夏目漱石 明暗 80-113 |
2021.01.05 更新2022.01.31, 2022.03.05
●強い意志がお延(のぶ)の体 全体にみち渡った。
朝になって眼を覚ました時の彼女には、臆病ほど自分に縁の遠いものはなかった。
寝起きの悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。
夜具(やぐ)をはねのけて、床を離れる途端(とたん)に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。
朝寒の刺激と共に、しまった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
●彼女は自分の手で雨戸をたぐった。外の模様はいつもよりまだよっぽど早かった。
昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。
なまけて寝すごした昨日の償(つぐな)い、それも満足の一つであった。
●彼女は自分で床(とこ)を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。
そうして結(ゆ)ってから四日目になる髪を解いた。
油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂(ひさし)に束(つか)ね上げた。
それが済んでから始めて下女を起した。
●食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と言われた。
何にも知らないお時は、彼女の早起きを驚ろいているらしかった。
また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
お延 「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」
お時 「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
お延 「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
●お延の言葉遣いは平生より丁寧で片づいていた。そこに或る落ちつきがあった。
そうしてその落ちつきを裏切る意気(いき)があった。意気に伴なう果断(かだん)も遠くに見えた。
彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
●それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。
襷(たすき)をはずして盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。
もと世話になった覚えのあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。
ことに津田のいない時はそうであった。
というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人がのけものにされたような変な結果に陥いるからであった。
ふとした拍子からそんな気まずい思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、
そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴(ふいちょう)したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、
お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。
お時 「御嬢さまは まだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
お延 「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
お時 「早くいい所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
お延 「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんなせっかちだから。
それに継子(つぎこ)さんはあたしと違って、ああいう器量よしだしね」
●お時は何か言おうとした。
お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。
お延 「女はどうしても器量がよくないと損ね。いくら利口でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」
お時 「そんな事はございません」
●お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
お延 「本当よ。男はそんなものなのよ」
お時 「でも、それは一時(いちじ)の事で、年を取るとそうは参りますまい」
●お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
お延 「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
●お時は呆れた顔をしてお延を見た。
お時 「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
●お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。
両方の度合(どあい)をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
●彼女が外出のため着物を着換えていると、外から誰か来たらしい足音がして玄関のベルが鳴った。
取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。
●袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を言わなかった。
彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶(もだ)え苦しんだ。
わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
●この不時(ふじ)の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。
厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。
といって、集金人でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。
姿見の前に立ちすくんだ彼女は当惑の眉を寄せた。
仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。
しかし会って見ると、まんざら知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。
その上小林は斟酌(しんしゃく)だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人にひけを取らないように、天から生みつけられた男であった。
お延の時間がせまっているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいてもさしつかえないものとひとりで合点しているらしかった。
●彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。
彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。
彼はまた探偵につけられた話をした。
それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと言って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。
彼は探偵につけられるのが自慢らしかった。
おおかた社会主義者として目(もく)されているのだろうという説明までして聴かせた。
●彼の談話には気の弱い女にショックを与えるような部分があった。
津田から何にも聞いていないお延は、こわごわながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外視した。
しかし彼の言う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。
しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途(みち)がなくなった。
彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向(ようむき)を述べた。
それは昨夕(ゆうべ)お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。
小林 「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
●彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
●お延はすぐ入り用の品を箪笥(たんす)の底から出してやろうかと思った。
けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といってためらった彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。
着古した外套一つがもとで、他日細君の手落呼ばわりなどをされた日には耐(たま)らないと思った。
小林 「大丈夫ですよ、くれるって言ったに違いないんだから。嘘なんか吐(つ)きやしませんよ」
●出してやらないと小林を嘘つきとしてしまうようなものであった。
小林 「いくら酔払っていたって気は確かなんですからね。
どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
●お延はとうとう決心した。
お延 「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面(きちょうめん)ですね」と言って小林は笑った。
けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
お延 「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか言われると困りますから」
●お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事をつけ加えずにはいられなかった。
●お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。
そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。
ところがその談話は突然な閃(ひら)めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。
小林 「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
●お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を言い出した。
お延は相手が相手なので、あたらず障(さわ)らずの返事をしておくに限ると思った。
お延 「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
小林 「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
●小林の言い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手をひやかし返してやりたくなった。
しかし彼女の気位(きぐらい)がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。
小林はまたそんな事を顧慮(こりょ)する男ではなかった。
秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈けめぐる代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。
小林 「やっぱり細君の力にはかないませんね、どんな男でも。
僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
●お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
お延 「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当(けんとう)のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
小林 「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
お延 「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
小林 「参考になりますよ」
●お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。
お延 「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番ちかみちじゃありませんか」
●小林は頭を掻く真似をした。
小林 「貰いたくっても貰えないんです」
お延 「なぜ」
小林 「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
お延 「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
●お延はこう言ったあとで、これは少し言い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。
もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
小林 「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来っこありませんよ」
●駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行きをお延に想い起させた。
そうした濃厚な恋愛をかたどる艶(なま)めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、
それと全く縁の遠い、他人の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
お延 「駈落ちをなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
小林 「誰とです」
お延 「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴(つ)れていらっしゃる方はないじゃありませんか」
小林 「へえ」
●小林はこう言ったなり畏(かしこ)まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。
そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目であった。
しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを言い出した。
小林 「僕だって朝鮮くんだりまで駈落のお供をしてくれるような、実(じつ)のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。
実を言うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。
つまり世の中がないんですね。もっと広く言えば人間がないんだとも言われるでしょうが」
●お延は生れて初めての人に会ったような気がした。
こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。
相手をどうこなしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。
すると小林の態度はなお感慨(かんがい)を帯びて来た。
小林 「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。
ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。
普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。
それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。
妹は僕のあとへどこまでもくっついて来たがります。
しかし僕はまた妹をどうしてもつれて行く事ができないのです。
二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。
人に殺される危険がまだ少ないからです」
●お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。
仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。
彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。
●特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
お延 「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
●小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。
そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。
小林 「何がです、今僕の言った事がですか」
お延 「いいえ、そんな事じゃないの」
●お延は巧みに相手を脇道に誘い込んだ。
お延 「あなたさっきおっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
●小林は元へ戻らなければならなかった。
小林 「ええ言いました。それに違いないから、そう言ったんです」
お延 「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
小林 「ええ変りましたね」
●お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。
小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。
二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影がさしていた。
けれどもそれはついに本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。
お延は小林なんぞにからかわれる自分じゃないという態度を見せたのである。
小林 「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
●今度は小林の方からこう言ってお延に働きかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。
けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。
小林の考えている、少なくとも彼の口にしている変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。
津田といっしょになってから、朧気(おぽろげ)ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。
どんな鋭敏な観察者が外から覗いても、とうてい判りこない性質のものであった。
そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする微細の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。
それが何で小林ごときものに知れよう。
お延 「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
●小林は大きな声を出して笑った。
小林 「奥さんはなかなかそらっとぼける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」
お延 「そらっとぼけるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
小林 「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。
しかし奥さんはそういう旨いお手際(てぎわ)をもっていられるんですね。
ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
●お延はわざと取り合わなかった。と言って別にうるさい顔もしなかった。
愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
小林 「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
お延 「何を」
●藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。
誘(おび)き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。
小林 「あなたのお手際(てぎわ)にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
●小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。
お延はつんとして答えた。
お延 「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。
自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう言って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
小林 「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
お延 「ありがとう」
●お延はさも軽蔑した調子で礼を言った。
その礼の中に含まれていた苦々しい響(ひびき)は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。
彼はすぐ彼女をなだめるような口調で言った。
小林 「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
お延 「わたくしは結婚前から津田を知っております」
小林 「しかしその前は御存じないでしょう」
お延 「当り前ですわ」
小林 「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
●話はこんな具合にして、とうとう津田の過去にさかのぼって行った。
●自分のまだ知らない夫の領分に入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違いなかった。
彼女は喜んで小林の談話に耳を傾けようとした。
ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を言わなかった。
言っても肝心のところはわざと略してしまった。
例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口(ひとくち)触れるが、
そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意にぼかしさって、全く語らないという風を示した。
それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。
お延は彼がとくにこうして自分をじらしているのではなかろうかという気さえ起した。
●お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑(ぶべつ)の裏には、まだ他人に向って公言しない大きな因子(ファクトー)があった。
それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。
売れもしない雑誌の編集、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。
彼女の見た小林は、常に無籍者(むせきもの)のような顔をして、世の中をうろうろしていた。
宿なしらしい愚痴をこぼして、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
●しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでもつきものであった。
ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。
少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。
彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは言えなかった。
しかし岡本の宅(うち)へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分(ぶん)をわきまえていた。
身分には階級があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。
彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。
彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も地位もない癖に、彼のように大きな事を言うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。
