夏目漱石 明暗 1- 44

2019.10.9

 

 医者は診察のあと、手術台の上から津田を降ろした。

「やっぱり穴が腸まで続いていたんでした。

この前、診た時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ言ったんですが、

今日、通りを良くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。15cmぐらいだと思っていたのが約30cmほどあるんです」

 津田の顔には、苦笑の内に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。

医者は、白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。

その様子が 「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。

医者は自分の職業に対して嘘をつく訳に行かないんですから」 という意味に受取れた。

 津田は無言のまま帯を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながら、また医者の方を向いた。

「腸まで続いているとすると、治りっこないんですか」

「そんな事はありません」

 医者は、活発にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定するかのように。

「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上りっこはないから、

今度は治療法を変えて根本的の手術をひと思いにやるよりほかに仕方がありませんね」

「根本的の治療というと」

「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。

すると天然自然に割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」

 津田は黙ってうなづいた。彼の傍には南側の窓下にすえられたテーブルの上に一台の顕微鏡が載っていた。

医者と懇意な彼は、さっき診察所へ入いった時、物珍らしさに、それを覗かせて貰ったのである。

その時850倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。

 津田は袴をはいてしまって、そのテーブルの上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。

すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」

「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」

 津田は思わず眉を寄せた。

「私のは結核性じゃないんですか」

「いえ、結核性じゃありません」

 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。

「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」

「ええ。みた様子で分ります」

 その時看護婦が津田のあとに廻った患者の名前を部屋の出口に立って呼んだ。

待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。

「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」

「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」

 津田は自分の都合をよく考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。

身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。

去年の疼痛(とうつう)がありありと記憶の舞台にのぼった。

白いベッドの上に横たえられたみじめな自分の姿が明らかに見えた。

鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸り声がはっきり聴えた。

それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出すような恐ろしい力の圧迫と、圧された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われないはげしい苦痛とが彼の記憶を襲った。

 彼は不愉快になった。急に気をかえて自分の周囲を眺めた。

周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

 荒川堤へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛(とうつう)について、彼は全くのめくらであった。

その原因はあらゆる想像の外にあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

「この肉体はいつ何時どんな異変に会わないとも限らない。

それどころか、今、現(げん)にどんな異変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。

そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

 ここまで働いて来た彼の頭はそこで止まる事ができなかった。

どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心のうちで叫んだ。

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

 彼は思わず唇を固く結んで、あたかも自尊心を傷つけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。

けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼づかいに対して少しの注意も払わなかった。

 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身のレールの上を走って前へ進むだけであった。

彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。

彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう言った。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、

ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に言うのだね。

ナポレオンが生れるためには或る特別の卵子と或る特別の精子の配合が必要で、

その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。

彼はそれをぴたりと自分の身の上に当てはめて考えた。

すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。

しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他人から牽制を受けた覚えがなかった。

する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。

しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。

そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。

それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。

しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。

偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

 彼は電車を降りて考えながら家の方へ歩いて行った。

 角(かど)を曲って細い小路(こうじ)へ入いった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。

その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。

そうして白い細い手を額の所へかざすようにあてがって何か見上げる風をした。

彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。

「おい何を見ているんだ」

 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。

「ああびっくりした。―― 御帰り遊ばせ」

 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた。

それから心持腰をかがめて軽い会釈をした。

 半ば細君の嬌態(きょうたい)に応じようとした津田は、半ば逡巡(しゅんじゅん)して立ち留まった。

「そんな所に立って何をしているんだ」

「待ってたのよ。御帰りを」

「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」

「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの家の二階の庇(ひさし)に巣を食ってるんでしょう」

 津田はちょっと向うの家の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。

「何だい」

「ステッキ」

 津田は始めて気がついたように自分の持っているステッキを細君に渡した。

それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸(こうしど)を開けて夫を先へ入れた。

それから自分も夫の後(あと)について沓脱(くつぬぎ)から上あがった。

 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入れを手拭いに包んで持って出た。

「ちょっと今のうちひと風呂浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫(おっくう)になるから」

 津田は仕方なしに手を出して手拭(てぬぐい)を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。

「湯は今日はやめにしようかしら」

「なぜ。―― さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」

 津田は仕方なしにまた立ち上った。部屋を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。

「今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ」

「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもうなおってるんでしょう」

「ところがなおらない。いよいよ厄介な事になっちまった」

 津田はこう言ったなり、あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。

 同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは夕飯が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。

「いやね、切るなんて、怖くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」

「やっぱり医者の方から言うとこのままじゃ危険なんだろうね」

「だけどいやだわ、あなた。もし切り損ないでもすると」

 細君は濃い恰好(かっこう)のいい眉を心持寄せて夫を見た。

津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊いた。

「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」

 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。

「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」

「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ言ってくれるものを断わっちゃ」

「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」

「でもあたし行きたいんですもの」

「御前は行きたければおいでな」

「だからあなたもいらっしゃいな、ね。お厭(いや)?」

 津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉がひとときわ引立って見えた。

彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。

おまけに愛嬌(あいきょう)のない一重瞼(ひとえまぶた)であった。

けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳は漆黒(しっこく)であった。

だから非常によく働いた。或時は専横(せんおう)と言ってもいいくらいに表情をほしいままにした。

津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。

そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。

 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那(せつな)的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。

それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝きであった。

相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断(しゃだん)された。

すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。

「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」

 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。

「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――

芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。

それでいいでしょう。岡本へは二三日中に葉書を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」

「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」

「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」

 津田は自分の受けるべき手術についてなお詳しい話を細君にしなければならなかった。

「手術ってたって、そう腫物(できもの)の膿(うみ)を出すように簡単にゃ行かないんだよ。

最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、

出血の危険があるかも知れないというので、創口(きずぐち)へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。

だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。

その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違いにゃならないし、

また日曜を繰くり上げて明日にしたところで、明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」

「あんまり楽でもないわ、あなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」

 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。

津田はそれに全く無頓着であると言った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘をもたせて、

その中に掛けてある鉄瓶の葢を眺めた。朱銅(しゅどう)の葢の下では湯のたぎる音が高くした。

「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」

「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。

黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」

「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。ふだんからあんなに御世話になっているんですもの」

「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって言うかも知れない」

 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。

「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」

「まあ入院さ」

「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」

「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、そこへ入いる事もできるようになってるんだ」

「綺麗?」

 津田は苦笑した。

「家よりは少しあ綺麗かも知れない」

 今度は細君が苦笑した。

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田は、やがて立ち上った。

細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢によりかかったまま夫を見上げた。

「また御勉強?」

 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう言った。

彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。

ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。

どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見くびった自覚がぼんやり働いていた。

 彼が黙って間(あい)の襖(ふすま)を開けて次の部屋へ出て行こうとした時、細君はまた彼のうしろから声を掛けた。

「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」

 津田はちょっとふり向いた。

「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」

 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。

津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上がった。

 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。

彼は坐るなりそれを開いてしおりのはさんであるページを目当てにそこから読みにかかった。

けれども三四日なおざりにしておいた咎(とが)がたたって、前後の続き具合がよく解らなかった。

それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、

気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。

すると前途遼遠(りょうえん)という気がおのずから起った。

 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。

気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。

彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物(ぐぶつ)のように細君の前で罵っていた。

それを夫の口癖として聴かされた細君は、また彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。

前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心をくすぐった。

 しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようとつとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。

それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。

学校の講義から得た知識ですらめったに実際の役に立った例(ためし)のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と言ってもいいくらいのものであった。

彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。

他の注意を惹く装飾としても身に着けておきたかった。

その困難が今の彼に朧気(おぼろげ)ながら見えて来た時、彼は彼の自惚れに訊いて見た。

「そううまくは行かないものかな」

 彼は黙ってタバコを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。

そうして足早(あしばや)に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

「おい、お延(のぶ)」

 彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙障子を開けて茶の間の入口に立った。

すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。

暗い玄関から急に明るい電灯の点いた部屋を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗(はなやか)に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。

「今時分そんなものを出してどうするんだい」

 お延は檜扇(ひおうぎ)模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。

「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」

「それで今度その服装(なり)で芝居に出かけようというのかね」

 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。

お延は何にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。

彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心をそそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。

彼は黙って縁側(えんがわ)へ出て便所の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。

すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。

「あなた、あなた」

 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。

「何か御用なの」

 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢よりもむしろ大事なものであった。

「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」

「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」

 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。

「郵便函の中を探させましょうか」

「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」

「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」

 お延は玄関の障子を開けて沓脱(くつぬぎ)へ下りようとした。

「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」

「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」

 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上にあぐらをかいた。

そうしてそこに燦爛(さんらん)と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。

 すぐ玄関から取って返したお延の手には、はたして一通の書状があった。

「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」

 こう言いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。

「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」

「何だ書留じゃないのか」

 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。

しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ機械的に動くだけであった。

彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。

ぼんやり細君のよそゆき着の荒い御召(おめし)の縞柄を眺めながら独りごとのように言った。

「困るな」

「どうなすったの」

「なに大した事じゃない」

 見栄(みえ)の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。

けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。

年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く言ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんな事を言って来て……」

