謡曲 安宅 |
2018.12.16
登場人物
シテ 武蔵坊弁慶
ツレ 義経の郎党 9人
子方 源義経
ワキ 富樫何某
ワキ 富樫何某
●かやうに候ふ者は。加賀の国富樫の何某(なにがし)にて候。
ここにこのように御座います者は、加賀の国の富樫何とかという者で御座います。
●さても頼朝・義経御中不和にならせ給ふにより。
さて、頼朝と義経の御中が不和におなりになられたことにより
●判官殿十二人の作り山伏となつて。奥へ御下向の由頼朝きこしめし及ばれ。
判官殿(義経)が十二人の偽山伏となって、奥州へ下向なさる由、頼朝殿がお聞き及びになり、
●国々に新関を立てて。山伏をかたく擇(えら)み申せとの御事にて候。
諸国に新しい関所を設けて、山伏をきびしく詮議せよとのことで御座います。
●さる間此処をば某承つて山伏を留め申し候。
そうでありますので、この関所をそれがしが受け持って、山伏を留めているので御座います。
●今日も固く申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。
今日も、きびしく申し付けたいと思って御座います。さて、誰かいるか。
狂言
●御前に候。 御前にひかえおります。
ワキ
●今日も山伏の御通(とほり)あらばこなたへ申し候へ。
今日も、山伏がお通りになったら、こちらに知らせるので御座るぞ。
狂言 家臣
●畏つて候。 かしこまりました。
説明 義経主従が登場します。
シテ ツレ
●旅の衣は篠懸(すずかけ)の。旅の衣は篠懸の露けき袖やしをるらん。
旅の衣装は、篠懸だが、その露に濡れた袖は、しおれているのだろうな。
説明 篠懸 は、山伏が衣の上に着る麻の法衣。
説明 しをるらむ は、袖がしおれているのは、不本意な逃避行の悲しさの涙に濡れたからだろうな というような意味です。
サシ
●鴻門(こうもん)楯破れ都の外の旅衣。日も遥々の越路の末。おもひやるこそ遥なれ。
鴻門の盾も破れ、都を出て旅衣を着ている。日を重ねてはるばる北越道まで来たが、この先、思うだけでも、はるかに遠い。
説明 鴻門楯破れ は、史記の鴻門之会の故事に拠るもので、鴻門で忠臣樊噲(はんかい)は、
盾で主君の危急を救ったのですが、そのようにはうまく運ばなかったことを嘆いています。
漢文塾のサイトに、鴻門之会の現代語訳があります。
シテ
●さて御供の人々には。 さて御供の人々には、
ツレ地
●伊勢の三郎駿河の次郎。片岡増尾常陸坊。
伊勢の三郎義盛、駿河の次郎清里、片岡八郎弘常、増尾十郎権守兼房、常陸坊海尊、
シテ
●弁慶は先達の姿となりて。 弁慶は、(一行を統率する)先達の姿となって
ツレ地
●主従以上十二人。未だ習はぬ旅姿。 主従は、以上で十二人。未だ慣れない旅姿。
●袖の篠懸露霜を。今日分けそめていつまでの。限もいさや白雪の。越路の春にいそぐなり。
篠懸の袖で露霜を分け払う旅に今日出発したが、終わりはいつになるのか、白雪の残る春の北陸路を急いでいるのです。
上歌
●時しも頃は二月の。時しも頃は二月の。十日の夜月の都を立ち出でて。
おりしも時は二月の十日、月夜の都を出立して、
●これやこの。行くも帰るも別れては。行くも帰るも別れては。知るも知らぬも。逢坂の
「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」と歌に詠まれた逢坂山に着きましたが、
●山隠す。霞ぞ春は。恨めしき霞ぞ春はうらめしき。
その逢坂山を霞が隠している。ああ、春はうらめしい。
下歌
