安良岡康作  歎異抄全講読 (1990)

2016.9.28

 歎異抄の原文の古語的ないいまわしの文法をより正確に理解して翻訳したいと思い、旺文社で出ている

古典の文法全解という参考書のように、文法を細かく説明している解説書のようなものはないかと、

親鸞仏教センター に問い合わせたところ、この本を紹介してもらいました。

 本を取り寄せてみると、安良岡さんの主要著書は、講談社学術文庫の、方丈記の全訳注、

旺文社文庫の対訳古典シリーズの、歎異抄と徒然草などで、まさにそのような事をなさるお方でした。

 

 最初に始まるで、安良岡さんは、歎異抄を読む立場に、4つあるといいます。

自己の信仰・信心のために必読・体読する立場、心の糧として読む立場、

仏教の歴史的発展の中での意義や位置を研究する学問的立場、文芸研究の対象として読む立場です。

 安良岡さんは、太平洋戦争に従軍している間、歎異抄を、第二の立場で反復・熟読し、

全文章を暗誦できるまでになりましたが、復員後、その鋭く深い表現的構造を解釈し、批判することを目指し、

直観的鑑賞を以ってしては到達し難く、それをも批判的に克服し、発展させるという第四の立場に進みました。

 

 その集大成が、本書の歎異抄全購読で、1990年に、大蔵出版から出版されました。

安良岡さんは、1917年のお生まれですが、2001年に、享年84才でお亡くなりになりました。

2009年に、歎異抄全購読の新装版が出版されました。おかげで、1990年発行の古書は、かなり安価に入手できました。

 

 これから、この本をゆっくり読んで勉強し、私の対比直訳のブラッシュアップを進めていきますが、

安良岡さんがお亡くなりになったいま、この本に含まれている安良岡さんの心からの言葉の幾分かを、

この頁でも紹介したいと考えています。

 

 さて、本文の紹介に入る前に、この628頁からなる部厚い本には、歎異抄に関して安良岡さんが書き下ろした

二つの論文が収録されていて、そのうち、542-603頁の「日本文芸史の展開と『歎異抄』」について紹介します。

 この論文で、安良岡さんは、記紀万葉から始まる日本の文芸史をかなり詳しく概観しますが、

大正時代に至って、以下のように話を進められます。

 

 そうした中に、明治期から創作活動を続けて来た夏目漱石・森鴎外の二大作家が、この時期に入って、

その小説や史伝の表現的成熟を示し、それはまた、文芸史上の近代の頂点をも成していると言ってよい。

漱石は大正5年(1916)に50歳で、鴎外は大正11年(1922)に61歳で世を去っているが、

注目すべきは、晩年に至って、漱石は「則天去私」を、鴎外は「諦念」を、それぞれ、自己の立場として、

生活と創作を律する原理としていることである。

漱石は、自己をどこまでもつきつめて、そこに醜いエゴイズムを見出し、それを、「天」という、

人間以上の、高く、幽遠にして純一なる境地に則って否定して、自然で自由な生き方をめざした。

鴎外は、学芸の世界に自己を生かし、文化的理想を実現するためには、世間から超越して、

何事をも諦め、ひたすら静観の態度に徹しようとした。

漱石が、最後の大作『明暗』を執筆中、それと平行して造り続けた漢詩70余首は、かかる

「則天去私」の境地への自己の強い憧憬と思慕、もしくは、その境地の観照の表現とも言えるのである。(中略)

この「則天去私」にしろ、「諦念」にしろ、共に、西欧的というよりは、むしろ、

東洋的、仏教的、禅的な共通性を持つ精神的意志の現れとすべきものであろう。そこには、

道元の「万法(まんぽう)」や、親鸞の「弥陀の誓願」や、兼好の「天地」や、世阿弥の「天下」の如き、

人間を超越した、絶対なる力に帰依し、信服することを、自己の生活・実践の「理(ことわり)」「道理」

としている点において、中世的文芸の理念と相通ずる、日本文芸史上の近代の理念的頂点

見出されると思う。(中略)

