謡曲 羽衣 |
2020.2.11
登場人物
シテ 天人
ワキ 漁夫の白龍
ワキヅレ 漁夫
●ワキ
風早の。三保の浦曲(うらわ)をこぐ舟の。浦人騒ぐ。浪路かな。
風の早い三保の入り組んだ岸を漕いでいる船で漁師が騒いでいる、そんな船路です。
説明 万葉集巻七「風早の三穂の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒ぐ波立つらしも」によっています。
風の早い三穂の浦廻を漕いでいる船の船人が騒いでいる。波が立ち始めたようよ。
説明 浦廻・浦曲・浦回は、海岸の湾曲して入りくんだ所。古くは「うらみ」と呼んだが、「うらわ」ともよむ。
説明 静岡県清水区三保では、毎年秋に、羽衣まつりが開催され、薪能で、羽衣が上演されます。
●ワキ
これは三保の松原に。白龍と申す漁夫にて候。 私は、三保の松原で白龍という漁師でございます。
●ワキ ワキヅレ
萬里の好山に雲乍(たちま)ちに起り。一樓の明月に雨初めて晴れり。
万里も続く美しい山にたちまち雲がわき起こり、一つの高楼に名月がでて、雨が初めて晴れました
説明 宋代の詩論「詩人玉屑」に「千人好山雲乍嶮 一樓明月雨初晴」とあるのを引いています
げに長閑(のどか)なる時しもや。春の景色松原の。波立ち続く朝霞。
本当にのどかな丁度その時ですこと。春の景色の松原では、渚に波が立ち、朝霞が続いていて
月も残りの天の原。及びなき身の眺めにも。心そらなる景色かな
大空には月が残り、とるにたらない我が身が眺めても、心がぼーっとする景色です。
説明 及び無し は、地衣や身分が及ばない、至らない の意。
説明 空なる は、うつろ、上の空 と余りいい意味ではないので、ぼーっとする と訳してみました。、
忘れめや山路を分けて清見潟。遥かに三保の松原に。
忘れましょうや、山路を分けて清見潟を眺めたとき、遥に見える三保の松原を
説明 続古今集の「忘れずよ 清見が関の波間より
霞みて見えし三保の浦松」をふまえています
忘れませんよ、清見が関の波間から、霞んで見えた三保の浦の松のことは
立ち連れいざや。通(かよ)はん立ち連れいざや通はん
さあ、たち連れて(一緒に)、行きましょう。たち連れて、行きましょう。
風向かふ。雲乃浮波立つと見て。雲乃浮波立つと見て。釣りせで人や帰るらん。
向かい風が吹いて、雲のような浮き波が立つと思って、釣りをしないで人が帰ってしまうという。
待て暫し春ならば吹くものどけき朝風乃。松は常磐(ときわ)の聲ぞかし。
ちょっと待て、春なので、吹いてものどかな朝風なので、待っても、松は永遠の穏やかな葉音ですよ
波は音なき朝凪(あさなぎ)に。釣人多き。小舟かな釣人多き小舟かな
波は、朝凪で音もたてません、釣り人が沢山乗った小舟じゃないですか。
●ワキ
我三保の松原に上り。浦の景色を眺むる処に。虚空に花降り音楽聞え。霊香(れいこう)四方に薫ず。
私は、三保の松原に上がって、浦の景色を眺めていたところ、空から花が降って、音楽が聞こえ、妙なる香りが一面に香りました。
これ常事と思はぬ處に。これなる松に美しき衣懸かれり。
これはただごとではないと思っている所に、この松に、美しい衣が掛かっていました。
寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。 近寄って見ると、色も香りもすばらしき、普通の衣ではありません。
いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の寶となさばやと存じ候
さっそく持って帰り、年配の方に見せて、家の宝としたいと思いました。
●シテ 天人
なうその衣はこなたのにて候。何しに召され候ふぞ。
もしもし、その衣は私のものです。どうしておもちになるのですか?
