夏目漱石 明暗 143-188  

2021.01.06

百四十三

 この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。

 堀の家(うち)から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこにT字形を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。

彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違いの所でとまった。

何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側の窓を見た。

すると窓ガラスを通して映る乗客の中に一人の女がいた。

位置の関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。

吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟したからである。

 電車はじきに動き出した。

お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影(うしろかげ)をしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。

 彼女の歩く往来はもう横町だけであった。

その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路(こうじ)を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。

けれども電車に会った後(あと)の彼女の足は急に重くなった。

距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん家(うち)へ帰ろうかと思い出した。

 彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。

彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやりそこなった不快を胸に包んでいた。

そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂(にお)わせられたはがゆさがあった。

なまじいそれを嗅(か)ぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。

何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆(さかさ)まに相手から翻弄(ほんろう)されはしなかったかという疑惑であった。

 お延はそれ以上にまだ敏(さと)い気を遠くの方まで廻していた。

彼女は自分に対して仕組まれた謀(はかりごと)が、内密にどこかで進行しているらしいとまで勘づいた。

首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確かであった。

吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。

知らないうちに重囲(じゅうい)のうちに自分を見出だした孤軍(こぐん)のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。

彼女は周囲(あたり)を見廻した。しかしそこには夫を除いて頼りになるものは一人もいなかった。

彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。

その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。

どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。

 その心理作用が今 食い止められなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪った。

もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。

いかに利口なお延にも考える自由の与えられていないその後(あと)は容易に出て来なかった。

けれども結果は一つであった。

彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。

彼女は何がなしに、この三人を巴(ともえ)のように眺め始めた。

「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」

 今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。

「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」

 彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。

するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。

夫婦のくせに、そんなよそ行(いき)の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴(き)かなかったので、いったん家(うち)へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極(きわ)めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路(こうじ)の中ほどから取って返した。

そうして柳の木の植(うわ)っている大通りから賑(にぎ)やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。

百四十四

 お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。

電車から降りて一丁ほどの所を、身に染(し)みるような夕暮の靄(もや)に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢(ひばち)の傍(はた)が恋しかった。

彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐(すわ)って手を翳(かざ)した。

 しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。

坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。

手紙の文句はもとより簡単であった。

彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。

けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。

わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。

一度に外から持って帰った気分に火を点(つ)けたその手紙の前に彼女の心は躍(おど)った。

「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」

 それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間にかまう余裕さえなかった。

彼女は台所から膳(ぜん)を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。

「御飯は帰ってからにするよ」

 彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。

しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路(こうじ)の角でとまった。

彼女はなぜだか病院へ行くに堪(た)えないような気がした。

この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。

「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」

 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。

その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の家(うち)であった。

いっそ当初の計画をやめて、叔父(おじ)の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横たわる困難をも想像した。

岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。

今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝(さら)け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。

叔父と叔母の前に、自分の眼が利(き)かなかった自白を綺麗にしなければならなかった。

お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼(せま)っていないと考えた。

復活の見込が充分立たないのに、酔興(すいきょう)で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑(けいべつ)するところであった。

 彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。

彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時床(とこ)の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。

先刻(さっき)お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗(あん)に心の調子を整えていたところが、

その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食の時間が来るまで、待ち草臥(くたび)れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。

「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」

 看護婦は体(なり)の小さい血色の好くない女であった。

しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。

いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群(むれ)から遠ざけた。

津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上(かたあげ)を付けているだろうか、または除(と)っているだろうか。

彼はいつか真面目(まじめ)にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。

その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。

 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。

「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後(あと)を付け足した。

「今日は奥さんはお見えになりませんね」

「うん、来ないよ」

 津田の口の中にはもう焦(こ)げたパンがいっぱい入っていた。

彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。

「その代り他のお客さまがいらっしゃいましたね」

「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥(ふと)ってるね、あの奥さんは」

 看護婦が悪口の相槌(あいづち)を打つ気色(けしき)を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。

「もっと若い綺麗な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒(なお)るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲(ひや)かし返された。

「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間(ま)がいいと見えて」

 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。

「昨日いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」

「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」

 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。

百四十五

 それは看護婦にとって意外な儲(もう)け日(び)であった。

下痢(げり)の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。

「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」

 彼女はこう云って、普段のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳(ぜん)の前に坐(すわ)っていた。

 退屈しのぎに好い相手のできた気になった津田の舌には締りがなかった。

彼は面白半分いろいろな事を訊(き)いた。

「君の国はどこかね」

「栃木県です」

「なるほどそう云われて見ると、そうかな」

「名前は何と云ったっけね」

「名前は知りません」

 看護婦はなかなか名前を云わなかった。

津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊(き)いた。

「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」

「ええよござんす」

 彼女の名前の頭文字は であった。

「露(つゆ)か」

「いいえ」

「なるほど露(つゆ)じゃあるまいな。じゃ土(つち)か」

「いいえ」

「待ちたまえよ、露(つゆ)でもなし、土(つち)でもないとすると。――ははあ、解(わか)った。

.だろう。でなければ、常(つね)か」

 津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。

笑うたびに、津田はまた彼女を追及した。

しまいに彼女の名が .だと解った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄(もてあそ)んだ。

「お月(つき)さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命(つ)けた」

 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。

「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」

「あてて御覧」

 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後(あと)で云った。

「お延(のぶ)さんでしょう」

 彼女は旨(うま)くあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。

「お月さんはどうも油断がならないなあ」

 津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。

「ああ、とうとういらしった」

 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。

「来ないと思っていらしったんでしょう」

「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」

 津田の言葉に偽(いつわ)りはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。

けれどもそうすれば事の矛盾はなお募(つの)るばかりであった。

「でも先刻(さっき)手紙をお寄こしになったのね」

「ああやったよ」

「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」

「うん、少し都合(つごう)の悪い事があったから」

「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」

 津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。

「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」

「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」

 津田はごまかしてしまおうとした。

「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」

 慰藉(いしゃ)のつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。

彼女は黒い眉(まゆ)を動かした。

無言のまま帯の間へ手を入れて、そこから先刻の手紙を取り出した。

「これをもう一遍見てちょうだい」

 津田は黙ってそれを受け取った。

「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹はようやく彼の口を否定した。

手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹(ひ)くには充分であった。

すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やりそこなったと思った。

「何にも書いてないから、その理由(わけ)を伺うんです」とお延は云った。

「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」

「お前はそれを聴(き)きに来たのかい」

「ええ」

「わざわざ?」

「ええ」

 お延はどこまで行っても動かなかった。

相手の手剛(てごわ)さを悟(さと)った時、津田は偶然好い嘘(うそ)を思いついた。

「実は小林が来たんだ」

 小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。

彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。

百四十六

「小林なんかに逢(あ)うのはお前も厭(いや)だろうと思ってね。

それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ」

 こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず慰藉(いしゃ)の言葉を延ばさなければならなかった。

「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。

それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」

「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」

「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据(す)えられたお延の細い眼を見た時に、あわてて後を付け足した。

「また金をせびりに来たんだ。ただそれだけさ」

「じゃあたしが聴(き)いてなぜ悪いの」

「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」

「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」

「まあそうだ」

 今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、微(かす)かな笑が唇を洩れた。

「まあありがたい事」

 津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を択(よ)り除(の)ける余裕を失った。

「お前だって、あんな奴(やつ)に会うのは厭(いや)なんじゃないか」

「いいえ、ちっとも」

「そりゃ嘘(うそ)だ」

「どうして嘘なの」

「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」

「ええ」

「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」

「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」

「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから碌(ろく)な事は云やしなかろう。

いったいどんな事を云ったんだ」

 お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。

「ここで小林さんは何とおっしゃって」

「何とも云やしないよ」

「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」

「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真(ま)に受けていながら」

「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」

 津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。

しかしお延の辛抱(しんぼう)は津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい声を出した。

「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな拵(こしら)え事をおっしゃるのよ」

「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」

「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」

「ほかの人? ほかの人とは」

 お延の眼は床の上に載せてある楓(かえで)の盆栽(ぼんさい)に落ちた。

「あれはどなたが持っていらしったんです」

 津田は失敗(しくじ)ったと思った。なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。

彼が最初それを口にしなかったのは分別(ふんべつ)の結果であった。

話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎(とが)める彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。

 盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠(くちごも)った時、お延は機先を制した。

「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」

 津田は思わず云った。

「どうして知ってるんだ」

「知ってますわ。そのくらいの事」

 お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。

「ああ来たよ。つまりお前の予言(よげん)があたった訳になるんだ」

「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」

 津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。

「お前どこかで会ったのかい」

「いいえ」

「じゃどうして知ってるんだ」

 お延は答える代りに訊(き)き返した。

「奥さんは何しにいらしったんです」

 津田は何気なく答えた。

「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。

最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」

百四十七

 お延は夫より自分の方が急(せ)き込んでいる事に気がついた。

この調子で乗(の)しかかって行ったところで、夫はもう圧(お)し潰(つぶ)されないという見切(みきり)をつけた時、彼女は自分の破綻(ぼろ)を出す前に身を翻(ひる)がえした。

「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。

その代り吉川の奥さんの用事を話して聴(き)かしてちょうだい。

無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」

「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。

そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」

「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴(ねんばら)しになるんだから」

「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」

「いいわ、どっちでも」

 津田は夫人の齎(もたら)した温泉行の助言だけをごくあっさり話した。

お延にお延流の機略(きりゃく)がある通り、彼には彼相当の懸引(かけひき)があるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真率(しんそつ)で合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。

彼女は表向(おもてむき)それに対して一言(いちごん)の非難を挟(さしは)さむ余地がなかった。

 ただ落ちつかないのは互の腹であった。

お延はこの単純な説明をとおして、その奥を覗(のぞ)き込もうとした。

津田は飽(あ)くまでもそれを見せまいと覚悟した。

極(きわ)めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。

しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。

だから二人の天賦(てんぷ)を度外において、ただ二人の位置関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。

正味(しょうみ)の曲直を標準にしても、競(せ)り合(あ)わない前に、彼女はすでに勝っていた。

津田にはそういう自覚があった。お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当(けんとう)がついていた。

 戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落(いちだんらく)つかなければならない道理であった。

津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。

しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪(にく)い城はけっしてないという事にも帰着した。

気の毒なお延は、否応(いやおう)なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。

向うに開門を逼(せま)るよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択(えら)ぶところがなかった。

 なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。

なぜ凱歌(がいか)を形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。

今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。

第二第三の目的をまだ後(あと)に控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、その後をどうする訳にも行かなかったのである。

 それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。

本当に彼女の目指(めざ)すところは、むしろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。

そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。

それ自身がすでに大きな目的であった。ほとんど方便とも手段とも云われないほど重い意味を彼女の眼先へ突きつけていた。

 彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥(こだわ)らなければならなかった。

それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥(はる)か上にも続いていた。

公平な光りを放って、可憐(かれん)な彼女を殺そうとしてさえ憚(はば)からなかった。

 彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退(しり)ぞいた。

二口拘泥れば、二足|退(しりぞ)いた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。

大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙(じゅうりん)した。

一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔(く)いなかった。

彼女は暗にそこへ気がついた。けれどもその意味を悟る事はできなかった。

彼女はただそんなはずはないとばかり思いつめた。そうしてついにまた心の平静を失った。

「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」

 津田はやりきれないという顔をした。

「だからおれは何にもお前を疑(うたぐ)ってやしないよ」

「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」

「死ぬなんて大袈裟(おおげさ)な言葉は使わないでもいいやね。

第一何にもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云って御覧な。

そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手(しょて)から根のない苦情(くじょう)じゃ手のつけようがないじゃないか」

「根はあなたのお腹(なか)の中にあるはずですわ」

「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。

きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は要(い)らないから」

百四十八

 津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸(めいりょう)に推察する事ができた。

――夫は彼の留守(るす)に小林の来た事を苦(く)にしている。

その小林が自分に何を話したかをなお気に病(や)んでいる。

そうしてその話の内容は、まだ判然(はっきり)掴(つか)んでいない。

だから鎌(かま)をかけて自分を釣り出そうとする。

 そこに明らかな秘密があった。

材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑(うたがい)もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。

秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。

同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。

彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術(すべ)を知らなかった。

 悩乱(のうらん)のうちにまだ一分(いちぶん)の商量(しょうりょう)を余した利巧(りこう)な彼女は、夫のかけた鎌を外(はず)さずに、すぐ向うへかけ返した。

「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴(き)いてしまったんです。

だから隠したってもう駄目(だめ)よ。あなたもずいぶんひどい方(かた)ね」

 彼女の云(い)い草(ぐさ)はほとんどでたらめに近かった。

けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰(しんけんざた)と何の異(こと)なるところはなかった。

彼女は熱を籠(こ)めた語気で、津田を「ひどい方(かた)」と呼ばなければならなかった。

 反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避(たじ)ろぐ気色(けしき)を見せた。

お秀の所で遣(や)り損(そく)なった苦(にが)い経験にも懲(こ)りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬(むく)いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。

「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」

「こうならない前」という言葉は曖昧(あいまい)であった。津田はその意味を捕捉(ほそく)するに苦しんだ。

肝心(かんじん)のお延にはなお解らなかった。だから訊(き)かれても説明しなかった。

津田はただぼんやりと念を押した。

「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」

 お延は意外な顔をした。

「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合(つごう)がついて、病後の身体(からだ)を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。

それが悪いなんてむちゃくちゃを云(い)い募(つの)るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」

「じゃ行ってもいいかい」

「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。

あとの言葉は、啜(すす)り上げる声の間から、句をなさずに、途切(とぎ)れ途切れに、毀(こわ)れ物のような形で出て来た。

「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」

 津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。

発作(ほっさ)が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。

「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持(いじ)して行きたいと思うんです。もしそれを毀損(きそん)されると……」

 お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。

「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目(めんぼく)なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍(そば)で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」

 津田は急に口を開いた。

「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」

 津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。

お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。

お延の眼ははたして閃(ひら)めいた。

「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」

「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉(のど)から外へ滑(すべ)り出さなかった。

彼は云おうか止(よ)そうかと思って迷った。けれども時に一寸(いっすん)の容赦(ようしゃ)もなかった。

反吐(へど)もどしていればいるほど形勢は危(あや)うくなるだけであった。

彼はほとんど行きつまった。

しかし間髪(かんはつ)を容(い)れずという際(きわ)どい間際(まぎわ)に、旨(うま)い口実が天から降って来た。

「車夫(くるまや)が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」

 幸いお延がお秀の後を追(おっ)かけて出た事は、下女にも解っていた。

偶発の言訳が偶中(ぐうちゅう)の功(こう)を奏した時、津田は再度の胸を撫(な)で下(おろ)した。

百四十九

 遮二無二(しゃにむに)津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。

夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子(ひょうし)に気が抜けたので、一息(ひといき)に進むつもりの彼女は進めなくなった。

