夏目漱石 明暗 91-142  

2021.01.05

九十一

 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。 長男はすでに四年前に生れていた。

単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒ますには充分であった。

彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。

 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。

自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛がりもしない。

これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。

道楽の修業を積んで始めてそういう境界(境遇)に達せられるもののように考えていた。

人世観という厳(いか)めしい名をつけて然るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生ぬるく触れて行く事であった。

微笑して過ぎる事であった。何にも執着しない事であった。

呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。

それが彼のいわゆる通(つう)であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。

またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成績がますます彼を楽天的にした。

誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。

そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。

 器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。

放蕩の酒で臓腑(ぞうふ)を洗濯されたような彼の趣きもようやく解する事ができた。

こんなに拘泥(こうでい)の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。

お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注がなければならなくなった。

 お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。

お延の新世帯が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。

親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。

中でも母には、他人の知らない気苦労をしなければならなかった。

 器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経っても若かった。

一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳の子持とはどうしても考えられないくらいであった。

けれどもお延と違った家庭の事情の下に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。

お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老けていた。

言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染みたのである。

 こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。

その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母の味方にしたがった。

彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。

ことに嫂(あによめ)に気まずい事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎しんでいた。

しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。

兄がもしあれほど派手好きな女と結婚しなかったならばという気が、始終胸の底にあった。

そうしてそれは身贔負(みびいき)に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。

 お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。

兄夫婦から煙たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。

しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。

第一には二人が厭がるからなお改めないのであった。

自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。

第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。

第三は単に派手好なお延が嫌いだという一点に纏められてしまわなければならなかった。

お延より余裕のある、またお延より贅沢のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。

それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑(しゅうと)があった。

そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関連してこの相違すら考えなかった。

 お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。

九十二

 前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳にちょっと手を出したぎり、また仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉っていた。

お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入りかけた間際だったので、彼は襖の音ですぐ眼を覚ました。

そうして病人に斟酌(しんしゃく)を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。

 こういう場合に彼らはけっして愛嬌を売り合わなかった。嬉しそうな表情も見せ合わなかった。

彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。

彼らには自分ら兄妹(きょうだい)でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用しにくい黙契があった。

どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部(うわべ)の所作だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙し合う手数を省いて、良心に背かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。

そうしてその良心に背かない顔というのは、取りも直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。

 第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄であった。だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。

第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災いの元で、互の顔を見ると、互に弾き合いたくなった。

 ふと首を上げてそこにお秀を見出した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。

彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。

お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着なく、言葉もかけずに、そっと部屋の内に入って来た。

 彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかった。

横倒しに引ッ繰り返された牛乳の罎の下に、卵の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕(はがた)のついたトーストが食いかけのまま投げ出されてあった。

しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。

「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」

 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。

「もう済んだんだよ」

 お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。

看護婦の手がすかなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食の残骸は、掃除の行き届いた自分の家を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。

「汚ならしい事」

 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。

「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」

「電話で知らせて下すったんです」

「お延がかい」

「ええ」

「知らせないでもいいって云ったのに」

 今度はお秀の方が取り合わなかった。

「すぐ来ようと思ったんですけれども、あいにく昨日は少し差支えがあって――」

 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。

場合によると、それが津田には変に受取れた。

「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。

自分達夫婦の間柄を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟のとおらない頭をもった津田では無論なかった。

それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗に希望していたくらいであった。

けれども自分がお秀にそうした素振を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。

そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。

 津田は後を訊かずに思う通りを云った。

「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」

「だって、ねえさんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」

「そうかい」

「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」

 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。

九十三

 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。

それはガーゼを詰め込んだ傷口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈拍のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。

 彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。

芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。

この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中で叫んだ。

すると苦い記憶をわざと彼のために繰り返してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。

最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端に一度引いた浪がまた磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返してくる。

すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。

止めさせようとあせればあせるほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。

 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。

彼は籠の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。

いつまでも彼女を自分の傍に引きつけておくのを男らしくないと考えた。

それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。

しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。

彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。

彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らしたベルの音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。

彼が局部から受ける厭な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺激に帰した。

そうしてその刺激は過敏にされた神経のお蔭にほかならないと考えた。

ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。

お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。

しかし全く偶然の暗合(あんごう)でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。

彼は自分だけの料簡で、二つの間にある関係を拵(こしら)えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。

単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。

けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。

通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。

 お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末を思い起させた。

彼は苦い顔をした。

 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。

彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。

「お厭なら病院をお出でになってから後にしましょうか」

 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しなければならなかった。

「どこか痛いの」

 津田はただうなずいて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。

同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。

その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。

「そんなに痛くっちゃ困るのね。ねえさんはどうしたんでしょう。

昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」

「お延は知らないんだ」

「じゃねえさんが帰ってから後で痛み始めたの」

「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。

上部(うわべ)はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥ずかしくなった。

「いったいお前の用というのは何だい」

「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」

 津田は優に自分を偽る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭であった。

彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。

「構わないからお話しよ」

「どうせあたしの話だから碌な事じゃないのよ。よくって」

 津田にも大よその見当はついていた。

九十四

「またあの事だろう」

 津田はしばらく間をおいて、仕方なしにこう云った。

しかしその時の彼はもういつもの通り聴きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。

「だからあたしの方じゃ先刻から用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。

それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」

「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」

「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」

 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈を加える女ではなかった。

したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。

彼は取り合わずに先へ通り過した。

「また京都から何か云って来たのかい」

「ええまあそんなところよ」

 津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が主に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。

しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。

二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。

兄妹(きょうだい)の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互にこんがらかって、離す事のできない事情の下にある意味合を、お秀よりもよく承知していた。

彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。

「何と云って来たい」

「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」

「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」

 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。

それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。

平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。

なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他人の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。

「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。

 お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃えて兄に向った。

「それで兄さんはどうなすったの」

「どうもしようがないじゃないか」

「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」

 津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。

「云ってやったさ」

「そうしたら」

「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。

もっとも家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」

「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当がついて」

 津田は何とも答えなかった。お延の拵(こし)らえてくれたどてらの襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、しきりに前歯をほじくり始めた。

彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。

「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」

「知らないよ」

 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。

「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻から訊いてるじゃないか」

 お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。

「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」

九十五

 津田はようやくお秀宛で来た手紙の中に、どんな事柄が書いてあるかを聞いた。

妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。

月末の不足を自分で才覚するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。

して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕いだとか家賃の滞りだとかいうのは嘘でなければならなかった。

よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。

父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。

叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。

 彼は沈思して考えた。山羊髯を生やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪を嫌って髷にばかり結いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。

「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。

事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。

約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。

そうしてその立場を他人からも認めて貰いたかったのである。

「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。

「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」

 お秀には自分の夫との堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。

「うちの人も困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」

 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻がえさせたものは堀の力であった。

津田から頼まれて、また無雑作にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落したのである。

その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。

その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極呑気な男であった。

約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。

詰責に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。

しかし現金の綺麗に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。

楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。

ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。

津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。

 同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。

そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。

彼女はお延の指輪を賞めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。

堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。

自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮に打ち勝った。

彼女はありのままをお秀に物語った。

 不断から派手過ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末を京都へ報告した。

しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。

津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。

そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。

今でも彼女はその誤解から逃れる事ができなかった。

したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂(あによめ)のお延だと云った方が適切かも知れなかった。

「いったいねえさんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」

「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」

「そう。じゃねえさんが一番気楽でいいわね」

 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。

九十六

「いったいどうしたらいいんでしょう」

 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩らす表現にもなった。

彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑とさえその奥には控えていた。

「そりゃうちの人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。

と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。

とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしがうちの人へ対して困るだけだわ」

 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。

しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。

彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。

もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。

むしろ自由にされていた。

細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。

 兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。

それを遠慮のない言葉で云い現わすと、

「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。

 津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。

かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。

「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」

「そこなのよ、兄さん」

 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。

「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」

 かすかな暗示が津田の頭に閃めいた。秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。

それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質のものであった。

心のうちで劈頭(へきとう)に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。

 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下(しも)のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。

――最初に体(てい)よく送金を拒絶する。津田が困る。今までのいきがかり上(じょう)堀に訳を話す。

京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。

それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。

 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟もあった。或程度の手腕は無論認められた。

同時に何らの淡泊さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪(こうかい)な所も少しはあった。

小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。

 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口(やりくち)に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。

あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉を顰(ひそ)めなければならなかった。

父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。

お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑とへの義理もつらく考えさせられた。

二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。

互いの忖度(そんたく)から成立った父の料簡(りょうけん)は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。

九十七

 感情と理窟の縺(もつ)れ合った所をほごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。

局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方をじれったくした。

しかし彼らは兄妹(きょうだい)であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。

相手のさっぱりしないところを暗に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁は演じなかった。

ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括(くく)る手際(てぎわ)をお秀より余計にもっていた。

「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」

「そうじゃないわ」

「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同じ事だがね」

「あら、ねえさんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」

「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。

そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。

兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」

「兄さんにそんな事ができて」

 お秀の兄をあざけるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起した。

「できなければ死ぬまでの事さ」

 お秀はついにきりりとしまった口元を少し緩めて、白い歯をかすかに見せた。

津田の頭には、電灯の下で光る厚帯をいじくっているお延の姿が、再び現れた。

「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」

 津田にとってそれほどたやすい解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。

彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。

それにできるだけの満足を与える事が、また取も直さず彼の虚栄心にほかならなかった。

お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角において突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を与えるようなものであった。

お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。

そのくらいの事をと他人から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。

家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つにはあり余るほどの金がある。

のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。

 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。

おのれを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質に父母から生みつけられていた。

「できなければ死ぬまでさ」と放り出すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺っていた。

腹の中に言葉通りの断固たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。

彼はむしろ冷やかに胸の天秤を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを推し量った。

そうしていっそ二つのうちで後の方を冒したらどんなものだろうかと考えた。

それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのをあきたらなく思った。

兄の後に御本尊のお延が澄まして控えているのをにくんだ。

夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹(ごうはら)であった。

そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見え透いて来た後でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。

