夏目漱石 野上弥生子の明暗への批評 (1907)

2026.09.19

明治40(1907)年1月17日、夏目漱石が野上弥生子の習作「明暗」に対して批評した巻紙2通

一 非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従って苦心の割に全体が引き立つ事なし
一 非常に苦心した作品です。しかし、この苦心は、局部への苦心です。従って、苦心のわりに、全体が引き立ってはいません。

一 局部に苦心をし過ぎる結果散文中に無暗に詩的な形容を使ふ。
一 局部に苦心しすぎた結果、散文の中に、むやみに詩的な表現を使っています。

然も入(い)らぬ処へ無理矢理に使ふ。 しかも、不必要なところに、無理やり使っている。

スキ間なく象嵌を施したる文机の如し。隙間(すきま)なく装飾を施したテーブルのようです。

全体の地は隠れて仕舞ふ。 テーブル全体の地が、隠れてしまいます。

一 而して此装飾は机の木とある点に於て不調和なり。
一 それにこの装飾は、テーブルの木目とある点に於いて不調和です。

会話は全然写真にして地の文は殆んど漢文口調の如き堅苦しきものなり。
会話は、写真のように良い出来栄えですが、地の文は、漢文口調のような堅苦しいものです。

(余の文体のあるものに似たり)  (私の文体のあるものに似ています)

然し警句は大変多し しかし警句(巧みな表現)が、大変に多い

此警句に費やせる労力を挙げて人間其ものの心機の隠見する観察に費やしたらば是よりも数十等面白きものが出来るべし。
この警句に費やした労力を、人間そのものの心の動きが見え隠れする観察に費やしたならば、この作品よりも数十倍面白い作品ができるでしょう

一 明暗は若き人の作物也。篇中の人物と同じ位の平面に立つ人の作物なり。
一 明暗は、若い人の作品です。作品中の人物と同じ位の地平にたっている人の作品です。

自から高い処に居つて上から見下して彼我をかき分けた様な作物にあらず。
みずから高い所にいて、上から見おろして人物を書き分けたような作品ではない。

夫故に同年輩以上の人の心を動かす能はず。
そのため、同年輩以上の人の心を動かすことはできません。

 大なる作者は大なる眼と高き立脚地あり。
 
大いなる作者は、大いなる眼をもち、高い立脚地にいます。

篇中の人物は赤も白も黒も悉く掌を指すが如く双瞳眸に入る。
作品中の人物は、赤も白も黒もみんな、極めて明白に、両方の目に映ります。

明暗の作者は人世のある色の外は識別し得ざる若き人なり。
明暗の作者は、人生のある色以外は識別できない若い人です。

才の足らざるにあらず。識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。
才能が足らないのではなく、知識が足らないのでもなく、思索を綜合する哲学と年齢が足らないのです。

年は大変な有力なものなり。 年齢は、おおいに有力なものです。

「明暗」の作者は今より十年後に至って再び「明暗」をよむ時余の言の詐(いつわ)りならざるを知るべし。
明暗の作者は、今から10年後に再び明暗を読む時に、私の言うことが、偽りでないことを知るでしょう。

一 去れども世には年ばかり殖えて一向頭脳の進歩せぬものあり。
一 しかし、世間には、年だけとって、一向に頭脳が進歩しない人もいます。

十中六七迄はこれなり。 十人中、六七人は、これです。

余の年といふは単に世に住むといふ意ならず。
私が年というのは、単に、この世に住むという意味ではありません。

漫然と世に住むは住まぬと同じ。 漫然とこの世に住むのは、住まないのと同じです。

余の年と云ふは文学者としてとったる年なり。 私が年というのは、文学者としてとった年のことです。

明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。
明暗の作者が、もし文学者になろうと欲するのなら、漫然と年をとるべきてはない。文学者として年をとるべきです。

文学者として十年の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん。
文学者として10年の歳月を送った時に、過去を顧みると、私の言葉がでたらめでないことを知るでしょう。

一 女主人公一人より成る小説なり
一 女主人公一人で成り立つ小節です

此女主人公がもっと判然と活動せざる可(べか)らず。
この女主人公は、もっと明確に活動しなければなりません。

是を囲繞する附属物の人間も亦今一層躍然たらざるべからず。
主人公を取り巻く人間たちもまた、一層、いきいきと活躍しなければいけません。

幸子を慕ふ医学士の如きはどうも人間らしからず。
幸子をしたう医学士は、どうも人間らしくない。

之に対する幸子も大分は作者がいい加減に狭い胸の中で築き上げた畸形児なり。
これに対する幸子も、おおかたは、作者゛いいかげんに狭い胸のなかに築き上げた畸形児です。

 読んで成程と思ふ程に出来ねば失敗なり。
 
読んでなるほどと思うほどにできあがらなければ、失敗です。

明暗は成程と迄思へぬ作なり。 明暗は、なるほどとまでは思えない作品です。

著者のみ無暗に成程と思ってゐる。 著者だけが、むやみに、成程と思っている。

此著者の世間が狭い証拠なり。 この著者の住む世間が狭い証拠です。

人世の批評眼が出来上らぬ証拠なり。人生の批評眼が出来上がっていない証拠です。

観察が糸の如く細き証拠なり 観察が糸のように細い証拠です。

一 明暗の如き詩的な警句を連発する作家はもっと詩的なる作物をかくべし。
一 明暗のように詩的な警句(巧みな表現)を連発する作家は、もっと詩的な作品を書くべきです。

