歎異抄 原文と現代語訳の対比 

2016.2.5 更新2016.9.8

 歎異抄は、親鸞に師事した唯円が、親鸞没後に、浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆き、親鸞から直接聞いた話を、短くとりまとめて、親鸞の教えを説いたものです。

 原文からなるべく離れないように現代語への直訳を試み、対比しました。

 参考にしたのは、弥生書房歎異抄講座と、講談社学術文庫梅原猛全訳注 歎異抄 などですが、最近、

Es Discoveryさんのサイト仏教の思想・歴史の頁 http://esdiscovery.jp/vision/es003/buddhism.html に歎異抄の現代語訳があり、

しっかり翻訳されているので、参照しています。

 2016.9.4、第十八条まで、2016.9.8に後序の翻訳を一応終えましたので、これから、全体の調整にとりかかります。

 

序言

 窃(ひそか)に愚案を廻らして粗(ほぼ)古今(ここん)を勘(かんが)ふるに、
  ひそかに愚案を巡らして、ほぼ昔と今を考えるに

説明 現代語には、巡らす巡らせる、それぞれ活用して、巡らして巡らせて となる、二つの言い方があります。

   ほぼ同じ意味で使われていますので、どちらの訳でも、よさそうです。

   参考 巡らせるは、巡らすの使役のような感じがしますが、巡らすの使役は、巡らさせるとなるようです。

先師(親鸞)の口伝の真信(しんしん)に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、
先師 親鸞 の口伝が真の信心に異なっていることを嘆き、後学の相続に疑惑があることを心配するに

説明 「後学」は、学問の後輩の意味です。「後学のために見ておく」という使い方のときは、将来のためになる知識の意です。

幸ひに有縁(うえん)の知識に依(よ)らずんば、争(いかでか) 易行の一門に入ることを得んや。
幸いに有縁の知識によることがなければ、どうして易行の一門に入ることができましょうや。

説明 「有縁」は、仏・菩薩などに会い教えを聞く縁があること。「易行」は、難行の反対語です。

全く自見の覚語を以って他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ。
全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を思い乱す(崩し混乱させる)ことのないように。

説明 「自見の覚悟」とは、自分勝手な覚悟・所見のこと。

よつて故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むるところ聊(いささか) (これ)を注(しる)す。
よって故親鸞聖人のお話しになった趣旨で、耳の底に留まっているところを少しばかり書き記します。

(ひとへ)に同心行者の不審を散ぜんが為(ため)なりと云々。
これは、ひとえに同心の行者の不審(疑わしいこと)を散じ(解消し)たいがためですと云々。

説明 「云々」は、人の言ったことの中心部分や、話の主題だけ取り上げ、後を省略するときに使います。

第一条

 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
 阿弥陀さまの誓願の不思議に助けられもうしあげて

説明 「阿弥陀の誓願」「阿弥陀の本願」は、大無量寿経で、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに立てた48の誓願のこと。

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
往生をば遂げるのだと信じて、念仏を申しましょうと思い立つ心が起きるとき、

すなわち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。
すぐさま
摂取不捨の御利益にあずけさせ給うのです。

説明 「摂取不捨」は、「観無量寿経」に「(弥陀)の光明遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず」とあるのを受けています。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
阿弥陀さまの本願には、老少・善悪の人をえらばれるのではなく、ただ信心を必要とすることを知りなさい。

そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
その理由は、罪悪が深く重く、煩悩が激しく盛んな衆生を助けようとするがための本願であられるからです。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。
ですから本願を信じようとするには、他の善も必要ありません、念仏にまさる善はないのですから。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。
悪をも恐れてはいけません、阿弥陀さまの本願を妨げるほどの悪はないのですからと云々。

第二条

 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命(しんみやう)をかへりみずして、
 おのおの方の、十余箇国の国境をこえて、身命をかへりみないで、

たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
訪ね来させたまう御こころざしは、ひとえに往生極楽の道を問い聞きたいがためです。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、
しかし、私が念仏よりほかに往生の道を存じていて、また法文等をも知っているだろうと、

こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
うらやましくお思いでいらっしゃっておられますのは、おおきな誤りです。

説明 「こころにくし」は、自分がとても及ばない相手をうらやみ、強く関心を示すようすを表します。

もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座(おは)せられて候ふなれば、
もしそうでしたら、南都や北嶺にもゆゆしい学匠たちが大勢おわしていらっしゃいますので、

説明 「南都」は、奈良、「北嶺」は、比叡山のこと。

かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
これらの人々にもお会いいただいて、往生の要をよくよくお聞きになるべきです。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
親鸞においては、ただ念仏して阿弥陀さまに助けられもうしあげるべきと、

よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
法然さまの仰せを頂いて、信じる以外に別の子細はないのです。

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、
念仏は、まことに浄土に生まれる種にてございましょうか、

また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
または地獄に落ちるべき業にてございましょうか。およそもって存知ませんのです。

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
たとえ法然聖人に騙されもうしあげて、念仏して地獄に落ちてしまっても、全く後悔するつもりはありません。

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、
その理由は、その他の修行を励んで、仏になることができる身が、

念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。
念仏を申して地獄に落ちましてこそ、騙されもうしあげたという後悔もありましょう。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
いずれの修行も及び難い身ですから、どうせ地獄は確実に私の住処なのですよ。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
阿弥陀さまの本願がまことにおありになるなら、釈尊の説教は虚言であるはずがありません。

仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
仏説が真実でおありになるなら、善導大師の御釈が虚言なさるはずがありません。

善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
善導大師の御釈が真実でしたら、法然の仰ることも空言でありましょうや。

法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。
法然の仰せが真実ならば、親鸞が申す旨、またもって空しいはずがないでしょうか。

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
結局のところ、愚かな私の信心におきましては、こんな具合です。

このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
このうえは、念仏を採ってお信じになられようと、またお棄てになろうと、ご面々がお決めになることですと云々。

第三条

 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 善人であってもなお往生をとげる。悪人はなおさらそうです。

説明 「善人なほもて」は、善人であってもなお という意味です。
   「況や〜をや」は、〜は、なおさらそうである ということなので、悪人はなおさらそうです という意味です。

しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
しかるに世の人は常に言います、「悪人はなお往生する、善人はましてなおさらそうです」。

説明 「いかにいはんや」の「いかに」は「いはんや」の強調です。

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
この教条は、一応その理由があるに似ているけれども、本願他力の意趣にそむいています。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
その理由は、自力で作善する人は、ひとえに他力を頼む心が欠けているので、阿弥陀さまの本願ではありません。

しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
しかし、自力の心を翻して、他力をお頼み申し上げれば、真実報土の往生をとげるのです。

説明 「報土」は、極楽浄土のこと。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しやうじ)をはなるることあるべからざるを、
煩悩を具足している私達は、どんな行においても生死を離れることができないのを

説明 「生死」は、生死流転のことで、「生死を離るること」は、迷いの世界から抜け出すことの意になります。

あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
憐れみ給って願を起こし給う本意は、悪人の成仏のためなので、

他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
他力を頼む悪人が、最も、往生の正因なのです。

よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
従って善人でさえ往生する、まして悪人はと、おっしゃったのです。

説明 「だに」は、さえ という意味で、「まして」と呼応し、係り助詞「こそ」で強調しているので、「往生すれ」は已然形です。

第四条

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
  慈悲には、聖道と浄土の間の変わり目があります。

聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
聖道の慈悲というものは、ものをあわれみ、かなしみ、育むものです。

しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
しかし、思うがように助けを遂げることは、めったにありません。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、
浄土の慈悲というものは、念仏して、すぐ仏になって、

大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
大慈大悲心をもって、思うがように衆生をご利益することを言うべきなのです。

今生に、いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも、
今生に、いかにいとおしい、不憫だと思っても、

存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
思うように助けることが難しければ、この慈悲は徹底しない。

しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。
そうであれば、ひたすら念仏を申すのみなのが、首尾一貫した大慈悲心でありましょうと云々。

第五条

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
 親鸞は父母の供養のために、一遍でも念仏を申したことは、いまだありません。

そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々(せせしやうしやう)の父母・兄弟なり。
その理由は、一切の情あるものは、すべて以って、世々生々の父母・兄弟なのです。

説明 「世々生々」は「生々世々」と同じで、生きかわり死にかわりして生を得たこの世のことで、永遠を意味し、
  この世に生きるものすべては、生々世々の世の中で、いつかは父母や兄弟だったのだといおうとしています。

いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
いずれもいずれも、その順次生に仏になって、衆生を助けるべきなのです。

説明 「順次生」は、現在の生が終わって次に受ける生のことです。

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
自分の力で励む善でありましたなら、念仏を回向して父母を助けいたしましょう。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、
ただ自力を捨てて、すぐに浄土の悟りを開いたならば、六道・四生の間、

説明 「六道」は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界、
   「四生」は、生き物の分類で、胎生、卵生、湿生、化生を指します。

いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
どの業苦に沈んだとしても、神通方便をもって、まず自分に縁のあるものを救い出すべきなのですと云々。

第六条

 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
 専修念仏のお仲間が、私の弟子だ、あなたの弟子だという言い争いがあること、もってのほかの仔細です。

親鸞は弟子一人ももたず候ふ。  親鸞は弟子を一人ももっていません。

そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
その理由は、自分の計らいで、他人に念仏を申させるのであれば、弟子にてありましょう。

弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
阿弥陀さまのお誘いにあずかって念仏を申す人を、自分の弟子と申すことは、極めて心が荒涼となることです。

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、
(弟子が師に)付くべき縁があれば付き、離れるべき縁があれば離れることがあるというのに、

師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、不可説なり。
師を背いて、他の師に連れて念仏すれば、往生できないものなんだなどと言う事、説明できません。

如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
如来さまよりいただいた信心を、我が物顔に、取り返そうとおっしゃるのでしょうか。

かへすがへすもあるべからざることなり。
かえすがえすも、あってはならないことです。

自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
自然の理に適いますれば、仏の恩を知り、また師の恩も知るはずでありますと云々。

第七条

 念仏者は無碍(むげ)の一道なり。
 念仏は無碍の一道です。or 念仏者は、無碍の一道を歩む。

説明 「無碍の一道」は、妨げの無い一本道のこと。

そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(ちぎ)も敬伏(きゃうぶく)し、魔界・外道も障碍(しゃうげ)することなし。
その理由はどうかとなれば、信心する修行者には、天の神も地の神も敬服し、魔界も外道も障害することがない。

説明 「外道」は、仏教以外の宗教・教え

罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(自分の犯してきた)罪悪も業報を感じることはなく、諸善も及ぶことはないからですと云々。