●お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れっ枯らしじゃなかろうか」
●軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持ち上げた時、お延の態度は急に改(あらた)まった。
すると小林はそれを見届けた証拠にか、またはそれに全くの無頓着でか、あははと笑い出した。
小林 「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
お延 「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。
あんまり一どきに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
小林 「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。
あんまり奥さんに気を揉ませて、ヒステリーでも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」
●お延は後を向いた。後は壁であった。
それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。
けれども勝手口は今まで通り静かであった。とうに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
お延 「どうしたんでしょう」
小林 「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児(まいご)になる気遣いはないから大丈夫です」
●小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶をいれ代えるのを口実に、席を立とうとした。
小林はそれさえさえぎった。
小林 「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでもさっきの続きを話しますよ。
しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰(ごくつぶ)しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。
どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
お延 「あるかも知れませんね」
小林 「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」
●お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯(うけが)わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。
自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
小林 「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
お延 「あっても宜しいじゃございませんか」
小林 「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
お延 「あっても構いません」
小林 「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと言い直したらどうです。それでも構いませんか」
お延 「ええ、構いません」
●小林の顔には皮肉の渦(うず)がみなぎった。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。
彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振(そぶり)さえ示した。
「何という陋劣(ろうれつ)な男だろう」
●お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっこをしていた。
すると小林の方からまた口を利き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、
あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、
すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。
これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
●お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と言って笑った。
小林 「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。
さっきからいう通り津田君は大変変りましたよ。
けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。
少しも変らないのです。
これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。
もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
●小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
小林 「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。
その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。
実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。
誰にでも軽蔑されている人間なんです。
下らない女にまで軽蔑されているんです。
有体(ありてい)に言えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
●小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。
お延 「まあ」
小林 「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
お延 「そんな馬鹿な事があるもんですか」
小林氏 「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
お延 「あなたもずいぶん僻(ひが)んでいらっしゃるのね」
小林 「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。
しかしそりゃどうでもいいんです。
もともとやくざに生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。
誰を恨む訳にも行かないのでしょう。
けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持(こころもち)を、あなたは御承知ですか」
●小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。
まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。
自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。
彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。
その様子を見た小林はまた「奥さん」と言い出した。
小林 「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。
わざわざ人の厭がるような事を言ったりしたりするんです。
そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。
僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。
幾ら人から軽蔑されても存分(ぞんぶん)なかたき討ちができないんです。
仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
●お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。
誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。
そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当てはまって、少しも反しないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
小林 「びっくりしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。
世の中にはいろいろの人がありますからね」
●小林は多少溜飲の下(お)りたような顔をした。
小林 「奥さんはさっきから僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。
ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。
それがちゃんと僕には分るんです。
けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。
だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。
僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
●小林はまた大きな声を出して笑った。
●お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。
一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。
反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏(まと)まる事ができなかった。
したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊いた。
お延 「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明(げんめい)なさるんですね」
小林 「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」
お延 「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
小林 「いやそうでもありません。僕はこれで天然(てんねん)自然(しぜん)のつもりなんですからね。
奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
お延 「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
小林氏 「だから僕は天然自然だと言うのです。
天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
お延 「目的じゃありません。しかし本望(ほんもう)かも知れません」
小林 「目的と本望とどこが違うんです」
お延 「違いませんかね」
●お延の細い眼から憎悪の光が射した。
女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳のうちに宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が言った。
小林 「僕は自分の小さな料簡(りょうけん)からかたき打ちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。
天がこんな人間になって他人を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう言ったのです。
僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。
僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。
しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。
それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
●小林の筋の運び方は、少しこんがらかり過ぎていた。
お延は彼のロジックの隙間を突くだけに頭が練(ね)れていなかった。
といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。
それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。
彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
お延 「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」
小林 「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
お延 「そんな卑怯な――」
小林 「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
お延 「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚えがあるんでしょう。
まあそれから伺いますから、言って御覧なさい」
小林 「奥さん、僕は世の中から無籍者(むせきもの)扱いにされている人間ですよ」
お延 「それが私や津田に何の関係があるんです」
●小林は待ってたと言わぬばかりに笑い出した。
小林 「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
お延 「どうして」
●小林は急に答えなくなった。
その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと言う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。
お延は一層の不快を感じた。もういい加減に帰ってくれと言いたくなった。
同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。
それを見抜いて、わざとたかをくくったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。
そこへさっきから心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延のわだかまりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先にまた崩されてしまわなければならなかった。
●お時は縁側へ坐って外から障子を開けた。
お時 「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
●お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
お延 「じゃ電話はかけなかったのかい」
お時 「いいえかけたんでございます」
お延 「かけても通じなかったのかい」
●問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑み込めるようになって来た。
――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を済ませる事ができなかった。
看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。
書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か言うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。
第一言語が不明暸であった。それからはっきり聞こえるところもつじつまの合わない事だらけだった。
要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。
しかし義務を果さないでそのまま宅(うち)へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
お時 「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、
ただ時間が長くかかるぎりでございますし、
それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
●お時のいう事はもっともであった。お延は礼を言わなければならなかった。
しかしそのために、小林からさんざん厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女がかえって恨めしくもあった。
●彼女は立って茶の間へ入った。
すぐそこに据えられた銅(あか)の金具の光る重ね箪笥(だんす)の一番下の引き出しを開けた。
そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
お延 「これでしょう」
「ええ」と言った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それをひっくり返した。
小林 「思ったよりだいぶ汚れていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と言いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。
外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。
小林 「どうせただ貰うんだからそう贅沢も言えませんかね」
お延 「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
小林 「置いて行けとおっしゃるんですか」
お延 「ええ」
●小林はやっぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
小林 「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
お延 「ええ、ええ」
●お延はわざと反対を答えた。
そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
小林 「どうですか」
●小林はこう言いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼にはいった。
アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行(い)った。
お延 「ちょうどいいようですね」
●彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
●すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐(あぐら)をかいた。
小林 「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
お延 「そうですか」
●お延は急に口元を締めた。
小林 「奥さんのような窮(こま)った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
お延 「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方がいいと思います」
●小林は何にも答えなかった。しかし突然言った。
小林 「ありがとう。御蔭でこの冬も生きていられます」
●彼は立ち上った。お延も立ち上った。
しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
小林 「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他人に笑われないようにしないといけませんよ」
●二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。
お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。
二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
●その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。
下にある黒瞳(くろめ)はじっと彼女の上に据えられたまま動かなかった。
それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
お延 「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
小林 「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。
おおかた注意を受ける覚えがないとおっしゃるつもりなんでしょう。
そりゃあなたはもとより立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
お延 「もうたくさんです。早く帰って下さい」
●小林は応じなかった。問答が咫尺(しせき)(近距離)の間に起った。
小林 「しかし僕のいうのは津田君の事です」
お延 「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
小林 「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。
第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
お延 「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
小林 「聞きたいですか」
●鋭どい稲妻がお延の細い眼からまともにほとばしった。
お延 「津田はわたくしの夫です」
小林 「そうです。だから聞きたいでしょう」
●お延は歯を噛んだ。
お延 「早く帰って下さい」
小林 「ええ帰ります。今帰るところです」
●小林はこう言ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかった。
その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
お延 「お待ちなさい」
小林 「何ですか」
●小林はのっそり立ちどまった。そうして裄(ゆき)の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、
ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。
お延の声はなお鋭くなった。
お延 「なぜ黙って帰るんです」
小林 「御礼はさっき言ったつもりですがね」
お延 「外套の事じゃありません」
●小林はわざと空々しい様子をした。はてなと考える態度まで粧って見せた。お延は詰責(きっせき)した。
お延 「あなたは私の前で説明する義務があります」
小林 「何をですか」
お延 「津田の事をです。津田は私の夫です。妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
小林 「でなければそれを取消すだけの事でしょう。
僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、
同時に恥を恥と思わない男として、いったん言った事を取り消すぐらいは何でもありません。
じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。
そうしてあなたに詫(あや)まりましょう。そうしたらいいでしょう」
●お延は黙然(もくねん)として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
小林 「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。
(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
●お延は依然として下を向いたまま口を利かなかった。小林は語を続けた。
小林 「僕はさっき奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。
奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと言われました。
それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。
考えるとこれも僕の失言でした。併せて取消します。
その他もし奥さんの気に障った事があったら、総て取消します。みんな僕の失言です」
●小林はこう言った後で、沓脱(くつぬぎ)に揃えてある自分の靴を穿いた。
そうして格子を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と言った。
●微(かす)かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。
それから急に二階の梯子(はしご)段を駈け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突っ伏してわっと泣き出した。
●幸いにお時が下から上って来なかったので、お延は憚(はばか)りなく当座の目的を達する事ができた。
彼女は他人に顔を見られずに思う存分泣けた。
彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
●濡ぬれたハンケチを袂(たもと)へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の引き出しを開けた。
引き出しは二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。
それもそのはずであった。
彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用(いりよう)の手荷物をまとめるため、二三日前すでにそこを捜したのである。
