五木寛之 歎異抄の謎 (2009) |
2016.3.14
図書館で、五木寛之さんの「私訳 歎異抄」(東京書籍、2007)を見つけて読みましたが、私訳があるだけで、
五木さんの言葉による解説は、ありませんでした。
2009年に出版された、この新書本には、私訳とともに、五木さんの解説がついているので、購入して読みました。
解説部分のタイトルは、「謎に満ちた歎異抄」で、その最初の章のタイトルは、「ドストエフスキーと親鸞」です。
いよいよ本格的な「鬱の時代」がやってきました。
こんどの鬱の深さ、濃さは、これまでとはちがいます。底なしの、暗く長い闇の時間が幕をあけたのです。
と、始まります。
五木さんは、ほかにも沢山の本で、鬱の時代を語っておられます。
ヒューマニズムという人間中心主義の思想が、根底からくつがえろうとしている。ルネッサンス以来の魂の大恐慌なのです。
欝は英語でdepressionですが、この言葉は経済では、深刻な不景気、恐慌を意味します。
1929年の大恐慌The Great Depression)は、世界を巻き込みました。鬱も健康な人を巻き込んで、巨大化するのでしょうか。
五木さんは、ドストエフスキーは、社会と人間の深い闇を凝視した最初の小説家で、
「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」「白痴」などの作品で、魂のよりどころを持たない人間の魂の恐慌をたじろぐことなく描き出し、
神なき人間の心の闇の暗い海へ、果敢にのり出した魂の冒険者だと紹介します。
そして、1173年に生まれた親鸞も、心の闇を徹底的に見つめた宗教者だと紹介します。
「親鸞は人が心にいだく闇をしっかりとみつめました。
自分の心のなかに、罪ある者としての自覚を見出したのです。
そして、その上で、その深い闇をきらりと照らしだす光を求めます。」
戦争を体験した五木さんは、心の中に深い闇をかかえて生きてきました。
「植民地であった朝鮮のピョンヤンで敗戦を迎えたのは、13歳の夏でした。
その日から始まる日々は、私が思い出したくない記憶として封印されていました。
そんな暮らしの中で、心やさしい人びとは次々と倒れ死んでいきました。
他人をおしのけてでも前へ出る。そんな強いエゴをもった人間が生き残って帰国できたのです。
少年時代の記憶は、悪を抱いて生きていた記憶でした。自分は生きのびた。
他人を押しのけてトラックにのり、人の食べものをうばって生きて帰ってきた。
そんな心の闇を胸にいだいてすごす少年期は地獄です。
(中略)
そんななかで、偶然に出会った言葉、それが「歎異抄」を通じての親鸞の言葉だったのです。」
と語られます。
そして、続きます。
「心の奥に深い闇をかかえて生きている。それが現在の私たちの本当の姿です。
(中略)
その心の闇を、照らしてくれる光が必要なのです。
自分の立っている場所を、人々の姿を、そして行くべき道を、はっきりと照らしてくれる光。
それを親鸞は仏といいました。仏は、なによりもまず光なのです。」
しかし、歎異抄は簡単な本ではありません。歎異抄を何回も暗記するほど読み、現代語に翻訳した
五木さんですら、読めば読むほど迷路にまぎれこんだような気持ちになったり、
つぎつぎに新しい疑問がわきあがってきたりするそうです。
最後に、こう締めくくられます。
「『歎異抄』は、さまざまな深い謎をはらんだ稀有の書物です。
読めば読むほど、考えれば考えるほどわからなくなってくるところがある。
しかし、それでもなお読まずにはいられない何かがある。深まる謎を前に、ただ、呆然と
立ちすくむ自分を、なんという頼りない存在かと自嘲するしかありません。
でも、また『歎異抄』を手にすることになるのは、なぜだかわかりません。
どうぞ自分自身でこの『歎異抄』を手にとって、確かめてみられることをおすすめします。
ひょっとして、その出会いが一生左右の書を発見する機会になるかもしれないのですから。」
善行を積み重ねて精進することは、宗教的な生活の基本だと思いますが、悪人は地獄へ行け、
自分だけが助かればいい、と思っているとしたらら、それは間違いでしょう。
また、一度、悪事を犯してしまった人が、もう自分に救いはないとあきらめざるを得ないとしたら、
それも間違いだと思います。
念仏を唱えることにより救われるというのが、法然や親鸞の教えですが、じゃあ、最後に死ぬまえに、
念仏をすればいいと、解釈できるとしたらとんでもないことになります。
歎異抄のなかにも、
念仏によって罪を消滅できると期待することは、、自力の行為であって、念仏とはそういうものではない。
あくまで、仏の大きな慈悲の心により、極楽浄土に往生できるのだという他力の本願にたちかえって、
仏の恩に感謝する念仏なのです。と説かれています。
歎異抄の最初を、五木さんの私訳で引用します。
「あるとき、親鸞さまは、こう言われた。
すべての人びとをひとりのこらずその苦しみから救おうというのが、
阿弥陀仏という仏の特別の願いであり、誓いである。
その大きな願いに身をゆだねるとき、人はおのずと明日のいのちを信じ、
念仏せずにはいられない心持になってくる。
そして、ナムアミダブツと口にするその瞬間、わたしたちはすでにまちがいなく救われている自分に気づくのだ。」
これが大乗仏教なのだと思います。
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