山口仲美 日本語の歴史 岩波新書 (2006年)

2015.10.19 

日本語の歴史について、興味深い情報満載の内容が新書一冊にまとまった貴重な本です。

 新書の表表紙裏の宣伝文がすばらしいので、紹介します。

  現代の日本語はどのようにして出来上がってきたのだろうか。

やまとことばと漢字との出会い、日本語文の誕生、係り結びはなぜ消えたか、江戸言葉の登場、言文一致体を生み出すための苦闘・・・・。

「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎあいからとらえた日本語の歴史。誰にでも納得のいくように、今、解き明かされる。

 以下に、なるべく原典の言葉を使って、内容を紹介します。興味をもたれた方は、是非、原書をお読みください。

 

話し言葉と書き言葉のせめぎあい

 日本語の書き言葉の歴史は、奈良時代に、日本語を漢字で書き表そうとしたところから始まります。

 平安時代は、漢字を手なずけ、とにもかくにも日本語を話すように書き表すことができるようになり、言語芸術の花を開かせます。

色とりどりの美しい花が咲き、その中には現代に受け継がれる文章の花も咲きました。

 鎌倉・室町時代には、書き言葉は話し言葉から離れはじめ、平安時代の話し言葉の文法は姿を変えてゆきます。

 江戸時代は、現代語に連なる話し言葉が形成された時期です。

この本では、関西言葉に対して関東言葉の力の強くなった江戸時代からを、本格的な近代語の形成期と見て話をすすめます。

 明治時代になると、話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまいました。

人々は、書き言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させます。

 

漢字にめぐりあう  奈良時代

 文字を持たなかった日本人が、漢字という異国の文字を借りて日本語を記そうとしたために、奈良時代の日本人はさまざまな悲喜劇を味わいました。

けれども、万葉仮名という独自の漢字の使い方を見つけ出し、日本語の表記の土台を築いていった。それが、奈良時代です。

 

文章をこころみる  平安時代

 平安時代には、万葉仮名からカタカナ、ひらがなという日本の文字が生み出されました。

そのため、書き記す文章も、漢文体、漢式和文体、宣命体のほかに、漢字カタカナ交じり文体、ひらがな文体なども生まれ、用途に応じて使い分けていました。

このなかで、適用範囲が広く、最も効率的な漢字カタカナ交じり文が、ひらがな文を抑えて、日本語の文章の代表になっていきました。

 

うつりゆく古代語  鎌倉・室町時代

 優美な貴族文化は姿を消し、覇権争いにあけくれる武士たちの時代がやってきました。

勇敢で力強くあることを求める武士の時代には、平安時代に出来上がった文の決まりも、相当姿を変えていきます。

いわゆる「古典文法」が変容していく時代です。私たちが高校で学んだ「古典文法」は、平安時代の言葉の決まりだったのです。

 

