「大岡信  正岡子規 - 五つの入口 (1995)

2017.4.8

 大岡信 (1931-2017) さんが4月5日に、86歳で亡くなったというニュースを新聞で知り、図書館で、この本を借りてきました。

丁度、古今集の勉強を始めたところで、大岡さんが執筆・編集された学研現代語訳日本の古典3「古今集・新古今集」を読んでいる最中でしたし、

大岡さんの名著「紀貫之」の古書を発注したところでした。

 この本は、大岡さんが、1993年5月から6月にかけて5回開催したセミナー「正岡子規論」をまとめたものです。

第一講 子規の生い立ちと素養

第二講 子規の俳句 - 月並調の是非

第三講 子規の短歌

第四講 『病状六尺』など、晩年の随筆

第五講 書き抜きと初期随筆

 子規の短歌論について読みたいと思って借りてきましたので、主として、その部分について、紹介しますが、

同時代人の夏目漱石や森鴎外についても、興味深い記載がありましたので、ご紹介して、ご冥福を祈りたいと思います。

 

1.1 教養はどのようにして作られるか

 子規は、四国の松山に生まれ、母方の祖父である漢学者の大原観山から漢文の教育を受けました。

当時は、5歳くらいから、漢文や古文の素読をさせられるのですが、意味がわからなくても、先生や親が読んだものが

そのまま耳に入ってきて、言語経験のいちばん根本のリズム感が育つのだそうです。

 大岡さんは、指摘します。

いまの日本人が言語的にだめになっているとすれば。それはリズム感がなくなっているからです。

 また、号について書かれていることが、興味深いので、少し省略しながら、引用します。

号を作るということは、ほかの人間になるということでしょう。本名で書くときと号で書くときとは違います。

本名で書くのも号で書くのも同じなら、なにも号を持つ必要はないのであって、そんな芸なしはどうしようもない。

芸というものは、人間が別なものになるから芸なんです。

(中略)

号を持つということは、つまり、そういうことでありまして、正岡子規という人は、そういう意味で、

変身する必要と、 変身する快感とを知っていました。子規が多産だったということのひとつの理由は、

この人がある瞬間に、 あることに夢中になっていても、次の瞬間にばっと別なことに夢中になれるという素質を

備えていたからだと思います。

(中略)

この人は、俺は正岡子規である、あるいは、正岡升であるとは思っていないのです。現代人はみんな哀れで、

俺は誰々だと言って、自分以外の人のことは考えない。ほかの人を押しのけることばかり考えている。

ところが、子規はほかの人を一人でも押し上げることしか考えていない。これはすごい人です。

そういう人はほかにも何人もいます。岡倉天心という人もそうでした。彼らは要するに我を張らない。

我を張る必要がない。なぜならば、どんな人にもなれたから、俺は誰々だと自分を限定する必要がなかったのです。

そういう人たちが明治のいちばんいい時代を作り出した人たちです。明治文化というのは、そういう人たちによって 作られました。

明らかに夏目漱石もそうですね。漱石だって、俺は漱石だといばったことは一度もない。

それだから彼を慕って、あれだけ大勢の優秀な青年たちが集まった。

森鴎外もそうでした。森鴎外の観潮楼には、その当時の日本の文壇の大御所が集まりました。

 いまはカメレオンみたいに変わる人は、だいたい世の中ではばかにされますね。

だけれど明治時代はそうではなかった。能力があればいくらでもほかのことをやっていい、そういう時代です。

あの時代のほうがずっといまよりは貧しかったにもかかわらず、人間の心はずっと豊かだったということが言えると思います。

その典型の一人が正岡子規だということで、36歳で死んだにもかかわらず、厖大な作品を残しました。

 

1.2 厖大な仕事を支えた好奇心

 講談社の子規全集は、全25巻ですが、子規が書き残したものはもっとあって、50巻でも足りないそうです。

子規が生涯かけて取り組んだ、俳句分類について、詳しく説明してくださっています。

 ここでは、以下の文章を紹介します。

 俳句とか短歌を作るときに、まずやるべきことは、目の前にあるものから何を取り去って、

最後に何を残すかということを決めるということです。

普通、人は、目の前にあるなんでもかんでもと格闘しなければものは作れないと思っていますが、

実は自分のほうが踊らされているのであって、対象はぜんぜん動いていないのです。

ものを作るということは、対象を逆に動かしていくことですね。

対象を動かすということは、つまり対象の無駄なところは全部削っていくことです。

自分の目から見て無駄なものは削る。しかし、その削られたものが、ほかの人にとって非常に意味があれば、

ほかの人はそれを残す。それでいいんです。だからこそみんな作るものが違う。

 