 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちていた。

彼は成上(なりあが)りものに近いある臭味(しゅうみ)を結婚後のこの妹に見出した。あるいは見出したと思った。

いつか兄といういかめしい具足を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。

だから彼といえどもみだりにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。

 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。

その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵(こし)らえかけていた局面を、一度に崩してしまったのである。

九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。

彼は階子段(はしごだん)の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。

彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊き返した。

薬局生は降りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。

冷笑なこの挨拶が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。

芝居へ行ったぎり、昨日も今日も姿を見せないお延の仕うちを暗に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。

「電話で釣るんだ」

 彼はすぐこう思った。

昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。

お延の彼に対する平生の素振りから推して見ると、この類測にまんざらな無理はなかった。

彼は不用意の際に、突然としてしかもしとやかに自分を驚ろかしに入いって来るお延の笑顔さえ想像した。

その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。

彼女は一刹那(いっせつな)に閃めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。

今まで持もちこたえに持ちこたえ抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、みすみす彼女の術中に落ち込むようなものであった。

 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。

「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。ほうっておけ」

 この挨拶がまたお秀にはまるで意外であった。

第一はズボラを忌む兄の性質に釣り合わなかった。

第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。

彼女は兄が自分の手前をはばかって、普段の甘いところを押し隠すために、わざとあによめに対して無頓着をよそおうのだと解釈した。

心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。

彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。

薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。

 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題のいとくちを取り上げた時、一方ではせきこんだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自動電話をすてて電車に乗ったのである。

それから十五分と経たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。

 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。

小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅.に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。

それは外套をやるやらないの問題ではなかった。

問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他人の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。

もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。

もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。

そこには突飛があった。自暴(やけ)があった。

満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。

新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択される恐れがあった。

平生から彼を軽蔑する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういうしたじを作っておいた自覚が充分あった。

「何をいうか分らない」

 津田の心には突然一種の恐怖がわいた。お秀はまた反対に笑い出した。

いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。

「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。

あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」

 お秀も小林の一面をよく知っていた。

しかしそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面だけに限られていた。

そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。

「そうでないよ、なかなか」

「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」

 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。

「だってマッチ一本だって、大きな家を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」

「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱マッチを抱え込んでいたって。

ねえさんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

九十九

 津田はお秀の口から出た下半句(しもはんく)を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。

よそを向いたまま、じっとその後(あと)を待っていた。

しかし彼の聞こうとするその後(あと)はついに出て来なかった。

お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。

「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。

何か特別な事情でもあるの」

 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。

それはなるべく妹に自分の心を気取られないためであった。

眼の色を彼女に読まれないためであった。

そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。

彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。

「別に心配もしていないがね」

「ただ気になるの」

 この調子で押して行くと彼はただお秀からひやかされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。

 同時に先刻(さっき)から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。

彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという懸念に制せられた。

 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。

彼女はいったん緒口(いとくち)を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。

「兄さんはいったいねえさんをどんな人だと思っていらっしゃるの」

「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」

「そんならいいわ、伺わないでも」

「しかしなぜ訊くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」

「ちょっと必要があったから伺ったんです」

「だからその必要をお云いな」

「必要は兄さんのためよ」

 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。

「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」

「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」

「どうせ解らないから変なんでしょうよ。

じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風にねえさんに持ちかけるって云うの」

「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」

「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」

 津田は答えなかった。お秀は穴の開あくようにその顔を見た。

「まるで想像がつかないじゃありませんか。

たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」

 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。

「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、ねえさんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ聴きかないでも解ってるよ」

「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったいねえさんをどう思っていらっしゃるかって。

兄さんはねえさんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」

 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。

しかしそこに相手の拍子を抜く必要があったので、彼ははっきりした返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。

「大変な権幕(けんまく)だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」

「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」

「云えばどうするというんだい」

「私はあなたの妹です」

「それがどうしたというのかね」

「兄さんは淡泊でないから駄目よ」

 津田は不思議そうに首を傾けた。

「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し勘違いをしているんじゃないかい。

僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。

ただあいつは僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」

「ただそれだけなの」

「うんそれだけだ」

 お秀は急にあての外(はず)れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。

「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。

それを堀が知って心配すると思っていらっしって」

「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」

「ええ断言します」

「結構だよ。――それで?」

「あたしの方もそれだけよ」

 二人は黙らなければならなかった。

 しかし二人はもう因果づけられていた。

どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸からたたき出さなければ承知ができなかった。

ことに津田には目前の必要があった。

当座に逼せまる金の工面(くめん)、彼は今その財源を自分の前に控えていた。

そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。

勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。

彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。

「お秀病院で飯を食って行かないか」

 時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。

ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。

「どうせ家うちへ帰ったって用はないんだろう」

 お秀は津田のいう通りにした。話は容易(たやす)く二人の間に復活する事ができた。

しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。

そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足しにならなかった。

彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込こもうとして機会を待った。

「兄さん、あたしここに持っていますよ」

「何を」

「兄さんの入用(いりよう)のものを」

「そうかい」

 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。

彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。

お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。

勢い兄の欲しがる金を餌(えば)にして、自分の目的を達しなければならなかった。

結果はどうしても兄を焦じらす事に帰着した。

「あげましょうか」

「ふん」

「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」

「ことによると、くれないかも知れないね」

「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。

今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」

「そりゃ知ってるよ。さっきもうお前から聞いたじゃないか」

「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」

「僕を焦(じ)らすためにかい、または僕にくれるためにかい」

 お秀は打たれた人のように突然黙った。

そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜ためた。

津田にはそれが口惜涙(くやしなみだ)としか思えなかった。

「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。

どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」

「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」

 今度はあきれた表情がお秀の顔にあらわれた。

「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」

「そんな事は他人に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」

「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」

 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。

ここまで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、またはくしゃりと一度に押し潰つぶした方が得かという利害心が働らいていた。

その中間を行こうと決心した彼はおもむろに口を開いた。

「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」

「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」

「だからそれでいいよ」

「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」

「そりゃ……」

 津田は全部を答えなかった。

けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。

お秀は少し間をおいた。それからすぐ押し返した。

「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口(つげぐち)をしたという事が始終あるんでしょう」

「そんな事はどうでもいいよ」

「いいえ、それできっとあたしを眼の敵(かたき)にしていらっしゃるんです」

「誰が」

 不幸な言葉は二人の間に伏字のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。

お秀はそれを松明(たいまつ)のように兄の眼先に振り廻した。

「兄さんこそ違ったのです。

ねえさんをお貰いになる前の兄さんと、ねえさんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。

誰が見たって別の人です」

 

百一

 津田から見たお秀は彼に対する偏見で武装されていた。

ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。

彼には「ねえさん、ねえさん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は少なからぬ不快を感じた。

「おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ」

「そりゃそうかも知れません。ねえさんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装って、うっちゃっておおきになるくらいですから」

 こういう言葉が所嫌わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。

「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」

 彼は神経の興奮を紛らす人のように、しきりに短かい口髭(くちひげ)を引張った。

しだいしだいに苦い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。

 津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。

お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸にされて行くので、しまいに彼は恥じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。

あたかももう一息で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢いで。

「ねえさんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊でした。

私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体(ありてい)に事実を申します。

だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。

兄さんはねえさんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐いた覚えがありますか」

 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。

しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。

津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。

「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」

 お秀はそうだと答えたいところをわざとそらした。

「いいえ、ねえさんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。

ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです」

 津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥って来た。

「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」

「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」

 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。

 お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。

「兄さんの変った証拠はまだあるんです」

 津田はそ知らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙げた。

「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、ねえさんに何か云やしないかって、先刻(さっき)から心配しているじゃありませんか」

「煩(うる)さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」

「でも気になる事はたしかなんでしょう」

「どうでも勝手に解釈するがいい」

「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」

「馬鹿を云うな」

「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ、ねえさんを恐れていらっしゃるんです」

 津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。

それから好い恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。

もう一息で懺悔の深谷(しんこく)へ真っ逆さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。

しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。

「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。

何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。

たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手がねえさんだからじゃありませんか」

「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」

「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」

「まあその見当だろうね」

 お秀はかっとした。同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。

百二

「解りました」

 お秀は鋭どい声でこう云い放った。

しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。

彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。

「解りましたよ、兄さん」

 お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。

「何が」

「なぜねえさんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」

 津田の頭に一種の好奇心が起った。

「云って御覧」

「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」

「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているがいい」

「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。

お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。

だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。

知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」

 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。

なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。

しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。

彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。

そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。

そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。

したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。

お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温(なまぬる)い表現を通して伝わるだけであった。

彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻(さっき)から見せている津田を毫(ごう)も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。

 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。

今までの彼女は彼を通して常に鋒先(ほこさき)をお延に向けていた。

兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面(やおもて)に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂(あね)だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。

それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。

そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。

「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。

よし権利がないにしたところで、もしそうした疑(うたがい)を妹が少しでももっているなら、綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。

――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」

「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」

 津田の癇癪は始めて破裂した。

「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」

「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」

「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕(つら)まえられると思うのか。馬鹿め」

「そう私を軽蔑(けいべつ)なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」

「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」

「あなたが兄さんらしくないからです」

「黙れ」

「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんはねえさんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりもねえさんを大事にしています」

「妹より妻(さい)を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」

「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。ねえさんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」

「何だ」

「それだから兄さんはねえさんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」

 お秀がこう云いかけた時、病室の襖(ふすま)がすうと開いた。そうして蒼白(あおしろ)い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

百三

 彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。

医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉(ドアー)を開けて内へ入る事ができたのである。

 実際彼女は三四日(さんよっか)前に来た時のように、編上(あみあげ)だの畳(たたみ)つきだのという雑然たる穿物(はきもの)を、一足も沓脱(くつぬぎ)の上に見出(みいだ)さなかった。

