謡曲 烏帽子折 |
2018.4.6
近所の図書館のAV(オーディオ・ビジュアル)コーナーに、NHK能楽鑑賞会シリーズの観世流 烏帽子折のビデオがありましたので、
借りて来て、お能を楽しみました。牛若丸のお話ですが、牛若丸の子役を、関根祥丸さんが凛々しく演じています。
その他の配役は、以下の登場人物のところに、記します。
登場人物
A 子方 牛若丸 関根祥丸
B シテ 烏帽子屋の亭主 関根祥六 (1930-2017)
C ツレ 烏帽子屋の妻 武田尚浩
D ワキ 京都三条の商人 吉次 森 常好
E ワキツレ 吉次の弟 吉六 舘田善博
F 後ツレ 手下共(大勢) 上田公威 若者頭
G 後シテ 熊坂長範 関根祥人 (1959-2010)
<次第>
ワキ、ワキツレ 「末も東の旅衣。末も東の旅衣。日もはるばると急ぐらん。
D、E 東の末(陸奥)への旅衣装、東の末への旅衣装、何日も、はるばると、急ぐことになるでしょう。
ワキ 「これは三条の吉次信高にて候。われ此程数の財を集め、弟にて候ふ吉六を伴ひ、唯今東へ下り候。
D こちらは、京都三条の吉次信高でございます。私は、このたび、多数の財物を集め、弟の吉六を伴って、ただいま、東国に下っております。
如何に吉六。高荷どもを集め東へ下らうずるにて候。
おい、吉六。高く積み上げた荷物を集めて、東国へくだろうではないか。
説明 下らうず の うず は、助動詞で、動詞の未然形について、推量、意志、当然を表します。
ワキツレ「委細心得申し候。やがて御立ちあらうずるにて候。
E 委細、心得ております。すぐにお立ちになるのがよろしいでしょう。
子方 「のうのう、あれなる旅人。奥へ御下り候はば御供申し候はん。
A もうし、もうし。そこの旅人よ。奥州へお下りになるのであれば、御供もうしたい。
ワキ「やすき間の御事にて候へども、御姿を見申せば、師匠の手を離れ給ひたる人と見えて候ふ程に、思ひも寄らぬ事にて候。
D たやすい事ではありますが、御姿を見申し上げるに、師匠の手をお離れになったお方のようにお見えいたすので、同行など思いもよらない事であります。
子方 「いや我には父もなく母もなし。師匠の勘当蒙りたれば、ただ伴ひて行き給へ。
A いえ、私には、父もおらず母もいません。師匠から勘当されましたので、ただ連れて行ってください。
ワキ 「此上は辞退申すに及ばずして。此御笠を参らすれば。
D そういうことであれば、辞退するには及ばないので、この御笠を差し上げますので、
子方 「牛若此笠おつ取つて。今日ぞ始めて憂き旅に。
A 牛若は、この笠を受け取って、今日、初めて、辛い旅に出立します。
地 「粟田口松坂や。四の宮河原、逢坂の、関路の駒の後に立ちて、いつしか商人の主従となるぞ悲しき。
粟田口や、松坂や、四の宮河原や、逢坂の関まで、馬のあとに立って、いつしか商人と主従の関係になったのが悲しいことよ。
説明 逢坂の関は、山城と近江の国境の関所
地 「藁屋の床のいにしへ。藁屋の床のいにしへ。都の外の憂き住まひ。
(逢坂といえば、蝉丸が) 昔、藁屋の床で寝起きしたところだが、都の外での住まいは、侘しいものだったろうと、
さこそはと今思ひ、粟津の原を打ち過ぎて。駒もとどろと踏み鳴らし、勢田の長橋うち渡り。
そうだろうと今思い、粟津の原を過ぎ、馬が、足音をとどろかせて、勢田の長橋を渡り、
野路の夕露守山の、下葉色照る日の影もかたぶくに向ふ夕月夜。鏡の宿に着きにけり、鏡の宿に着きにけり。
野路が夕露が洩れた守山、木々の下葉が秋の日に照り映えていた影が傾いていく夕月の頃、鏡の宿に着きました。
ワキ 「急ぎ候ふ程に、鏡の宿に着きて候。此処に御休あらうずるにて候。