津田はそこを狙った。

「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」

 お延は答えた。

「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」

「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」

「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦(く)になるはずはないんです。それを肝心(かんじん)のあなたが……」

 お延は行きつまった。彼女には明暸(めいりょう)な事実がなかった。

したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬(ひとすく)い掬った。

「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑(よ)りかかって安心していたらいいじゃないか」

 お延は急に大きな声を揚げた。

「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」

「想像がつかない?」

「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」

「澄ましてやしないよ」

「気の毒だとも可哀相(かわいそう)だとも思って下さらないんです」

「気の毒だとも、可哀相だとも……」

 これだけ繰り返した津田はいったん塞(つか)えた。その後(あと)で継(つ)ぎ足(た)した文句はむしろ蹣跚(まんさん)として揺(ゆら)めいていた。

「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁(いんねん)があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」

 お延の声は緊張のために顫(ふる)えた。

「あなた。あなた」

 津田は黙っていた。

「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑(よ)りかかり所のない女なんですから。あなたに外(はず)されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」

 津田は答えた。

「大丈夫だよ。安心おしよ」

「本当?」

「本当に安心おしよ」

 お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。

「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」

 津田は面喰(めんくら)った。彼の心は波のように前後へ揺(うご)き始めた。

彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚(さら)け出(だ)してしまおうかと思った。

と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。

もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩(たた)きつけないはずはあるまいとも考えた。

 彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。

道義心と利害心が高低(こうてい)を描いて彼の心を上下(うえした)へ動かした。

するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。

約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。

必然から起る彼の要求でもあった。

少くともそれを済(す)ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。

「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止(よ)そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」

「受け合うって」

「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」

「どうして」

「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」

 お延は黙っていた。

「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。

そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協(だきょう)はできないかね」

百五十

 妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事(しんじ)を説明するには極(きわ)めて穏当であった。

実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚(はら)にあった事はたしかであった。

明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮(こうふん)はようやく喰(く)いとめられた。

感情の潮(うしお)がまだ上(のぼ)りはしまいかという掛念(けねん)で、暗(あん)に頭を悩ませていた津田は助かった。

次の彼には喰いとめた潮(うしお)の勢(いきおい)を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。

彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。

沈着な態度を外部側(そとがわ)にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者(こうしゃ)も心得ていた。

彼の努力ははたして空(むな)しくなかった。

お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇(よみが)えった。

「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」

 こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。

暴風雨になろうとして、なり損(そく)ねた波瀾(はらん)はようやく収まった。

けれども事前(じぜん)の夫婦は、もう事後(じご)の夫婦ではなかった。

彼らはいつの間にか吾(われ)知らず相互の関係を変えていた。

 波瀾の収まると共に、津田は悟った。

「畢竟(ひっきょう)女は慰撫(いぶ)しやすいものである」

 彼は一場(いちじょう)の風波(ふうは)が彼に齎(もたら)したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。

今までの彼は、お延に対するごとに、苦手(にがて)の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。

女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前(げんぜん)した。

それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚(みな)される彼女の機略(きりゃく)であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖(かいぼう)は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。

しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他(ひと)に洩(も)らした事のない事実に違いなかった。

だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。

それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。

簡単に云えば、彼はなるべく己(おの)れを尊(とうと)く考がえたかったからである。

愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地(いち)に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。

ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心(しん)から帰服するのではなかった。

堂々と愛の擒(とりこ)になるのではなくって、常に騙(だま)し打(うち)に会っているのであった。

お延が夫の慢心を挫(くじ)くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌(きらい)な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。

この特殊な関係を、一夜(いちや)の苦説(くぜつ)が逆(さか)にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。

彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手(うわて)を引くように見えて、実は偽りのない下手(したで)に出たお延という女を見た例(ためし)がなかった。

弱点を抱(だ)いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸(めいりょう)であった。

彼はようやく彼女を軽蔑する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。

 お延にはまたお延で波瀾後(はらんご)の変化が起りつつあった。

今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝(つ)く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露(あら)わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。

夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。

自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。

もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐(あわれ)みを乞うような見苦しい真似(まね)はできないという意地に過ぎなかった。

もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。

のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。

そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。

破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊(こわ)すのと同じ結果に陥(おち)いるのは明暸であった。

不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進(まいしん)した。

それでとうとう破裂した。破裂した後で彼女はようやく悔いた。

仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。

彼女は自分の弱点を浚(さら)け出すと共に一種の報酬を得た。

今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。

彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。

彼は明らかに妥協という字を使った。

その裏に彼女の根限(こんかぎ)り掘り返そうと力(つと)めた秘密の潜在する事を暗(あん)に自白した。

自白?。

彼女はよく自分に念を押して見た。

そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜(くや)しがると同時に喜こんだ。

彼女はそれ以上夫を押さなかった。

津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。

百五十一

 けれども自然は思ったより頑愚(かたくな)であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。

妙な機(はず)みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。

 それは昂奮(こうふん)したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。

今切り抜けて来た波瀾(はらん)の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。

酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。

「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」

「ここを出たらすぐ行こうよ。身体(からだ)のためにもその方が都合がよさそうだから」

「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」

 津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。

「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」

 気の緩(ゆる)んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。

連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。

断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。

彼が何と返事をしたものだろうと思って分別(ふんべつ)するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。

「ね、行ってもいいんでしょう」

「そうだね」

「いけないの」

「いけない訳もないがね……」

 津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。

もし猜疑(さいぎ)の眸(ひとみ)が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。

先刻(さっき)の波瀾から来た影響は彼にもう憑(の)り移っていた。

彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫(いぶ)」の二字を思い出した。

「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。

彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提(ひっ)さげて、お延に向った。

「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰(もら)いたいんだ。

第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」

「ああ嬉(うれ)しい、じゃ行くわ」

「ところがだね。……」

 お延は厭(いや)な顔をした。

「ところがどうしたの」

「ところがさ。宅(うち)はどうする気かね」

「宅は時がいるから好いわ」

「好いわって、そんな子供見たいな呑気(のんき)な事を云っちゃ困るよ」

「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」

 お延は続けざまに留守居(るすい)として適当な人の名を二三|挙(あ)げた。

津田は拒(こば)めるだけそれを拒んだ。

「若い男は駄目(だめ)だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」

 お延は笑い出した。

「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」

「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」

 津田は断乎(だんこ)たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。

「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」

 藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空(あ)いた人は一人もなかった。

「まあよく考えて見るさ」

 この辺で話を切り上げようとした津田は的(あて)が外(はず)れた。お延は掴(つか)んだ袖(そで)をなかなか放さなかった。

「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」

「悪いとは云やしないよ」

「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解(わか)ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然(はっきり)云ってちょうだいよ」

 せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳(いいわけ)を思いついた。

「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。

おれは吉川の奥さんから旅費を貰(もら)うんだからね。他(ひと)の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」

「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」

「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」

「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」

 津田はまた行きつまった。そうしてまた危(あやう)い血路(けつろ)を開いた。

「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」

「あんな人に」

「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度(こんだ)遠い朝鮮へ行くんだからね。

可哀想(かわいそう)だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」

 お延はもとより満足な顔をするはずがなかった。

しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。

百五十二

 後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。

小林に対する友誼(ゆうぎ)を満足させるため、かつはいったん約束した言責(げんせき)を果すため、津田はお延の貰(もら)って来た小切手の中(うち)から、その幾分を割(さ)いて朝鮮行の贐(はなむけ)として小林に贈る事にした。

名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。

もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。

小林のような横着(おうちゃく)な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅(すみ)からも出るはずはなかった。

のみならず彼女はややともすると、強(し)いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗(のぞ)き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々(ひやひや)した。

「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」

 こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情|一点張(いってんばり)でそれを相手にする気色(けしき)を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。

「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸(めいりょう)になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」

 津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。

彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧(ふる)い交際と、その交際から出る懐(なつ)かしい記憶とを挙げた。

懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡(ひろ)げた。

それでも腑(ふ)に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道(じんどう)まで云々した。

しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説(こうりせつ)に帰着するので、彼は吾(われ)知らず自分の拵(こしら)えた陥穽(かんせい)に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。

それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下(しも)のようになった。

「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。

それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴(やつ)さ。

しようのない奴には違(ちがい)ないけれども、あいつがこうなった因(おこ)りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。

じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。

ところがあいつは愚図(ぐず)でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。

不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。

つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」

 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止(とど)まる事ができないのである。

「それにまだこういう事も考えなければならないよ。

ああ自暴糞(やけくそ)になってる人間に逆(さか)らうと何をするか解(わか)らないんだ。

誰とでも喧嘩(けんか)がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得(とく)になるだけだって、現にここへ来て公言して威張(えば)ってるんだからね、実際始末に了(お)えないよ。

だから今もしおれがあいつの要求を跳(は)ねつけるとすると、あいつは怒るよ。

ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐(かたきうち)をやるにきまってるよ。

ところがこっちには世間体(せけんてい)があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵(かな)いっこないんだ。解ったかね」

 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩(くず)れてしまう。

しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭(うなず)くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。

「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口(あっこう)するだけならいいがね。

あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。

まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。

だから一番災難なのはこのおれだよ。

どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰(もら)うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢(あ)うか解ったもんじゃない」

 こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。

「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖(こわ)がる因縁(いんねん)がないじゃありませんか」

 二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。

しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。

それを自分の小遣(こづかい)として、任意に自分の嗜慾(しよく)を満足するという彼女の条件は直(ただ)ちに成立した。

その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。

そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。

 うそ寒(さむ)の宵(よい)に、若い夫婦間に起った波瀾(はらん)の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。

百五十三

 津田の辛防(しんぼう)しなければならない手術後の経過は良好であった。

というよりもむしろ順当に行った。

五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。

「至極(しごく)好い具合です。出血も口元だけです。内部(なか)の方は何ともありません」

 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。

「出血はどうです。まだ止(と)まりませんか」

「いや、もうほとんど止まりました」

 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。

好い加減に「もう癒(なお)りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。

しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。

彼と医者の間に起った一場(いちじょう)の問答がその辺の消息を明らかにした。

「これが癒りそこなったらどうなるんでしょう」

「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」

「心細いですな」

「なに十中八九は癒るにきまってます」

「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」

「早くて三週間遅くて四週間です」

「ここを出るのは?」

「出るのは明後日ぐらいで差支えありません」

 津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。

なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。

それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽(そこつ)な遣口(やりくち)であった。

彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚(はら)の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊(き)かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。

「括約筋(かつやくきん)を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰(つ)められるんですか」

「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜(はす)に三分ほど削(けず)り上げた所があるのです」

 津田はその晩から粥(かゆ)を食い出した。

久しくパンだけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。

趣味として夜寒(よさむ)の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵(よい)の冷たさを対照に置く薄粥(うすがゆ)の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜(すす)る事ができた。

 療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。

さほど苦(く)にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。

身体(からだ)の楽になった彼は、寝転(ねこ)ろんでただ退院の日を待つだけであった。

 その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。

「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」

「あんまりありがたくもないでしょう」

「いやありがたいよ」

「宅(うち)の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」

「まあその辺かも知れないがね」

 津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。

「今度はお前の拵(こしら)えてくれた(どてらで助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」

 お延は笑いながら夫を冷嘲(ひやか)した。

「どうなすったの。なんだか急にお世辞(せじ)が旨(うま)くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」

 お延は問題のどてらを畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。

津田はその時着物を着換えていた。絞(しぼ)りの模様の入った縮緬(ちりめん)の兵児帯(へこおび)をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作(しょさ)であった。

それほど軽くどてらの中味を見ていた彼の愛嬌(あいきょう)は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。

「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」

「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」

「しかし宿屋で貸してくれるどてらの方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」

「そんな事はないよ」

「いえあるのよ。ものが悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」

 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。

そこには一種のアイロニーが顫動(せんどう)していた。どてらは何かの象徴(シンボル)であるらしく受け取れた。

多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯(へこおび)の先をこま結びに結んだ。

 やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。

「さよなら」

 多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。

百五十四

 目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。

約束の日が来た時、お延から入用(いりよう)の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。

「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」

「じゃ止(よ)した方が好いわ」

「おれも止したいよ」

「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」

「うん、頼んでもいいね」

「どこであの人にお逢(あ)いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」

 お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。

けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談(じょうだん)に押すと、押したこっちがかえって手古摺(てこず)らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。

お延はいざとなると口で云った通りを真面(まとも)に断行する女であった。

たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。

彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目(ふまじめ)な方角へ流してしまった。

「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」

「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例(ためし)がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」

「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」

「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」

「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固(もと)より本気に受け答えをするつもりもなかった。

「今日(こんにち)までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚(おぼえ)もないようだね」

「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」

 津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。

「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」

「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」

 この好い加減な無駄口の前に、お延は微(かす)かな溜息(ためいき)を洩(も)らした後で云った。

「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」

「そりゃおれにかけ合ったって駄目(だめ)だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻(しり)を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」

 苦笑したお延はまだ黙らなかった。

「いいから、今に見ていらっしゃい」

「何を」と訊(き)き返した津田は少し驚ろかされた。

「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」

「見ているが、いったい何だよ」

「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」

「云えないのはつまりお前にも解(わか)らないという意味なんじゃないか」

「ええそうよ」

「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴(つか)むような予言だ」

「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」

 津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。

「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃、始終(しじゅう)そう思ってるの、いつか一度このお肚(なか)の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違(ちがい)ないって」

「いつか一度? だからお前のは妄想(もうぞう)と同(おん)なじ事なんだよ」

「いいえ生涯(しょうがい)のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」

「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵(かな)わない」

「いいえ、あなたのためによ。だから先刻(さっき)から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」

 真面目なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。

彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。

お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。

今まで死んでいるとばかり思って、弄(いじく)り廻していた鳥の翅(つばさ)が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。

 彼は帯の間から時計を出して見た。

「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」

 こう云って立ち上がった彼の後(あと)を送って玄関に出たお延は、帽子(ぼうし)かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。