彼女は残された封筒だの、物指しだの、会費の受取だのを見て、それをまた一々丁寧に揃えた。
パナマや麦わら製のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。
その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅(つつじ)だの、突当りに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、連想としてつき纏わっていた。
お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。
それから急に思い立ったように机の引き出しをがちゃりと閉めた。
●机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。
そこにも引き出しが二つ付いていた。机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向った。
しかしそれを開けようとして、手を環にかけた時、引き出しは双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。
手応えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。
彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらにかき廻した。
それを一々読んで見るのは大変であった。
読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜んでいようとは想像できなかった。
彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。
錠を卸さない秘密をそこいらへ放り出しておくには、あまりに細か過ぎるのが彼の持前であった。
●お延は戸棚を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。
けれども中には何にもなかった。
上には殺風景な我楽多(がらくた)が、無器用に積み重ねられているだけであった。
下は長持でいっぱいになっていた。
●再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差しの中から、津田宛で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。
彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。
しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。
彼女はつい念のためという口実の下に、それへ手を出さなければならなくなった。
●封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。
あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。
しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置にもどした。
●突然疑惑の炎が彼女の胸に燃え上った。
一束の古手紙へ油をそそいで、それを綺麗に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。
その時めらめらと火に化して舞い上る紙片を、津田は恐ろしそうに、竹の棒でおさえつけていた。
それは初秋の冷たい風が肌(はだえ)を吹き出した頃の出来事であった。
そうしてある日曜の朝であった。
二人差向いで食事を済ましてから、五分と経たないうちに起った光景であった。
箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡(から)げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点けていた。
お延が縁側へ出た時には、厚い上包(うわづつみ)がすでに焦げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。
お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊いた。津田はかさばって始末に困るからだと答えた。
なぜ反故(ほご)にして、自分達の髪を結う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも言わなかった。
ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突っついた。
突っつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦を巻いて棒の先に起った。
渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。
津田は煙にむせぶ顔をお延から背けた。……
●お時が午飯(ひるめし)の催促に上って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。
●時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独り膳に向った。
それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。
けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張(こわば)っていた。
そのくせ心は纏(まと)まりなく動いていた。
さっき出かけようとして着換えた着物まで、ふだんと違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介(なかだち)となった。
●もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩れなかったなら、お延はついに一言も言わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。
その食事さえ、実を言うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳(ぜん)に着いただけであった。
●お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。
しかしお延が一膳で箸を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊いた。
そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
お時 「どうもすみませんでした」
●彼女は自分の専断で病院へ行った詫を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
お延 「さっきはずいぶん大きな声を出したでしょう。下女(げしょ)部屋の方まで聞こえたかい」
お時 「いいえ」
●お延は疑(うたぐ)りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ言った。
お時 「あのお客さまは、ずいぶん――」
●しかしお延は何にも答えなかった。
静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。
二人の談話はこれが緒口(いとくち)で先へ進んだ。
お時 「旦那様は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴だって。
こっちから取りに来いとも何とも言わないのに、断りもなく奥様と直談判を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
●お延はさげすんだ笑いを微(かす)かに洩らした。しかし自分の批評は加えなかった。
お延 「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
お時 「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変厭な顔をなさいました」
お延 「そうかい。それぎりかい」
お時 「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
お延 「それでお前は何とお答えをしたの」
お時 「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
お延 「そうしたら」
お時 「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。
いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
お延 「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
お時 「だから私もそう申し上げたのでございました。
それに奥さまはちょうどお召換えをしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
お延 「そう。そうしたら」
お時 「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、ひやかされました」
●お延は苦笑した。
お延 「どうも御気の毒さま。それっきり」
お時 「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。
私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他人の家(うち)へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
お延 「酔っちゃいらっしゃらないと言ったの」
お時 「ええ」
●お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時ははたして話をそこで切り上げなかった。
お時 「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう言えとおっしゃいました」
お延 「なんと」
お時 「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。
だから、あいつが何を言ってもけっして取り合っちゃいけない。
まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって」
お延 「そう」
●お延はこれ以上何も言う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
お時 「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」
●お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
●お延(のぶ)より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。
単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒(さ)ますには充分であった。
彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
●彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。
自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と言ってむやみに可愛がりもしない。
これが彼のお秀(ひで)に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。
道楽の修業を積んで始めてそういう境界(きょうがい)(境遇)に達せられるもののように考えていた。
人世観という厳(いか)めしい名をつけて然るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生ぬるく触れて行く事であった。
微笑して過ぎる事であった。何にも執着しない事であった。
呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚(おうよう)に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。
それが彼のいわゆる通(つう)であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。
またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成績がますます彼を楽天的にした。
誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。
そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
●器量望みで貰われたお秀(ひで)は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。
放蕩の酒で臓腑(ぞうふ)を洗濯されたような彼の趣きもようやく理解する事ができた。
こんなに拘泥(こうでい)の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。
お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注がなければならなくなった。
●お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。
お延の新世帯が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。
弟も妹も同居していた。 親類の厄介者までいた。
自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。
中でも母には、他人の知らない気苦労をしなければならなかった。
●器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経(た)っても若かった。
一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳の子持とはどうしても考えられないくらいであった。
けれどもお延と違った家庭の事情の下に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得(こころえ)をもっていた。
お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老けていた。
言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染みたのである。
●こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。
その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母の味方にしたがった。
彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。
ことに嫂(あによめ)に気まずい事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎しんでいた。
しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。
兄がもしあれほど派手好きな女と結婚しなかったならばという気が、始終胸の底にあった。
そうしてそれは身びいきに過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
●お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。
兄夫婦から煙たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。
しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。
第一には二人が厭がるからなお改めないのであった。
自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。
第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。
第三は単に派手好なお延が嫌いだという一点に纏められてしまわなければならなかった。
お延より余裕のある、またお延より贅沢のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。
それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑(しゅうと)があった。
そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関連してこの相違すら考えなかった。
●お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
●前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳にちょっと手を出したぎり、また仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉(つぶ)っていた。
お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡(はんすい)状態に入りかけた間際だったので、彼は襖(ふすま)の音ですぐ眼を覚ました。
そうして病人に斟酌(しんしゃく)を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
●こういう場合に彼らはけっして愛嬌を売り合わなかった。嬉しそうな表情も見せ合わなかった。
彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。
それから一種の虚偽に近い努力でもあった。
彼らには自分ら兄妹(きょうだい)でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用しにくい黙契(もくけい)があった。
どうせお互いによく思われよう、よく思われようと意識して、上部(うわべ)の所作だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙し合う手数を省いて、良心に背(そむ)かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。
そうしてその良心に背かない顔というのは、取りも直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。
●第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄であった。
だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。
第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。
それが災いの元で、互の顔を見ると、互に弾(はじ)き合いたくなった。
●ふと首を上げてそこにお秀を見出した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。
彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。
お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着なく、言葉もかけずに、そっと部屋の内に入って来た。
●彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかった。
横倒しに引っ繰り返された牛乳のビンの下に、卵の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕(はがた)のついたトーストが食いかけのまま投げ出されてあった。
しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
お秀 「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
●実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
津田 「もう済んだんだよ」
●お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。
看護婦の手がすかなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食の残骸は、掃除の行き届いた自分の家を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
お秀 「汚ならしい事」
●彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。
しかし津田は黙って取り合わなかった。
津田 「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
お秀 「電話で知らせて下すったんです」
津田 「お延がかい」
お秀 「ええ」
津田 「知らせないでもいいって云ったのに」
●今度はお秀の方が取り合わなかった。
お秀 「すぐ来ようと思ったんですけれども、あいにく昨日は少し差支えがあって――」
●お秀はそれぎり後を云わなかった。
結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。
場合によると、それが津田には変に受取れた。
「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。
自分達夫婦の間柄を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟のとおらない頭をもった津田では無論なかった。
それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれればいいがと、暗に希望していたくらいであった。
けれども自分がお秀にそうした素振(そぶり)を見せられて見るとけっしていい気持はしなかった。
そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
●津田は後を訊かずに思う通りを云った。
津田 「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。
大した病気じゃないんだから」
お秀 「だって、ねえさんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
津田 「そうかい」
お秀 「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
●津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
●手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。
それはガーゼを詰め込んだ傷口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、
いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈拍のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
●彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。
芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。
この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中で叫んだ。
すると苦い記憶をわざと彼のために繰り返してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。
最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦られた気持がする、
次にそれがだんだん緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、
途端に一度引いた浪がまた磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返してくる。
すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。
止(や)めさせようとあせればあせるほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。
――これが過程であった。
●津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。
彼は籠の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。
いつまでも彼女を自分の傍に引きつけておくのを男らしくないと考えた。
それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。
しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。
彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。
彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らしたベルの音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。
彼が局部から受ける厭な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。
彼はそれを一種の刺激に帰した。
そうしてその刺激は過敏にされた神経のお蔭にほかならないと考えた。
ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。
