島田雅彦 漱石を書く 岩波新書 (1993) |
2015.12.4
島田雅彦は、1961年東京生まれで、東京外国語大学でロシア語を勉強し、在学中の1983年に「優しいサヨクのための嬉遊曲」で小説家デビュー。
1987年までに6回芥川賞候補となるが、全て落選し、最多落選記録を有する。2003年から、法政大学国際文化学部教授となる。
漱石についての新書の執筆依頼をうけたとき、「漱石の創作法」について書こうと思ったけれど、
律儀に漱石の創作法を再現するのでは、退屈な仕事になってしまうので、
漱石をパロディ化するような態度の方が漱石の書き方の本質に接近しやすいと確信をもったそうです。
以下に、内容のいくつかを紹介します。
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創作の原動力
「帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、これを是認するに似たり。
親戚の者すら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。
ただ神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾虚集」(ようきょしゅう)を出し、また「鶉籠」を公にするを
得たりと思えば、
余はこの神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。
余が身辺の状況にして変化せざるかぎりは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらんほど永続すべし。」
注 鶉籠(うずらかご) 「坊ちゃん」「二百十日」「草枕」を収めた単行本
言語の三角関係
少年時代、漢学の私塾で学んだ漱石は、漢詩を作るにも縦横に漢文を操ることができた。
英語、英文学の素養は相当のものだったにもかかわらず、漢詩を作る時のような味わいが得られない。
そして、『文学論』の序で語っているように「英文学に欺かれたるがごとき不安の念」を抱くのである。
「翻って思うに余は漢籍においてさほど根底ある学力あるにあらず、しかも余は十分これを味いうるものと自信す。
余が英語における知識はむろん深しというべからざるも、漢籍におけるそれに劣れりとは思わず。
学力は同程度として好悪のかくまでに岐かるるは両者の性質のそれほどに異なるがためならずんばあらず。
換言すれば漢学にいわゆる文学と英語にいわゆる文学とはとうてい同定義の下に一括しうべからざる異種類のものたらざるべからず。」
ここから漱石の文学の探求は始まるといってよい。もし、漱石が言語の三角関係の中にいなければ『文学論』は書かれなかっただろう。
もっとも、明治の作家はそこそこ漢文の素養を持っている。
二葉亭四迷はロシア語と、森鴎外はドイツ語と、それぞれ三角関係を取り結んでいる。
しかし、漱石の『文学論』に当るような文学言論はこの二人によっては書かれなかった。
一つには、この二人は「文学は男子一生の仕事にあらず」と考えていたからであろう。
小説家などより大学教授や外交官や軍医部長の方が尊敬された時代である。
また一つには漱石がこの二人より遅れてきた文学者だったからであろう。
漱石は建築家になりたいと思ったり、ロンドン留学中には「幽霊のような文学をやめて、もっと組織だった
どっしりした研究をやろう」(処女作追懐)と、化学者の池田菊苗の影響をまともに受けたりするような男である。
だが、後世の読者には幸いなことに彼には文学以外の選択の余地はなかった。
漱石の「文学のふるさと」は漢文にあり、「文学の理論」は英文学と漢文学の根本的な違いを意識化することによって生まれ、
多様なジャンルにわたる彼の作品群は漢文と英語を同時に取り込んだ日本語という装置の機能を拡大するようにして書かれたとはいえないだろうか。
日本語でものを考え、ものを書くことに自覚的になった者はその固有性と矛盾に頭を悩ませることになる。
そして、否応なく特定の立場に回帰せざるを得なくなる。
その立場を二つに分類してみれば、漱石的な立場と本居宣長的な立場と言うことになる。
後者は徹底的に日本語の固有性を美意識でのみ捉える。
宣長の日本語に対する認識は、初めに皇国の美しき音声ありき、なのである。
宣長の日本語論は、単に古事記を読んだだけでは曖昧なまま見過ごされてしまうものを意識化させる作業だった。
中国対日本の対立の図式から日本を神聖なものとして切り離すために、神話を再神話化したのである。
やがて、宣長の作業は平田篤胤に受け継がれ、排他的・国粋主義的な色合いを帯びてくる。
いわば、古代ややまとことばの再生は、人情論やもののあはれとともに美学の領域を越えて、深く政治と関係するようになる。
自己正当化の美学は最初、中国からの文化的自立を説くものであったが、明治維新の時代になって、尊王攘夷思想を召喚することになる。
宣長は、日本語と漢文との対立関係の前提に、漢文を排除することで日本人の無意識を
純粋な日本語によって構造化しようとしたが、漱石は日本語と漢文と英語の三角関係の中で、複雑な無意識を獲得することになる。
日本語と言う「場」のもとで漢文と英語が互いを排除し合う。
漱石という主体は両者の折り合いをつけようとし、結果的に日本語の「場」における他言語の対立を体験する。
日本語に対する態度として、どちらが居心地いいかはいうまでもない。宣長的な態度をとれば、
一切の他者が介在しない同一者たちの共感に基づく言葉の共同体に閉じ籠っていられる。
逆に漱石的な立場をとった場合、共感のコミュニケーションは通用せず、何から何まで説明することが原則になる。
言葉の厳密性を期しても必ずしもコミュニケーシンは成立せず、すれ違ったり、誤解しあう羽目になったりして、結局は孤独だ。
「英文学に欺かれた」と感じた漱石は、漢文の世界に戻ってくることも許されず、日本語の何でもかんでも取り込む無原理性に回帰してくる。
しかし、日本語に回帰しただけでは何も始まらない。
言語の三角関係の中には第四の一角が潜んでいることを発見しなければ、彼はただ三角関係に引き裂かれ、神経衰弱から立ち直れなかっただろう。
言語の三角関係の中に現れる第四の一角とは、「書く行為」そのもの、それも多様な書き方にまみれることである。
現に漱石の創作活動は直線的ではない。文学的な道草の総体こそ漱石が目指していたことなのである。
しばしば、漱石の作品では、主人公に限らず、語り手さえも、ああでもない、こうでもないと回りくどく物事を考え、語る。
何か本質を迂回しようとしているようにも読める。
しかし、実のところ、本質には永遠に辿り着かないのが漱石文学の特徴なのかも知れない。
何かいおうとすると、必ず対象からズレる。もっとうまくいおうとすると、またズレる。
その永久運動が漱石文学なのではあるまいか。
日常生活の中で問題が起こり、主人公たちはそれをめぐって悩むが、いつも思考は堂々巡りになり、解決策はどれも効を奏さない。
自殺『こころ』発狂『行人』出家『門』・・・起承転結というイデオロギーに対するアンチテーゼなのか。
ヨーロッパの文学でもなく、中国の文学でもない、日本の文学の特質として見出した「何も起こらない小説」の提示なのか
・・・・・・漱石文学は故意の麻痺状態にある。
漱石は日本語をいろいろなレベルで使い分けた。
知識人の言葉、女の言葉、無意識の内奥から紡ぎ出される言葉、夢の言葉、市井の人々の言葉、青二才の言葉などなど。
それらレベルの異なる言葉はすれ違い、ぶつかりあい、時にとぐろを巻き、繰り返される。
それ自体がポリフォニックな小説の場を構成する要素になる。
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