「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」

 津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。

百五十五

 小林と会見の場所は、東京で一番 賑(にぎ)やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。

向うから宅(うち)へ誘いに寄って貰(もら)う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪(たず)ねてやる面倒を省(はぶ)くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。

 その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。

しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間 座談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒(つうよう)を彼に与えるに足りなかった。

有体(ありてい)に云えば、彼は小林に対して克明に律義(りちぎ)を守る細心の程度を示したくなかった。

それとは反対に、少し時間を後(おく)らせても、放縦(ほうしょう)な彼の鼻柱を挫(くじ)いてやりたかった。

名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。

だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客(しゅかく)の位地(いち)をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢(きょうまん)を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。

利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。

 彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。

もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも冷やかして、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦(じ)らしてやろうとまで思案した。

 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光(あかり)の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。

彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光(あかり)と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。

ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除(よ)けて、四辺(あたり)を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。

 もうだいぶ待ちくたびれているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。

位置は津田の降りた舗道(ペーヴメント)と車道を一つ隔(へだ)てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮(さえ)ぎる便利があった。

のみならず小林は真面(まとも)にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立ち話をしていた。

青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停(と)まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。

二人はけっして余所見(よそみ)をしなかった。

顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体(てい)が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目(まじめ)な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。

 二人の後(うしろ)には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。

ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。

その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。

津田は始めて青年の容貌(ようぼう)を明かに認める事ができた。

蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まないさんさんたる髪の毛と共に、彼の視覚を冒(おか)した。

彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵(きびす)を回(めぐ)らした。

そうして二人の立っている舗道(ほどう)を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。

 彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。

商売が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出(みいだ)されなかった。

それにもかかわらず彼は到(いた)る処に視覚の満足を味わった。

しまいに或 唐物屋(とうぶつや)の店先に飾ってあるハイカラな襟飾(ネクタイ)を見た時に、彼はとうとうその家(うち)の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。

 もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。

舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。

彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。

煉瓦作(れんがづく)りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布(きぬ)に遮(さえ)ぎられて、間接に夜(よ)の中へ光線が放射されるので、通(とお)り際(ぎわ)に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉(ガスだんろ)を供えた品(ひん)の好い食堂であった。

 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。

津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。

長い間 フランスとかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨(うま)いのだと友人に教えられたのがもとで、四五遍食いに来た因縁(いんねん)を措(お)くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。

 彼は容赦(ようしゃ)なく扉(とびら)を押して内へ入った。

そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰(てもちぶさた)ででもあるような風をして、真面目(まじめ)な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。

百五十六

 小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。

津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐(すわ)っている食卓(テーブル)の傍(そば)まで近寄って行ってこっちから声をかけた。

「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」

 小林はようやく新聞を畳んだ。

「君時計をもってるだろう」

 津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。

針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。

「実は僕も今来たばかりのところなんだ」

 二人は向い合って席についた。

周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装(みなり)をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。

ことに一間ほど隔(へだ)てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉(ガスストーブ)の火の色が、白いものの目立つ清楚(せいそ)な室(へや)の空気に、恰好(かっこう)な温(ぬく)もりを与えた。

 津田の心には、変な対照が描き出された。

この間の晩小林のお蔭(かげ)で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場(バー)の光景がありありと彼の眼に浮んだ。

その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。

「どうだね、ここの宅(うち)は。ちょっと綺麗(きれい)で心持が好いじゃないか」

 小林は気がついたように四辺(ぐるり)を見廻した。

「うん。ここには探偵はいないようだね」

「その代り美くしい人がいるだろう」

 小林は急に大きな声を出した。

「ありゃみんな芸者なんか君」

 ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。

「馬鹿云うな」

「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」

 津田はますます声を低くした。

「だって芸者はあんな服装(なり)をしやしないよ」

「そうか。君がそう云うなら確(たしか)だろう。

僕のような田舎(いなか)ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。

何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」

「相変らず皮肉るな」

 津田は少し悪い気色を外へ出した。小林は平気であった。

「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開(あ)いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」

「そんならそれでいいさ」

「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」

「何が」

「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」

 津田は空(そら)っ惚(とぼ)ける事の得意なこの相手の前に、真面目(まじめ)な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。

同時に何とかして、ゴツンと喰(くら)わしてやりたいような気もした。

けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。

「冗談じゃない」

「本当に冗談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。

津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐(りこう)過ぎた。

彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。

それでいて当らず障(さわ)らず話を傍(わき)へ流すくらいの技巧は心得ていた。

彼は小林に捕(つら)まらなければならなかった。彼は云った。

「どうだ君ここの料理は」

「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」

「不味(まず)いかい」

「不味かない、旨(うま)いよ」

「そりゃ好い案配(あんばい)だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」

「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵(かな)わないよ。泣くだけだあね」

「だけど旨けりゃそれでいいんだ」

「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品(いっぴん)料理と同(おん)なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」

 津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。

「いったい今の僕にゃ、仏蘭西(フランス)料理だから旨いの、英吉利(イギリス)料理だから不味いのって、そんな通(つう)をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」

「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由(わけ)が解(わか)らなくなるじゃないか」

「解り切ってるよ。ただ飢(ひも)じいから旨いのさ。その他に理窟(りくつ)も糸瓜(へちま)もあるもんかね」

 津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応(こた)えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。

百五十七

「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物(どんぶつ)は、あらゆる点で軽蔑(けいべつ)に値(あたい)しているかも知れない。

僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。

けれども僕には僕でまた相当の云草(いいぐさ)があるんだ。

僕の鈍(どん)は必ずしも天賦(てんぷ)の能力に原因しているとは限らない。

僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」

 この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。

笑談とも真面目とも片のつかない彼の気炎(きえん)には、わざと酔の力を藉(か)ろうとする欝散(うっさん)の傾(かたむ)きが見えて来た。

津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯(うけが)うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出(みいだ)した。

「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。

君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。

でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」

「ありがとう」

「いや嘘(うそ)じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの」

 胡散臭(うさんくさ)いなという眼が小林の眉(まゆ)の下で輝やいた。

「へええ。本当(ほんと)かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」

 津田は黙って懐(ふところ)へ手を入れた。小林はその所作(しょさ)を眺めながら、わざとそれを止(や)めさせるように追加した。

「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」

 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。

「お延の返事はここにある」といって、綺麗(きれい)に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇(ちゅうちょ)した。その代り話頭(わとう)を前へ押し戻した。

「やはり人間は境遇次第だね」

「僕は余裕次第だというつもりだ」

 津田は逆(さか)らわなかった。

「そうさ余裕次第とも云えるね」

「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。

まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」

 津田は薄笑いをした。小林は真面目であった。

「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較(みくら)べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」

 津田は心の中(うち)でその幾分をうなずいた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。

「それでどうだ。僕は始終(しじゅう)君に軽蔑(けいべつ)される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。

すべて先刻(さっき)云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。

もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地(いち)が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」

 小林はここまで来て少し昂奮(こうふん)したような気色(けしき)を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭(いや)になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫(とんざ)してからまた出直した。

「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」

「そりゃ解ってるよ」

「いや解らない。軽蔑(けいべつ)の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。

だから君の今夕(こんゆう)の好意に対して、僕はまた留別(りゅうべつ)のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」

「よかろう」

「よくないたって、僕のような一文(いちもん)なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」

「だからいいよ」

「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走(ごちそう)になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西(フランス)料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場(バー)の酒も、どっちも無差別に旨(うま)いくらい味覚の発達しない男なんだ。

そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。

いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。

僕から見ると、君の腰は始終(しじゅう)ぐらついてるよ。度胸が坐(すわ)ってないよ。厭(いや)なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追(おっ)かけたがってるよ。

そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利(き)くためさ。贅沢(ぜいたく)をいう余地があるからさ。

僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」

 津田はてんから相手を見縊(みくび)っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。

小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。

百五十八

 しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。

それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴(てんてつ)されながら、前後の勢(いきおい)ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。

「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。

矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明(そうめい)な君を煩(わずら)わしているんだ。

もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟(えり)を正して聴くに違ないんだ。

いや僕の僻(ひがみ)でも何でもない、争うべからざる事実だよ。

けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。

先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞(な)めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩(かのはい)においてをやだ」

 彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指(さ)すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。

「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言(じょごん)――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。

頭では解る、しかし胸では納得(なっとく)しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳(は)ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。

人間の境遇もしくは位地(いち)の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。

それをもっと判然(はっきり)云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違(ちがい)だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰(めんくら)うか、迷児(まご)つくか、蹴爪(けつま)ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。

しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。

つまり君に一朝(いっちょう)事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」

「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目(だめ)なんだからおかしいや」

 小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊(き)かれない先に説明した。

「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声(かけごえ)と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚(はばか)りながらここまで来るには相当の修業が要(い)るんだからね。いかに痴鈍(ちどん)な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血(ち)の代(しろ)を払ってるんだ」

 津田は小林の得意が癪(しゃく)に障(さわ)った。此奴(こいつ)が狗(いぬ)のような毒血を払ってはたして何物を掴(つか)んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑(けいべつ)の色を面(おもて)に現わして訊(き)いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」

 小林は嬉(うれ)しそうに身体(からだ)を椅子(いす)の背に靠(もた)せかけてまた笑い出した。

「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺(つぼ)なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」

 津田は厭(いや)な顔をした。

「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑(けいべつ)に対する僕の復讐(ふくしゅう)がその時始めて実現されるというだけさ」

 津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙(おつ)に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」

 津田は一気に洋盃(コップ)を唇(くちびる)へあてがって、ぐっと麦酒(ビール)を飲み干した小林の様子を、少し呆(あき)れながら眺めた。

百五十九

 小林は言葉を継(つ)ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。

女伴(おんなづれ)の客のうち、一組の相手は洗指盆(フィンガーボール)の中へ入れた果物を食った後の手を、袂(たもと)から出した美くしい手帛(ハンケチ)で拭いていた。

彼の筋向うに席を取って、先刻(さっき)から時々自分達の方を偸(ぬす)むようにして見る二十五六の方は、コーヒー茶碗を手にしながら、男の吹かす煙草(たばこ)の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。

両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。

「やあちょうど好い。まだいる」

 津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止(よ)せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎(つつ)しんでくれ、こんな所へ来て」
「厭(いや)に小心だな。おおかた場末の酒場(バー)とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢(ぶらいかん)をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」

 津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。

「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑(けいべつ)してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁(へ)とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅(うるさ)い男だな」

 小林はむっとした津田の顔を覗(のぞ)き込むようにして見つめながら云った。

「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻(さっき)から云うんだ、実地を踏んで鍛(きた)え上げない人間は、木偶(でく)の坊(ぼう)と同(おん)なじ事だって」

「そうだそうだ。世の中で擦(す)れっ枯(か)らしと酔払いに敵(かな)うものは一人もないんだ」

 何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴(おんなづれ)の方を一順(いちじゅん)見廻した後で、云った。

「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」

 津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。

「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。

僕は先刻あすこにいる女達を捕(つら)まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱(しか)られたね。

君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。

よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。

それで僕は君に訊(き)いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」

 小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。

ハンケチで手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。

残る一人も給仕を呼んで勘定を払った。

「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」

 小林は出て行く女伴の後影(うしろかげ)を見送った。

「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」

 彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西(フランス)料理と英吉利(イギリス)料理を食い分ける事ができずに、糞(くそ)と味噌(みそ)をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹(こうふく)の問題だという顔をして高を括(くく)っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」

 津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻(ひる)がえして小林を見た。

「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑(けいべつ)されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚(はば)からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭(いや)、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物(くいもの)だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」

 二人は顔を見合わせて苦笑した。

百六十

 小林は旨(うま)く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際(きわ)どい所へ入り込まなければならなくなった。

「例(たと)えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子(きよこ)さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何(なん)でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変|淡泊(さっぱ)りしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙(おつ)に気取(きど)って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目(でたらめ)をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後(あと)を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間(あいだ)君の細君にすっかり話しちまったんだ」
 津田の表情がたちまち変った。
「何を?」

 小林は相手の調子と顔つきを、噛(か)んで味わいでもするように、しばらく間(ま)をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。

「嘘(うそ)だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云(い)つけられたって」
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」

 津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子(いす)に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。

「貴婦人(レデー)が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢(ぶらいかん)といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」

 彼は給使(きゅうじ)の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人|怒(おこ)る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末(てんまつ)はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴(き)かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構(おおかま)いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻(さっき)から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢(ぜいたく)ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太(じだんだ)を踏んで口惜(くや)しがる」
「いつそんな様(ざま)を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟(たた)られている所以(ゆえん)だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤(ひんせん)が富貴(ふうき)に向って復讐(ふくしゅう)をやってる因果応報(いんがおうほう)の理だね」
「そう頭から自分の拵(こしら)えた型(かた)で、他(ひと)を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」

 教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。

「君は自分の好みでお延(のぶ)さんを貰(もら)ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢(ぶらいかん)だね。観察の下卑(げび)て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野(そや)なところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑(けいべつ)に値(あたい)する所以(ゆえん)なんだ」
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから畢竟(ひっきょう)口先じゃ駄目(だめ)なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦(す)れっ枯(か)らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動(せんどう)して無役(むえき)の負戦(まけいくさ)をさせるんだ」

 津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別(せんべつ)の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭(いや)になるだけだから」
 小林は新らしい十円|紙幣(さつ)の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」

百六十一

 小林は受け取ったものを、赤裸(あかはだか)のまま無雑作(むぞうさ)に背広(せびろ)の隠袋(ポケット)の中へ投げ込んだ。

彼の所作(しょさ)が平淡であったごとく、彼の礼の云(い)い方(かた)も横着であった。

「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。

いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」

 津田は答えた。

「無論やったんだ。しかし貰(もら)ってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下(みおろ)すような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬(てんしゅん)の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然(はっきり)云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の寝言(ねごと)見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻(さっき)から攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」

 小林は眼をぱちぱちさせた後(あと)でこう云った。

「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」

 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌(てのひら)を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」

 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子(きこうし)よだ」

 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。

「もう来そうなものだな」

 彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。

「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」

 小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋(ポケット)を、わざとらしく軽く叩(たた)いた。

「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。

僕よりもっと余裕の足りない方へ順送(じゅんおく)りに送れと命令するんだよ。

余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行(ぎゃっこう)しないよ」

 津田はほぼ小林の言葉を、意解(いかい)する事ができた。しかし事解(じかい)する事はできなかった。

したがって半醒半酔(はんせいはんすい)のような落ちつきのない状態に陥(おちい)った。

そこへ小林の次の挨拶(あいさつ)がどさどさと侵入して来た。

「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁(きべん)を首肯(しゅこう)するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」

