夏目漱石 人生 (1896) 

2023.10.09 更新2023.10.12

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明治29年(1986年)10月、第五高等学校『竜南会雑誌』

 空(くう)を劃(かく)して居る之(これ)を物といひ、空間を区画しているものを物と言い、
時に沿うて起る之を事といふ、 
時間に沿って起こることを事と言い
事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、
事物を離れて心はなく、心を離れて事物はない
故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、
故に、事物の変遷推移を、人生と名付けます
猶(なほ)麕身(きんしん)牛尾(ぎうび)馬蹄(ばてい)のものを捉へて麟(きりん)といふが如し、
なお、鹿の体、牛の尾、馬の蹄をしたものを、麒麟というようなものです
かく定義を下せば、頗(すこぶ)る六つかしけれど、
こう定義すると、非常に難しいのですが、
是を平仮名(ひらがな)にて翻訳すれば、
これを平仮名でやさしく翻訳すると
先づ地震、雷、火事、爺(おやぢ)の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、
まず、地震・雷・火事・親父の怖さを知り、砂糖と塩の区別を知り
恋の重荷義理の柵(しがらみ)抔(など)いふ意味を合点(がてん)し、
恋の重荷や、義理のしがらみなどの意味を了解し、
順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂(いひ)に過ぎず、
順境と逆境の2つの境地を歩き、禍と福の2つの門をくぐるということに過ぎません
但(ただ)其謂に過ぎずと観ずれば、 
ただそういうことに過ぎないと理解すれば
遭逢(そうほう)百端(ひやくたん)千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、
巡り合いの仕方は様々で、千差万別で、十人に十人の生活があり、百人に百人のが生活あり
千百万人亦(また)各(おのおの)千百万人の生涯を有す、
千百万人には、また、それぞれ千百万人の生涯があります、
故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、
従って、暇な人は、正午の時報を聞いて昼飯を食べ、
忙しきものは孔席(こうせき)暖(あたた)かならず、墨突(ぼくとつ)黔(けん)せずとも云ひ、
忙しい人は、孔子の座席が暖まることがなく、墨子の煙突が黒くならない状態であると言い、
説明 「孔席暖まらず墨突黔(くろ)まず」とは、孔子の座席は暖まる暇がなく、墨子の家の煙突は黒くなることがない、孔子と墨子は天下を遊説して回り、家に落ち着くことがなかったということ
変化の多きは塞翁(さいをう)の馬に しんにう をかけたるが如く、
変化の多さは、幸不幸の予測しがたさに輪をかけたように複雑であり、
説明 「塞翁の馬」しは、国境の老人の馬が、逃げたけれど、名馬を連れて帰ってきたことから、人生の幸不幸は予測しがたく、幸運を喜んだり、不幸を悲しんだりするなということ。
説明 しんにゅうをかけるとは、輪をかける、程度をよりはなはだしくすること
不平なるは放たれて沢畔(たくはん)に吟じ、
不平のある人は、追放されて、沢のほとりで、詩を詠み
壮烈なるは匕首(ひしゅ)を懐(ふところ)にして不測の秦(しん)に入り、
壮烈な人は、短刀を懐に隠しもって、不測の事態の秦に入り
頑固なるは首陽山の薇(わらび)に余命を繋(つな)ぎ、
頑固な人は、(職を失った後) 首陽山の薇で命をつなぎ
世を茶にしたるは竹林に髯(ひげ)を拈(ひね)り、
世の中を茶化した人は、竹林で髭をひねり
図太(づぶと)きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼(おそ)れず、
図太い人は、南禅寺の山門で昼寝をして、国法を怖れず、
一々数へ来れば日も亦足らず、 
いちいち数えていては、何日あっても足りない
中々錯雑なものなり、 
なかなか複雑なものです
のみならず個人の一行一為、各其由(よ)る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、
のみならず、個人のひとつひとつの行為は、それぞれ原因が異なり、結果も同じではない
人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃(やいば)を加ふると等しからず、
人を殺すことでは同じであるけど、毒をもるのと、刀で切るのは同じではない
故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、
故意の行為は、不慮の出来事と言うことはできず
時には間接ともなり、或は又直接ともなる、
時には、間接であり、あるいは、直接ともなります
之を分類するだに相応の手数はかかるべし、 
これを分類すると、相当の手数がかかるでしょう
まして国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、
ましてや、国ごとに言語が違い、人には身分の上下の区別があるので
同一の事物も種々の記号を有して、
同じ事象でも、様々な表記法があるので
吾人(ごじん)の面目を燎爛(れうらん)せんとするこそますます面倒なれ、
私たちの面目を爛爛とかがやかせようとするのは、ますます面倒です
比較するだに畏(かしこ)けれど、万乗には之を崩御(ほうぎよ)といひ、
比較するだけでも畏れ多いが、天子の場合はこれを崩御と言い
匹夫(ひつぷ)には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、
身分の低い者の場合は、これを「くたばる」と言い、鳥の場合は、落ちると言い、魚の場合は、上がると言って
しかも死はすなはち一なるが如し、 
しかも、死は、同一であるかのようである
もし人生をとつて銖分縷析(しゆぶんるせき)するを得ば、