説明 信心する修行者には自分の犯してきた罪悪も、その報いをもたらすことはできず、いかなる善も匹敵することはない。

第八条

 念仏は行者のために、非行・非善なり。
 念仏は、(念仏を唱える)修行者にとっては、行ではなく、善でもない。

わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
自分のはからいで、(念仏の)修行をするのではないので、非行といいます。

わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
自分のはからいでつくる善ではないので、非善といいます。

ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。
ひとえに他力にして自力を離れたのですから、修行者にとつて念仏は、非行・非善ですと云々。

第九条

 念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくくわんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
 念仏を申し申し上げていますが、踊り躍動する歓喜の心が疎か(不十分)でありますこと、また急いで浄土へ参りたいという心がありませんのは、いかなるべきことなんでありましょうかと、親鸞さまにお尋ね申し上げましたところ、「親鸞もこの不審をずっと持っていましが、唯円坊も同じ心であったのか。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よくよく考えてみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを、喜ばないので、いよいよ往生することは確実なことと思い給うのです。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。
喜ぶべき心を抑えて、喜ばないのは、煩悩の為す所です。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
しかし阿弥陀仏さまは、かねてよりお知りになっていて、煩悩具足の凡夫よと仰せになったのですから、他力の悲願はこのようなものだ、私たち凡夫のためだったのだと知ることができて、いよいよ頼もしく覚えるのです。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
また浄土へ急いでまいりたいという心がなくて、いささか病気のこともあったので、死んでしまうのでしょうかと、心細く覚えることも、煩悩の為す所です。

久遠劫(くをんごふ)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。
久遠永劫より今まで流転してきた苦悩の古さとは捨て難く、いまだ生まれていない安らかな浄土は恋しくなく申し上げますこと、まことによくよく煩悩が強く盛んでありますからこそです。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
なごり惜しく思っても、この世の縁が尽きてむ、どうする力もなくして命終わるときに、あの世に参るのです。

いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
急いで浄土に参りたいという心が無い者を、阿弥陀仏さまはことにあわれみ下さるのです。

これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
これにつけてこそ、いよいよ阿弥陀さまの慈悲の誓願は頼もしく、極楽往生は確実と存知申し上げるのです。

踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。
踊り躍動する歓喜の心があり、急いで浄土に参りたいというのであれば、煩悩が無いのでしょうかと、疑わしく思われるでしょうと云々。

第十条

 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
 念仏には、人のはからいの無いことをもって本義とする。ほめることも出来ず、説明することも出来ず、思議することも出来ないが故にと親鸞さまは仰せになりました。

中序

 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来は(ちかごろは)おほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
 そもそも、かの親鸞さまが生きて居られた昔、同じく志しを持って、(関東から)京都まで足を運び、信心を一つにして、まさに来るべき極楽浄土に心をかけたお仲間たちは、同時に親鸞さまの御意趣を承りましたけれども、その人々に伴って念仏を称えられる老若たちが、数知れずおられるなかに、親鸞聖人の仰せではない異義どもを、近頃は多くおっしゃりあっていらっしゃるとのよし、伝え承っております。いわれのない、一条一条の仔細のこと(以下に述べましょう)

第十一条

一。一文不通のともがらの念仏申すにあふて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
一。文字一つわからない人々が念仏を称えているのに対して、「お前は阿弥陀さまの誓願の不思議を信じて念仏を称えているのか、または、南無阿弥陀仏という名号の不思議を信じるのか」と言い驚かして、誓願と名号の二つの不思議の詳細をはつきりと説明しないで、人の心をまどわしていること、このこと、返す返すも注意して、思い分ける(理解する)べきことです。

 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと、御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。
 阿弥陀さまの誓願の不思議によって、容易に保持でき(覚えやすく)、称えやすい名号をお考え出したまわれて、この名字(名号)を称える人を浄土に迎え取ろうと、お約束されたということなので、まず阿弥陀さまの大悲大願の不思議に助けられ参らせて(申し上げて)、生死の迷いを出る(脱出する)べきと信じて、念仏が称えられるのも阿弥陀如来の御はからいであると思えば、少しも自分のはからいは交わ(入り交じ)らないので、阿弥陀さまの本願の御心にかなって、真実報土に往生するのです。

これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。
これは誓願の不思議を宗(第一義)として信じたてまつれば、名号の不思議も備わって、誓願と名号の不思議は本来一つであり、さらに異なるものではないのです。

つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。
次に、自分のはからいを差し挟んで、善と悪の二つについて (それぞれ) 往生の助けと障りになると別々に思うのは、阿弥陀さまの誓願の不思議を頼まないで、自分の心で往生のためである業を励むために称えている念仏を、自分の力て行っているのです。

このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。
こういう人は、名号の不思議を信じていないのです。

信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。
信じなくても、仮の浄土に往生して、阿弥陀さまの果遂の願(第二十願)の故に、遂に浄土に生まれるのは、名号の不思議の力です。

説明 辺地懈慢(へんちけまん)・疑城胎宮(きじょうたいぐう)とは、自力の行者が来世に生まれる仮の浄土

   果遂の願 自力念仏の人を真実の浄土に生まれさせようとする阿弥陀の48誓願中の第20願をいう

これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。
これはすなわち、誓願の不思議の故なので、二つの不思議は一つなのです。

第十二条

一。経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
一。経典や注釈を学ばない人たちは、往生できるかどうか不定であるということ。(異義)

この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
このことは、全く論ずるに足りない(値しない)ことと言ってしまうべきです。