「いったいどういう訳なんでしょう」

 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。

「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。

それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。

そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、だいぶ臨時費がかさんだから今月は送れないって言うんだ」

 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。

お延はまた何も言わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。

この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。

「なにそんな家賃なんぞあてにしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。

垣根を繕うたっていくらかかるものかね。レンガの塀を一丁もこしらえやしまいし」

 津田の言葉に偽りはなかった。

彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。

ただ彼は地味な人であった。津田から言えば地味過ぎるぐらい質素であった。

津田よりもずっと派出好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。

「御父さまはきっと私達が要らない贅沢をして、むやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」

「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を言ってたじゃないか。

年寄はね、何でも自分の若い時の生計(くらし)を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。

そりゃ御父さんの三十も、おれの三十も、齢に変りはないかも知れないが、周囲(ぐるり)はまるで違っているんだからそうは行かないさ。

いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって言ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」

 津田は普段からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。

それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。

それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。

同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。

「で今月はどうするの。

ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」

 夫の手前老人に対する批評をはばかった細君の話題は、すぐ実際問題の方へ入って来た。

津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語(ひとりごと)のように言った。

「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」

 お延は夫の顔を見つめた。

「もう一遍御父さまのところへ言って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」

「書いてやれない事もないが、また何とかかとか言って来られると面倒だからね。

御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒(らち)は開かないよ」

「でもほかにあてがなければ仕方なかないの」

「だから書かないとは言わない。

こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」

「そうね」

 その時津田はまともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で言った。

「どうだ御前、岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」

「厭よ、あたし」

 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何のよどみもなかった。

遠慮と斟酌(しんしゃく)を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。

彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のようなショックを受けた。

彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。

「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」

 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。

「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」

 津田がこう言いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬(すく)って追いのけるように遮った。

「だって、あたしきまりが悪いんですもの。

いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計(くらし)に困るんじゃなしって言われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」

 お延が一概に津田の依頼を斥(しりぞ)けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄(みえ)に制せられたのだという事がようやく津田の腑(ふ)に落ちた。

彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。

「そんなに楽な身分のように吹聴(ふいちょう)しちゃ困るよ。

買い被られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」

「あたし吹聴した覚えなんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」

 津田は追及もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。

二人はちょっと会話を途切らした後で、また実際問題に立ち戻った。

しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。

「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。

 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。

「これどうかしましょうか」

 彼女は金の入った厚い帯の端(はじ)を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳(かざ)した。

津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。

「どうかするって、どうするんだい」

「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」

 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、とくの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚くべき価値のある発見に相違なかった。

「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」

「ないわ、そんな事」

 お延は笑いながら、さげすむような口調で津田の問を打ち消した。

「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」

「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」

 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑(げび)た真似(まね)をさせたくなかった。お延は弁解した。

「時が知ってるのよ。宅(うち)にいる時、よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。

それから近頃じゃ葉書さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」

 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉しい事実であった。

しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。

細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜(ほ)こりを傷つけるという意味において彼は躊躇した。

「まあよく考えて見よう」

 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。

しかし彼は下りがけ、むこうは上りがけだったので、すれ違いに丁寧な御辞儀をしたぎり、彼は何にも言わなかった。

もう昼飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の部屋の戸をたたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。

その時吉川はタバコを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。

彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。

「何か用かい」

 吉川から先へ言葉をかけられた津田は部屋の入口で立ちどまった。

「ちょっと……」

「君自身の用事かい」

 津田はもとより表向きの用事で、この室へ始終出入りすべき人ではなかった。

跋(ばつ)の悪そうな顔つきをした彼は答えた。

「そうです。ちょっと……」

「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」

「はあ。気がつかない事をして失礼しました」

 音のしないように戸を締めた津田は、また自分の机の前に帰った。

 午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。

「どこかへ行かれたのかい」

 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使に訊いた。

眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。

「ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」

 毎日人の出入りの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。

津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。

そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執った。

 時間になった時、彼はほかの人よりも一足おくれて大きな建物を出た。

彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、またポケットから時計を出して眺めた。

それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。

帰りに吉川の家へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。

 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。

吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、家まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。

たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。

しかし彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。それは礼儀のためでもあった。

義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。

「津田は吉川と特別の知り合いである」

 彼は時々こういう事実を背中に背負(しょ)って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。

しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。

物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他人に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。

そうして彼自身はあくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

 厳めしい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。

津田はその上半部に透かし彫のように篏め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。

中には大きな花崗石(みかげいし)の沓脱(くつぬぎ)が静かに横たわっていた。

それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。

今までついぞここに足を踏み込んだ例(ためし)のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。

そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。

「まだ御帰りになりません」

 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。

それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。

津田はとうとう折り返して訊いた。

「奥さんはおいでですか」

「奥さんはいらっしゃいます」

 事実を言うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。

足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働いていた。

「ではどうぞ奥さんに」

 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。

書生は厭な顔もせずに奥へ入った。

それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と言って彼を西洋建の応接間へ案内した。

 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶もタバコ盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。

「今御帰りがけ?」

 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。

「奥さんはどうなすって」

 津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。

津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。

「奥さんができたせいか近頃はあんまり家へいらっしゃらなくなったようね」

 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年下(としした)の男を見るだけであった。

そうしてその年下の男はかねて目下(めした)の男であった。

「まだ嬉しいんでしょう」

 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。

「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」

「ええもう半年と少しになります」

「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。―― それでどうなのこの頃は」

「何がです」

「御夫婦仲がよ」

「別にどうという事もありません」

「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」

「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」

「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」

「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」

「時にあなた御いくつ?」

「もうたくさんです」

「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直にさっぱりとおっしゃいよ」

「じゃ申し上げます。実は三十です」

「すると来年はもう一ね」

「順に行けばまあそうなる勘定です」

「お延さんは?」

「あいつは三です」

「来年?」

「いえ今年」

 

十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田にからかった。機嫌の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うをからかい返した。

けれども彼の見た細君の態度には、冗談とも真面目ともかたのつかない或物が閃めく事がたびたびあった。

そんな場合に出会うと、根強い性質(たち)に出来上っている彼は、談話の途中でよくこだわった。

そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘じって、相手の本意を突き留めようとした。

遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。

その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。

それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的にたかぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。

最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。

吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。

津田はまたそれと自覚しながらいつの間にかそこへ引き摺り込まれた。

「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」

「どうして? あなた方の御年齢(おとし)を伺ったのが意地が悪いの」

「そう言う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊き方をしておいて、わざとその後をおっしゃらないんだから」

「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。

学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物よ。

あなたがその癖をやめると、もっと人好きのする好い男になれるんだけれども」

 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応える痛さではなかった。

彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。細君は微笑した。

「嘘だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。

お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」

 津田の顔が急に堅くなった。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答えなかった。

「解ったでしょう、誰だか」

 細君は彼の顔を覗き込むようにして訊いた。彼はもとよりその誰であるかをよく承知していた。

けれども細君の言う事を肯定する気は毫もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。

その眼が無言のうちに何を語っているか、細君には解らなかった。

「御気に障ったら堪忍してちょうだい。そう言うつもりで言ったんじゃないんだから」

「いえ何とも思っちゃいません」

「本当に?」

「本当に何とも思っちゃいません」

「それでやっと安心した」

 細君はすぐ元の軽い調子を回復した。

「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。

だから男は損なようでやっぱり得なのね。

あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年齢(とし)でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方がふけてるくらいよ。

けてると言っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と言ったらいいでしょうね、まあ……」

 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。

津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。

「まあ老成よ。本当に利口な方ね、あんな利口な方は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」

 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と言っても大した変りはなかった。

十二

 その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。

さっき取次に出た書生がそっと部屋の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを下ろして、また無言のまま出て行った。

ガス煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前(さいぜん)から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を見送った。

もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。

彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いているレモンの一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。

そうしてそれを合図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。

用事はもとより簡単であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。

彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。

「いつだって構やしないんでしょう。繰合せさえつけば」

 彼女はさも無雑作な口ぶりで津田に好意を表してくれた。

「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」

「じゃ好いじゃありませんか。明日から休んだって」

「でもちょっと伺った上でないと」

「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」

 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他人のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。

津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかった。

自分の態度なり所作なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。

 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。

それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。

そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。

例えて言うと、或人が茶屋女などに突然背中をどやされた刹那に受ける快感に近い或物であった。

 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕(ゆたか)にもっていた。

彼はその自己をわざと押しかくして細君の前に立つ用意を忘れなかった。

かくして彼は心置なく細君から嬲(なぶ)られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁によりかかっていた。

 彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。

「また子供のように泣いたり唸(うな)ったりしちゃいけませんよ。大きな体(なり)をして」

 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。

「あの時は実際弱りました。唐紙の開け閉めが局部に応えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度は大丈夫です」

「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」

「あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」

「いっこう構わないわ」

 細君の様子は本気なのかからかうのかちょっと要領を得なかった。

医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと言おうとした津田は、少し口籠もって躊躇した。細君は虚に乗じて肉薄した。