●ワキ
これは拾ひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。
これは私が拾った衣でございますので、手に取って、持ち帰るのでございますよ。
●シテ
それは天人の羽衣とて。たやすく人間に与うべき物にあらず。もとのごとくに置き給へ。
それは天人の羽衣なので、容易く人間に与えていいものではありません。元のように置いてください。
●ワキ
そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。
そもそも、この衣の持ち主ということは、さては天人でいらっしゃのですか。
さもあらば末世の奇特にとどめおき。国の宝となすべきなり。衣をかへす事あるまじ。
そうであれば、末世の奇跡として留め置いて、国の宝とするべきです。衣を返すことなとありえませんよ。
●シテ
かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。
あぁ悲しい。羽衣がなければ空を飛ぶことができず、天に帰れることができません。なにとぞお返しください。
●ワキ
此御言葉を聞くよりも。いよいよ白龍力を得。もとより此身は心なき。
この御言葉を聞いてすぐ、ますます白龍は力を得て、どうせ自分は心ない(分別のない)身なので
天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。
天の羽衣を隠し、願いはかないませんよと、立ち去ろうとすると。
●シテ
今はさながら天人も。羽なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。
今はまるで天人も、羽のない鳥のようになって、飛び上がろうとしても羽衣がありません。
●ワキ
地にまた住めば下界なり。 地上に住むといっても、ここは下界です。
●シテ
とやあらんかくやあらんと悲しめど。 どうしようこうしようと思い悲しんでも
●ワキ
白龍衣を返さねば。 白龍は衣を返さないので
●シテ
力及ばず。 力及ばず
●ワキ
せんかたも。 どうしようも(ありません)。
●地謡
涙の露の玉鬘(たまかづら)。かざしの花もしおしおと。天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。
涙の露が玉鬘のように流れ、髪にかざした花もしおれ、天人の衰相が目前に現れてきて、嘆かわしいことです。
説明 天人の五衰 は、天人の命終の際に現れる五つの衰相
●シテ
天の原。ふりさけみれば。霞たつ。雲路まどひて。ゆくへ知らずも。
大空を遠くに仰ぎ見ると、霞がかかっている。雲の中の帰り道に惑って、帰る方向がわかりません。
説明 振り放け見る は、はるか遠くに仰ぎ見る の意。
●地謡
住み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。
住み慣れた空に、いつかは流れて行く雲がうらやましい、そんな景色です。
迦陵頻迦(かりょうびんが)のなれなれし。迦陵頻迦のなれなれし。声今さらにわづかなる。
迦陵頻迦の聞きなれた声は、今、わずかに聞こえる
説明 迦陵頻迦 は、極楽に住む美声の鳥
雁がねの帰りゆく天路を聞けばなつかしや。
雁の北に帰り行く天の道で謡っている声を聞くと、なつかしく思い出される
千鳥かもめの沖つ波。ゆくか帰るか春風の空に吹くまでなつかしや空に吹くまでなつかしや。
沖で千鳥やかもめが行ったり来たり波のように飛び交い、春風が大空に吹く様子まで、なんと懐かしいことでしょう。
●ワキ
いかに申し候。御姿を見たてまつれば。あまりに御痛はしく候ふ程に。衣をかへし申さうずるにて候。
どう申し上げていいのか、あなたの泣く姿を見ているとあまりにおいたわしく思えますので、羽衣をお返ししようと思います。
●シテ
あらうれしやこなたへ給はり候へ。 あら嬉しい!こちらにお返しください。
●ワキ
しばらく。承り及びたる天人の舞楽。ただ今ここにて奏し給はば。衣を返し申すべし。
ちょっとお待ちを。話に聞いている天人の舞というものを、ただ今ここで舞ってくだされば、お返しいたしましょう。
●シテ
嬉しやさては天上に帰らん事をえたり。 ああ嬉しい、それでは天上に帰ることができます。
この喜びにとてもさらば。人間の御遊(ぎょゆう)の形見の舞。月宮をめぐらす舞曲あり。
この喜びのお礼として、それでは、人間界に遊んだ形見の舞、月宮殿を廻る舞曲がありますので
ただ今ここにて奏しつつ。世の憂き人に伝ふべし、
只今、ここで、演奏しましょう。憂き世の人達に、お伝えしましょう。
さりながら。衣なくては叶ふまじ。さりとてはまず返し給へ。
しかしながら、衣がなくてはできません。ぜひとも、まずお返し下さい。
●ワキ
いやこの衣を返しなば。舞曲をなさでそのままに。天にやあがり給ふべき。
いや、この衣を返したならば、舞いをなさずにそのまま天に昇ってしまわれるでしょう。
●シテ
いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。
いや、疑いは人間にあるのです、天には、偽りなどありませんのに。
●ワキ
あら恥かしやさらばとて。羽衣を返し与うれば。
あら、恥ずかしいこと。それではと、羽衣を返してあげたところ
●シテ
乙女は衣を着しつつ。霓裳羽衣(げいしょおうい)の曲をなし。
天女は羽衣を着たまま、霓裳羽衣の曲を演奏し
説明 霓裳羽衣の曲 は、玄宗が天上で見た仙女の舞をもとにつくられたという楽曲の名
●ワキ
天の羽衣風に和し。 天の羽衣が風になびき
●シテ
雨に潤う花の袖。 雨に潤う花の袖のように
●ワキ
一曲を奏で。 一曲を奏で
●シテ
舞ふとかや。 舞ったといいます
●地謡
東遊の駿河舞。此時や始めなるらん。 東遊の駿河舞は、この時が最初だったのでしょう。