患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲(あたり)は寂寞(ひっそり)していた。

 彼女はその森(しん)とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃(そろ)えられたただ一足の女下駄を認めた。価段(ねだん)から云っても看護婦などの穿(は)きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍(おど)らせた。

下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。

 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。

そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何(すいか)でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。

彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊(き)いた。

それからわざと取次を断って、ひとりで階子段(はしごだん)の下まで来た。そうして上を見上げた。

 上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀(よど)みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣(おもむき)を異(こと)にしていた。そこには強い感情があった。亢奮(こうふん)があった。しかもそれを抑(おさ)えつけようとする努力の痕(あと)がありありと聞こえた。他聞(たぶん)を憚(はば)かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。

 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上(あが)ってすぐ取(とっ)つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴(き)こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当(けんとう)、すなわち彼女の後(うしろ)の方から洩(も)れて来るのであった。

 彼女はそっと階子段を上(のぼ)った。柔婉(しなやか)な体格(からだ)をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効(せいこう)をもって酬(むく)いられた。

 上(あが)り口(ぐち)の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄(てすり)が拵(こしら)えてあった。お延はそれに倚(よ)って、津田の様子を窺(うかが)った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入(い)った。ことにねえさんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。みごとに予期の外れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛(ゆる)む暇(いとま)なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛(な)げつけられるねえさんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。

 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩(けんか)をしていた。その喧嘩の渦中(かちゅう)には、知らない間(ま)に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主(おも)な原因かも分らなかった。

 しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰(あられ)のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味(ぎんみ)している閑(ひま)などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立(たたず)んでいる彼女の耳朶(みみたぶ)を叩(たた)きに来るだけであった。

 彼女は事件が分明(ぶんみょう)になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。

するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんはねえさんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震(ふる)わせた。

際立(きわだ)って明暸(めいりょう)に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。

同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻(さっき)から一言葉(ひとことば)ごとに一調子(ひとちょうし)ずつ高まって来た二人の遣取(やりとり)は、ここで絶頂に達したものと見傚(みな)すよりほかに途(みち)はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強(し)いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁(ふていさい)を防ぐ緩和剤(かんわざい)として、どうしても病室へ入らなければならなかった。

 彼女は兄妹(きょうだい)の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際(てぎわ)が要(い)った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際(きわ)どい刹那(せつな)に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖(ふすま)を開けた。

百四

 二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止(と)められた時の沈黙は、けっして平和の象徴(シンボル)ではなかった。不自然に抑(おさ)えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄(ものすご)い或物が潜んでいた。

 二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側(がわ)から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵(あんど)であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包(つつ)み蔵(かく)す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支(さしつか)えないという証左(しょうさ)を、永く心の中(うち)に掴(つか)んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下(こっか)の目的としなければならなかった。彼女は蒼白(あおしろ)い頬(ほお)に無理な微笑を湛(たた)えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作(しょさ)だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上(のぼ)った。

「おや」

「今日(こんち)は」

 軽い挨拶(あいさつ)が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰(てもちぶさた)に圧迫され始めなければならなかった。滅多(めった)な事の云えないお延は、脇(わき)に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本(こっけいぼん)を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終(しじゅう)腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。

 津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁(ページ)を翻(ひるが)えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言(ふたことみこと)ほど口を利(き)いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉(のど)から圧(お)し出したようなものであった。

 お延はまた懐中(ふところ)から一通の手紙を出した。

「今|来(き)がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」

 お延の言葉は几帳面(きちょうめん)に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人(べつにん)のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗(あん)に嫌(きら)っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉|遣(づか)いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。

 手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。

 津田は封筒を切る前に彼女に云った。

「お延|駄目(だめ)だとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」

 津田の云い方は珍らしく真摯(しんし)の気に充ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平(ひら)たい旦那様(だんなさま)になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒(てら)い気(け)のないその態度がお延には嬉(うれ)しかった。彼女は慰さめるような温味(あたたかみ)のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生(ふだん)の自分に戻ってしまった。

「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」

 津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本(こっけいぼん)の場合のように口を利(き)き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了(おわ)って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑(の)み込めていた。それでもお秀はわざと訊(き)いた。

「何と書いてありますか、兄さん」

 気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。

「あたしの云った通りでしょう」

 手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻(さっき)からの行(いき)がかり上(じょう)、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹(ごうはら)であった。

百五

 お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中(うち)で再度の衝突を惧(おそ)れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸(めいりょう)に抑(おさ)えれば、苦(く)もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒(おこ)らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室(へや)に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退(ひ)きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩(けんか)の相手を自分に引き受けようとした。

「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信(たより)があったんですか」
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」

 お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。

「京都でもいろいろお物費(ものいり)が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」

 お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面(くめん)はどうにでもできるぐらいに考えて」

 お延は微笑した。

「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」

 こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。

「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕(つく)ろったの、家賃が滞(とどこお)ったのって、そんな費用は元来|些細(ささい)なものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家(うち)を一軒持って見ると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」

 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌(あいきょう)を惜まずに答えた。

「兄さんはその底に何か魂胆(こんたん)があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」

 お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」

 お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に訊(き)いて御覧よ」

 お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」

 お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚(きょ)を充(み)たした。
「それで先刻(さっき)から大変|御機嫌(ごきげん)が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩(けんか)になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交(ためいきまじ)りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆(まさか)そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」

 津田は蒼蠅(うるさ)そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉(まゆ)の間に現われた。

百六

「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂(あによめ)に対して何とか説明しなければならない位地(いち)に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎(にく)んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々(そらぞら)しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人(うち)は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく解(わか)らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目(ききめ)がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴(き)きになっても駄目(だめ)よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」

 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直(すなお)にお取りにならないんです」
「素直にも義剛(ぎごわ)にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭(いや)ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「解(わか)ってるじゃありませんか」

 三人はしばらく黙っていた。
 突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫(あや)まったらどうだ」

 お延は呆(あき)れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡(りょうけん)では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」

 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後(あと)を遮(さえぎ)った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂(ねえ)さんに詫まって貰(もら)いたいと云いました。そんな言がかりを捏造(ねつぞう)されては、あたしが嫂さんに対して面目(めんぼく)なくなるだけじゃありませんか」

 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利(き)かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」

 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって同(おん)なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂(ねえ)さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛(つら)いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日(きのう)嫂さんから電話がかかった時、すぐ来(き)ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅(うち)に用があったし、午(ひる)からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損(きそこ)なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」

 お延はなお黙っている津田の顔を覗(のぞ)き込んだ。

「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭(いや)だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走(かんばし)った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩(くず)さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭(いや)なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」

 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。

百七

 三人は妙な羽目に陥(おちい)った。行(いき)がかり上(じょう)一種の関係で因果(いんが)づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外(はず)す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐(すわ)ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。

 しかも傍(はた)から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他(ひと)から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後(せなか)に背負(しょ)っている因縁(いんねん)は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操(あやつ)った。

 しまいに津田とお秀の間に下(しも)のような問答が起った。

「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」

「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊(たんぱく)に云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹(きょうだい)らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口(ひとくち)おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫(わび)じゃありません。心からの後悔です」

 津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫|様(よう)が空々(そらぞら)しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前(いちにんまえ)の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪(あやま)ったんでしょう」
「でなければ何も詫(あやま)る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」

 津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗(の)しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止(よ)しよ。何も無理に貰(もら)おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻(さっき)からそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」

 津田は一種|嶮(けわ)しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪(ぞうお)が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用(いりよう)だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」

 お秀の手先が怒りで顫(ふる)えた。両方の頬(ほお)に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層|鮮(あざ)やかであった。しかし彼女の言葉|遣(づか)いだけはそれほど変らなかった。怒りの中(うち)に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂(ねえ)さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人(うち)には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別(べつ)ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」

 お延は皆まで云わせなかった。

「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵(こしら)えるだけなのよ」

 彼女はこう云いながら、昨日(きのう)岡本の叔父(おじ)に貰って来た小切手を帯の間から出した。

百八

 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行(ゆき)がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中(うち)で祈ったのである。会心の微笑を洩(も)らしながら首肯(うな)ずいて、それを鷹揚(おうよう)に枕元へ放(ほう)り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所(でどころ)について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。

 不幸にして津田にはお延の所作(しょさ)も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣(おもむき)を異(こと)にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊いた。

「こりゃいったいどうしたんだい」

 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨(うら)めしく摧(くじ)いた。彼女の予期は外(はず)れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」

 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目(まじめ)くさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露(ばくろ)するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解(わか)る事なんだから」

 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」

 津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑(けいべつ)する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。

 彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲(りゅういん)の下(さが)るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。

 先刻(さっき)から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐(ふところ)から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」

 彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」

 津田に話しかけたお秀は暗(あん)にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」

 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強(しんぼうづよ)くいつまでもそれを聴(き)いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」

 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
 お秀は屹(きっ)となった。
「どっちも本当です」

 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒(きほう)を挫(くじ)いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱(ほて)っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜(くや)しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎(かげろ)った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴(き)くよりほかに途(みち)がなかった。二人は惹(ひ)きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮(さえ)ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝(つ)いて出た。

百九

「実は先刻(さっき)から云おうか止(よ)そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑(ひや)かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭(いや)になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合(わけあい)からです」

 お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後(あと)を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目(まじめ)に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」

 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂(ねえ)さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩(きょうだいげんか)になったら、その時に止(と)めていただけばそれまでですから」

 お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日(きょう)まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃(そろ)いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何(なん)にも考えていらっしゃらない方(かた)だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他(ひと)が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」

 この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆(あき)れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」

 ここまで来たお秀は急に後を継(つ)ぎ足(た)した。二人の中(うち)の一人が自分を遮(さえ)ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰(もら)いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体(ありてい)にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁(いんねん)ずくと諦(あき)らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」

 お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然(はっきり)した観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他(ひと)の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉(うれ)しがる能力を天(てん)から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂(ねえ)さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併(あわ)せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直(すなお)に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方(かた)なのです」