お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。
しかし全く偶然の暗合(あんごう)でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。
彼は自分だけの料簡で、二つの間にある関係を拵(こしら)えた。
同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。
単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。
けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。
通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。
彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
●お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末を思い起させた。
彼は苦い顔をした。
●何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。
彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
お秀 「お厭なら病院をお出でになってから後にしましょうか」
●別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しなければならなかった。
お秀 「どこか痛いの」
●津田はただうなずいて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。
同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。
その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
お秀 「そんなに痛くっちゃ困るのね。ねえさんはどうしたんでしょう。
昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
津田 「お延は知らないんだ」
お秀 「じゃねえさんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。
上辺(うわべ)はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥ずかしくなった。
津田 「いったいお前の用というのは何だい」
お秀 「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
●津田は優(ゆう)に自分を偽る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭であった。
彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
津田 「構わないからお話しよ」
お秀 「どうせあたしの話だから ろくな事じゃないのよ。よくって」
●津田にも大よその見当はついていた。
津田 「またあの事だろう」
●津田はしばらく間をおいて、仕方なしにこう云った。
しかしその時の彼はもういつもの通り聴きたくもないという顔つきに返っていた。
お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
お秀 「だからあたしの方じゃ、さっきから用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。
それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
津田 「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
お秀 「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」
●お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈(えしゃく)を加える女ではなかった。
したがって津田も気の毒になるはずがなかった。
かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。
彼は取り合わずに先へ通り過した。
津田 「また京都から何か云って来たのかい」
お秀 「ええまあそんなところよ」
●津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が主に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。
しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。
二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。
兄妹(きょうだい)の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、
月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、
またこの二つのものが互にこんがらかって、離す事のできない事情の下にある意味合を、
お秀よりもよく承知していた。
彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
津田 「何と云って来たい」
お秀 「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
津田 「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
●お秀は解っているともいないとも答えなかった。
ただ微(かす)かに薄笑の影を締りのいい口元に寄せて見せた。
それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。
平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。
なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他人の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。
「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
●お秀はやがて、きちりと整った眼鼻を揃えて兄に向った。
お秀 「それで兄さんはどうなすったの」
津田 「どうもしようがないじゃないか」
お秀 「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
●津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
津田 「云ってやったさ」
お秀 「そうしたら」
津田 「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。
もっとも家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
お秀 「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当がついて」
●津田は何とも答えなかった。
お延の拵(こし)らえてくれたどてらの襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、しきりに前歯をほじくり始めた。
彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
お秀 「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
津田 「知らないよ」
●津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
津田 「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、さっきから訊いてるじゃないか」
●お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。
それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。
お秀 「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
●津田はようやくお秀宛で来た手紙の中に、どんな事柄が書いてあるかを聞いた。
妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。
月末の不足を自分で才覚するなら格別だが、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。
して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕いだとか家賃の滞りだとかいうのは嘘でなければならなかった。
よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前(言い訳)と思わなければならなかった。
父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。
叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
●彼は沈思して考えた。山羊髯(やぎひげ)を生やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、
意味もないのに束髪を嫌って髷(まげ)にばかり結いたがる母の頭、
そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。
事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。
約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。
彼はただその必要を認めなかっただけなのである。
そうしてその立場を他人からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。
お秀 「いくら親子だって約束は約束ですもの。
それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
●お秀には自分の夫との堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
お秀 「うちの人も困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
●学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻がえさせたものは堀の力であった。
津田から頼まれて、また無雑作にそれを引き受けた堀は、物価の高騰、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合のいい材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落したのである。
その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。
その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極呑気な男であった。
約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。
詰責に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。
しかし現金の綺麗に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。
楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。
ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。
津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
●同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。
そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。
彼女はお延の指輪を賞めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。
堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。
自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮に打ち勝った。
彼女はありのままをお秀に物語った。
●不断から派手過ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末を京都へ報告した。
しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。
津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。
そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。
今でも彼女はその誤解から逃れる事ができなかった。
したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂(あによめ)のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
お秀 「いったいねえさんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
津田 「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
お秀 「そう。じゃねえさんが一番気楽でいいわね」
●お秀は皮肉な微笑を見せた。
津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。
お秀 「いったいどうしたらいいんでしょう」
●お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩らす表現にもなった。
彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑とさえその奥には控えていた。
お秀 「そりゃうちの人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。
と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。
とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、
そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしがうちの人へ対して困るだけだわ」
●津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。
しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。
彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。
もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。
むしろ自由にされていた。
細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
●兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。
それを遠慮のない言葉で云い現わすと、
「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
●津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。
かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
津田 「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。
突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」
お秀 「そこなのよ、兄さん」
●お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
お秀 「だからあたしがうちの人に対して困るって云うのよ」
●かすかな暗示が津田の頭に閃めいた。
秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。
それは父の品性に関係していた。
今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質のものであった。
心のうちで劈頭(へきとう)に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
●臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、以下のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。
1.最初に体(てい)よく送金を拒絶する。2.津田が困る。3.今までのいきがかり上(じょう)堀に訳を話す。
4.京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。
5.それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。6.父はただ礼を云って澄ましている。
●こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の用心があった。相当な理窟もあった。
或程度の手腕は無論認められた。
同時に何らの淡泊さがそこには存在していなかった。
下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪(こうかい)な所も少しはあった。
小額の金に対する度外(どはず)れの執着心が殊更に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
●ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口(やりくち)に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。
あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉を顰(ひそ)めなければならなかった。
父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。
お秀はまた兄夫婦に対していい感情をもっていなかった。その上夫や姑とへの義理もつらく考えさせられた。
二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。
互いの忖度(そんたく)から成立った父の料簡(りょうけん)は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。
●感情と理窟の縺(もつ)れ合った所をほごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。
局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方をじれったくした。
しかし彼らは兄妹(きょうだい)であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。
相手のさっぱりしないところを暗に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁は演じなかった。
ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括(くく)る手際(てぎわ)をお秀より余計にもっていた。
津田 「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
お秀 「そうじゃないわ」
津田 「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同じ事だがね」
お秀 「あら、ねえさんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
津田 「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。
そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だからいいよ。
兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
お秀 「兄さんにそんな事ができて」
●お秀の兄をあざけるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起した。
津田 「できなければ死ぬまでの事さ」
●お秀はついにきりりとしまった口元を少し緩めて、白い歯をかすかに見せた。
津田の頭には、電灯の下で光る厚帯(あつおび)をいじくっているお延の姿が、再び現れた。
津田 「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
●津田にとってそれほどたやすい解決法はなかった。
しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。
彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。
それにできるだけの満足を与える事が、また取も直さず彼の虚栄心にほかならなかった。
お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角において突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を与えるようなものであった。
お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。
そのくらいの事をと他人から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。
家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つにはあり余るほどの金がある。
のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
●その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。
おのれを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放り出すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺っていた。
腹の中に言葉通りの断固たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。
彼はむしろ冷やかに胸の天秤を働かし始めた。
彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを推し量った。
そうしていっそ二つのうちで後の方を冒したらどんなものだろうかと考えた。
それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのをあきたらなく思った。
兄の後に御本尊のお延が澄まして控えているのをにくんだ。
夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹(ごうはら)であった。
そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見え透いて来た後でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
●同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちていた。
彼は成上(なりあが)りものに近いある臭味(しゅうみ)を結婚後のこの妹に見出した。あるいは見出したと思った。
いつか兄といういかめしい具足を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。
だから彼といえどもみだりにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
●二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。
その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵(こし)らえかけていた局面を、一度に崩してしまったのである。
●しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。
彼は階子段(はしごだん)の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。
彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊き返した。
薬局生は降りながら、「おおかたお宅(たく)からでしょう」と云った。
冷笑なこの挨拶が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。
芝居へ行ったぎり、昨日も今日も姿を見せないお延の仕うちを暗に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
津田 「電話で釣るんだ」
●彼はすぐこう思った。
昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。
お延の彼に対する平生の素振りから推して見ると、この類測にまんざらな無理はなかった。
彼は不用意の際に、突然としてしかもしとやかに自分を驚ろかしに入いって来るお延の笑顔さえ想像した。
その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。
彼女は一刹那(いっせつな)に閃(ひら)めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。
今まで持もちこたえに持ちこたえ抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、みすみす彼女の術中に落ち込むようなものであった。
●彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
津田 「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。ほうっておけ」
●この挨拶がまたお秀にはまるで意外であった。
第一はズボラを忌む兄の性質に釣り合わなかった。
第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。
彼女は兄が自分の手前をはばかって、普段の甘いところを押し隠すために、わざと嫂(あによめ)に対して無頓着をよそおうのだと解釈した。
心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。
彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。
薬局生がいい加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
●形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題のいとくちを取り上げた時、一方ではせきこんだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自動電話をすてて電車に乗ったのである。
それから十五分と経たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
●お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。
小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅.に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。
それは外套をやるやらないの問題ではなかった。
問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他人の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。
もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。
もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。
そこには突飛があった。自暴(やけ)があった。
満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。
新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択される恐れがあった。
平生から彼を軽蔑する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう下地(したじ)を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
●津田の心には突然一種の恐怖がわいた。お秀はまた反対に笑い出した。
いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
お秀 「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。
あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
●お秀も小林の一面をよく知っていた。
しかしそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面だけに限られていた。
そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
津田 「そうでないよ、なかなか」
お秀 「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
●お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
津田 「だってマッチ一本だって、大きな家を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
お秀 「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱マッチを抱え込んでいたって。
ねえさんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」
●津田はお秀(ひで)の口から出た下半句(しもはんく)を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。
よそを向いたまま、じっとその続きを待っていた。
しかし彼の聞こうとするその続きはついに出て来なかった。
お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
お秀 「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。
何か特別な事情でもあるの」
●津田はやはり元の所へ眼をつけていた。
それはなるべく妹に自分の心を気取られないためであった。
眼の色を彼女に読まれないためであった。
そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。
彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
津田 「別に心配もしていないがね」
お秀 「ただ気になるの」
●この調子で押して行くと彼はただお秀からひやかされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
●同時にさっきから催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。
彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという懸念に制せられた。
●そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。
彼女はいったん緒口(いとくち)を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
お秀 「兄さんはいったいねえさんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
津田 「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
お秀 「そんならいいわ、伺わないでも」
津田 「しかしなぜ訊くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
お秀 「ちょっと必要があったから伺ったんです」
津田 「だからその必要をお云いな」
お秀 「必要は兄さんのためよ」
●津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
お秀 「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
津田 「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
お秀 「どうせ解らないから変なんでしょうよ。
じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風にねえさんに持ちかけるって云うの」
津田 「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
お秀 「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
●津田は答えなかった。お秀は穴のあくようにその顔を見た。
お秀 「まるで想像がつかないじゃありませんか。
たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
●津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
お秀 「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、ねえさんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
津田 「そりゃ聴かないでも解ってるよ」
お秀 「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったいねえさんをどう思っていらっしゃるかって。
兄さんはねえさんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
●お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。
しかしそこに相手の拍子を抜く必要があったので、彼ははっきりした返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
津田 「大変な権幕(けんまく)だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
お秀 「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
津田 「云えばどうするというんだい」
お秀 「私はあなたの妹です」
津田 「それがどうしたというのかね」
お秀 「兄さんは淡泊でないから駄目よ」
●津田は不思議そうに首を傾けた。
津田 「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し勘違いをしているんじゃないかい。
僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。
ただあいつは僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
お秀 「ただそれだけなの」
津田 「うんそれだけだ」
●お秀は急にあての外(はず)れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
お秀 「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。
それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
津田 「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
お秀 「ええ断言します」
津田 「結構だよ。――それで?」
お秀 「あたしの方もそれだけよ」
●二人は黙らなければならなかった。
●しかし二人はもう因果(いんが)づけられていた。
どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸からたたき出さなければ承知ができなかった。
ことに津田には目前の必要があった。
当座にせまる金の工面(くめん)、彼は今その財源を自分の前に控えていた。
そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。
勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。
彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
津田 「お秀病院で飯を食って行かないか」
●時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。
ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
津田 「どうせ家(うち)へ帰ったって用はないんだろう」
●お秀は津田のいう通りにした。話は容易(たやす)く二人の間に復活する事ができた。
しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。
そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足しにならなかった。
彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込こもうとして機会を待った。
お秀 「兄さん、あたしここに持っていますよ」
津田 「何を」
お秀 「兄さんの入用(いりよう)のものを」
津田 「そうかい」
●津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。
彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。
お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。
勢い兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかった。
結果はどうしても兄を焦(じ)らす事に帰着した。
お秀 「あげましょうか」
津田 「ふん」
お秀 「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
津田 「ことによると、くれないかも知れないね」
お秀 「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。
今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
津田 「そりゃ知ってるよ。さっきもうお前から聞いたじゃないか」
お秀 「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
津田 「僕を焦(じ)らすためにかい、または僕にくれるためにかい」
●お秀は打たれた人のように突然黙った。
そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜ためた。
津田にはそれが口惜涙(くやしなみだ)としか思えなかった。
お秀 「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。
どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
津田 「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
●今度はあきれた表情がお秀の顔にあらわれた。
お秀 「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
津田 「そんな事は他人に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
お秀 「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
●津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。
ここまで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、またはくしゃりと一度に押し潰つぶした方が得かという利害心が働らいていた。
その中間を行こうと決心した彼はおもむろに口を開いた。
津田 「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
お秀 「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
津田 「だからそれでいいよ」
お秀 「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
津田 「そりゃ……」
●津田は全部を答えなかった。
けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。
お秀は少し間をおいた。それからすぐ押し返した。
お秀 「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口(つげぐち)をしたという事が始終あるんでしょう」
津田 「そんな事はどうでもいいよ」
お秀 「いいえ、それできっとあたしを眼の敵(かたき)にしていらっしゃるんです」
津田 「誰が」
●不幸な言葉は二人の間に伏字のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。
お秀はそれを松明(たいまつ)のように兄の眼先に振り廻した。
お秀 「兄さんこそ違ったのです。
ねえさんをお貰いになる前の兄さんと、ねえさんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。
誰が見たって別の人です」
●津田から見たお秀は彼に対する偏見で武装されていた。
ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。
彼には「ねえさん、ねえさん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障りであった。
むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は少なからぬ不快を感じた。
津田 「おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ」
お秀 「そりゃそうかも知れません。ねえさんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装って、うっちゃっておおきになるくらいですから」
●こういう言葉が所嫌(きら)わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
津田 「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
●彼は神経の興奮を紛らす人のように、しきりに短かい口髭(くちひげ)を引張った。
しだいしだいに苦い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
●津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。
お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸にされて行くので、しまいに彼は恥じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。
あたかももう一息で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢いで。
お秀 「ねえさんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊でした。
私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体(ありてい)に事実を申します。
だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。
兄さんはねえさんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐いた覚えがありますか」
●この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。
しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。
津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
津田 「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
●お秀はそうだと答えたいところをわざとそらした。
お秀 「いいえ、ねえさんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。
ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです」
●津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥って来た。
津田 「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
お秀 「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
●すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
●お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
お秀 「兄さんの変った証拠はまだあるんです」
●津田はそ知らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙げた。
お秀 「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、ねえさんに何か云やしないかって、さっきから心配しているじゃありませんか」
津田 「煩(うる)さいな。心配じゃないってさっき説明したじゃないか」
お秀 「でも気になる事はたしかなんでしょう」
津田 「どうでも勝手に解釈するがいい」
お秀 「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
津田 「馬鹿を云うな」
お秀 「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ、ねえさんを恐れていらっしゃるんです」
●津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。
それからいい恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。
もう一息で懺悔の深谷(しんこく)へ真っ逆さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。
しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
お秀 「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。
何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。
たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手がねえさんだからじゃありませんか」
津田 「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
お秀 「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
津田 「まあその見当だろうね」
●お秀はかっとした。同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。
お秀 「解りました」
●お秀は鋭どい声でこう云い放った。
しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。
彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
お秀 「解りましたよ、兄さん」
●お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
津田 「何が」
お秀 「なぜねえさんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
●津田の頭に一種の好奇心が起った。
津田 「云って御覧」
お秀 「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
津田 「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているがいい」
お秀 「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。
お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。
だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。
知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
●津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。
なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。
しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。
彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。
そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。
そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。
したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。
お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温(なまぬる)い表現を通して伝わるだけであった。