もし人生を取り上げて詳細に分析することができれば

天上の星と磯(いそ)の真砂(まさご)の数も容易に計算し得べし
天空の星と、磯の砂の数も、簡単に計算することができるでしょう

 小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、
 
小説は、この錯綜した人生の一側面を写すものです
一側面なほかつ単純ならず、一側面といっても、単純ではありません
去れども写して神(しん)に入るときは、事物の紛糾(ふんきう)乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、
しかし、写して神の領域に入るときは、紛糾して乱雑な事物を総合して、ひとつの哲理を捉えることができます
われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、
私は、「エリオット」の小説を読んで、天性の悪人はいないことを知りました
又罪を犯すものの恕(ゆる)すべくして且憐(あはれ)むべきを知りぬ、
また罪を犯した者を許すべきであり、また、憐れむべきであることを知りました
一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、
すべての行動が、私の運命に関係していることを知りました
「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、
「サッカレー」の小説を読んで、正直なことが馬鹿らしいことを知りました
狡猾(こうかつ)奸佞(かんねい)なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、
狡猾で、奸佞(心が曲がり悪賢く人にへつらうこと)なことが、この世に珍重されるべきことを知りました
「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、
「ブロンテ」の小説を読んで、人間は感応(心が物に感じて応じること)することを知りました
けだし小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、
思うに、小説には、境遇を記述するみのがあり、品性を写生するものがあり、
心理上の解剖を試むるものがあり、直覚的に人世を観破するものあり、
心理上の解剖を試みるものがあり、直覚的に人生を看破するものがあり
四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、
四者とも、各々、その方向に向かって、私に教えることがある、
然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、
しかし、人生は、心理的な解剖でもって終結するものではない
又直覚を以て観破し了(おほ)すべきにあらず、
また、直覚でもって看破してしまうことは不可能です
われは人生に於てこれら以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、
私は、人生において、これら以外に、ある種の不可思議なものがあると信じています
いはゆる不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、
いわゆる不可思議とは、「オトラント城奇譚」の中のできごとではありません
説明 オトラント城奇譚(The Castle of Otranto)は、ホレス・ウォルポールの1764年の小説
「タムオーシヤンター」を追いかけたる妖怪にあらず、
「タムオシャンター」を追いかけた妖怪ではありません
説明 タムオシャンター(Tam O'Shanter)は、スコットランドの魔女伝説
「マクベス」の眼前に見(あら)はるる幽霊にあらず、
「マクベス」の眼前に現れた幽霊ではありません
「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂(い)ひにあらず、
「ホーソーン」の「コルリッジ」の誌のなかにはいるべき人物のことではありません
われ手を振り目を揺(うご)かして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、
私は、手を振り、目を動かしても、それは、何の理由で、手を振り、目を動かしたのか知りません
因果の大法を蔑(ないがしろ)にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地(ばくち)に来るものを謂(い)ふ、
因果の大原則を無視し、自分の意思を離れ、突然に起こり、まっしぐらにやって来るもののことを言う
世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶ固(もと)より不可なし、
世間は、これを名付けて、狂気と呼びます、狂気と呼ぶことはもとより、悪くはありません
去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、
しかし、この種類の振る舞いを見て、狂気とよぶ人たちは、
他人に対してかゝる不敬の称号を呈するに先(さきだ)って、
他人に対して、このような失礼な敬称を与える前に、
己等(おのれら)亦曾(かつ)て狂気せる事あるを自認せざるべからず、
自分達もまた、かつて、狂気したことがあることを自認しなければならない
