夏目漱石 明暗 45 - 90  

2019.10.9

  

四十五

 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後らせていた。

彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を言ったなり、すぐ俥に乗った。

門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。

 小路を出た護謨輪(ごむわ)(鉄の車輪をゴムで包んだ人力車)は電車通りばかり走った。

何の意味なしに、ただ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方(かけかた)が、お延に感染した。

ふっくらした厚い席の上で、彼女の体が浮つきながら早く揺れると共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。

それは自分の左右前後にごたごたと出来事の起こる人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。

 車上の彼女は宅(うち)の事を考える暇がなかった。

機嫌よく病院の二階へ寝かして来た津田のイメージが、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。

ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。

芝居その物に大した嗜好を始めからもっていない彼女は、時間が後れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。

こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。

 俥は茶屋の前でとまった。

挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯(ちょうちん)だの暖簾(のれん)だの、紅白の造花などがちらちらした。

彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。

それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と言った時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。

好んでこういう場所へ出入したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。

だからまた永久に珍らしい感じであるとも言えた。

彼女は暗闇を通り抜けて、急に明るみへ出た人のように眼を覚ました。

そうしてこの雰囲気の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙動ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。

 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。

それでも姉娘の継子は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣うように、後を向いて筋交(か)いに体を延ばしながらお延に訊いた。

「見えて? 少しここと換ってあげましょうか」

「ありがとう。ここでたくさん」

 お延は首を振って見せた。

 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子は左利きなので、左の手に軽い小さな象牙製の双眼鏡を持ったまま、その肱(ひじ)を、赤い布(きれ)でつつんだ手すりの上に載せながら、後をふり返った。

「遅かったのね。あたし宅(うち)の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」

 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶かたがたお延に何か言うほどの智慧をもたなかった。

「御用があったの?」

「ええ」

 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。

それは先刻から姉妹の母親が傍目もふらず熱心に見つめている方角であった。

彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木の鳴るまでついに一言も口を利かなかった。

四十六

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻、継(つぎ)と話してたの」

 幕が引かれてから、始めてうちくつろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。

「そら御覧なさい、あたしの言った通りじゃなくって」

 誇り顔に母の方を見てこう言った継子はすぐお延に向ってその後を言い足した。

「あたしお母さまと賭をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。

お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違いないって受け合ったの」

「そう。また御神籤(おみくじ)を引いて」

 継子は長さ75cm幅20cmぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。

黒塗の上へ篆書(てんしょ)の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙を平たく削った精巧の番号札が数通り百本納められていた。

彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と言いながら、小楊枝入れを取り扱うような手つきで、短冊形の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入りの折手本を繰りひろげて見た。

そうしてそこに書いてある蠅(はえ)の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗(さらさ)の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳(かざ)したりした。

お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的につけてくれる無邪気な装飾品であった。

彼女は時として袋入りのままそれを机の上から取って帯の間に挟んで外出する事さえあった。

「今日も持って来たの?」

 お延はからかい半分彼女に訊いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。

母が傍から彼女に代って返事をするごとくに言った。

「今日の予言はお神籤じゃないのよ。お神籤よりもっと偉い予言なの」

「そう」

 お延は後が聞きたそうにして、母子(おやこ)を見比べた。

「継(つぎ)はね……」と母が言いかけたのを、娘はすぐおっかぶせるようにとめた。

「よしてちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで言っちゃ悪いわよ」

 今まで黙って三人の会話を聴いていた妹娘の百合子が、くすくす笑い出した。

「あたし言ってあげてもいいわ」

「およしなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノをさらって上げないから」

 母は隣りにいる人の注意を惹かないように、小さな声を出して笑った。

お延もおかしかった。同時になお訳が訊きたかった。

「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」

 百合子はわざとあごを前へ突き出すようにして姉を見た。

心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。

「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」

 こう言いながら立つと、継子は後の戸を開けてすぐ廊下へ出た。

「お姉さま怒ったのね」

「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」

「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事言ったって」

「だから話してちょうだいよ」

 歳の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨く利用しようと試みた。

けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩していたので、お延の勧奨は何の効果もなかった。

母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負わなければならなかった。

「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって言っただけなんだよ」

「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼もしく見えるの。ありがたいわね。お礼を言わなくっちゃならないわ」

「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって言ったんでね、それをお前の前で言われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」

「まあ」

 お延は弱い感投詞をむしろ淋しそうに投げた。

四十七

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。

自分の朝夕尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。

彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。

その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から言えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。

「良人(おっと)というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」

 これがお延のとうから叔母にぶつかって、質(ただ)して見たい問であった。

不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。

見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。

ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、ていよく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。

だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も言う気にならなかった。

 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届からでも出たように、傍から解釈されてはならないと日頃から掛念していた。

すべての噂のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。

「世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人(おっと)を綾(あや)なして行けないのは、畢竟知恵がないからだ」

 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう言われるのが、何よりの苦痛であった。

女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷つけたのである。

時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。

意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼をそらせた。

 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。

気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。

下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。

坐ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩したりして、片時も休まなかった。

無数の黒い頭が渦のように見えた。彼らの或者の派出な扮装(つくり)が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。

 土間から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向う側を吟味し始めた。

するとちょうどその時後をふり向いた百合子が不意に言った。

「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」

 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当へつけて、そこに容易く吉川夫人らしい人の姿を発見した。

「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」

「見つけやしないのよ。先刻から知ってるのよ」

「叔母さんや継子さんも知ってるの」

「ええ皆な知ってるのよ」

 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。

「あたし厭だわ。あんなにして見られちゃ」

 お延は隠れるように身を縮めた。それでも向側の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。

「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」

 お延はすぐ継子の後を追っかけて廊下へ出た。

四十八

 そこから見渡した外の光景も場所柄だけに賑わっていた。

裏へ貫(ぬき)を打って取り除(はず)しのできるように拵(こし)らえた透(すか)しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。

廊下の端に立って、半ば柱に身をもたせたお延が、継子の姿を見出だすまでには多少の時間がかかった。

それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。

そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指す人のいる方へ渡った。

「何を買ってるの」

 後から覗き込むようにして訊いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦れ擦れになって、微笑み合った。

「今困ってるところなのよ。一さんが何かお土産を買ってくれって言うから、見ているんだけれども、あいにく何にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」

 勘違いをして、男の子の玩具を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止すには止されず、弱っているところであった。

役者に縁故のある紋などを着けた花簪(かんざし)だの、紙入だの、手拭だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利きいてやった。

「駄目よ、あの子は、ピストルとか木剣とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。

そんな物こんな粋な所にあろうはずがないわ」

 売店の男は笑い出した。お延はそれを機(しお)に年下の女の手を取った。

「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後ほど」

 こう言ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端まで引張るようにして連れて来た。

そこでとまった二人は、また一本の軒柱(のきばしら)を盾に立話をした。

「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」

「来るのよ、今に」

 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件であった。

「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧されてへしゃげちまうわ」

「百合子さんと入れ代るのよ」

「どうして」

「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」

「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」

「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」

「吉川さんとも前から約束があったの?」

「ええ」

 継子はその後を言わなかった。

岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊かなかった。

二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。

「こうやってまともに向けるんだから、かなわないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、家のお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」

 二人が声を出して笑い合っている傍に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。

無地の羽織に友縫(ともぬい)の紋を付けて、セルの行灯袴(あんどんばかま)を穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶でもして通り過ぎるように、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。

継子はあかくなった。

「もう入いりましょうよ」

 彼女はすぐお延を促がして内へ入った。 

四十九

 場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。

土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。

できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇(ふこ)の活動さえ至る所に出現した。

説明 浮誇の活動=浮ついて大袈裟な振る舞い

そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。

眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。

 比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆(そそ)るべく、折々場内へ響き渡った。

合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、かき廻された注意を一点にまとめようとする警柝(けいたく)のように聞こえた。

 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も言わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。

彼らはおだやかであった。彼らは楽しそうに見えた。

お互の吐く息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。

そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。

 席に戻った二人は愉快らしく周囲を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。

婦人の双眼鏡はもう彼らをねらっていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。

「あらいらっしゃらないわ」

「本当ね」

「あたし探してあげましょうか」

 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へあてがった。

「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」

 そう言いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。

綺麗な友染模様の背中が隠れるほど、帯を高く背負った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさをこらえるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹をたしなめた。

「百合子さん」

 妹は少しも応えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。

「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」

「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」

「でもいるわ」

 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。

「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」

 実を言うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌っているように思えた。

しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえあった。

自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。

先刻双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務をたやすく果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。

 叔母はすぐ返事をした。

「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」

「でも今いらっしゃらないから」

「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」

「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」

「叔母さんは――」

「いらっしゃらない?」

「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙むってその時にしようかと思ってるのよ」

「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの」

「みんなよ」

「あたしも?」

「ああ」

 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。

「そんならあたしもその時にするわ」

五十

 岡本の来たのはそれから間もなくであった。

茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。

そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立ち話しを、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。

そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。

こんな場所ではちょっと体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり後を向いた。

「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」

 一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている辺りへ遠慮して動かなかった。

毛織ものを肌へ着けた例(ためし)のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合いだと言った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。

そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。

荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。

彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。

然るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。

急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。

「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」

 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。

「今日はどうだったい。由雄さんが何とか言やしなかったかね。

おおかたぐずぐず言ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え? きっとそうだろう」

「不埒千万だなんて、そんな事言やしないわ」

「でも何か言われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい言われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」

 小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。

「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」

「あたし心配なんかしちゃいないわ」

「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」

「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって言うのに」

 お延は煩(うる)さそうに眉を動かした。面白半分からかって見た岡本は少し真面目になった。

「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。

それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」

 お延の眼は急に舞台を離れた。

「理由っていったい何」

「今ここじゃ話しにくいがね。いずれ後で話すよ」

 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように言った。

「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」

 先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。

「叔父さんといっしょに来たんだよ。クラブから」

 二人の会話はそこで途切れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。

しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。

男は叔母に何かささやいた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。

「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」

 叔父はすぐ返事を伝えさせた。

「承知しました」

 男はまた戸をそっと閉めて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。

五十一

 彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。

彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。

「いったいこれから何が始まるの」

「知らないわ」

 継子は下を向いて答えた。

「ただ御飯を食べるぎりなの」

「そうなんでしょう」

 訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。

継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何も承知していないのかも分らなかった。

あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。

 鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。

忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。

姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしくはにかんでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴(した)たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。

そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意(こころ)が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易(か)えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。

「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」

 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。

平生継子を目安におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑(にぎ)やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。

それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質のものであった。

そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。

彼女は心の中で継子に言った。

「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。

けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。

私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。

あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。

それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。

私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。

近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。

幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと言えば、言われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。

あなたは父母の膝元(ひざもと)を離れると共に、すぐ天真の姿を傷つけられます。あなたは私よりも可哀相です」

 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。

「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」

 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。

けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。

彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。

彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。

平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。

五十二

 叔母の言った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標(まと)にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立ち話をしていた。

大きな叔父の後姿よりも、向う側にはみ出している大々(だいだい)した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。

それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いをみなぎらしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。

しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。

 夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。

それが間違もなく、先刻き廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。

 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。

紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人であるかを知らずにしまった。

 席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。

叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。

余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。

隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。

「どうですかけたら」

 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。

「さあどうぞ」と気軽に言った夫人は正面から彼女を見た。

「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」

 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙(まず)い感じが胸のどこかにあった。

自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。

その意志は自分と正反対な継子のうぶらしい様子を、テーブル越しに眺めた時、ますます強固にされた。

 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透(みすか)された。

気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。

社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。

 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。

しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。

二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑(ちぎ)しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。

「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」

 ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに言った。

「ええ何でも致しましょう」

「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」

 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。

「またドイツを逃げ出した話でもするがいい」

 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。

「ドイツを逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他人よりも自分の方が陳腐になってしまいました」

「あなたのような落ちついた方でも、少しはあわてたでしょうね」

「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」

「でも殺されるとは思わなかったでしょう」

「さよう」

 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。

「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」

「なぜです。人間がずうずうしいからですか」

「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」

 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。

五十三

 三好を中心にした洋行談がひとしきり弾んだ。

合間合間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。

おだやかというよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。

 彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。

自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。

卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味(くさみ)なしに、着々成功して行く段取りを、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。

しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。

では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。

一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。

「こっちの気のせいかしらん」

 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。

「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」

 お延は不意を打たれてたじろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。

ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。

「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気がついていた。

またやり損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。

今日こそ夫人の機嫌を取り返してやろうという意気込が一挙に萎えた。

夫人は残酷に見えるほど早く調子を変えて、すぐ岡本に向った。

「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」

「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」

「一昔前って何年頃なの、いったい」

「さよう西暦……」

 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。

「普仏戦争時分?」 (普仏戦争は、プロイセンとフランスの間の戦争、1870-71年)

「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様を案内してロンドンを連れて歩いて上げた覚えがあるんだから」

「じゃパリで籠城した組じゃないのね」

「冗談じゃない」

 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。

自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。

「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」

「うん、あののろ臭いバスがまだ幅をきかしていた時代だよ」

 そののろ臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。

継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に言った。

「お互に年を取ったもんだね。

不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」

「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」

 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。

「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と言いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。

叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。

「今度はおじいさまおじいさまって言われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断はできません」

 継子が顔をあかくして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。

「でも岡本さんにゃ自分の歳を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。

あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」

「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」

 みんなが声を出して笑った。

五十四

 彼らほど多人数でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群を折々見た。

時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、コヒーも飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。

彼らは中途でナプキンを放り出す訳に行かなかった。またそんな忙(せわ)しない真似をする気もないらしかった。

芝居を観に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。

「もう始まったのかい」

 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう言って白服のボーイに訊いた。

ボーイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧に答えた。

「ただ今開きました」

「いいや開いたって。この際、眼よりも口の方が大事だ」

 叔父はすぐ皮付の鶏の腿(もも)を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着しないらしかった。

彼はすぐ叔父の後へついて、劇とは全く無関係な食物の挨拶をした。

「君は相変らず旨そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか」

 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。

「そうでしょうね、あんまり外聞の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」

「何が?」

 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍から口を出した。

「おおかた重過ぎてその外国人を潰したんでしょう」

「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、ロンドンの群衆の中で、大男の肩の上へ噛(かじ)りついていたんだ。行列を見るためにね」

 叔父はまだ笑いもしなかった。

「何を捏造する事やら。いったいそりゃいつの話だね」

「エドワード七世の戴冠式の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背が高過ぎるもんだから、苦し紛れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって言うじゃないか」

「馬鹿を言っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」

 叔父の弁解はむしろ真面目であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。

「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくらイギリス人が大きいたって、どうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。

――あの猿と来たらまたずいぶん矮小だからな」

 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑に落ちたらしい言葉遣いをして、なおその当人の猿という渾名(あざな)を、一座を賑わせる滑稽の余音のごとく繰り返した。

夫人は半ば好奇的で、半ば訓告的な態度を取った。

「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」

「なにお前の知らない人だ」

「奥さん心配なさらないでもようござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。

その代り向うじゃ私の事を豚々って言ってるから、同じ事です」

 こんな他愛もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相応の役割を取る事ができなかった。

自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経っても来なかった。

夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。

そうして特に自分の一人置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。

たとい一分間でもこの従妹を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹さえありありと見えた。

それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望のさざ波が立った。

「自分がもしあの従妹の立場にあったなら」

 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後から暗に人馴れない継子を憐れんだ。

最後には何という気の毒な女だろうという軽侮の念がいつもの通り起った。

五十五

 彼らが席を立ったのは、男達のくゆらし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜った頃であった。

その時誰かの口から出た「もう何時だろう」というきっかけが、偶然お延の位置に変化を与えた。

立ち上る前の一瞬間をとらえた夫人は突然お延に話しかけた。

「延子さん。津田さんはどうなすって」

 いきなりこう言っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分で言い足した。

「先刻から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」

 この言訳をお延は腹の中で嘘らしいと考えた。

それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に言わせると、もう少し深い根拠のある推定であった。

彼女は食堂へ入いって夫人に挨拶をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。

それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。

彼女はこの夫人を見るや否や、うやうやしく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と言った。

けれども夫人はその時その津田については一言も口を利かなかった。

自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。

そうして二三日前津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。

 お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。

嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。

でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振りを、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。

彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。

しかし単に夫を贔負(ひいき)にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚かられるのだろう。

お延は解らなかった。

彼女が会食中、当然他人に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸につかえていたからであった。

それをいよいよ席を立とうとする間際になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の言訳に対してのみ、嘘らしいという疑を抱くだけではすまなかった。

今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。

「ありがとうございます。お蔭さまで」

「もう手術をなすったの」

「ええ今日(こんち)」

「今日(きょう)? それであなたよくこんな所へ来られましたね」

「大した病気でもございませんものですから」

「でも寝ていらっしゃるんでしょう」

「寝てはおります」

 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。

他人に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。

「病院へ御入りになって」

「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空いておるので、五六日そこへおいていただく事にしております」

 夫人は医者の名前と住所とを訊いた。

見舞に行くつもりだとも何とも言わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。

 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。

「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。

休むのは五六日に限った事もないんだから、癒るまでよく養生するように、そう言って下さい」

 お延は礼を言った。

 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。

五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波乱も来なかった。

ただ褞袍(どてら)を着て横臥(おうが)した寝巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。

その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。

しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや勘違いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。

騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。

すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。

二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と言い渡した。

三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打ちをしたくなった。

 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に言わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験にほかならなかった。

彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。

そうしてこの急激な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。

今夜もし夫人と同じテーブルで晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。

しかし夫人のいかなる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとてもはっきりした返事を与えることができなかった。