●波路遥に行く舟の。波路遥に行く舟の。海津(かいづ)の浦に着きにけり。
(琵琶湖で)船にのり波路をはるかに進んで、海津の浦に着きました。
●東雲はやく明け行けば浅茅色づく有乳山(あらちやま)。
朝早く東雲の頃出立して、「浅茅色づく有乳山」と歌に詠まれた有乳山に着き、
上歌
●気比の海。宮居久しき神垣や。松の木芽山。
気比の海(敦賀湾)を眺め、由緒久しい気比神社の神垣や、松の木の木芽山を過ぎ、
●なほ行くさきに見えたるは。杣山人(そまやなびと)の板取。河瀬の水の。麻生津(あそおづ)や。
なおその行く先に見えるのは、杣山や板取の地、浅瀬の河の麻生津や、
●末は三国の湊なる。芦の篠原波よせて。なびく嵐の烈しきは。
最後は、三国港の芦の篠原に、波が打ち寄せて、芦がなびく嵐の激しさは
●花の安宅に着きにけり。花の安宅に着きにけり。
花のあだかと、安宅に着きました、安宅に着きました。
シテ
●御急ぎ候ふほどに。これははや安宅の湊に御着にて候。しばらく此処に御休あらうずるにて候。
お急ぎで御座いましたので、はやくも、安宅の港に到着で御座います。しばらくここにお休みなさるのがよろしう御座います。
子方
●如何に弁慶。 おい、弁慶。
シテ
●御前に候。 御前におります。
子方
●唯今旅人の申して通りつる事を聞いてあるか。
只今、旅人が、話しながら通っていった事を聞いているか。
シテ
●いや何とも承らず候。 いえ、何とも聞いてはおりません。
子方 判官
●安宅の湊に新関を立てて。山伏を固く擇むとこそ申しつれ。
安宅の港に新しい関所を建てて、山伏を厳しく詮議するとこそ申していたぞ。
シテ
●言語道断の御事にて候ふものかな。 全くお話にならないことで御座いますな。
●さては御下向を存じて立てたる関と存じ候。 さては、(君の)下向を知って立てた関所と存じます。
●これはゆゆしき御大事にて候。 これは、ゆゆしい一大事で御座います。
●まづ此傍にて暫く御談合あらうずるにて候。 まずこの辺で暫く話し合い致しましょう。
●是は一大事の御事にて候ふ間。皆々心中の通(とお)りを御意見御申しあらうずるにて候。
これは一大事で御座いますので、皆々、心中に思ったとおりの意見をお申しになるべきにて御座る。
説明 御申しあり の 御・・・あり は、尊敬の意味を表し、お申しになる の意、
ツレ
●我等が心中は何程のことの候ふべき。ただ打ち破つて御通あれかしと存じ候。
我らの心中では、これはいか程のことでありましょうや、ただ関所を打ち破ってお通りになられよと思います。
シテ
●暫く。仰の如くこの関一所打ち破つて御通あらうずるは易き事にて候へども。
しばしお待ちを。仰るようにこの関所一か所を打ち破って、お通りになられようことは、た易いことでは御座いますが、
●御出で候はんずる行末が御大事にて候。 これから起こるでありましゅう行く末こそが、大事で御座います。
説明 御出で候はんずる行末 は、御+いづ+候ふ+むず+行末 で、これから起こるでありましょう行末 の意。
●唯何ともして無為の儀が然るべからうずると存じ候。
ただ何としても何もしないことがしかるべきでしょうと存じます。
子方
●ともかくも弁慶はからひ候へ。 ともかく、弁慶がとりはからいなさい。
シテ
●畏つて候。某きつと案じいだしたる事の候。 かしこまりました。私が急ぎ考え出したことがございます。
●我等を始めて皆々につくい山伏にて候ふが。 私達をはじめ皆全員にっくい山伏で御座いますが
●何と申しても御姿隠れ御座なく候ふ間。 何と申しても(君は)お姿が隠しても隠れようがありませんので