 お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮(さえ)ぎろうとするお延の出鼻を抑(おさ)えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。

百十

「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直(じき)です。そんなに長くかかりゃしません」

 お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻(さっき)津田と衝突した時に比(くら)べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂(げっこう)から沈静の方へ推(お)し移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂(ねえ)さんも考えて下さい」

 考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁(きべん)としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目(まじめ)であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額(かねだか)は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日(きょう)ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放(ほう)り出(だ)さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生(ごしょう)ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」

 お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解(わか)りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何(なん)にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」

 お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手(しょて)から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅(うち)から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」

 お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途(みち)はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻(さっき)そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同(おんな)じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然(はっきり)入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅(うる)さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌(あいきょう)もなければ気高(けだか)くもなかった。ただ厄介(やっかい)なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」

 すでに諦(あき)らめていたお秀は、別に恨(うら)めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人(うち)が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人(うち)を煩(わずら)わせるのは厭(いや)です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」

 お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何(なん)という合図(あいず)の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段(はしごだん)を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶を交(と)り換(かわ)せて別れた。

百十一

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面(シーン)でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後(あと)でも、それが偶然の廻(まわ)り合(あわ)せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果(いんが)を迹付(あとづ)けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負(しょ)って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚(や)ましい点は容易に見出(みい)だされなかった。

 この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持(も)ち来(きた)されそうに見える葛藤(かっとう)さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽(あ)くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通(しちぶどお)りの安心と、三分方(さんぶがた)の不安があった。その三分方の不安を、今日(きょう)の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実(じつ)を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。

 これはお延自身に解っている側(がわ)の消息中(しょうそくちゅう)で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間(ま)に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑(さいぎ)の眼(め)から、彼女は運よく免(まぬ)かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際(きわ)どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡(ひろ)げる役を勤めたお延は、吾知(われし)らず儲(もう)けものをしたのと同じ事になったのである。

 彼女はなぜ岡本が強(し)いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅(うち)へ昨日(きのう)行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数(てかず)を省(はぶ)く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。

 二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段(はしごだん)を上(あが)って、また室(へや)の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那(せつな)であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何(なん)にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴(シムボル)であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好(かっこう)をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉(うれ)しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。

 その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露(あら)わすまでに口を開(あ)けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」

 お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴(あいつ)に電話なんかかけるなって云うんだ」

 二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教(キリストきょう)じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目(まじめ)くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋(りくつや)だよ。つまりああ捏(こ)ね返(かえ)さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生(なま)じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍(そば)にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終(しじゅう)見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」

 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

百十二

 久しぶりに夫と直(じか)に向き合ったような気のしたお延は嬉(うれ)しかった。二人の間にいつの間(ま)にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々(はればれ)しい心持になった。

 彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促(うな)がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬(むく)いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻(はたん)は、取(とり)も直(なお)さず彼女にとって復活の曙光(しょこう)であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色(ばらいろ)の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸(ほと)ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍(にぶ)い瞬(まばた)きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退(しりぞ)いた。少くともさほど苦(く)にならなかった。耳に入れた刹那(せつな)に起った昂奮(こうふん)の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。

「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」

 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊(き)かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気(おぼろげ)に薄墨(うすずみ)で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何(なん)にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾(はらん)が、ああまで際(きわ)どくならずにすんだなら、お延は行(いき)がかり上(じょう)、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探(さぐ)らなければならない順序だったのである。

 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛(つら)くて耐(たま)らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩(たた)き込んでおく方が得策だと思案した。

 こう決心するや否や彼女は嘘(うそ)を吐(つ)いた。それは些細(ささい)の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘(わた)って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。

 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭(かげ)で助かったよ」

 お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随(つ)いて、すぐ彼女の口を滑(すべ)って出てしまった。
「昨日(きのう)岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰(もら)うためなのよ」

 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然|跳(は)ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経(た)たないうちに、どこからそんな好意が急に湧(わ)いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭(いや)なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん辛(つら)かったの」

 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵(こしら)えて貰(もら)っていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日(きょう)までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」

 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑(の)み込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪(にく)いだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃(そろ)っているからな」

 津田はかえって自尊心を傷(きずつ)けられたような顔つきをした。お延はそれを取(と)り繕(つく)ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間(こないだ)からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」

 津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。

百十三

 二人はいつになく融(と)け合った。

 今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知(われし)らず弛(ゆる)んだ。自分の父が鄙吝(ひりん)らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念(けねん)、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊(みくび)りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧(あいまい)な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉(うれ)しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。

 同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣(おもむき)が出た。余事はしばらく問題外に措(お)くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果(いんが)から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥(はる)か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴(ふいちょう)した。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂(にお)わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那(わかだんな)であった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂(うれい)はけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責(げんせき)を彼女に対して背負(しょ)って立っていたのと同じ事であった。利巧(りこう)な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優(まさ)るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金(おうごん)の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕(とりつくろ)わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑(けいべつ)されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月(まいげつ)父から助(す)けて貰(もら)うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱(いだ)かざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊(たんぱく)でないのを恨(うら)んだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝(さら)け出(だ)してくれないのかを苦(く)にした。しまいには、それをあえてしないような隔(へだた)りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精(こだま)のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直(じか)に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎(つつ)しんでいた。ところがお秀との悶着(もんちゃく)が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲(たた)き破った。しかもお延自身|毫(ごう)もそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人(べつにん)のように快よく見えた。

 二人はこういう風で、いつになく融(と)け合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。

 二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心(かんじん)の善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々(まちまち)で、容易に纏(まと)まらなかった。

 お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉(ふ)った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存(いぞん)はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。

 しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具(そなわ)っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪(にく)い吉川に口を利(き)いて貰(もら)おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説(くど)き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手(にがて)であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善(なかよし)の津田はまた充分|成効(せいこう)の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我(が)を折った。

 事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後(あと)で心持よく別れた。

百十四

 前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外|気易(きやす)く眠る事ができた。翌日(あくるひ)もまた透(す)き通るような日差(ひざし)を眼に受けて、晴々(はればれ)しい空気を篏硝子(はめガラス)の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆(そそ)った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」

 洗濯屋の男は、俗歌を唄(うた)いながら、区切(くぎり)区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。

 彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上(のぼ)って、その白いものを隙間(すきま)なく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作(しょさ)は単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解(わか)らなかった。

 彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶(おも)い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然(ばくぜん)過ぎた。それを纏(まと)めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。

 一にはこの間訪問した時からの引(ひっ)かかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後(あと)を聴(き)くまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披(ひら)く権利は自分にあるようにも思われた。

 二には京都の事が気になった。軽重(けいちょう)を別にして考えると、この方がむしろ急に逼(せま)っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体(からだ)を持ち扱った彼は、昨日(きのう)お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口(やりくち)だと信じていた。

 お延がなぜこういう用向(ようむき)を帯びて夫人を訪(たず)ねるのを嫌(きら)ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入(でいり)をしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵(こし)らえて貰(もら)ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強(し)いる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効(せいこう)するに違(ちがい)ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後(あと)でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞(おそ)れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。

 津田は洗濯屋の干物(ほしもの)を眺めながら、昨日(きのう)の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰(たぐ)り寄せて点検した。

すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。

つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。

彼は芝居の食堂で晩餐(ばんさん)の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。

お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。

けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。

彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。

その点でいつでも彼女を少し畏(おそ)れなければならなかった彼には、杜撰(ずざん)にそこへ触れる勇気がなかった。

と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。

彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。

しかしその苦心は水の泡(あわ)を製造する努力とほぼ似たものであった。

いくら骨を折って拵(こしら)えても、すぐ後から消えて行くだけであった。

根本的に無理な空想を実現させようと巧(たく)らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまたガラス越しに表を眺めた。

 表はいつか風立(かぜだ)った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠(かす)めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。

百十五

 下から上(あが)って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊(き)いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口(きずぐち)の方はそっとしておかないと、危険ですから」

 彼はこう注意して、じかに局部を抑(おさ)えつけている個所を少し緩(ゆる)めて見たら、血が煮染(にじ)み出したという話を用心のためにして聴(き)かせた。

 取り易(か)えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥(は)がすと、血が迸(ほとば)しるかも知れないという身体(からだ)では、津田も無理をして宅(うち)へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数(にっすう)は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」

 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」

 それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有(あり)になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直(じき)です。もう少しの辛防(しんぼう)です」

 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込(こ)み合(あ)わないためか、そこへ坐(すわ)って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話(ひとくちばなし)が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑(けんぎ)をかけて、是非その看護婦を殴(なぐ)らせろと、医局へ逼(せま)った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽(こっけい)であった。こういう性質(たち)の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出(みいだ)す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪(と)られた。そうしてその裏側へ暗(あん)に自分の長所を点綴(てんてつ)して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。

 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括(くく)りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。

 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。

 彼はお延の置いて行った書物の中(うち)から、その一冊を抽(ぬ)いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯(うな)ずかせるような趣(おもむき)がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔(ヒューモア)を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応(こた)えなかった。頭にさえ呑(の)み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然|下(しも)のようなのが彼の眼に触れた。

「娘の父が青年に向って、あなたは私(わたし)の娘を愛しておいでなのですかと訊(き)いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐(なつ)かしい眼で、優しい眼遣(めづか)いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖(がけ)の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊(かたま)りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉(ふ)って、実を云うと、私も少し嘘(うそ)を吐(つ)く性分(しょうぶん)だが、私の家(うち)のような少人数(こにんず)な家族に、嘘付(うそつき)が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」

 嘘吐(うそつき)という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯(うけ)がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的(えんせいてき)にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然(ばくぜん)とした人世観の下(もと)に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行(おこな)ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」

 自分の読んだ一口噺(ひとくちばなし)からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。

百十六

 津田は纏(まと)まらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過(ひるす)ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独(ひと)り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想(おも)いを馳(は)せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着(おうちゃく)であった。今まで彼女の手前|憚(はば)からなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭(いや)になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧(わ)いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中(うち)に納めているのだぐらいの料簡(りょうけん)は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然(はっきり)した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。