 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。

せんだっての晩 手古摺(てこず)らされた酒場(バー)の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉(まゆ)をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。

「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。

僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆(さか)に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例(たと)えばだね、君がこの間僕の留守へ外套(がいとう)を取りに行って、そのついでに何か妻(さい)に云ったという事も――」

 津田はこれだけ云って暗(あん)に相手の様子を窺(うかが)った。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度(そんたく)する事ができなかった。

「何も好んで友達の夫婦仲を割(さ)くような悪戯(いたずら)をしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚(おぼえ)はないよ」
「しかし先刻(さっき)……」
「先刻は笑談(じょうだん)さ。君が冷嘲(ひやか)すから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊(き)き糺(ただ)して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中(うち)で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」

 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍(そば)に立った。

百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談(たちばなし)をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。

けれどもその驚ろきのうちには、暗(あん)にこの男を待ち受けていた期待も交(まじ)っていた。

明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。

 実を云うと、自働車の燭光(あかり)で照らされた時、彼の眸(ひとみ)の裏(うち)に映ったこの人の影像(イメジ)は津田にとって奇異なものであった。

自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。

勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。

「小林はああいう人と交際(つきあ)ってるのかな」

 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後(あと)なので、新来者に対する彼の態度も自(おの)ずから明白であった。

彼は突然|胡散臭(うさんくさ)い人間に挨拶(あいさつ)をされたような顔をした。

 上へ反(そ)っ繰り返った細い鍔(つば)の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱(と)って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。

彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。

それは一種の反感と、恐怖と、人馴(ひとな)れない野育ちの自尊心とが錯雑(さくざつ)して起す神経的な光りに見えた。

津田はますます厭(いや)な気持になった。小林は青年に向って云った。

「おいマントでも取れ」

 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽(かっぱ)をすぽりと脱いで、それを椅子(いす)の背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」

 小林は始めて青年を津田に紹介(ひきあわ)せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。

「どうした。旨(うま)く行ったかね」

 これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。

「駄目(だめ)だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴(やつ)。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」

 小林はたちまちナイフを倒(さか)さまにして、やけに食卓(テーブル)を叩(たた)いた。

「おいこの人の食うものを持って来い」

 やがて原の前にあった洋盃(コップ)の中に麦酒(ビール)がなみなみと注(つ)がれた。

 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。

こんなお付合(つきあい)を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。

「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家(うち)へ持って行って見せる事にしたら」

 津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」

 津田の迷惑は無論であった。

「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」

 青年は傷(きずつ)けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。

「嘘(うそ)を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」

 津田は苦笑せざるを得なかった。

「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」

 津田はだんだん辛防(しんぼう)し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足(ひとあし)先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」

 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止(と)めながら、また津田の方へ向き直った。

「ちょうど今一枚|素敵(すてき)に好いのが描(か)いてあるんだ。それを買おうという望手(のぞみて)の所へ価値(ねだん)の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨(うま)い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切(ねぎ)り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻(さっき)あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他(ひと)に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲(ま)き上げられてしまうだけだぜ」

 津田はこの問答を聴いてほっと一息|吐(つ)いた。

百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。

時々耳にする三角派(さんかくは)とか未来派(みらいは)とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴(き)いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。

その何処(いずこ)にも興味を見出(みい)だし得なかった彼は、会談の圏外(けんがい)へ放逐(ほうちく)されるまでもなく、自分から埒(らち)を脱(ぬ)け出したと同じ事であった。

これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭(いや)がらせる積極的なものがまだ一つあった。

彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通(はんかつう)として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見(プレジュジス)の上へ、乙(おつ)に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。

この点において無知な津田を羨(うら)やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。

「もう直(じき)だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他(ひと)に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」

 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉(フォーク)で突き差した手を止(や)めた。

「どうぞお構いなく」

 津田が軽く会釈)を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。

「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心(かんじん)のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴(やつ)が世の中にいるんだから厭(いや)になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少(すこし)いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝(けち)な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐(すわ)らなくっちゃ」

 仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂(たもと)から煙草を出して火を点(つ)けた。

ふと見ると、灰皿は敷島の残骸(ざんがい)でもういっぱいになっていた。

今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。

これから呑(の)もうとする一本も、三分 経(た)つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。

「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」

「だから吝な事を云うなと、先刻(さっき)から云ってるじゃないか」

 小林は右の手で背広(せびろ)の右前を掴(つか)んで、左の手を隠袋(ポケット)の中へ入れた。

彼は暗闇(くらやみ)で物を探(さぐ)るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間 始終(しじゅう)眼を津田の顔へぴったり付けていた。

すると急に突飛な光景(シーン)が、津田の頭の中に描き出された。

同時に変な妄想(もうぞう)が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠(かす)めて過ぎた。

「此奴(こいつ)は懐(ふところ)から短銃(ピストル)を出すんじゃないだろうか。

そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」

 芝居じみた一刹那(いっせつな)が彼の予感を微(かす)かに揺(ゆす)ぶった時、彼の神経の末梢(まっしょう)は、眼に見えない風に弄(なぶ)られる細い小枝のように顫動(せんどう)した。

それと共に、妄(みだ)りに自分で拵(こしら)えたこの一場(いちじょう)の架空劇をよそ目に見て、その荒誕(こうたん)を冷笑(せせらわら)う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。

「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多(めった)に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻(さっき)放(ほう)り込んだ札(さつ)でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片(かみぎれ)と違って活きてるから。こうやって、手で障(さわ)って見るとすぐ分るよ。隠袋(ポケット)の中で、ぴちぴち跳(は)ねてる」

 小林は減らず口を利(き)きながら、わざと空(むな)しい手を出した。

「おやないぞ。変だな」

 彼は左胸部にある表隠袋(おもてかくし)へ再び右の手を突き込んだ。

しかしそこから彼の撮(つま)み出したものは皺(しわ)だらけになった薄汚ない手帛(ハンケチ)だけであった。

「何だ手品(てづま)でも使う気なのか、その手帛で」

 小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目(まじめ)な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩(たた)いた後で、いきなり云った。

「うんここにあった」

 彼の洋袴(ズボン)の隠袋から引き摺(ず)り出したものは、一通の手紙であった。

「実は此奴(こいつ)を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何 訳(わけ)ゃないやね、少し長いけれども」

 封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。

百六十四

 ペンで原稿紙へ書きなぐるように認(したた)められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。

のみならず宛名(あてな)は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴(き)いた事もない全く未知の人であった。

津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。

けれども冷やかな無関心の傍(かたわら)に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。

封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙(けいし)の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。

「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて飽(あき)っぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。

またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。

女ばかりで夜(よる)が不用心(ぶようじん)だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番(るすばん)をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画(え)を習いに行くがいい。

今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家(うち)の始末は心配するな、転居の金は出してやる。

――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当(あて)にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。

ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻(しり)まで嘘の皮なんです。

叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。

叔父は僕の事を「宅(うち)の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。

こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。

金はまだ一銭も貰ったことがありません。

僕の穿(は)いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日(あした)金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫(おくび)にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。

 叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極(きわ)めて冷やかな極めて吝嗇(りんしょく)な人達です。

だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家(うち)へ帰って飯を食わして貰いました。

兵糧(ひょうろう)が尽きて焼芋(やきいも)や馬鈴薯(じゃがいも)で間に合せていたこともあります。

もっともこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。

万事が打算的で、体裁(ていさい)ばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。

叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。

そうして田舎(いなか)へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。

出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。

 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持(くいぶち)でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦(あてこす)りを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎(なぞ)をかけたりします。

 こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。

全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻 窮(きわま)りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟(たた)ってくるんです。

それを他(ひと)に話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。

というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐(こわ)くなって来るのです。土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。

何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。

いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮(さえ)ぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。

今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。

幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。

僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。

僕はあなたの境遇を知っています。物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。

ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管(みゃくかん)の中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。

僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。

この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷(いちる)もないのでしょうか。

僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」

 手紙はここで終っていた。

百六十五

 その時 先刻(さっき)火を点(つ)けて吸い始めた巻煙草(まきたばこ)の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙(けいし)の上に落ちた。

津田は竪横(たてよこ)に走る藍色(あいいろ)の枠(わく)の上に崩(くず)れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。

というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。

その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。

 その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。

元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。

第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。

第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目(かいもく)解らなかった。

中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。

 しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。

今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後(うしろ)をふり返らせられた。

そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。

するとああああこれも人間だという心持が、今日(こんにち)までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。

極(きわ)めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。

 彼はそこでとまった。そうして低徊(ていかい)した。

けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。

 彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。

用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。

「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」

 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。

「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」

 津田はまた躊躇(ちゅうちょ)した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸(めいりょう)にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍(にぶ)らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。

「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止(よ)そう」

 津田は先刻(さっき)の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。

何(なん)でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終(おお)せた上で、後(あと)からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。

いくら貧乏の幽霊で威嚇(おどか)したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。

「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至(ないし)この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」

 こう云った小林は、手紙をポケットへしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。

「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」

 彼はこう云って原の方を見た。

百六十六

 小林の所作(しょさ)は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍(おど)った。憎悪(ぞうお)の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体(からだ)を通過した。

 同時に聡明な彼の頭に一種の疑(うたがい)が閃(ひら)めいた。

「此奴(こいつ)ら二人は共謀(ぐる)になって先刻(さっき)からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」

 こう思うのと、大通りの角で立談(たちばなし)をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後(ご)三人の間に起った談話の遣取(やりとり)とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火(しかけはなび)のようにくるくると廻転した。

彼は白い食卓布(テーブルクロース)の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。

「これがこの摺(す)れッ枯(か)らしの拵(こしら)え上げた狂言の落所(おち)だったのか。

馬鹿奴(ばかめ)、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」

 彼は傷(きずつ)けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切(まくぎれ)に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。

けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨(うま)くどさりと引繰(ひっく)り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。

 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。

けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後(あと)の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。

そのわくわくがいつの間(ま)にか狼狽(ろうばい)の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。

 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着(ほうちゃく)した。

それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。

紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。

一種の飢渇(きかつ)があった。掴(つか)みかかろうとする慾望の力があった。

そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々 真(しん)その物の発現であった。

作りもの、拵(こしら)え事、馴(な)れ合(あ)いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。

 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後(あと)から継(つ)いで起った。

原はそれほど欲しそうな紙幣(さつ)へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥(しり)ぞける勇気も示さなかった。

出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。

もしこの蒼白(あおじろ)い青年が、ついに紙幣(さつ)の方へ手を出さないとすると、小林の拵(こしら)えたせっかくの狂言も半分はぶち壊(こわ)しになる訳であった。

もしまた小林がいったん隠袋(ポケット)から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。

どっちにしても自分の体面を繕(つくろ)うのには便宜(べんぎ)な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷(いちる)の望を抱(いだ)いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。

 やがて二人の間に問答が起った。

「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐(すわ)ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」

 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。

「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰(もら)ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理(ロジック)になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗(あぶらあせ)に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財(じょうざい)だ。拾ったものが功徳(くどく)を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」

 忌々(いまいま)しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。

鷹揚(おうよう)な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上 体裁(ていさい)の好い結末をつけるのに充分であった。

彼は醜陋(しゅうろう)に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。

「そうだね。それが一番いいだろう」

 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。

残る二枚を再びもとの隠袋(ポケット)へ収める時、彼は津田に云った。

「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。

だからやっぱり君に対してサンクスだ」

 表へ出た三人は堀端(ほりばた)へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜(ほしづきよ)を仰いだ。

百六十七

 まもなく三人は離れ離れになった。

「じゃ失敬、僕は停車場(ステーション)へ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合(じょうあい)のない事 夥(おびた)だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞(いとまごい)に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日(あした)から旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落(しゃれ)てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物(たまもの)だ。僕は君と違って飽(あ)くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発(けいはつ)されるよりも、事実その物に戒飭(かいしょく)される方が、遥(はる)かに覿面(てきめん)で切実でいいだろう」

 これが別れる時二人の間に起った問答であった。

しかしそれは宵(よい)から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。

これで幾分か溜飲(りゅういん)が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。

彼は理非の如何(いかん)に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄(す)てなければならなかった。

一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。

 明(あく)る朝は風が吹いた。その風が疎(まば)らな雨の糸を筋違(すじかい)に地面の上へ運んで来た。

「厄介(やっかい)だな」

 時間通りに起きた津田は、縁鼻(えんばな)から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。

「ことによると、お午(ひる)ぐらいから晴れるかも知れないわね」

 お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。

「だって一日|後(おく)れると一日|徒為(むだ)になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」

 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極(とりきめ)は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。

「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」

 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。

「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽(こっけい)だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜(ゆうべ)断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅(うち)にいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」

 お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人|俥(くるま)を駆って宅を出る事ができた。

 周囲の混雑と対照を形成(かたちづく)る雨の停車場(ステーション)の佗(わび)しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符(ちゅうとうきっぷ)を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶(あいさつ)をした。

「あいにくなお天気で」

 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。

取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。

津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。

「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」

 書生は弱らせられたような様子をした。

「実は奥さまが、今日は少し差支(さしつか)えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」

 書生は手に持った果物(くだもの)の籃(かご)を津田に示した。

「いやそりゃどうも、恐れ入りました」

 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。

「いえ私が列車の中まで持って参ります」

 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈(えしゃく)をした書生に、「どうぞ宜(よろ)しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。

百六十八

 お延の気を利かして外套(がいとう)の隠袋(かくし)へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外(そうがい)の空模様はだんだん悪くなって来た。

先刻(さっき)まで疎(まば)らに眺められた雨の糸が急に数を揃(そろ)えて、見渡す限の空間を一度に充(み)たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層 凄(すさ)まじく感ぜられた。

 雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮(さえ)ぎられない限りは雲があった。

雲と雨との隙間(すきま)なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒(おか)した時、彼は荒涼(こうりょう)なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較(くら)べた。

身体(からだ)を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝(つ)いて外部(そと)へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独(ひと)り肩を竦(すく)めた。

すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子(まどガラス)を打つたびに、点滴の珠(たま)を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好(しじゅうがっこう)の男が少し上半身を前へ屈(かが)めて、向側(むこうがわ)に胡坐(あぐら)を掻(か)いている伴侶(つれ)に話しかけた。

しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。

「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路(みち)が壊れやしないかね」

 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。

「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」

 これが相手の答であった。相手というのは羅紗(らしゃ)の道行(みちゆき)を着た六十恰好(ろくじゅうがっこう)の爺(じい)さんであった。

頭には唐物屋(とうぶつや)を探(さが)しても見当りそうもない変な鍔(つば)なしの帽子を被(かぶ)っていた。

煙草入(たばこいれ)だの、唐桟(とうざん)の小片(こぎれ)だの、古代更紗(こだいさらさ)だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋(ふくろものや)へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉|遣(づか)いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。

津田は服装に似合わない思いのほか濶達(かったつ)なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。

 この挨拶(あいさつ)のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。

ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。

転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜(ずぬ)けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。

「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」

 中折(なかおれ)に駱駝(らくだ)の外套(がいとう)を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。

「何たかが雨だあね。濡(ぬ)れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介(やっかい)だよ。あの軽便へ雨曝(あまざら)しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室(へや)の中へ入れて貰う事にしよう」
 二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶(かま)へ穴が開(あ)いて動(いご)けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴(やつ)を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違(ちげ)えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他(ひと)を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫(ふる)えちまわあね」

 津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。

それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委(まか)せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。

けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。

そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数(てすう)を省(はぶ)いた。

そうして今度は清子とその軽便とを聯結(れんけつ)して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。

百六十九

 汽車が目的の停車場(ステーション)に着く少し前から、三人によって気遣(きづか)われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収(おさ)まり際(ぎわ)の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。

その雲は汽車の走る方角と反対の側(がわ)に向って、ずんずん飛んで行った。

そうして後(あと)から後からと、あたかも前に行くものを追(おっ)かけるように、隙間(すきま)なく詰(つ)め寄せた。

そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。

ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。

就中(なかんずく)一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配(けはい)を示した。

 思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻(さっき)会った二人伴(ふたりづれ)の男を見出した。

はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。

けれども彼らの雨曝(あまざら)しになるのを苦(く)に病んだほどの大嵩(おおがさ)なものはどこにも見当らなかった。

のみならず、爺(じい)さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。

「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」

「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊(き)いてみるんだ。だが大体(たいてい)間違(まちがい)はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」

 津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場(とうじば)へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」

 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶(つれ)を顧みた。中折(なかおれ)の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通(てんがんつう)に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁(かいかつ)な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。

「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体(からだ)一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向(あつらえむき)だあね。

今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋(がっさいぶくろ)とこの大将のあの鞄(かばん)を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」

 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。

これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。

そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。

 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。

彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝(こ)らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食(ちゅうじき)を認(した)ためた。

時間から云って、平常より一時間以上も後(おく)れていたその昼食は、膳(ぜん)を貪(むさ)ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。

けれども発車は目前に逼(せま)っていた。彼は箸(はし)を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。

 基点に当る停車場(ステーション)は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。

彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭(つり)を受取ってすぐ表へ出た。

切符に鋏(はさみ)を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。

五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻(さっき)の二人連れと顔を合せた。

「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」

 爺(じい)さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝(ひざ)かけを敷く余地を拵(こしら)えてくれた。

「今日は空(す)いてて結構です」

 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八|二月(ふたつき)に渉(わた)って、この線路に集ってくる湯治客(とうじきゃく)の、どんなに雑沓(ざっとう)するかをさも面白そうに例の調子で話して聴(き)かせた後(あと)で、自分の同伴者を顧みた。

「あんな時に女なんか伴(つ)れてくるのは実際罪だよ。尻(しり)が大きいから第一乗り切れねえやね。

そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨(すし)のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」

 彼は自分の傍(そば)に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

百七十

 軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。

これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際(さい)などに、老人は急に彼を夢の裡(うち)から叩(たた)き起した。

「まだ仮橋(かりばし)のままでやってるんだから、呑気(のんき)なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」

 本式の橋が去年の出水(でみず)で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵(ののし)った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構(ひとかまえ)の家を指(さ)して、また津田の注意を誘い出そうとした。

「あの家(うち)も去年波で浚(さら)われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」

「ここいらで一夏休むと、だいぶ応(こた)えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着(おうちゃく)をきめ込みやがって、掛(か)けかえねえんでさあ」

 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切(とぎ)れ目(め)には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。

 彼の頭の中は纏(まと)まらない断片的な映像(イメジ)のために絶えず往来された。

その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場(ステーション)まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。

彼の車室内へ運んでくれた果物(くだもの)の籃(かご)もあった。

その葢(ふた)を開けて、二人の伴侶(つれ)に夫人の贈物を配(わか)とうかという意志も働いた。

その所作(しょさ)から起る手数(てかず)だの煩(わずら)わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山(ぎょうさん)な挨拶(あいさつ)も鮮(あざ)やかに描き出された。

すると爺さんも中折(なかおれ)も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥(たつ)を排してつかつか這入(はい)って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場(とうじば)の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。

 汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配(こうばい)の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆(か)けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度(いくたび)も上(あが)ったり下(さが)ったりした。

その山の多くは隙間(すきま)なく植付けられた蜜柑(みかん)の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々(るいるい)と点綴(てんてつ)していた。
「あいつは旨(うま)そうだね」

「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗(きれい)だよ」

 比較的|嶮(けわ)しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。

停車場(ステーション)でもないそこに見えるものは、多少の霜(しも)に彩(いろ)どられた雑木(ぞうき)だけであった。
「どうしたんだ」

 爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。

「脱線です」

 この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折(なかおれ)を見た。

「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」

 急に予言者らしい口吻(こうふん)を洩(も)らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄(ろう)する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。

「どうせ家(うち)を出る時に、水盃(みずさかずき)は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶(べんけい)の立往生(たちおうじょう)は御免 蒙(こうむ)りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。

何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。

――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」

 爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。

津田も独(ひと)り室内に坐(すわ)っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。

そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後(うしろ)にして、うんうん車を押した。

「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」

 車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。

「また後(おく)れちまったよ、大将、お蔭(かげ)で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐(かい)がないだろう」
「全くだ」

 津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場(ステーション)で、この元気の好い老人と別れて、一人 薄暮(ゆうぐれ)の空気の中に出た。

百七十一

 靄(もや)とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞(せきばく)たる夢であった。

自分の四辺(しへん)にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横(よこた)わる大きな闇(やみ)の姿を見較(みくら)べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。

「おれは今この夢見たようなものの続きを辿(たど)ろうとしている。

東京を立つ前から、もっと几帳面(きちょうめん)に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那(せつな)から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟(たた)られているのだ。

そうして今ちょうどその夢を追(おっ)かけようとしている途中なのだ。

顧(かえり)みると過去から持ち越したこの一条(ひとすじ)の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。

したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。

しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭(ぬぐ)い去られるだろうか。

自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村(かんそん)の中に立っているのだろうか。

眼に入(い)る低い軒、近頃 砂利(じゃり)を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾(かた)むきかかった藁屋根(わらやね)、黄色い幌(ほろ)を下(おろ)した一頭立(いっとうだて)の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊(ひとかたまり)の配合を、なおの事夢らしく粧(よそお)っている肌寒(はださむ)と夜寒(よさむ)と闇暗(くらやみ)、――すべて朦朧(もうろう)たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。

今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱(だ)いてまた東京へ帰って行く。

それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。

じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。

畢竟(ひっきょう)馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」

 この感想は一度に来た。半分(はんぷん)とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具(そな)えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。

しかしそれから後(あと)の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。

一分(いっぷん)の猶予(ゆうよ)なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊(き)いたり、馬車に乗るか俥(くるま)にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌(あいきょう)さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦(そうじゅう)して退(の)けた。

 彼はやがて否応(いやおう)なしにズックの幌(ほろ)を下(おろ)した馬車の上へ乗せられた。

そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻(さっき)の若い男を見出すべく驚ろかされた。

「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」

 若い男は津田の目指(めざ)している宿屋の手代(てだい)であった。

「ここに旗が立っています」

 彼は首を曲げて御者台(ぎょしゃだい)の隅(すみ)に挿(さ)し込んである赤い小旗を見た。

暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。

旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。

彼は首を縮めて外套(がいとう)の襟(えり)を立てた。

「夜中(やちゅう)はもうだいぶお寒くなりました」

 御者台(ぎょしゃだい)を背中に背負(しょ)ってる手代は、位地(いち)の関係から少しも風を受けないので、この云(い)い草(ぐさ)は何となく小賢(こざか)しく津田の耳に響いた。

 道は左右に田を控えているらしく思われた。

そうして道と田の境目(さかいめ)には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。

田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。

 津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝(さら)して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。

手代もその方が便利だと見えて、強(し)いて向うから口を利(き)こうともしなかった。

 すると突然津田の心が揺(うご)いた。

「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭(かげ)さまで」
「何人(なんにん)ぐらい」

 何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。

「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八|二月(ふたつき)ですな、繁昌(はんじょう)するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」

「じゃ今がちょうど閑(ひま)な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」

 清子の事を訊(き)く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞(つか)えた。彼は気がさした。

彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上 後(あと)で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚(よ)りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。

百七十二

 馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾(すそ)をぐるりと廻り込んだ。

見ると反対の側(がわ)にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍(みちばた)を塞(ふさ)いでいた。

台上(だいうえ)から飛び下りた御者(ぎょしゃ)はすぐ馬の口を取った。

 一方には空を凌(しの)ぐほどの高い樹(き)が聳(そび)えていた。星月夜(ほしづきよ)の光に映る物凄(ものすご)い影から判断すると古松(こしょう)らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍(ほんたん)の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時(ふじ)の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。

「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」

 不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。

津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。

彼は別れて以来一年近く経(た)つ今日(こんにち)まで、いまだこの女の記憶を失(な)くした覚(おぼえ)がなかった。

こうして夜路(よみち)を馬車に揺られて行くのも、有体(ありてい)に云えば、その人の影を一図(いちず)に追(おっ)かけている所作(しょさ)に違(ちがい)なかった。

御者は先刻(さっき)から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止(よ)せばいいと思うのに、濫(みだ)りなる鞭(むち)を鳴らして、しきりに痩馬(やせうま)の尻(しり)を打った。

失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。

では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐(あわ)れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。

吉川夫人? いや、そう一概(いちがい)に断言する訳には行かなかった。

ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。

「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 

会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? 

あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。

あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。

松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓(たに)の存在を憶(おも)い出させた。

全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後(あと)を跟(つ)けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」

 冷たい山間(やまあい)の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑(の)み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。

 御者(ぎょしゃ)は馬の轡(くつわ)を取ったなり、白い泡(あわ)を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架(か)け渡した橋の上をそろそろ通った。

すると幾点の電灯がすぐ津田の眸(ひとみ)に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。

あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。

「運命の宿火(しゅっか)だ。それを目標(めあて)に辿(たど)りつくよりほかに途(みち)はない」

 詩に乏しい彼は固(もと)よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。

「着いたようじゃないか。君の家(うち)はどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」

 ようやく馬車の通れるくらいな温泉(ゆ)の町は狭かった。おまけに不規則な故意(わざ)とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭(むち)を鳴らす事を許さなかった。

それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。

 宿は手代の云った通り森閑(しんかん)としていた。

夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室(へや)へ案内された彼は、好時季に邂逅(めぐりあわ)せてくれたこの偶然に感謝した。

性質から云えばむしろ人中(ひとなか)を択(えら)ぶべきはずの彼には都合があった。

彼は膳(ぜん)の向うに坐(すわ)っている下女に訊(き)いた。

「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」

 下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。

「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児(まいご)にでもなりそうだね」

 彼は清子のいる見当(けんとう)を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。

「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留(とうりゅう)しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」

 受持が違うので下女は名前を知らなかった。

「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰(もら)いたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室(へや)の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」

 津田は女のいる方角だけ教わって、膳(ぜん)を下げさせた。

百七十三

 寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻(さっき)彼女から聴(き)かされたこの家の広さに気がついた。

意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段(はしごだん)を降りたりして、目的の湯壺(ゆつぼ)を眼の前に見出(みいだ)した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。

 風呂場は板とガラス戸でいくつにか仕切られていた。

左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽(よくそう)のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった。

「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために擦(すり)硝子の篏(はま)った戸をがらがらと開けてくれた。

中には誰もいなかった。湯気が籠(こも)るのを防ぐためか、座敷で云えば欄間(らんま)と云ったような部分にも、やはり硝子戸の設けがあって、半分ほど隙(す)かされたその二枚の間から、冷たい一道の夜気が、どてらを脱ぎにかかった津田の身体(からだ)を、山里らしく襲(おそ)いに来た。

「ああ寒い」

 津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。

「ごゆっくり」

 戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。

「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」

 来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下(した)がまだあろうとは思えなかった。

「いったい何階なのかね、この家(うち)は」

 下女は笑って答えなかった。しかし用事だけは云い残さなかった。

「ここの方が新らしくって綺麗(きれい)は綺麗ですが、お湯は下の方がよく利(き)くのだそうです。

だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。

それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます」

 湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。

「ありがとう。じゃ今度(こんだ)そっちへ入るから連れてってくれたまえ」
「ええ。旦那様(だんなさま)はどこかお悪いんですか」
「うん、少し悪いんだ」

 下女が去った後(あと)の津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事ができなかった。

「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」

 彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。

どっち本位(ほんい)で来たのか、それは彼の心がよく承知していた。

けれども雨を凌(しの)いでここまで来た彼には、まだ商量(しょうりょう)の隙間(すきま)があった。

躊躇(ちゅうちょ)があった。幾分の余裕が残っていた。そうしてその余裕が彼に教えた。

「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。

なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。

その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放(ほう)り出そうとするのか。

では自由を失った暁(あかつき)に、お前は何物を確(しか)と手に入れる事ができるのか。

それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前(げんぜん)しないのだよ。

お前の過去にあった一条(ひとすじ)の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。

過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放(ほう)り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧(りこう)かな」

 津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。

 彼には最初から三つの途(みち)があった。そうして三つよりほかに彼の途はなかった。

第一はいつまでも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三すなわち彼の目指(めざ)すところは、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。

 この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。

ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、煙(けむ)の出る湯壺(ゆつぼ)に漬けられ、いよいよ目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日(あした)からでも実行に取りかかれるという間際(まぎわ)になって、急に第一が顔を出した。