●此ままにては如何と存じ候。 このままにては、いかがかと思って御座います。
●恐れ多き申事にて候へども。 畏れ多いことではありますが、
●御篠懸をのけられ。あの強力が負ひたる笈(おい)をそと御肩に置かれ。御笠を深々と召され。
篠懸をおぬぎになって、あの強力が背負っている笈をそっと肩にかけられ、笠を深々とおかぶりになり、
●如何にもくたびれたる御体にて。我等より後に引きさがつて御通り候はば。
いかにもくたびれている御姿にて、私どもより後に、引きさがってお通りになられれば
●なかなか人は思もより申すまじきと存じ候。
なかなか他人には思いもよりますまいと思って御座います。
子方
●実にこれは尤もにて候。さらば篠懸を取り候へ。
まことにこれは、もっともで御座います。それでは篠懸を取ってください。
シテ
●畏つて候。いかに強力。 かしこまって御座います。これ、強力。
狂言
●畏つて候。 かこまって御座います。
シテ
●笈を持ちて来り候へ。 笈をもってきなさい。
狂言
●畏つて候。 かこまって御座います。
シテ
●汝が笈を御肩に置かるる事は。なんぼう冥加もなき事にてはなきか。
御前の笈を(君が)肩に置かれることは、これ以上の冥加もないことでないか。
●まづ汝は先へ行き関の様体を見て。 まずお前は先に行って関所の様子を見て、
●まことに山伏を簡ぶか。又さやうにもなきか懇(ねんごろ)に見て来り候へ。
まことに山伏の詮議をしているか、または、そでもないかを懇切に見て来てくだされ。
狂言
●畏つて候。 かこまって御座います。
説明 強力は、関所に行き、山伏の首がさらされているのを見て、
「山伏は貝吹いてこそ逃げにけれ、誰おひかけて阿毘羅吽欠」と詠み、弁慶に様子を報告します。
シテ
●さらば御立あらうずるにて候。 それでは、ご出発するのがよろしゅう御座います。
●げにや紅は園生(そのお)に植ゑても隠(かく)れなし。
まことに紅花は庭園に植えて隠しても隠れようはないな。
地
●強力にはよも目を懸けじと。御篠懸を脱ぎ替へて。麻の衣を御身にまとひ。
強力には、よもや目を掛けまいと、篠懸を脱ぎ替えて、麻の衣を御身にまとい
シテ
●あの強力が負ひたる笈を。 あの強力が背負っていた笈を
子方
●義経取つて肩に懸け。 義経が取って肩に懸け
ツレ地
●笈の上には雨皮肩箱取りつけて。 笈の上には、雨皮や肩箱を取りつけて
子方
●綾菅笠(あやすげがさ)にて顔をかくし。 綾菅笠で顔をかくし
ツレ地
●金剛杖にすがり。 金剛杖にすがり
子方
●足痛げなる強力にて。 足が痛そうな強力姿で
地
●よろよろとして歩み給ふ御ありさまぞ痛はしき。
よろよろとしてお歩きになる御姿こそ痛ましい。
シテ
●我等より後に引き下つて御出あらうずるにて候。 私達より、後に引きさがって、出立なさるのがよろしう御座る。
●さらば皆々御通り候へ。 それでは、皆々様お通りください。
ツレ
●承り候。 うけたまわって御座います。
狂言(従者)
●如何に申し候。山伏達の大勢御通り候。 申し上げます。山伏達が大勢お通りで御座います。
ワキ
●何と山伏の御通あると申すか。心得てある。何と山伏のお通りがあると申すか。心得た。
●なうなう客僧達これは関にて候。 のうのう客僧達よ。ここは関所で御座います。
シテ
●承り候。これは南都東大寺建立の為に。国々へ客僧をつかはされ候。
承知して御座います。このたび、南都東大寺の建立の為に、国々へ客僧が派遣されて御座います。
●北陸道をば此客僧承つて罷り通り候。 北陸道をば、この客僧が承って罷り通るので御座います。
