日本古典文学全集2 万葉集1 (1971, 1994)  

2021.02.05

 万葉集の翻訳をするときには、図書館から、日本古典文学全集の新編

万葉集の巻を借りてきていたのですが、この度、古本で、旧版の4冊を購入しました。

 旧版の校注・訳者は、以下の三名です。

小島憲之(こじまのりゆき) 1913年2月15日−1998年2月11日

木下正俊(きのしたまさとし) 1925年

佐竹昭広(さたけあきひろ) 1927年10月19日−2008年7月1日

 1994年に刊行された新編の校注・訳者は、以下の三名です

小島憲之(こじまのりゆき) 1913年2月15日−1998年2月11日

木下正俊(きのしたまさとし) 1925年

東野治之(とうのはるゆき) 1946年12月20日−

 新編の校注・訳に、佐竹さんが関与しなかった理由は、よくわかりませんが、

新編の凡例の最後に、以下のような説明がありました。

本書のもとになったものは、『日本古典文学全集』本(小学館刊)および『完訳日本の古典』本(同)であり、

これらに協力を得た佐竹昭広氏の学恩に深く感謝する。

 旧版も、新編も、このシリーズ独特の、、注釈と本文と現代語訳の三段組という特徴は、守っています。

しかし、最下段の現代語訳の所に、万葉ガナの漢字も表示して、かなり窮屈な配置となったため、、

中段と下段の進行ペースが合わず、和歌と、その現代語訳が、別頁にずれてしまうことがあります。

 旧版の12年後に出版された完訳日本の古典シリーズの万葉集6冊本においては、

右頁に現代語訳、左頁に原典、下段に注釈とし、空白の多い余裕ある配置にして、

現代語訳と本文は、かならず、左右に対応するように配置されています。

 

 さて、万葉集は、20本の巻子(かんす、巻物)かに成っているのですが、旧版の解説に、

巻子本であることの意味を、説明していまたので、紹介します。

 この巻子本という体裁は、今日から見れば、はなはだ不便で、ことに巻尾の近くを

見ようと思うときなどは、巻物を全部繰りひろげなければならないという欠陥を持つ。

しかし、編纂する者のがわとしては、便利な点があることを認めないわけにはゆかない。

それは文字どおり、切り継ぎも切り捨ても、のりとはさみさえあれば自由自在にできたということである。

書き損じたら、紙の継ぎ目であろうとなかろうと、切り捨てればよい。

新しく加えたいと思ったら割り込ませることも簡単である。

 なるほど、巻物は、編集時には、便利そうですね。

 台紙を、巻くのではなく、山、谷に折り曲げて蛇腹のようにすれば済むような気もしますが、

巻き込んだほうが、保存は確実で安全なのだろうと思います。

 さて、解説は、次の章 編纂者の問題 で次のような議論に進みます。

『万葉集』は巻物であった。それゆえに一巻一巻がひとつの単元をなしている。

時には、歌の左注の中で、この歌はすでに他巻に見えたが、これこれ事情によって

重ねてここに載せた、というようなことわり書きを付けた例(2808)もあるかたわら、

43と511、488と1606というふうに、重出した歌が十数組もある事実は、

異なる単元のもとにまとめられた結果であろう。

(中略)

二十巻全部がみな別人によって編集されたとは考えられないが、少なくとも五、六人、

多ければ十数人の人の手が混じって、時を異にして、複雑な手順を経て成ったと思われる。

 

 

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