「係り結び」に注目

 古典では、「ぞ」「なむ」「や」「か」があったら、連体形で結び、「こそ」があったら已然形で結びます。

「なむ−連体形」 念を押して強調する

 その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。    竹がネ、一本あったんですよ。

 聞き手を意識し、聞き手の目を見つめ、念を押し、同意を求めて穏やかに語る口調となります。

「ぞ−連体形」 指し示して強調する

 その竹の中に、もと光る竹ぞ一筋ありける。    一本あったのは、根元の光る竹だった。

 「一筋ありける」という状態が起きたのは、「もと光る竹」においてなのだという強調表現です。

「こそ−已然形」 取り立てて強調する

 その竹の中に、もと光る竹こそ一筋ありけれ。    根元の光る竹こそ、一本あったのだった。

 竹はさまざまあるけれど、なんと根元の光る竹があったと、他の竹と区別して取り立てて強調します。

「や−連体形」「か−連体形」 疑問や反語を表す

 奈良時代には「か−連体形」のほうが「や−連体形」よりも優勢でしたが、平安時代になると逆転します。

「なむ−連体形」は衰える

 鎌倉時代の兼好法師の徒然草には、「こそ−已然形」が195回、「ぞ−連体形」が100回も用いられているのに、「なむ−連体形」はわずか10回しか使っていません。

 「平家物語」をはじめとする軍記物語には、「なむ−連体形」の強調表現は使われていません。

これは、やわらかい語りの口調に限って出現する強調なので、強さやたくましさを求める武士の時代にはいささか不向きです。

 また鎌倉時代の終わりには、「なむ」の結びは終止形になってしまうことが多く、「なむ−連体形」の係り結びの約束はついに消滅してしまいました。

慣用的な表現「とぞ申しける」

 鎌倉・室町時代で活躍するのは、「ぞ−連体形」「こそ−已然形」という強調表現です。

しかし、人物の発言の引用の後に「とぞ申しける」「とぞ宣ひける」と、「ぞ−連体形」を繰り返し強調すると、強調されないのと同じです。

「ぞ−連体形」は、もはや実質的な強調表現の機能を失い、慣用表現になってしまったのです。

「こそ候へ」と固定化してくる

 「こそ−已然形」の形も、軍記物語に頻出しますが、「こそ候へ」という一種の慣用句的な言い回しになってしまっている場合も少なくありません。

「こそ−已然形」は、江戸時代前半までは何とか持ちこたえました。

終止形が連体形と同じ形に

 平安時代までは、連体形で文を止める場合は、係助詞「ぞ、なむ、や、か」がある時と、余韻を出したい時でした。

しかし、連体形止めを頻用しすぎると、その効果が薄れ、終止形で終わったのと同じになってしまいます。

 鎌倉・室町時代に入ると、連体形がますます終止形の代わりに用いられるようになります。

こうして、終止形はついに連体形に吸収合併され、連体形と同じ形になってしまいました。

文の構造を明示する

 係助詞は、「花無し」のような文には、「花ぞ無き」のように入り込めますが、「花が無し」のように助詞「が」があると、入り込みにくくなります。

鎌倉時代にはいると、主語を示す「が」が発達してきたため、係助詞が入りにくくなってしまいました。

 係り結びが消滅したということは、日本語が緩く開いていた構造から、しっかりと格助詞で論理関係を明示していく構造に変わったということです。

情緒的な文から、論理的な文へ変化していることを示しています。

論理関係を明示する

 もう一つ、接続詞「しかけども」「されば」を入れて、文と文の関係を明示しようとする現象もあります。

情緒的な文章よりも、論理的な文章が目指されています。

現代に痕跡はあるか

 「こそ」は、結びの已然形こそありませんが、とりたてて強調する取立ての助詞として使われています。

他の係り結びの痕跡は、すべて日常会話からは失われています。

むろん、昔の言葉や文法にのっとって書いた古めかしい文章や歌には、残っています。身近な例は「蛍の光」や「あおげば尊し」の歌です。

仰げば尊とし わが師の恩。教えの庭にも はや幾年。思えばいと疾し この年月。今こそ別れ いざさらば。

 「今こそ別れめ」の「め」は、意志を表す助動詞「む」の已然形で、「今こそ別れよう」の意味です。

ほたるの光、窓の雪。書(ふみ)よむ月日、重ねつつ、いつしか年も、すぎの戸を、あけてけさは、別れゆく

 「あけてぞけさは、別れゆく」の「ゆく」は連体形で、「夜が明けた今朝は、別れてゆきます」という意味です。

 

 武士たちが台頭し、平安貴族の愛した情緒的な表現は切り捨てられていきました。

それが、「係り結び」の消滅という現象に象徴的に現れていたのです。

かわりに、文の構造や文と文のつながり方を明示し、日本語に論理性を付与しました。

「係り結び」の崩壊は、日本人の考え方の変化を教えてくれる重要な徴証だったのです。

 

近代語のいぶき 江戸時代

 江戸時代は、近代語の始まりです。我々現代人が共通語で使う発音や語彙に相当近くなっています。

文化の中心が京都から江戸に移り、江戸語が中心になっていったことと関係があります。

それは、文化の担い手が町人階級に移ったことも原因です。政治や経済の中心が移行すると、中心になる言葉も移動します。

 

言文一致をもとめる 明治時代以後

公用文を漢字カナ交じり文で書く

 江戸時代まで、公用文や正式の文章は、漢文か漢式和文かで書かれました。

明治政府は、そうした伝統に対して、新政府の基本方針を示す「五箇条の御誓文」を漢字カナ交じり文で表しました。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