●まず勧に御入り候へ。 まずは、勧進にお入りください。
説明 勧進 は、寺や仏像の建立・修理のために寄付を集める事。
ワキ
●近頃殊勝に候。勧には参らうずるにて候
はなはだ殊勝なことに御座ります。勧進には参加しましょう。
説明 近頃 は、最近になく の意から、たいへん、はなはだ の意。
●さりながら。これは山伏達に限つて留め申す関にて候。
さりながら、ここは、山伏達だけを留める関所で御座います。
シテ
●さて其謂はれは候(ぞうろう)。 さてその理由は御座いますか。
ワキ
●さん候 そうで御座います。
●頼朝義経御中不和にならせ給ふにより。判官殿は奥秀衡を頼み給ひ。
頼朝と義経の御中が不和におなりになり、判官殿は奥秀衡をお頼みになり
●十二人の作山伏となつて。御下向の由其聞え候ふ間。
十二人の偽山伏となって、御下向の由、その由が聞えて御座いましたので、
●国々に新関を立てて。山伏を固く簡ぴ申せとの御事にて候。
諸国に新しい関所を立てて、山伏を厳しく詮議しろとる事で御座います。
●さる間此処をば某承つて山伏を留め申し候。
それで、この場所を私が承って、山伏を留め申すので御座います。
●殊にこれは大勢御座候ふ間。一人も通し申すまじく候。
ことにこれは大勢で御座いますので、一人も通すまいと存じます。
シテ
●委細承り候。 詳細、承りました。
●それは作山伏をこそ留めよと仰せいだされ候ひつらめ。
それは、偽山伏をこそ、留めよとの仰せが出されたのでありましょう。
●よも真の山伏を留めよとは仰せられ候ふまじ。
よもや真の山伏を留めよと仰せられたはずはないでしょう。
狂言(従者)
●いや昨日も山伏を三人迄切つたる上は。 いや昨日も山伏を三人も切った上は
シテ
●さて其切つたる山伏は判官殿か。 さてその切った山伏は、判官殿ですか。
ワキ
●あらむつかしや問答は無益(むやく)。 ああ、難儀なこと。問答は、無用です。
●一人も通し申すまじい上は候(ぞうろう)。 一人も通すまじく御座ります。
シテ
●さては我等をもこれにて誅せられ候はんずるな。
さては我らもここにて誅せられてしまうのでしょうか。
ワキ
●なかなかの事。 いかにもその通り。
シテ
●言語道断。かかる不祥なる所へ来かかつて候ものかな。
話にならぬ。こんなにも縁起の悪い所に通りかかってしまったものか。
●此上は力及ばぬ事。さらば最期の勤を始めて。尋常に誅せられうずるにて候。
このうえは、仕方が無い。それでは最期の勤行を始めて、尋常に誅せられましょう。
●皆々近う渡り候へ。 皆さま近くに集まりなさい。
ツレ地
●承り候。 承って御座います。
説明 弁慶を頂点にして、舞台に三角形に並び立つ。
シテ
●いでいで最後の勤を始めん。 さあさあ最後の勤行を始めましょう。
●夫れ山伏といつぱ。役の優婆塞(えんのうばそく)の行儀を受け。
そもそも山伏といえば、役の行者の修行を受け
ツレ
●其身は不動明王の尊容をかたどり。 その身は不動明王の尊いお姿をかたどり
シテ
●兜巾(ときん)といつぱ五智の宝冠なり。 兜巾というは、五智の宝冠である。
●十二因縁のひだをすゑて戴き。 十二因縁にちなんだ十二の襞を頭に戴き、
シテ
●九会(くゑ)曼荼羅の柿の篠懸。 九会曼荼羅をかたどった柿色の篠懸を着、
ツレ地
●胎蔵黒色のはばきをはき。 胎蔵界を表す黒色の脚絆を履き
シテ
●さて又八目の草鞋(わらんづ)は。 さてまた、足に履く八目のわらじは
ツレ地
●八葉の蓮華を踏まへたり。 極楽の八葉の蓮華を踏まえている。