お急ぎになったので、鏡の宿に着きました。ここにご休息なさるがよろしいでしょう。
アイ 「のういそがしや、いそがしや ああ、忙しい、忙しい。
アイ 「かやうに候ふものは、六波羅の早打にて候。この宿の面々承はり候へ、
早打 「ここにいますのは、六波羅から遣わされた早打であります。この宿の方々、よくお聞きください。
義朝のおん子牛若丸、鞍馬の寺に御座ありしが、奥へおん下りのよし、
義朝のおん子の牛若丸が、鞍馬の寺にいらっしゃいましたが、奥州へお下りになったこと、
平家聞こし召し、急ぎ召し取って出だす者あらば、望みをおん叶えあるべきとのおんことなり、
平家がお聞きになり、ただちに召し取って差し出した者がいれば、望みをかなえましょうとの御言葉がありました、
みなみなその分、心得候へ、心得候へ。 皆々様、その事、お心得ください、お心得ください。
子方 「唯今の早打をよくよく聞き候へば、我等が身の上にて候。此ままにては適ふまじ。
A 「ただいまの早打の言葉をよく聞きますと、私の身の上のことです。このままでは、うまくいかないでしょう。
急ぎ髪を切り烏帽子を着、東男に身をやつして下らばやと思ひ候。
急いで髪を切り、元服して烏帽子をかぶり、東男に身をやつして、東国に下ろうと思います。
子方 「いかに此内へ案内申し候。 もうし、ご免下さい。
シテ 「誰にて渡り候ふぞ。 どなたで、いらっしゃいますか。
子方 「烏帽子の所望に参りて候。 烏帽子が欲しくて参りました。
シテ 「何と烏帽子の御所望と候ふや。夜中の事にて候ふ程に。明日折りて参らせうずるにて候。
B なんと、烏帽子がご所望でありますか。今は、夜分のことですので、明日、折ってさしあげましょう。
子方 「急の旅にて候ふ程に、今宵折りて賜り候へ。
A 急ぎの旅でありますので、今晩、折っていただきたいです。
シテ 「さらば折りて参らせうずるにて候。まづ此方へ御入り候へ。
B それでは、折ってさしあげましょう。まず、こちらへ、お入りください。
さて烏帽子は何番に折り候ふべき。 さて、烏帽子は、何番で折りましょうか。
子方 「三番の左折に折りて賜はり候へ。 三番で、左折りでお願いしたいです。
シテ 「これは仰にて候へども。それは源家の時にこそ。今は平家一統の世にて候ふ程に。左折は思ひもよらぬ事にて候。
B これは仰せではありますが、それは源氏の時代にこそふさわしい。今は平家一統の世ですので、左折りは思いも寄らぬことです。
子方 「仰せは尤にて候へども。思ふ子細の候ふ間。唯折りて賜り候へ。
A 仰せはもっともですが、思うところがありますので、ただ、左折りでお願いしたいです。
シテ 「幼き人の御事にて候ふ程に。折りて参らせうずるにて候。
B 幼い人の御事でありますので、折ってさしあげましょう。
此左折の烏帽子について、嘉例目出度き物語の候。語つて聞かせ申さうずるにて候。
この左折の烏帽子については、嘉例目出度い物語がございます。語って御聞かせ申しましょう。
子方 「さらば御物語り候へ。 では、物語ってください。
シテ 「さても某が先祖にて候ふ者は、もとは三条烏丸に候ひしよな。
B そもそも私の先祖でございます者は、もとは、三条烏丸にございましたとな。
いで其頃は八幡太郎義家、阿部の貞任宗任を御追罰あつて、程なく都に御上洛あり。
さてその頃、八幡太郎義家が、阿部の貞任と宗任をご追討なさって、ほどなく、都にご上洛しました。
某が先祖にて候ふ者に、この左折の烏帽子を折らせられ、君に御出仕ありし時。帝なのめに思し召され。
私の先祖であります者に、この左折の烏帽子を折らせになり、大君の前に語出仕された時、帝は格別にお思いになり、
説明 なのめに は、なみなみでない、格別に の意。なのめ は、斜め で、縦でも横でもないどっちつかずの状態をさし、