一 上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フベシ

一 官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦ザラシメンコトヲ要ス

一 旧来の陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

 明治初期の啓蒙家たちは、新政府によってお墨付きを得た漢字カナ交じり文を使って、盛んに文章を書きました。

そんななか、福沢諭吉は、読みやすく頭に入りやすい文章を書くことにつとめていました。

おなじみの「学問のすすめ」の冒頭部分を味わってください。

 天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ。

サレバ天ヨリ人ヲ生ズルニハ、万人ハ万人皆同ジ位ニシテ、生レナガラ貴賎上下ノ差別ナク、

万物ノ霊タル身ト心トノ働ヲ以テ天地ノ間ニアルヨロヅノ物ヲ資リ、以ッテ衣食住ノ用ヲ達シ、

自由自在、互ニ人ノ妨ヲナサズシテ各安楽ニコノ世ヲ渡ラシメ給フノ趣意ナリ。・・・

 

言文一致の試みと挫折

 明治初期に、言文一致の文章の試みが、さまざまなところで行われましたが、次々に挫折してしまいました。

二つの理由が考えられます。

第一に、人々の意識が、江戸時代の身分制度から抜け出せずにいたことです。

漢文を直訳したような文章は、一般庶民には理解しにくいのですが、その状態こそ、支配層には都合がいいのです。

 第二に、言文一致体がうまくいかないことです。

日本語では、話すように書く場合、人間関係のあり方が表現にかかわってきてしまうので、西欧語の場合よりもややこしくなるのです。

とりわけ、文末をどういう言葉にするかによって、文中後まで制約されてくるので、言文一致は日本語では実はかなり難しい問題だったのです。

 

円朝の語り口が言文一致対の手本に

 二葉亭四迷は、坪内逍遥に相談したところ、「円朝の落語の通りに書いてみたらどうか」とすすめられました。

そして出来たのが、明治20年の「浮雲」です。

山田美妙も、円朝の影響を受けて、明治20年に読売新聞に「武蔵野」を連載し、脚光を浴びました。

 

言文一致体は再び暗礁に

 ところが、こうした言文一致体の動きに対抗するように幸田露伴が西鶴流の雅俗折衷体を用いた小説「風流仏」を明治22年に刊行しました。

さらに翌年には、森鴎外が「舞姫」を典雅な雅文体で書き、華々しく登場しました。

こうした華麗な美文の前では、話し言葉で写そうとする言文一致体が色あせて見えるのです。

二葉亭四迷は筆を折り、美妙は飽きられ、言文一致体は再び暗礁に乗り上げました。

 

尾崎紅葉の「である」体

 そこに、尾崎紅葉が救世主のように現れました。

文語体の地の文はどうしても会話文と融和しないので、両者を調和させるために「である調」の言文一致体を使用したのです。

 「である」は、江戸時代の学者が講釈などで使った公的な感じのする文末表現です。

明治時代になると、ヨーロッパの書物の翻訳にも用いられました。日常の会話にはあまり用いません。

 それまで地の文で説明に用いられる文末は、「でございます」「であります」「です」「だ」でした。

これらは、いずれも読み手に直接働きかけて直接働きかけてしまう文末なのです。

地の文で客観的に説明したい時には、向かない表現形式なのです。

 それに対し、「である」は、客観的に説明するのに向いています。

地の文で「彼はあの人が好き」という状況を説明しなければならないとき、「彼はあの人が好きです」「彼はあの人が好きだ」と地の文に書いたとすると、読者は直接書き手の判断を聞かされた感じになってしまいます。

ところが、「彼はあの人が好きである」とすると。客観性のある説明文になるのです。

 言文一致体の一番の悩みは、地の文の記述に客観性が確保できない点だったのです。

日本語のように、つねに相手を意識して話す話し言葉を書き言葉に援用する時のネックでした。

それが、「である」体の出現によって、打破できたのです。

 

 話し言葉から隔たった書き言葉には肉声が込めにくいのです。

話し言葉がそのまま文章になるわけではありませんが、少なくとも書き言葉に使用される語彙や文法が、話し言葉と一致していればいるほど、書くことが容易になります。

 話し言葉と書き言葉の一致の必要性に気付かせたのは、西洋文明です。

ヨーロッパでは、ルネッサンス以後に、イタリア、イギリス、ドイツ、ロシアなどで次々に言文一致運動が起き、話し言葉と書き言葉を一致させる努力をしてきました。

 日本は、四、五百年遅れで、言文一致運動を体験しました。

途中で二度も暗礁に乗り上げ、それでもなんとか達成させることができました。そのおかげで、我々現代人は、容易に文章を綴ることができるのです。

 

 

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