又何時(いつ)にても狂気し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、
また、いつ何時、狂気することができる資格を持った動物であることを承知しなければならない
人豈(あに)自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、
「人は、どうして、自分のことを知らないということがありましょうや(知っています)」とは、シナの豪傑の言葉です
人々自ら知らば固(もと)より文句はなきなり、
人々が自分のことを知っていれば、もとより、文句はないのです
人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て発するの批評なり、
他人を指して馬鹿と言うことは、自分が利口であるときに発する批評であり
己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬものの批評なり、
自分もいつでも馬鹿の仲間入りする可能性を充分にもっていることに気が付かない人の批評です
局に当る者は迷ひ、傍観するものは嗤(わら)ふ、
時局に対処している人は迷い、傍観している人は、笑います
而も傍観者必ずしも棊(き)を能くせざるを如何(いかん)せん、
しかも、傍観者は、必ずしも、囲碁将棋が上手でないのは、どうしようもありません
自ら知るの明あるもの寡(すく)なしとは世間にて云ふ事なり、
「自分を知る賢明な人は少ない」とは、世間で言われている事です
われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、
私は、人間に自分を知る賢明さがないことを断言しようとしています
之を「ポー」に聞く、曰(いは)く、 
これをポーに尋ねると、ポーが言うには
功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、
『功名は、目の前にある、人々は、なぜ、自分の胸の内をさらけだして、思ったままを言わないのか、
去れど人ありて思(おもひ)の儘(まゝ)を書かんとして筆を執(と)れば、
しかし、ある人が、思いのままを書こうとして、筆を執っても、
筆忽ち禿(とく)し、紙を展(の)ぶれば紙忽ち縮む、
筆は、すぐ抜け落ちてしまい、紙を延ばせば、すぐに、縮んでしまう
芳声(はうせい)嘉誉(かよ)の手に唾(つば)して得らるべきを知りながら、
名声や名誉が、手に唾して(勇気を奮い起こして)やれば、手に入ることを知りながら
何人(なんびと)も躊躇して果たさざるは是が為なりと、
誰も、躊躇して、実行できないのは、この為である』と。
人豈(あに)自ら知らざらんや、 「人は、どうして、自分のことを知らないということがありましょうや(知っています)」
「ポー」の言を反覆熟読せば、思半(なか)ばに過ぎん、
ポーの言葉を反復熟読すれば、おおよそのことは推測できるでしょう
けだし人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、
思うに、人は、夢を見るものです、思いも寄らない夢を見るものです
覚めて後冷汗背に洽(あまね)く、茫然自失する事あるものなり、
夢から覚めたあと、冷や汗が、背中に広がり、呆然自失することもあるのです
夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、
「夢のことなら」と、一笑に付しさる人は、一を知って、二を知らない人です
夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、
夢は、必ずしも、夜中に寝床の上にのみ、やってくるのではありません
青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、
晴れた日の真昼にもってくるし、大きな道の真ん中を歩いているときにも来るし
衣冠束帯の折だに容赦なく闥(たつ)を排して闖入(ちんにふ)し来る、
正装した時にも容赦なく、扉を打ち破って、侵入してくる
機微の際忽然(こつぜん)として吾人を愧死(きし)せしめて、
機微な時にも突然やってきて、私に死ぬほど恥ずかしい思いをさせるが、
其来る所もとより知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、
どこから来るのか知ることができないし、どこに去るのかもわからない
而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、
しかも人生の真理は、なかばこの夢の中にあって、はっきりわからないものです
此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径(せふけい)にして、
この自分の真相を発揮することはも名声を得る近道であって、
此捷径に従ふは卑怯なる人類にとりて無上の難関なり、
この近道を進むことは、卑怯な人類にとっては、無上の難関です
願はくば人あに自ら知らざらんや抔(など)いふものをして、
願わくは、「人はどうして自分のことを知らないということがありましょうや(知っています)」などと言う人に
誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん
誠実にその心の歴史を書かしてみたい、彼は、必ず、自分を知らないことに驚くでしょう