彼女はただ不明暸な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。

材料に不足な懸念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。

彼女は総ての原因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。

 芝居がはねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。

しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。

帰りを急ぐごたごたした間際に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。

 茶屋は幸にして違っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。

襟に毛皮の付いた重そうな二重まわしを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。

「今日は家へ来て泊って行かないかね」

「え、ありがとう」

 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。

叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。

そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。

「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」

「泊っていけったって、あなた、宅(うち)にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」

「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」

 そんなら止すが好かろうと言った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。

「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」

「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至りだね」

「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」

「いや結構ですよ。御夫婦お揃いで、お堅くっていらっしゃるのは――」

「何よりもって恐悦至極」

 先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう言った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。

「何ですって」

 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口(かどぐち)の方へ歩いて行った。

みんなもその後に随いて表へ出た。

 車へ乗る時、叔父はお延に言った。

「お前宅(うち)へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にね。少し訊たい事があるんだから」

「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。

もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ、好くって」

「オー、ライ」

 四人の車はこの英語を合図に駆け出した。

五十七

 津田の家とほぼ同じ方角に当る岡本の住居は、少し道のりが遠いので、三人の後に随いたお延のゴム輪(人力車)は、小路へ曲る例の角まで一緒に来る事ができた。

そこで別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声をかけた。

けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。

しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。

今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の家の玄関を上った。

 下女は格子の音を聞いても出て来なかった。

茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえいつものように快い音を立てなかった。

今朝見たと何の変りもない部屋の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。

薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁し始めた。

その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた体を、長火鉢の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。

同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。

 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上にたわいなく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。

そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事をはっきりして立ち上った。

それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽させた。

 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。

こんな場合に自分ならという彼我の比較さえ胸に浮かばなかった。

今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼もしかった。

「早く玄関を締めてお寝。潜りの掛け金はあたしがかけて来たから」

 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢の前へ坐った。

彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。

そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。

しかし夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼(せま)ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりもなおはげしくつのって来た。

それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋しみに比べると、はるかに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。

「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」

 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう言った。

そうして明日は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。

しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食(くっ)ついていなかった。

二人の間に何だか挟まってしまった。

こっちで寄り添おうとすればするほど、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。

しかも夫は平気で澄ましていた。半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。

 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。

芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱かずにすんだろうにという気ばかり強くした。

 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。

昨夜書きかけた里へやる手紙の続きを書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、いつまで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。

それは彼女が常に両親に対して是非言いたい言葉であった。

しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。

自分の頭を纏める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。

着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。

長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

五十八

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時だか分らない朝の光で眼を覚ました。

雨戸の隙間から差し込んで来るその光は、明らかにいつもより寝過ごした事を彼女に物語っていた。

 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕の衣裳を見た。

上着と下着と長襦袢と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩れているので、そこには上下裏表の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊りがあるだけであった。

その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端を出した金糸入りの檜扇模様の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。

 彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆れた眼で眺めた。

これがかねてから、几帳面を女徳の一つと心がけて来た自分の所作かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。

津田に嫁いで以後、かつてこんなふしだらを夫に見せた覚えのない彼女は、その夫が今自分と同じ部屋の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。

 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。

もし夫が入院しないで、いつもの通り宅(うち)にいたならば、たといどんなに夜更しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった。

 それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕の不首尾を償(つぐな)うためか、自分の知らない間に起きてくれたお時の足音が、先刻から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。

 そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛んで来た。

彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支えなかろうと考え直すようになった。

彼女の関節(ふしぶし)が楽々しだした。

彼女はいつにないのんびりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。

これも畢竟夫が留守のお蔭だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。

そうして毎日夫と寝起きを共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。

しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒は無論長く続かなかった。

いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲(あざ)けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。

 彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗に片づけた。

津田がいないので、だいぶ省ける手数を利用して、下女も煩わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。

それから軽い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。

 彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に択ばれたものは、やはり津田であった。

しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。

ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外れなかった。

彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。

すると津田がなぜかと言って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。

こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌を悪くする男であった。

それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。

彼はお延に親切の仕損をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。

ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。

「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって言って下さい」

 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけかえて、今に行ってもいいかと聞き合せた。

そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口報告的に通じただけで、また家へ帰った。

五十九

 お時の御給仕で朝食を兼ねた昼の膳に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。

津田の不在から起るこの変化が、クイーンらしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女をとらえた。

体のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って言った。

「旦那様がいらっしゃらないと何だか変ね」

「へえ、御淋しゅうございます」

 お延はまだ言い足りなかった。

「こんな寝坊をしたのは始めてね」

「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜しゅうございましょう」

「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」

「誰がでございます」

「お前がさ」

「とんでもない」

 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応えた。彼女はすぐ黙ってしまった。

 三十分ほど経って、お時の沓脱ぎに揃えたよそゆきの下駄を穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧みた。

「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」

「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」

 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。

「あんなに遅くはならないつもりだがね」

 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。

「なるたけ早く帰って来て上げるよ」

 こう言い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。

 岡本の住居は藤井の家とほぼ同じ見当にあるので、途中までは例の川沿いの電車を利用する事ができた。

終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。

その通りは二三日前の晩、バーを出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来るもつれ合った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。

それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の家へ行くには是非共上らなければならない細長い坂へかかった。

すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。

「昨日は」

「どこへ行くの」

「お稽古」

 去年女学校を卒業したこの従妹は、暇に任せていろいろなものを習っていた。

ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。

「何のお稽古? トーダンス?」

 彼らはこんな楽屋落ちの冗談をいうほど親しい間柄であった。

しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心の当人には、いっこう諷刺としての音響を伝えずにすむらしかった。

「まさか」

 彼女はただこう言って機嫌よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。

けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。

「冷かすから厭よ」

「また何か始めたの」

「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」

 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の家では隠れない事実であった。

最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播したこの悪口は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。

「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」

 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とをつきまぜたその人に対するいつもの感じが起った。

六十

 岡本の屋敷へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出した。

羽織も着ずに、兵児帯(へこおび)をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。

「来たね。今庭いじりをやってるところだ」

 植木屋の横には、大きなあけびの蔓が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。

「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。ちょっと好いだろう」

 お延は網代組の竹垣の中程にあるその茅門を支えている釿(ちょうな)なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。

「へえ。あの袖垣(そでがき)の所にあったのを抜いて来たの」

「うんその代りあすこへは玉縁(たまぶち)をつけた目関垣(めせきがき)を拵(こしら)えたよ」

 近頃体に暇ができて、自分の意匠通り住まいを新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に増えていた。

言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と言ってあしらっているよりほかに仕方がなかった。

「食後の運動には好いわね。お腹がすいて」

「笑談じゃない、叔父さんはまだ午飯前なんだ」

 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住(すみ)、住」と大きな声で叔母を呼んだ。

「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」

「だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに」

「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。

第一物に区切りのあるという事をあなたは御承知ですか」

 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。

久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、言わば新生活の門出にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。

自分達も長(なが)の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。

お延は今の津田に満足してはいなかった。

しかし未来の自分も、この叔母のように膏気(あぶらけ)が抜けて行くだろうとは考えられなかった。

もしそれが自分の未来に横たわる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢(つや)を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。

女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。

 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡坐をかきながら、彼女を見た。

「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」

 お延はすぐ答えた。

「久しぶりにお給仕でもしましょう」

 飯櫃(おはち)があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。

「御給仕をしたくったって、パンだからできないよ」

 下女が皿の上に狐色に焦こげたトーストを持って来た。

「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」

 糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。

「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」

 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。

 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。

「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」

 叔父は叔母を顧りみた。

「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。

 肥った体に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の部屋に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利かずにいる癖がある代りに、他人の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時もいられないといった気さくな風があった。

それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。

彼の成功に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天からうけた諧謔趣味のために、一層はでな光彩を放つ事がしばしばあった。

そうしてそれが子供の時分から彼の傍にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。

機嫌のいい時に、彼を向うへ廻して軽口のつきくらをやるくらいは、今の彼女にとって何の努力もいらない第二の天性のようなものであった。

しかし津田に嫁いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。

ところが最初慎みのために控えた悪口は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。

彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。

彼女は物足らなかった。同時に夫を欺むいているような気がしてならなかった。

たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔しの自由を憶い出させる或物があった。

彼女は生豆腐を前に、胡坐をかいている剽軽(ひょうきん)な彼の顔を、過去の記念のように懐かし気に眺めた。

「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。津田に教わった覚えなんか、ありゃしないわ」

「ふん、そうでもあるめえ」

 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌み嫌う叔母の方を見た。

傍から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母はそしらぬ顔をして取り合わなかった。

するとあてが外れた人のように叔父はまたお延に向った。

「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」

 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。

「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」

「何がよ」

「何がよって、そんなに白ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」

「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目くさってお訊きになるの」

「少しこっちにも料簡(りょうけん)があるんだ、返答次第では」

「おお怖い事。じゃ言っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」

「本当にかい」

「ええ。ずいぶん叔父さんもくどいのね」

「じゃこっちでも簡潔に結論を言っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」

 こう言いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷でしゃくって見せた。

「この叔母さんなら、ちょうどお誂らえ向きかも知れないがね」

 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。

彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。

「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」

 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、からかい半分の叔父の冗談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。