彼女はもうやりきれないと云った様子をさっきから見せている津田を少しも容赦しなかった。
そうしてまた「兄さん」と云い出した。
●その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。
今までの彼女は彼を通して常に鋒先(ほこさき)をお延に向けていた。
兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面(やおもて)に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂(あね)だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。
それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。
そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
お秀 「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。
よし権利がないにしたところで、もしそうした疑(うたがい)を妹が少しでももっているなら、綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――
少なくとも兄の人情でしょう。
私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
津田 「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
●津田の癇癪は始めて破裂した。
津田 「お前に人格という言葉の意味が解るか。
たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
お秀 「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
津田 「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕(つら)まえられると思うのか。馬鹿め」
お秀 「そう私を軽蔑なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
津田 「いいも悪いも答える必要はない。
人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
お秀 「あなたが兄さんらしくないからです」
津田 「黙れ」
お秀 「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんはねえさんに自由にされています。
お父さんや、お母さんや、私などよりもねえさんを大事にしています」
津田 「妹より妻(さい)を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
お秀 「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。
ねえさんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
津田 「何だ」
お秀 「それだから兄さんはねえさんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」
●お秀がこう云いかけた時、病室の襖(ふすま)がすうと開いた。
そうして蒼白(あおしろ)い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
●彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。
医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静(かんせい)なドアを開けて内へ入る事ができたのである。
●実際彼女は三四日前に来た時のように、編上(あみあげ)だの畳(たたみ)つきだのという雑然たる穿物(はきもの)を、一足も沓脱(くつぬぎ)の上に見出ださなかった。
患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい周囲は寂寞(ひっそり)していた。
●彼女はその森(しん)とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。
値段から云っても看護婦などの穿(は)きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍(おど)らせた。
下駄はまさしく若い婦人のものであった。
小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。
彼女は猛烈にそれを見た。
●右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。
そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何(すいか)でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。
彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。
それからわざと取次を断って、ひとりで階子段(はしごだん)の下まで来た。そうして上を見上げた。
●上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀(よど)みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣(おもむき)を異(こと)にしていた。
そこには強い感情があった。興奮があった。しかもそれを抑えつけようとする努力の痕(あと)がありありと聞こえた。
他聞(たぶん)を憚(はば)かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。
下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
●津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上ってすぐ取(とっ)つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。
したがってお延の聴こうとする談話は、聴くに都合のよくない見当、すなわち彼女の後の方から洩れて来るのであった。
●彼女はそっと階子段を上(のぼ)った。柔婉(しなやか)な体格(からだ)をもった彼女の足音は猫のように静かであった。
そうして猫と同じような成功をもって酬(むく)いられた。
●上(あが)り口の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄(てすり)が拵(こしら)えてあった。
お延はそれによって、津田の様子を窺(うかが)った。
するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳にはいった。
ことにねえさんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。
みごとに予期の外れた彼女は、またはっと思わせられた。
硬い緊張が弛(ゆる)む暇(いとま)なく再び彼女を襲って来た。
彼女は津田に向ってお秀の口からなげつけられるねえさんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。
彼女は耳を澄ました。
●二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩(けんか)をしていた。
その喧嘩の渦中(かちゅう)には、知らない間(ま)に、自分が引き込まれていた。
あるいは自分がこの喧嘩の主な原因かも分らなかった。
●しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。
それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰(あられ)のように忙がしかった。
後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味している閑(ひま)などはとうていなかった。
「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立(たたず)んでいる彼女の耳朶(みみたぶ)を叩(たた)きに来るだけであった。
●彼女は事件が明確になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。
するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんはねえさんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震わせた。
際立(きわだ)って明暸に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。
同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。
後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。
お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。
しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。
さっきから一言葉(ひとことば)ごとに一調子(ひとちょうし)ずつ高まって来た二人のやり取りは、ここで絶頂に達したものとみなすよりほかに途(みち)はなかった。
もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もししいて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。
したがってお延は不体裁(ふていさい)を防ぐ緩和剤として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
●彼女は兄妹(きょうだい)の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。
そこへ顔を出すには、出すだけの手際(てぎわ)が要(い)った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。
彼女は際(きわ)どい刹那(せつな)に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖(ふすま)を開けた。
●二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、けっして平和の象徴(シンボル)ではなかった。
不自然に抑(おさ)えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄(ものすご)い或物が潜んでいた。
●二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。
南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。
その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。
一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵(あんど)であった。
困ったという心持と、助かったという心持が、包みかくす余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。
そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。
彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支(さしつか)えないという証左(しょうさ)を、永く心の中(うち)に掴(つか)んだ。
しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下(こっか)の目的としなければならなかった。
彼女は蒼白(あおしろ)い頬(ほお)に無理な微笑を湛(たた)えて津田を見た。
そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作(しょさ)だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。
薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上(のぼ)った。
津田 「おや」
お秀 「こんちは」
●軽い挨拶(あいさつ)が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。
二人とも手持無沙汰(てもちぶさた)に圧迫され始めなければならなかった。
滅多(めった)な事の云えないお延は、脇(わき)に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本(こっけいぼん)を出して津田に渡した。
その指の先には、お秀が始終(しじゅう)腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
●津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさらページを翻(ひるが)えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。
彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。
彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言(ふたことみこと)ほど口を利(き)いた。
それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉(のど)から圧(お)し出したようなものであった。
●お延はまた懐中(ふところ)から一通の手紙を出した。
お延 「今、来(き)がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
●お延の言葉は几帳面(きちょうめん)に改たまっていた。
津田と差向いの時に比べると、まるで別人(べつじん)のように礼儀正しかった。
彼女はその形式的なよそよそしいところを暗(あん)に嫌(きら)っていた。
けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣(づか)いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
●手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。
これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
●津田は封筒を切る前に彼女に云った。
津田 「お延、駄目(だめ)だとさ」
お延 「そう、何が」
津田 「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
●津田の云い方は珍らしく真摯(しんし)の気に充ちていた。
お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平(ひら)たい旦那様になっていた。
しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。
衒(てら)い気(け)のないその態度がお延には嬉(うれ)しかった。
彼女は慰さめるような温味(あたたかみ)のある調子で答えた。
言葉遣いさえ吾知らず、普段の自分に戻ってしまった。
お延 「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
●津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。
その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。
それでも女二人は滑稽本(こっけいぼん)の場合のように口を利(き)き合わなかった。
ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。
だから津田がそれを読みおわって、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑(の)み込めていた。
それでもお秀はわざと訊(き)いた。
お秀 「何と書いてありますか、兄さん」
●気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
お秀 「あたしの云った通りでしょう」
●手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。
しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。
それでなくってもさっきからの行(いき)がかり上(じょう)、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹(ごうはら)であった。
●お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中(うち)で再度の衝突を惧(おそ)れた。
と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。
自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。
彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。
それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸に抑(おさ)えれば、苦(く)もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。
しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。
彼は容易に怒(おこ)らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。
もっと、厳密に云えば、彼女が部屋に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。
とにかく彼女は退(ひ)きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。
彼女は喧嘩(けんか)の相手を自分に引き受けようとした。
お延 「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信(たより)があったんですか」
お秀 「いいえ母から」
お延 「そう、やっぱりこの事について」
お秀 「ええ」
●お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
お延 「京都でもいろいろお物費(ものいり)が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」
●お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。
そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
お秀 「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。
そのくらいの工面(くめん)はどうにでもできるぐらいに考えて」
●お延は微笑した。
お延 「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
●こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。
しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。
彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
津田 「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。
垣根を繕(つく)ろったの、家賃が滞(とどこお)ったのって、そんな費用は元来、些細(ささい)なものじゃないか」
お延 「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家(うち)を一軒持って見ると」
津田 「我々だって一軒持ってるじゃないか」
●お延は彼女に特有な微笑(びしょう)を今度はお秀の方に見せた。
お秀も同程度の愛嬌(あいきょう)を惜まずに答えた。
お秀 「兄さんはその底に何か魂胆(こんたん)があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
お延 「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。
お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
お秀 「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
お延 「ほかに?」
●お延は意外な顔をした。
お秀 「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
●お延は再び夫の方に向った。
お延 「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
津田 「お秀がそう云うんだから、お秀に訊(き)いて御覧よ」
●お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
お秀 「兄さんはあたし達が陰で、京都を突っついたと思ってるんですよ」
お延 「だって――」
●お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。
お秀はすぐその虚(きょ)を充(み)たした。
お秀 「それでさっきから大変 御機嫌が悪いのよ。
もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩(けんか)になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交(ためいきまじ)りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
お延 「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。
あなただってまさかそんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
津田 「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
お延 「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
津田 「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
お延 「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
津田 「知らないよ」
●津田は蒼蠅(うるさ)そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。
どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉(まゆ)の間に現われた。
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。
嫂(あによめ)に対して何とか説明しなければならない位置に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎(にく)んだ。
彼女から見たその時のお延ほど、空々(そらぞら)しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええうちの人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
お延 「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
津田 「いったい何が強情なんだ」
お延 「そりゃあたしにもよく解(わか)らないけれども」
津田 「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
お延 「そうね」
津田 「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
お延 「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。
またおっしゃったところで効目(ききめ)がなければ仕方がありませんからね」
津田 「じゃどこが強情なんだ」
お延 「どこがってお聴きになっても駄目(だめ)よ。あたしにもよく解らないんですから。
だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
津田 「馬鹿」
●馬鹿と云われたお延はかえって心持ちよさそうに微笑(びしょう)した。お秀はたまらなくなった。
お秀 「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直(すなお)にお取りにならないんです」
津田 「素直にも義剛(ぎごわ)にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
お秀 「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
津田 「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
お秀 「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭(いや)ですもの」
津田 「じゃどうすればいいんだ」
お秀 「解(わか)ってるじゃありませんか」