すると第二もいつの間(ま)にか、微笑して彼の傍(かたわら)に立った。彼らの到着は急であった。

けれども騒々しくはなかった。

眼界を遮(さえ)ぎる靄(もや)が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。

 思いのほかに浪漫的(ロマンチック)であった津田は、また思いのほかに着実であった。

そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。

だから自己の矛盾を苦(く)にする必要はなかった。

彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。

――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭(いや)だ、そうだ馬鹿になるはずがない。

――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。

 人のいない大きな浴槽(よくそう)のなかで、洗うとも摩(こす)るとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉(ゆ)をざぶざぶ使った。

百七十四

 その時不意にがらがらと開けられた硝子戸(ガラスど)の音が、周囲(あたり)をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込(つっこ)んでいた津田をはっと驚ろかした。

彼は思わず首を上げて入口を見た。

そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。

けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。

それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。

 生れてからまだ一度も顔を合せた覚(おぼえ)のないその婦人は、寝掛(ねがけ)と見えて、白昼なら人前を憚(はば)かるような慎(つつ)しみの足りない姿を津田の前に露(あら)わした。

尋常の場合では小袖(こそで)の裾(すそ)の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢(じゅばん)の派手(はで)な色が、惜気(おしげ)もなく津田の眼をはなやかに照した。

 婦人は温泉煙(ゆけむり)の中に乞食(こじき)のごとく蹲踞(うずくま)る津田の裸体姿(はだかすがた)を一目見るや否や、いったん入りかけた身体(からだ)をすぐ後(あと)へ引いた。

「おや、失礼」

 津田は自分の方で詫(あや)まるべき言葉を、相手に先へ奪(と)られたような気がした。

すると階子段(はしごだん)を下りる上靴(スリッパー)の音がまた聴こえた。

それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。

「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞(ふさ)がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空(あ)いてるだろう」
「勝(かつ)さんはいないかしら」

 津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰(く)わなかった。

彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据(す)えて、また浴槽の中へ身体を漬(つ)けた。

 彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉(ゆ)の中で上下(うえした)へ動かしながら、透(す)き徹(とお)るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢(かし)を得意に眺めた。

 時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。

「今晩は。大変お早うございますね」

 勝さんのこの挨拶(あいさつ)には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古(けいこ)はお済みですか」
「お済みって訳でもないが」

 次には女の言葉が聴こえた。

「勝さん、そこは塞(ふさ)がってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵(こしら)えたのはないの」
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」

 二人を案内したらしい風呂場の戸の開(あ)く音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽(よくそう)の入口ががらりと鳴った。

「今晩は」

 四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。

「旦那(だんな)流しましょう」

 彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶(おけ)へ湯を汲んだ。津田は否応(いやおう)なしに彼に背中を向けた。

「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今|聴(き)いたばかりだ」
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」

 勝さんはははあと云って笑い出した。

「東京からおいでですか」

「そうだ」

 勝さんは何時(なんじ)の下りだの、上りだのという言葉を遣(つか)って、津田に正確な答えをさせた。

それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴(つ)れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋(きいとや)さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅(うち)のお上(かみ)さんは長唄(ながうた)が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。

聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。

そうしてその触れないものは取(とり)も直(なお)さず清子という名前であった。

偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。

もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。

「どうぞごゆっくり」

 こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。

彼はすぐ身体を拭いて硝子戸(ガラスど)の外へ出た。

しかし濡手拭(ぬれてぬぐい)をぶら下げて、風呂場の階子段(はしごだん)を上(あが)って、そこにある洗面所と姿見(すがたみ)の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。

百七十五

 最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻(さっき)下女に案内されて通った路(みち)なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈(ぼか)すだけであった。

しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室(へや)らしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。

「はてな、もっと後(あと)かしら。もう少し先かしら」

 電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。

けれども人の足音はどこにも聴(きこ)えなかった。用事で往来(ゆきき)をする下女の姿も見えなかった。

手拭と石鹸(シャボン)をそこへ置いた津田は、宅(うち)の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。

けれども返事はどこからも響いて来なかった。

不案内な彼は、第一下女の溜(たま)りのある見当を知らなかった。

個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込(うえこみ)の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在(ありか)は、すべて彼にとっての秘密と何の択(えら)ぶところもなかった。

 手を鳴らす所作(しょさ)を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。

これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興(すいきょう)も手伝った。

彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。

 廊下はすぐ尽きた。そこから筋違(すじかい)に二三度 上(あが)るとまた洗面所があった。

きらきらする白い金盥(かなだらい)が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓(せん)の口から流れる山水(やまみず)だか清水(しみず)だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁(ふち)を溢(あふ)れる水晶(すいしょう)のような薄い水の幕の綺麗(きれい)に滑(すべ)って行く様(さま)が鮮(あざ)やかに眺められた。

金盥の中の水は後(あと)から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪(しんとう)を感ずるもののごとくに揺れた。

 水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所(おりばしょ)を彼に忘れさせた。

彼はただもったいないと思った。

手を出して栓(せん)を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶(うかつ)さに気がついた。

それと同時に、白い瀬戸張(せとばり)のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦(うず)が、妙に彼を刺戟(しげき)した。

 あたりは静かであった。膳(ぜん)に向った時下女の云った通りであった。

というよりも事実は彼女の言葉を一々 首肯(うけが)って、おおかたこのくらいだろうと暗(あん)に想像したよりも遥(はる)かに静かであった。

客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。

その静かさのうちに電灯は隈(くま)なく照り渡った。

けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。

渦(うず)らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。

 彼はすぐ水から視線を外(そら)した。

すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据(す)えた。

しかしそれは洗面所の横に懸(か)けられた大きな鏡に映る自分のイメージに過ぎなかった。

鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具(そな)えつけてあるものぐらいの尺はあった。

そうして位地(いち)の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。

したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。

彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。

湯上りの彼の血色はむしろ蒼(あお)かった。彼にはその意味が解(げ)せなかった。

久しく刈込(かりこみ)を怠った髪は乱れたままで頭に生(お)い被(かぶ)さっていた。

風呂で濡(ぬ)らしたばかりの色が漆(うるし)のように光った。

なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。

 彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理(きめ)も男としてはもったいないくらい濃(こまや)かに出来上っていた。

彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。

だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。

凄(すご)くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛(くし)を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。

 しかし彼の所作(しょさ)は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。

彼は再び自分の部屋を探すもとの我に立ち返った。

彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段(はしごだん)を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。

第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。

第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈(がんじょう)にできていた。

第三に尋常のものと違って、擬(まが)いの西洋館らしく、一面に仮漆(ニス)が塗(かか)っていた。

 胡乱(うろん)なうちにも、この階子段だけはけっして先刻(さっき)下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。

そこを上(のぼ)っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍 後戻(あともど)りをする覚悟で、鏡から離れた身体(からだ)を横へ向け直した。

百七十六

 するとその二階にある一室の障子(しょうじ)を開けて、開けた後(あと)をまた閉(た)て切(き)る音が聴(きこ)えた。

階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切(はっきり)しているので、彼はすぐその確的(たしか)さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。

 下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異(こと)なるところもなかった。

そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮(さえ)ぎる壁を目標(めやす)に置いて、大凡(おおよそ)の見当をつけると、畳一枚を竪(たて)に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。

この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上(のぼ)らない津田の想像で判断するよりほかに途(みち)はないとして、今聴えた障子の音の出所(でどころ)は、一番階段に近い室、すなわち下(し)たから見える壁のすぐ後(うしろ)に違なかった。

 ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。

というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。

今までまるで方角違いの刺戟(しげき)に気を奪(と)られていた彼は驚ろいた。

もちろんその驚きは微弱なものであった。

けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇(よみがえ)った時に感ずる驚ろきと同じであった。

彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児(まご)ついている今の自分に付着する間抜(まぬけ)さ加減(かげん)を他(ひと)に見せるのが厭(いや)だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己(おの)れの醜くさを人前に曝(さら)すのが恥ずかしかったからでもある。

 けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩(ほ)を回(めぐ)らそうとした刹那(せつな)に彼は気がついた。

「ことによると下女かも知れない」

 こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超(こ)える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。

「誰でもいい、来たら方角を教えて貰(もら)おう」

 彼は決心して姿見(すがたみ)の横に立ったまま、階子段(はしごだん)の上を見つめた。

すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。

踵(かかと)へ跳(は)ね上るスリッパーの薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。

「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」

 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚(とら)われた津田の足はたちまち立(た)ち竦(すく)んだ。眼は動かなかった。

 同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。

階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。

彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。

 彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。

少くとも津田にはそう思われた。無心(むしん)が有心(ゆうしん)に変るまでにはある時がかかった。

驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後(あと)で、彼女は始めて棒立になった。

横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。

 彼女は普通の湯治客(とうじきゃく)のする通り、寝しなに一風呂入って温(あたた)まるつもりと見えて、手に小型のタオルを提(さ)げていた。

それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入(シャボンいれ)を裸(はだか)のまま持っていた。

棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那(せつな)の光景を辿(たど)るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。

 彼女の姿は先刻(さっき)風呂場で会った婦人ほど縦(ほしい)ままではなかった。

けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。

彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。

赤だの青だの黄だの、いろいろの縞(しま)が綺麗(きれい)に通っている派手(はで)な伊達巻(だてまき)を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。

寝巻の下に重ねた長襦袢(ながじゅばん)の色が、薄い羅紗製(らしゃせい)のスリッパーを突(つっ)かけた素足の甲を被(おお)っていた。

 清子の身体(からだ)が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。

そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白(あおじろ)く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。

「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」

 津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。

くるりと後(うしろ)を向いた彼女は止まらなかった。

津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上(あが)り口(くち)の電灯がぱっと消えた。

津田は暗闇(くらやみ)の中で開けるらしい障子(しょうじ)の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍(そば)の小さな部屋で呼鈴(よびりん)の返しの音がけたたましく鳴った。

 やがて遠い廊下をぱたぱた馳(か)けて来る足音が聴(き)こえた。

彼はその足音の主(ぬし)を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室(へや)の在所(ありどころ)を教えて貰(もら)った。

百七十七

 その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。

それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川(たにがわ)が軒の近くを流れているのだろうか。

雨としては庇(ひさし)に響がないし、谿川としては勢(いきおい)が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥(はる)か重大な主題のために悩まされていた。

 彼は室に帰ると、いつの間にか気を利(き)かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出(みいだ)したので、すぐその中へ潜(もぐ)り込(こ)んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽(ふけ)ったのである。

 彼はこの宵(よい)の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者(ソムナンビュリスト)のような気がした。

彼の行為は、目的(あて)もなく家中(うちじゅう)彷徨(うろつ)き廻ったと一般であった。

ことに階子段(はしごだん)の下で、静中に渦(うず)を廻転させる水を見たり、突然 姿見(すがたみ)に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経(た)たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌(じょうき)を逸した心理作用の支配を受けていた。

常識に見捨てられた例(ためし)の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違(ちがい)なかった。

しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。

 それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推(お)し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。

「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」

 彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。

「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」

 彼は実際廊下をうろうろ歩行(ある)いているうちに、清子をどこかへふり落した。

けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他(ひと)がどこにいるか知ろうはずはなかった。

「この見当(けんとう)だと心得てさえいたならば、ああ不意打(ふいうち)を食うんじゃなかったのに」

 こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上(あが)り口(くち)の案内を閉塞(へいそく)した所作(しょさ)、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴(ベル)の音、これらのものを綜合(そうごう)して考えると、すべてが警戒であった。

注意であった。そうして絶縁であった。

 しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥(はる)か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。

彼には不意の裡(うち)に予期があり、彼女には突然の中(うち)にただ突然があるだけであったからとも云えた。

けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面(てきめん)に感じてはいないだろうか。

 彼女は蒼(あお)くなった。彼女は硬くなった。

津田はそこに望みを繋(つな)いだ。今の自分に都合(つごう)の好いようにそれを解釈してみた。

それからまたその解釈を引繰返(ひっくりかえ)して、反対の側(がわ)からも眺めてみた。

両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。

その批判は材料不足のために、容易に纏(まと)まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩(くず)された。

一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。

不思議にも彼の自信、卑下(ひげ)して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚(おのぼれ)は、胸の中(うち)にあるような気がした。

それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。

両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎(しんそ)の区別をその間に置いていた。

というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具(そな)わっているらしく見えた。

結果は分明(ぶんみょう)であった。彼は叱(しか)りながら己惚(おのぼれ)の頭を撫(な)でた。

耳を傾けながら、半鐘の音を忌(い)んだ。

 かくして互いに追(おっ)つ追(お)われつしている彼の心に、静かな眠は来(き)ようとしても来られなかった。

万事を明日に譲る覚悟をきめた彼は、幾度(いくたび)かそれを招き寄せようとして失敗(しくじ)ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返(ねがえ)りの数を重ねるだけであった。

 彼は煙草へ火を点(つ)けようとして枕元にあるマッチを取った。

その時 袖畳(そでだた)みにして下女が衣桁(いこう)へかけて行ったどてらが眼に入(い)った。

気がついて見ると、お延のカバンへ入れてくれたのはそのままにして、先刻(さっき)宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。

彼は病院を出る時、新調のどてらに対してお延に使ったお世辞(せじ)をたちまち思い出した。

同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。

「どっちが好いか比べて御覧なさい」

 どてらははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然(いちもくりょうぜん)であった。

どてらを見比べると共に、細君を前に置いて、内々心の中(うち)で考えた当時の事が再び意識の域上(いきじょう)に現われた。

「お延と清子」

 独(ひと)りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴(き)いたなり、すぐ夜具を頭から被(かぶ)った。

 強(し)いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬(むく)いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。

百七十八

 朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛(かろ)うじて持続した。

部屋の四角(よすみ)が寝ていられないほど明るくなって、外部(そと)に朝日の影が充(み)ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼(まぶた)はまだ重かった。

彼は楊枝(ようじ)を使いながら障子(しょうじ)を開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。

 彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。

不規則な池を人工的に拵(こしら)えて、その周囲に稚(わか)い松だの躑躅(つつじ)だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。

彼の室に近い築山の間から、谿水(たにみず)を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。

昨夜(ゆうべ)彼の睡眠を悩ました細工の源(みなもと)を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想(れんそう)はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推(お)し移った。