それ久方(ひさかた)の天(あめ)と言っぱ。二神(にじん)出世(しゅっせ)の古(いにしえ)。十方世界を定めしに。
そもそも「久方の天」と言わば、二神がこの世に現れた昔、十万世界を定めたとき、
説明 二神 は、イザナギ、イザナミ。 十方世界 は、東西南北、北東・東南・南西・西北、上下 の十方の全世界。
空は限りもなければとて。久方の空とは。名づけたり。
空は限りがないからといって、「久方の空」と名付けたのです。
●シテ
しかるに月宮殿のありさま。玉斧(ぎょくふ)の修理とこしなへにして
そして、月宮殿の有様は、玉斧で作られ修理無用の永久不変で、
説明 常(とこ)しなへなり は、いつまでも変わらず永久であること
●地謡
白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月(いちげつ)夜々(やや)の天乙女。奉仕を定め役をなす。
白衣と黒衣の天女が、それぞれ十五人ずつ別れて、一か月間、毎夜、天乙女が、奉仕を決めて役を果たします。
●シテ
我もかずある天乙女。 私も数ある天乙女の一人です。
●地謡
月の桂の身を分けて仮に東の。駿河舞。世に伝へたる。曲とかや。
月での身分を離れて、仮に、東国の駿河で舞う駿河舞、後世に伝えられた曲とか呼ばれます。
春霞。たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。げに花かづら色めくは春のしるしかや。
「春霞。たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく」と歌われたように、私の髪に挿した花が色めいているのは、春のしるしでしょうか。
説明 春霞 たなびきにけり久方の 月の桂も花やさくらむ
は、後撰集の紀貫之の歌
春の霞がたなびく季節になりました。月に生えている桂の木にも花がさいているだろうか
おもしろや天ならで。ここも妙なり ああ、面白いこと、天ではないのに、ここは妙なる景色です。
天つ風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留まりて。
「天つ風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留めむ」と歌った乙女の姿が、しばし留まって
説明 天つ風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留めむ
は、古今集の僧正遍照の歌(百人一首)
天を吹く風よ。雲の中の通り道を閉じなさい。乙女の舞姿を、もうしばらく地上に留めましょう
この松原の。春の色を この松原の春の景色を(楽しみたい)
三保が崎。月、清見潟富士の雪。いづれや春のあけぼの。
春色の三保が崎、月で有名な清見潟、富士の雪、いずれも「春は曙」です。
たぐひ波も松風ものどかなる浦のありさま。
たぐいのない波も松風ものどかな浦の景色
そのうえ天地は。何を隔てん玉垣の。内外の神の御末にて。月も曇らぬ日の本や。
そのうえ、天と地は、何を隔てるのか、内宮と外宮の神の子孫に治められて、月も曇らない日本です。
●シテ
君が代は。天の羽衣まれに来て。 君が代は。天の羽衣も、まれに来て。
説明 君が代は 天の羽衣 まれに来て 撫づとも尽きぬ いはほならなむ 『拾遺集-賀ニ九九』をひいています
君が代は、天の羽衣が、希に来て、撫でても尽きることのない大岩のようになってほしい
●地謡
撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。 撫でても尽きない大岩だと。天人が歌うのを聞くだけでもめでたい東歌に
声添えて数々の。笙笛(しょうちゃく)琴箜篌(きんくご)孤雲の外に満ち満ちて。
数々の笙、笛、琴、箜篌の音が加わって、孤雲の向こうに満ち満ちて
落日の紅は蘇命路(そめいろ)の山をうつして。 夕日の紅色が(富士山を)須弥山のように染め
説明 蘇命路 は、須弥山の別名。
緑は波に浮島が。払ふ嵐に花ふりて。 松の緑は波に映え、浮島が原を吹き払う嵐に花が降り、
げに雪をめぐらす白雲の袖ぞ妙なる。 本当に、(天女の)雪を廻らすような白雲の袖こそ、絶妙です。
●シテ
南無帰命(きみょう)月天子(がつてんし)本地(ほんじ)大勢至(だいせいし)。
南無、月の天子、大勢至菩薩に帰依いたします
●地謡
東遊(あづまあそび)の舞の曲 東遊びの舞の曲
●シテ
或は。天つ御空の緑の衣。又は春立つ霞の衣 或いは、天の御空の緑の衣、又は春立つ霞の衣
色香も妙なり少女(おとめ)の裳裾(もすそ) 色香も妙なり乙女のの裳裾
左右左。左右颯々(さつさつ)の。花を翳しの。天の羽袖。靡くも返すも。舞の袖。
天女が左右左、左右と颯々と舞うと、花をかざした天人の羽衣の袖が、靡いて返す様子も、舞の袖です
●地謡
東遊(あづまあそひ)の数々に。東遊の数々に。 東遊の舞を数々舞ううちに
その名も月の色人は。三五夜中の空に又。満月真如の影となり。
「月の色人」と呼ばれる天人は、十五夜の夜中の空に、満月の真如の輝きとなり
御願(ごがん)円満国土成就。七宝充満の宝を降らし。
御願円満、国土成就、七宝充満の宝を降らして
国土にこれを。ほどこし給ふさるほどに。 この国土にこれを施しなさるうちに
時移つて。天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。三保の松原、浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。
時がたって、天の羽衣は、浦風にたなびいて、三保の松原、浮島が原、愛鷹山や富士の高嶺を越えて
かすかになりて。天つ御空の。霞にまぎれて。失せにけり。
かすかになって、天空の霞にまぎれて、消え失せてしまいました。
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