1.3 夏目漱石の出現

 夏目漱石 (1867-1916) は、33歳になって、文部省から2年間のロンドン留学を命じられます。

本人は、余り行きたくなかったのですが、頑張らねばという義務感で行き、胃をすっかり壊してしまったそうです。

ロンドンに行ってしばらくして気が付いたのは、英文学で一流の学者になることは無理だとわかったんだそうです。

 大岡さんは、対比して、20歳でドイツに留学した 森鴎外 (1862-1922) のことを紹介しますので、少し引用します。

森鴎外はものすごい頭脳の持ち主で、ドイツに着いた途端に、君は何年ドイツにいるのか、と聞かれたと、

得意そうに『舞姫』の主人公に託して書いていますけれども、それほどドイツ語ができました。

こういう連中は悠々と遊んで来ますね。彼は衛生学の専門の医者だったのに、

哲学も演劇も小説も、音楽だけはちょっと弱いと思いますけれども、美術についても、

とにかく全部、当時の知識人が持つべき教養というのはだいたい持っている。

しかも彼の全集をごらんになればわかりますけれども、全集のかなりの部分の文章はドイツ語です。

 

 漱石は、自分がいちばん楽にできるのは実は漢文だと気づきます。日本にもどってから、英文学の教師を続けましたが、

家に帰ってくると、ほかの人間になったつもりで、『倫敦島』などの小説を書きました。

そして、高浜虚子に頼まれて『ホトトギス』に書いた『吾輩は猫である』が、爆発的な人気を得ます。『坊ちゃん』が、続きます。

朝日新聞がその人気に飛びついて、漱石を東大教授から引きずり下ろして、高条件を提示して、朝日の社員にします。

 朝日新聞で最初に連載した小説は、『虞美人草』です。小説としては、玄人筋には受けなかったのですが、

一般読者には、えらく受けて、三越などでも、虞美人草浴衣とか、虞美人草手拭いなどが、飛ぶように売れたそうです。

 プロの小説家たちは、あんな気取った、キンキラキンの変な小説を書きやがってと言っていたのですが、

漱石の人気に、負けてしまいます。

 

2.2 「写生」以前の子規 - 「月並」とは?

 第二講、第三講で、大岡さんの俳句・短歌論が、詳しく展開されますので、これらに志す人の参考になると思います。

 俳句は、五七五と短く、主観的な濁りを排除するのに対し、短歌は、最後の七七で、主観を詠います。

 そこで、少し引用します。

 小説家などで短歌や俳句を作る人がいますね。短歌を作った小説家にはどんな人がいますでしょうか。

たとえば、森鴎外はたくさん作りました。鴎外は俳句も作ったけれど、短歌のほうがいい。

鴎外には、短歌的素質があったと思います。三好達治は短歌も俳句も作りました。

 ところが、夏目漱石とか芥川龍之介とか室生犀星とか、あるいは永井荷風とか、この人々は、どちらかといえば

短歌というものを軽蔑しています。主観的な自分の悲しみとか怒りとか、そういうものをまともに詠むなどということは

恥ずかしいことだという考え方があって、彼らは俳句は作りますけれど短歌は作らなかった。それくらい違うわけです。

永井荷風の俳句は多少いいのがあります。しかし芥川ほどてはありません。

芥川は俳人として素晴らしい才能がありました。漱石がそうでした。

 