 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。
 他力が真実である宗を明らかにする諸々の聖なる教えは、本願を信じ念仏を称えれば成仏する、そのほかに何の学問が往生のために必要でありましょうか。

まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。
まことに、この道理に迷っているだろう人は、いかにもいかにも学問して、本願の宗を知るべきです。

経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
経典や注釈を読んで学ぶといっても、聖なる教えの本意がわからないこと、最も不憫なことです。

一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。
一文字もわからずに、経典や注釈の筋道もわからない人が、称えやすかろうがための名号でありますので、易行といいます。

学問をむねとするは聖道門なり、難行となずく。
学問を宗とするのは聖道門です。難行と名づけます。

あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。
間違って学問して、世間の評判や利欲で身をこやす思いのなかに住んでいる人は、順次の往生がどうあるであろうかという親鸞聖人の証文もあるはずですよ。

説明 順次の往生とは、現在の生涯を終えて次に極楽浄土に生まれることむ

   あらんずらん=あらむずらむ=アリ未然形+ムズ終止形+ラム=あるであろう

当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法輪をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。
当時、専修念仏の人と聖道門の人が、仏法論争を計画して、「私の宗派こそすぐれている。他の宗派は劣っている」と言っているうちに、仏法の敵も出てきて、仏法を謗ることもおこります。

これしかしながら、みずからわが法を破謗するにあらずや。
これはしかしながら、自ら自分の法を破り謗ることではありませんか。

たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、
たとえ諸派がこぞって、「念仏は甲斐のない(取るに足りない)人の為であり、その宗派は浅い、卑しい」と言っても、決して争うことをしないで、

「われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。
「私たちのような下根の凡夫は、一文字もわからなくても、信じれば助かることをお聞きして信じているのですから、上根の方にとっては卑しくても、私たちの為には最上の法であられます。

説明 下根は、仏道修行するのに劣った能力や根性。反対語は上根。

たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。
たとえ、私たちの以外の教法がすぐれているとしても、私たちにとつては器量(能力)が及ばず、つとめることが難しいです。

われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。
私も他の人も、生死を離れようとすることこそ、諸仏の御本意でございますので、妨げないでください。」と言って、人を憎いと思う気配を示さなければ、どんな人がいて、敵対しましょうや。

かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。
さらに論争しているところには、諸々の煩悩がおこります、智者は煩悩を遠ざけるべきとの証文もございます。

故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。
故聖人のおっしゃるには、「この仏法を信じる衆生もいて、謗る衆生もいるでしょうと、釈尊は説いておいてくださっていますので、私はすでに信じたてまつります。

またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。
また人がいて、その人が謗ると、釈尊の説くところは真実だったなあとわかりました。

しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。
そうならば、往生はいよいよ必定と思いたまうのです。

あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。
間違って謗る人がいないとしたら、いかに信じる人がいても、謗る人がどうしていないのかと思ってしまうに違いありません。

かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、
こう申したとしても、必ず人に謗られようというのではありません。

仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。
釈尊が、かねて信も謗もともにあるだろうことを見通されて、人に(念仏についての)疑いを起こさせまいとして、説いておいてくださったことを申すのです」とおおせになりました。

いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられ候ふにや。
今の世には、学問をして人の謗りを止め、ひとえに論議や問答を旨としようと身構えておられるのでしょうか。

学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。
学問をすれば、いよいよ如来の御本心を知り、阿弥陀さまの悲願がいかに広大かを知り、卑しい身にて往生はできるのかなどと不安に思っている人にも、阿弥陀さまの本願にあっては、善悪、浄穢の差別のない趣旨を説き聞かせられましてこそ、学問した者の甲斐でありましょう。

たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学問してこそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。
たまたま何のはからいもなく、本願に適って念仏する人を、学問してこそなんですよと言い脅すこと、仏法の魔障です。仏の怨敵です。

みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。
自ら他力の信心が欠けているのみならず、間違えて他人を迷わそうとするものです。

つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。
つつしんで恐れるべきです。先師の御心にそむくことを。

かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。
さらに悲しむべきです。阿弥陀さまの本願に反していることを。

 

第十三条

一。弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
一。阿弥陀さまの本願は不思議でおわしますといって、悪をおそれないのは、また本願ぼこり(本願あまえ)といって、往生がかなうことはありませんということ。
(異義)

この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
このことは、本願を疑い、善悪の宿業を心得ていないからです。

説明 善悪の宿業とは、善悪は人間がおのれの過去に持っている暗い業によって左右されていること。

 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。
 良い心が起きるのも、宿善がもよおす(うながす)からです。

説明 宿善は、過去の世でした良い行いのこと

悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。
悪事が思われになられるのも、悪業の計らいのゆえなのです。

故聖人(親鸞)の仰せには、「兎毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
故聖人のおっしゃるには、「兎の毛や羊の毛の先についている塵ほども、作る罪が宿業ではないということはないと知るべきです」とおっしゃいました。

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、
 またあるとき、「唯円房は私の言うことをば信じるか」と仰ったので、「そのとおりです」と申しあげると
「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、
「そうなら、私が言うことにたがい(背き)ませんか」と重ねておっしゃったので、つつしんで了承もうしあげたところ
「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、
「たとえば、人を千人殺してんか。そしたら往生は必定するよ」と仰せになったので、
「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、
「仰せにはございますが、一人も私の器量では
、殺すことができるとは思えません」と、申しあげたところ
「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
「それでは、どうして親鸞がいうことをたがい(背き)ませんと言ったのか」と。