大根(おおね)を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。

 彼が銜(くわ)え楊枝(ようじ)のまま懐手(ふところで)をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻(さっき)から高箒(たかぼうき)で庭の落葉を掃(は)いていた男が、彼の傍(そば)へ寄って来て丁寧に挨拶(あいさつ)をした。

「お早う、昨夜(さくや)はお疲れさまで」

「君だったかね、昨夕(ゆうべ)馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」

「へえ、お邪魔様で」

「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家(うち)だね」

「いえ、御覧の通り平地(ひらち)の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」

「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児(まいご)になって弱ったよ」

「はあ、そりゃ」

 二人がこんな会話を取り換(か)わせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。

黄葉(こうよう)と枯枝の隙間(すきま)を動いてくる彼らの路(みち)は、稲妻形(いなずまがた)に林の裡(うち)を抜けられるように、また比較的急な勾配(こうばい)を楽に上(のぼ)られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。

それでも手代(てだい)はじっとして彼らを待っていなかった。

たちまち津田を放(ほう)り出した現金な彼は、すぐ岡の裾(すそ)まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶(あいさつ)を与えた。

 津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕(ゆうべ)艶(なま)めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違(ちがい)なかった。

風呂場で彼を驚ろかした大きな髷(まげ)をいつの間にか崩(くず)して、尋常の束髪に結(ゆ)い更(か)えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。

彼はさらに声を聴(き)いただけで顔を知らなかった伴(つれ)の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭(ひげ)を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影(おもかげ)を宿していた。

津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。

堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰(つ)めて当人のしばしば用いる堀庄(ほりしょう)という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染(ちょうにんじ)みていはしまいかと思われた。

瞥見(べっけん)のついでに纏(まと)められた津田の想像はここにとどまらなかった。

彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中(うち)に置いた。

したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。

彼は楊枝で歯を磨(こす)りながらまだ元の所に立っていた。

彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。

 女は番頭に訊(き)いた。

「今日は別館の奥さんはどうかなすって」

 番頭は答えた。

「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」

「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」

「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」

「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」

「へえ、なるほど」

「それに今朝ごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」

「じゃちょっと伺って参りましょう」

「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」

「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」

「それともなんて、そう真面目くさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」

 二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中(こうちゅう)をいっぱいにしながら、また昨夜(ゆうべ)の風呂場を探(さが)しに廊下へ出た。

百七十九

 しかし探すなどという大袈裟(おおげさ)な言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。

路(みち)に曲折の難はあったにせよ、一足(ひとあし)の無駄も踏まずに、自然 昨夜(ゆうべ)の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧(わ)いて出た。

 風呂場には軒下に篏(は)めた高い硝子戸(ガラスど)を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。

その硝子戸 越(ごし)に岩だか土堤(どて)だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉(ゆ)に浸(つ)けながら、いかに浴槽(よくそう)の位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。

そうしてこの崖(がけ)と自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。

彼は目分量でその距離を一間半 ないし二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中(うち)に幾層もあるはずだという事に気がついた。

 崖の上には石蕗(つわ)があった。

あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。

山茶花(さざんか)の花の散って行く様も湯壺(ゆつぼ)から眺められた。

けれども景色は断片的であった。

硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。

不可知な世界は無論平凡に違(ちがい)なかった。

けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆(そそ)った。

すぐ崖の傍(そば)へ来て急に鳴き出したらしい鵯(ひよどり)も、声が聴(きこ)えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。

 しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。

実を云うと、津田は腹のうちで遥(はる)かそれ以上気にかかる事件を捏(こ)ね返(かえ)していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々(あんあん)のうちに感じなければならなかった。

明るい浴室に人影一つ見出(みいだ)さなかった彼は、万事君の跋扈(ばっこ)に任せるといった風に寂寞(せきばく)を極(きわ)めた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。

もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄(す)ててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作(しょさ)に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。

だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉(た)て切(き)られた戸にかかった時、彼は急に躊躇(ちゅうちょ)した。

彼は固(もと)より無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。

仕方なしに外部(そと)から耳を峙(そばだ)てたけれども、中は森(しん)としているので、それに勢(いきおい)を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。

そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。

 すでに裸になって、湯壺(ゆつぼ)の中に浸(つか)った後(あと)の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。

彼は苦笑しながら、昨夕(ゆうべ)と今朝(けさ)の間に自分の経過した変化を比較した。

昨夕の彼は丸髷(まるまげ)の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。

今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。

 それは主(ぬし)のないスリッパーに唆(そそ)のかされた罪かも知れなかった。

けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起(ねおき)に横浜の女と番頭の噂(うわ)さに上(のぼ)った清子の消息を聴(き)かされたからであった。

彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。

もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。

 鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。

彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止(や)めた。すると足音は聴えなくなった。

しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上(のぼ)って行くように思われた。

彼はその源因を想像した。他(ひと)の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨(す)てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。

なぜそれを浴室の中まで穿(は)き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌(きざ)した。

 しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽(よくそう)の外側に聞いた。

それは彼が石蕗(つわ)の花を眺めた後(あと)、鵯鳥(ひよどり)の声を聴(き)いた前であった。

彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。

風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。

するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。

下から見上げた外部の様子によって考えると、崖(がけ)の上は幾坪かの平地(ひらち)で、その平地を前に控えた一棟(ひとむね)の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。

何しろ声はそっちの見当から来た。

そうしてその主は、たしかに先刻(さっき)散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。

 昨夕湯気を抜くために隙(す)かされた庇(ひさし)の下の硝子戸(ガラスど)が今日は閉(た)て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。

けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖(がけ)の上から崖の下へ向けて話しかけていた。

だから順序を云えば、崖の下からも是非|受(う)け応(こた)えの挨拶(あいさつ)が出なければならないはずであった。

ところが意外にもその方はまるで音沙汰(おとさた)なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。

しゃべる方はただ崖の上に限られていた。

 その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。

疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上(のぼ)って行った。

それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾(すそ)が硝子戸の上部の方に少し現われた。

そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻(ひる)がえる様であった。

彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。

百八十

 部屋に帰って朝食の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。

「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴(き)きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」

 彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気(おしげ)もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外(はず)した。

「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘(うそ)の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人(しろうと)にしちゃあんまり粋過(いきす)ぎるじゃないか」

 下女は答える代りに、突然清子を引合(ひきあい)に出した。

「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄(ひとがら)です」

 間取(まどり)の関係から云って、清子の室(へや)は津田の後(うしろ)、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出(みいだ)した彼はようやく首肯(うなず)いた。

「するとちょうど真中辺(まんなかへん)だね、ここは」

 真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。

「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終(しじゅう)行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑(ひま)なもんですから。昨日(きのう)も公園へいっしょにお出かけでした」

 津田は問題を取り逃がさないようにした。

「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体(からだ)がお悪いんです」
「旦那(だんな)さんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置(お)いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊(き)いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活(い)けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」

「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣(はんさ)にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽(あわて)たように話を外(そ)らせた。

「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞(ふさ)がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」

「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」

 先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落かんを覚えていた津田は「へええ」と云った。

「もう年寄だろうね」

「ええお爺(じい)さんです。こんなに白い髯(ひげ)を生やして」

 下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応(ふさ)わしい髯の長さを形容して見せた。

「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」

「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」

 書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴(き)かされた時、津田は驚ろいて感心した。

「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人(しろうと)は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」

 この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。

彼は暗(あん)にこの老先生の用向(ようむき)と自分の用向とを見較(みくら)べた。

無事に苦しんで義太夫の稽古(けいこ)をするという浜の二人をさらにその傍(かたわら)に並べて見た。

それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。

最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐(すわ)って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。

「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」

「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」

 津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極(きわ)めなければならない季節に、この家(うち)へ入り込んでくる客の人数を挙げた。

百八十一

 食後の津田は床(とこ)の脇(わき)に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛(なあて)を記(しる)した。

お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。

 彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝(たき)だの、ルナ公園(パーク)だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。

それからまた印気(インキ)を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親|宛(あて)の分がまたたく間(ま)に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。

最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一(はじめ)だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚(みうち)の方へ逆戻りをして、甥(おい)の真事(まこと)だの、いろいろな名がたくさん並べられた。

初手(しょて)から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。

他(ほか)の意味は別として、ただ在所(ありか)を嗅(か)ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。

その小林は不日(ふじつ)朝鮮へ行くべき人であった。

無検束をもって自(みずか)ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。

同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。

絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。

 津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介(やっかい)なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙(そば)だてた。

するといったん緒口(いとくち)の開(あ)いた想像の光景(シーン)はそこでとまらなかった。

彼を拉(らっ)してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴(どな)り込むような大きな声を出して彼の室(へや)へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴(ほうふつ)した。

「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭(いや)がらせに来たんだ」
「どういう理由(わけ)で」
「理由も糸瓜(へちま)もあるもんか。貴様がおれを厭(いや)がる間は、いつまで経(た)ってもどこへ行っても、ただ追(おっ)かけるんだ」
「畜生ッ」

 津田は突然|拳(こぶし)を固めて小林の横(よこ)ッ面(つら)を撲(なぐ)らなければならなかった。

小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室(へや)の真中へ踏(ふ)ん反(ぞ)り返らなければならなかった。

「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」

 まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。

そうしてそれが宿中(やどじゅう)の視聴を脅(おびや)かさなければならなかった。

その中には是非とも清子が交(まじ)っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。

 事実よりも明暸(めいりょう)な想像の一幕(ひとまく)を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。

もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥(しゅうち)と屈辱を遠くの方に感じた。

それを象徴するために、頬(ほお)の内側が熱(ほて)って来るような気さえした。

 しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。

他(ひと)に対して面目(めんぼく)を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。

これが彼の倫理観の根柢(こんてい)に横(よこた)わっているだけであった。

それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。

だから悪い奴(やつ)はただ小林になった。

「おれに何の不都合(ふつごう)がある。彼奴(あいつ)さえいなければ」

 彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負(しょ)わせた。

 夢のような罪人に宣告を下した後(あと)の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。

その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜(さくや)ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。

それから「あなたがおいでの事を今朝(けさ)聴きました」と付け足してまた考えた。

「これじゃ空々(そらぞら)しくっていけない、昨夜(ゆうべ)会った事も何とか書かなくっちゃ」

 しかし当(あた)り障(さわ)りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。

第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。

彼はなるべく淡泊(あっさり)した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。

 思いついたように違(ちが)い棚(だな)の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日(きのう)のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸(おろ)した。

彼は果物籃(くだものかご)の葢(ふた)の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿(さ)し込んだ後(あと)で、下女を呼んだ。

「宅(うち)に関さんという方がおいでだろう」

 今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。

「関さんが先刻(さっき)お話した奥さんの事ですよ」

「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」

「へえ」

 下女はすぐ果物籃を提(さ)げて廊下へ出た。

百八十二

 返事を待ち受ける間の津田は居据(いすわ)りの悪い置物のように落ちつかなかった。

ことにすぐ帰って来(く)べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣(つか)った。

「まさか断るんじゃあるまいな」

 彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解(と)く好い方便に違(ちがい)なかった。単に彼と応接する煩(わずら)わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑(けんぎ)を避けようとするのが彼女の当体(とうたい)であったにしたところで、果物籃(くだものかご)の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。

誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層|苦(く)にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草(たばこ)を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉(ひごい)を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面(はなづら)へ手を延ばして見たりした。

やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴(きこ)えた時に、わざと取り繕(つくろ)った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。

「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪(おぐし)を結(い)って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」

 津田は女の髷(まげ)がそんなに雑作(ぞうさ)なく結(ゆ)える訳のものでないと思った。

「銀杏返(いちょうがえ)しかい、丸髷(まるまげ)かい」

 下女は取り合わずにただ笑い出した。

「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻(さっき)からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心(かんじん)のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」

 やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分(じょうだんはんぶん)に駄目(だめ)を押した。

「本当かい。迷惑じゃないかね。向(むこう)へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭(いや)だからね」
「旦那様(だんなさま)はずいぶん疑(うたぐ)り深(ぶか)い方(かた)ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」

 兵児帯(へこおび)を締め直した津田の後(うし)ろへ廻った下女は、室(へや)を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」

 下女は先へ立った。夢遊病者(むゆうびょうしゃ)として昨夕(ゆうべ)彷徨(さまよ)った記憶が、例の姿見(すがたみ)の前へ出た時、突然津田の頭に閃(ひら)めいた。
「ああここだ」

 彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊(き)き返した。
「何がです」

 津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」

 下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅(うち)に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
 客商売をする宿に対して悪い洒落(しゃれ)を云ったと悟った津田は、賢(かし)こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通(てんがんつう)ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通(てんびつう)と云って万事鼻で嗅(か)ぎ分(わ)けるんだ」
「まるで犬見たいですね」

 階子段(はしごだん)の途中で始まったこの会話は、上(あが)り口(くち)の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗(あん)にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」

 彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止(と)めた。
「ここだ」

 下女は横眼で津田の顔を睨(にら)めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利(き)きますね。猟犬(りょうけん)よりたしかですよ」

 下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑(にぎ)やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞(ひっそり)していた。
「お客さまがいらっしゃいました」

 下女は外部(そと)から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子(しょうじ)をすうと開けてくれた。
「御免下さい」

 一言(いちごん)の挨拶(あいさつ)と共に室(へや)の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。

百八十三

 室は二間続きになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床(とこ)のない控えの間の方であった。

黒柿の縁(ふち)と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞(よこたてじま)の厚い座蒲団(ざぶとん)を据(す)えて、その傍(かたわら)に桐(きり)で拵(こし)らえた小型の長火鉢(ながひばち)が、普通の家庭に見る茶の間の体裁(ていさい)を、小規模ながら髣髴(ほうふつ)せしめた。

隅(すみ)には黒塗の衣桁(いこう)があった。異性に附着する花やかな色と手触(てざわ)りの滑(すべ)こそうな絹の縞(しま)が、折り重なってそこに投げかけられていた。

 間(あい)の襖(ふすま)は開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立(いけたて)らしい寒菊の花を見た。

前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶(こげちゃ)に染めた縮緬(ちりめん)のなかに、牡丹(ぼたん)か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席につかない先にまず直感した。

「すべてが改(あらた)まっている。これが今日会う二人の間に横(よこた)わる運命の距離なのだろう」

 突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。

 しかしこの距離はどこから起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。

津田はただそれを忘れていただけであった。では、なぜそれを忘れていたのだろう? 

