ツベタナ 心づくしの日本語 (2011) |
2019.10.4
著者のツベタナ・クリステワさんは、1954年、ブルガリアのソフィアに生れ、
1978年にモスクワ大学アジア・アフリカ研究所日本文学科を卒業し、
1980−81年に東京大学文学部国文科研究生となり、2000年に博士号を取得されました。
学位論文のテーマは、「涙の詩学 - 王朝文化の詩的言語」 で、名古屋大学出版会から出版されました。
ツベタナさんは、プロローグで、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴールが、1916年に来日したときの
「日本の精神」という講演から引用します。
日本は一つの完全な形式をもつた文化を生んできたのであり、その美の中に真理を、
真理の中に美を見抜く視覚を発達させてきました(中略)。
日本は正しく明確で、完全な何物かを樹立してきたのであります。
それが何であるかは、あなたがたご自身よりも外国人にとって、もっと容易に知ることができるのであります。
それは紛れもなく、全人類にとって貴重なものなのです。
それは多くの民族の中で日本だけが単なる適応性の力からではなく、
その内面の魂の底から生み出してきたものなのです。
そして、ツベタナさんは、
タゴールは、「日本は、森の葉ずれの囁きや溜め息、あるいは波のすすり泣きを、心の中に取り入れてきました」と指摘し、
日本人の自然観を美意識に結び付けて、日本の伝統的な文化の「力」、日本民族の「天才」として評価した。
と、まとめますが、戦後、日本の古典文学の評価が大きく変化したことを受けて、こう続けます。
現代の日本社会で日本古典文学の人気が衰えてきた理由は、
その文学が現代人にとって不用になったからだというよりも、
現代人がその文学を自分の生き方と結びつけることができなくなったからではないか。
現代人には、いま古典文学を読む意味、その現代的な意味が見えなくなったのではなかろうか。
本書は、現代の視点から日本古典文学を見直し、その失われた意味を再発見する試みである。
キーワードは、「心」「日本語」「和歌」。
特に着目するのは、古代中国の哲学に根を持つ「あいまいさ」の思想である。
これらのキーワードについて、本書の新書カバーに、以下の説明があります。
「心」「日本語(言の葉)」「和歌」。これら三つは密接につながっている。
日本語が発展したのは、和歌のおかげである。
日本人の世界認識の根源には「歌をよむ」という営為があるからだ。
「心」は日本の伝統文化のエッセンスであり、この叡知を定着させたのは和歌である。
しかし、近代以降、西洋文明の獲得と引き換えに、日本語が培った叡知を私たちは失いつつある。
その喪失を偲ぶとき、王朝文化における和歌の卓越が明らかになるだろう。
本書は、近代文明を相対化する視点をはぐくむものとして、古代文学を捉えなおす試みである。
さて、ツベタナさんが特に着目している、「あいまいさ」の思想は、
古代びとの世界観そのものの特徴であり、美意識や自然観と密接につながっているのですが、
海外だけでなく、日本の中においても、ほとんど誰の関心もひいていません。
その、「あいまいさ」の思想とは、何のことかについての考察は、後回しにして、
本書の 第六章 日本語の限界と無限の表現力 で、ツベタナさんは、
日本語に、同音異議語が多いことを指摘します。
言語における音の単位を音節といいますが、英語には約3500の音節があるのに対し、
日本語には、140 しかないことから、同音異議語が多くなり、意味があいまいになりがちなのを、
和歌は、掛詞として利用し、日本語の表現力を拡大させて、大きな美点に変えたのです。
万葉集、大伴坂上郎女(おほとものいらつめ)、巻四 527
万葉仮名 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
来むといふも 来ぬことあるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを
直訳 来ようといっても来ないことがあるのに 来るまいというのを 来るだろうとは待ちません 来るまいといっている人を
意訳 「行くよ」といっても来ないことがあるのに、「行くまい」といったことを、まさか「来るだろう」と思い、待つことはしないだろう、だって、「行くまい」と言ったんだもの
万葉集 巻六 1041
万葉仮名 吾屋戸乃 君松樹尓 零雪乃 行者不去 待西将待
我が宿の 君松の木に 降る雪の 行きには行かじ 待ちにし待たむ
直訳 私の宿の君を待つ松の木に 降る雪のように ゆきに行くことはするまい 待ちに待ちましょう
万葉集 天武天皇 巻一 27
万葉仮名 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来見
よき人の よしをよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見
直訳 (昔の)善い人が善いところをよく見て善しと言ったこの吉野を、よく見なさい (今の)善い人は、よく見なさい
また、第八章 助詞・助動詞のマジック・ミラー で、掛詞以外にも、文法がもたらすあいまいさを指摘します。
源氏物語の紅葉賀の巻で、藤壺が男の子を出産しますが、光源氏にそっくりです。
桐壺帝は、「そなたの小さい頃と、ほんとうによく似ている。小さい頃は、皆、こんな感じなのだろうか」とおっしゃいます。
藤壺は、どうしようもなくいたたまれなくなり、汗を流します。
藤壺の汗に気づいた光源氏は、あわてて退出し、左大臣家への帰宅途中に、撫子の花を見つけ、
一本手折って、歌と手紙ともに、藤壺のもとへ届けます。
「よそへつつ見るに心は慰まで 露けさまさる撫子の花
直訳 撫子の花を(若宮に)なぞらえながら見ているが心は慰められず涙の露が増すばかりです
花に咲かなむ、と思ひたまへしも、かひなき世にはべりにければ」
直訳 はやく咲いてほしいとお思いになっても、何のかいもない私達の仲でありますから」
藤壺は、薄い墨で返しの手紙を書きます。
袖濡るる露のゆかりと思ふにも なほ疎まれぬ大和撫子
直訳 大和撫子は、(あなたの)袖を濡らした露のゆかりと思っても、やはり疎まれてしまいます
疎まれぬ は、疎まる+完了の助動詞「ぬ」 の終止形 と解釈されていますが、
疎まる+否定の助動詞「ず」の連体形 とも解釈できます。
直訳 (あなたの)袖を濡らした露のゆかりと思ってもなお、疎ましくは思えない大和撫子です
湖月抄では完了の意としていて、国文学者は、この説をとり、瀬戸内寂聴、橋本治も「疎ましく思う」と解釈していますが、
谷崎潤一郎は、「疎ましく思わない」と解釈しています。
ツベタナさんは、最初読んだときは、「疎ましく思わない」と解釈したけれども、
注釈書を見ると「疎ましく思う」となっていて、驚いたと書いておられますが、
今では、これは、両方の意味を掛けているのではないかと考えておられます。
もし紫式部が、どちらか一つの意味に絞りたければ、あいまいさを避ける方法をとったはずだというのです。
「疎ましく思う」の意味であれば、「疎まるる」、「疎ましく思わない」のであれば、「疎まれず」のように。
ツベタナさんは、「疎ましく思う」という解釈を知った時に、違和感ではなく、感謝を覚えたと語ります。
間違いなく、二つの読み方がある。ならば、二つとも正しいということになると思われたのです。
ところで、鎌倉初期の歌人、藤原の俊成の女に、以下の、本歌取りの歌があります。
咲けば散る 花の憂き世と 思ふにも なほうとまれぬ 山桜かな
直訳 咲いたら散るという憂い世の中とは思うけれど、やはり疎ましくは思えない山桜ですこと
この歌を、疎ましく思う と解釈すると、桜を愛する日本人ではなくなります。
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