「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。
「これにて知りなさい。何事も、心にまかせたこと(思い通りになること)ならば、往生のために千人殺せと言うとしたら、すなわち殺すでしょう。

しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
しかし、一人でも適ってしまう(殺せる)業縁が無いので、殺せないのです。

わがこころのよくてころさぬにはあらず。
私の心が良くて殺さないのではありません。

また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。
また殺すまいと思っても、百人千人を殺すこともあるでしょう」と、仰せになりましたが、私たちの心が善いことをば良いと思い、悪いことをば悪いと思って、阿弥陀さまの本願の不思議によってお助けになられるということを知らないことを、おっしゃっていらしたのです。

そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
かつて(聖人ご在世の頃)、邪な考えにおちた人がいて、罪悪を犯した人を助けようという阿弥陀さまの本願であられませばといって、わざと好んで悪をなして、極楽往生の業因とすべきという旨を言って、様々に悪し様(悪い様子)が風聞が聞こえましたときに、聖人様のお手紙に、「薬があるからといって、毒を好んではいけません」とお書きあそばされていらっしゃいますのは、この誤った考えをやめさせようとするためです。

まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。
全く、悪は往生の障害になるというのではありません。

持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。
戒律を守ることによってのみ本願を信じることができるのであれば、私たちはどのようにして生死の迷いから離れることができましょうや。

かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。
このような浅ましい身でも、本願に遇いたてまつってこそ、本当に誇ることができるのです。、

さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。
だからといって、この身に備わらない悪業は、よもや犯すことができないでしょうに。

また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。
また、「海や川に網を引き、釣りをして、世を渡る人々も、野や山に獣を狩り、鳥をとって、命をつなぐ人々も、商いをし、田畑を耕して過ごす人たちも、ただただ同じことなのです」と。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。
「(人は)しかるべき業縁がもよおせば、どんな行いもするのです」と、親鸞聖人はおおせになりましたが、この頃は、後世(来世)を願うもののふりをして、善い人だけが念仏をすべきであるように、あるいは、道場に張り紙をして、何々のことをしたであろう人のことを、道場にはいってはならないなどということ、ひとえに、賢こく善く精進する様相を外に示して、内心には虚仮をいだいている人なのでしょうか。

説明 「よからんもの」は、善くあらむ者、善いであろう人、善い人の意。 古語の否定の助動詞「ず」が、
    現代では「ぬ」となっていて、善くないの意味の「よからぬ」が「よからん」となるので、語感上、注意が必要。

    虚仮は、仏教で、すべての現象は実体がなく仮のものであること。真実でないこと。おろかなこと。

願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。
本願にほこって犯す罪も、前世の業がもよおすからなのです。

されば善きことも、悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。
ですから善いことも、悪いことも、業報にまかせて、ひとえに、本願におたのみもうしてこそ、他力なのです。

『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。
『唯信抄』にも、「阿弥陀さまに、どれだけの力がおありになるのかを知ってか、罪業の身なので、救われるのが難しいと思うのでしょう」とありますよ。

説明 唯信抄は、法然門下の聖覚の著書。

本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。
本願にほこる心があるにつけてこそ、他力を頼む信心が決定するということであります。

おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
およそ、悪業や煩悩を断ち尽くした後に、本願を信じようとすることのみに、本願にほこる思いがなくていいはずなのに、煩悩を断ってしまえば、すなわち仏になり、そういう仏のような人のためには、阿弥陀さまの五劫思惟の誓願は、役立たないでしょう。

説明 詮なしは、無駄、無益、役立たないこと。ましまさんは、ましますの未然形に、推量の助動詞の終止形の音便。

本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。
本願ぼこりと、戒められる人々も、煩悩や不浄を具足してしらっしゃるのでしょう。

それは願にほこらるるにあらずや。
それは本願に誇っておられるのではないでしょうか。

いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。
いかなる悪を本願ぼこりというのでしょうか、いかなる悪は本願ぼこりでないのでしょうか。

かへりて、こころをさなきことか。
かえって、心が幼いことではありませんか。

第十四条

一。一念に八十億劫(こう)の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
一。一回の念仏で八十億劫 (という長期間) の重罪を消すと信じなさいということ。
(異義)

この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終(みょうじゅ)のとき、はじめて善知識(ぜんじしき)のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。
このことは、十悪・五逆の罪人が、日頃念仏を称えなくて、臨終のときに、初めて善知識のお坊さんの教えによって、一回念仏を称えれば八十億劫の期間の罪を消し、十回念仏を称えれば、八十億劫の十倍の期間の積みを消して極楽往生するといっていることについて。

これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。
これは、(お釈迦さまが)、
十悪と五逆の罪の軽重を知らせようとするがために、一念とか十念とか言われるのではなかろうか。(これは、臨終における)罪を減じる、ご利益なのです。

いまだわれらが信ずるところにおよばず。
(この減罪のご利益を当てにして念仏を称えるのは) いまだ私たちの信じる他力の信心には遠くおよびません。

そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。
その理由は、阿弥陀さまの光明に照らされ申し上げる故に、(信心の)一念が発起するときに、金剛のように固い信心を賜ってくださったのですから、すでに正定衆 (必ず成仏すると定まった人達) の位におさめしめいただいて、命が終わりましたら、もろもろの煩悩や悪障を転じて、無生法忍 (永遠不変の真理) をさとらしめてくださるのです。