●三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
津田 「お延お前お秀に詫(あや)まったらどうだ」
●お延は呆(あき)れたように夫を見た。
お延 「なんで」
津田 「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡(りょうけん)では」
お延 「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
●お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後(あと)を遮(さえぎ)った。
お秀 「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。
あたしがいつ嫂(ねえ)さんに詫まって貰(もら)いたいと云いました。
そんな言がかりを捏造(ねつぞう)されては、あたしが嫂さんに対して面目(めんぼく)なくなるだけじゃありませんか」
●沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利(き)かなかった。お延には利く必要がなかった。
お秀は利(き)く準備をした。
お秀 「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
●お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
津田 「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
お秀 「あたしにはどっちだって同なじ事です」
津田 「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
お秀 「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突っついた結果、兄さんや嫂(ねえ)さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛(つら)いんです。
だからその額(がく)だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。
実は昨日(きのう)嫂さんから電話がかかった時、すぐ来(き)ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅(うち)に用があったし、午(ひる)からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損(きそこ)なっちまったんです。
元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
●お延はなお黙っている津田の顔を覗(のぞ)き込んだ。
お延 「あなた何とかおっしゃいよ」
津田 「何て」
お延 「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
津田 「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭(いや)だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走(かんばし)った声で弁解した。
●お延は元通りの穏やかな調子を崩(くず)さなかった。
お延 「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。
もしお金を拝借するのがお厭(いや)なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
●お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
●三人は妙な羽目に陥(おちい)った。
行(いき)がかり上(じょう)一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。
席を外(はず)す事は無論できなくなった。
彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
●しかも傍(はた)から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。
遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。
彼らは他(ひと)から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。
けれども彼らは争わなければならなかった。
彼らの背後(せなか)に背負(しょ)っている因縁は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操(あやつ)った。
●しまいに津田とお秀の間に以下のような問答が起った。
お秀 「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
津田 「置いて行きたければ置いといでよ」
お秀 「だから取るようにして取って下さいな」
津田 「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊(たんぱく)に云っちまったらいいじゃないか」
お秀 「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。
ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。
つまり兄妹(きょうだい)らしくして下されば、それでいいというだけです。
それからお父さんにすまなかったと本気に一口(ひとくち)おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
津田 「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。
しかも一口や二口じゃないやね」
お秀 「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫(わび)じゃありません。心からの後悔です」
●津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
津田 「僕の詫様(わびよう)が空々(そらぞら)しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前(いちにんまえ)の男だよ。
そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
お秀 「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
津田 「欲しくないとは云わないさ」
お秀 「それでお父さんに謝罪(あやま)ったんでしょう」
津田 「でなければ何も詫(あやま)る必要はないじゃないか」
お秀 「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
●津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗(の)しかかって行った。
お秀 「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
津田 「じゃお止(よ)しよ。何も無理に貰(もら)おうとは云わないんだから」
お秀 「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
津田 「いつ」
お秀 「さっきからそう云っていらっしゃるんです」
津田 「言がかりを云うな、馬鹿」
お秀 「言がかりじゃありません。さっきから腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。
兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
●津田は一種、嶮(けわ)しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪(ぞうお)が輝やいた。
けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。
そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。
彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
津田 「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。
兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用(いりよう)だ。
兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。
兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
●お秀の手先が怒りで顫(ふる)えた。両方の頬(ほお)に血が差した。
その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。
色が白いのでそれが一層、鮮(あざ)やかであった。
しかし彼女の言葉遣(づか)いだけはそれほど変らなかった。
怒りの中(うち)に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
お秀 「嫂(ねえ)さんどうしましょう。
せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
お延 「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
お秀 「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
お延 「ええうちの人には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
お秀 「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別(べつ)っこなのね」
お延 「それでいて、ちっとも別っこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
お秀 「だって――」
●お延は皆まで云わせなかった。
お延 「良人(うち)に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵(こしら)えるだけなのよ」
●彼女はこう云いながら、昨日(きのう)岡本の叔父(おじ)に貰って来た小切手を帯の間から出した。
●彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。
前後の行(ゆき)がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。
彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれればいいがと心の中(うち)で祈ったのである。
会心の微笑を洩(も)らしながら首肯(うな)ずいて、それを鷹揚(おうよう)に枕元へ放(ほう)り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所(でどころ)について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
●不幸にして津田にはお延の所作(しょさ)も小切手もあまりに突然過ぎた。
その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣(おもむき)を異(こと)にしていた。
彼は不思議そうに小切手を眺めた。 それからゆっくり訊いた。
津田 「こりゃいったいどうしたんだい」
●この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨(うら)めしく摧(くじ)いた。
彼女の予期は外(はず)れた。
お延 「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
●こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。
彼女は津田が真面目(まじめ)くさってその後を訊く事を非常に恐れた。
それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露(ばくろ)するに過ぎなかった。
お延 「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解(わか)る事なんだから」
●これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
お延 「よし解らなくったって構わないじゃないの。
たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
●津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。
彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。
使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑(けいべつ)する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。
それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
●彼女は物足らなかった。
たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲(りゅういん)の下(さが)るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
●さっきから二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。
そうして懐(ふところ)から綺麗な女持の紙入を出した。
お秀 「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
●彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
お秀 「こうしておけばそれでいいでしょう」
●津田に話しかけたお秀は暗(あん)にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
お延 「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。
こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
お秀 「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。
こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
●二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。
津田はまた辛防強(しんぼうづよ)くいつまでもそれを聴(き)いていた。
しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
お秀 「兄さん取っといて下さい」
お延 「あなたいただいてもよくって」
●津田はにやにやと笑った。
津田 「お秀妙だね。さっきはあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。
いったいどっちが本当なんだい」
●お秀は屹(きっ)となった。
お秀 「どっちも本当です」
●この答は津田に突然であった。
そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒(きほう)を挫(くじ)いた。
お延にはなおさらであった。
彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔はさっきと同じように火熱(ほて)っていた。
けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。
口惜(くや)しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎(かげろ)った。
しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴(き)くよりほかに途(みち)がなかった。
二人は惹(ひ)きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。
彼らは遮(さえ)ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。
彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝(つ)いて出た。
お秀 「実はさっきから云おうか止(よ)そうかと思って、考えていたんですけれども、
そんな風に兄さんから冷笑(ひや)かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭(いや)になります。
だから云うだけの事はここで云ってしまいます。
けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。
それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、
というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、
私の心持があなた方に通じなくなるという訳合(わけあい)からです」
●お秀の説明はこういう言葉で始まった。
それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。
彼らは黙ってその後(あと)を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
お秀 「少しや真面目(まじめ)に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
●こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
お秀 「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。
何しろ嫂(ねえ)さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。
いつもの兄妹喧嘩(きょうだいげんか)になったら、その時に止めていただけばそれまでですから」
●お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
お秀 「私はいつかっから、兄さんに云おう云おうと思っていたんです。
嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日まで云わずにいました。
それを今改めてあなた方のお揃(そろ)いになったところで申してしまうのです。
それはほかでもありません。よござんすか、
あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何(なん)にも考えていらっしゃらない方(かた)だという事だけなんです。
自分達さえよければ、いくら他(ひと)が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
●この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。
彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。
しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。
彼女はただ呆(あき)れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
お秀 「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。
あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
●ここまで来たお秀は急に後を継(つ)ぎ足(た)した。
二人の中(うち)の一人が自分を遮(さえ)ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
お秀 「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。
それをどうして貰(もら)いたいというのではありません。
もうその時機は過ぎました。有体(ありてい)にいうと、その時機は今日過ぎたのです。
実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。
私は何事も因縁(いんねん)ずくと諦(あき)らめるよりほかに仕方がありません。
しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
●お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。
二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然(はっきり)した観念がなかった。
したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
●「結果は簡単です」とお秀が云った。
お秀 「結果は一口で云えるほど簡単です。 しかし多分あなた方には解らないでしょう。
あなた方はけっして他(ひと)の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。
こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。
自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。
つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。
あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。
どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。
しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。
人間らしく嬉(うれ)しがる能力を天(てん)から奪われたと同様に見えるのです。
兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。
しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。
私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。
だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。
嫂(ねえ)さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。
さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。
つまりこのお金を断ることによって、併(あわ)せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。
そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。
嫂さんも逆です。
嫂さんは妹の実意を素直(すなお)に受けるために感じられるいい心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方(かた)なのです」
●お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。
彼女を遮(さえ)ぎろうとするお延の出鼻を抑(おさ)えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。
お秀 「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直(じき)です。そんなに長くかかりゃしません」
●お秀の断り方は妙に落ちついていた。さっき津田と衝突した時に比べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂(げっこう)から沈静の方へ推(お)し移って来た。
それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。
お秀 「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。
そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。
考えて下さい。嫂(ねえ)さんも考えて下さい」
●考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁(きべん)としか受取れなかった。
ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目(まじめ)であった。
お秀 「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。
たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。
しかし私から云えば金額は問題じゃありません。
少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。
私は今日(きょう)ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。
ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。
私が妹として兄さんに対する執着を永久に放り出さなければならなくなったのはその時です。