と言って、その隙をあくまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。

もう少しで涙が眼の中に溜まろうとしたところを、彼女はまたたきでごまかした。

「いくらお誂らえ向きでも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」

 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう言って水々したつやのある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも言わなかった。

けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

六十二

 親身の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛がられているという信念を常にもっていた。

洒落でありながら神経質に生れついた彼の気合をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分たがわず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも齢の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。

叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。

 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成功するに違ないと信じていた。

津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。

彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間にこなしつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。

彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注がれた。

こんな時に、叔父なら嬉しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。

すると自然の勢いが彼女にそれを逐一叔父に話してしまえと命令した。

その命令に背くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。

 こうして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念もなく彼女のために騙されているという自信があった。

同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。

有体(ありてい)に見すかした叔父の腹の中を、お延に言わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。

それが二人の間に横たわる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。

少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。

粗放のようで一面に緻密な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌っていたらしかった。

「お前はああいう人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌いだったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。

しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうそのきまずい関(せき)を通り越していた。

「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮はいらないから」と親切に言ってくれた。

 お延の材料はまだ一つ残っていた。

自分に対して何にも言わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。

「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」

 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。

彼女には自分が津田を精一杯愛し得るという信念があった。

同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。

また叔父の例の悪口が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。

そうして、この悪口はつまり嫉妬から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。

叔母も「自分の若い時の自惚れは、もう忘れているんだからね」と言って、彼女に相槌を打ってくれた。……

 叔父の前に坐ったお延は自分の後にあるこんな過去を憶い出さない訳に行かなかった。

すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の冗談のうちに、何か真面目な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。

「おれの言った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。

しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」

 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

六十三

 感傷的の気分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。

「昨日の事は全体どういう意味なの」

 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。

「お前はどう思う」

 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣いをして彼女をじっと見た。

「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたって。ねえ叔母さん」

 叔母はにやりと笑った。

「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利いてるからっておっしゃるんだよ」

 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気ながらある臆測があった。

けれども強いられないのに、悧巧ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉(はすは)でなかった。

「あたしにだって解りっこないわ」

「まああてて御覧。たいてい見当(けんとう)はつくだろう」

 どうしてもお延の方から先に何か言わせようとする叔父の気色を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを言った。

「見合じゃなくって」

「どうして。――お前にはそう見えるかね」

 お延の推測をうけがう前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。

「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住より悧巧だね」

 こんな事で、二人の間に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にしてひやかした。

「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」

「お前もおほめにあずかったって、あんまり嬉しくないだろう」

「ええちっともありがたかないわ」

 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋ぶりがまた描き出された。

「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終継子さんと、それからあの三好さんて方を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」

「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事おびただしいんだからな。

引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋(かんぶくろ)を被った猫見たいだね。

そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得だよ。少くとも当世向きだ」

「厭にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞められてるんだか、悪く言われてるんだか分らないわね。

あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」

 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成功ふせいこうに終った、昨夕の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。

「何でまたあたしがあの席に必要だったの」

「お前は継子の従姉じゃないか」

 ただ親類だからというのが唯一の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。

その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。

「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」

「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」

 叔父の目的中には、昨夕の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。

それを叔父の口からはっきり聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性がそこに現われているように思って、暗に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨んだ。

二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。

お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。

しかしその後から、吉川夫人と自分との間に横たわる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕(かんじょ)の念も起って来た。

六十四

 お延はその問題をそこへ放り出したまま、まだ自分の腑に落ちずに残っている要点を片づけようとした。

「なるほどそういう意味合いだったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。

だけどまだほかに何かあるんでしょう」

「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう」

「ええ、有るには有るわ」

 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。

叔父は果して最後の一物を胸にしまい込んでいた。

「実はお前にお婿さんの眼利きをして貰おうと思ったのさ。

お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」

 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目な相談なのか、ちょっと判断に迷った。

「まあ大変な御役目を承わったのね。光栄の至りだ事」

 こう言いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。

「あたしのようなものが眼利きをするなんて、少し生意気よ。

それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」

「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆なが訊きたがるんだよ」

「ひやかしちゃ厭よ」

 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚びる一種の快感を味わった。

それは自分が実際他人にそう思われているらしいという把捉(はそく)から来る得意にほかならなかった。

けれどもそれは同時に彼女を失意にするてき面の事実で破壊されべき性質のものであった。

彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。

結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い勘違いの痕跡で、すでにそこここ汚れていた。

畢竟夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。

「人間はよくつきあって見なければ実際解らないものよ、叔父さん」

「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」

「だからよ。一度会ったぐらいで何にも言える訳がないっていうのよ」

「そりゃ男の言い草だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨い事を言うじゃないか。

それを言って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」

「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」

 叔母はいつものようにお延に加勢しなかった。さればと言って、叔父の味方にもならなかった。

彼女の予言を強いる気色を見せない代りに、叔父の悪強いもとめなかった。

始めて嫁にやる可愛い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打ちは充分あるといった風も見えた。

お延は当り障りのない事を一口二口言っておくよりほかに仕方がなかった。

「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」

 その後を待っていた叔父は、お延が何にも言わないので、また催促するように訊いた。

「それっきりかね」

「だって、あたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」

「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言で、ずばりと向うの急所へあたるような……」

「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」

「しかし一度だけで何か言わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か言えるだろう」

「言えないわ」

「言えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」

「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦り減らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚だけよ」

六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。

 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。

けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪を改めるはずがないという事もよく承知していた。

だからむつましそうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。

それを他の言葉で言い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。

人間を見損なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳(ようえい)するために、彼の心に下層にいつも沈澱しているらしかった。

「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなにしつこく聴こうとするのだろう」

 お延は解しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗に叔父から目指されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。

仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。

しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。

彼はお延を措いて叔母の方を向いた。

「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。

それもやっぱり旦那様の感化かな。不思議なもんだな」

「あなたがあんまり苛めるからですよ。さあ言え、さあ言えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」

 叔母の態度は、叔父をたしなめるよりもむしろお延をかばう方に傾いていた。

しかしそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。

「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。

継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」

 お延は自分で自分の夫を択んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。

津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。

そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。

また責任者であった。自分の料簡をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚えはいまだかつてなかった。

「いったい継子さんは何とおっしゃるの」

「何とも言わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」

「肝心の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」

「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」

「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」

「どっちにしたって仕方がない、何にも言わないんだから。あるいは何にも言えないのかも知れないね、種がなくって」

 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横たわる深い疑問であった。

「自分の結婚ですらこうだのに」というロジックがすぐ彼女の頭に閃めいた。

「自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。

馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。

「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆れたように細い眼を強く張って彼を見た。

「駄目だよ。あいつは初めっから何にも言う気がないんだから。

元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を言うとね」

「だってあたしが立ち合えばどうするの」

「とにかく継が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧だと思ってるんだ。

そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ言ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」

「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」

「ところがまたそれは厭だというんだ。是非黙っててくれというんだ」

「なぜでしょう」

 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮った。

「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心(せいしん)があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。

つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」

 お延は初めて叔父に強いられる意味を理解した。

六十六

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。

こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。

自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。

その代り血統上の親和力や、異性に基く牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。

 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。

そうしてその場合における彼女は、天分から言って、いつでも継子の優者であった。

経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。

少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。

 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真に受ける癖があった。

お延の自覚から言えば、一つ家に寝起きを共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇(ふこ)の心から、柔軟性に富んだこの従妹を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。

「女は一目見て男を見抜かなければいけない」

 彼女はかつてこんな事を言って、無邪気な継子を驚ろかせた。

彼女はまた充分それをやり終(おお)せるだけの活きた眼力を自分に具えているものとして継子に対した。

そうして相手の驚きが、羨(うらや)みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の炎のごとく、継子の前に燃え上った。

彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。

一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。

 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。

日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食み出している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。

 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。

けれども継子の彼に対する考えは毫も変らなかった。彼女は飽くまでもお延を信じていた。

お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。

どこまでも先見の明によって、天の幸福を享ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜していた。

 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりもむしろ快よくなかった。

それは皆んなが寄ってたかって、今まで糊塗(こと)して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。

こっちの「我」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。

「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」

 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。

けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩きつける事のできないものであった。

もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾(しそう)して、自分に当て擦りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。

 膳を引かせて、叔母の新らしく淹れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入った蟠まりがうねくっていようと思うはずがなかった。

造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置について批評しあった。

「来年はあの松の横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね」

 お延は何の気なしに叔父の指している見当を見た。隣りと地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪(もうそうやぶ)をこんもり繁らした根のあたりが、叔父のいう通り疎らに隙いていた。

先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利かした。

「本当ね。あすこを塞がないと、さもさも藪を拵(こしら)えましたって言うようで変ね」

 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。

しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

六十七

 それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入りの植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。

 まだ学校から帰らない百合子や一の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。

「慾張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」

 叔母はわざわざ百合子のつけた渾名(あざな)で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。

自分に許された小天地のうちでは飽くまで放恣(ほうし)なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦(すく)んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠の中で、さも愉快らしく囀(さえず)る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。

