立松和平 道元禅師 (2007)

2018.11.15

 道元の正法眼蔵を、ゆっくり読み始めていますが、副読本として、立松さんのこの本も、読んでいます。

上下2冊の分厚い本なので、読み飛ばしつつ読んでいますが、読み飛ばして読むと、細かい内容が、頭に入りません。

私の備忘録として、そして、この大部な本を、これから読もうとする人の道案内になるように、

大切と思われる個所について、解説を加えていきたいと思います。

 

 立松さんは、永平寺の機関紙の傘松の前編集長の熊谷忠興老師からの依頼で、道元禅師の全生涯の小説に取り組みました。

傘松の1998年9月号から2006年12月号まで、「月−小説道元禅師」というタイトルでの100回連載し

最終の第28章 最後の旅 を書き下ろして、2007年に東京書籍から出版の運びとなったわけです。

「あとがき」によると、毎月20枚の原稿は、多少の経験を積んできた小説家とすれば、それほど苦しいというわけではないが、

はじめの頃は、一字一行が未知の世界で、苦しいことこの上なかったそうで、

これは私の修行なのだから、苦しいのは当たり前ではないか。むしろ苦しいほうが修行にはよい。

と気づいてからは、どれほど救われたかしれないそうです。

 

 私は、 このような無駄に長い作品は、あまり好きではなく、道元について勉強したいので、我慢して読んでいるのですが、

多くの読者は、一度読んでそれきりだと思われ、そういう読み方のときには、知識を埋め込みすぎるのは、無駄だと思います。

 

 巻頭の本書人物関係図に、

道元の父は、源(久我)通親(みちちか)の子の、源(久我)通具(みちとも)

母は、関白 藤原(松殿)基房(もとふさ)の子、伊子(いし)、としてあるのですが、

立松さんは、あとがきで、

母は摂政関白家の松殿藤原基房の女(むすめ)伊子とされ、多少の異論はあるものの可能性は高い。

しかし、父に至っては、久我源氏の源通親、もしくはその子の通具とされ、双方には強力な論拠がある。

どちらか一方に決めてもらえば、物語作者としてはそのとおりに話の道筋を運んでいけばいいのであるが、どちらともいえないということなのだ。

父と子とどちらかで書いたとして、人間関係の綾が最後までもつれずにつながらないと困る。

と語り、ボタンの掛け違いでなければいいなと恐れながらの書き出しだったそうです。

 ウィキペディアでは、一時定説化していた、父は、通親、母は、伊子、であるという説の根拠とされていた資料に疑義があり、

上記説では、養父とされていた、源通親の子である大納言 通具を実父とする説も有力になった。と解説しています。

 

 第1章は、清盛入道 です。冒頭から、

かの釈尊が入滅する時と自らおさとりになり、二本ならんだ沙羅樹の間に頭を北に床をとってくれるよう愛弟子の阿難にお命じになった時のことでございます。

という口調で語り始めるのは、基房の従臣として、内室の忠子(ちゅうし) (道元の母)に仕えている右門という人です。

 右門が、語り終えたあと、

京の都にはつむじ風が吹き荒れ、家屋敷が数えきれないほど倒壊した。

と書くのは、著者です。 右門と、著者が、異なる語り口で、代わりばんこに登場して、物語が進展します。

 1179年に、関白の基房は、清盛のクーデターで、大宰府に左遷されますが、出家したため、備前国岡山へのは配流に減免されます。

その地で、基房は、豪族の娘の桜姫の才気と美貌を称賛し、養女とします。

 基房は、1180年には罪をゆるされて京都に戻りますが、一方、栄華を誇った清盛入道は、1181年に亡くなります。

 

 第2章は、木曽冠者義仲です。清盛の死後、平家は衰退し、1183年に木曽義仲の攻勢を受け、都落ちします。

義仲は、都で最も美しい女人を娶ることを所望し、桜姫を妻とします。

しかし、義仲は、1184年に、義経らにあっさりと討たれてしまいます。

 