 三陸の海嘯(つなみ)濃尾の地震之を称して天災といふ、
 
三陸の津波や、濃尾の地震のことを、天災といいます
天災とは人意のいかんともすべからざるもの、
天災は、人為ではどうすることもできないものです
人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、
人間の行為は、良心の拘束を受け、意思の制御に従います
一挙一動皆責任あり、もとより洪水飢饉(ききん)と日を同じうして論ずべきにあらねど、
人は、すべての動作に責任があり、もとより、洪水や飢饉と、同一に論じるべきではないが
良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、
良心は、常時の支配者ではなく、手脚は、必ずしも、私の意志の望むままには動かない
一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、
ある朝突然、自分の魂が輝きを失い、奈落に落ちて、暗闇の中を跳ね回ることは、無いことはないのです。
この時にあたって、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、
この時、私の身心には、秩序がなく、系統もなく、思慮もなく、分別もなく、衝動的な盲動に任せるしかありません
若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、
もし津波や地震が人の意志ではどうにもできないのなら、この衝動的な動作も、人の意志ではどうにもできません
人を殺すものは死すとは天下の定法(ぢやうはふ)なり、
「人を殺した人は、死ぬ」は、天下の決まりごとです
されども自ら死を決して人を殺すものは寡(すく)なし、
しかし、自ら、死ぬことを覚悟で、人を殺す人は、少ない
呼息逼(せま)り白刃(はくじん)閃(ひらめ)く此刹那(せつな)、既に身あるを知らず、
息が切迫し、刀の刃がきらめいている瞬間は、すでに自分の体があるのかどうかわからない
焉(いづく)んぞ敵あるを知らんや、電光影裡(えいり)に春風を斫(き)るものは、人意か将(は)た天意か
どうして敵がいるかどうかわかるのですか、稲妻のように刃物で春風を切るのは、人の意ですか、天意ですか?

 青門老圃(らうほ)独(ひと)り一室の中に坐し、冥思(めいし)遐捜(かさう)す、
 
青門の老農夫が、ひとり、或る部屋の中に座り、瞑想し、遠く探っている
両頬赤(せき)を発し火の如く、喉間(こうかん)咯々(かくかく)声あるに至る、
両頬は、赤色を発し、火のようであり、喉の奥から、言い争う声がするにいたる
稿を属(しょく)し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方(あた)って大苦あるものの如し、
原稿を作るが、日数がたたないので、できない、思いを構成する時にあたって非常に苦心しているようです
既に来れば則ち大喜、衣を牽(ひ)き、床を遶(めぐ)りて狂呼す、
思いが出て来ると、大喜び、衣服を引っ張り、床を転がって狂ったように叫ぶ
「バーンス」詩を作りて河上に徘徊(はいかい)す、
バーンスは、詩を作って、河の上を徘徊する
或は呻吟(しんぎん)し、或は低唱す、
あるいは呻吟(ぶつぶつ言う)し、あるいは低唱する
忽ちにして大声放歌欷歔(ききょ)涙下る、 
たちまち大声で歌を詠み、むせび泣いて、涙が落ちる
西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、
西洋人は、この種の行動を、インスピレーションと言う
「インスピレーション」とは人意か将(は)た天意か
インスピレーションは、人意か、またし、天意か

 「デクインシー」曰く、 トマス・ド・クインシーは、言います
世には人心のいかに善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、
「世間には、人心がどうして善であり、どうして悪なのかを知らずにいる人がいる」と

他人の身の上ならば無論の事なり、 
他人の身の上のことなら、無論のことです
われは「デクインシー」に反問せん、 
わたしは、デクインシーに、反問したい
君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、
「君は、君自身がどのくらい善人で、どのくらい悪人であるかを承知しているか」と
あに啻(たゞ)善悪のみならん、 
これは、どうして、善悪のみにとどまりましょうか
怯勇(けふゆう)剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、
卑怯、勇敢、剛、弱、高、下の程度は、みな、この反問の中に入れることができるでしょう
平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、
平和のときは天が落ち、地が欠けても、驚くまいと思っていても
一旦事あれば鼠糞(そふん)梁上(りやうじやう)より墜(お)ちてだに消魂の種となる、
ひとたび事が起これば、鼠の糞が梁の上から落ちただけでも、魂を消沈させる原因となります
自ら口惜しと思へど詮(せん)なし、 
自分で悔しいと思っても、どうしようもありません
源氏征討の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)りて、遥々(はるばる)富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、
源氏討伐の宣旨をいただいて、はるばる富士川まで押し寄せた七万余騎の大軍が
水鳥の羽音に一矢(いつし)も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、
水鳥の羽音に、一矢も射ることなく逃げ帰るとは、平家物語を読む人が馬鹿馬鹿しいと思う所でしょう
啻(たゞ)に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、
ただ後代の私たちが、馬鹿馬鹿しいと思うだけではありません
当人たる平家の侍共(さむらひども)も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、
当人である平家の侍たちも、翌日は、さぞかし悔しいと思ったでしょう
去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、
しかし、彼らは、富士川に宿した夜に限って、揃いも揃って、臆病風に吹かれたのです
此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中を馳け廻(めぐ)り、
この臆病風は、23日の夜半突然吹いてきて、7万余騎の陣中を駆け巡り
翌くる二十四日の暁天に至りて寂(せき)として息(や)みぬ、誰か此風の行衛(ゆくゑ)を知る者ぞ
あくる24日の明け方にいたって、急に収まりました、誰が、この風の行方を知るものがいましょうや