この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
この阿弥陀さまの悲願がございまさねば、こんなあさましい罪びとが、いかにして生死を解脱することができるのかと思って、一生の間に唱える念仏は、みなことごとく阿弥陀如来の大悲の恩に報いて、徳に感謝するのだと思うべきなのです。

念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。
念仏を唱えるたびに、罪ほろぼししようと信じるとしたら、それはすでに自ら罪を消して、往生しようとはげんでいるのです。

もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。
もしそうなら、一生の間の思いや思うことは、みな生死の世界につなぎとめる綱でないことはないので、命が尽きるまで、念仏を退転(あともどり)することなく唱えて、(はじめて)往生することができるのです。

ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。
ただし業報には限りがあるので、どんな思いがけないことに会い、病悩や苦痛が(身を)責めて、正念に住むことなく命が終わってしまうでしょう。念仏を称えることは、難しいのです。

説明 業報かぎりあることなれば は、業因によって業報は定まっているのでの意。

   正念は、仏道にかなった正しい想念のことですが、親鸞においては、称名念仏のことです。

そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。
その間の罪は、どうして減じることができるのでしょうか。

罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。
罪が消えなければ、往生はできないのでしょうか。

摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。
(念仏する人を)摂取し捨てない阿弥陀さまの本願をお頼みもうしあげれば、どんな思いがけないことがあって、罪業を犯し、念仏を称えることなく命が終わるとしても、すみやかに往生を遂げることができるのです。

また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。
また、念仏を称えることができるのも、ただいま悟りを開くであろう期が近づくに従っても、いよいよ阿弥陀さまを頼み、ご恩に報いたてまつるからなのです。

説明 申されむ は、申すに、自発・可能の助動詞「る」推量の助動詞「む」がつながって、申し上げることができるであろうの意。

   開かむず は、推量を示して、開くだろう の意。

罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。
罪を消そうと思うのは、自力の心であって、臨終に正念をと祈る人の本意なので、他力の信心がないのでございます。

第十五条

一。煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。
一。煩悩を具足する身をもって、すでに悟りを開いているということ。(異義)

この条、もつてのほかのことに候ふ。
このことは、もつてのほかのことでございます。

 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
 即身成仏は (空海の) 真言秘教の本意です。三密行業という修行の証果です。

六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
六根清浄はまた、(最澄の) 法花一乗の教えの説く所で、四安楽の修行で得られる功徳です。

説明 六根清浄 は、身心の全体が一切の汚れを離れて清浄になることです。

これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
これは、みな難行で、上根の勤めであり、観念成就のさとりなのです。

来生(らいしゃう)の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。
未来に浄土に生まれて悟りを開くことは、他力の浄土の宗旨であり、この世で信心が決定する道の故です。

これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
これはまた、易業で、下根の勤めであり、善人と悪人の区別をしない法なのです。

おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。
およそ、今生においては、煩悩や悪障を断とうとすることは、極めて難しいので、真言や法華を修行する清浄な僧侶であってもなお、順次生の悟りを開こうと祈ります。

いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍(むげ)の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
まして言うまでもありませんが、戒行も慧解もともにないといっても、阿弥陀さまの本願の船に乗り、生死の苦しみの海を渡って、極楽浄土の岸に付いてしまうものであれば、煩悩の黒雲は、すぐに晴れ、法性を悟る月も、すぐ現れて、十方を照らし妨げの無い光明である阿弥陀さまと一体となって、一切の生きとし生けるものを、ご利益しようとするときにこそ、悟りであるのですよ。

説明 戒行・慧解 戒律を守ってする修行と智慧によって仏法を理解すること

この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。
この身のまま悟りを開くとおっしゃる人は、お釈迦さまのように種々の応化の身を現し、三十二相や八十随形好をも備えて、説法しご利益されるというのでしょうか。

これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。
(こんなことができるのでありましたら) これをこそ、今生に悟りを開く手本であると申しましょう。

『和讃』(高僧和讃・七七)にいわく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」とはさふらふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。
『和讃』(高僧和讃・七七)に、「金剛堅固の信心が定まるときを待つことができてこそ、阿弥陀さまの慈悲の心から放たれる光に摂護されて、永久に生死の迷いを隔てることができたのですよ」とございますのは、信心が定まるときに、阿弥陀さまはひとたび摂取して、二度と捨てたもうことはないので、六道に輪廻することはないのです。

しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。
そうですから、永遠に生死の迷いを隔てることができるのですよ。

かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや、あはれに候ふをや。
このように知ることを、どうして悟ると言いまぎらかすことができましょうか、嘆かわしいことではありませんか。

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候しか。
「浄土真宗の教えには、今生に阿弥陀さまの本願を信じて、彼岸の浄土にて悟りを開くのだと(法然上人から)習いましたよ」と、
故聖人(親鸞)はおっしゃったじゃありませんか。

第十六条

一。信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心すべしといふこと。
一。信心する修行者は、自然に腹をもたてたり、悪い様のことをも犯したりし、同朋や同僚の僧侶にも会って(立ち向かって)口論をもしたりしては、必ず改心すべきであるということ。
(異義)

この条、断悪修善のここちか。
このことは、悪を断ち、善を修めるという自力の心地でしょうか。

 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。
 ただひたすらに念仏を称える一向専修念仏の人においては、改心ということは、ただ一回であるべきです。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申し候へ。
その改心は、日頃、本願他力の真の教えを知らない人が、阿弥陀さまの智慧を賜って、日頃の(自力を頼む)心では極楽往生を適えることはできないと思って、もとの(自力の)心を取り替えて、本願をお頼みもうしあげることをこそ、改心と申しあげるのです。