「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」

「じゃそのうちまた私の方から伺います」

 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。

けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。

彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。

 冷たそうにぎらつく肌合いの七宝製の花瓶、その花瓶の滑らかな表面に流れる華麗な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入れと牛乳入れ、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三すみに金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟が、すでに明るい電灯の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。

 彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。

彼は歩きながらさっき彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。

そうしてその或る部分に来ると、あたかもいり豆を口に入れた人のように、咀嚼しつつ味わった。

「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。

その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」

 彼はこの矛盾した両面を自分の胸のうちで自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。

彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。

「もしあの細君があの事件についておれに何か言い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」

 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。

「おれにからかうため?」

 それは何とも言えなかった。彼女は元来他人にからかう事の好きな女であった。

そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。

その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。

彼を焦らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒(らち)を平気で跨(また)ぐかも知れなかった。

「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負(ひいき)にし過ぎるため?」

 それも何とも言えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。

 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。

堀端(ほりばた)を沿うて走るその電車の窓ガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上にわだかまる黒い松の木が見えるだけであった。

 車内の片隅に席を取った彼は、窓を透かしてこの寒々しい秋の夜の景色にちょっと眼を注いだ後、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。

彼は面倒になって昨夕はそのままにしておいた金の工面をどうかしなければならない立場にあった。

彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。

「先刻事情を打ち明けてこっちから言い出しさえすれば訳はなかったのに」

 そう思うと、自分が気を利かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。

と言って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。

 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干(らんかん)の下にうずくまる乞食を見た。

その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。

季節からいうとむしろ早過ぎるガス煖炉(だんろ)の温かい炎をもう見て来た。

けれども乞食と彼との間隔は今の彼の眼中にはほとんど入いる余地がなかった。

彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

十四

 津田は同じ気分で自分の家の門前まで歩いた。

彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子の方がすうと開いた。

そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。

彼はびっくりしたように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。

 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。

彼女の行為は時として夫の先(せん)を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。

日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつくナイフの光のように眺める事があった。

小さいながら冴えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。

 咄嗟の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。

けれどもその訳を訊く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。

 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。

茶の間の火鉢の前には黒塗の足のついた膳の上に布巾を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据えてあった。

「今日もどこかへ御廻り?」

 津田が一定の時刻に家へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。

勢い津田は何とか返事をしなければならなかった。

しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧なものになった。

そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。

「あてて見ましょうか」

「うん」

 今日の津田はいかにも平気であった。

「吉川さんでしょう」

「よくあたるね」

「たいてい様子で解りますわ」

「そうかね。もっとも昨夜(ゆうべ)吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって言ったんだから、あたる訳は訳だね」

「そんな事がなくったって、あたしあてるわ」

「そうか。偉いね」

 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。

「じゃいつから、その治療に取りかかるの」

「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」

 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面をしなければならないという屈託があった。

その額は無論大したものではなかった。

しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方の胸に浮ばない彼を、なおいらつかせた。

 彼は神田にいる妹の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。

彼が結婚後家計膨脹という名義の下に、毎月の不足を、京都にいる父から填補(てんぽ)して貰う事になった一面には、盆暮の賞与で、その何分かを返済するという条件があった。

彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。

それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。

妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から潔(いさぎよ)しとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。

彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。

それには今の病気を、少し手重(ておも)に書くのが得策だろうとも考えた。

父母に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢(つや)を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。

「お延、昨夜(ゆうべ)お前の言った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」

「そう。でも……」

 お延は「でも」と言ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上って机の前に坐った。

十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の引き出しからラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。

彼の父はペンや万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の倅(せがれ)から受け取る事は平生(ひごろ)からあまり喜こんでいなかった。

彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆をおいた。

手紙を書いてやったところでとうてい効能(ききめ)はあるまいという気が続いて起った。

彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯(ひげ)を生やした細面(ほそおもて)の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。

 やがて彼は決心して立ち上った。

襖(ふすま)を開けて、二階の上り口の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。

「お延、お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」

「日本の?」

 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽に聞こえた。

「女のならあるわ」

 津田はまた自分の前に粋な模様入の半切(はんきれ)を拡げて見た。

「これなら気に入るかしら」

「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」

「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」

 津田は真面目な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差した。

「時をちょいと買わせにやりましょうか」

「うん」

 津田は生返事をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。

「待っていらっしゃい。じきだから」

 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜り戸が開いて下女の外へ出る足音が聞こえた。

津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐ってタバコを吹かした。

 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。

東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方の悪口を言いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。

彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と言った。

今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。

所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と言った。

「今はそのありがた味が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも言った。

彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。

子供の未来の幸福を一手(いって)に引き受けたような自信に充ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。

彼は想像の眼で見る父に向って言いたくなった。

「御父さんが死んだ後で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」

 彼が父の機嫌を損ねないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文でしたため出したのは、それから約十分後であった。

彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙い事につくづく愛想を尽かした。

文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。

最後に、よし成功しても、こっちで要る期日までに金はとても来ないような気がした。

下女にそれを投函させた後、彼は黙って床の中へ潜り込みながら、腹の中で言った。

「その時はその時の事だ」

十六

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。

「昨日家へ来たってね」

「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」

「また病気だそうじゃないか」

「ええ少し……」

「困るね。そうよく病気をしちゃ」

「何、実はこの前の続きです」

 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子を口から吐き出した。

それから内ポケットを探ってタバコ入れを取り出そうとした。

津田はすぐ灰皿の上にあったマッチを擦った。

あまり気を利かそうとしてせいたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。

彼はあわてて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。

「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」

 津田は礼を言って部屋を出ようとした。吉川は煙の間から訊いた。

「佐々木には断ったろうね」

「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰り合せをして貰う事にしてあります」

 佐々木は彼の上役であった。

「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ」

 吉川の言葉はよく彼の気性を現わしていた。

「都合がよければ明日からにしたまえ」

「へえ」

 こう言われた津田は否応(いやおう)なしに明日から入院しなければならないような心持がした。

 彼の体が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後から呼びとめられた。

「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」

 ふり返った津田の鼻を葉巻の好い匂いが急に冒した。

「へえ、ありがとう、お蔭さまで達者でございます」

「大方、詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。

夕べも岡本と或る所で落ち合って、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨やましがってたよ。

あの男も近頃少し暇になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」

 津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨やましがられているとは思わなかった。

もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。

それはもとより自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。

同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。

「父はもう時勢後れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」

 津田はいつの間にかまた部屋の中に戻って、元通りの位置に立っていた。

「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」

 津田は挨拶に窮した。向うの口の重宝なのに比べて、自分の口の不重宝さが荷になった。

彼は手持無沙汰の気味で、緩く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。

「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。

君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」

 津田はこの子供に対するような、冗談とも訓戒とも見分けのつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃れ出た。

十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。

質屋の暖簾(のれん)だの碁会所の看板だの鳶の頭のいそうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路(こうじ)の中ほどにある擦ガラス張りの扉を外から押して内へ入った。

扉の上部に取り付けられたベルが鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。

窓のないその部屋は狭いばかりでなく実際暗かった。

外から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。

彼は寒そうに長椅子の片隅へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。

彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周囲を取り巻くようにして坐っていた。

そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁に片手を翳(かざ)したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持ち体を横にしてズボンの膝頭を重ねたまま。

 ベルの鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥の後また申し合せたように静かになってしまった。

みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。

その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。

単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。

 この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。

彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。

そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ちすくむようにして閉じ籠っているのである。

 津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。

彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。

 その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。

この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚(びっくり)した。

そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。

 他の一人は友達であった。

これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。

彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、セックスとラヴという問題についてむずかしい議論をした。

 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。

 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然ショックを受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。

 すると診察所から紺セルの洋服を着た三十恰好の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。

彼が内ポケットから紙入を出して金を払おうとする途端に、看護婦が敷居の上に立った。

彼女と見知り越しの津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。

「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊いて下さい。

明日か明後日手術を受けに来て好いかって」

 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い部屋の戸口に現わした。

「今ちょうど二階が空いておりますから、いつでも御都合の宜しい時にどうぞ」

 津田は逃れるように暗い室を出た。

彼が急いで靴を穿いて、擦ガラス張りの大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点いた。

十八

 津田の家へ帰ったのは、昨日よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚(ひあし)は疾くに傾いて、先刻まで往来にだけ残っていた肌寒の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。

 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。

今角の車屋の軒下の灯(あかり)を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。

彼はがらりと格子を開けた。それでもお延は出て来なかった。

昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。

彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。

それから階子段を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳け出して来た。

「何をしているんだ」

 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも言わなかった。

しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言のうちに自分を牽きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。

白い歯が何より先に彼の視線を奪った。

「二階は真暗じゃないか」

「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」

「寝ていたな」

「まさか」

 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。

 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と言いながら、石鹸と手拭いを例の通り彼女の手から受け取って火鉢の傍を離れようとする夫を引きとめた。

彼女は後ろ向きになって、重ね箪笥の一番下の引き出しから、ネルを重ねた銘仙の褞袍(どてら)を出して夫の前へ置いた。

「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧(おし)が好く利いていないかも知れないけども」

 津田は煙に巻かれたような顔をして、黒八丈の襟のかかった荒い竪縞(たてじま)の褞袍(どてら)を見守もった。

それは自分の買った品でもなければ、こしらえてくれとあつらえた物でもなかった。

「どうしたんだい。これは」

「こしらえたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装をしているのは見っともないから」

「いつの間にこしらえたのかね」

 彼が手術のため一週間ばかり家(うち)を空けなければならないと言って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前の事であった。