 第3章は、伊子さま です。伊子は、桜姫を養女にした後に生れた娘で、伊子よりも、8歳年下です。

義仲が討たれたあと、基房は、政界から引退するのですが、藤原の姫を妻に迎えたいと願っている久我(こが)家と思惑が合い、

源(久我)通具は、伊子を妻とします。

 ウィキペディアの藤原伊子の項では、

義仲の正室となったのは、伊子で、後に通親の側室となり、道元を生んだとされる としています。

 

 第4章は、重瞳の子 です。通具と伊子の間に生れた道元は、瞳が二重になっている重瞳の子でした。

重瞳の子は、将来、英雄豪傑になるか大聖人になるかと言われています。

 

 第5章は、花山院(かさないん) です。伊子は、京都洛陽(左京)にある東洞院の松殿花山院で暮らし、

そこに夫の通具が通うという形態でしたので、道元は、花山で育ちました。

 

 第6章は、別離 です。花山院に、通具が通ってくる回数が減ったので、伊子は、宇治木幡の山荘に移り住みます。

そこには、伊子の母の忠子(ちゅうし)や、桜姫も住んでいて、病弱な伊子の加減がわるいときには、忠子や桜姫が代って道元に学問を教えます。

そんななか、伊子は、病にたおれ、亡くなってしまいます。

 

 第7章は、出立の日 です。母亡きあとも、道元は、宇治木幡の山荘で、勉学に励みます。

母方の松殿藤原基房は、道元を、松殿家の継嗣にしたいと望み、道元を養子に迎えたいと父の通具に申し入れし、了解を得ます。

道元が12歳となり、13歳の元服の時が近づきます。

元服のときには、内約の妻をもうけるしきたりがあり、4歳の邦子王女の名前があがります。

しかし、元服の4日前に、道元は、叔父である 大原の円融院良顕法眼承円のもとに行き、出家を願い出て、認められます。

 

 第8章は、叡山です。大原の円融院は、比叡山延暦寺の大原の荘園を管理する政所(まんどころ)です。

承円は、道元を比叡山に移らせることにし、内弟子の尊快が大原から横川までの山道を比叡山に案内します。

比叡山は天台宗の総本山で、その貫主の天台座主は、慈円でしたが、年明けに、公円が後任となります。

その公円の後任に、承円が大原の円融院から、横川の政所に移ってきて、天台座主となり、尊快も移ってきます。

 

 第9章は、公胤と栄西 です。 道元は、比叡山で修業を続けます。ある時、兄弟子の尊快が、道元に教えます。

「天台の大義はと申しますと、教観の二門です。教は教門、すなわち学問で、観は観門、すなわち実践です。

唐の国の華北では観門が盛んで、江南では学問仏教が専らでした。これを両方立てようとしたのが天台法門です。

どんなに学問をたところで、自分は救われず、まして人を救うことはできません。」 p.187-8..

 修行を進めている道元は、次のような疑問をもちます。

「生きとし生けるものの中でも人間は、生まれながらこの上ないさとりの境地に達して理想的な生き方ができる素質があるとされていますね。

苦に満ちた輪廻転生の中で、人間として生まれた時にしか、輪廻の中から解脱する機会はないのです。

もともと完成された人格体をもって、この世に生れてきたのでしょう。

もしそうであるのなら、なぜ人格完成をするため修行して血の滲む努力をしなければならないのですか。

すでに完成されているにもかかわらず、なぜ諸仏はさらに志を立て、この上ないさとりの智慧、阿耨多羅三藐三菩提を求めて修業したのですか。

法門の大綱、本来本法性、天然自性身に、私は大いに疑滞を持ってしまったのです。」

説明 阿耨多羅三藐三菩提は、サンスクリットanuttara-samyak-sambodhiの音写。無上正等覚(しょうとうかく)と訳す。

   仏の悟りの智慧(ちえ)のことで,この上なくすぐれ,平等円満である意。

説明 本来本法性、天然自性身 は、人間は生まれながらに仏性を有しているので、その身のままで仏となれる の意。

 師の承円は、このような疑問に答えられるのは、園城寺公胤僧正しかいないと考え、道元を琵琶湖のほとりの園城寺に行かせます。

 道元は、公胤に一心に質問し、公胤も、丁寧に答えてくれるのですが、道元が、なかなか得心できないのを見て、公胤は、

「どうも得心できないようじゃな。そなたの疑滞に明解な解答を与えられるのは、栄西どのかもしれん。

栄西どのは鎌倉にいかれるところじゃろうが、この数日は東山の建仁寺におられるはずじゃ。

使いを立てて、もしおられたのなら、わしも一緒にまいろいかのう」 と答えます。 p.203.