一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。
一切の事について、朝に夕べに改心して、往生を遂げることが出来るのであれば、人の命は、吐く息が吸うのを待つことなくはかなく終わってしまうものなので、改心をせず、柔和で忍辱の思いに至らないうちに命が尽いてしまうならば、阿弥陀さまの摂取不捨の誓願がむなしくなつてしまうというのでしょうか。

口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。
口では、本願をお頼みもうしあげると言って、心では、「そんなに悪人を助けようという阿弥陀さまの本願は、不思議でましますと言っても、さすがに善い人をお助けになるでしょう」と思っているので、本願の力を疑い、他力を頼みもうしあげる心も欠けて、辺鄙な浄土に往生してしまうこと、阿弥陀さまが、最も嘆き思われたまうことなのです。

信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。
信心が定まってしまえば、往生は、阿弥陀さまに計らわれてすることなので、自分の計らいではありえません。

わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。
悪くあろうとするにつけても、いよいよ本願力を仰ぎもうしあげれば、自然のことわりで、柔和・忍辱の心も出てくるでしょう。

すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。
すべてあらゆることにおいて、極楽往生するには、利口ぶる心を持たずに、ただほれぼれと阿弥陀さまのご恩が深く重いことを、常に思い出しもうしあげるべきなのです。

しかれば念仏も申され候ふ。
そうすれば念仏も自然に称えることができます。

これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。
これが自然です。自分が計らないことを、自然と申すのです。これはすなわち他力にてまします。

しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。
しかるに、自然ということが別にあるように、物知り顔に言う人があるとのよし、お聞きしましたが、浅ましく嘆かわしいことです。

第十七条

一。辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。
一。辺鄙な浄土に往生をとげる人は、ついには地獄におちるでしょうということ。(異義)

この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。
このこと、どんな証文に見えるのでしょうか。学者ぶる人の中に、言い出されたことでありますので、浅ましく嘆かわしいことです。

経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。
経典や注釈書を、いかようにみなされていらっしゃるのでしょうか。

 信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。
 信心が欠けた修行者は、阿弥陀さまの本願を疑うことによって、辺鄙な浄土に生まれて、疑いの罪を償って後に、極楽浄土の悟りを開くとこそ、承っています。

信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。
信心の修行者が少ないので、多くの人に、仮の浄土に勧めてお入れになったのを、ついにむなしく地獄に落ちるでしょうと言うことこそ、如来さまに虚妄を申しつけもうしあげてしまうことなのです。

第十八条

一。仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべしいふこと。
一。仏法のかた(仏事をとりおこなう寺院や僧侶)に、施入物 (お布施) の多少に従って、仏の大小になるでしょうということ。
(異義)

この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
このこと、説明できません、説明できません、ナンセンスです。

 まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。
 まず、仏に大小の分量を定めようとすること、あってはいけないことです。

かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。
かの極楽浄土の教主であられる阿弥陀仏さまのご身体の大きさが経典に説かれていますが、それは方便で表されたお姿の形なのです。

法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。
阿弥陀さまは、法性の悟りを開かれて、長短や方円の形は無く、青・黄・赤・白・黒の色も離れてしまうので、なにをもって大小を定めることができるのでしょう。

念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
念仏を称えて、仏の仮の姿を見もうしあげるということが(経典に)あればこそ、
「大きな念仏には大仏を見、小さな念仏には小仏を見る」(大集経・意)と言いますが、もしかして、この理屈なんどに、ひきかけたのでしょうか。

かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠に施すとも、信心かけなば、その詮なし。
かつはまた、檀波羅蜜の行とでも言うべきでしょうか、いかに宝物を仏前に投げ、師匠に施しても、信心が欠けていれば、詮無いことです。

一紙・半銭も仏法のかたに入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。
仏法のかたに紙一枚、銭半銭も入れないでも、他力に心を投げて(打ち込んで)、信心が深くあれば、それこそ本願の本意なのです。

すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。
(こういう誤った説は)すべて、仏法にかこつけて、俗世間の欲心もあるので、同朋である信者を言い脅したりするのではないでしょうか。

後序

 右条々は、みなもつて信心のことなるよりことおこり候ふか。
 右の条々は、みなもって、信心が異なることにより、起こりますのでしょうか。

故聖人 (親鸞) の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして御相論のこと候ひけり。
故親鸞聖人がお話しになられたことに、法然聖人がご存命のとき、お弟子さまが大勢いらっしゃった中に、法然聖人と同じように信心する人が少ししかいらっしゃらなかったので、親鸞聖人と御同朋の弟子たちとのお間で御論争されることがございました。

そのゆゑは、「善信 (親鸞の房名) が信心も聖人(法然)の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、
その理由は、「私、善信房親鸞、の信心も、法然聖人の御信心も、同一です」と親鸞聖人がおっしゃいましたところ、勢観房や念仏房などと申す御同朋の弟子達が、もってのほかと御論争なされて、「どうして法然聖人の御信心と、善信房の信心が、同一でありえるのか」とおっしゃいましたので、

「聖人の御知恵・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。
「法然聖人のおん知恵やご才覚は、広くすぐれておられるのに、私と同一でしょうと申すならば、間違いでありましょう。

往生の信心においては、まつたく異なることなし。ただ一つなり」と御返答ありけれども、
しかし、往生の信心においては、全く異なることはありません。ただ一つです」と、親鸞聖人からご返答がありましたけれども、