「今日は何のお稽古に行ったの」

 叔母は「あてて御覧」と言った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。

しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹の多慾に驚ろかされた。

そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。

「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」

 叔母はこう言って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。

それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝(しゅしょう)らしい顔をしてなるほどとうなずかなければならなかった。

 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人(りょうじん)に対する親切に違なかった。

あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。

けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古がいくらでも残っていた。

お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。

しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦するには相違なかった。

しかし怜悧に研ぎ澄すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭でそれを今日に発達させて来た。

二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。

「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」

 従妹のどこにも不平らしい素振りさえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。

強いて解釈しようとすれば、彼らは姪と娘を見る眼に区別をつけているとでも言うよりほかに仕方がなかった。

こういう考えに襲われると、お延は突然くやしくなった。そういう考えがまた時々発作のようにお延の胸をつかんだ。

しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。

彼女は人に見えない袖を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のように不断から見つめていた。

「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性でないから」

「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ家にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」

「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」

「そりゃお前と継とは……」

 中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。

性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。

それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸(どうき)がしたからである。

「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」

 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。

彼女はついに自分を抑えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。

「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」

「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも……」

 叔父が縁側へ上ったのと、叔母がこう言いかけたのとは、ほとんど同時であった。

彼は大きな声で「継がどうしたって」と言いながらまた座敷へ入って来た。

六十八

 すると今まで抑えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。

あくまで機嫌の好い、あくまで元気にみちた、そうしてあくまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟した。

「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」

 彼女は藪から棒にこう言わなければならなかった。

今日まで二人の間に何百遍となく取り換わされたこの常套な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。

表情にも特殊なところがあった。

けれども先刻からお延の腹の中にどんな潮の満干があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。

「そんなに人が悪うがすかな」

 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草(きざみ)を雁首(がんくび)へ詰めた。

「おれの留守にまた叔母さんから何か聴いたな」

 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。

「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」

「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれをふんどしのミツへ挟(はさ)んでいるか、または胴巻(どうまき)へ入れて臍(へそ)の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」

 叔父の冗談はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉まゆと睫毛をいっしょに動かした。

その睫毛の先には知らない間に涙がいっぱい溜った。

勝手を違えた叔父の悪口もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。

「お延どうかしたのかい」

 こう言った叔父は無言の空虚を充たすために、キセルで灰吹(はいふき)を叩いた。

叔母も何とかその場を取り繕ろわなければならなくなった。

「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」

 叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかった。

二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。

お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。

彼女の唇がふるえた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。

「何もそんなにまでして、あたしを苛めなくったって……」

 叔父は当惑そうな顔をした。

「苛めやしないよ。賞めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。

あれを皆な蔭で感心しているんだ。だから……」

「そんな事承わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」

 沈黙がすこし続いた。

「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんのからかい方が悪かったのかい」

「いいえ。みんなあたしが悪いんでしょう」

「そう皮肉を言っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊くんだ」

「だからみんなあたしが悪いんだって言ってるじゃありませんか」

「だが訳を言わないからさ」

「訳なんかないんです」

「訳がなくって、ただ悲しいのかい」

 お延はなお泣き出した。叔母は苦々しい顔をした。

「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。

家にいた時分、いくら叔父さんにからかわれたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。

お嫁に行きたてで、少し旦那から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」

 お延は唇を噛んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。

「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少しひやかし過ぎたのが悪かったんだ。

――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」

 ようやく発作の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。

六十九

 ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。

「ただいま」

 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出だした人のように喜こんだ。

そうしてほとんど同時に挨拶を返した。

「お帰んなさい」

「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」

「いや大変なお待ちかねだよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」

 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁(かいかつ)であった。

「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」

 こんな余計な事まで言って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。

 しかし下女が襖越しに手を突いて、風呂の沸わいた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。

「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」

 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。

 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。

「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」

 こう言って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。

お延は頭のよく働くその世話しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。

「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」

 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。

これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。

藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。

「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。

「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。

ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」

「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」

 叔母は婉曲に自己を表現した。

「おおかたいらっしゃらないでしょう」

「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」

 お延は笑い出した。

「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」

「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」

 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう言ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。

叔母も「じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう」と言いながら立ち上った。

 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延にとって羨ましいものであった。

また忌わしいものであった。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。

ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯した。

 立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送していると、一人残った継子が突然誘った。

「あたしのお部屋へ来なくって」

 二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

七十

 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。

そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。

ガラス戸をはめた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。

薔薇の花を刺繍した籃入りのピンクッションもそのままであった。

二人してお対(つい)に三越から買って来た唐草模様の染付けの一輪挿しもそのままであった。

 四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。

甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな炎に変化した自己の感情の前に抃舞(べんぶ)したのは彼女であった。

眼に見えないでも、ガスがあったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。

空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。

顧みるとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。

どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。

あるいは極めて現実化されにくいものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。

「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」

 彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。

 お延は微笑した。

「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」

「なんで?」

「何でもないのよ。ただよ」

「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」

「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」

「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」

 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに言い出されるのも苦痛らしかった。

けれども間接にどこかでそこに触れて貰いたい様子がありありと見えた。

お延は従妹を喜こばせてやりたかった。と言って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。

「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。

何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。

それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」

 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。

「厭よ」

 お延は手を引込めなかった。

「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」

 神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。

それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良いいなかだちであった。

弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌にした。

抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。

ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。

二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚りなく出して、遊技的な戦いに興を添えた。

二人はついに硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿しを引っ繰り返した。

紫檀(したん)の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。

二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。

それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。

七十一

 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。

「継子さん早く雑巾を取っていらっしゃい」

「厭よ。あなたがこぼしたんだから、あなた取っていらっしゃい」

 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。

「じゃジャン拳よ」と言い出したお延は、細い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。

宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。

「ずるいわ」


「あなたこそずるいわ」

 しまいにお延が負けた時にはこぼれた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗に吸い込まれていた。

彼女は落ちつき払って袂から出したハンケチで、濡れた所を上から抑えつけた。

「雑巾なんかいりゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」

 彼女は転がった花瓶を元の位置に直して、くだけかかった花を鄭寧にその中へ挿し込んだ。

そうして今までの頓興をまるで忘れた人のように澄まし返った。

それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。

 発作が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入(ちついり)の神籤を取り出して、傍にある本箱の引き出しへしまいかえた。

しかもその上からぴちんと錠をおろして、わざとお延の方を見た。

 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。

ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹より早く醒めてしまった。

「継子さんはいつでも気楽で好いわね」

 彼女はこう言って継子を見返した。当り障りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。

「じゃ延子さんは気楽でないの」

 自分だって気楽な癖にと言わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼ての不平も交っていた。

「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」

 二人は齢が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。

「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」

「心配なんかないわ」

「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」

「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」

「どうしてでしょう」

 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。

「今に解るわ」

「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」

 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定に入れていなかった。

「ただ齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様を亡くなして、未亡人になるとか」

 継子は少し怪訝な顔をしてお延を見た。

「延子さんは宅(うち)にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」

「そりゃ……」

 お延は口籠もった。継子は彼女に返答を拵(こしら)える余地を与えなかった。

「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」

 お延は仕方なしに答えた。

「そうばかりにも行かないわ。これで」

「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」

「ええ、だからあたし幸福よ」

「幸福でも気楽じゃないの」

「気楽な事も気楽よ」

「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」

「そう継子さんのように押しつめて来ちゃかなわないわね」

「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

七十二

 だんだん勾配の急になって来た会話は、いつの間にか継子の結婚問題に滑り込んで行った。

なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。

経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女関係に一日(いちじつ)の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。

彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲に渡って歩いた。

「そりゃ駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他人の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」

「そんなに遠慮しないだってよかないの」

「遠慮じゃないのよ」

「じゃ冷淡なの」

 お延は答える前にしばらく間をおいた。

「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。

眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、その時に限るのよ。

しかもそんな場合は誰だって生涯にそうたんとありゃしないわ。

ことによると生涯に一返も来ないですんでしまうかも分らないわ。

だからあたしなんかの眼はまあめくら同然よ。少なくとも平生は」

「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。

そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」

「使わないんじゃない、使えないのよ」

「だって岡目八目って言うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」

「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」

「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」

 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改まった態度で口を利き出した。

「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」

「ええ」

「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」

 お延はそこで句切りをおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継ぎ足した。

「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択ぶ事ができたからよ。

岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」

 継子は心細そうな顔をした。

「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」

 お延は何とか言わなければならなかった。しかしすぐは何とも言えなかった。

しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口からほとばしり出した。

「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」

 こう言ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。

彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好の影さえ思い浮べなかった。

幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、まともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。

「誰を」と言った彼女は少し呆れたようにお延の顔を見た。

「昨夕ゆうべお目にかかったあの方かたの事?」

「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」

 平生包みかくしているお延の利かない気性が、しだいに鋒鋩(ほうぼうをあらわして来た。

おとなしい継子はそのたびに少しずつ後へ退がった。

しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女はかすかな溜息さえついた。

するとお延が忽然(こつぜん)また調子を張り上げた。

「あなたあたしの言う事を疑っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘なんかついちゃいないわ。

本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」

 こう言って絶対に継子を首肯(うけが)わせた彼女は、後からまた独り言のように付け足した。

「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」

 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。

しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。

七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主ががらりと部屋の入口を開けた。

そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。

彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と言って姉に挨拶した。

 彼女の机をすえた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅であった。

お延が津田へ片づくや否や、すぐその後へ入る事のできた彼女は、従姉のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。