その上彼はその日から今日に至るまで、ついぞ針を持って裁物板(たちものいた)の前に坐った細君の姿を見た事がなかった。

彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。

お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。

そうしてわざと説明も何も加えなかった。

「布(きれ)は買ったのかい」

「いいえ、これあたしの御古(おふる)よ。この冬着ようと思って、洗張りをしたまま仕立てずにしまっといたの」

 なるほど若い女の着る柄だけに、縞がただ荒いばかりでなく、色合いもどっちかというとむしろ派出過ぎた。

津田は袖を通したわが姿を、奴凧(やっこだこ)のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に言った。

「とうとう明日か明後日やって貰う事にきめて来たよ」

「そう。それであたしはどうなるの」

「御前はどうもしやしないさ」

「いっしょについて行っちゃいけないの。病院へ」

 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

十九

 津田のあくる朝眼を覚さましたのはいつもよりずっと遅かった。

家の中はもう一片付(ひとかたづき)かたづいた後のようにひっそり閑(かん)としていた。

座敷から玄関を通って茶の間の障子を開けた彼は、そこの火鉢の傍にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。

穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶が鳴っていた。

「気を許して寝ると、寝坊をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」

 彼は言い訳らしい事をいって、暦の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指していた。

 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳に向った。

その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ちくたびれたといった方が適当であった。

彼は膳の上に掛けてある布巾を除ろうとしてふと気がついた。

「こりゃいけない」

 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。

しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に言った。

「ちょっと訊いてくる」

「今すぐ?」

 お延はびっくりして夫の顔を見た。

「なに電話でだよ。訳ゃない」

 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。

そうして電車通りを半丁ほど右へ行った所にある自動電話へ馳けつけた。

そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。

「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口でも好い」

「何になさるの」

 お延には夫の意味がまるで解らなかった。

「何でもいいから早く出してくれ」

 彼はお延から受取った蟇口をふところへ放り込んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。

 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分後で、もう昼に間もない頃であった。

「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」

 津田はそう言いながら脇に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。

「足りなくって?」

 お延は細かい事にまで気を遣わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。

「いや足りないというほどでもないがね」

「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かと思ったけれども」

 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。

永く髪を刈らないと、心持ち番の小さい彼の帽子が、被るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日の朝受けた新らしい感じまで思い出した。

「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」

「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」

 彼は蟇口の悪口ばかり言えた義理でもなかった。

 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶と、パンとバターを取り出した。

「おやおやこれ召しゃがるの。そんなら時を取りにおやりになればいいのに」

「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」

 やがて好い匂いのするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。

 朝飯とも昼飯とも片のつかない、極めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独りごとのように言った。

「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞いに、ちょっと朝の内、藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」

 彼の意味は、仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。

広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経めぐる不便と不利益とに痛く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。

だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。

したがって二人の関係は普通の叔父甥の域を通り越していた。

性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。

もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄を説明するものであった。

 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。

半生の間始終動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。

少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。

「緩慢なる人世の旅行者」

 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。

それを何気なく小耳に挟んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。

そうして今日までその言葉を忘れなかった。

しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になってもはっきりしなかった。

ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。

肉の少ない細面のあごの下に、占い者見たような疎髯(そぜん)を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。

 彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路に倦み果てた人のように官界を退いた。 そうして実業に従事し出した。

彼は最後の八年を神戸で費やした後、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。

津田の知らない間に、この閑静な古い都が、彼の父にとって隠栖の場所と定められると共に、終焉の土地とも変化したのである。

その時叔父は鼻の頭へ皺を寄せるようにして津田に言った。

「兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。

あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」

 しかし金の重みのいつまで経ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。

彼は始終東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚えのない男であった。

月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。

規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後でも、やはり以前の強情を押し通していた。

これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑されるだけで、いっこう得にはならないという事をよく承知しているからでもあった。

 実際の世の中に立って、端的な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。

そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。

言葉を換えていうと、彼は迂濶の御蔭で奇抜な事を言ったりしたりした。

 彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。

けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。

それは彼の位置が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。

彼は或る頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。

もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。

一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。

二十一

 こういう人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、この六七年続けて来たのである。

ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼はペンを走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。

折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅をこしらえて見ようかしらという気を起した。

その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。

「緩慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を言うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。

そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。

 津田の家からこの叔父の所へ行くには、半分道ほど川沿いの電車を利用する便利があった。

けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関のたすけに依らない方が、彼の勝手であった。

 一時少し前に家を出た津田は、ぶらぶら河べりを伝って終点の方に近づいた。

空は高かった。日の光が至る所に充ちていた。向うの高みを蔽っている深い木立の色が、浮き出したように、くっきり見えた。

 彼は道々今朝買い忘れたひまし油の事を思い出した。

それを今日の午後四時頃に飲めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。

彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。

すると新らしく線路を延長する計画でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違(すじかい)に切断されていた。

彼は残酷に在来の家屋をかきむしって、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅にかたまっている一群の人々を見た。

群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。

 小肥りにふとったその男は双子木綿の羽織着物に角帯を締めて下駄をはいていたが、頭には笠も帽子も被っていなかった。

彼の後に取り残された一本の柳を盾に、彼は綿フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。

「諸君、僕がこの袋の中から玉子を出す。この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」

 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風(おうふう)な言葉でこんな事を言った。

それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳(こぶし)をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。

「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙さないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。

彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。

彼はそれを親指と人さし指の間に挟んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。

 津田は軽蔑に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。

すると突然後から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。

軽いショックを受けた彼はほとんど反射作用のように後をふり向いた。

そうしてそこにさも悪戯(いたずら)小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。

徽章(きしょう)のついた制帽と、半ズボンと、背中にしょった背嚢とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。

「今学校の帰りか」

「うん」

 子供は「はい」とも「ええ」とも言わなかった。

二十二

「お父さんはどうした」

「知らない」

「相変らずかね」

「どうだか知らない」

 自分が十ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。

苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣いの方ばかり注意しだした。

服装から言うと一夜作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。

「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」

 彼は例の袋を片手でぐっとしごいて、再び何か投げ込む真似を小器用にした後、麗々と第二の玉子を袋の底から取り出した。

それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない綿フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。

しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。

最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。

「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個でも出せる。

しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鶏を出そう」

 津田は叔父の子供をふり返った。

「おい真事、もう行こう。小父さんはこれからお前の家へ行くんだよ」

 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。

「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」

「ありゃ嘘だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」

「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」

「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ言って嘘をついていつまでも人を散らさないようにするんだよ」

「そうしてどうするの」

 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。

面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。

すると真事が彼の袂(たもと)を捉(つらま)えた。

「小父さん何か買ってさ」

 家でねだられるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と言った。

「じゃ自動車、ね」

「自動車は少し大き過ぎるな」

「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」

 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも言わずに歩き出した。

「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。

小父おじさんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘つきじゃないか」

「あいつは玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ」

「どうして」

「どうしてって、出せないよ」

「だから小父さんも自動車なんか買えないの」

「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」

「じゃキッドの靴さ」

 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。

彼は眼を落して真事の足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。

「赤かったのを家でお父さんが染めたんだよ」

 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄が、何だか彼にはおかしかった。

学校の規則を知らないでこしらえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策を滑稽的に批判したくなった。

そうしてその窮策から出た現在のお手際をくすぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。

二十三

「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」

「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」

「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多に穿けやしないよ。

ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」

「だってみんながむく犬の皮だ、むく犬の皮だってからかうんだもの」

 藤井の叔父とむく犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。

しかしそのおかしみは微かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。

「むく犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫むく犬じゃない立派な……」

 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。

「立派な何さ」

「立派な――靴さ」

 津田はもし懐中が許すならば、真事のために、望み通りキッドの編上(あみあげ)を買ってやりたい気がした。

それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。

彼は胸算で自分の懐にある紙入の中を勘定して見た。

しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。

もし京都から為替が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心も起った。

「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度家へ来た時、小母さんに買ってお貰い。

小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」

 彼はすかすように、またなだめるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。

終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方町並が生れ変ったように立派に整のって来た。

ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ものとして馬鹿にできないような品が綺麗に飾り立てられていた。

真事はその間を向う側へ馳け抜けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思うと、また此方側へ戻って来て、金魚屋の軒の下にたたずんだ。

彼の馳け出す時には、ポッケットの中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。

「今日学校でこんなに勝っちゃった」

 彼はポケットの中へ手をぐっと挿し込んで掌いっぱいにそのビー玉を載せて見せた。

水色だの紫色だのの丸いガラス玉がほとばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼はあわててそれを追いかけた。

そうして後を振り向きながら津田に言った。

「小父さんも拾ってさ」

 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋へ引ひき摺り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。