 栄西が、都に最初の禅寺を建てるに際しては、延暦寺や東寺の強い抵抗があったため、鎌倉将軍頼家の強い庇護のもと、

真言の密教と止観の顕教との両院を構えた三教兼学の道場という建前で、建仁寺を建てる事ができたのです。

 栄西と対面した道元は、同じ質問を尋ねました。

「人間は生まれながらに完成された人格体とされていますが、そうならば人格完成のために努力する必要はないということではありませんか。

それなのに三世諸仏は何故さらに志を立ててこの上内悟りの智慧、阿耨多羅三藐三菩提を求めて修業したのですか」

 これに対し、栄西は、からからと高らかに笑い、答えました。

「あんた、口で三世諸仏などと簡単にいうが、わしはそんなことは知らねえよ。

山の中に狸や狐がうようよしていることは知っておるが」

 道元の若い疑滞はせいぜい頭で考えた類のもので、山の中を狸や狐がうろつきまわるような迷いに過ぎないと、栄西は一言で喝破したのです。

 

 第10章は、建仁寺 です。道元は、比叡山で修行を続けますが、栄西が鎌倉寿福寺で亡くなり、公胤も亡くなります。

師の承円は、比叡山を出て、まず建仁寺に行き、それから入宋することを勧めます。

 道元は、建仁寺に移って、修行を始めます。建仁寺は、栄西が亡くなったあと、明全が継いでいました。

 明全も、入宋することを決意します。

 

 第11章は、入宋 です。 明全は、周到な渡航準備を行い、宋に向けて出航し、無事、宋に到着し、天童寺に入ります。

道元は、手続き上の問題があり、三か月間、船に留まった後、天童寺に入ります。

 

 第12章は、天童寺 です。 道元は、天童寺で、修業に励みますが、天童寺の無際了派和尚を正師と仰ぐことができません。

その無際和尚が亡くなり、天童寺が喪に服しているときに、道元は決意します。

 

 第13章は、正師 です。

 道元は、同じく天童寺で修行している明全に、正師を求める諸山巡錫(じゅんしゃく)の決意を伝えます。

道元は、六ヶ月の旅の許可を得て、諸寺を巡りますが、目指すものが得られないままに、期限が近づいてきます。

 天童寺の住持に、如浄が就任したことを聞き、天童寺に戻ると、明全が、病気になったことを知ります。

 

 第14章は、如浄和尚 です。如浄が来て、天童寺の雰囲気は全く変わっていました。

寺の中では、僧たちの無駄なおしゃべりがほとんどなくなり、皆すすんで僧堂で座禅をしていました。

道元は、天童寺に来て初めて、心が平安になってくるのを感じました。

如浄和尚の法話を聞けば聞くほど、道元は尊敬の念が高まってくるのを禁じえず、ここに正師がいるのだという思いになりました。

 病に倒れていた明全が、とうとう亡くなりました。42歳でした。

 如浄が、「仏祖は、いつも、衆生と同じ欲界にあって座禅修行をされたのですよ。

くり返しくり返しこの世で座禅をし、さまざまな功徳を修め、心は柔軟になるのです」と説いたとき、

道元が、「柔軟な心は、どのようにしたら得ることができるのでしょうか」 と問うたところ、

如浄は、「仏祖はそれぞれに、身心脱落を納得するまで修行され、これこそが柔軟の心です。

これこそが、仏祖の心のありさまなのですよ」 と、答えました。

 道元がいつものように座禅修行していたとき、坐睡する修行僧を叱責する如浄和尚の声が響き渡りました。

参禅はすべからく身心脱落である。ただひたすらに眠っておいて、どうして座禅によるさとりが得られるか

 この大喝を聞いたとき、道元は、すべてのとらわれを離れ、身心が自由自在の境地に至っていることを知り、

如浄に、「身心脱落をいたしました」と報告しました。

 その後も修行を続ける道元に、如浄は、早く国に帰り、正法を広く伝えるように勧めます。

 

