夏目漱石 余が『草枕』  (1906)

2018.2.1

 夏目漱石は、明治39年(1906年)9月の「新小説」に、草枕を発表しましたが、同年11月15日の「文芸世界」で、小説『草枕』の意図する所を語りました。

まだ、一高や東大で教えていた頃の漱石が、どういう考えでいたか、よくわかる文章なので、以下に、全文と、現代語訳を掲載します。

  なお、『草枕』を愛する読者の方は、是非、松岡正剛さんの千夜千冊の中の草枕の解説(2002年7月18日)をお読みください。

   

●一体、小説とはどんなものか、定義が一定してゐるのか知らん。
一体、小説とはどんなものか、定義は定まっているのかしら。

●見た所、世間の真相を穿ツたものを書く心理小説とか、一つの哲理を書き現はす傾向小説とか、主として時代の弊のみを発(あば)く一種の傾向小説とか、
見た所、世間の真相を穿ったものを書く心理小説とか、一つの哲理を書き表す傾向小説とか、主として時代の弊害のみを暴く一種の傾向小説とか、

又は、走馬燈の如き世間の出来事を、何のプロットもなしに、其のままに描(うつ)し出すものとか、
又は、走馬燈のような世間の出来事を、何の筋書きもなく、そのままに映し出すものとか、、

その他いろいろの種類はあるが、此等、普通に小説と称するものの目的は、必ずしも美しい感じを土台にしてゐるのではないらしい。
その他色々の種類はあるが、これら、普通に小説と称するものの目的は、必ずしも美しい感じを土台にしているのではないらしい。

汚なくとも、不愉快でも一切無頓着のやうである。 
(これら小説は、) 汚くとも、不愉快でも、一切、無頓着のようである。

唯だ世の中の人間はこんなものである、世の中にはこの位汚いことがある、こんな弊がある、人は此くまでに恐ろしいものであるといふことが、読者に解りさへすればよいものらしい。
ただ世の中の人間はこんなものである、世の中にはこの位汚いことがある、こんな弊害がある、人はこんなにまで恐ろしいものであるいうことが、読者に分かりさえすれば良いものらしい。

もし其の上に、ある感じを与へるとすれば、それはかうでもあろう。 
もし、その上に、ある感じを加えるとすれば、それはこうでもあろう。

即ち、だから人間は働かねばならぬ。正直でなければならぬ。悪い者には抵抗して行かねばならぬ。
即ち、だから人間は働かねばならない、正直でなければならない、悪い者には抵抗していかねばならない、

世の中は苦しいけれども忍ばなければならぬ。物事は齟齬して失望落胆は頻りに到るが、常に希望をもって進んで行かねばならぬ、と、
世の中は苦しいけれども耐えなければならない、物事はかみ合わず、しきりに失望や落胆するが、常に希望を持って進んで行かなければならない、などと、

要するに、世の中に立って、如何に生きるかを解決するのが主であるらしい。
要するに、世の中で役に立ち、いかに生きるかを解決するのが主目的であるらしい。

●もし、仮りに、これのみが今の小説であるとすれば美を描くといふ主意はいらぬわけだ。
もし、仮に、これのみが今の小説であるとすれば、美を描くという主目的はいらないわけだ。

唯だ真を描(うつ)しさへすれば、仮令(たとへ)些(さ)の美しい感じを伝へなくとも構はぬわけだ。
ただ真実を映しさえすれば、たとえいささかの美しい感じを伝えなくとも構わないわけだ。

●けれども、文学にして、苟(いやしく)も美を現はす人間のエキスプレッションの一部分である以上は、文学の一部分たる小説もまた美くしい感じを与へるものでなければなるまい。
けれども、文学であって、仮にも、美を表す人間の表現の一部分である以上は、文学の一部分である小説もまた、美しい感じを与えるものでなければならないでしょう。

勿論、定義次第であるが、もし此定義にして誤って居らず、小説は美を離るべからざるものとすれば、現に、美を打ち壊して構はぬものに、傑作と云はれるもののあるのは可笑しい。
勿論、定義次第ですが、もしこの定義が誤っていなく、小説は美を離れるべきでないものとすれば、現に、美を打ち壊してかまわないものの中に、傑作といわれるものがあるのはおかしい(変だ)。

私はこれが不審なんだ。  私は、これがわからないのだ。

●私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。
私の『草枕』は、この世間で普通にいう小説とは、全く反対の意味で書いたのである。

唯だ一種の感じ、美くしい感じが読者の頭に残りさへすればよい。 
ただ、一種の感じ、美しい感じが、読者の頭に残りさえすればいい。

それ以外に何も特別な目的があるのではない。  それ以外に、何も特別な目的があるのではない。

さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。  そうであればこそ、話の筋も無ければ、事件の発展もない。

●茲(ここ)に、事件の発展がないといふのは、かういう意味である。 
ここで、事件の発展がないというのは、こういう意味である。

あの『草枕』は、一種変った妙な観察をする一画工が、たまたま一美人に邂逅して、之を観察するのだが、此美人即ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立ってゐて、少しも動かない。
あの『草枕』は、一種変わった妙な観察をする或る画家が、たまたま或る美人にめぐりあい、観察するのだが、この美人、即ち作品の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立っていて、少しも動かない。

それを画工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右からと、種々な方面から観察する、唯だそれだけである。
それを画家が、前から、後ろから、左から、右からと、種々な方角から観察する、ただ、それだけである。