なのめなり は、いい加減だ、なのめならず は、並々でなく、格別だ の意味ですが、
中世以降、なのめに は、なのめならずに と同じ意味で用いられるようになりました。
其時の御恩賞に、奥陸奥の国を賜つて候。
その時の恩賞で、陸奥の国を賜ったのでございます。
説明 陸奥は、もともと、道奥(みちのおく)でしたが、道に陸の字があてられ、みちのおく は、みちのく となりました。
むつ と呼ばれるようになった事情には、諸説ありますが、一二三四五六を壱弐参肆伍陸と表すことから、
陸奥の別称の奥州、陸州の陸州を、ろくしゅう と呼んだり、六つ と呼んだりするようになったという説があります。
奥陸奥 は、奥陸を おくむつ と読み、漢字になおして、奥陸奥となったのではないかと推測します。
われらもまた其如く、嘉例めでたき烏帽子折にて候へば、此烏帽子を召されて程なく御代に。
私達もまた、そのように嘉例目出度い烏帽子折でありますので、この烏帽子をお召しになって、まもなく、ご治世に
地 「出羽の国の守か、陸奥の国の守にか、ならせ給はん御果報あつて。
出羽の国の国守か、陸奥の国の国守に、おなりになるような御果報があって、
世に出で給はん時、祝言申しし烏帽子折と、召されでめでたう引出物たばせ給へや。
出世なさる時に、昔祝言を申し上げた烏帽子折とお召しになって、目出度くご褒美をくださいませ。
あはれ何事も、昔なりけり御烏帽子の左折のその盛。
悲しいかな何事も、昔となってしまいました、烏帽子の左折のその盛りの時は、
源平両家の繁盛、花ならば梅と桜木。四季ならば春秋。月雪の眺いづれぞと。
源平両家の繁盛の時、その有様は、花なら梅と桜、四季ならば春と秋、月と雪乃眺めのどちらがいいかと、
争ひしにやいつの間に。保元のその以後は、平家一統の、世となりぬるぞ悲しき。
争っていたのが、いつの間に、保元の乱のその後は、平家一統の世となったしまったのが、悲しい。
よしそれとても報あらば、世変り時来り、をり知る烏帽子桜の花、咲かん頃を待ち給へ。
たとえそうだとしても、因果の報いがあれば、世が変わって時が来て、そのおりを知っている烏帽子桜の花が咲く頃をお待ちなさい。
シテ 「かやうに祝ひつつ。 このように祝いながら、
地 「程なく烏帽子折り立てて、花やかに三色組の、烏帽子懸け緒取り出し。
まもなく、烏帽子を折り立てて、華やかに三色組の烏帽子の掛け紐を取り出し、
気高く結ひすまし、召されて御覧候へとて、お髪の上に打ち置き、立ち退きて見れば。天晴御器量や。
気高く結いおさめて、お召しになってごらん下さいと、お髪の上に置き、後ろに下がって見ると、天晴れなご器量です、
これぞ弓矢の大将と申すとも不足よもあらじ。 これこそ弓矢の大将と申しあげても、何の不足もありません。
シテ 「日本一烏帽子が似合ひ申して候。 日本一烏帽子がお似合いでいらっしゃいます。
子方 「さらば此刀を参らせうずるにて候。 それでは、この刀をさしあげようと存じます。
シテ 「いやいや烏帽子の代は定まりて候ふ程に。思ひもよらず候。
B いえいえ。烏帽子のお代は定まっていますので、(この刀を頂くことは)思いもよりません。
子方 「唯御取り候へ。 ただただお受け取りください。
シテ 「さらば賜らうずるにて候。さこそ妻にて候ふ者の悦び候はん。
B それでは頂くことにいたしします。さぞかし、妻も喜ぶことでしょう。
いかに渡り候ふか。 いらっしゃいますか。
ツレ「何事にて候ふぞ。 何事でしょうか。
シテ「幼き人の烏帽子と御所望と仰せ候ふ程に。折りて参らせ候へば。此刀を賜りて候。
B 幼い人が烏帽子とご所望になられたので、折って申し上げましたら、この刀を頂きました。