2.5 子規と現代の俳句 - 「月並」の再評価

 この節も、面白く読みました。冒頭の部分を少し引用します。

 さて、月並みを明治の俳人たちが恐れたということは、月並というのが、それだけ勢力が大きかったからです。

日本の伝統から言えば、月並のほうが正統なのです。さっき申しましたが、夏の風と秋の風が立秋の時に空を入れ違って、

大空の片方だけは涼しい風が吹いているだろうというような想像力で作られた和歌を読んで、そうだなあと感心してしまう。

目の前にある事実だけではなくて、頭の世界でも交流できる。それが日本の詩歌伝統のきわめて大事なところです。

それを正岡子規は断ち切った。そこで紀貫之をも否定しなければならなかったのです。

ところが、いまになってみると、子規のそういう態度には問題があった、と思います。

なぜかというと、日本の伝統の大事なところを断ち切ってしまったからです。

 私は、正岡子規を尊敬し、愛していますし、子規か゜『古今集』や紀貫之を断ち切ったときの、

明治中期の時点での彼の立場はよくわかるけれども、しかし、

それが彼の後輩たちに、そのまま受け継がれてしまったことには大きな問題があると思います。

そのために日本の伝統であった、豊かな空想力の世界で遊ぶとか、言葉の面白さで遊ぶとか、

お互いに相手の心の底まで憶測しながら、しかも知らぬ顔して相手と付き合うとか、

こういう部分が全部否定される結果になったのです。

これは子規が悪いのではなく、子規の弟子たちが悪いのです。(中略)

 写生句を主張したけれども、写生にとらわれることを嫌ったのも子規なのです。ところが、弟子たちの間では、

写生句でなければだめだという考え方が行き渡りました。

 このあと、『ホトトギス』に反逆した、水原秋桜子や山口誓子のことに話が進みます。

 

 引用の冒頭の短歌は、凡河内躬恒の「夏と秋と行きかふそらのかよひぢは かたへすずしき風やふくらん」のことで、

大岡さんの解説によると

 今日は秋になった。真夜中に空の道を夏が立ち去っていく。そして秋が、その同じ道を逆の方角からこちらへ向かってやって来る。

その二つがすれ違って、片方は涼しかろう、もう片方は暑かろう。こういう理屈の句なのですが、私はこの歌が大好きです。

非常に鮮明なイメージかありますね。大空の上を夏の風と秋の風とが両側からすーっと地球を渡ってきて、

われわれの頭の上でちょうどいますれ違っている。というんですね。立秋というもののとらえ方としては、卓抜なものだと思います。

 つまり、たいてい我々は暦で今日から立秋だと思うだけでしょう。ところが昔の詩人たちは、そこに何かとても

大事な季節の移り変わりというものを実感したのです。夏という、いわば人格と、秋という人格、この二つが風になって、

大空の上を両方が渡って行き、そして来る。片方は秋の風ですから涼しい、もう一方は夏の風ですから暑い。

平安朝の歌人は、こういうふうに想像をたくましゅうして、立秋というものを寿 (ことほ) いだのです。

要するに歌というものは、その当時は季節であっても何であっても寿 (ことほぎ) なのです。

花が咲いていれば褒める。季節がやってくれば、その季節を歓迎して褒める。

 

 凡河内躬恒のこの歌は、直訳すると、以下のようになります。

夏と秋と行きかふそらのかよひぢは かたへすずしき風やふくらん

夏と秋と行きかふ空の通ひ路は 片へ涼しき風や吹くらん

夏と秋が行き違う空の通路では、片方は、涼しい風が吹いているのでしょうか

 この歌は、旧暦の6月30日、つまり立秋の前日に詠まれていて、

夏と秋が入れ替わる立秋が近づき、秋の側では、涼しい風がふいているのだろうなあという歌なのですが、

こういう歌を、理屈だけをこねた、つくりもののつまらぬ歌ととるのか、

それとも、まだまだ暑い中、秋の涼しさの到来を待ち望む心を詠った歌ととるのかは、意見の分かれる所だと思います。

 

3.1 明治の和歌革新 - 鉄幹・子規

 和歌の革新運動に関しては、与謝野鉄幹の『明星派』と、正岡子規の『アララギ派』の争いがあり、さらに、ややこしくなります。

両者の共通の敵は、宮中の御歌所の歌風でした。

御歌所は、和歌を非常に好まれた明治天皇が、明治6年頃御作りになったもので、伝統的な和歌ほ保存し、権威となっていました。

 与謝野鉄幹は、詩も含めて新詩社というグループを作り、ここを母体として、明治33年から『明星』という雑誌をだします。

しかし、自然主義の文学の興隆により、゜明星』はも10年間続いてつぶれます。しかし、明星の蒔いた種は、詩の方では、

高村光太郎、北原白秋、萩原朔太郎、佐藤春夫、堀口大学、石川啄木などに、花を咲かせます。

 第三講には、たくさんのことが盛り込まれていて、今現在は、何かを取り上げて語るということができません。

もっとじっくり読んで、日を変えて、語りたいと思います。

 

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


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