中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない。
中心となるべき人物が少しも動かないのだから、そこに事件の発展のしようがない。

●所が普通の小説ならば、この主人公は甲の地点から乙の地点に移ツて行く、即ち其処に事件の発展がある。
ところが、普通の小説であれば、この主人公はある地点から別の地点へと移って行く、すなわち、そこに事件の発展がある。

此の場所に於ける作者は、第三の地点に立ツて事件の発展して行くのを側面から観察してゐるのだが、
この場合において作者は、第三の地点に立って、事件の発展していくのを、側面から観察しているのだが、

『草枕』の場合はこれと正反対で、作中の中心人物は却って動かずに、観察する者の方が動いてゐるのだ。
『草枕』の場合は、これと正反対で、作中の中心人物はかえって動かないで、観察する者の方が動いているのだ。

●だから、事件の発展のみを小説と思ふ者には、『草枕』は分からぬかも知らぬ、面白くないかも知れぬ。
だから、事件の発展のみを小説と思う者には、『草枕』は、分からないかもしれない、面白くないかもしれない。

けれども、それは構ツたことではない。  けれども、それは知ったことではない。

説明 構う という言葉は、現在形の 構わない は、現代でもよく使われますが、過去形の 構ったこと は、使われなくなりました。

   過去形でも使える言葉としては、知ったことではない、言ったことではない、困ったことではない、などがありますが、

   ここでは、意味としては、知ったことではない が、最も近そうに思います。

私は唯だ、読者の頭に、美しい感じが残りさへすれば、それで満足なので、若し『草枕』が、この美しい感じを全く読者に与へ得ないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも与へられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。
私はただ、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なので、もし『草枕』が、この美しい感じを全く読者に与えられないとすれば、すなわち失敗作、多少とも与えられるとすれば、すなわち多少は成功したのである。

●また、私の作物は、ややもすれば議論に陥るといふ非難がある。が、私はわざとやツてゐるのだ。
また、私の作品は、ややもすれば議論に陥るという非難がある。しか、私はわざとやっているのだ。

もしもそれが為めに、読者に与へるいい感じを妨げるやうではいけないが、これに反して、却って之れを助けるやうならば、議論をしようが、何をしようが構はぬではないか。
もしそのために、読者に与えるいい感じを妨げるようではいけないが、これに反して、かえってこれを助けるようであれば、議論をしようが、何をしようが、構わないではないか。

要するに、汚ないことや、不愉快なことは一切避けて、唯だ美くしい感じを覚えさせさへすればよいのである。
要するに、汚いことや、不愉快なことは一切避けて、ただ美しい感じを覚えさせさえすればよいのである。

●普通に云う小説、即ち人生の真相を味はせるものも結構ではあるが、同時にまた、人生の苦を忘れて、慰藉するといふ意味の小説も存在していいと思ふ。
普通にいう小説、すなわち人生の真相を味わせるものも結構ではあるが、同時にまた、人生の苦を忘れて、なぐさめるという意味の小説も存在していいと思う。

私の『草枕』は、無論後者に属すべきものである。 私の『草枕』は、無論、後者に属すべきものである。

●此の種の小説は、従来存在してゐなかツたやうだ。 この種の小説は、従来存在していなかったようだ。

また多く書くことは出来ないかも知れぬ。  また多く書くことはできないかも知れない。

が、小説界の一部に、この意味の作物もなければならぬと思ふ。 
が、小説界の一部に、この意味の作品もなければならないと思う。

●分り易い例を取ツて云へば、在来の小説は川柳的である。穿ちを主としてゐる。
分かりやすい例を取って言えば、在来の小説は、川柳的である。穿ちを主としている。

説明 穿ち とは、人情の機微を巧みに言い表すこと。

が、此の外に美を生命とする俳句的小説もあつてよいと思ふ。 
が、このほかに、美を生命とする俳句的小説もあっていいと思う。

尤も、在来の小説の中にも、此の分子が全然無いと云ふのではない。 
もっとも、在来の小説の中にも、この分子が全然ないというのではない。

いかにも美しい感じを与へるやうな所もあるが、それが主になツてはをらぬ。
いかにも美しい感じを与えるような所もあるが、それが主になってはいない。

汚ないものをも避けずに平気で描(うつ)してゐる。  汚いものを避けずに、平気で写している。

●で若し、この俳句的小説 − 名前は変であるが − が成立つとすれば、文学界に新らしい境域を拓く訳である。
で、もし、この俳句的小説(名前は変ではあるが)が成り立つとすれば、文学界に新しい境地を開くわけである。

この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論無い。 
この種の小説は、いまだ西洋にもないようだ。日本には勿論ない。

それが日本に出来るとすれば、小説界に於ける新らしい運動が、日本から起つたといへるのだ。
それが日本にできるとすれば、小説界における新しい運動が、日本から起こったといえるのだ。

                                              出典 『文芸世界』一巻九号、明治39年(1906)11月15日

 漱石が、ここで俳句小説という言葉を使いましたが、草枕の中で、漱石が俳句を推奨する場面があります。

その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊(か)でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。

十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。

十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。

軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。

まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。

十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。

ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。

涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。

これが平生から余の主張である。

 こういう文章を見ると、これは、小説というよりは、随筆(エッセー)といった方がいいような気がします。

 余が『草枕』の中でも、堂々と

 また、私の作物は、ややもすれば議論に陥るといふ非難がある。が、私はわざとやツてゐるのだ。

と宣言しています。

 

 

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