謡曲 橋弁慶

2018.7.3

登場人物

シテ 武蔵坊弁慶

子方 牛若丸

トモ 弁慶の従者

  

シテ これは西塔の傍に住む武蔵坊弁慶にて候。
弁慶 私は比叡山西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶でございます。

説明 西塔は、比叡山に、東塔、西塔、横川の三塔あるうちの一つ

   われ宿願の子細あつて。五条の天神へ。丑の時詣を仕り候。
   私は、宿願の子細があって、五条の天神様へ、丑の刻詣でを致してございます。

説明 宿願 は、前々からの願望、子細 は、細かい事情

   今日満参にて候ふ程に。唯今参らばやと存じ候。
   今日は最終日でございますので、只今、参ろうと思ってございます。

   いかに誰かある。  おい、誰かいるか?

トモ 御前に候。     御前にございます。

シテ 五条の天神へ参らうずるにてあるぞ。その分心得候へ。
   五条の
天神に参ろうとしているのだぞ。そのこと心得たまえ。

説明 五条の天神は、京都市下京区の五条天神のこと。

説明 参らうずる は、動詞「参る」の未然形に、助動詞「むず、うず」が付いて、参ろうとする の意。

   「むず」は、意思を表す助動詞「む」が「む+と+す」と続いて、しようとする の意となり、

   「むず」と変化しました。

トモ 畏つて候。又申すべき事の候。  畏まってございます。また申し上げるべきことがございます。

   昨日五条の橋を通り候ふ所に。十二三ばかりなる幼き者。
   昨日、五条の橋を通りましたところ、十二三歳ばかりの幼い者が

   小太刀にて斬つて廻り候ふは。さながら蝶鳥{てふとり}の如くなる由申し候。
   小太刀で、人を切って廻っていますのは、さながら、蝶や鳥の様であったこと申し上げます。

   まづまづ今夜の御物詣は。思し召し御止まりあれかしと存じ候。
   恐らくは、今夜の参拝は、お思い留まりなられよと思ってございます。

シテ 言語道断の事を申す者かな。  とんでもないことを言うやつじゃ。

   たとへば天魔鬼神なりとも。大勢には適ふまじ。おつとり込めて討たざらん。
   たとえば、天魔鬼神であっても、大勢にはかなわないだろうし、取り囲んで討たないでしょうか。

説明 討たざらん は、討たないでしょう との推測の意で、

   反語にするためには、通常、助詞の「や」「か」が使われます。

   ここには、どちらもないのですが、単なる推測ではないので、

   「か」を補って疑問の形にし、反語の意味をこめてみました。

トモ おつとりこむれば不思議にはづれ。敵(かたき)を手元に寄せ付けず。
   
取り囲むと、不思議にはずれ、敵を手元に寄せ付けないのです。

シテ 手近く寄れば。  間近に寄っても

トモ 目にも。     目にも

シテ 見えず。     止まらない

地謡 神変(じんべん)奇特不思議なる。神変奇特不思議なる。  不思議だな、不思議だな。

説明 神変も奇特も、人智で測り知れない不思議な という意味です。

   化生(けしやう)の者に寄せ合はせ。かしこう御身討たすらん。
   化け物に寄せ合わせて、おそろしくも、御身は、討たれるでしょうに。

説明 討たす は、討たせる という使役の意味ですが、討たさせておく の意から、

   討たれる という受身の意味でも使われるようになりました。

   都広しと申せども。これ程の者あらじ。 都は広いと申しますが、これ程の者はいないでしょう。

   げに奇特なる者かな。  本当に不思議な者だ。

 

シテ さあらば今夜は思ひ止まらうずるにてあるぞ。
   それならば、今夜は、思い留まることにしましょうぞ。

   いや弁慶ほどの者の。聞き遁げは無念なり。
   いや、弁慶ほどの者が、聞いて逃げるのは、無念である。

   今夜夜更けば橋に行き。化生の者を平らげんと。
   今夜、夜がふければ、その橋に行って、化け物を退治してやろう

 

地上 夕べ程なく暮方の。 夕べ程なく暮方の。雲の気色も引きかへて。
   ほどなく夕暮れ時になり、雲の様子も変わる中

   風すさまじく更くる夜を。遅しとこそは待ち居たれ。遅しとこそは待ち居たれ。
   風がすさまじく吹いて更ける夜を、弁慶は、今や遅しと、舞っていた。

 