なんぼう見事なる代にてはなきか。よくよく見候へ。 なんと見事な代物ではないか。よくご覧なさい。
あら不思議や。かやうの事をば天の与ふる事とは思ひ給はで。さめざめと落涙は何事にて候ふぞ。
これは不思議な。こんな事を、天が与えてくれたこととお思いになるのではなく、さめざめと落涙されるのは、何事ですか。
ツレ 「恥かしや、申さんとすれば言の葉より。まづ先だつは涙なり。
C お恥ずかしいことです。申し上げようとしても、言葉よりも、先に出るのは、涙です。
ツレ 「今は何をか包むべき。これは野間の内海にて果て給ひし、鎌田兵衛正清の妹なり。
C 今は何を包み隠しましょうや。私は、野間の内海で最後をとげられた、鎌田兵衛正清の妹です。
常磐腹には三男牛若子生れさせ給ひし時。頭の殿より此御腰の物を。御守刀にとて参らさせ給ひし。
常盤御前のお腹で三男牛若さまがお生まれになったとき、義朝公よりこの御腰の刀を、お守り刀にと牛若さまに、お贈りになりました。
その御使をば、わらは申してさぶらふなり。 その御使いを、私が致し申し上げたのです。
痛はしや世が世にてましまさば。かく憂き目をば見まじき物を。あらあさましや候。
おいたわしいこと、世が世であれば、こんな辛い目には逢わないでしょうに。なんと嘆かわしいことでしょう。
シテ 「何と鎌田兵衛正清の妹と仰せ候ふか。 なんと、鎌田兵衛正清の妹とおっしゃるのですか。
ツレ 「さん候。 そうでございます。
シテ 「言語道断。この年月添ひ参らすれども。今ならでは承らず候。
B 言語道断。この年月、連れ添って参りましたが、今までは、お聞きしたことがありません。
さてこの御腰の物を、しかと見知り申されて候ふか。
それでは、この御腰の刀を、確かに見知っておられるのか。
ツレ 「こんねんだうと申す御腰の物にて候。 「こんねんどう」という御腰の刀でございます。
シテ 「げにげに承り及びたる御腰の物にて候。さては鞍馬の寺に御座候ひし、牛若殿にて御座候ふな。
実に誠に噂に聞き及んだ御腰の刀です。では、鞍馬の寺にいらっしゃった牛若殿でいらっしゃるのですね。
さあらば追っつき。この御腰の物を参らせ候ふべし。おこともわたり候へ。
そうであれば、追いついて、この御腰の刀を差し上げましょう。おことも、一緒にいらっしゃい。
や。未だこれに御座候ふよ。これに女の候ふが。此御腰の物を見知りたる由申し候ふ程に。
や、まだこちらにいらっしゃいました。ここに女がおりますが、この御腰の刀を見知っていると申しますので、
召し上げられて給はり候へ。 どうぞお受け取りください。
子方 「不思議やな行くへも知らぬ田舎人の。われに情の深きぞや。
A 不思議だな。どこへ行くとも知らない田舎人の、私への情けの深いことよ。
シテツレ 「人違へならば御許あれ。鞍馬の少人牛若君と。見奉りて候ふなり。
BC 人違いなら、お許しください。鞍馬寺の稚児の牛若公人お見うけいたしました。
子方 「げに今思ひ出したり。もし正清がゆかりの者か。
A 実に今、思い出しました。もしか、正清のゆかりの者ですか。
ツレ 「御目のほどのかしこさよ。妾は鎌田が妹に。
C 眼識の高くていらっしゃいますこと。私は、鎌田が妹です。
子方 「あこやの前か。 阿古屋の前か。
ツレ 「さん候。 そうでございます。
子方 「げに知るは理。われこそは。 なるほど見知っているのは、当然。われこそは、
地 「身のなる果の牛若丸。人がひもなき今の身を。語れば主従と。知らるる事ぞ不思議なる。
なり果てた身の牛若丸です。少しも甲斐のない今の身を語ると、主従であると分かることこそ、不思議なことです。
地 「はや、しののめも明け行けば。はや、しののめも明け行けば。月も名残の影うつる鏡の宿を立ち出づる。