「雀ならいいが、むやみに人を狙っちゃいけないよ」

「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」

「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」

「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅(うち)へ行って」

 好い加減をいうとすぐ後から実行をせまられそうな様子なので、津田は生返事をしたなり話をほかへそらした。

真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端から批評し始めた。

「あの岡本って奴、そりゃずるいんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」

 話はまた靴へ戻って来た。

津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中で比較した。

二十四

「御前、近頃岡本の所へ遊びに行くかい」

「ううん、行かない」

「また喧嘩したな」

「ううん、喧嘩なんかしない」

「じゃなぜ行かないんだ」

「どうしてでも――」

 真事の言葉には後がありそうだった。津田はそれが知りたかった。

「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」

「ううん、そんなにくれない」

「じゃ御馳走するだろう」

「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛かったよ」

 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。

「それで行くのが厭になった訳でもあるまい」

「ううん。だってお父さんが止せって言うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」

 津田は小首を傾けた。叔父が子供を岡本へやりたがらない理由は何だろうと考えた。

肌合の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。

始終机に向って沈黙の間に活字的の気焔を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。

彼は暗にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少かたくなにした。幾分か排外的にもした。

金力権力本位の社会に出て、他人から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。

「真事、なぜお父さんに訊いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」

「僕訊いたよ」

「訊いたらお父さんは何と言った。――何とも言わなかったろう」

「ううん、言った」

「何と言った」

 真事は少し羞恥(はにか)んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切りを置くような重い口調で答えた。

「あのね、岡本へ行くとね、何でも一(はじめ)さんの持ってるものをね、家へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」

 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の暮らし向きは、彼らの子供が持つ玩具(おもちゃ)の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。

「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかりねだるんだな。

みんな一さんの持ってるのを見て来たんだろう」

 津田はからかい半分手を挙げて真事の背中を打とうとした。

真事はばつの悪い真相を曝露された大人に近い表情をした。

けれども大人のように言訳がましい事はまるで言わなかった。

「嘘だよ。嘘だよ」

 彼は先刻津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃をかついだままどんどん自分の家の方へ逃げ出した。

彼の内ポケットの中にあるビー玉が数珠をはげしく揉むように鳴った。

背嚢の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。

 彼は曲り角の黒板塀の所でちょっと立ちどまって鼬(いたち)のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路のうちに隠した。

津田がその小路を行き尽して突きあたりにある藤井の門を潜った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。

彼は右手の生垣の間から大事そうに彼を狙撃している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。

二十五

 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻った。

もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切りもないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻(えんばな)まで歩いて行けた。

目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹の下を潜った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出した。

障子の嵌(は)めガラスに映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外から声を掛けた。

「叔母さん」

 叔母はすぐ障子を開けた。

「今日はどうしたの」

 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も言わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。

四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想というものがなかった。

その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。

そのうちにはほとんどセックスの感じを離れた自然さえあった。

津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。

同じ女、しかも齢のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他人に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。

「叔母さんは相変らず色気がないな」

「この年齢になって色気があっちゃ気狂いだわ」

 津田は縁側へ腰をかけた。

叔母は上れとも言わないで、膝の上に載せた紅絹(もみ)の片(きれ)へ軽い火熨斗(ひのし)を当てていた。

すると次の間からほどき物を持って出て来たお金さんという女が津田にお辞儀をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。

「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」

 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団を縁側へ持って来ようとした。

津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。

「ねえ叔母さん」

「ええ」

 気のなさそうな生返事をした叔母は、お金さんがなまぬるい番茶を形式的に津田の前へ注いで出した時、ちょっと首をあげた。

「お金さん由雄さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘をつかない人だから」

 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか言わなければすまなくなった。

「お世辞じゃありません、本当の事です」

 叔母は別に取り合う様子もなかった。

その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴き耳を立てた。

「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ玉を入れて打つとあぶないから」

 叔母は余計なものを買ってくれたと言わんばかりの顔をした。

「大丈夫ですよ。よく言い聞かしてあるんだから」

「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。構わないから玉だけ取り上げて来て下さい」

 お金さんはそれを好いしおに茶の間から姿をかくした。

叔母は黙って火鉢に挿し込んだ鏝(こて)をまた取り上げた。

皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何気なく眺めていた津田の耳に、客間の話し声がとぎれれに聞こえて来た。

「時に誰です、お客は」

 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。

「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」

二十六

 津田は客間にいる声の主を、坐ったまま突き留めようとつとめて見た。やがて彼は軽く膝を拍った。

「ああ解った。小林でしょう」

「ええ」

 叔母はにこりともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。

「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。

そんなら僕も遠慮せずにあっちへ行けばよかった」

 想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。

この夏会った時の彼の異な服装もおのずと思い出された。

白縮緬(しろちりめん)の襟のかかった襦袢(じゅばん)の上へ薩摩絣(がすり)を着て、茶の千筋(せんすじ)の袴に透綾(すきや)の羽織をはおったそのこしらえは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯(こわめし)の折でも懐ろに入れているとしか受け取れなかった。

その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。

これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと言ったからであった。

 津田は微笑しながら叔母に訊いた。

「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」

「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと言いにくい事なんでね」

「へえ、小林にもそんな真面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」

 こう言いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後を引っ込ましてしまった。

叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。

「お金さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」

 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。

「もうきまったんですか」

「まあ旨く行きそうなのさ」

 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少しはしゃぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。

「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」

 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういうふざけたからっぽうな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。

「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡で貰ったの」

 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当(けんとう)がつかなかった。

「そんな料簡って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」

「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。

――女一人を片づける方の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」

 藤井は四年前長女を片づける時、仕度をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。

その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。

だからここでもしお金さんの縁談がまとまるとすれば、それは正に三人目の出費(ものいり)に違なかった。

娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在のくらし向きに多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。

二十七

 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。

けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事の穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。

それさえ彼は懐都合(ふところつごう)で見合せなければならなかったのである。

まして京都から多少の融通を仰いで、彼らの経済に幾分の潤沢(うるおい)をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。

これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。

それで彼はただ自分の所へさえ早く為替が届いてくれればいいという期待に縛られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。

すると叔母が「由雄さん」と言い出した。

「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰もらったの、お前さんは」

「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だってそうふわついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ」

「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段階があるもんだからね」

 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。

「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく言って下さいな」

 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。

それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。

しかし彼は叔母に対して少しもたじろぐ気はなかった。

「これでもいざとなると、なかなか真面目なところもありますからね」

「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」

 こう言いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。

「まあ止しましょう。今さら言ったって始まらない事だから」

 叔母は先刻火熨斗(ひのし)をかけた紅絹(もみ)の片(きれ)を鄭寧に重ねて、濃い渋を引いた畳紙(たとう)の中へしまい出した。

それから何となく拍子抜けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で言った。

「由雄さんはいったい贅沢過ぎるよ」

 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終こう言われつけていた。

自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。

「ええ少し贅沢です」

「服装や食物ばかりじゃないのよ。心が派出で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。

始終御馳走はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」

「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」

「乞食じゃないけれども、自然真面目さが足りない人のように見えるのよ。

人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」

 この時津田の胸をかすめて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。

その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、その後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。

彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。

その福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。

 この二人の従妹のどっちも、貰おうとすれば容易く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。

だから彼は知らん顔をして過ぎた。

当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと言ってやましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。

その叔母はついと立って戸棚の中にある支那カバンの葢を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。

二十八

 奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らないフランス語の読本をさらい始めた。

ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切りを置いて読み上げる小学二年生の頓狂(とんきょう)な声を、いつもながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。

説明 Je suis poli. 私は、礼儀正しい。  Tu es malade.  お前は、病気だ。 (私はフランス語に詳しくありません)

彼はすぐ袂(たもと)に入れてあるひまし油を取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。

すると、客間でも時計の音に促がされたような叔父の声がした。

「じゃあっちへ行こう」

 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。

津田はちょっと居住居を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。

「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服をこしらえたじゃないか」

 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合(じあい)の背広を着ていた。

いつもと違ってそのズボンの折目がまだ少しも崩れていないので、誰の眼にも仕立卸しとしか見えなかった。

彼は変り色の靴下を後へ隠すようにして、津田の前に坐り込んだ。

「へへ、冗談言っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」

 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓ガラスの中に飾ってある三つ揃いに括りつけてあった正札を見つけて、その値段通りのものを彼が注文してこしらえたのであった。

「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君みたいな贅沢やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」

 津田は叔母の手前重ねて悪口を言う勇気もなかった。黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらひまし油を飲んだ。

そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。

「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」

 今日まで病気という病気をしたためしのない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。

彼はひまし油という名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。

あらゆる疾病とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。

「それでその報告にわざわざやって来た訳かね」

 叔父は御苦労さまと言わぬばかりの顔をして、ごま塩だらけの髯を撫でた。

生やしていると言うよりもむしろ生えていると言った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころじじむさく見せた。

「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」

 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。

近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。

よほど以前この叔父から惑病(わくびょう)は同源だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに言い聞かされた事を憶い出すと、それが病気にかからない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽に感ぜられた。

彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を言った。

「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。

私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」

 津田は馬鹿馬鹿しくなった。

「つまらない事をいうなよ」

「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」

 この不論理な断案は、言い手が真面目なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。

「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」

 薄暗くなった部屋の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩(ねじっ)った。

二十九

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。

「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」

 津田は明日の治療を控えているので断って帰ろうとした。

「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」

 叔父にこんな事を言われつけない津田は、妙な心持がして、また尻を据えた。

「今日は何事かあるんですか」

「何ね、小林が今度――」

 叔父はそれだけ言って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。

「小林君どうかしたのか」

「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の家へ行って詳しい話をするがね」

「しかし僕は明日から入院するんだぜ」

「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」

 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊いた。

医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と言ったが急に黙ってしまった。

堀というのは津田の妹婿の姓であった。

彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通ったのを小林はよく知っていたのである。

 彼の詳しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。

それは先刻叔母の言ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。

この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心をそそられた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。

 津田が手術の準備だと言って、せっかく叔母の拵えてくれた肉にも肴にも、日頃大好な茸飯にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできるパンと牛乳を買って来させようとした。

ねとねとしてむやみに歯の間に挟まるここいらのパンに内心辟易しながら、また贅沢だと言われるのが少し怖いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿を見送った。

 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に言った。

「どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね」

「纏まるだろうよ」

 叔父は苦のなさそうな返事をした。

「至極よさそうに思います」

 小林の挨拶も気軽かった。黙っているのは津田と真事だけであった。

 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。

「お金さんはその人を知ってるんですか」

「顔は知ってるよ。口は利いた事がないけれども」

「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」

「当り前さ」

「それでよく結婚が成立するもんだな」

 津田はこういって然るべき理窟が充分自分の方にあると考えた。

それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。

「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」

 叔父は少し機嫌を損じたらしい語気で津田の方を向いた。

津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。

「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。

たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

三十

 それでも座は白けてしまった。

今まで心持よく流れていた談話が、急に堰き止められたように、誰も津田の言葉を受け継ついで、順々に後へ送ってくれるものがなくなった。

 小林は自分の前にあるビールのコップを指して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊いた。

「真事さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」

「苦いから僕厭だよ」

 真事はすぐ跳ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機(しお)にははと笑った。

好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に言った。

「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」

 すぐ立って奥の四畳半へ馳け込んだ彼が、そこから新らしい玩具(おもちゃ)を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。

叔父も叔母も嬉しがっているわが子のために、一言の愛嬌を義務的に添える必要があった。

「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏なおやじを責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦めたようだから、まだ始末が好い」

「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入ります」

「見て来たような事を言うな」

 空気銃の御蔭で、みんながまた満遍なく口を利くようになった。

結婚が再び彼らの話頭に上った。それは途切れた前の続きに相違なかった。

けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と違った気分によって、彼らの表現を支配されていた。

「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、生涯和合するとは限らないんだから」

 叔母の見て来た世の中を正直に纏めるとこうなるよりほかに仕方なかった。

この大きな事実の片隅にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。

そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。

結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目さを欠いているとしか彼には思えなかった。

「そりゃ楽な身分の人の言い草ですよ」と叔母は開き直って津田に言った。

「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢な事を、我々風情が言ってられますか。

貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」

 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ言いたくなかった。

それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目という疑念を塗り潰すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。

彼は首を捻って考え込む様子をしながら言った。

「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易に考えて構わないものか知ら。

僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」

「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと言って不真面目なところが出て来ようはずがないじゃないか。由雄さん」

「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」

「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」

「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」

「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」

「そう言った日にゃまるで議論にならない」

「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。

いろいろ選り好みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」

 先刻から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。

三十一

「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母と甥の対話とは思えないよ」

 二人の間にこう言って割り込んで来た叔父はその実、行司でも審判官でもなかった。

「何だか双方敵愾心(てきがいしん)をもって言い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」

 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。

真事を相手にビー珠を転がしていた小林がぬすむようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。

叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。

「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来にくいかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐いてるんじゃないよ。

知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。

叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ」

「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」

「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」

 そろそろ酔の廻った叔父は、ほてった顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、またコップを取り上げてビールをぐいと飲んだ。

「実を言うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」

「ええ」

 津田も半分は真面目であった。

「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意があったんだ。

つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。

だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」

「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男に意なんぞあるもんですか」

 津田も小林も吹き出した。独りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。

「お母さん意があるって何」

「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」

「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」

 叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真ん中を大事そうに撫で廻した。

気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。

「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」

「ふん。じゃ好いじゃないか」

「だから誰も悪いと言ってやしない」

「だって皆な笑うじゃないか」

 この問答の途中へお金さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間の方へ追いやった。

興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。

「そりゃ昔だって恋愛事件はあったよ。いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないが、だね。

そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。

昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」

「どうだか存じませんよ」

 叔母は真事の立った後へ坐って、さっさと松茸飯を手盛りにして食べ始めた。

「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」

「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」

「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他人の娘を何だと思う」

「女だと思ってます」

 津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。

「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。

おれ達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。

だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと、くっついてるんだと始めから観念している。

だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。

なぜと言って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。

すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。

そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね 。

もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。

しかしおれの方じゃかつて彼女(あれ)を愛した覚えがない」

「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」

 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。

津田は仕方なしに、ひとりまずい食パンをにちゃにちゃ噛んだ。

三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と言って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。

人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。

 ちゃぶ台の上に両肱(ひじ)を突いた叔父が酔後(すいご)の欠伸(あくび)を続けざまに二つした。

叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。

先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面(おもて)を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。

そのたびに他人から見ると、ビールの泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。

そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。

 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。

その投げ合の間、彼は始終自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。

そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。

 半日以上の暇を潰したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。

つづいて近頃ようやく丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。

 彼は座を立とうとして小林を顧(かえり)みた。

「君はまだいるかね」

「いや。僕ももう御暇(おいとま)しよう」

 小林はすぐ吸い残した敷島の袋をズボンのポケットへねじ込んだ。

すると彼らの立ち際に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。

「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。

宜しく言ってくれ。お前の留守にゃ閑で困るだろうね、彼女も。いったい何をして暮してるかね」

「何って別にする事もないでしょうよ」

 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後からつけ足した。

「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を言いますよ」

「感心じゃないか。お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」

「ありがたい仕合せだな」

「芝居はどうだい。近頃行くかい」

「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」

 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。

「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。

たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」

「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」

「お厭ですか」

「厭より、いつの事だか分らないからね」

 芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。

「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」

 叔母はふふんと笑った。

「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」

「京都から何とか言って来ましたかこっちへ」

 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。

「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが言って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」

 叔父は笑うだけであった。

「兄貴は怒ってるんだろう」

「いったいお秀がまた余計な事を言ってやるからいけない」

 津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。

「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」

「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなたおやじから送って貰った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」

「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」

「もう解りましたよ、叔母さん」

 津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。

しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。

三十三

 外には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。

星の高く輝く空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。

津田は自分で外套の肩を撫でた。

その外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧みた。

「日中は暖かだが、夜になるとやっぱり寒いね」

「うん。何と言ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」

 小林は新調の三つ揃いの上に何にも着ていなかった。

ことさらに爪先を厚く四角に拵(こしら)えたいかついアメリカ型の靴をごとごと鳴らして、太いステッキをわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異ならなかった。

「君、学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」

 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。

「うん、まだあるよ」

「まだ着ているのか」

「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」

「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」

「欲しければやっても好い」

 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋まで新らしくしている男が、他人の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。

少くとも、その人の生活に横たわる、不規則な物質的の凸凹(たかびく)を証拠立てていた。

しばらくしてから、津田は小林に訊いた。

「なぜその背広といっしょに外套も拵えなかったんだ」

「君と同じように僕を考えちゃ困るよ」

「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」

「訊き方が少し手酷し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」

 津田はすぐ口を閉じた。

 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向うに見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。

秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴(したた)らした。

「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」

 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。

彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝(こんもり)した竹藪が一面に生い被(かぶ)さっていた。

風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢(こずえ)は、季節相応なもの寂しい感じを津田に与えるに充分であった。

「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」

 津田はこういって当面の挨拶をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。

「おい行こうじゃないか、久しぶりで」

「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」

「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」

「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」

「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ言ったんだね。

まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。

後から適当の程度まで酔っておいて止めないと体に障るからね」

 自分に都合の好い理窟を勝手に拵らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶(つれ)であった。

彼は冷かし半分に訊いた。

「君が奢おごるのか」

「うん奢っても好い」

「そうしてどこへ行くつもりなんだ」

「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」

 二人は黙って坂の下まで降りた。

三十四

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直ぐに行かなければならなかった。

しかし体(てい)よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗き込むように見て言った。

「僕もそっちへ行くよ」

 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。

その中程にあるバーめいた店のガラス戸が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。

「ここが好い。ここへ入ろう」

「僕は厭だよ」

「君の気に入りそうな上等の宅(うち)はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」

「僕は病気だよ」

「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」

「冗談言うな。厭だよ」

「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」

 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。

すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調で追究した。

「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」

 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。

そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外へ現わした。

「じゃ飲もう」

 二人はすぐ明るいガラス戸を引いて中へ入った。

客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。

割合楽に席の取れそうな片隅を択んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲へ向けた。

 服装から見た彼らの相客中に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。

湯帰りと見えて、縞の半纏(はんてん)の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿ものに角帯を締めて、わざとらしく平打ちの羽織の紐の真中へ擬物(まがいもの)の翡翠(ひすい)を通したのだのはむしろ上等の部であった。

ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。

腹掛股引(ももひき)も一人交まじっていた。

「どうだ平民的でいいじゃないか」

 小林は津田の猪口(ちょく)へ酒を注ぎながらこう言った。

その言葉を打ち消すような新調したての派出な彼の背広が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。

「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」

 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃っているような顔をして、一同を見廻した。

「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」

 挨拶をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。

「少くとも陶然(とうぜん)としているだろう」  (註:陶然=きもちよく酔ってうっとりすること)

「上流社会だって陶然とするからな」

「だが陶然としかたが違うよ」

 津田は昂然(こうぜん)として両者の差違を訊かなかった。それでも小林は少しも悄気(しょげ)ずに、ぐいぐい杯を重ねた。

「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見くびっているんだ」

 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。

「ねえ君。そうだろう」

 出し抜けに呼びかけられた若者は屈強な頸筋を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯をそっちの方へ出した。

「まあ君一杯飲みたまえ」

 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。

立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。

しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に言った。

「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

三十五

 インヴァネス(コート)を着た小作りな男が、半纏(はんてん)の角刈りと入れ違に入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。

廂(ひさし)を深くおろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。

そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。

彼はいつまで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。

しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。

大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ないようにして見始めた。

その合間合間には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。

 先刻から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向きになって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。

「何だか知ってるか」

 津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。ほとんど返事に価しないという口調で答えた。

「何だか知るもんか」

 小林はなお声を低くした。

「あいつは探偵だぜ」

 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。

黙って自分の前にある猪口(ちょく)を干した。小林はすぐそれへなみなみと注いだ。

「あの眼つきを見ろ」

 薄笑いをした津田はようやく口を開いた。

「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」

「社会主義者?」

 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。

「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。

僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。

どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ」

 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。

「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」

 小林はまたこう言いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。

それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。

「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。

ただその人間らしい美しさが、貧苦という埃(ほこり)で汚(よご)れているだけなんだ。

つまり湯に入れないから穢ないんだ。馬鹿にするな」

 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。

しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷つけられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。

すると小林がなお追っかけて来た。

「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。確かに信じない顔つきをしている。

そんなら僕が説明してやろう。君はロシアの小説を読んだろう」

 ロシアの小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも言わなかった。

「ロシアの小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。

いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。

君はあれを虚偽と思うか」

「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」

「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと言うんだ。

あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。

しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。

先生にドストエヴスキは解らない。いくら齢を取ったって、先生は書物の上で齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」

 小林の言葉はだんだん逼って来た。しまいに彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぽたぽたテーブルクロスの上に落した。

三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。

同化の埒外(らちがい)からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。

彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。

ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。

そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。

彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。

 探偵として物色された男は、懐からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。

猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。

けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。

彼は新調の背広の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。

「君は僕が汚ない服装(なり)をすると、汚ないと言って軽蔑するだろう。

またたまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと言って軽蔑するだろう。

じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。

後生だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」

 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。

最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。

けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。

「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。

君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵(こしら)えたので、それを矛盾だと言って笑う気だろう」

「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ裸で往来を歩かなければなるまい。

拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」

「ところがそうでない。君は僕をただ、めかすんだと思ってる。お洒落だと解釈している。それが悪い」

説明 めかすんだ は、めかす のだ。の意。 行くんだ、するんだ、と同じ語法。

「そうか。そりゃ悪かった」

 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。

すると小林の調子も自然と変って来た。

「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気はあるよ。そりゃ僕も充分認める。

認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」

 そんな特別の理由を津田はもとより知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。

けれども行きがかり上訊いてやらない訳にも行かなかった。

両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装(なり)を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。

「実はこの着物で近々都落ちをやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」

 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。

ついでに先刻から苦になっていた襟飾りの横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。

 長い間叔父の雑誌の編集をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終忙がしそうに見えた彼は、

とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。

「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛坊していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭だよ」

 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利いた。

「要するに僕なんぞは、生涯い漂浪して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。

どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。

駈落者になるよりほかに仕方がないじゃないか」

「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」

「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢だからさ。

僕のは死ぬまでパンを追っかけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」

「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」

 小林は津田の言葉から何らの慰藉(いしゃ)を受ける気色もなかった。

三十七

 先刻から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしくテーブルの上を片づけ始めた。

それを相図のように、インヴァネス(コート)を着た男がすうと立ち上った。

とうに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。

津田は機会を捉えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。

説明 M・C・C は、明治から大正にかけて輸入されていたエジプト製の紙巻きタバコ

そうしてその中からまた新らしい金口(きんぐち)を一本出してそれに火を点けた。

行きがけの駄賃らしいこの所作が、タバコの箱を受け取って袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽(くす)ぐったくした。

 時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜の往来は意外に更けやすかった。

昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。

別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁をつたって動いて行った。

「朝鮮へはいつ頃行くんだね」

「ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない」

「そんなに急に立つのか」

「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、はっきりした事は分らないんだ」

「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」

「うん、まあ――」

 彼の返事は少し曖昧であった。津田がそれを追究もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた言い直した。

「実を言うと、僕は行きたくもないんだがなあ」

「藤井の叔父が是非行けとでも言うのかい」

「なにそうでもないんだ」

「じゃ止したらいいじゃないか」

 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。

数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。

「津田君、僕は淋しいよ」

 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。

浅い河床の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭(はしぐい)の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る合間合間に、ちょろちょろと鳴った。

「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」

「じゃ行くさ」

「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」

 彼の語気は癇走っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。

「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。齢さえ若くって体さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成功できるじゃないか。

――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」

 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋を合せる態度に出た。

「君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう」

 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。

「うん、あいつも可哀相だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って、諦らめて貰うんだ」

「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」

「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。

でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の家で使って貰うんだが、

――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。

それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」

「向うじゃくれないのか」

「くれそうもないな」

「どうにかして出させたら好いだろう」

「さあ」

 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独り言のように言った。

「旅費は先生から借りる、外套は君から貰う、たった一人の妹は置いてきぼりにする、世話はないや」

 これがその晩小林の口から出た最後の台詞(せりふ)であった。二人はついに分れた。

津田は後をも見ずにさっさと家の方へ急いだ。

三十八

 彼の門は例の通り締まっていた。彼は潜り戸へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開かなかった。

立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい掛け金の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。

 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前にたたずんだ。

新らしい世帯を持ってから今日に至るまで、一度も外泊した覚えのない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。

 今日の彼は夕暮れ頃から早く家へ帰りたがっていた。

叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。

進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。

夕方以後の彼は、むしろお延の面影を心におきながら外で暮していた。

その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火を慕って、それを目標(めあて)に足を運んだのと一般であった。

彼の体が土塀に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。

そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。

 彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲(たた)いた。

「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締めた」といって詰問するような音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。

すると内側ですぐ「はい」という返事がした。

ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主は、下女でなくてお延であった。

急に静まり返った彼は戸のこちら側で耳を澄ました。

用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩る音が明らかに聞こえた。

格子がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉ててない事はたしかであった。

「どなた?」

 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延はまずこう言って誰何(すいか)した。彼はなおの事急き込んだ。

「早く開けろ、おれだ」

 お延は「あらッ」と叫んだ。

「あなただったの。御免遊ばせ」

 ごとごと言わして掛け金を外した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼い顔をしていた。

彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。

 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶が約束通り鳴っていた。

長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。

お延の坐りつけたその向うには、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱が出してあった。

青貝で梅の花を散らした螺鈿(らでん)の葢は傍へ取り除けられて、梨地の中に篏め込んだ小さな硯がつやつやと濡れていた。

持主が急いで座を立った証拠に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚していた。

 戸締りをして夫の後から入ってきたお延は寝巻の上へ普段着の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。

「どうもすみません」

 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。

結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。

「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」

「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。

しまいにあんまり淋しくってたまらなくなったから、とうとう宅(うち)へ手紙を書き出したの」

 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。

けれどもまだ納得ができなかった。

「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒だからかね」

「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」

「だって現に締まっていたじゃないか」

「時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」

 こう言ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉を動かして見せた。

日中用のない潜り戸どの掛け金を、朝外し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。

「時はどうしたい」

「もう先刻寝かしてやったわ」

 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寝た。

三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜寝るまで全く予想していなかった不意の観物によって驚ろかされた。

 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。

するとあでやかに盛装したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。

寝起きの顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。

「今御眼覚め?」

 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡(てがら)をかけた大丸髷と、派出な刺繍(ぬい)をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。

「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」

 お延は平気なものであった。

「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」

 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙の上へ載せてあった。

「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」

「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」

「迷惑って訳はないがね。――」

 津田はまた改めて細君の服装(なり)を吟味するように見た。

「あんまりおつくりが大袈裟だからね」

 彼はすぐ心の中でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。

そこに坐っている患者の一群とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。

「だってあなた今日は日曜よ」

「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」

「だって、あたし……」

 津田に言わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。

「どうもそういうでこでこな服装(なり)をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」

「辟易(へきえき)?」

 お延の漢語が突然津田をくすぐった。彼は笑い出した。

ちょっと眉を動かしたお延はすぐ甘ったれるような口調を使った。

「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。

せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍してちょうだいよ、ね」

 津田はとうとう敗北した。

顔を洗っているとき、彼は下女に俥(人力車)を二台言いつけるお延の声を、あたかも自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。