シテ
●出で入る息に阿吽の二字をとなへ。 出て入る息は、阿吽の二字を唱え
ツレ 地
●即身即仏の山伏を。 即身即仏の山伏を
シテ
●ここにて討ちとめ給はん事。 ここで討ち留めようとなさる事を
ツレ地
●明王の照覧はかりがたう。 不動明王がいかにご照覧されるかはかりがたく
シテ
●熊野権現の御罰を当らん事。 熊野権現の御罰が当たる事は
ツレ地
●立ちどころにおいて。 たちどころにおいて
シテ
●疑あるべからず。 間違いありません。
地
●オン阿毘羅吽欠(あびらうんけつ)と数珠さらさらと押しもめば。
オンアビラウンケツと数珠をさらさらと押しもむと、
ワキ 富樫何某
●近頃殊勝に候。 はなはだ殊勝なお勤めに御座います。
●先に承り候ひつるは。南都東大寺の勧進と仰せ候ふ間。定めて勧進帳の御座なき事は候ふまじ。
先に承わりましたが、南都東大寺の勧進とおっしゃるので、きっと、勧進帳がないことはありますまい。
●勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞申さうずるにて候。
勧進帳を読み上げあそばしてください。ここで拝聴もうしあげましょう。
シテ
●何と勧進帳を読めと候ふや。 なんと、勧進帳を読めとおっしゃるので御座いますか。
ワキ
●なかなかの事。 いかにもその通り。
シテ
●心得申して候。 心得まして御座います。
●もとより勧進帳はあらばこそ。 もとより勧進帳は、あるはずがない。
説明 あらばこと は、あらばこそ、あらめ の略で、あるなら、あれ、しかし、あるはずがない の意。
●笈の中より往来の巻物一巻取りいだし。勧進帳と名づけつつ。高らかにこそ読み上げけれ。
笈の中から消息文の巻物一巻を取り出して、勧進帳と称して、高らかに読み上げました。
●それつらつら惟(おも)ん見れば 「それ、つらつら考えてみるに
●大恩教主の秋の月は。涅槃の雲に隠れ生死長夜の長き夢。驚かすべき人もなし。
大恩教主(お釈迦さま)の秋の月が、涅槃の雲に隠れてまい、生死長夜の長い夢を、覚ましてくれる人はいない。
●ここに中頃帝おはします。御名をば。聖武皇帝と。名づけ奉り
ここに中昔、帝がいらっしゃいます。御名前を聖武天皇と、名付け奉ります。
●最愛の。夫人に別れ。恋慕やみがたく。涕泣眼(まなこ)に荒く。
帝は、最愛の夫人と死別し、恋慕の思い抑えがたく、涙を流して、眼ははれあがり
●涙玉を貫く思ひを。善途に翻して廬遮那仏を建立す。
涙が玉を貫く思いを、善途に翻して、廬遮那仏を建立する
●かほどの霊場の。絶えなん事を悲しみて。俊乗房重源。諸国を勧進す。
これほどの霊場が、絶えてしまうことを悲しんで、俊乗房重源は、諸国に勧進を募る
●一紙半銭の。奉財の輩は。この世にては無比の楽に誇り
一紙半銭でも奉財した輩は、この世にては無比の楽しみを謳歌し
●当来にては。数千蓮華の上に坐せん帰命稽首。敬つて白すと
来世では、極楽の数千の蓮華の上に坐すでしょう。帰命稽首。敬ってもうす。」と
●天も。響けと読み上げたり。 天にも響けと読み上げました。
ワキ
●関の人々肝を消し。 関所の人々は、肝をつぶし
地
●恐をなして通しけり。恐をなして通しけり。
恐れをなして、一行を、通しました。通しました。
ワキ
●急いで御通り候へ。 急いで、お通りください。
シテ
●承り候。 承って御座います。
狂言
●如何に申し上げ候。判官殿の御通り候。
さて、申し上げます。判官殿がお通りで御座います。
ワキ
●いかにこれなる強力とまれとこそ。 もし、そこの強力よ、止まれと言うに。