都の人が助けてくれ!と叫びながら現れる。別の都人が来て、安心せよと声をかけ、何があったか聞く。

逃げてきた都人は、五条の橋で人斬りに遭遇し、逃げ来たと告げる。

都人は、それは千人斬りをしている牛若丸だろうと言い、

逃げてきた人に、背中を切られているぞ と嘘をついてからかう。

逃げてきた人は怒るが、都人はさらにからかい、怖がらせて去り

恐怖に襲われた都人も後を追って去っていく。

 

(子方の牛若丸が女姿で登場する。)

子方 さても牛若は母の仰せの重ければ。明けなぱ寺へのぼるべし。
牛若 さても牛若は、母の言いつけが重いので、日が明ければ、寺に登らねばならない。

   今宵ばかりの名残なれば。五条の橋に立ち出でて。川波添へて立ち待ちに。
   今宵だけの名残なので、五条の橋に出で立って、川波に沿って立って待ち

   月の光を待つべしと。  たちまち登る月の光を待ちましょう。

   夕波の。気色はそれか夜嵐の。夕べ程なき秋の風。
   夕波の、景色は、夜嵐のそれか、ほどなく夕べの秋の風

 

地上 面白の気色やな。面白の気色やな。     面白い景色だよ 面白い景色だよ

   そぞろ浮き立つわが心。          わけもなく浮き立つ我が心、

説明 そぞろは、副詞では なんとなく、わけもなく の意。形容動詞では おちつかない様子 用例 気もそぞろ

   波も玉散る白露の。夕顔の花の色。     玉と散る波は、白露を結んだ夕顔の花の色

   五条の橋の橋板を。とどろ/\と踏み鳴らし。五条の橋の橋板を、どんどどんどと踏み鳴らし

   音も静かに更くる夜に。          音も静かに夜は更け

   通る人をぞ待ち居たる。通る人をぞ待ち居たる。 通行人を待っていた、通行人を待っていた。

 

(牛若が佇んでいる橋に弁慶が現れる)

シテ すでにこの夜も明方の。山塔の鐘もすぎまの雲の。光り輝く月の夜に。    
   既に今夜も明け方で、明け方の山塔の鐘も過ぎ、杉の合間の雲の光輝く月の夜に

   着たる鎧は黒革の。をどしにをどせる大鎧。草摺長(くさずりなが)に着なしつつ。
   着ている鎧は、黒革縅しの大鎧、草摺長に着こなしつつ

説明 縅す とは、鎧の札板を糸や革などのとじひもでつなぎ合わせること。

   もとより好む大薙刀。真中{まんなか}取つて打ちかつぎ。ゆらり/\と出でたる有様。
   もとより好む大長刀の真中を持って打ちかづき、ゆらりゆらり堂々と出ていく様子は、

   いかなる天魔鬼神なりとも。面(おもて)を向くべきやうあらじと。
   どんな恐ろしい天魔や鬼神でも、面と向かってくることなどできないだろうと 

   我が身ながらも物頼もしうて。手に立つ敵の恋しさよ。
   我ながら頼もしい。手練れの敵と手合わせしたいものだ。

 

子方 川風もはや更け過ぐる橋の面に。通る人もなきぞとて。心すごげにやすらへば。
牛若 川風が吹き、夜更けの気配が漂うなか、橋の上を通る人もいないと心淋しく休んでいると

シテ 弁慶かくとも白波の。立ちより渡る橋板を。さも荒らかに踏み鳴らせば。
弁慶 弁慶はそうとも知らず、白波がたちよって渡る橋板を、さも荒々しく踏みならせば

子方 牛若彼を見るよりも。すはやうれしや人来るぞと。薄衣{うすぎぬ}なほも引き被き。傍に寄り添ひ佇めば。
牛若 牛若は彼を見るな否や、おおうれしいぞ人が来たと薄衣をすっぽり被って、傍らに寄り添って佇むと

シテ 弁慶彼を見付けつゝ。立廻り、詞をかけんと思へども。
弁慶 弁慶は、彼を見つけて、立ち廻り、言葉をかけようと思ったが、

   見れば女の姿なり。われは出家の事なれば。思ひ煩ひ過ぎて行く。
   見れば女の姿である 自分は出家の身だからと ためらいながら通り過ぎる

 

子方 牛若彼をなぷつて見んと。 行き違ひざまに薙刀の。柄元をはつしと蹴上ぐれば。
牛若 牛若は、彼をからかってみようと、すれ違いざまに、長刀の柄元をはっしと蹴り上げれば

