は重き小夜衣(さよごろも)の。
本当に、人にはわからない、私の心は、寝巻すら重く感じ、
恨みん方(かた)もなき袖を。かたしきわぶる思ひかな。
寝巻の裏を見る事もできず、恨みの片袖を敷いて寂しく気弱な思いかな。
●トモ 従者
いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ち。胡蝶の参られて候。
申し上げます。典薬の頭からいただいた御薬を持って、胡蝶殿がいらっしゃっています。
●頼光
こなたへ来れと申し候へ。 こちらに来るように伝えよ。
●トモ 従者
畏って候。こなたに御参り候へ。 畏まりました。こちらにお出でください。
●胡蝶
いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ちて参りて候。
申し上げます。典薬の頭からいただいた御薬を持って参りました。
御心地は何と御入(おんに)り候ふぞ。 御加減はいかがでいらっしゃいますか。
●頼光
昨日より心も弱り身も苦しみて。今は期(ご)を待つばかりなり。
昨日から心も弱り、体も苦しくなって。今は最期の時を待つばかりです。
●胡蝶
いやいやそれは苦しからず。病(やもお)は苦しき習ながら。
いや、そんなことはありませんよ。病気は苦しいものですが、
説明 苦しからず は、構わない、支障が無い、差し障りがない、不都合ではない の意。
療治(りょおじ)によりて癒る事の。例(ためし)は多き世の中に。
治療によって直ることの例は、この世に沢山ありますよ。
●頼光
思ひも捨てず様々(さまざま)に。 私も、諦めずに、様々に
●地 頼光
色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様(ありさま)。
手を尽くして、昼夜の区別もない有様で、
時の移るをも。覚えぬほどの心かな。 時が過ぎるのも、気付かない程ですが、
げにや心を転(てん)ぜずそのままに思ひ沈む身の。
本当に気分を変えることなく、そのまま思い沈む我が身は
胸を苦しむる心となるぞ悲しき。 胸苦しい心となってしまうのが、悲しい。
●シテ 僧
月清き。夜半(よわ)とも見えず雲霧の。かかれば曇る。心かな。
月が清らかな夜半なのに雲や霧がかかって曇ってしまった。蜘蛛の霊気がかかって頼光の心も曇ってしまった。
いかに頼光。御心地(ここち)は何と御座候ふぞ。
もしもし頼光殿。ご気分はいかがでございますか。
●頼光
不思議やな誰とも知らぬ僧形の。深更に及んでわれを訪ふ。
不思議なことだ。誰ともわからぬ僧姿の者が、深夜になって私を訪ねてくるとは。
その名はいかにおぼつかな。
その名前は、いかにも、覚束ない(はっきりしない)。
●シテ
愚(おろ)かのおおせ候(ぞうろう)や。 それは愚かなことをおっしゃいますね。
悩み給ふも我が背子(せこ)が。来べき宵(よい)なりささがにの。
お悩みでいらっしゃいますが、「わが背子が来べき宵なりささがにの」と詠まれているように、蜘蛛の振る舞いなのですよ。
説明 ささがに(細小蟹) は、蜘蛛の別名。形が小さな蟹に似ていることから。
ささがにの は、くも、いと、などの枕詞としても用いられます。
説明 わが背子が来べき宵なり ささがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも 古今集 衣通姫(そとおりひめ)
私の愛する人が通って来るはずの今宵です。蜘蛛が巣を張る振る舞いで前もって明らかだもの。
●頼光
くもの振舞ひかねてより。知らぬといふに猶近づく。姿は蜘蛛の如くなるが。
蜘蛛の振る舞いなど、前もっては知らぬわ、というのに、なお、近づいてくる。姿は蜘蛛のようだが、
●シテ
懸(か)くるや千筋(ちすぢ)の糸筋(いとすぢ)に。 千本の蜘蛛の糸筋を投げかける
●頼光
五体をつづめ。 頼光は体をすくませて
●シテ
身を苦しむる。 その身を苦しめる
地
化生と見るよりも。化生と見るよりも。 化け物と見るとすぐにも
枕にありし膝丸を。抜き開きちやうと切れば。
枕元にあった膝丸を、抜き開いて、「ちょう」と斬ると
背(そむ)くる所を続(つづ)けざまに。
蜘蛛が、背を向けて逃げる所を、続けざまに
足もためず薙ぎ伏せつつ。得たりやおうとののしる声に。
足も留めず、薙ぎ伏せながら、「やったぞ、おう」とあげた大声に
形は消えて失せにけり。形は消えて失せにけり。
蜘蛛の姿形は、消えて、いなくなりました。
●ワキ 独武者
御声の高く聞え候程に馳せ参じて候。 御声が高く聞こえましたので、馳せ参じました。
何と申したる御事にて候ぞ。 何という事でございますか。
●頼光
いしくも早く来(きた)る者かな。近う来り候へ語って聞かせ候ふべし。
殊勝にも早々ときてくれた。近くに寄ってこい。話して聞かせてやりましょう。
さても夜半(やはん)ばかりの頃。誰とも知らぬ僧形の来(きた)り我が心地を問ふ。
さて、真夜中ばすりの頃、誰ともわからぬ僧姿の者が来て、私の加減を問うてきた。