 

 普通の食事を取らない彼の朝飯はほとんど五分とかからなかった。楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。

「病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ」

 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。

「ここに拵(こしら)えてあるからちょっと見てちょうだい」

 よそ行着を着た細君を労(いたわ)らなければならなかった津田は、やや重い手さげカバンと小さな風呂敷包みを、自分の手で戸棚から引き摺り出した。

包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍(どてら)と平絎(ひらぐけ)の寝巻紐が入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。

そのうちで一番重くてかさばった大きな洋書を取り出した時、彼はお延に言った。

「これは置いて行くよ」

「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、しおりが挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」

 津田君は何も言わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学のドイツ書を重そうに畳の上に置いた。

「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」

 こう言った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。

「そう、本はどれが要るんだかわたし分らないから、あなた自分でお好きなのをよってちょうだい」

 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。

四十

 天気が好いので幌を畳ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自の俥の上に一つずつ乗せて家を出た。

小路の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。

「大変。忘れものがあるの」

 車上でふり返った津田は、何にも言わずに細君の顔を見守った。念入りに身仕舞いをした若い女の口から出る刺戟性に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。

車夫も梶棒を握ったまま、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。

傍を通る往来の人さえ一瞥の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。

「何だい。何を忘れたんだい」

 お延は思案するらしい様子をした。

「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」

 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。

いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、激しい速力でまた彼の待っている所まで馳けて来た。

それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せた。

その鎖の端には環があって、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。

「これ忘れたの。箪笥の上に置きっ放しにしたまま」

 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。

「お前預かっておいで」

 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。

「大丈夫」

 俥は再び駆け出した。

 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後れていた。しかし午(ひる)までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。

夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。

「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」

 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。

まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作もなく笑いながら津田にお辞儀をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。

お延が先を越して、「御厄介になります」とこっちから挨拶をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。

「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」

 津田は車夫から受取った鞄を看護婦に渡して、二階の上り口の方へ廻った。

「お延こっちだ」

 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗き込んでいたお延は、すぐ津田の後に随いて階子段を上がった。

「大変陰気な部屋ね、あすこは」

 南東の開いた二階は幸いに明るかった。障子じを開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。

「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚れているけれども」

 もと請負師か何かの妾宅に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋な昔の面影が残っていた。

「古いけれども宅(うち)の二階よりましかも知れないね」

 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう言って、時代のために多少燻ぶった天井だの床柱だのを見廻した。

四十一

 そこへ先刻の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。

「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」

 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。

「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」

「まるでお客さまに行ったようだろう」

「ええ」

 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。

「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」

「あたし怖いわ、そんなものを見るのは」

 お延は実際怖そうに眉を動かした。

「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢ないところを見る必要はないんだから」

「でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」

 津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。

「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。

誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」

 津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭であった。

もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。

「じゃ止しましょう」と言ったお延はまた時計を出した。

「お昼までに済むでしょうか」

「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同じこっちゃないか」

「そりゃそうだけど……」

 お延は後を言わなかった。津田も訊かなかった。

 看護婦がまた階子段の上へ顔を出した。

「支度ができましたからどうぞ」

 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。

「お前はそこに待っといでと言うのに」

「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」

「どこかへ用があるのかね」

「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」

 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。

今度の病気について妹の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。

「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。

それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」

 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。

 お延は中腰のまま答えた。

「でも後でまた何か言われると、あたしが困るわ」

 強いてとめる理由も見出し得なかった津田は仕方なしに言った。

「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。

手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと言われるのは実際楽じゃないからね」

 お延は微かな声で階下(した)を憚かるような笑い方をした。

しかし彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。

「じゃお秀さんへかけるのは止すから」

 こう言ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。

「まだほかにかける所があるのかい」

「ええ岡本へかけるのよ。昼までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」

 前後して階子段を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

四十二

「リチネ(ひまし油)はお飲みでしたろうね」

 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。

「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」

 昨日の津田にはリチネ(ひまし油)の効目を気にするだけの暇さえなかった。

それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的にゼロであったのみならず、生理的にも案外微弱であった。

「じゃもう一度浣腸しましょう」

 浣腸の結果も充分でなかった。

 津田はそれなり手術台に上って仰向けに寝た。

冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。

堅い括り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。

彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。

すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。

仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠(かす)めて通り過ぎるとしか思われなかった。

見てならない気味の悪いものを、ことさらにぬすみ見たのだという心持がなおのこと募った。

その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。

彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。

彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。

「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。

もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」

 局部を消毒しながらこんな事を言う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。

 局部麻酔は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。

ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。

鈍い抵抗がそこに感ぜられた。

「どんなです。痛かないでしょう」

 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。

「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」

 その重い感じというのを、どう言い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。

無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。

「どうも妙な感じです。説明のできないような」

「そうですか。我慢できますか」

 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。

こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。

「大丈夫です」

「そうですか。もう直(じき)です」

 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。

 切物(きれもの)の皿に当って鳴る音が時々した。鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。

津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥(なまぐ)さそうに眺めた。

じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。

むず痒(かゆ)い虫のようなものが、彼の体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。

 彼は大きな眼を開いて天井を見た。その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。

そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。

彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。

「やっと済みました」

 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者はまた言った。

「瘢痕(はんこん)が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」

 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下ろされた。

四十三

 診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。

「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」

「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」

 自分自身に多少懸念のあった津田はこう言って訊き返さなければならなかった。

 創口(きずぐち)にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他人が想像する倍以上に重苦しいものであった。

彼は仕方なしにのそのそ歩いた。

それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦れ合ってざらざらするような心持がした。

 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。

「済んだの? どうして?」

 津田ははっきりした返事も与えずに部屋の中に入いった。

そこには彼の予期通り、白いシーツにつつまれた蒲団が、彼の安臥(あんが)を待つべく長々と延べてあった。

羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。

鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍(どてら)を後から着せるつもりで、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。

「お薬はいただかなくっていいの」

 彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。

「別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。

お食事の方はただいま拵(こし)らえてこちらから持って参ります」

 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。

「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」

「そうね」

 お延は躊躇した。

「あたしどうしようかしら」

「だって、もう昼過だろう」

「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」

 時計の葢を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を言った。

津田が手術台の上で俎(まないた)へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井の上で、時計と睨(にら)めっ競(くら)でもするように、手術の時間を計っていたのである。

 津田は再び訊いた。

「今から宅(うち)へ帰ったって仕方がないだろう」

「ええ」

「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」

「ええ」

 お延の返事はいつまで経っても捗々(はかばか)しくなかった。

看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。

するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開かなければならなかった。

「心持が悪いの?」

「いいや」

 念を押したお延はすぐ後を言った。

「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上りますからって」

「そうか」

 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。

「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって言うんですが、行っちゃいけなくって」

 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。

病院へ随いて来るにしては派出過すぎる彼女の衣裳といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。

そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。

津田は黙って横を向いた。床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼についた。

それは先刻鞄へ入れて彼がここへ持って来たものであった。

「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」

 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。

四十四

 津田は書物に手を触れなかった。

「岡本へは断ったんじゃないのか」

 不審よりも不平な顔をした彼が、向きを変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。

「断ったのよ」

「断ったのに是非来いっていうのかね」

 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。

「断ったのに是非来いっていうのよ」

「しかし……」

 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には言うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。

「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」

「それを言うのよ。岡本もよっぽどのわからずやね」

 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追及していいか見当がつかなかった。

「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」

 彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。

「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」

「そう。じゃその変なところを言ってちょうだいな、いくらでも説明するから」

 不幸にして津田にはその変なところが明暸に言えなかった。

「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」

 津田ははっきり疑っていないと言わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。

と言って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。

二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。

「ああ」

 お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。

いったん閉めた障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。

隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイシャツだのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。

「好いお天気だ事」

 お延が小さな声で独りごとのようにこう言った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。

弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。

彼はお延に言葉をかけようとして、話のきっかけのないのに困った。

お延も欄干に身を寄せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。

 そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。

「どうもお待遠さま」

 津田の膳には二個の鶏卵と一合のスープとパンがついているだけであった。

そのパンも半片の二分の一と分量はいつのまにか定められていた。

 津田は床の上に腹這いになったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に言った。

「行くのか、行かないのかい」

 お延はすぐフォークの手を休めた。

「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」

「大変柔順だな」

「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって言うんですもの」

「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」

「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一辺その日の昼までに電話で都合を知らせろって言って来たんですもの」

「岡本からそういう返事が来たのかい」

「ええ」

 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。

「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」

 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。

「そりゃ行きたいわ」

「とうとう白状したな。じゃおいでよ」

 二人はこういう会話と共に昼飯を済ました。

 

 

 :現在の閲覧者数:

     

 ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。

 ホームページアドレス: https://think0298.stars.ne.jp