シテ すはしれ者よもの見せんと。  何だ、くせ者め、目にものを見せてやる

 

(弁慶の長刀と牛若丸の刀の戦いが始まる)

 

地上 薙刀やがて取り直し。薙刀やがて取り直し。  長刀をすぐに取りなおし、長刀をすぐに取りなおし、

   いでもの見せん手なみの程と斬つてかゝれば  いざ、腕前の程を見せてやろうと斬り掛かれば

   牛若は。少しも騒がず突つ立ち直つて。    牛若は、少しも騒がず、突っ立ち直って

   薄衣引き除けつつ。しづしづと太刀抜き放つて。薄衣を引き除けながら、しずしずと太刀を抜き放ち

   つつ支へたる薙刀の。切先に太刀打ち合はせ。めつ開いつ戦ひしが。
   構えた長刀の切っ先に打合せ、 間合いを詰めたり広げたりしながら戦ったが

   何とかしたりけん。手許に牛若寄るとぞ見えしがたゝみ重ねて打つ太刀に。
   どうしたことか、 一気に牛若が弁慶の側近くに来たかと見えたが、畳みかけて打ち込む太刀に

   さしもの弁慶合はせ兼ねて。橋桁を二三間しさつて。肝をぞ消したりける。
   さすがの弁慶も、合わせることができず、橋げたを二、三間も退き、肝をひやしました。

 

   あら物々しあれ程の。あら物々しあれ程の。  何を仰々しい あの程度の 何を仰々しい あの程度の

   小姓一人を斬ればとて。手練にいかで洩らすべきと。
   小童一人を斬るからといって、俺様の腕前で打ち漏らすことがあるものかと

   薙刀柄長くおつ取りのべて。   長刀の柄を長めに出して持ち直し

   走りかかつてちやうと切れば。そむけて右に。飛び違(ちご)ふ
   走りかかって鋭く斬れば、背をそむけて、右に飛びちがう

説明 たがふ は、違う、異なる の意。ちがふ は、交錯する、交差する の意。用例 行き違ふ

   取り直して裾を。薙ぎ払へば。跳りあがつて足もためず。
   長刀を再び取り直して、裾を薙ぎ払うと、躍り上がって足を地に着けず、

   宙を払へば頭{かうべ}を地に付け。千々に戦ふ大薙刀。打ち落されて力なく。
   宙を払うと、頭を地につけて避け、様々に戦う大薙刀が、打ち落されて力なく

   組まんと寄れば切り払ふ。すがらんとするも便なし。
   組もうとして寄れば、切り払う。すがろうとしても、すべがない。

   せん方なくて弁慶は。希代なる少人{せうじん}かなとて呆れはててぞ立つたりける。
   どうしようもなく、弁慶は
全く珍しい強い少年だとあきれ果てて立ちすくんだ。

 

弁慶 不思議や御身誰なれば。まだいとけなき姿にて。かほどけなげにましますぞ。
   不思議だ、あなたは誰なのに、まだ幼い姿で、こんなに強くていらっしゃるのか。

説明 けなげ には、健気、勇ましい という意味と、殊勝だ という意味かあります。

   委しく名乗りおはしませ。  詳しくお名乗りください 

牛若 今は何をか包むべき。我は源牛若。  今は何を隠そう。私は源牛若だ

弁慶 義朝の御子か。   源義朝殿の御子なのですか

牛若 さて汝は。     さてお前は誰だ

弁慶 西塔の武蔵。弁慶なり。   西塔の武蔵弁慶です。

   互に名告り合ひ。互に名告り合ひ。 互いに名乗りあい、互いに名乗りあい、

   降参申さん御免あれ少人の御事。  降参致します。許してください。小さなお方。

   われは出家。           私は、出家です。

   位も氏もけなげさも。 よき主{しう}なれば頼むなり。
   あなたは、位も、氏も、お強さも、良いご主人なので、頼むのです。

   粗忽にや思しめすらんさりながら。  粗忽者だとはお思いでしょうが、そうではあっても

   これ又三世の奇縁の始。       これは又、三世の奇縁の始まりで

   今より後は。主従{しうじう}ぞ。と。 今後は主従であるぞと、

   契約堅く申しつつ。         誓いを固く述べながら

   薄衣被{かづ}かせ奉り        薄衣を牛若に着せて、

   弁慶も薙刀打ちかついで。      弁慶も、長刀を打ちかついで

   九条の御所へぞ参りける。      九条の御所へ参りました。

 

 

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