 犬に吠(ほ)え付かれて、果(は)てな己は泥棒かしらん、
 
犬に吠えられて、結局、私は、泥棒なのか
と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者(あわてもの)と勘定するを得べし、
と結論する人は、よほどの馬鹿物か、非常な慌て者と判断することができます
去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、
しかし、世間には、みずから賢者と思い、人から智者と見なされる人で、この病気にかかることがあります
大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、 
大丈夫と威張っているものの、最後の場面で臆したり
卑怯(ひけふ)の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、
卑怯の名を博した人が、急に猛烈の勢いを示したりすることがあるが
皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、
これはみな、自分自身を解釈したいと思っても、理解できないという現象です
いはんや他人をや、 
まして、他人のことをば、理解できるでしょうか
二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学上の事、
二点を求めることができれば、これを通過する直線の方向がわかるというのは、幾何学の事です
吾人(ごじん)の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、
私たちの行為は、2点を知り、3点を知り、重ねて100点を知るに至っても、人生の方向を決めるには足りません
人生は一個の理窟に纏(まと)め得るものにあらずして、
人生は、一個の理屈にまとめることができないものであり
小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、
小説は、一個の理屈を暗示するものに過ぎない以上は
「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、
サイン、コサインを用いて、三角形の高さを測るのと同様であるが
吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何(いかん)せん、
私の心中には、底辺のない三角形があり、二辺が平行な三角形があるのを、どうしましょうか
もし人生が数学的に説明し得るならば、 もし人生が、数学的に説明できるのであれば
若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、
もし与えられた材料から、Xという人生が発見されるのであれば
若し人間が人間の主宰たるを得るならば、 
もし人間が人間の制御ができるのであれば
若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、
もし詩人や文人や小説家が記述した人生のほかに人生がないのであれば
人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、
人生は、とても便利であり、人間は、とても偉いものです
不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なくかつ乱暴に出で来る、
予測害の異変が起こる、思いがけない心が、心の底から出て来る、容赦なく乱暴に出て来る
海嘯と震災は、啻(たゞ)に三陸と濃尾に起るのみにあらず、
津波と震災は、ただ三陸と濃尾に起こるだけではありません
亦自家三寸の丹田(たんでん)中にあり、険呑(けんのん)なるかな
また、自分の三寸の丹田の中にあるのです、不安ですねえ

 以下のサイトに、現代語訳と、解説があります。

名言紹介(10)「夏目漱石 その1」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=211121_030307184

名言紹介(11)「夏目漱石 その2」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=211219_060002545

名言紹介(12)「夏目漱石 その3」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220109_140517425

名言紹介(13)「夏目漱石 その4」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220314_060652971

名言紹介(14)「夏目漱石 その5」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220408_134352629

名言紹介(15)「夏目漱石 その6」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220517_144243412

名言紹介(16)「夏目漱石 その7」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220619_121030857

名言紹介(17)「夏目漱石 その8」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220718_103701396

名言紹介(18)「夏目漱石 その9」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220814_134453335

名言紹介(19)「夏目漱石 その10」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=220913_055849393

名言紹介(20)「夏目漱石 その11」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=221011_071203714

名言紹介(21)「夏目漱石 その12」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=221120_005226342

名言紹介(22)「夏目漱石 その13」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=221220_142432109