ツレ地
●すは我が君をあやしむるは。一期の浮沈極りぬと。みな一同に立ち帰る。
それ我が君を怪しんでいるぞ。一期の浮沈極まったぞと、一同みなたち戻る。
シテ
●ああ暫く。あわてて事を仕損ずな。 ああ、しばらく、あわてて事を仕損ずるなよ。
●やあ何とてあの強力は通らぬぞ。 やあ、どうしてある強力は、関所を通らないのか。
ワキ
●あれは此方より留めて候。 あれは、私が、留めたのです。
シテ
●それは何とて御とめ候ふぞ。 それは、どうして、お留めになったのですか。
ワキ
●あの強力がちと人に似たると申す者の候ふ程に。さて留めて候ふよ。
あの強力が、ちょっと人に似ていると申す者がいたので、それで留めたのですよ。
シテ
●何と人が人に似たるとは。珍しからぬ仰せにて候。
何と、人が人に似ているとは、珍しくもない仰せです。
●さて誰に似て候ふぞ。 さて誰に似て御座るのか。
ワキ
●判官殿に似たると申す者の候ふ程に。落居(らっきょ)の間留めて候。
判官殿に似ていると申す者が御座いますので、落着するまで留めて御座る。
シテ
●や。言語道断。 や、全く話にならない。
●判官殿に似申したる強力めは一期の思出な。
判官殿に似ている強力めは、生涯の思い出だな。
●腹立や日高くは。能登の国まで指さうずると思ひつるに。
腹立たしいな。日も高いので、能登の国まで目指そうと思ったのに、
●わづかの笈負うて後に下ればこそ人も怪しむれ。
わずかな笈を背負って、後ろに遅れるからこそ、人も怪しむのだ。
●総じて此程。につくしにくしと思ひつるに。いで物見せてくれんとて。
総じてこの頃、にくいにくいと思っていたんだ。いざ思い知らせてやろう。といって。
●金剛杖をおつ取つて散々に打擲す。 金剛杖をおっ取って散々に打擲する。
●通れとこそ。 通れ。
説明 富樫を向いて
●や。笈に目を懸け給ふは。盗人ざうな。 や、笈に目をお懸けになるとは、さては、盗人のようだ。
ツレ 地
●かたがたは何故に。かたがたは何故に。かほど賎しき強力に。太刀刀ぬき給ふは目だれ顔の振舞は。臆病の至りかと。
あなた方は、何故に、こんなに賤しい強力に、太刀刀を御抜きになるのは、卑怯なお顔の振る舞いは、臆病の至りなのか。
説明 目垂り顔 は、人の弱みにつけこむ卑怯な顔つき。
●十一人の山伏は。打刀(うちがたな)ぬきかけて。勇みかかれる有様は。
十一人の山伏が、打刀を抜きかけて、(富樫の方に)勇みかかる有様は、
●如何なる天魔鬼神も。恐れつべうぞ見えたる。
どんな天魔も鬼神も、恐れてしまうように見えました。
ワキ 富樫何某
●近頃誤りて候。はやはや通り給へ。 はなはだ誤っておりました。はやくお通りください。
シテ
●先の関をばはや抜群に程隔たりて候ふ間。此処に暫く御休みあらうずるにて候。
先の関所をはや随分に離れたので、ここにしばらくお休みなさるのがよろしかろう。
●皆々近う御参り候へ。いかに申し上げ候。 皆様近くお集り下さい。いかに申し上げましょうか。
●さても唯今は余りに難儀に候ひし程に。不思議の働きを仕り候ふ事。
さても只今は余りに難儀な状態でしたので、思いもよらぬ振る舞いをしてしまいました事、
●これと申すに君の御運尽きさせ給ふにより。今弁慶が杖にも当らせ給ふと思へば。いよいよあさましうこそ候へ。
これも君の御運がお尽きになり、今、弁慶の杖にお打たれになられると思うと、なんとも情けないことで御座います。
子方
●さては悪しくも心得ぬと存ず。 さては、悪しく理解されたように思います。