はや、夜が明けて来て、名残の月の影が映る鏡の宿を出立します。
シテ、ツレ 「痛はしの御事や。さしも名高き御身の、商人と伴ひて、旅を飾磨(しかま)の徒歩はだし。目もあてられぬ御風情。
BC おいたわしいことです。あれほど高名なお方が、商人と伴って、裸足の徒歩旅で、目もあてられない御風情です。
説明 播磨の飾磨は、褐色(かちいろ)の染め物の名産地。褐(かち)を徒歩に掛けて、裸足で歩いていることを述べたもの。
子方 「時代(ときよ)に変る習とて。世のため身をば捨て衣。怨と更に思はじ。
A 人の境遇は、時代によって変わるのが、世の習わしです。その世の習わしによって、このように身を捨てたので、恨めしいとは少しも思いません。
シテ 「東路のおはなむけと思し召され候へとて。 東国への旅の餞別とお思い下さい
地 「この御腰の物を強ひて参らせ上げければ。力なしとて請け取り、
と言って、御腰の刀を強いて差し上げたので、牛若は、仕方ないと受け取り、
我もしも世に出づならば、
思ひ知るべしさらばとて
私が、もし世に出ることがあれば、思いだすでしょう、さらば と言って、
商人と伴ひ憂き旅に。やつれはてたる美濃の国赤坂の宿に着きにけり、赤坂の宿に着きにけり。
商人と一緒に、辛い旅に出て、やつれはてた身で、美濃の国の赤坂の宿に着きました。赤坂の宿に着きました。
中入
ワキ 「急ぎ候ふ程に。赤坂の宿に着きて候。いかに吉六。此処に宿を取り候へ。
D 急ぎましたので、赤坂の宿に着きましてござる。さて、吉六、ここに宿を取ってください。
ワキヅレ 「畏つて候。 畏まりました。
ワキヅレ 「いかにこのうちへ案内申し候 ご免ください。
アイ 「案内とは誰にてわたり候ぞ、いや吉六殿にて候ふか、おん下向めでたう候
案内を乞うのはどなたでいらっしゃいますか、おや、吉六殿でござるか、下向めでたく存じます。
ワキヅレ 「ただいま下向申して候、いつものごとく宿を貸してたまわり候へ
ただいま下向しました。いつものように部屋を貸してください。
アイ 「やすきおんことにて候、まづかうかうおん通り候へ
おやすいことでございます、まず、こちらにお通りください。
アイ 「やあやあ、それは誠か真実か、 おやまあ、それは、誠か、真実か
今夜おん泊まり候ふところを、悪しき者ども聞きつけ、夜討ちをかけうずるよし申し候、ご用心候へ。
今夜お泊りなさるところを、悪人共が聞きつけて、夜討ちをかけようと申しています、ご用心ください。
ワキ 「これは何と仕り候ふべき。 これはどうしたものでしょうか。
ワキヅレ 「我等も是非を弁へず候。 私達も、どうすればいいか、わかりません。
子方 「面々は何事を仰せ候ふぞ。 皆さんは、何をおっしゃっているのですか。
ワキ 「さん候、我等此処に泊り候ふを、此辺の悪党ども聞き付け、今夜夜討に討たうずるよし申し候ふ程に、左様の談合申し候。
さようでございます。私たちがここに泊まりますのを、この辺りの悪党達が聞きつけ、今夜夜討ちにて討とうとしていますので、それについて相談しておりました。
子方 「たとひ大勢ありとても。表にたたん兵を。五十騎ばかり斬り伏すならば。やはか退かぬ事は候ふまじ。
A たとえ大勢であっても、先頭にたった兵を、五十騎ほど斬り伏したなら、どうして退却しないことがありましょうか。
ワキ 「これは頼もしき事を仰せ候ふものかな。悉皆(しっかい)たのみ候。
D これは頼もしいことをおっしゃいますこと。万事、御頼みいたします。
子方 「面々は物の具して待ち給へ。我は大手に向ふべしと。
A 皆さんは、具足を身に着けて、お待ちください。私は、表口に向かいましょう。
