島内景二 文豪の古典力 |
2018.10.6
副題が 漱石・鴎外は源氏を読んだか となっているのに興味をもち、購入しました。
著者の島内景二(1955-)さんは、東大法学部に在学中、源氏物語と現代短歌に目覚めて文学部に転進したそうです。
新書カバーの紹介文は、以下の通りです。
なぜ現代日本人は自分の国の「古典」を原文で読めなくなってしまったのか?
明治45年(大正元年)に、与謝野晶子の「口語訳」が出版された時点から、皮肉なことに「源氏物語」の凋落と「日本の古典文化」の衰退が始まった。
本書は、文豪たちの「古典力」という観点からの探求である。
本書は、漱石、鴎外のほかに、樋口一葉、尾崎紅葉、与謝野晶子をとりあげています。
後者のの3名は、源氏物語を、原文で読んだ証拠があり、源氏物語の影響を語ることができるのですが、
漱石や鴎外については、彼らの作品から、原典を読んだかどうかの推理が行われます。
さて、島内さんは、原典を読むことにこだわっているのですが、私は、必ずしも同意できません。
しくら原典がいいといっても、外国語で書かれた作品を原典で読むことはできませんので、翻訳で読むしかありません。
日本の古典であっても、原文がちんぷんかんぷんの場合は、翻訳で読むしかありません。
しかし、日本語の場合、現代語訳にいささか問題があるかもしれません。
日本語は、言文一致運動の結果、口語体の文章になってしまい、文語体の持つ格調を失ってしまったのです。
島内さんも、このお考えのようで、私も同意できます。
一度読むだけの読み捨ての文章は、意味のわかりやすい口語体の方がいいと思いますが、
文学作品のように何度も読み直す文章は、美しい文語体の方が適していると思っています。
俳句や短歌のような言葉の芸術においても、話し言葉の説明的なな口調を越えた表現を求めようとしていると思います。
本書の紹介は、与謝野晶子を取り扱う5章から始めようと思います。5章の目次は、以下の通りです。
V パンドラの箱を開けた与謝野晶子
1 「男の読み方」と「女の読み方」
2 晶子の「口語訳」の功罪
3 「現代語訳」を超えるために
第1節で、晶子の説明に入る前に、男の読み方と女の読み方の違いが議論されます。
男たちの「理想読み」と、女たちの「体験読み」と題された節を少し引用します。
さて、前置きが長くなった。男たちが古典を理想の政治を述べた思想書として読んだとすれば、女たちは恋愛の現実を描いたフィクションとして読む傾向があった。
すなわち、男たちは古典を「理想読み」し、女たちは古典を「体験読み」したのではあるまいか。
後者の代表が、与謝野晶子である。
(中略)
古典文学の主題は、「男と女の恋の苦悩」そのものであり、「男に愛されたために苦悩する女」である。
それ以上でもそれ以下でもない。
このような晶子の古典観は、恋愛生活の中に人間の喜怒哀楽を見出すものである。
「政治青年」が文学者の主流だった明治時代が過ぎ去るにつれ、晶子の古典観は次第に男たちの間でも有力なものとなってゆく。
「男の理想読み」が廃れ、「女の体験読み」が隆盛に向かうことになった。
極端に言えば、「男の夢」か゜「女の現実」の前に敗北してゆくのだ。
男たちも、「写生」的で現実的な文学観へと変容してゆく。
第2節で、晶子の「口語訳」の功罪が語られます。
現在、私達が「与謝野源氏」として知っているのは、唱和13年から14年にかけて出版された「新新訳源氏物語」で、
晶子が明治45年から大正2年にかけて世に問うた「新訳源氏物語」とは、異なります。
最初の新訳は、大胆な抄訳で、原典中の和歌は手紙など別の形に変換されています。
各巻の冒頭に、中澤弘光の華麗な木版画が挿入されていたそうです。
新新訳源氏物語は、完訳で、和歌は、そのままの形で残されています。
仮名遣いを改めたバージョンが、角川から、全訳源氏物語 と題して出版されています。
また、源氏物語には、「草子地」といって、「作中人物を現実に目撃した女房の一人称の語り」あるいは
「情報源としての女房の一人語りを聞いて筆者した人物が漏らした一人称の感想」の部分があるのですが、
晶子の翻訳は失敗しているそうです。
晶子の翻訳に対し、島内さんは、以下の意見を述べられています。
十一世紀の『源氏物語』は、「文語文法」に則って書かれ、散文にも和歌にも、美しい言葉が無数にちりばめられている。
その「美しい言葉」は、言語体系が「月とスッポン」である現代日本の口語表現に置き換えられるはずがない。
(中略)
与謝野晶子の『新訳源氏物語』もまた、(中略) 「新訳=口語訳」だったために、
『源氏物語』が『源氏物語』であるための最大の存在根拠である「言葉の輝き」が奪われてしまった。
与謝野源氏の口語訳では、満足せず、その後、谷崎源氏、円地源氏、寂聴源氏など、多数の翻訳が生まれました。
決定版の口語訳というのは、生まれ得るのでしょうか。
ドストエフスキーなどの著名な作家の翻訳も、複数の翻訳がありますが、これは、日本に著名な出版社が複数あり、
それぞれが、各社独自の文学全集を取りそろえたいというような事情があったからだと思います。
源氏物語には、林望、大塚ひかり、など、翻訳が、次々と生まれている理由は何なのでしょうね。
第3節の 「現代語訳」を超えるために では、増田于信(ますだゆきのぶ)さんの文語訳の試みが紹介されます。
増田さんは、紫式部が省略した主語や目的語をていねいに補うものの、口語ではなく、文語で訳すことにより、
元の文章をなるべく残すことに努め、新編紫史 と題して、明治21年から23年にかけて出版しました。
明治37年に誠之堂から出版された版が、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877572
どのような文語訳となったのかを調べるために、努力がなされたのかを、学習するために、
桐壺の巻について、新編紫史 源氏物語 桐壺 という頁で、原典と比較してみました。
島内さんは、新編紫史 の方法をすばらしいと褒めるのですが、私は、増田さんの文語訳は、いささかいさましくて、
紫式部が書いた文章というよりは、男性が書いた文章の感じがしました。
島内さんは、最後の おわりに で次のように書いています。
『源氏物語』に深く沈潜した樋口一葉は、言っていた。
「紫式部が今の時代に生きていたら、『源氏物語』とまったく違う文体で作品を書いたであろう」、と。
与謝野晶子から始まる「現代語訳」の挑戦は、しかしながら、「現代人として出現した紫式部が書くであろう文体」とは、あまりにもかけはなれている。
登場人物や作者や読者の「心」を受け止めるだけの力を、口語訳の「言葉」がいまだに持ち得ていない。
それでは、『源氏物語』を原文で読むには、どうしたらよいか。
また、必要悪としての現代語訳として最良のスタイルは、どのようなものか。
この最後の2つの難問は、まだ、解決されていません。
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