なを「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、
なおも、「なんでそんなことがありましょうや」という疑問や非難がありましたので、結局、法然聖人の御前で自他の是非(どちらが正しいか)を決定しようと、仔細を申し上げたところ、

法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。
法然聖人のおっしゃるには、「私、源空、の信心も、阿弥陀如来さまから賜った信心です。

善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。
善信房親鸞の信心も、阿弥陀如来さまよりお賜いいただいた信心です。ですから、同一です。

別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、
別の信心にていらっしゃる人は、源空が参るであろう浄土には、よもやいらっしゃらないでしょう」と仰せになりましたので、

説明 まゐらんずる は、動詞 まゐる の未然形 まゐら むず の連体形のん音便 んずる で、参るであろう の意。

   推量を示す むず は、むとす が変化して、中古に成立したといわれています。

当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。
現今のひたすらに修行に専念される人々のなかにも、親鸞さまのご信心に同一でないこともあると思われます。

いづれもいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。
いずれもいずれも、繰言 (繰り返し言う言葉、愚痴) ですが、ここに書き記しました。

露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、
露の(ようにはかない)命が、枯草の(ように老いた)身に降りかかっております間にこそは、私と行動を共になされるかたがたがの、ご不審をも承って、親鸞聖人のおおせられたお言葉の趣意をも申しお聞かせいたしますが、私が閉眼したあとは、きっと、しどけない乱れたことばかりになってしまうでしょうと、嘆かわしく存じておりますので、

かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。
このような異義の数々を言い合い争われる人々に、言い迷わされたりなどされることがありましょうときは、故親鸞聖人の御心にかなって、みなさんがいつもお使いになられる御聖教などを、よくよくご覧になるべきなのです。

おほよそ聖教には、真実・権仮(ごんけ)ともにあひまじはり候ふなり。
およそ御聖教のなかには、真実のものと権仮(仮の方便)のものが、合い入り混じっています。

説明 も、仮の意。参考:権化、権現は、仏・菩薩が仮の姿でこの世に神としてあらわれること。

権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。
権(仮)を捨てて実をとり、仮をさしおいて真を用いることこそ、親鸞聖人の御本意であります。

かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふまじく候ふ。
是非とも是非とも、ご聖教をお見誤りになっていけないのでございます。

大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候ふて、目やすにしてこの書に添へまゐらせて候ふなり。
大切な証拠の文章を、ご聖教のなかから、少々抜き出させていただいて、信心の目安としてこの書に添付させていただきます。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
親鸞聖人が常におっしゃるには、「阿弥陀さまの五劫という長時間の思惟のご誓願をよくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためでした。

されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、
ですから、そんなにも沢山の業を持った我が身でありましたのを、助けてやろうと思い立ちいただいた本願のもったいなさよ」と、御述懐なされたことを、いままた考えますに、

善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(くわうごふ)よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
善導大師の「私自身は、罪悪を犯し生死の苦界を迷う凡夫で、大昔よりこの方、常に沈み、常に流転して、この迷苦から出離する縁がない身であると知りなさい」という金言に、少しもお異なりにはなりません。

さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。
ですから、もつたいなくも、親鸞聖人は、自らの御身にひきかけて、私たちが、自らの身の罪悪の深さのほどを知らず、阿弥陀如来さまのご恩の高いことも知らずして迷っているのを、思い知らせようとするためでございました。

まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
まことに、私たちは、阿弥陀如来さまのご恩ということを問題にしないで、われもひとも、善いとか悪いとかいうことのみを言い争っているのです。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
しかし、親鸞聖人のおっしゃるには、「私は、善と悪の二つについて、まったく知りません。

そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
その理由は、阿弥陀如来さまの御心に「善い」とお思いになられる程に、私が知り通したならばこそ、善きことを知っていることにもなり、阿弥陀如来さまが「悪い」とお思いになられる程に、私が知り通したならばこそ、悪いことを知っていることになるのでしょうが、煩悩を具足した凡夫や、火がついてたちまちに燃えるような無常の世界にかいては、すべての事が、みなもって空言、たわ言で、真実あることは無いので、ただ念仏のみが真実なのです」と仰せになられました。

まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。
まことに、我もひとも空言をのみ言い合っております中に、ひとつ痛ましいことがあります。

そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。
その理由は、念仏を称えることについて、信心の趣旨を互いに問答しあい、ひとにも説き聞かせるとき、ひとの口をふさいで、論争を終わらせるために、親鸞聖人がまったくおっしゃっていないことをおっしゃったとのみ申すこと、浅ましく嘆かわしく思うのです。

このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
このことを、よくよく理解して、心得られるべきことであります。

これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、故親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。
これは決して私の言葉ではありませんと言っても、経典や論釈に説かれている筋道も知らず、法文(経典)の浅深を心得分けていることもない私ですので、さだめしおかしいことでありましょうが、故親鸞聖人のおっしゃったお言葉の趣旨の百分の一ほどの一端を、思い出しもうしあげて、書きつけましたのであります。、

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。
悲しいことではありませんか、幸いに念仏を称えながら、直ちに極楽浄土に往生せず、辺鄙な浄土に宿をとって留まるようなことは。

一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。
同じ部屋の修行者のなかに、信心が異なることがないであろうために、泣く泣く筆わとってこれを書き記します。

なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。
名づけて「歎異抄」と言いましょう。外の人が見ることはあってはいけません。

 

         

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