佐藤公一 小林秀雄の日本主義 『本居宣長』論 (2010) |
2019.8.2 更新2019.8.14
非常に薄い本ですが、小林秀雄の『本居宣長』を読むうえで、非常に参考になります。
本文中に、『本居宣長』の文の引用があるのですが、具体的な場所の説明がありません。
また、本文は引用していないが、『本居宣長』の内容の解説がなされる場所もあります。
そこで、『本居宣長』から引用された文章と、その場所を、明示し、
佐藤さんの論旨が分かるような書き込みをしたいと思います。
佐藤さんの文章の引用は、○印+青字で示し、文末に頁数を示します。
小林秀雄の『本居宣長』の引用は、●印+青字で示し、新訂小林秀雄全集第十三巻の頁を示します。
○さて、『本居宣長』は、随筆風に、さりげなく書き出される。p.8
●本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。p.11
●戦時中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだことがある。
●それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。
●話が「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。
(中略)
●帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取り止めもない雑談を交わして来たのだが、お別れしようとした時、
不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。p.11
次に、宣長が山室山の妙楽寺の裏庭に墓碑を作ったときに詠んだ歌の話になります。
●彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。p.22
直訳 山室山に、千年の春の宿に住んで風にも知られずに咲く桜の花をこそ見なさい
直訳 今からは、はかない身とは歎くまいよ 千代の住処を求め得たので
●普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。
○本居宣長の持論によれば、人はすべて死ねば「夜見の国」に行くものであるというのであるが、
しかし、国学の門人はもとより、一般人も死後の安心を願う心から、本居宣長の説には不安を覚えたのである。
〇ここには仏教のような死後の安心がない。救済がない。
〇これは、本居宣長の国学の大衆化を阻む大きな障壁だったのである。
門人たちは、宣長の先の二首は、辞世の歌で、改心したと、考える事にしました。
〇ところが、小林秀雄は「辞世」とは見なさないのである。
●山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。p.23
●ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。
●その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる。
直訳 よみの国を思えば何故か憂鬱であっても、せっかくのこの世を 厭うて捨てるべきでしょうか
直訳 死ねば皆、黄泉の国に行くとは知らないで、仏の国を願うおろかさよ
だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、埒もない事だろう。
●私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。
●この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。
●その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものであった。
●この困難は、彼によく意識されていた。
●だが、傍観的な、あるいは一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、
先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も、今日も変わりはないようだ。
●村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治44年であるが、
私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。
●村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で書かれているのだが、
それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。
●私は、研究方法の上で、自負するところなど、なにもあるわけではない。
●ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、
私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、
その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。
(中略)
●宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或いは構造を抽き出そうとは思わない。p.24
●実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。
このように、小林秀雄は、後の人に誤解された宣長ではなく、宣長の本来の姿を書こうとしました。
それを、佐藤さんは、次のようにまとめます。
〇小林秀雄が、ここで行ったことは「国学の系譜の切断」である。
そして、それを裏付けるために、もう少し後で語られる小林秀雄の文章を引用します。
●「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。p.34
●彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。
●彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、
これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打ち建てられたものではなかった事による。
●そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。
●私には、宣長から或る思想の型を受け取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、
言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受け取る方が面白い。
●彼は「物まなびの力」だけを信じていた。
●この血からは、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。
●彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。
さて、第1章での佐藤さんの説明で、私が、一番、感銘を受けた部分を2か所引用します。
〇私には小林秀雄の『本居宣長』は、小林秀雄が昭和の文士として日本語で文筆業を営んできて、
日本の文化に美意識を育まれてきた小林秀雄自身の、
言語的、文化的な、総体としての日本への恩返しのように見える。p.11
〇そして、繰り返しになるが、小林秀雄は日本語の生成過程、成長過程、その変遷を
鮮やかにこの書物で明らかにしたと言えるだろう。p.26
●学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった。p.41
●宣長は、契沖から歌楽に関する蒙を開かれたのではない、
凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、
出会ったというところが根本なのである。p.55
第2章のタイトルが「不楽之楽」となった理由は、本書を読んでもらうとして、小林秀雄の元の文章を少し長くなりますが、引用します。
●当時の宣長の儒学観が、徂徠の影響下にあるのは明らかだ。p.46
●儒学の本来の性格は、朱子学が説くが如き「天理人欲」に関する思弁の精にはなく、
生活に即した実践的なものと解すべきものだが、
それも、品性の陶冶とか徳行の吟味とかいう、曖昧で、自己欺瞞や空言に流れ易いものにはなく、
国を治め、民を安んずるという、はっきりした実際の政治を目指すところに、その主眼がある。
●これが徂徠の基本的な主張であるが、そうすると、宣長が是認していたのは、当時の最も現実的な儒学観だったと言える。
●だが、既に見て来たように、彼の書簡は、言わば儒家の申し分のないリアリズムも、
自分自身の生活のリアリズムには似合わない、それだけを語っている。
●書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、
彼が、自分自身の事にしか、本当には関心をもっていない、
極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとしていない、
この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。
(中略)
● 従って、彼の論戦は、相手を難ずるというより、むしろ自分を語っている。
●彼に問題なのは、実は、儒学自体ではないので、相手が、儒学を自ら掴んでいるか、
ただ儒学につかまって了ったに過ぎないのかという、それだけが宣長にとって、切実な問題なのだが、
そういう彼の心の動きが、遂に、「論語」に孔子の「風雅」を読んで了うのである。
●「孔子の意、すなわち亦これに在りて、而して彼にあらず」、これは、宣長の自己の投影である。
●そこから、彼は、「論語」にしばしば使われている、孔子の「楽」という言葉の深さについて考えている。
●ある友人が、恐らく、君子に「十楽」ありと言ったような意味の事を、宣長に書き送ったに対し、
そんな暢気な事を言っているようでは、足下にはまだ孔子の「学習之楽」の意味は解るまい、
この「楽」は、弦歌優游の尋常楽とは全く質を異にする、孔子には絶対的な楽であり、
言ってみるなら、「不楽之楽を楽しむ」という趣のものだと言う。
(中略)
●「和歌を楽しみて、ほとんど寝食を忘れる」という彼の言葉が、やがて
自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或いは確信が、強く感じられるからだ。
●契沖は、既に傍に立っていた。
そして、第2章の最後は、以下のように進みます。
〇学問の秘訣を小林秀雄は次のように記す。p.35
●文献的事実とは人間の事だ。p.55
●彼が荷っている「意味のふかき処」を知るには、彼と親しく交わる他に道はない。
●これが、宣長が契沖から得た学問の極意であったと言ってよく、
これが、常に宣長の念頭に在って動かぬから、
彼は、言うも行うも易い学問の法を説き渋り、
言うは易く行うは難い好学心、勉学心を説いて了う事になる。
●好学心、勉学心が、交わりの深化に必須な、無私を得ようとする努力を指すのは言うまでもなかろう。
下剋上という言葉は、小林秀雄の本居宣長の8章で使われている。
戦国時代の下剋上の結果、豊臣秀吉が、天下人となりましたが、
小林秀雄は、学問界にも、中江藤樹という天下人が 現れたと語ります。
●中江藤樹が生れたのは、秀吉が死んで十年後である。p.67
●藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終わりながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。
●勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。
(中略)
●彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。p.68
●眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。
(中略)
●なるほど、戦闘の生活の必要は、人間の型を大きく変えた。p.73
●この半ば自然力とでも呼ぶべき時の力から、誰も逃れはしなかった。
●その意味では、誰もが、戦国の生活の強制に応じたと言えるのであり、
勝利者は、一番上手に精力的に、時の生活に適応出来た人だった筈だろう。
●藤樹という人は、この、事の自然な成り行きに適応した人々の無意識性から、決定的に離れた人だ。
●彼は、時の勢いを拒否もしなかったし、これに呑まれもしなかった。
●ただ眼を内側に向ける事によって、極めて自然に孤立した。
そして、9章で、藤樹の学問の特質について語ります。
●書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。p.78
●それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。
●彼等は、古典を研究する新しい方法を思い付いたのではない。
●心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。
●仁斎は「語孟」を、契沖は「萬葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「萬葉」を、宣長は「古事記」をという風に、
学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。
●彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無視を得んとする努力であった。
●この努力に、言わば中味を洞(うつろ)にして了った今日の学問上の客観主義ほ当てるとは、勝手な誤解である。
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