 第15章は、日本へ です。 道元は、いよいよ、日本に戻ることになります。

 修行僧のひとりの寂円が、道元について日本に渡りたいと希望します。

 日本での布教に寂円の力が必要と思う道元は、寂円に、病床の如浄に随侍して、師が亡くなって後に渡航するように頼みます。

 帰国の船は、慶元府の岸壁を出帆し、大海原を進みます。

 

 第16章は、大宰府 です。 船は、無事、天草に到着します。徒歩で大宰府に向かうと、天満宮の天野光景が出迎えます。

道元は、光景の依頼で、滞在中に禅の入門書 『普勧坐禅儀』 を執筆します。

道元は、大宰府を発ち、京に向かいます。

 

 第17章は、孤雲懐弉(えじょう) です。 道元は、無事に建仁寺に戻り、明全の遺骨を届けます。

 道元の『普勧坐禅儀』 を読んだ日本達磨宗の孤雲懐弉が、建仁寺に訪ねてきます。

 懐弉は、道元を論破するために来たのですが、逆に論破され、弟子入りを願います。

 道元は、近い将来に修行道場を作るつもりでいるので、それまでお待ちくださいと答えます。

 

 第18章は、深草安養院 です。 建仁寺の道元を、しばしば斎藤基尚(もとひさ)と名乗る武士が訪ねてきます。

基尚は、安嘉門院(あんかもんいん)領を管理するいわば財務官で、安嘉院門邦子さまの意を受けてきたのです。

説明 邦子は、高倉天皇の第二皇子 守貞親王の子。

     守貞親王は、子が後堀川天皇に即位して、異例の太上天皇号を得て、法王として院政を敷く。

     薨去後、後高倉院の院号が贈られる。

   邦子は、弟が後堀川天皇に即位したため、内親王の地位を宣下される。院号は、安嘉門院

   安嘉門院領は、邦子内親王が、父の後高倉院の厖大な荘園群を引き継いだ領地。

安嘉院門邦子さまは、道元が自分の修行道場を建てる援助をしようとしていて、全国に多数ある安嘉門院領の中で

地頭などがおらず、比叡山などの権力が入ることはできない直轄領、12か所の中から選んではとの思召しです。

道元と、基尚は、全国12か所の歴観の旅に出立することになりました。

 その間、右門は、宇治を訪れ、忠子と桜姫に帰国の報告をします。

 道元は、歴観の旅の末に、深草の竹林山安養院を、修行道場の場所とします。

 都から近いので、邦子内親王も、安養院を訪れます。

 六波羅探題の波多野義重が、個人として教えを乞いに訪れます。

 

 第19章は、 安嘉門院邦子内親王 です。

 宋で別れた寂円が、天童寺に禅宗の建築を学ぶために来ていた大工たちの帰国に伴って渡航し、安養院を訪れます。

 安嘉門院邦子内親王が、再び、少人数のおしのびで、安養院を訪れます。

内親王の申し出で、深草に本格的な禅道場を作ることになります。

 日本達磨宗の孤雲懐弉が、安養院に訪ねてきて、弟子入りします。

 新しく建てる寺の名前が、観音導利院興聖宝林寺と決まります。

 道元は、『現成公案』を執筆します。

 

 第20章は、 興聖寺 です。

 

 第21章は、 弁道生活 です。

 

 第22章は、 正法眼蔵 です。

 

 第23章は、 日本達磨宗 です。

 

 第24章は、 あらたなる出立 です。

 

 第25章は、 越前志比庄 です。

 

 第26章は、 永平寺 です。

 

 第27章は、 鎌倉へ です。

 

 第28章は、 最後の旅 です。

 

 

    

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


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