 お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固(もと)より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻(さっき)から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌(きらい)な謡(うたい)の声が、不快に彼の耳を刺戟(しげき)した。彼の記憶にある謡曲指南(ようきょくしなん)という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家(うち)であった。二階が稽古(けいこ)をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他(ひと)が勝手にやっているものを止(や)めさせる権利をどこにも見出(みいだ)し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。

 柳の木の後(うしろ)にある赤い煉瓦造(れんがづく)りの倉に、山形(やまがた)の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解(わか)らない、大きな折釘(おれくぎ)に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段(はしごだん)を、どしどし上(のぼ)って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。

 彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室(へや)の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套(がいとう)を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」

 彼はすぐ胡坐(あぐら)をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶(あいさつ)の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖(そで)を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭(かげ)でこの冬も生きて行かれるよ」

 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴(き)かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」

 小林はまたこう訊(き)いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」

 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇(ちゅうちょ)した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」

 容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋(すが)りついた。
「君があんまり苛(いじ)めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯(からか)い過ぎたんだ、可哀想(かわいそう)に。泣きゃしなかったかね」

 津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目(でたらめ)さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦(く)にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」

 津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴(あいつ)に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴(き)いたろう」
「いいや聴かない」

 二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度(そんたく)しようとする試みが、同時にそこに現われた。

百十七

 津田が小林に本音(ほんね)を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽(あ)くまで素直(すなお)に、飽くまで閑雅(しとやか)な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘(わた)っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜(べんぎ)だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日(きのう)どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊(き)く暇もないうちに、時間が経(た)ってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴(き)かないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方を諦(あき)らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所(でどころ)を、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。

 小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘(うそ)だと思うなら、もう一遍お延さんに訊(き)いて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫(あや)まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」

 彼はこう云って嘯(うそぶ)いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑(けいべつ)した口調で津田に訊(き)いた。彼はぞんざいに頁(ページ)を剥繰(はぐ)りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印(みとめいん)を見出(みいだ)した時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里(さと)じゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」

 この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父(おじ)だぜ、君知らないのか。里(さと)でも何でもありゃしないよ」
「そうか」

 小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」

 小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他(ひと)の財産まで苦になってしようがない」
 津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」

 こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは厭(いや)だ。貰(もら)うなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣(きづかい)はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」

 津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」

 今日小林から充分な事が聴(き)けなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗(あん)に作り上げた。

百十八

 故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿(つけまつ)わった。それがまた津田の訊(き)こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅(うるさ)くもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振(いたぶ)られるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。

 津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」

 津田はついその後(あと)へ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」

 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を貼(は)りつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」

 小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目(まじめ)くさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅(おび)やかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明(そうめい)だからいい。他(ひと)はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他(ひと)とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」

 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当(けんとう)がついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物(ぎぶつ)なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」

 津田の頭に妙な暗示が閃(ひら)めかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」

 こういう彼は、平気で自分の妹のお金(きん)さんを藤井に片づけて貰(もら)う男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」

 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪(ゆす)る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」

 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後(あと)の彼の財布は空(から)と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫(ごう)も認めなかった。

 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。

 その朝藤井へ行った彼は、そこで例(いつ)もするように昼飯の馳走(ちそう)になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子(こうし)が開(あ)いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出(みいだ)したのである。

 小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。

百十九

 しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯(からか)った。
「兄妹喧嘩(きょうだいげんか)をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍(そば)でそれを聴(き)いていたのか」

 小林は苦笑しながら頭を掻(か)いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然(てんねんしぜん)耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」

 お秀にはどこか片意地で一本調子な趣(おもむき)があった。それに一種の刺戟(しげき)が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄(つじつま)が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終(しじゅう)取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑(の)り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。

 津田は心の中で、この叔父と妹と対坐(たいざ)した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾(ひとはらん)起したのではあるまいかという疑(うたがい)さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部(うわべ)はわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」

 小林は御挨拶(ごあいさつ)にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴(あいつ)だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解(わか)らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」

 小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩(けんか)なんかするもんか。あんな奴(やつ)と」

 小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子(ひとちょうし)ずつ余裕を生じて来た。
「蓋(けだ)しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪(ちんりん)している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得(とく)になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下(もと)に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終(しじゅう)考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」

 津田は面倒臭そうに小林を遮(さえ)ぎった。
「よし解(わか)った。解ったよ。つまり他(ひと)と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便(おんびん)にしろという忠告なんだろう、君の主意は」

 小林は惚(とぼ)けた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻(さっき)からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」

 小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。

百二十

 小林はここだという時機を捕(つら)まえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒(とりこ)にしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」

 津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」

 津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その宅(うち)の名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」

 津田は不思議がらざるを得なかった。

 ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援(たすけ)に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向(おもてむき)媒妁(ばいしゃく)の労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提(ひっ)さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴(き)いていると」

 津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚(ぐ)だよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手(しょて)から高を括(くく)っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」

 結果の上から見た津田の隙間(すきま)を探(さが)し出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事|宜(よろ)しく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳(か)け込むのは当り前じゃないか」

 津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分(じょうだんはんぶん)の訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目(まじめ)一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛(とっぴ)な奴(やつ)だな」

 突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴(あいつ)の云う事を真向(まとも)に受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」

 津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合(えんあい)、それらのものがお秀の遣口(やりくち)一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」

 この言葉を聴いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴(き)いたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌(ろく)に聴いちゃいなかったよ」

 こう云った小林は肝心(かんじん)なところへ来て、知らん顔をして圏外(けんがい)へ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後(あと)で、小林はまた圏内(けんない)へ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否(いや)でも応(おう)でも聴かされるよ」

 津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直(じか)に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘(うそ)じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」

 お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。

百二十一

 津田の頭に二つのものが相継(あいつ)いで閃(ひら)めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨(うま)く取扱わなければならないという事前(じぜん)の暗示(あんじ)であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違(ちがい)なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答(おうとう)ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注(つ)ぎ込(こ)まれた後の夫人と、まだ反感を煽(あお)られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場(いちじょう)の会見で、充分|引繰(ひっく)り返(かえ)して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。

 残る一つの閃(ひら)めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜(べんぎ)を彼に教えた。先刻(さっき)までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設(もう)けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟(しげき)を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。

 附帯条件として、小林を早く追払(おっぱら)う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色(けしき)をどこにも現わさなかった。彼は他(ひと)の邪魔になる自分を苦(く)にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確(しか)と他(ひと)に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。

 津田は欠伸(あくび)をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作(しょさ)が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑(まだら)になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。

「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」

 津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」

 冗談(じょうだん)じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際(つきあ)った例(ためし)もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物(みせもの)じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑(ひま)だからね」

 津田は呆(あき)れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭(いや)でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑(けいべつ)された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気(のんき)だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」

 津田は最後の引導(いんどう)を渡すよりほかに途(みち)がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」

 小林は別に怒(おこ)った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」

 面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承(うけたまわ)ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套(がいとう)のように留守(るす)へ取りに行かれちゃ困る」

 小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴(き)く事の残っている津田は、出立前(しゅったつぜん)もう一遍彼に会っておく方が便宜(べんぎ)であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念(けねん)のある病院では都合(つごう)が悪かった。津田は送別会という名の下(もと)に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者(やっかいもの)を退去させた。

百二十二

 津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取(と)り除(の)けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下(くだ)した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急(せ)いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒(そそか)しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅(うち)までやって下さい」

 看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名(あてな)を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」

 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。

 二階へ帰って来た後(あと)でも、彼はそればかりが苦(く)になった。そう思うと、お延がもう宅(うち)を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付(まつわ)るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段(はしごだん)の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿(うしろすがた)を見送った津田は、それでももう少しで刻下(こっか)の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。

 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想(おも)いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。

 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛(なあて)の苗字(みょうじ)を小綺麗(こぎれい)な二階建の一軒の門札(もんさつ)に見出(みいだ)した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。

 ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後(あと)には、書面を認(したた)める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横(よこた)わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。

 しかし津田の懸念(けねん)したように、宅(うち)にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際(きわ)どい機会を旨(うま)く利用しようとする敏捷(びんしょう)な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。

 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守(るす)から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽(らく)な午前を過ごした。午飯(ひるめし)を食べた後で、彼女は洗湯(せんとう)に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗(きれい)になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入(ねんいり)に時間を費やした後(あと)、晴々(せいせい)した好い心持を湯上りの光沢(つやつや)しい皮膚(はだ)に包みながら帰って来ると、お時から嘘(うそ)ではないかと思われるような報告を聴(き)いた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」

 お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日(きのう)の今日(きょう)、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊(き)かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通(とお)り路(みち)だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。

 お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥(おち)いる痕迹(こんせき)なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後(あと)を追(おっ)かけるようにして宅を出た。

百二十三

 堀の家(うち)は大略(おおよそ)の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。

 藤井や岡本の住居(すまい)と違って、郊外に遠い彼の邸(やしき)には、ほとんど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。

 市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺(あたり)が繁華な割に、通りはいつも閑静であった。

 その上|路(みち)の左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側に揺(うご)く緑りの裡(うち)に一種の趣(おもむき)を見せた。中で一番大きいのが、ちょうど堀(ほり)の塀際(へいぎわ)から斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそ目(め)にはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁が好かった。

 その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶(てんすいおけ)があった。まるで下町の質屋か何かを聯想(れんそう)させるこの長物(ちょうぶつ)と、そのすぐ横にある玄関の構(かまえ)とがまたよく釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口はことごとく細(ほそ)い格子(こうし)で仕切られているだけで、唐戸(からど)だの扉(ドア)だのの装飾はどこにも見られなかった。