●いかに弁慶。さても唯今の機転更に凡慮より為すわざにあらず。
おい、弁慶。本当に、只今の機転は、全く凡慮のなせる業ではない。
●唯天の御加護とこそ思へ。 ただ天の御加護とこそ思いなさい。
●関の者ども我を怪しめ。生涯限ありつる所に。
関所の者どもが私を怪しんだので、命の最後になったところに
●とかくの是非をばもんだはずして。 あれやこれやの是非を問わずして
●唯真の下人の如く。散々に打つて我を助くる。 ただ真の下人のように、散々に打って私を助ける
●これ弁慶が謀にあらず八幡の。 これは弁慶のはかりごとではなく、八幡大菩薩の
地
●御託宣かと思へばかたじけなくぞおぼゆる。 御託宣かと思えばかたじけなく覚えます。
地クリ
●それ世は末世に及ぶといへども。日月はいまだ地に落ち給はで。
世は末世移に及んだといえども、太陽も月もまだ地に落ちてはわけではなく、
●たとひ如何なる方便なりとも。正しき主君を打つ杖の天罰に。当らぬことやあるべき。
たとえどんな方便だといっても、正しい主君を打つ杖の天罰に、当たらぬことなどあるでしょうか。
子方 サシ
●げにや視在の果を見て過去未来を知ると云ふこと。
本当に、現在の状況を見て、過去未来を知る、と言う事を
地
●今に知られて身の上に。憂き年月の二月や。下の十日の今日の難を遁れつるこそ不思議なれ。
今、思い知るこの身の上に、つらい年月を経て、二月の下旬の今日の危難を逃れたことこそ不思議です。
子方
●唯さながらに十余人。 今さらのように、主従十余人は、
地
●夢の覚めたる心地して。互に面を合はせつつ。泣くばかりなる。有様かな。
夢が覚めた心地がして、互いに顔を見合わせ、涙を流すばかりの有様でした。
クセ
●然るに義経。弓馬の家に生れ来て。命を頼朝に奉り。
しかるに、義経は、武士の家に生まれ来て、命を頼朝に捧げて
●屍を西海の波に沈め。山野海岸に起き臥し明かす武士(もののふ)の。鎧の袖枕。かたしく隙(ひま)も波の上。ある時は舟に浮び。風波に身を任せ。ある時は山脊(さんせき)の。馬蹄も見えぬ雪の中に。海少しある夕波の立ちくる音や須磨明石の。とかく三年の程もなく。敵を亡ぼし靡く世の。其忠勤も徒らに。なりはつる此身の。そも何といへる因果ぞや。
子方 義経
●実にや思ふ事。叶はねばこそ憂き世なれと。 本当に、思う事がかなわないのが、この憂き世だと
地
●知れどもさすがなほ。思ひ返せば梓弓の。すぐなる。人は苦しみて。讒臣は。弥増に世に在りて。遼遠東南の雲を起し。西北の雪霜に。責められ埋る憂き身を。ことわり給ふべきなるに唯世には。神も。仏もましまさぬかや。恨めしの憂き世やあら恨めしの憂き世や。
説明 富樫が山伏達への先程の非礼を詫びようとして、従者に語り掛けます。
ワキ 富樫何某
●如何に誰かある。 誰かいますか。
狂言(従者)
●御前に候 御前にいます。
ワキ
●さても山伏達に聊爾(りょうじ)を申して。余りに面目もなく候ふ程に。
さて山伏達に無礼な事を申して、余りに面目なく御座いますので、
●追つ付き申し酒を一つ参らせうずるにてあるぞ。 追いついて酒を一献さしあげたいと思う
●汝は先へ行きて留め申し候へ。 お前は、先に行って、一行をお引き留めして御座れ。
狂言
●畏つて候。 かしこまりました。
●いかに申し候。 申し上げます。
●前には聊爾を申して余りに面目もなく候ふとて。関守のこれまで酒を持たせて参られて候。
先程無礼な事を申して、余りに面目ないとて、関守がここまで酒を持たせて参られました。
シテ