而して自己の得所が充分発揮せらるる様にすべし。
それに、自分の利点が充分発揮されるようにすべきです。

人情ものをかく丈の手腕はなきなり。 人情ものを書くだけの手腕はありません。

非人情のものをかく力量は充分あるなり。 非人情のものを書く力量は、充分にあります。

絵の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を発揮すると同時に弱点を露はすの不便を免がるるを得べし。
絵のようなもの、肖像画のようなもの、美文的なものを書けば、利点を発揮すると同時に、弱点を露呈することをまぬかれることができるでしょう。

妄評多罪。 妄評をお詫びします

別葉

しばらく実際に就いて御参考の為め愚存を述べん
しばらく、実際問題にについて、ご参考のため、私の意見をのべましょう

一 幸子といふ女が画の為めに一身を献身的に過ごすといふはよし。
一 幸子と言う女性が、絵のために一身を献身的に捧げるという想定は良い。

然し妙齢の美人がこんな心を起すには起す丈の源因がなければならん
しかし、妙齢の美人が、こんな心を起こすには、起こすだけの原因がなければいけない。

夫をかかなければ突然で不自然に聴える
それを書いていないので、突然で、不自然にきこえる。

一 兄が嫁を貰ふのを聴いてうらめしく思うふのはよし、
一 兄が嫁を貰うのを聞いてうらめしく思うのは良い。

此うらめしさを読者に感ぜしむる為めにはあらかじめ伏線を設けて兄と妹の中のよき所、よさ加減を読者に知らしめざるべからず。
このうらめしさを読者に感じさせるためには、あらかじめ伏線を設けて、兄と妹の仲のいい所、仲の良さ加減を知らしめなければならない。

然らざれば是又突然にして器械的也。
そうでなければ、これ、また突然で、機械的です。

作者一人が承知してゐる様に思はれる
作者だけが承知しているように思われます。

一 女が男の恋をしりぞける所は夫でよし。
一 女が男の恋を退ける所は、それて良い。

退ぞけて後迷ふもよし。 退けた後、迷うのも良い。

只力量足らざる為め悉く作者が勝手に製造せる如く見ゆ
ただ、力量がたらないので、作者が勝手に作ったかのように見える

一 女が自分の画のまづきに気がつく所アツケなし。
一 女が自分の絵のまずさに気付くところは、あっけない。

突然としてレエ゛レーションの如く自分の画のまづきを知る。
突然、啓示のように自分の絵がまずいことを知る。

作者は夫でよしとするも読者の賦には落ちず
作者は、それで良しとするが、読者は腑に落ちない。

一 女が遂に降参して医学士に靡(なび)かんとする時自己の不見識を考へて無理に昔の主義を押し通す所よし。
一 女がついに降参して医学士になびこうとする時、自分の不見識を考えて、無理に、昔の主義を押し通す所は、良い。

全篇にて尤もと思ふは此所なり。 全編でもっともと思うところは、ここです。

何故といへば前に伏線がある故なり。 何故なら、前に伏線があるからです。

是丈は突然にあらず。 是だけは、突然ではない。

作者の勝手にあらず。 作者の勝手ではない。

かかる女の心理的状態として如何にもかく発展しさうに思はるるなり。
こんな女の心理状態として、いかにも、このように発展しそうに思われます。

一 かかる変な女を描く事は一方から云へば容易なる如くにて一方からは非常に困難なるものなり。
一 こんな変な女を描くことは、一方から言えば、容易なようで、一方からは、非常に困難なものです。

変人なる故普通の人と心理状態の異なる所以(ゆえん)を自づから説明せざるべからず。
変人なので普通の人と心理状態が異なる理由を、説明しないといけない。

之を説明せざる限りは読者は成程と思へぬ也。
これを説明しない限りは、読者は成程とは思えません。

然も其説明たるや全篇を読むうちにいつといふ事を知らぬ間に説明せざるべからず。
しかもその説明は、全編を読む間に、いつということを知らずに説明しないといけない。

是尤も手腕の必要なる所なり。 これは手腕が必要なところです。

一 趣向は全体として別段の事なし。
一 趣向は、全体として、特に問題はない。

あしく云へばありふれたるものなるべし。 悪く言えば、ありふれたものです。

只運用の妙一つにて陳を化して新となす。
ただ、運用の妙が一つあれば、陳腐を新規のものとすることができます。

作者は惜しい事に未だ此力量を有せず。
作者は、おしいことに、この力量は持っていない。

 最後の一節の如きは尤も女主人公の性格を発揮すると共に吾人の同情を彼女の上に濺(そそ)がしめ得る好シチュエーションなるにも拘はらず、左のみ感服せず。 
 最後の一節は、女主人公の性格を発揮していると共に、私の同情を彼女の上にそそがさせることができた好シチュエーションであるにもかかわらず、そんなに感服しない。

 

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