 一口でいうと、ハイカラな仕舞(しも)うた屋(や)と評しさえすれば、それですぐ首肯(うなず)かれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんな宅(うち)へ入っているかいまだかつて知らなかった。そんな事を苦(く)にする神経をもたない彼は、他(ひと)から自分の家業柄(かぎょうがら)を何とあげつらわれてもいっこう平気であった。道楽者だが、満更(まんざら)無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住(すま)うのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、極(きわ)めて我(が)の少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造(どぞうづく)りのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞(ほ)めるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐(ちんぷ)過ぎた。

 お延は堀の家(うち)を見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へ入(は)いってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。

 次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この家(うち)に釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧(あいまい)なところがまたお延の堀に対する好悪(こうお)の感情をそのままに現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。

 最後に来(きた)るお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向(ふむき)に育て上げられていた。この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強(し)いられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。

 家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺(てこず)らせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
 玄関の格子(こうし)を開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇(よみが)えらさせるべく号鈴(ベル)がはげしく鳴った。

百二十四

 昨日(きのう)孫を伴(つ)れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合(つごう)にもなり、また悪い跋(ばつ)にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追(お)い除(の)けてくれたと同時に、ただ一人|面(めん)と向き合って、当の敵(かたき)のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。

 お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな髷(まげ)に結(い)った母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭(へきとう)にお秀が顔を出したばかりか、待ち設(もう)けた老女はその後(あと)からも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外(はず)させられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中(うち)に、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日(きのう)の戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんな敵(かたき)を打たれるかも知れないという微(かす)かな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。

 お延はこの一瞥(いちべつ)をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥(いちべつ)が突如として閃(ひら)めいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。

 一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日(きのう)、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫して傍(はた)の人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾(はらん)が呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。

 だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌(あいきょう)の好い挨拶(あいさつ)をした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜(てぬか)りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧(わ)いて起った。

 けれども肝心(かんじん)なその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸な行(ゆ)き違(ちがい)についても、ついに一言(ひとこと)も口を利(き)く様子を見せなかった。

 相手に心得があってわざと際(きわ)どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切(くぎり)を付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。

 怜悧(りこう)なお延は弱らせられた。会話が滑(なめ)らかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡(もた)げて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗(のぞ)いて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損(そく)なった暁(あかつき)に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。

 その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを敲(たた)かせて貰(もら)って局部から自然に出る本音(ほんね)を充分に聴(き)く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和(こうわ)の役目をやり終(おお)せて帰るよりも遥(はる)かに重大な用向(ようむき)であった。

 津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守(るす)に、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確(しか)と突きとめたかったのである。

 どこに引(ひっ)かかりを拵(こしら)えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、「先刻(さっき)いらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切(くちきり)に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗(きれい)にお延を跳(は)ねつけてしまった。

百二十五

 お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝(けさ)この叔父(おじ)の所を訪(たず)ねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構(もんがまえ)は依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解(わか)っていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞(ことば)を弄(ろう)さなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目(まじめ)に取り合う緒口(いとくち)をどこにも見出(みいだ)す事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿(たど)って行くうちには、自然|気色(きしょく)を悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷(びんしょう)なお延は、相手を見縊(みくび)り過(す)ぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々(ちょうちょう)し始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉には滑(すべ)っこい皮膚があるだけで、肝心(かんじん)の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞(せじ)の返礼をさも旨(うま)そうに鵜呑(うのみ)にしなければならなかった。

 しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌(あいきょう)を手古盛(てこも)りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽(あお)って行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞(ほ)めそやすだけでは、同じ不成蹟(ふせいせき)に陥(おち)いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後(あと)の段取をきめようと覚悟した。

 彼女はお秀が自分の風呂の留守(るす)へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想(おも)い到(いた)らなかった。しかも昨日(きのう)病院で起った波瀾(はらん)の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。

 最初夫人の名前がお延の唇(くちびる)から洩(も)れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。

 すると第二の予想外が継(つ)いで起った。お秀がちょっと顔を背(そむ)けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解(わか)った。年来|陳腐(ちんぷ)なくらい見飽(みあ)きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因(よ)って来(きた)るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。

 お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接(つ)いだように、突然話題を変化した。行(ゆき)がかり上(じょう)全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛(とっぴ)であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。

百二十六

 お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐(ちんぷ)なありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重(おも)な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。

 お延に比べるとお秀は理窟(りくつ)っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他(ひと)から注(つ)ぎ込(こ)まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴(な)れた雑誌さえ近頃は滅多(めった)に手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟(しげき)されずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。

 ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々|柄(がら)にもない議論を主張するような弊に陥(おちい)った。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分(だいぶん)の道程(みちのり)があった。意地の方から行くと、あまりに我(が)が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副(そ)ぐわないような理窟(りくつ)を、わざわざ自分の尊敬する書物の中(うち)から引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然|弾丸(たま)を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分(くすんごぶ)の代りに、振り廻して見るような滑稽(こっけい)も時々は出て来なければならなかった。

 問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的(ちゅうしょうてき)な問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。

 彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑(の)み込んでいた。際(きわ)どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合(つごう)の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛(しば)りつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至(ないし)お延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然(まんぜん)として空裏(くうり)に飛揚(ひよう)する愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺(ず)りおろさなければならなかった。

 子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染(しょたいじ)みているお秀が、この意味において、遥(はる)かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯(うけが)いながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲(すもう)を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。

 やがてお延の胸に分別(ふんべつ)がついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活(い)かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺(つぼ)に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟(しげき)に対して、真偽の吟味(ぎんみ)などは、要(い)らざる斟酌(しんしゃく)であった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒(おこ)るに違(ちがい)なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。

 最後に彼女はある時機を掴(つか)んで起(た)った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。

百二十七

「そう云われると、何と云っていいか解(わか)らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」

 お秀の器量望(きりょうのぞ)みで貰(もら)われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨(うら)やましい事実に違(ちがい)なかった。始めて津田からその話を聴(き)かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬(しっと)を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐(ふくしゅう)をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑(けいべつ)であった。それを表向(おもてむき)さも嬉(うれ)しい消息ででもあるように取扱かって、彼我(ひが)に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞(せじ)に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄(ちょうろう)であった。

 幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本(きいっぽん)に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏(ほとけ)という諺(ことわざ)がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中(うち)へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目(まじめ)に受けるほど無邪気だったのである。

 本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱(うろん)な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透(みす)かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴(き)いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。

 実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々(そらぞら)しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」

 この挨拶(あいさつ)は平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然(はっきり)表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途(みち)はなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀(こわ)すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡(ためら)ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」

 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環(ゆびわ)が遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥(いちべつ)は何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日(きのう)と毫(ごう)も変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」

 他(ひと)に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶(あいさつ)をついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日(あくるひ)、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。

 お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹(けいせき)をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧(よそお)って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭(いや)だった。したがって応対に非常な呼吸が要(い)った。目的地へ漕(こ)ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。

百二十八

 彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡(から)まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面(めん)と向き合ったままお秀に相見(しょうけん)しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影(おもかげ)を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」

 この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫(ごう)もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯(たくわ)えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」

 お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕(あさゆう)傍(そば)にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解(わか)らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」

 お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想(おも)いやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直(ただ)ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫!?」

 疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」

 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇(くちびる)のあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘(うそ)よ。そりゃあなたの事よ」

 お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省(はぶ)いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」

 お延は叩きつけられた後(あと)で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹(きょうだい)としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾(と)うから知ってるわ」

 お延の鎌(かま)は際(きわ)どいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険(あぶな)いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴(き)かしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」

 こういったお秀は急に赧(あか)くなった。それが何の羞恥(しゅうち)のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩(しま)できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度(しょど)の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧(うすあか)い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅(か)ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋(つな)いでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探(さが)したって、金輪際(こんりんざい)出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡(れんらく)が存在しているに相違ないという推測(すいそく)であった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。

百二十九

 とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝(つ)いて出る嘘(うそ)を抑(おさ)える事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」

 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊(き)き返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」

 お延にはもう後(あと)がなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」

 お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻(さっき)より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩|深田(ふかだ)の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救(すくい)を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」

 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当(けんとう)がつかないんですもの」

 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋(わき)の下から膏汗(あぶらあせ)が流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたはキリスト教信者じゃありませんか」

 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日(きのう)のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」

 昨日と今日の二人は、まるで地位を易(か)えたような形勢に陥(おちい)った。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌(きら)いなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高(けだか)い心持になって、この小さいお延を憐(あわ)れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫(あや)まるから」

 お延は光る宝石入の指輪を穿(は)めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」

 持前の癖を見せて、眉(まゆ)を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝(ひざ)の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万(よろ)ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨(うら)みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解(わか)ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」

 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧(あか)くなる代りに少し蒼白(あおじろ)くなった。そうして度外(どはず)れに急(せ)き込(こ)んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉|遣(づか)いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚(おぼえ)はないんです。兄さんに対しても嫂(ねえ)さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」

百三十

 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇(くらやみ)を衝(つ)こうとした。三度目の嘘(うそ)が安々と彼女の口を滑(すべ)って出た。

「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭(いや)?」

 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌(あいきょう)をその細い眼に湛(たた)えて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作(しょさ)は全く外(はず)れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾(そつじ)な質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか外(ほか)から廻っていらしったの」
「いいえ。宅(うち)からすぐ上ったの」

 お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋(すが)りついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」

 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷(ざんこく)な光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分|独(ひと)り精一杯(せいいっぱい)愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人(うち)を御覧なさい」

 お秀はすぐこう云って退(の)けた。お延は話頭(わとう)からわざと堀を追(お)い除(の)けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云(い)いっ競(くら)よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直(すなお)な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」

 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」

 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」

 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地(いち)は顛倒(てんとう)した。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目(だめ)よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯(しょうがい)経(た)ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」

 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解(わか)るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心(かんじん)のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅(うち)の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂(ねえ)さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌(きら)いなんだから」

 お秀の顔に軽蔑(けいべつ)の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透(みす)かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟(りくつ)なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」

 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太(じだんだ)を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守(るす)に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。

百三十一

 お延とお秀が対坐(たいざ)して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。

 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延|宛(あて)で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後(あと)であった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴(き)いた時、この異人種(いじんしゅ)に近い二人が、狭い室(へや)で鉢合(はちあわ)せをしずにすんだ好都合(こうつごう)を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。

