城塚登 人類の知的遺産 ヘーゲル (1980)

2018.8.24

 ヘーゲルは、急がずゆっくり読むつもりなのですが、「精神の現象学」について調べる必要があり、

この解説書を図書館から借りてきました。

 哲学書は、それが書かれた時代背景について、よく理解しておく必要があると常々思っているのですが、

この本の城塚さんの解説も、そのことをちゃんとわきまえてくれています。

 最初の9頁のところを、少し引用します。

 ヘーゲルはまた、歴史のもつ重みを、ひしひしと身に感じていた。

彼の生きた時代は、後に見るようにフランス革命というヨーロッパを激動させた事件をはじめとして、

「近代化」への動きとそれへの反動が激しく渦巻き、ヘーゲルが深い関心をもっていたイギリスでは、

近代市民社会が形成されるとともに、それ独自の弊害を露呈しはじめていた。

そもそも歴史はどのようにして現在に至り、どこへと進んでゆくのであろうか。

 思想のレベルでいうならば、ヘーゲルの思索は、啓蒙思想とドイツ・ロマン主義との激しい対立のただなかで進められた。

この対立する二つの思想については、後に詳しく見ることにするが、この二つの思想の歴史観もまた鋭く対立していた。

一般的にいって啓蒙思想は、自然科学への信頼にもとづいた合理的思考によって、現存する知識や現実の非合理性を批判するので、

歴史的に形成され現在まで保たれてきたものを断罪し、頭のなかでつくり上げた理念・理想を現実のなかに実現しようとした。

そこでは歴史のもつ重みが軽視または無視されたのであるが、その結果、

理念・理想を実現しようとする試みが、思いがけぬ悲惨な状態を生じさせることになった。

他方、ドイツ・ロマン主義は、一般的にいって、悟性 (啓蒙的理性) では割り切れぬ人間的現実を重視し、

感情・直観・信仰の回復をめざしたから、伝統的なものを重んじ中世的世界への憧れを抱いていた。

ヘーゲルは歴史のもつ重みを認める点ではロマン主義に近いのであるが、 ただ「信心」を説き、

神聖な境地で哲学すると自称してその内容の偶然性や恣意を放任しているロマン主義者に対して厳しい批判を加えている。

つまりヘーゲルにとっては、歴史を逆行させて中世に戻るなどというのは夢なのであり、

歴史がどこへ向おうとしているのかを冷静に見さだめることこそが、緊急の課題なのである。

ということは、ヘーゲルが歴史のもつ重みをロマン主義者よりもはるかに厳しく認識していたということを示している。

 21世紀になっても、中東で「アラブの春」という自由化運動が起こり、エジプトやリビアで、政権打倒が実現したものの、

その後の国内対立に苦しんでいるし、シリアでは、現在も深刻な内戦状態が続いています。

 国家を運営するという政治の場合は、啓蒙思想とか自由化運動だけでは駄目で、強固な政権を樹立することが必要なのですが、

まだ、歴史は、そういう状態に到達していないようです。

 

 1968年に出版された 中央公論社世界の名著ヘーゲル を、私は、若かりしときに読みましたが、

そこで、責任編集の岩崎武雄さんは、以下のように語っていました。

 ヘーゲルの哲学が難解であって、ひとによってその解釈もまったく変わりうることは、この解説のはじめに述べたが、

しかし私の見るところでは、ヘーゲル哲学の根本思想は案外簡単なものではないかと思われる。

それはフランクフルト時代の終わりにヘーゲルがおぼろげながら自覚しはじめた思想、すなわち

歴史のうちにはわれわれ人間の手でどう動かしようもない法則があり、

この法則によって歴史の過程は必然的に定められているという思想である。

(中略)

 われわれはすでに、どうしてヘーゲルがこのような思想に到達したかを見たが、それは一言でいうならば、

要するに啓蒙主義的な合理主義の限界を自覚したことによってであると言えるであろう。

十八世紀の啓蒙思想においては、われわれはただ頭のなかで合理的と考えた理想を実現すべきであり、

また実現することができると考えられていた。そこには歴史というものに対する顧慮はまったく存しなかった。

歴史的に成立し現在まで残っているいっさいの伝統的なもの、非合理的なものをまったく排除し、

純粋に合理的な理想を実現することが可能であると考えられていたのである。

(中略)

 ヘーゲルの考えたのは、歴史のうちには一つの大きな法則的な流れが存しているということであった。

それはわれわれ人間の力によってはどうにもならない必然的なものである。

それゆえ、われわれがいかに頭のなかで考えた理想を実現しようと努力しても、

その理想が歴史の法則的流れにちょうど適合していなければ、その努力は決して成功することはできない。

言いかえれば、われわれの理想は、歴史のうちにおいてまさにそれが実現されるべき時が来なければ、

実現されえないのである。

 ヘーゲルがこの法則をその汎神論的思想によって、絶対者・神の自己実現の過程として把握したことはすでに述べたとおりである。

 この岩崎さんの説明に対し、城塚さんは、以下のように語ります。

たとえばヘーゲル哲学についてのある「解説」には、

「ヘーゲルの考えたのは、歴史のうちには一つの大きな法則的な流れが存しているということであった。

それはわれわれ人間の力によってはどうにもならない必然的なものである」 と書かれているが、

このような叙述は、たとえそれが間違ったものではないにせよ、誤解を招くものだと私は考える。

なぜなら、一般の読者は、「歴史」といえば歴史書に書かれている歴史を頭に浮かべるからである。

 ヘーゲルの場合、相互に内面的な連関のないばらばらな出来事、事実などを並べて記述したものは

「ヒストリー」と呼ばれ、「歴史」(ゲシヒテ)とは区別される。

そして「歴史」とは、ヘーゲルによると本質的に、「精神の歴史」であり「精神史」なのである。

 

 私には、この反論だけでも、不十分に感じます。

哲学史とか文学史という場合には、哲学や文学の中だけで、歴史を語ることが、可能かもしれませんが、

人間生活の全般を含んだ歴史の場合には、思想だけでなく、政治や経済も大きな役割を果たすと思います。

民主主義を維持するためには、それなりの政治体制や社会体制と、周囲の世界の平和が必要だと思います。

 

    

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加