 漱石・鴎外・藤村の制作理念と中世的文芸のそれとを比較・対照して考えさせられることは、かかる、

近代を代表する創作家・知性人においても、果して、中世的文芸の頂点に立つ道元・親鸞・兼好・寂室・

世阿弥等の諸作家の持つ「理」、即ち、主体的信条・生活の原理・実践の理法を越え得たであろうか

という問題である。これは、簡単に、また安易に判定すべきことではないが、概して言えることは、

近代の作家は、自己の理念・原理を個人的意識の範囲内で追及し、自覚しているのに、

中世の作家は、自己の意識を包みつつ、それをも超越しているあるものに、「理」を求めて、

それに信頼していることである。

従って、中世は宗教的求道的と言い得るし、近代は人間的思索的と称してよいものがある。

 

 そして、この論文の最後を結ぶ以下の文章は、著者がお亡くなりになった今、

安良岡さんの遺書のようにも思えますので、少し長くなりますが、ここに引用して、ご冥福を祈ります。

 

 太平洋戦争終結後、現在に至るまでの40余年間を、文芸史上の「現代」と呼ぶ立場が

学界の内にも存していて、そこに「近代」とはやや異なる展開の諸相が考察されているように思われる。

しかし、その全体を組織的に述べる代りに、ここでは、その「現代」に認められる、いくつかの特徴を

指摘することに留めたいと思う。

 第一は、感興とか、面白さとか、娯楽とかいうものが文芸制作の第一目標となっていて、そのため、

推理小説・犯罪小説・エロティック小説・暴力小説などが大量に出版されて、文壇の主流をなしている観を

呈していることである。そして、映画やテレビジョンとの結びつきを強くしていることが注目される。

かかる小説によっても、人生の探求はある程度できるにしても、それには狭い限界があるのであって、

どうしても、人間生活の一部面・一断面が強調されるだけであって、全人的な力の表現にはなり得ない。

 第二には、これらの小説は、官能的、感覚的快適を読者に提供したり、娯楽的享受を読者に要求したり

する文芸であって、作者自身に、われ、いかに生きるべきかという、生の原理の追求が乏しい。

鴎外・漱石・藤村らが、近代社会の渦中にあって、真摯に追求した、自己確立のための求道的意志が

欠乏している。従って、精神的要求を欠いた官能に溺れ、欲望に囚われる、退廃的、慰戯的な様相の

著しいものがある。(例外としては、井上靖の諸作品が思い浮ぶだけである。)

 このことは、第三に、この「現代」は、明治期から大正期にかけて興隆し、昭和初期に成熟した近代文芸が、

その盛期を過ぎて、衰退期・凋落期に入ってしまっていることを意味しているようにさえ思われる。

いまの作家たちに、漱石を超え、鴎外を超え、藤村を凌駕するような、独自な生の理念や原理の獲得・確立を

期待し得るであろうか。また、実質的に、彼等の遺した文芸的業績を超出することが可能であろうか。

わたくしには、現在の文壇は、近代文芸史の最盛期・成熟期を過ぎた、その末期的症状を呈しているように

思われてならない。

 この状況は、逆に、中世文芸、特に、「理」を中核とし、理念とする中性的文芸の現代における意義を明確にして、

その「理」の上に発展し来たった、浄化的文芸 −『平家物語』 『正法眼蔵』 『正法眼蔵随聞記』 『三帖和讃』

『歎異抄』 『徒然草』、世阿弥の「能芸論」等の価値を改めて顧みさせ、そこには、文芸史上の近世・近代・現代を

以てしても超えることのできない、求道的にして芸術的な、「理」「道理」の崇高さを深く示唆するものがあると、

わたくしは信ずるのである。

 

 戦後が進み、さらに、21世紀に入り、価値が多様化し、人の生きる道の種類も増え、全人的な悩みもいろんな

様相を呈するようになりました。しかし、求道的で、芸術的で、崇高な境地における心の安寧は、すべての人に

共通する人生の価値ではないかと、私も、思います。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加