 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止(と)めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢(うえきばち)をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊(き)いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉(もみじ)の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃(そろ)えて並んでいる下に、恰好(かっこう)の好い手頃な石さえあしらったその盆栽(ぼんさい)が床(とこ)の間(ま)の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」

 先刻(さっき)から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗(あん)に心配していた彼の掛念(けねん)の半分は、この一語(いちご)で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上(うわ)っ調子(ちょうし)でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚(おうよう)さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他(ひと)から機嫌(きげん)を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支(さしつか)えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉(たてま)つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑(いっぴんいっしょう)が津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝(けさ)秀子さんがいらしってね」

 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固(もと)より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭(いや)だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰(ごぶさた)をしているので、たまにはお詫(わび)に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」

 津田は夫人の言葉を聴(き)いた後で、すぐ次の嘘(うそ)を出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」

 津田はこう云ったなりその後(あと)を待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」

 津田は空(そら)っ惚(とぼ)けて、考える真似(まね)をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹(きょうだい)でいながら、だいぶん質(たち)が違いますから」

 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄(ほの)めかした。それは事の来(く)る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟(りくつ)ッぽいのね」

 この一語を聞くや否や、津田は得(え)たり賢(かし)こしと虚(きょ)につけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴(き)いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩(けんか)をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」

 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当(けんとう)を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方(かた)は好(すき)よ」

 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金(じがね)を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」

 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。

百三十二

 津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背(そむ)いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向(ようむき)も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣(おもむき)があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他(ひと)の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下(めした)、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到(いた)るところでまた道楽本位の本性を露(あら)わして平気であった。或時の彼女はむやみに急(せ)いて事を纏(まと)めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠(ねずみ)を弄(もてあ)そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍(はた)から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾(はらん)を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防(しんぼう)が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契(もっけい)のために、津田の蒙(こうむ)った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐(れいり)な津田の見逃(みのが)すところでなかった。何事にも夫人の御意(ぎょい)を主眼に置いて行動する彼といえども、暗(あん)にこの強味だけは恃(たの)みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。

「昨日(きのう)秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」

 津田にはどうだか分らなかった。先刻(さっき)来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」

 夫人は嘲(あざ)けるような笑い方をした。
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」

 苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日(きのう)ここで落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空(そら)ッ惚(とぼ)けちゃいけません。あったらあったと、判然(はっきり)おっしゃいな、男らしく」

 夫人はようやく持前の言葉|遣(づか)いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶(あいさつ)に困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛(いじ)めたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし喧嘩(けんか)はしたでしょう。喧嘩といったって殴(なぐ)り合(あい)じゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟(おおげさ)なものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした行違(いきちがい)ならございました」
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛(いじ)めたでしょう」
「苛めやしません。あいつが耶蘇教(ヤソきょう)のような気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64](きえん)を吐(は)いただけです」
「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違(ちがい)ないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」

 夫人の断定には意味も理窟(りくつ)もなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆(さか)らえないものとして、もう津田の頭に叩(たた)き込まれていた。素直(すなお)に叱られているよりほかに彼の途(みち)はなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢(いきおい)で、いつかそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃいけません。ですと判然(はっきり)おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」

 津田は首を傾けた。

百三十三

 怜俐(れいり)な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑(の)み込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼(きがね)があったので、それが真向(まとも)に双方を了解できる聡明(そうめい)な彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶(あいさつ)に相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真(ま)に受けると同時に、自分の耳に聴(き)こえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。

 二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力(つと)めて来た微妙な軋轢(あつれき)が、必然の要求に逼(せま)られて、しだいしだいに晴れ渡る靄(もや)のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。

 津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」

 世間という仰山(ぎょうさん)な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」

 津田にはそのみんなさえ明暸に意識する事ができなかった。しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、けっして推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩(たた)き込もうとするつもりらしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」

 津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに伏罪(ふくざい)する事の便宜(べんぎ)を悟った彼は、たちまち容(かた)ちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」

 しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同(おん)なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」
「はあそうですか」

 藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子(ひょうし)に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩(も)れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」

 権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な思(おも)わく違(ちがい)に想(おも)いいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重(ていちょう)に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」

 この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。

「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」

 夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉(のど)まで出かかった。

 実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通(とりざたどお)り、お延を大事にするのではなかった。誤解交(ごかいまじ)りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他(ひと)に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数(てすう)がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰(めいせき)な観念があって、それを一々|掌(たなごころ)に指(さ)す事のできるほどに、事実の縞柄(しまがら)は解っていた。

 第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚(はば)からないものは彼女に違(ちがい)なかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬(しっと)が手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑(こじゅうと)という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬(しっと)もない代りに、浮華(ふか)に対する嫌悪(けんお)があまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。

百三十四

 津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破(かんぱ)した通りであった。だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜(べんぎ)になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧(ていねい)に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌(きげん)を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。利害の論理(ロジック)に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向(おもてむき)の媒妁人(ばいしゃくにん)として、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。

 しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮|剥(む)いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果(いんが)でもう結びつけられていた。彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。

 有体(ありてい)にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段(かんしゅだん)を縦(ほしい)ままに弄(ろう)して、そのたびにまごまごしたり、または逆(のぼ)せ上(あが)ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。夫人も最後に来(きた)るべき二人の運命を断言して憚(はば)からなかった。のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫(くじ)かれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺(ぼくさつ)された。肝心(かんじん)の鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。

 夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は今日(きょう)までその意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨(ほうこう)していた。そこへお延の結婚問題が起った。夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。そうして夫と共に、表向(おもてむき)の媒妁人として、綺麗(きれい)な段落をそこへつけた。

 その時の夫人の様子を細(こま)かに観察した津田はなるほどと思った。
「おれに対する賠償(ばいしょう)の心持だな」

 彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。お延と仲善(なかよ)く暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。喧嘩(けんか)さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。

 こういう心得に万(ばん)遺.さんのあるはずはないと初手(しょて)からきめてかかって吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂(にお)いを嗅(か)ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」

 この言葉を聴(き)いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るかの好奇心に充(み)ちた。夫人は語を継(つ)いだ。
「これは私(あたし)でないと面(めん)と向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧(ちえ)をつけられて来たと思っては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと、私がすまない事になるんだから、よござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違(ちがい)ないのよ。しかし主意は少し違うんです。お秀さんは重(おも)に京都の方を心配しているの。無論京都はあなたから云えばお父さんだから、けっして疎略にはできますまい。ことに良人(うち)でもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると、黙って放(ほう)ってもおく訳にも行かないでしょう。けれどもね、つまりそっちは枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥(はる)かに有効だと思うんです。でないと今度(こんだ)のような行違(いきちがい)がまたきっと出て来ますよ。ただ出て来るだけならよござんすけれども、そのたんびにお秀さんがやって来るようだと、私も口を利(き)くのに骨が折れるだけですからね」

 夫人のいう禍(わざわい)の根というのはたしかにお延の事に違なかった。ではその根をどうして療治しようというのか。肉体上の病気でもない以上、離別か別居を除いて療治という言葉はたやすく使えるものでもないのにと津田は考えた。

百三十五

 津田はやむをえず訊(き)いた。
「要するにどうしたらいいんです」

 夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」

 同じ問が同じ言葉で昨日(きのう)かけられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。彼は夫人に対する特別な返事を用意しておかなかった。その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。腹蔵(ふくぞう)のないところをいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像のほかにあった。彼はへどもどするうちににやにやした。勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」

 ここでも津田の備えは手薄であった。彼は冗談半分(じょうだんはんぶん)に夫人をあしらう事なら幾通(いくとおり)でもできた。しかし真面目(まじめ)に改まった、責任のある答を、夫人の気に入るような形で与えようとすると、その答はけっしてそうすらすら出て来なかった。彼にとって最も都合の好い事で、また最も都合の悪い事は、どっちにでも自由に答えられる彼の心の状態であった。というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかったからである。

 夫人はいよいよ真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
「私(あたし)とあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。私の聴(き)きたいのは何でもないんです。ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです」

 見当(けんとう)の立たない津田はいよいよ迷(まご)ついた。夫人は云った。
「あなたもずいぶんじれったい方(かた)ね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊(き)いていやしないんだから」

 津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然(ばくぜん)としているものですから……」
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」
「どうぞそう願います」
「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた継(つ)いだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分(しょうぶん)だから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後(あと)で、取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが」
「なに構いません」
「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら詫(あや)まっても追(おっ)つかないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」
「そこさえ確かなら無論いいのよ」
「大丈夫です。偽(うそ)だろうが本当だろうが、奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」

 すべての責任を向うに背負(しょ)わせてしまう方が遥(はる)かに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。何度となく駄目(だめ)を押して保険をつけた夫人はその時ようやく口を開いた。
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは疾(と)うからそう睨(にら)んでいるんですが、どうです、あたしの観測はあたりませんかね」

 津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻(さっき)申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」
「しかしそれは御挨拶(ごあいさつ)におっしゃっただけね」
「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」

 夫人は断々乎(だんだんこ)として首肯(うけが)わなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後(あと)を云ってもよござんすか」
「ええどうぞ」
「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他(ひと)から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」

 夫人はそこでちょっと休んだ。それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁(ていさい)を作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」

百三十六

 津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴(き)いた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、さほど神経を遣(つか)っていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡(りょうけん)なりをおとなしく結末まで聴くのが上分別(じょうふんべつ)だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後(こうご)の心得にもなる事ですから」

 途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止(と)まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人(うち)や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向(おもてむき)延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」

 津田は相手の観察が真逆(まさか)これほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」

 津田は一刀(ひとかたな)で斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後(あと)でその理由を訊(き)いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」

 夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の中(うち)でその六だけを首肯(うけが)った津田の挨拶(あいさつ)は、自然どこかに曖昧(あいまい)な節(ふし)を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」