――嫂さん、後生(ごしょう)ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
●お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
お秀 「あなた方の態度はよく私に解(わか)りました。
あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何(なん)にも伺いません。
しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
●お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。
しかし初手(しょて)から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。
お秀 「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅(うち)から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
●お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
お秀 「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。
そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途(みち)はないのだという事もいっしょに説明します。
兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんはさっきそういう問を私におかけになりました。
私はどっちも同(おんな)じだと云いました。
兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。
私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。
彼の頭に妹のいう意味は判然(はっきり)入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。
彼はさっきから蒼蠅(うる)さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。
彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。
愛嬌(あいきょう)もなければ気高(けだか)くもなかった。ただ厄介(やっかい)なだけであった。
津田 「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
●すでに諦(あき)らめていたお秀は、別に恨(うら)めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
お秀 「これはうちの人が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。
うちの人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、うちの人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。
私もそんな事でうちの人を煩(わずら)わせるのは厭(いや)です。
だからお断りをしておきますが、これはうちの人とは関係のないお金です。私のです。
だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。
私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。
今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持がよくなっているのです。
問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。
単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
●お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。
その顔には何(なん)という合図(あいず)の表情も見えなかった。
彼女は仕方なしにお秀を送って階子段(はしごだん)を降りた。
二人は玄関先で尋常の挨拶を交(と)り換(かわ)せて別れた。
●単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。
けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。
自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面(シーン)でその相手になろうとは思わなかった。
相手になった後(あと)でも、それが偶然の廻(まわ)り合(あわ)せのように解釈されるだけであった。
その必然性を認めるために、過去の因果(いんが)を迹付(あとづ)けて見ようという気さえ起らなかった。
この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。
すべてお秀が背負(しょ)って立たなければならないという意味であった。
したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚(や)ましい点は容易に見出だされなかった。
●この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。
その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持ち来(きた)されそうに見える葛藤(かっとう)さえ織り込まれていた。
彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。
ただしそれには、津田が飽(あ)くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。
そこへ行くと彼女には七分通(しちぶどお)りの安心と、三分方(さんぶがた)の不安があった。
その三分方の不安を、今日(きょう)の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。
少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実(じつ)を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
●これはお延自身に解っている側(がわ)の消息中(しょうそくちゅう)で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らないまに、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。
無論それは一時的のものに過ぎなかった。
けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑(さいぎ)の眼(め)から、彼女は運よく免(まぬ)かれたのである。
というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。
だからこの変化の強く起った際(きわ)どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡(ひろ)げる役を勤めたお延は、吾知(われし)らず儲(もう)けものをしたのと同じ事になったのである。
●彼女はなぜ岡本がしいて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅(うち)へ昨日(きのう)行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数(てかず)を省(はぶ)く事ができた。
むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。
お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
●二人はそれを二人の顔つきから知った。
そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段(はしごだん)を上(あが)って、また部屋の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那(せつな)であった。
お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何(なん)にもなかった。
ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。
彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴(シムボル)であるかをほとんど知らなかった。
ただ一種の恰好(かっこう)をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉(うれ)しい記念であった。
彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
●その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露(あら)わすまでに口を開(あ)けて、一度に声を出して笑い合った。
お延 「驚ろいた」
●お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
津田 「だから彼奴(あいつ)に電話なんかかけるなって云うんだ」
●二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
お延 「秀子さんは、まさか基督教(キリストきょう)じゃないでしょうね」
津田 「なぜ」
お延 「なぜでも――」
津田 「金を置いて行ったからかい」
お延 「そればかりじゃないのよ」
津田 「真面目(まじめ)くさった説法をするからかい」
お延 「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
津田 「あいつは理窟屋(りくつや)だよ。つまりああ捏(こ)ね返(かえ)さなければ気がすまない女なんだ」
お延 「だってあたし始めてよ」
津田 「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのがあいつの癖なんだ。そうして生(なま)じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
お延 「どうして」
津田 「どうしてって、藤井の叔父の傍(そば)にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終(しじゅう)見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
●津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。
●久しぶりに夫と直(じか)に向き合ったような気のしたお延は嬉(うれ)しかった。
二人の間にいつの間(ま)にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々(はればれ)しい心持になった。
●彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。 ――これが彼女の決心であった。
その決心は多大の努力を彼女に促(うな)がした。 彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。
彼女はついに酬(むく)いられた。
少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。
彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻(はたん)は、取(とり)も直(なお)さず彼女にとって復活の曙光(しょこう)であった。
彼女は遠い地平線の上に、薔薇色(ばらいろ)の空を、薄明るく眺める事ができた。
そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。
小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。
お秀の口から迸(ほと)ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍(にぶ)い瞬(まばた)きを見せた。
しかしそれらはもう遠い距離に退(しりぞ)いた。少くともさほど苦(く)にならなかった。
耳に入れた刹那(せつな)に起った昂奮(こうふん)の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
●夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。
したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。
相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊(き)かれたら、お延は何と答えただろう。
それは朧気(おぼろげ)に薄墨(うすずみ)で描かれた相手であった。
そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。
お延はそれ以外に何(なん)にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。
お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾(はらん)が、ああまで際(きわ)どくならずにすんだなら、
お延は行(いき)がかり上(じょう)、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探(さぐ)らなければならない順序だったのである。
●お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。
気がかりを後へ繰り越すのが辛(つら)くて耐(たま)らないとはけっして考えなかった。
それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩(たた)き込んでおく方が得策だと思案した。
●こう決心するや否や彼女は嘘(うそ)を吐(つ)いた。それは些細(ささい)の嘘であった。
けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘(わた)って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
●その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。
そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。
しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
津田 「お延ありがとう。お蔭(かげ)で助かったよ」
●お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随(つ)いて、すぐ彼女の口を滑(すべ)って出てしまった。
お延 「昨日(きのう)岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰(もら)うためなのよ」
●津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然、跳(は)ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。
一週間と経(た)たないうちに、どこからそんな好意が急に湧(わ)いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。
それをお延はこう説明した。
お延 「そりゃ厭(いや)なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。
けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
津田 「叔父さんに訳を話したのかい」
お延 「ええ、そりゃずいぶん辛(つら)かったの」
●お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵(こしら)えて貰(もら)っていた。
お延 「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日(きょう)までして来たんですもの。
だからなおきまりが悪いわ」
●自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑(の)み込めた。
津田 「よくできたね」
お延 「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪(にく)いだけよ」
津田 「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃(そろ)っているからな」
●津田はかえって自尊心を傷(きずつ)けられたような顔つきをした。
お延はそれを取(と)り繕(つく)ろうように云った。
お延 「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。
叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。
お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間(こないだ)からそう云ってたのよ。
だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
●津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
●二人はいつになく融(と)け合った。
●今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知らず弛(ゆる)んだ。
自分の父が鄙吝(ひりん)(ケチ)らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念(けねん)、
あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊(みくび)りはしまいかという恐れ、
二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧(あいまい)な幕を張り通そうとした警戒が解けた。
そうして彼はそれに気づかずにいた。
努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。
用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。
お延にはそれが嬉(うれ)しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
●同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣(おもむき)が出た。
余事はしばらく問題外に措(お)くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。
そうしてそれはこう云う因果(いんが)から来た。
普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥(はる)か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴(ふいちょう)した。
それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。
彼のお延に匂(にお)わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那(わかだんな)であった。
必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。
たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂(うれい)はけっしてなかった。
お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責(げんせき)を彼女に対して背負(しょ)って立っていたのと同じ事であった。
利巧(りこう)な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優(まさ)るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。
極端に云えば、黄金(おうごん)の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕(とりつくろ)わなければならないという不安があった。
ことに彼はこの点においてお延から軽蔑(けいべつ)されるのを深く恐れた。
堀に依頼して毎月(まいげつ)父から助(す)けて貰(もら)うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。
それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。
少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。
眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。
必然の勢い彼女はそこに不満を抱(いだ)かざるを得なかった。
しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊(たんぱく)でないのを恨(うら)んだ。
彼女はただ水臭いと思った。
なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝(さら)け出(だ)してくれないのかを苦(く)にした。
しまいには、それをあえてしないような隔(へだた)りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。
するとその態度がまた木精(こだま)のように津田の胸に反響した。
二人はどこまで行っても、直(じか)に向き合う訳に行かなかった。
しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎(つつ)しんでいた。
ところがお秀との悶着(もんちゃく)が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲(たた)き破った。
しかもお延自身、少しもそこに気がつかなかった。
彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。
だから津田にもまるで別人のように快よく見えた。
●二人はこういう風で、いつになく融(と)け合った。
すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。
二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。
二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
●二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。
きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。
そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。
――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心(かんじん)の善後策になった。
しかしそこへ来ると意見が区々(まちまち)で、容易に纏(まと)まらなかった。
●お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。
しかし津田は首を掉(ふ)った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。
次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。
けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。
彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。
これには津田も大した異存はなかった。
たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。
しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
●しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。
彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、
――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具(そなわ)っていた。
けれどもそこにはまた一種の困難があった。
それほど親しく近づき悪(にく)い吉川に口を利(き)いて貰(もら)おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説(くど)き落さなければならなかった。
ところがその細君はお延にとって大の苦手(にがて)であった。
お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。
細君と仲よしの津田はまた充分、成効(せいこう)の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。
しまいにお延はとうとう我(が)を折った。
●事件後の二人は打ち解けてこんな相談をしたあとで心持よく別れた。
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