「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」

 百合子は「よくいらっしゃいました」とも言わなかった。

机の角へ右の足を載せて、少し穴の開きそうになった黒い靴足袋の親指の先を、手で撫でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。

「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」

「まあひどい事」と言って笑ったお延は、少し間をおいてから、また彼女を相手にした。

「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」

「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」

「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」

「そうね」

 百合子は少し考える様子をした。

「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」

「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」

「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」

 こう言った百合子は年上の二人と共に声を揃えて笑った。

そうして袴も脱がずに、火鉢の傍へ来てその間に坐りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子を食べ出した。

「今頃お八ツ? このお皿を見ると思い出すのね」

 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。

学校から帰ると、待ちかねてめいめいの前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。

旨そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。

「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」

「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫だし、そうかって宅(うち)に何かあっても、昔のようにおいしくないのね、もう」

「運動が足りないからでしょう」

 二人が話しているうちに、百合子は綺麗に木皿を空にした。そうして木に竹を接いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。

「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」

「そう、どこへいらっしゃるの」

「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」

「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」

「何という名だか知らないけれども、行くのよ」

 お延は根気よく三度目の問を掛けた。

「それはどんな方なの」

 百合子は平気で答えた。

「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。

何でも延子さんの言う通りになって、大変好い人だって、そう言っててよ」

 薄赤くなった継子は急に妹の方へかかって行った。百合子は頓興な声を出してすぐそこを飛び退いた。

「おお大変大変」

 入口の所でちょっと立ちどまってこう言った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で部屋を逃げ出して行った。

七十四

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。

 一家のものは明るい室に晴々した顔を揃そろえた。先刻何かに拗ねて縁の下へ入いったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。

「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。

 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。

「お父さま彗星(ほうきぼしが出ると何か悪い事があるんでしょう」

「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」

「西洋では」

 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。

「西洋? 西洋にゃ昔からない」

「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」

「うんシーザーの殺される前か」と言った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。

「ありゃローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」

 一はそれで納得して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。

前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。

井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。

しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨であった。

それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍のものはみんなおかしがった。

「そりゃお前落ちないさ」

「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」

「そう旨くは行かないよ」

 女連(おんなれん)が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。

「お父さま、僕この宅(うち)が軍艦だと好いな。お父さまは?」

「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」

「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」

「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」

 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。

先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。

叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊いて見たくなった。

「一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう」

「ああ」と言った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。

彼の話は、とうてい子供でなくては言えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。

食卓は一時彼の力で賑わった。

 みんなを笑わせた真事の逸話の中に、以下のようなのがあった。

 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗き込んだ。

土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。

一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると言った。

すると無鉄砲な真事は、背嚢を背負って、尨犬(むくいぬ)の皮で拵(こしら)えたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と言いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。

最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。

彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置き去りにして、どんどん逃げだした。

真事はまた始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。

ようやく冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。

「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。

「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が言った。

七十五

 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。

否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。

ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。

その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。

持って生れた楽天的な広い横断面もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。

ことに生計向(くらしむき)に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。

多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。

その時間の空虚なところを、自分の趣味に適うモザイックで毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。

 これらの原因がこんがらがって、叔父は時々藤井の宅(うち)へ自分の方から出かけて行く事があった。

排外的に見える藤井は、律義(りちぎ)に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと言って彼を厭がる様子も見せなかった。

彼らはむしろ快よく談じた。

そこまで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。

その世界はまた妙に食い違っていた。

一方から見るといかにも迂濶なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。

「つまり批評家って言うんだろうね、ああ言う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」

 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を言って他人をごまかすんだろうと思った。

「仕事ができなくって、ただ理窟を弄(もてあそ)んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。

そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。

これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊いた。

「近頃藤井さんへいらしって」

「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。くたびれた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」

「また何か面白いお話しでもあって」

「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」

「あら厭だ」

「馬鹿らしい、好い年をして」

 お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。

「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。

どこの宅(うち)でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう言えば、そうだね」

 親身(しんみ)の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。

「それでどうしたの」

「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。

つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」

 お延の興味は急に退きかけた。叔父の言う事は、自分のとうに知っている事実に過ぎなかった。

「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」

「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」

「どうして」

「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今言った通り」

「ええ」

「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」

「ええ」

「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。

いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」

 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。

「だけどそりゃ理窟よ」

「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」

「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ」

 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。

またどうあっても信ずるのは厭であった。

七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を言った。

 男が女を得て成仏つする通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。

一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。

すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。

今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。

そうして、昔から言い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。

つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……

 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目で、どこからが冗談なのか、お延にはよく分らなかった。

筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。

ちょっとした心棒(しんぼう)があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。

俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。

お延が反対すればするほど、膏(あぶら)が乗ってとめどなく出て来た。

お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。

「ずいぶんのべつね、叔父さんも」

「口じゃとても敵いっこないからお止しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」

「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」

 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、おもむろに宣告を下した。

「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したでよろしい。

敗まけたものを追窮はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」

 彼はさも勝利者らしい顔をよそおって立ち上がった。

障子を開けて部屋の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。

しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。

「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」

「何よ」

 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。

彼女は拾い読みにぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……

「へええ」

「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」

「なるほど叔父さん向きのものね」

「叔父さん向きでもこのくらいな程度なら差支えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」

「怒るなんて、……」

「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」

 お延が礼を言って書物を膝の上に置くと、叔父はまた片々の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。

「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だからついでに持っておいで」

 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。

「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ」

 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。

「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」

「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして体はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」

 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜った。

七十七

 お延は叔父の送らせるという俥を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。

二人はついに連れ立って長い坂を河縁(かわべり)の方へ下りて行った。

「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」

 肥っていて息が短いので、坂をのぼるときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を言った。

 二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。仮寝(うたたね)をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。

もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。

「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。

留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。

だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ歳が歳だからな。眠い事も眠いだろうよ」

 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。

彼女に言わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。

 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。

叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。

二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。

 車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。

入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。

しかし彼女はそうして目眩(めまぐる)しいイメジを一貫している或物を心のうちに認めた。

もしくはその或物が根調(こんちょう)で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも言えた。

彼女はその或物を拈定(ねんてい)しなければならなかった。

しかし彼女の努力は容易に成功をもって酬いられなかった。

団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。

 玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と言って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。

お延は昨日に違った下女のはっきりした態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。

「今日は早かったでしょう」

 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。

得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。

「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」

 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。

「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」

 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。

「誰も来やしなかったろうね」

 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。

「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」

 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。

しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。

「何しに来たんだろう」

 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。

「何か御用でもおありだったの」

「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」

 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。

「外套? 誰の外套?」

 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。

お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。

しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。

津田の時々使うノンセンスと言う英語がお延の記憶によみがえった。

「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。

発作のようにこみ上あげてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛てて手紙を書いた。

一昨日も昨日も書きかけて止めにしたその便りを、今日は是非とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。

 彼女は落ちつけなかった。不安から逃れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。

先刻からの疑問を解決したいという切な希望もあった。

要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏めて見る事ができそうに思えたのである。

 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し訳までを器械的に書き終わった後で、しばらく考えた。

京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的(まと)におかなければならなかった。

それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。

どの娘もまた生家の父母に知らせなくってはすまない事項であった。

それを差し措いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。

彼女はありのままその物を父母に報知する必要にせまられてはいなかった。

けれどもある男に嫁いだ一個の妻として、それを見極めておく要求を痛切に感じた。

彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。

その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。

しかも知ろうとすればするほど、しかとしたところは手に掴つかめなかった。

 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。

手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。

先刻電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろのイメージは、みんなこの一点に向って集中するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の根本にたどりついた。

けれどもその根本の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。

「今日解決ができなければ、明日解決するよりほかに仕方がない。

明日解決ができなければ明後日解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」

 これが彼女のロジックであった。また希望であった。最後の決心であった。

そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。

「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人をあくまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」

 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。

 彼女の気分は少し軽くなった。彼女は再び筆を動かした。

なるべく父母の喜びそうな津田と自分の現況を憚りなく書き連ねた。

幸福そうに暮している二人の趣きが、それからそれへと描出された。

感激に充ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。

長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。

 しまいに筆をおいた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。

彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要をどこにも認めなかった。

日頃苦にして、使う時にはきっと辞書を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。

てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕っただけで、彼女は手紙を巻いた。

そうして心の中でそれを受取る父母に断った。

「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘や、気休や、誇張は、一字もありません。

もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐きかけます。

その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は表層の事実以上の真相をここに書いています。

それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。

私はけっしてあなた方を欺むいてはおりません。

私があなた方を安心させるために、わざと欺きの手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いためくらです。