地 「夕べも過ぎて鞍馬山。夕べも過ぎて鞍馬山。年月習ひし兵法の術を今こそは。
夕暮れが過ぎて暗くなり、鞍馬山で長い年月習った兵法の術を、今こそ、
現し衣の妻戸を、開きて沖つ白波の打ち入るを遅しと待ち居たり。
表して、妻戸を開けておいて、盗賊が討ち入るのを、今や遅しと待ち構えました。
説明 著し衣 は、喪服。衣の褄 は、裾の両端。妻戸は、両開きの戸。沖つ白波は、沖に立つ白波、白波五人男は、有名な盗賊。
第二場
後ツレ大勢 「寄せかけて。打つ白波の音高く。鬨を作つて騒ぎけり。
白波が岸に打ち寄せて音を高く立てるように、鬨の声をあげて、騒ぎました。
後シテ 「如何に若者ども。 おい、若者ども
後ツレ 「御前に候。 御前におります。
シテ 「大手がくわつと開けたるは。内の風ばし早いか。
大手門(正面の門)が、ガバッと開いているのは、内からの風なんぞが速く吹くからか。
説明 ばし は、体言や、格助詞に、と、を 等について、強調を表します。内の風ばし は、内から吹く風なんぞが の意。
ツレ「さん候、内の風早くして。或は討たれ。又は重手負ひたると申し候。
F そうでございます。内からの風が強く、或る者は討たれ、或る者は重手を負ったということです。
シテ 「不思議やな、内には吉次兄弟ならではあるまじきが。さて何者かある。
G 不思議だな。中には、吉次兄弟以外には、いるはずがないが。さて、何者がいるのか。
ツレ「投げ松明の影より見候へば。年の程十二三ばかりなる幼き者。
F 投げ込んだ松明の光で見ましたが、年の頃十二三ばかりの幼い者が、
小太刀にて切つて廻り候ふは、さながら蝶鳥の如くなる由申し候。
小太刀で切ってまわっているのは、さながら、蝶や鳥のようだということです。
シテ 「さて摺鉢太郎兄弟は。 さて摺鉢太郎兄弟は、どうした。
ツレ 「是は火振の親方として、一番に斬つて入りしを。例の小男わたり合ひ。
彼らは、松明を振る隊の親方として、一番に斬り入ったのですが、例の小男が、渡り合って、
兄弟の者の細首を。唯一討に打ち落したるよし申し候。
兄弟の細首を、ただ一討ちに撃ち落としたということです。
シテ 「えいえい、何と何と。かの者兄弟は余の者五十騎百騎にはまさうずるものを。
G おいおい、何と何と。あの兄弟は、他の者五十騎や百騎には勝るでしょうものを。
説明 まさうず の まさ は、勝るという意味の動詞 勝すの未然形です。
ああ斬つたり斬つたり。彼奴は曲者よ。 ああ、斬ったり、斬ったり。そいつは、曲者よ。
ツレ 「高瀬の四郎はこれを見て、今夜の夜討悪しかりなんとや思ひけん。手勢七十騎にて退いて帰りて候。
F 高瀬の四郎は、これを見て、今夜の夜討ちは、具合が悪そうだと思ったのか、手勢七十騎で退却して帰りました。
シテ 「彼奴は今に始めぬ臆病者。さて松明の占手はいかに。
G あいつは、今に始めない臆病者だ。さて、松明の占いは、どうですか。
ツレ 「一の松明は斬つて落し。二の松明は踏み消し。三は取つて投げ返して候ふが。三つが三つながら消えて候。
F 最初の松明は、小男が斬って落とし、第二の松明は、小男が踏み消し、第三は、小男が取って投げ返しました。三つが三つとも、消えました。
シテ 「それこそ大事よ。それ松明の占手といっぱ、一の松明は軍神、二の松明は時の運、三はわれらが命なるに。
G それこそ一大事だ。それ松明の占いと言えば、第一の松明は軍神、第二の松明は時の運、第三はわれらが命であるのに。
三つが三つながら消ゆるならば、今夜の夜討はさてよな。
三つが三つながら消えるのであれば、今夜の夜討は、そうだなあ(駄目かな)。
ツレ 「御諚の如く。このままにては鬼神にてもたまるまじく候。ただ退いて御帰り候へ。