●言語道断の事。やがて御目に懸らうずるにて候。 なんということか。すぐにお目にかかりましょう。
説明 弁慶は一同に警戒を呼び掛けます。
シテ
●げにげにこれも心得たり。人の情の盃に。うけて心を取らんとや。
誠に誠に、これは心得た。人情の盃で、人の心をとろうというのだな。
●これにつきてもなほなほ人に。心なくれそ呉織(くれはとり)。
それにつけても、なおなお、人に、心はくれるな、呉織
説明 呉織 は、中国の呉から渡来した職工、呉の様式で織られた布。
枕詞で綾(あや)にかかるので、続く地謡の 怪しめらるな に掛かっているのかもしれません
地
●怪しめらるな面々と。弁慶に諌められて。此山陰の一宿に。
「怪しまれるな、御面々」と弁慶に諫められて、この山陰の一宿に
●さらりと円居(まどゐ)して。処も山路の菊の酒を飲まうよ。
さらりと車座にすわって、所も山路の菊の酒を飲みましょうよ
説明 古今集秋の「濡れてほす山路の菊の露のまに いつか千年をわれは経にけむ」(素性法師)をふまえています。
説明 弁慶が勇壮な男舞を舞います。
シテ
●おもしろや山水に。 風情のある山水の景色に
地
●おもしろや山水に。盃を浮べては。流に牽かるる曲水の。
風情のある山水の景色に杯を浮かべて、流れに牽かれる曲水の宴の盃を
説明 『和漢朗詠集』の三月三日の曲水の宴の、「牽流遄過手先遮」(菅原雅規)をふまえています。
●手まづさへぎる袖ふれていざや舞を舞はうよ。
手でまずさえぎる袖ふれて、いざ、舞を舞いましょう
●本より弁慶は。三塔の遊僧。舞延年の時のわか。これなる山水の。落ちて巌に響くこそ。
もとより弁慶は、比叡山の遊僧で、延年の舞の時の和歌が、ここの山水が落ちて巌に響いて
説明 延年舞は、法会の後に演じた芸能で、梁塵秘抄 四句神歌 の祝言歌を歌います
「滝は多かれど うれしやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも 絶えでとうたへ やれことつこう」
(滝は多いけれど 嬉しいと思うよ 鳴りとどろく滝を見て たとえ日が照りつけても 水の流れは絶え尽きない)
地
●鳴るは瀧の水。 鳴るのは滝の水
説明 鳴るは瀧の水 は、謡曲 翁 にも出てきます。
「鳴るは瀧の水 鳴るは瀧の水 日は照とも 絶えずとうたりありうとうとうとう 絶えずとうたり」
シテ
●たべ酔ひて候ふ程に。先達御酌に参らうずるにて候。
お酒を飲み酔ってしまいましたので、先達山伏の私は、お酌に参りましょう。
ワキ
●さらばたべ候ふべし。とてもの事に先達一さし御舞ひ候へ。
それならば頂きましょう。とてものことに、先達さん、一さしお舞ください。
説明 とてものことに は、どうせ同じことなら、いっそのこと の意なのですが、
地
●鳴るは瀧の水。
シテ
●鳴るは瀧の水。
地
●日は照るとも。絶えずとうたり。絶えずとうたりとくとく立てや。
●手束弓(たつかゆみ)の。心ゆるすな。
手束弓を持った関守さん、心許しなさんな
●関守の人々。暇申してさらばよとて。
関守の方々よ、お暇を申して、さらばよとて
●笈をおつ取り。肩に打ち懸け。虎の尾を踏み毒蛇の口を。遁れたる心地して。
笈を取り、肩にかけて、虎の尾を踏みながらも毒蛇の口を逃れた心地がしながら
●陸奧の国へぞ。下りける
陸奥の国に、下って行きました。
:現在の閲覧者数:
ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。
ホームページアドレス: https://think0298.stars.ne.jp