その人こそ嘘つきです。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」

 お延は封書を枕元へ置いて寝た。

七十九

 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。

久しぶりに父母の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日して、父に使を頼まれた。

一通の封書と一帙(いっちつ)の唐本を持って、彼女は五六町隔たった津田の宅(うち)まで行かなければならなかった。

軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。

古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。

彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立ついたてが立ててあった。

白い紙の上に躍っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家へ来ていた由雄であった。

 二人はもとよりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂で由雄を知っているだけであった。

近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。

それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。

 由雄はその時お延から帙入(ちついり)の唐本を受取って、なぜだか、明詩別裁(みんしべっさい)という厳めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。

その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。

すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。

しかし由雄の返事を待ち受ける位置に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作に違なかった。

顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と言った。お延はすぐ帰ろうとした。

すると由雄がまた呼びとめて、自分の父宛の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。

この平気な挙動がまたお延の注意をひいた。彼のやりくちは不作法であった。

けれども果断に違いなかった。彼女はどうしても彼をがさつとか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。

 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入り用の書物を探しに奥へ入いった。

しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。

十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空しく引きとめておいた詫を述べた。

指定の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると言った。

お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日にでも取りに来るからと約束して宅(うち)へ帰った。

 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。

二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。

由雄の手に提げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。

彼はそれを更紗(さらさ)の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。

 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。

お延から言えば、とても若い人には堪えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。

彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。

お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。

それでもこちらから借りに行った呉梅村詩(ごばいそんし)という四文字を的に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。

父はあつく彼の好意を感謝した。……

 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人ではなかった。

といって、今の彼と同人でもなかった。平たく言えば、同じ人が変ったのであった。

最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方にひきつけられるように変って来た。

いったんひきつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。

彼女の疑いはほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑いを拭い去るために、その事実を引ッ繰り返さなければならなかった。

八十

 強い意志がお延の体全体に充ち渡った。

朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦(きょうだ)ほど自分に縁の遠いものはなかった。

寝起きの悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。

夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。

朝寒の刺戟と共に、しまった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。

 彼女は自分の手で雨戸をたぐった。外の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。

昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。

なまけて寝過した昨日の償い、それも満足の一つであった。

 彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。そうして結ってから四日目になる髪を解いた。

油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂(ひさし)に束(つか)ね上げた。

それが済んでから始めて下女を起した。

 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と言われた。

何にも知らないお時は、彼女の早起きを驚ろいているらしかった。

また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。

「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」

「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」

「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」

 お延の言葉遣いは平生より丁寧で片づいていた。そこに或る落ちつきがあった。

そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。

彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。

 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷をはずして盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。

もと世話になった覚えのあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。

ことに津田のいない時はそうであった。

というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人がのけものにされたような変な結果に陥いるからであった。

ふとした拍子からそんな気きまずい思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。

「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」

「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」

「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」

「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんなせっかちだから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」

 お時は何か言おうとした。お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。

「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら利口でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」

「そんな事はございません」

 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。

「本当よ。男はそんなものなのよ」

「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」

 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。

「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」

 お時は呆れた顔をしてお延を見た。

「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」

 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。

 彼女が外出のため着物を着換えていると、外から誰か来たらしい足音がして玄関のベルが鳴った。

取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。

八十一

 袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を言わなかった。

彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。

わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。

 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。

厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。

といって、掛取(かけとり)でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。

姿見の前に立ちすくんだ彼女は当惑の眉を寄せた。

仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。

しかし会って見ると、まんざら知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。

その上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人にひけを取らないように、天から生みつけられた男であった。

お延の時間がせまっているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいてもさしつかえないものとひとりで合点しているらしかった。

 彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。

彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。

彼はまた探偵につけられた話をした。

それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと言って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。

彼は探偵につけられるのが自慢らしかった。

おおかた社会主義者として目指されているのだろうという説明までして聴かせた。

 彼の談話には気の弱い女にショックを与えるような部分があった。

津田から何にも聞いていないお延は、こわごわながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。

しかし彼の言う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。

しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途がなくなった。

彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。

それは昨夕(ゆうべ)お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。

「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」

 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。

 お延はすぐ入り用の品を箪笥(たんす)の底から出してやろうかと思った。

けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。

「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といってためらった彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。

着古した外套一つがもとで、他日細君の手落呼ばわりなどをされた日には耐らないと思った。

「大丈夫ですよ、くれるって言ったに違いないんだから。嘘なんか吐きやしませんよ」

 出してやらないと小林を嘘つきとしてしまうようなものであった。

「いくら酔払っていたって気は確かなんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」

 お延はとうとう決心した。

「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」

「奥さんは実に几帳面んですね」と言って小林は笑った。

けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。

「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか言われると困りますから」

 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。

 お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。

そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。

ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。

八十二

「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」

 お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を言い出した。

お延は相手が相手なので、あたらず障らずの返事をしておくに限ると思った。

「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」

「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」

 小林の言い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手をひやかし返してやりたくなった。

しかし彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。

小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。

秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈けめぐる代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。

「やッぱり細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」

 お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。

「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」

「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」

「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」

「参考になりますよ」

 お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。

「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番ちかみちじゃありませんか」

 小林は頭を掻く真似をした。

「貰いたくっても貰えないんです」

「なぜ」

「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」

「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」

 お延はこう言ったあとで、これは少し言い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。

もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。

「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」

 駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行きをお延に想い起させた。

そうした濃厚な恋愛をかたどる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他人の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。

「駈落ちをなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」

「誰とです」

「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか」

「へえ」

 小林はこう言ったなり畏まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。

そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目であった。

しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを言い出した。

「僕だって朝鮮くんだりまで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。

実を言うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。

つまり世の中がないんですね。もっと広く言えば人間がないんだとも言われるでしょうが」

 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。

こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。

相手をどうこなしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。

すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。

「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。

普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。

妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。

二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」

 お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。

仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。

彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。

八十三

 特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。

「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」

 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。

「何がです、今僕の言った事がですか」

「いいえ、そんな事じゃないの」

 お延は巧みに相手を脇道に誘い込んだ。

「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」

 小林は元へ戻らなければならなかった。

「ええ言いました。それに違ないから、そう言ったんです」

「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」

「ええ変りましたね」

 お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠こでも握っているらしい様子をしてお延を見た。

二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。

けれどもそれはついに本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。

お延は小林なんぞにからかわれる自分じゃないという態度を見せたのである。

「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」

 今度は小林の方からこう言ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。

けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。

小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。

津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。

どんな鋭敏な観察者が外から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。

そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとするv微細の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。

それが何で小林ごときものに知れよう。

「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」

 小林は大きな声を出して笑った。

「奥さんはなかなかそらッとぼける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」

「そらッとぼけるっていうのはあなたの事じゃありませんか」

「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。

ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」

 お延はわざと取り合わなかった。と言って別にうるさい顔もしなかった。

愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。

「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」

「何を」

 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。

誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。

「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」

 小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。

「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。

自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう言って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」

「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」

「ありがとう」

 お延はさも軽蔑した調子で礼を言った。

その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。

彼はすぐ彼女をなだめるような口調で言った。

「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」

「わたくしは結婚前から津田を知っております」

「しかしその前は御存じないでしょう」

「当り前ですわ」

「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」

 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去にさかのぼって行った。

八十四

 自分のまだ知らない夫の領分に入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。

彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。

ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を言わなかった。

言っても肝心のところはわざと略してしまった。

例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意にぼかしさって、全く語らないという風を示した。

それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。

お延は彼がとくにこうして自分をじらしているのではなかろうかという気さえ起した。

 お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他人に向って公言しない大きな因子(ファクトー)があった。

それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。

売れもしない雑誌の編集、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。

彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。

宿なしらしい愚痴をこぼして、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。

 しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでもつきものであった。

ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。

少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは言えなかった。

しかし岡本の宅(うち)へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分をわきまえていた。

身分には階級があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。

彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。

彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を言うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。

 お延は突然気がついた。

「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」

 軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持ち上げた時、お延の態度は急に改たまった。

すると小林はそれを見届けた証拠こにか、またはそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。

「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」

「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一どきに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」

「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。

あんまり奥さんに気を揉ませて、ヒステリーでも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」

 お延は後を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。

けれども勝手口は今まで通り静かであった。とうに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。

「どうしたんでしょう」

「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣いはないから大丈夫です」

 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹れ代えるのを口実に、席を立とうとした。

小林はそれさえさえぎった。

「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。

しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰(ごくつぶ)しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。

どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」

「あるかも知れませんね」

「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」

 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯(うけが)わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。

自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。

「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」

「あっても宜しいじゃございませんか」

「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」

「あっても構いません」

「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと言い直したらどうです。それでも構いませんか」

「ええ、構いません」

八十五

 小林の顔には皮肉の渦がみなぎった。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。

彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。

「何という陋劣(ろうれつ)な男だろう」

 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっこをしていた。

すると小林の方からまた口を利き出した。

「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。

これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」

 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と言って笑った。

「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。

先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。

毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。

もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」

 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。

「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。

その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。

実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。

下らない女にまで軽蔑されているんです。有体(ありてい)に言えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」