F 仰せのとおり、このままでは、鬼が身であっても、たまらないでしょう。ただ退却してお帰りください。
シテ 「げにげに盗も命のありてこそ。いざ退いて帰らう。
G 実に実に、盗みも命があってこそ。いざ、退却して帰りましょう。
ツレ 「尤もにて候。 もっともでございます。
シテ 「いや熊坂の長範が、今夜の夜討を仕損じて、いづくに面を向くべきぞ。
G いや、熊坂の長範が、今夜の夜討を仕損じて、どこに顔向けができましょうぞ。
唯攻め入れや若者どもと、大音あげて呼ばはりけり。
ただ攻め入りなさい、若者ども、と、大声をあげて、呼びかけました。
地 「鬨を作つて斬つて入りけり。 鬨の声をあげて、斬って入りました。
地 「あら、物々しや己等よ。あら、物々しや己等よ。先に手並は知りつらん。それにも懲りず打ち入るか。
A おお、大層なおぬしらよ。おお、大層なおぬしらよ。以前に私の手並みは、知っているでしょう。それでも懲りずに討ち入るのか。
八幡も御知見あれ、一人も助けてやらじものをと小口に立つてぞ待ちかけたる。
八幡大菩薩も、ご照覧あれ。一人も助けてやるまいかと、小口に立って、待ちかまえました。
地 「熊坂の長範六十三。熊坂の長範六十三。今宵最後の夜討せんと、鉄屐(かなあしだ)を踏ん脱ぎ捨て。
熊坂の長範は六十三。熊坂の長範は六十三。今宵、最後の夜討ちをしようと、鉄の下駄を脱ぎ捨てて、
五尺三寸の大太刀を、するりと抜いてうちかたげ、をどり歩みにゆらりゆらりと歩み出でたる有様は。
五尺三寸の大太刀を、するりと抜いて肩にかつぎ、踊り歩みでゆらりゆらりと歩み出でた有様は、
いかなる天魔鬼神も面(おもて)を向くべきやうぞなき。
どんな天魔も鬼神も、顔を向けることができそうもない。
地 「あらはかばかしや盗人よ。あらはかばかしや盗人よ。
おや、頼もしいなあ、盗人よ、おや、頼もしいなあ、盗人よ。
めだれ顔なる夜討はするとも、われには適はじものをとて。隙間あらせず斬つてかかる。
卑怯な夜討ちはしても、わたしには、かなうわけがないものを」と、牛若は言って、寸刻も与えず斬ってかかる。
説明 めだれ顔 は、目垂り顔 ともいい、目尻の垂れた、しまらない顔つきのことで、男らしくない卑怯な振る舞いをすること。
熊坂も大太刀遣の曲者なれば。さそくをつかつて
熊坂も、大太刀遣いの曲者なので、早足を使って、
十方切。八方払や腰車。破圦の返し。風まくり。剣降らしや獅子の歯がみ。紅葉重ね。花重ね
十方切。八方払。腰車。破圦の返し。風まくり。剣降らし。獅子の歯がみ。紅葉重ね。花重ね
三つ頭より火を出して、しのぎを削つて戦ひしが。 刀の切っ先から火を出して、しのぎを削って戦ったが、
秘術を尽す大太刀も、御曹司の小太刀に斬り立てられ、請太刀となつてぞ見えたりける。
秘術の限りを尽す大太刀も、御曹司の小太刀に斬り立てられ、受け太刀となってしまったように見えました。
地 「打物業にて適ふまじ。打物業にて適ふまじ。組んで力の勝負せんとて、太刀投げ捨てて。
太刀ではかなうまい、太刀ではかなうまい、組んで力の勝負をしようとして、太刀を投げ捨てて、
大手を広げて飛んでかかるを、背けて諸膝薙ぎ給へば。
両手を広げてとびかかるのを、牛若は、軽くいなして、熊坂の両ひざ横にお払いになると、
斬られてかつぱと転びけるが。起き上らんとて、つつ立つ所を、真向よりも割りつけられて。
熊坂は、斬られてドスンと倒れたが、起き上がろうとして、突っ立つ所を、真正面から、縦に斬りつけられて、
一人と見えつる熊坂の長範も二つになつてぞ失せにける。
一人と見えていた熊坂の長範も、二つになって、失せてしまいました。
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