何者なるぞと尋ねしに。 何者かと尋ねたら
我が背子(せこ)が来(く)べき宵なりささがにの。
蜘蛛の振舞(ふるまひ)かねて著(しる)しもといふ古歌を連ね。
私の愛する人が通って来るはずの今宵です。蜘蛛が巣を張る振る舞いで前もって明らかだもの。という古歌を口にして、
即ち七尺ばかりの蜘蛛となって。 たちまち、七尺ばかりの蜘蛛となって
我に千筋の糸を繰りかけしを。 私に千本の蜘蛛の糸を投げかけたのを
枕にありし膝丸にて切り伏せつるが。 枕元にあった膝丸で斬り伏せましたが、
化生(けしょお)の者とてかき消すやうに失せしなり。 化け者なので、かき消すようにいなくなりました。
これと申すもひとへに剣の威徳と思へば。 これと言うのも、ひとえに、剣の威徳だと思うので
今日より膝丸を蜘蛛切と名づくべし。 今日からは、膝丸を蜘蛛切りと名付けよう。
なんぼう奇特(きどく)なる事にてはなきか。 なんとも霊験あらたかなことではないか。
●独武者
言語道断。 なんということでございましょう。
今に始めぬ君の御威光剣の威徳。 我が君の御威光、剣の威徳、今に始まった事ではありません。
かたがた以ってめでたき御事にて候。 いずれも、めでたい事でございます。
また御太刀つけの跡(あと)を見候へば。 また、御太刀で斬りつけた跡を見ますれば
けしからず血の流れて候。 おびただしく血が流れてございます。
此血をたんだへ。化生の者を退治仕らうずるにて候。
この血をたどって、化け物を退治いたしましょう。
説明 たんだへ は、探題を活用させた語
●頼光
急いで参り候へ。 急いで行きなさい。
●独武者
畏って候。 かしこまりました。
●独武者立衆
土も木も。我が大君の国なれば。いづくか鬼の。やどりなる。
土も木も、我が大君の国なので、どこに鬼の住処がありましょう。
●独武者
その時独武者進み出で。かの塚に向ひ。大音あげていふやう。
その時、独り武者が進み出て、かの塚に向かって、大声をあげていいます。
これは音にも聞きつらん。
頼光の御内(みうち)にその名を得たる独武者。
私は、うわさで聞いたであろう、頼光様のご家中に、その名を知られた独り武者である。
いかなる天魔鬼神なりとも。命魂を断たんこの塚を。
どんな天魔・鬼神であっても、命魂を断ってしまうぞ。この塚を
地
崩せや崩せ人々と。呼ばはり叫ぶその声に。力を得たる。ばかりなり。
者ども、崩せや崩せよ、と呼ばわり叫ぶその声に、皆は、大いに勇気づけられました。
下知に従ふ武士(もののふ)の。下知に従ふ武士の。 命令に従う武士たちは、
塚を崩し石を覆(かえ)せば塚の内より火焔を放ち。
塚を崩し、石を掘り返すと、塚の中から、化け物が、火炎を放ち
水を出すといへども大勢崩すや古塚の。 水を吹き出すけれども、大勢で、古塚を崩すと
怪しき岩間の陰よりも鬼神の形は。現れたり。 怪しげな岩の間から、鬼神の姿が現れました。
●後シテ
汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。
御前は、知らないのか。私は、昔、葛城山に長年住んだ土蜘蛛の精である。
なほ君が代に障(さわ)りをなさんと。 今もなお、この大君の世に祟りをなそうとして
頼光に近づき奉れば。却って命を断たんとや。
頼光に近づいたのだが、逆に、私の命を断とうというのか。
●独武者
其時独武者進み出で。其時独武者進み出でて。 その時、独り武者が。前に進み出て
汝王地(をおぢ)に住みながら。 汝は、この大君が治める国に住みながら
君を悩ますその天罰の。 大君を悩ましている。その天罰の
剣にあたって悩むのみかは。 剣に討たれて苦しむだけであろうか、いや
命魂を断たんと。手に手を取り組み懸(かか)りければ。
命をも断ってやろうと言って、武士たちは、手に手をとって、土蜘蛛に襲い掛かったので
蜘蛛の精霊千筋の糸を繰りためて。 土蜘蛛の精霊は、千本の蜘蛛の糸を繰り出して
投げかけ投げかけ白糸の。 投げかけ、投げかけるので、蜘蛛の白糸が、
手足に纏(まと)はり五体をつづめて。倒れ臥してぞ見えたりける。
武士達の手足にまとわりついて、体をちぢめて、倒れ伏したかに見えたのでした。
●独武者
しかりとはいへども。しかりとはいへども神国(しんこく)王地(をおぢ)の恵を頼み。
しかしながら、神国である大君の治める国であるという恵を頼みに
かの土蜘蛛を。中に取り籠(こ)め大勢乱れ。かかりければ。
かの土蜘蛛を、中に取り囲んで、大勢で乱れかかったので
剣(つるぎ)の光に。少し恐るる気色を便(たより)に切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の。
剣の光に少し恐れる気配を土蜘蛛が見せたのを頼りに、切り伏し切り伏せて、土蜘蛛の
首うち落し。喜び勇み。都へとてこそ。帰りけれ。
首を打ち落とし、喜び勇んで、都に帰ったのでした。
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