哲学カフェ |
2016.5.25
筑波大学の公開講座の「哲学カフェ」を受講してきました。
無料の1回コースですが、筑波大学長の角印を押した修了証書を有り難くいただくことができます。
参加人数が多かったので、前半は6つのチームに分かれ、「この1週間で一番うれしかったことはなにか」
というようなテーマで議論しあい、時々他のチームに特派員を派遣したり、受け入れたりして、
他のチームでの議論も参考にしながら、チーム内での話し合いを進めました。
哲学カフェは、ただ聞くだけでなく、話者を順番に交代して、自分も話すことが必要です。
読書会、ブックトークでも、自分が読んだ本について話すことが必要ですが、
哲学カフェは、自らについて話すことが、哲学なんですね。
後半は、全体トークとなりました。議論のテーマは、「限界状況」でした。
限界状況に陥ってしまっときに、どのようにすればいいかについて語り合うわけですが、
解決のために自殺という手段をとる人もいる深刻な問題ですので、テーマとしては非常に重たいものです。
この日も、それなりに重たい内容が討論されましたので、以下の話は、この日何が議論されたかではなく、
より一般的な話として語ります。
私は、世の中に、あまり真剣に考えてはいけない問題があると常々思っています。
例えば、使用頻度が低く、互いによく似ているひらがなの 「れ」「ね」、とか「ぬ」「め」などの字を
じっとながめ続けていると、どうしてこの字が「ね」なんだと、わけのわからぬ気分になり、
頭がくらくらすることがあります。本当にへんな気分になりますので、あまりおすすめしません。
存在とはなにか、死とはなにかなどということを、下手に考えると、自分自身の存在のわけがわからなくなりますので、
その意味では、哲学というのは、けっこう危険な学問ですが、自分は何のために生きているのかとか、家族とはなにか、
平凡に生きるとはどういうことか、というようなことを、あらためて考えることは、大切なことだとも思います。
限界状態は、突然訪れることがあります。親が、認知症になってしまい、子供と認識してくれないまま、
介護しなければならなくなったとしたら、重苦しい日々が続くことになるでしょう。
いじめに合って、耐えることができず、死んで相手をこまらせてやるというような考えにとらわれてしまう
というような限界状態に陥ったとき、それを抜け出すのはかなりの困難を伴うと思います。
クラスで話し合って、いじめを撲滅することも可能だと思いますが、そういう無菌状態で育った人が、
別の環境に移って、そこでいじめを受けたときに、どうなってしまうかは、わかりません。
いじめに対しては、みずから耐性を鍛えることが大切だと思いますが、
耐えられずに、自殺を考える人の場合は、まわりの人がどこかで気づいてあげなければなりません。
しかし、ひきこもって何年も、何十年も経つという人のような場合、他人の介入を受け付けないこともあります。
このように考えていくと、限界状態への対策というのは、哲学の問題というよりは、教育学の問題のような気がします。
筑波大学では、単発の公開講座だけでなく、定期的な哲学カフェを開催していますので、またいつか参加したいと思っています。
また、全国的にも、哲学カフェとか、カフェ・フィロ という名前で、会合が開かれています。
http://www.cafephilo.jp/ のようなサイトも、あります。
たまには、このテーマにもどって、記事を書きたいと思っています。
ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/
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