考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。

 津田がこんな感想に囚(とら)えられて、控(ひかえ)の間(ま)に立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅(すみ)から現わした。

それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解(げ)せなかった。

また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。

あるいは室を片づけてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚(よ)りかかりでもして、山に重(かさ)なる黄葉(こうよう)の色でも眺めていたのかも知れなかった。

それにしても様子が変であった。有体(ありてい)に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰(でっく)わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。

 しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰(せ)くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢(かくひばち)ほど彼の気色(きしょく)に障(さわ)らなかった。

というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。

 津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠(おっとり)していた。

どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。

彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。

少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。

突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻(ひる)がえす燕(つばめ)のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。

二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。

「あの緩(のろ)い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」

 疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。

けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。

 反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。

もし津田が室(へや)に入って来た時、彼の気合を抜いて、間(ま)の合わない時分に、わざと縁側の隅(すみ)から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。

「また何か細工をするな」

 彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作(しょさ)が演ぜられたとなると結果は全然別になった。

「相変らず緩漫だな」

 緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚(めざま)しい早技(はやわざ)で取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。

 その上清子はただ間(ま)を外(はず)しただけではなかった。

彼女は先刻(さっき)津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃(くだものかご)を両手でぶら提(さ)げたまま、縁側の隅から出て来たのである。

どういうつもりか、今までそれを荷厄介(にやっかい)にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛(どもり)にならないのは明かであった。

それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違(ちがい)なかった。

少くとも不器用であった。何だか子供染(こどもじ)みていた。

しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。

「滑稽(こっけい)だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。

そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」

 重そうに籃(かご)を提(さ)げている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。

百八十四

 すると清子はその籃(かご)をすぐ下女に渡した。

下女はどうしていいか解(わか)らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。

この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。

しかし普通の場合に起る手持無沙汰(てもちぶさた)の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来(こ)ずにすんだ。

彼はただ間(ま)の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。

だから昨夜(ゆうべ)の記憶からくる不審も一倍に強かった。

この逼(せま)らない人が、どうしてあんなに蒼(あお)くなったのだろう。

どうしてああ硬く見えたのだろう。

あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。

彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。

 彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。

そうして立ちながら果物(くだもの)を皿に盛るべく命じている清子を見守った。

「どうもお土産(みやげ)をありがとう」

 これが始めて彼女の口を洩(も)れた挨拶(あいさつ)であった。

話頭(わとう)はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。

もとより嘘(うそ)を吐(つ)く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。

「道伴(みちづれ)になったお爺(じい)さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」

「あらどうして」

 津田は何と答えようが平気であった。

「あんまり重くって荷になって困るからです」

「じゃ来る途中|始終(しじゅう)手にでも提(さ)げていらしったの」

 津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴(きこ)えた。

「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」

 清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。

云い換えれば一種の余裕があった。嘘(うそ)から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。

「相変らずあなたはいつでも苦(く)がなさそうで結構ですね」

「ええ」

「ちっとももとと変りませんね」

「ええ、だって同(おん)なじ人間ですもの」

 この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。

その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。

「何を笑うんだ」

「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目(まじめ)な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。

「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同(おん)なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」

「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」

「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」

「お望みなら逢(あ)わせてやってもいいがね」

「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」

 彼女は人指指(ひとさしゆび)を自分の鼻の先へ持って行った。

「旦那様(だんなさま)のこれにはとても敵(かな)いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭(におい)で嗅(か)ぎ分ける方(かた)なんですから」

「部屋どころじゃないよ。お前の年齢(とし)から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」

「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」

 下女はこう云って立ち上った。しかし室(へや)を出(で)がけにまた一句の揶揄(やゆ)を津田に浴びせた。

「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」

 日当りの好い南向(みなみむき)の座敷に取り残された二人は急に静かになった。

津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。

清子は欄干(らんかん)を背にして日に背(そむ)いて坐っていた。

津田の席からは向うに見える山の襞(ひだ)が、幾段にも重なり合って、日向日裏(ひなたひうら)の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。

それを彩(いろ)どる黄葉(こうよう)の濃淡がまた鮮(あざ)やかな陰影の等差を彼の眸中(ぼうちゅう)に送り込んだ。

しかし眼界の豁(ひろ)い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。

見れば北側の障子(しょうじ)と、その障子の一部分を遮(さえ)ぎる津田の影像(イメジ)だけであった。

彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。

お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。

 彼女の顔は、昨夕(ゆうべ)と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅(あか)かった。

しかしそれは強い秋の光線を直下(じか)に受ける生理作用の結果とも解釈された。

山を眺めた津田の眼が、端(はし)なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶(みみたぶ)に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。

彼女の耳朶は薄かった。

そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。

百八十五

 こんな場合にどっちが先へ口を利(き)き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。

その代り自分にも五分(ごぶ)の寛(くつろ)ぎさえ残しておく事のできない性質(たち)に生れついていた。

彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。

勢い津田は始終(しじゅう)受身の働きを余儀なくされた。

そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞(な)めなければならなかった。

 ところが清子を前へ据(す)えると、そこに全く別種の趣(おもむき)が出て来た。

段取は急に逆になった。相撲(すもう)で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。

 二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。

気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間(ま)にか蘇生していた。

今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰(てもちぶさた)の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。

彼は伸(の)び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。

少くとも同じ性質のものに違(ちがい)ないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。

しかも昔(むか)しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。

「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後|御無沙汰(ごぶさた)をしていっこうお目にかかりませんが」

 津田は何の気もつかなかった。会話の皮切(かわきり)に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日(こんにち)まで自分ら二人の間に起った感情の行掛(ゆきがか)り上(じょう)から考えても、またそれらの纏綿(てんめん)した情実を傍(かたわら)に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案(ひとしあん)しなければならない点であった。

それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念(けねん)さえなく、ただ無雑作(むぞうさ)に話頭(わとう)に上せた津田は、まさに居常(きょじょう)お延に対する時の用意を取り忘れていたに違(ちがい)なかった。

 しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶(あいさつ)ぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。

「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂(うわさ)を致しております」

「ああそうですか。僕も始終(しじゅう)忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」

「良人(うち)も同(おん)なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇(ひま)な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」

「そうですね」

 こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊(き)いて見たいような気がした。

「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音(ほんね)ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵(かく)れていた。

 しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出(みいだ)した。

彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具(そなわ)っていた。

それを口にして苦(く)にならないほどの淡泊(たんぱく)さが現われていた。

ただそれは津田の暗(あん)に予期して掛(かか)ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。

昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚(おうよう)な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。

「どうしてそれが不満足なのか」

 津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。

関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。

けれどもそれは表通りの沙汰(さた)であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。

裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張っていた。

そうしてその自分に「私」という名を命(つ)ける事のできなかった津田は、飽(あ)くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。

彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人(しろうと)に対する黒人(くろうと)であった。

無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。

だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。

 表で認めて裏で首肯(うけが)わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。

百八十六

「昨夕(ゆうべ)は失礼しました」

 津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘(ねら)いどころであった。

「私(わたくし)こそ」

 清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。

「この女は今朝(けさ)になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」

 もしそれを憶(おも)い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。

「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」

「じゃ止(よ)して下さればよかったのに」

「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」

「でも私への御土産(おみやげ)を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」

「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」

「そうですか知ら」

 故意(こい)を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻(こうふん)が、彼を驚ろかした。

「だって、わざとあんな真似(まね)をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興(すいきょう)だって」

「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」

 津田は水盤に溢(あふ)れる水を眺めていたに違(ちがい)なかった。

姿見(すがたみ)に映るわが影を見つめていたに違なかった。

最後にそこにある櫛(くし)を取って頭まで梳(か)いてぐずぐずしていたに違なかった。

「迷児(まいご)になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」

「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」

「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談(じょうだん)じゃない。いくら僕の鼻が万能(まんのう)だって、あなたの湯泉(ゆ)に入る時間まで分りゃしませんよ」

「なるほど、そりゃそうね」

 清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点(がてん)したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。

「いったい何だって、そんな事を疑(うたぐ)っていらっしゃるんです」

「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」

「解りっこないじゃありませんか」

「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」

 津田は仕方なしに側面から向った。

「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅(すみ)で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」

「そりゃ話せないわ」

「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」

「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」

「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」

「私の胸に何にもありゃしないわ」

 単純なこの一言(いちごん)は急に津田の機鋒(きほう)を挫(くじ)いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。

「なければどこからその疑いが出て来たんです」

「もし疑ぐるのが悪ければ、謝(あや)まります。そうして止(よ)します」

「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」

「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」

「だからその事実を聴(き)かせて下さればいいんです」

「事実はすでに申し上げたじゃないの」

「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」

「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」

「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口(ひとくち)で済んじまう事です」

 今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑(ふ)に落ちたという顔つきをした。

「ああ、それがお聴きになりたいの」

「無論です。先刻(さっき)からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩(わずら)わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」

「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由(わけ)は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」

「待伏せをですか」

「ええ」

「馬鹿にしちゃいけません」

「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘(うそ)でも偽(いつわ)りでもないんですもの」

「なるほど」

 津田は腕を拱(こまぬ)いて下を向いた。

百八十七

 しばらくして津田はまた顔を上げた。

「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」

 清子は答えた。

「私にもそんな気はちっともなかったの。

つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意(こい)じゃないのよ」

「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」

「まあそうね」

 清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。

「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」

「ええ何なりと」

 清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。

それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。

「何もかももう忘れているんだ、この人は」

 こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。

彼は駄目(だめ)を押すような心持になって訊いた。

「しかし昨夕(ゆうべ)階子段(はしごだん)の上で、あなたは蒼(あお)くなったじゃありませんか」

「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」

「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐(うそつき)でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」

「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」

「そう。――それから硬(かた)くなりましたね」

「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」

「つまり驚ろいたんでしょう」

「ええずいぶん吃驚(びっくり)したわ」

「それで」と云いかけた津田は、俯向加減(うつむきかげん)になって鄭寧(ていねい)に林檎(りんご)の皮を剥(む)いている清子の手先を眺めた。

滴(したた)るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩(も)れながら、ぐるぐると剥(む)けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼(うすあお)い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上 経(た)った昔を憶(おも)い起させた。

「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎(りんご)を剥(む)いてくれたんだっけ」

 ナイフの持ち方、指の運び方、両肘(りょうひじ)を膝(ひざ)とすれすれにして、長い袂(たもと)を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。

それは彼女の指を飾る美くしい二個(ふたつ)の宝石であった。

もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮(さえ)ぎるものはなかった。

柔婉(しなやか)に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然(さんぜん)たる警戒の閃(ひら)めきを認めなければならなかった。

 彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。

しかし今朝(けさ)下女が結(い)ってやったというその髪は通例の庇(ひさし)であった。

何の奇も認められない黒い光沢(つや)が、櫛(くし)の歯を入れた痕(あと)を、行儀正しく竪(たて)に残しているだけであった。

 津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。

「それで僕の訊(き)きたいのはですね――」

 清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。

「昨夕(ゆうべ)そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」

 清子は俯向(うつむ)いたまま答えた。

「なぜ」

「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」

 清子はやっぱり津田を見ずに答えた。

「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」

「説明はそれだけなんですか」

「ええそれだけよ」

 もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息(ためいき)を吐(つ)くところであった。

けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。

この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑(おさ)えつけた。

「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」

 清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。

「あらどうしてそんな事を御承知なの」

「ちゃんと知ってるんです」

 清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗(きれい)に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通(てんがんつう)でなくって天鼻通(てんびつう)ね。実際よく利(き)くのね」

 冗談(じょうだん)とも諷刺(ふうし)とも真面目(まじめ)とも片のつかないこの一言(いちごん)の前に、津田は退避(たじろ)いだ。

 清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。

「あなたいかが」

百八十八

 津田は清子の剥(む)いてくれた林檎(りんご)に手を触れなかった。

「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」

「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。

その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」

 清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片(ひときれ)を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊(き)いた。

「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」

「何がどうしたんです」

「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」

 津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。

その顔をじっと見守った清子の眼に、判然(はっきり)した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。

「ああこの眼だっけ」

 二人の間に何度も繰り返された過去の光景(シーン)が、ありありと津田の前に浮き上った。

その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。

だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。

自分に解らない未来を挙(あ)げて、彼の上に投げかけるように見えた。

したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊(き)こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。

彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。

自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。

 二人はついに離れた。そうしてまた会った。

自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。

「それはあなたの美くしいところです。

けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。

判然教えて下さい」

 津田の疑問と清子の疑問が暫時(ざんじ)視線の上で行き合った後(あと)、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退(ひ)き方(かた)を見た。

そうしてそこにも二人の間にある意気込(いきごみ)の相違を認めた。

彼女はどこまでも逼(せま)らなかった。

どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床(とこ)の間(ま)に活(い)けてある寒菊の花の上に落した。

 眼で逃げられた津田は、口で追(おっ)かけなければならなかった。

「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」

「でしょう、だから変なのよ」

「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来(き)ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産(みやげ)まで頼まれちまったんです」

「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」

「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」

「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」

 津田はつい「こっちでもその訳を訊(き)きに来たんだ」と云いたくなった。

しかし何にもそこに頓着(とんじゃく)していないらしい清子の質問は正直であった。

「それであなたもどこかお悪いの」

 津田は言葉少なに病気の顛末(てんまつ)を説明した。清子は云った。

「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合(ごつごう)がつくんだから。

そこへ行くと良人(うち)なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」

「関君こそ酔興(すいきょう)なんだから仕方がない」

「可哀想(かわいそう)に、まさか」

「いや僕のいうのは善(い)い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」

「まあ、お上手だ事」

 この時下から急ぎ足で階子段(はしごだん)を上(のぼ)って来る草履(ぞうり)の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。

すると先刻(さっき)とは違った下女がそこへ顔を出した。

「あの浜のお客さまが、奥さまにお午(ひる)から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」

「お供(とも)しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様(だんなさま)もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。

「ありがとう。時にもうお午なのかい」

「ええただいま御飯を持って参ります」

「驚ろいたな」

 津田はようやく立ち上った。

「奥さん」と云おうとして、云(い)い損(そく)なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。

「あなたはいつごろまでおいでです」

「予定なんかまるでないのよ。宅(うち)から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」

 津田は驚ろいた。

「そんなものが来るんですか」

「そりゃ何とも云えないわ」

 清子はこう云って微笑した。

津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室(へや)に帰った。

――未完――

 

 

 

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