 津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私(わたし)を良人(うち)といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」

 津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」

 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく呑(の)み込んでいればこそ、今日(こんにち)までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。

 夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」

 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑(うたぐ)って見た例(ためし)もありません。私(わたくし)は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶(うかつ)ものだから奥さんの意味がよく呑(の)み込めません。だからもっと判然(はっき)り話して下さい」
「この場合に同情者として私(わたし)があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」

 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦(じ)らされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴(き)きますか、聴きませんか」

 津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人(なんびと)も考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇(ちゅうちょ)した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切(はっきり)しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目(だめ)よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」

百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当(けんとう)のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥(おち)いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦(ゆる)す人ではなかった。永久夫人の前に赦(ゆる)されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸(けいがい)と一般であった。用心深い彼は生還の望(のぞみ)の確(しか)としない危地に入り込む勇気をもたなかった。

 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴(な)れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸(めいりょう)に解剖して見る必要に逼(せま)られない彼女の余裕であった。余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他(ひと)の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私(わたくし)もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来(く)るはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他(ひと)の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。

 夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒(うねく)り廻ったので、埒(らち)はますます開(あ)かなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私(わたし)がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくできる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」
「そんなに雑作(ぞうさ)なくできるんですか」
「ええまあ笑談(じょうだん)みたいなものです。ごくごく大袈裟(おおげさ)に云ったところで、面白半分の悪戯(いたずら)よ。だから思い切ってやるとおっしゃい」

 津田にはすべてが謎(なぞ)であった。けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」

 しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を掴(つか)んだ後(あと)で、また話題を変えた。ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。少くとも津田には重大な関係をもっていた。

 夫人は下(しも)のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後|清子(きよこ)さんにお会いになって」
「いいえ」

 津田の少し吃驚(びっくり)したのは、ただ問題の唐突(とうとつ)なばかりではなかった。不意に自分をふり棄(す)てた女の名が、逃がした責任を半分|背負(しょ)っている夫人の口から急に洩(も)れたからである。夫人は語を継(つ)いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露(ごひろう)の時にあなたはおいでになったんでしたかね」
「行きません。行こうたってちょっと行き悪(にく)いですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも寄(よ)り切りでしょう」

 津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」

 津田は塞(つか)えた。小林を研究し尽した上でなければ確(しか)とした返事は与えられなかった。夫人は再び訊(き)き直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴(き)かされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇(かん)づいているところがあるの」
「そうですね」
 津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。

百三十八

 話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気(け)どっていて貰(もら)いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪(にく)くなった。
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」

 津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
 夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊(こわ)しよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」

 夫人はこれだけ云って、言葉に区切(くぎり)を付けた後で、新たに出直した。
「私(わたし)の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐(りこう)な方(かた)だから、もうきっと感づいているに違(ちがい)ないと思うのよ。何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合(ころあい)なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合(つごう)よく私のお誂(あつら)え通(どお)りのところにいらっしゃるに違ないのよ」

 津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」

 お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝(けげん)な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯(うけが)わなければならない人であった。それにもかかわらず彼は躊躇(ちゅうちょ)なしに応諾を与える事ができなかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」

 津田は黙ってその後(あと)を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘(うそ)というものです」

 嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」

 夫人の論議(ロジック)は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同(おん)なじとしか見えないでしょう。しかし私(わたし)には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込(ひっこ)んでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手(しょて)から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙(だま)す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋(う)めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活(い)かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒(てあら)な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」

 津田の眼は好奇心をもって輝やいた。

百三十九

 夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑(おさ)えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合(しあい)に一段落をつけたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻(さいち)な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券(じっけん)を、いったん勝った後(あと)で彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴(つか)むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私(わたし)には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他(ひと)に説明する事ができるつもりでいるんですよ」

 津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」

 夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰(もら)うなんてえのは馬鹿気(ばかげ)ているじゃありませんか」

 はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」

 津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立(だて)をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」

 夫人は微(かす)かに溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
「ああああ張合(はりあい)がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精(たんせい)して拵(こしら)えて来て上げたのに、肝心(かんじん)のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨(むだぼね)を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」

 津田は迷宮(メーズ)に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追(おっ)かけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼(きがね)も、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促(うな)がした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り訊(き)きますよ」と断った彼女は、はたして劈頭(へきとう)に津田の毒気(どっき)を抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」

 問は不意に来た。津田はにわかに息塞(いきづま)った。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易(か)えましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」

 今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然|関(せき)さんへ行っちまったのね」
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾(とっく)の昔(むかし)に通り越していましたね。あっと云って後(うしろ)を向いたら、もう結婚していたんです」
「誰があっと云ったの」

 この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然(しか)るに夫人はそこへとまって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」
「さあ」
 津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」

 夫人は軽蔑(けいべつ)の眼を彼の上に向けた。
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」
「あるいはそうかも知れません」
「そんならその時のあっ[#「あっ」に傍点]の始末はどうつける気なの」
「別につけようがないんです」
「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」
「ええ。だからいろいろ考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもうやめちまったの」
「いいえやっぱりやめられないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」
 夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。

百四十

 準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然(ばくぜん)たる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田はまたかと思った。先刻(さっき)から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴(き)かされるたびに、彼は心の中で暗(あん)に夫人を冷笑した。夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭(ぬぐ)って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。彼は苦笑しながら訊(き)いた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」

 夫人は急に勢(きお)い込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」

 津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私(わたし)が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾(と)うから、あなたの料簡(りょうけん)をよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝(けさ)お秀さんがあの事で来たもんだから、それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」

 腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを見澄(みすま)してこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの方(かた)の肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻(さっき)も云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」
「ええそりゃよく心得ています」

 ここで問答に一区切(ひとくぎり)を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入(はい)り込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私(わたし)のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」

 津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧(ふる)いものではなかった。急にその辺(あたり)の景色(けしき)を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。

 夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留(とうりゅう)しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体(からだ)を回復するのが主眼だと云って聴(き)かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
 津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺(うご)いていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後(あと)でもつかなかった。夫人は一煽(ひとあお)りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼(きがね)だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片(かた)をつけて来るんです」
 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促(うな)がした。

百四十一

 旅費を貰(もら)って、勤向(つとめむき)の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多(めった)にない誂(あつら)え向(む)きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取(と)り外(はず)すのは愚(ぐ)の極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。

 彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然(いちもくりょうぜん)であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照(へんしょう)する遑(いとま)がなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私(わたし)に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」

 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟(たた)って来るんです」

 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」

 この答えを聴(き)いた時、夫人の態度が急に嶮(けわ)しくなった。
「そんな生意気(なまいき)な口応(くちごた)えをするもんじゃありません。言葉だけで他(ひと)をやり込(こ)めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方(かた)のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟(ひっきょう)清子さんに逃げられちまったんです」

 津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴(き)かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識(けんしき)に拘(かか)わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好(よ)ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄(みえ)じゃありませんか。よく云ったところで、上(うわ)っ面(つら)の体裁(ていさい)じゃありませんか。世間に対する手前と気兼(きがね)を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同(おん)なじ事よ」

 津田は呆気(あっけ)に取られた。夫人の小言(こごと)はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入(い)らざるところに我(が)を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚(おのぼれ)に生れ変って変なところへ出て来るんです」

 津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品(ひん)よく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終(しじゅう)苦(く)になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私(わたくし)だって」
「いえ、思っているのと同(おん)なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」

 津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。

「いったいあなたはずうずうしい性質(たち)じゃありませんか。

そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳(いっとく)だぐらいに考えているんです」

「まさか」

「いえ、そうです。そこがまだ私(わたし)に解らないと思ったら、大間違です。

好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。

だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。

そのために私がせっかく骨を折って拵(こしら)えて来たんだから」

「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。

「あの人は一人で行ってるんですか」

「無論一人です」

「関は?」

「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」

 津田はようやく行く事に覚悟をきめた。

百四十二

 しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。

二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。

夫人が踵(きびす)を回(めぐ)らさないうちに、津田は帰った。

「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻(さっき)おっしゃった事は」

「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。

どうでしょう、あなたのお考えは」

 津田は答えなかった。夫人は念を押した。

「解ったでしょう。後は云わなくっても」

 夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑(の)み込めた。

しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確(しか)とした観念がなかった。夫人は笑い出した。

「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」

「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。後(あと)を挙(あ)げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委(ゆだ)ねると同じ事であった。

多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念(けねん)に制せられた。

「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」

「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。

まあ見ていらっしゃい、私(わたし)がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」

 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛(きた)え上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以(ゆえん)だと誤解しているらしかった。

それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底(しんそこ)を探ると、とんでもない結論になるかも知れなかった。

彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵(こしら)えて、相手を苛(いじ)めにかかるのかも分らなかった。

気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲(こ)らす方法を講じているのかも分らなかった。

幸(さいわい)に自分でそこを認めなければならないほどに、世間からも己(おの)れからも反省を強(し)いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。

――こういう言葉が臆面(おくめん)なく彼女の口を洩れた。

夫人とお延の間柄を、内面から看破(みやぶ)る機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。

しかし実意の作用に至ると、勢い危惧(きぐ)の念が伴なわざるを得なかった。

「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上(しあげ)を御覧(ごろ)うじろって云うじゃありませんか」

 いくら津田が訊(き)いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括(くく)った挨拶(あいさつ)をした後で、教えるように津田に云った。

「あの方(かた)は少し己惚(おのぼ)れ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部(うわべ)は大変|鄭寧(ていねい)で、お腹(なか)の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧(りこう)だから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気(まんき)が多いのよ。だからそんなものを皆(み)んな取っちまわなくっちゃ……」

 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段(はしごだん)の中途で足を止(と)めた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」

 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」

 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」

 夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」
「何をです」

「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥(おおはじ)を掻(か)かなくっちゃならない」

 いったん坐(すわ)った夫人は、間もなくまた立った。

「じゃ私(わたし)はもうお暇(いとま)にしますからね」

 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。

「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」

 一言の挨拶を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。

 

 

 

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