石平 なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか (2018) 

2021.10.15

 石平(せき・へい)(1962-)さんは、1984年に北京大学哲学科を卒業し、1988年に来日して、

1989年4月から神戸大学大学院博士課程で勉学されますが、そのとき、日本の代表的な思想家は、

江戸期より前は、殆どが仏教であるのに対し、江戸期に入ってからは儒学者であることに気付きます。

 少し引用します。

 これは、なぜなのか。このことは、中国からやってきた私の目には、いかにも「奇妙な現象」として映った。

 しかし不思議なことに、日本思想史に関するさまざまな文献を読み漁っても、この「奇妙な現象」についての

疑問に答えてくれるような書物には、ついに一冊も出会わなかったのである。

それどころか、日本思想史の学術研究の世界でも、そのことが問題として提起された痕跡すらなかった。

 ならば、自分の力で自分の疑問を解いていく以外に道はない。

その結論に達した私は、この十数年間、中国問題に関する考察と著作活動の傍ら、

自力で日本の思想史を学び、思索を続けてきた。

 昨年あたりからやっと、何とか自分なりの答えが見つかったように思えるようになった。

前述の「奇妙な現象」の謎を解いてみせる自信も深まった。

 

 概略を私なりに説明しますと、儒教と仏教は、6世紀頃ほぼ同時に日本に伝わってきますが、

日本は、仏教の方を受容しました。奈良・平安時代に、仏教は国家仏教として発達し、

学問の対象になりました。しかし、鎌倉時代に、仏教の庶民化が進み、浄土真宗や日蓮宗など、

念仏を唱えれば成仏できるということになると、学問の対象としての仏教の地位も変化しますし、

一向一揆などに発展しますと、政権に敵対するものにもなります。

 江戸時代になって、徳川家康は、儒学、とくに朱子学を、幕府公認の官学とします。

しかし、江戸時代を通して、朱子学は、学問の絶対的な主流にはなれず、

脱中華の流れがすすみ、本居宣長などの国学が発展します。

 しかし、この脱中華の流れは、幕末から明治維新にかけて、逆行現象が起こります。

幕末の尊王攘夷の動きは、儒学の復興をもたらすのです。

 石さんの説明を、引用します。

 このような時代的背景のもと、明治期には「脱中華に逆行する動き」が随所に見られるようになる。

儒教を中心とした中国思想も、日本の国民道徳の中核の一部を占めるようになり、見事な復権を遂げた。

 その後の短い「大正デモクラシー」を経由して昭和期に入ると、思想史的な「脱中華に対する逆流」は、むしろ加速した。

昭和初期の日本は、対内的には天皇の絶対化を基軸とした全体主義的国家体制を作り上げ、

対外的には日本を頂点とした「大東亜秩序」の建設に向けて邁進したが、

これはまるで「中華秩序」の日本版のようにさえ見える。

 国家の形からすれば、この時期の日本ほど、中華帝国に類似している日本もない。

思想史的にも、この時期の日本ほど中華思想に近い日本はない。

しかしその結果、日本が辿り着いたのは、史上最大の敗戦、

そして史上初めての国土被占領という破滅的結果であった。

 そのような結果をもたらしてしまった近代日本の思想史の流れ

−明治の教育勅語から昭和の大東亜秩序の建設までの流れ−を、いかに考えるべきか。

その思想的背景に考察のメスを入れ、その功罪に公正な評価を下し、いかに後世への教訓とするか。

私はそれを、本書に続く私自身の次なる仕事のテーマとしたいと考えている。

 

 

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