 小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。

「まあ」

「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」

「そんな馬鹿な事があるもんですか」

「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」

「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」

「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。

もともとやくざに生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。

誰を恨む訳にも行かないのでしょう。

けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」

 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。

まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。

自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。

彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。

その様子を見た小林はまた「奥さん」と言い出した。

「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を言ったりしたりするんです。

そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。

僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。

幾ら人から軽蔑されても存分なかたき討ちができないんです。

仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」

 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。

誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。

そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当てはまって、毫ももとらないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。

「びっくりしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」

 小林は多少溜飲の下りたような顔をした。

「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。

ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。

それがちゃんと僕には分るんです。

けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。

だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。

僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」

 小林はまた大きな声を出して笑った。

八十六

 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。

一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。

反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏まる事ができなかった。

したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊いた。

「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」

「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」

「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」

「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」

「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」

「だから僕は天然自然だと言うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」

「つまりそれがあなたの目的でしょう」

「目的じゃありません。しかし本望(ほんもう)かも知れません」

「目的と本望とどこが違うんです」

「違いませんかね」

 お延の細い眼から憎悪の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳のうちに宿った。

「怒っちゃいけません」と小林が言った。

「僕は自分の小さな料簡(りょうけん)からかたき打ちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。

天がこんな人間になって他人を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう言ったのです。

僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。

僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。

しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。

それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」

 小林の筋の運び方は、少しこんがらかり過ぎていた。

お延は彼のロジックの隙間を突くだけに頭が錬れていなかった。

といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。

それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。

彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。

「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」

「ええそこです。そこが僕の要点なんです」

「そんな卑怯な――」

「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」

「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚えがあるんでしょう。

まあそれから伺いますから、言って御覧なさい」

「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」

「それが私や津田に何の関係があるんです」

 小林は待ってたと言わぬばかりに笑い出した。

「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」

「どうして」

 小林は急に答えなくなった。

その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと言う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。

お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと言いたくなった。

同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。

それを見抜いて、わざとたかをくくったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。

そこへ先刻から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延のわだかまりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先にまた崩されてしまわなければならなかった。

八十七

 お時は縁側へ坐って外から障子を開けた。

「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」

 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。

「じゃ電話はかけなかったのかい」

「いいえかけたんでございます」

「かけても通じなかったのかい」

 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑み込めるようになって来た。

――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。

看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。

書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か言うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。

第一言語が不明暸であった。それからはっきり聞こえるところもつじつまの合わない事だらけだった。

要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。

しかし義務を果さないでそのまま宅(うち)へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。

「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」

 お時のいう事はもっともであった。お延は礼を言わなければならなかった。

しかしそのために、小林からさんざん厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女がかえって恨めしくもあった。

 彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据えられた銅(あか)の金具の光る重ね箪笥(だんす)の一番下の引き出しを開けた。

そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。

「これでしょう」

「ええ」と言った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それをひッ繰返くりかえした。

「思ったよりだいぶ汚れていますね」

「あなたにゃそれでたくさんだ」と言いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。

外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。

「どうせただ貰うんだからそう贅沢も言えませんかね」

「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」

「置いて行けとおっしゃるんですか」

「ええ」

 小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。

「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」

「ええ、ええ」

 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。

「どうですか」

 小林はこう言いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入いった。

アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行った。

「ちょうど好いようですね」

 彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。

 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐(あぐら)をかいた。

「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」

「そうですか」

 お延は急に口元を締めた。

「奥さんのような窮った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」

「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」

 小林は何にも答えなかった。しかし突然言った。

「ありがとう。御蔭でこの冬も生きていられます」

 彼は立ち上った。お延も立ち上った。

しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。

「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他人に笑われないようにしないといけませんよ」

八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。

お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。

二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。

 その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。

下にある黒瞳(くろめ)はじっと彼女の上に据えられたまま動かなかった。

それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。

「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」

「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚えがないとおっしゃるつもりなんでしょう。

そりゃあなたはもとより立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」

「もうたくさんです。早く帰って下さい」

 小林は応じなかった。問答が咫尺(しせき)の間に起った。

「しかし僕のいうのは津田君の事です」

「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」

「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」

「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」

「聞きたいですか」

 鋭どい稲妻がお延の細い眼からまともにほとばしった。

「津田はわたくしの夫です」

「そうです。だから聞きたいでしょう」

 お延は歯を噛んだ。

「早く帰って下さい」

「ええ帰ります。今帰るところです」

 小林はこう言ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかった。

その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。

「お待ちなさい」

「何ですか」

 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。

「なぜ黙って帰るんです」

「御礼は先刻言ったつもりですがね」

「外套の事じゃありません」

 小林はわざと空々しい様子をした。はてなと考える態度まで粧って見せた。お延は詰責した。

「あなたは私の前で説明する義務があります」

「何をですか」

「津田の事をです。津田は私の夫です。妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」

「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥を恥と思わない男として、いったん言った事を取り消すぐらいは何でもありません。

――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫まりましょう。そうしたらいいでしょう」

 お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。

「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」

 お延は依然として下を向いたまま口を利かなかった。小林は語を続けた。

「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。

奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと言われました。

それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。

考えるとこれも僕の失言でした。併せて取消します。

その他もし奥さんの気に障った事があったら、総て取消します。みんな僕の失言です」

 小林はこう言った後で、沓脱(くつぬぎ)に揃えてある自分の靴を穿いた。

そうして格子を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と言った。

 微かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。

それから急に二階の梯子段を駈け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

八十九

 幸いにお時が下から上って来なかったので、お延は憚りなく当座の目的を達する事ができた。

彼女は他人に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。

 濡ぬれたハンケチを袂(たもと)へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の引き出しを開けた。

引き出しは二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。

それもそのはずであった。

彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用いりようの手荷物を纏まとめるため、二三日前すでにそこを捜したのである。

彼女は残された封筒だの、物指しだの、会費の受取だのを見て、それをまた一々丁寧に揃えた。

パナマや麦藁製のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。

その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅(つつじ)だの、突当りに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、連想としてつき纏わっていた。

お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の引き出しをがちゃりと閉めた。

 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。

そこにも引き出しが二つ付いていた。机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向った。

しかしそれを開けようとして、手を環にかけた時、引き出しは双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。

手応えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。

彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪き廻した。

それを一々読んで見るのは大変であった。

読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜んでいようとは想像できなかった。

彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠を卸さない秘密をそこいらへ放り出しておくには、あまりに細か過ぎるのが彼の持前であった。

 お延は戸棚を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。

けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多(がらくた)が、無器用に積み重ねられているだけであった。

下は長持でいっぱいになっていた。

 再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差しの中から、津田宛で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。

彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。

しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。

彼女はつい念のためという口実の下に、それへ手を出さなければならなくなった。

 封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。

あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。

しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置にもどした。

 突然疑惑の炎が彼女の胸に燃え上った。

一束の古手紙へ油をそそいで、それを綺麗に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。

その時めらめらと火に化して舞い上る紙片を、津田は恐ろしそうに、竹の棒でおさえつけていた。

それは初秋の冷たい風が肌(はだえ)を吹き出した頃の出来事であった。

そうしてある日曜の朝であった。

二人差向いで食事を済ましてから、五分と経たないうちに起った光景であった。

箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点けていた。

お延が縁側へ出た時には、厚い上包がすでに焦げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。

お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊いた。津田はかさばって始末に困るからだと答えた。

なぜ反故(ほご)にして、自分達の髪を結う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも言わなかった。

ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。

突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦を巻いて棒の先に起った。

渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。

津田は煙にむせぶ顔をお延から背けた。……

 お時が午飯の催促に上って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。

九十

 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独り膳に向った。

それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。

けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張っていた。

そのくせ心は纏まりなく動いていた。

先刻出かけようとして着換えた着物まで、ふだんと違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介なかだちとなった。

 もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩れなかったなら、お延はついに一言も言わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。

その食事さえ、実を言うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。

 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。

しかしお延が一膳で箸を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊いた。

そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。

「どうもすみませんでした」

 彼女は自分の専断で病院へ行った詫を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。

「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」

「いいえ」

 お延は疑りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ言った。

「あのお客さまは、ずいぶん――」

 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。

二人の談話はこれが緒口(いとくち)で先へ進んだ。

「旦那様は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴だって。

こっちから取りに来いとも何とも言わないのに、断りもなく奥様と直談判を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」

 お延はさげすんだ笑いを微かに洩らした。しかし自分の批評は加えなかった。

「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」

「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変厭な顔をなさいました」

「そうかい。それぎりかい」

「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」

「それでお前は何とお答えをしたの」

「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」

「そうしたら」

「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」

「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」

「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換えをしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」

「そう。そうしたら」

「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、ひやかされました」

 お延は苦笑した。

「どうも御気の毒さま。それっきり」

「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。

私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他人の(家う)ちへお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」

「酔っちゃいらっしゃらないと言ったの」

「ええ」

 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。

「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう言えとおっしゃいました」

「なんと」

「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。

だから、あいつが何を言ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって」

「そう」

 お延はこれ以上何も言う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。

「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」

 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

 

 

 

 

 

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