名言紹介(23)「夏目漱石 その14」
https://www.nakamura-sawamura.com/info/?sc=230116_080346038

 便宜のため、現代語訳(意訳)部分を、ここに、再録しておきます。

空間に存在するのを『物』といい、時間に沿って起こるのを『事』という。
『事物』を離れて『心』はなく、『心』を離れて『事物』はない。
だから『事物の移り変わり』を『人生』と定義することができる。
あたかも『鹿のような体と牛のような尾と馬のようなヒヅメを持つ生き物』を『麒麟』
(注:アフリカのサバンナにいるキリンではなく、神話に出てくる伝説上の動物のこと。某飲料会社のマークとして、なじみ深い方も多いかもしれません笑)と定義するようなものである。
このように定義をすれば、いささか難しいが、これを簡単な言葉で翻訳すれば、まず地震、雷、火事、親父の怖さを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷や義理のしがらみなどという意味を理解し、順境と逆境の両方を経験し、災難と幸福の両方を経験するという意味に過ぎない。
ただそういう意味に過ぎないと考えれば、巡り合わせは多種多様であり、十人に十人の人生があり、百人に百人の人生があり、千百万人にまた千百万人それぞれの生涯がある。
だから暇な者は正午の時報を聞いて昼飯を食い、忙しい者は食卓についたり料理を作ったりする時間すらないともいい、変化の多さは予測不能に輪をかけたようなものであり、権力者に不平のある者は追放されて沢のほとりで詩を詠み、勇ましくて激しい者は短刀を懐に隠し持って権力者を暗殺しようとし、頑固な者は節義のために仕官先を失った結果、山菜を食べてわずかな命をつなぐことになり、世の中を茶化して軽く見ている者は危険な行動を平然と行い、図太い者は寺の山門で昼寝をして国の法令を恐れず、いちいち数えあげればきりがないほど、かなり複雑なものである。


のみならず個人の一つ一つの行為は、それぞれその原因が異なるし、その結果も同じではない。
人を殺害するという行為は同じであっても、毒を盛る行為は刃で切りつける行為と同じではないし、故意の行為は過失による出来事とは言えないし、ときに間接的な殺害行為もあれば、あるいはまた直接的な殺害行為もある。
これを分類するだけでも、それなりの手数がかかるであろう。
まして国には言語の相違があり、人には身分の上下の区別があって、同一の事物も様々な記号を有しているため、我々の実態を明らかにしようとすることはますます面倒である。
比較するだけでも畏れ多いが、天子の死は『崩御』といい、身分の低い者の死は『クタバル』といい、鳥の死は『落ちる』といい、魚の死は『上がる』といって、しかも死は同一のようである。
もし人生を取り上げて詳細に分析することができるならば、天上にある星や磯にある細かい砂の数も容易に計算することができるであろう。


小説はこの複雑な人生の一側面を描くものである。
一側面ではあるが、それでもなお単純ではない。一側面を描いていても非常に優れて神がかっている小説には、事物の複雑さを上手く総合して1つの本質的な道理を見て取ることができる。
私は『エリオット』
(注:イギリスの作家:ジョージ・エリオット)の小説を読んで、生まれながらの悪人がいないことを知った。
また罪を犯す者は許すべきであり、かつ憐れむべきであることを知った。
行動の全てが、私の運命に関係することを知った。
『サッカレー』
(注:イギリスの作家:ウィリアム・サッカレー)の小説を読んで、正直者が馬鹿を見ることがあることを知った。
ずる賢い者が世間で重宝されることがあることを知った。
『ブロンテ』
(注:イギリスの作家:シャーロット・ブロンテ)の小説を読んで、人に信仰心があることを知った。
思うに小説には境遇を叙述するものがあり、品性を写すものがあり、心理を解剖しようと試みるものがあり、直観的に世の中を見抜くものがあり、それら4要素がそれぞれの方面に向かって我々に教えてくれる所が大きい。
しかし人生は心理的解剖で解明しきれるものではないし、また直観で見破りきれるものでもない。
私は人生において、これら以外に一種不可思議なものがあるはずだと信じている。


いわゆる不可思議とは『キャッスル オブ オトラント』(注:イタリアにある『オトラント城』。イギリスの作家:ホレス・ウォルポールによる史上初のゴシック小説『オトラント城奇譚』の舞台となった。)の中の出来事ではない。
『タム・オ・シャンター』
(注:スコットランドの詩人:ロバート・バーンズによる魔女伝説の詩『シャンタ村の農夫タム』)を追いかけた妖怪ではない。
『マクベス』
(注:イギリスの劇作家:ウィリアム・シェイクスピアによる『マクベス王』の生涯を描いた戯曲。)の眼前に現れる幽霊ではない。
『ホーソーン』
(注:アメリカの作家:ナサニエル・ホーソーン。ゴシック小説で有名。)の文章や、『コールリッジ』(注:イギリスの詩人:サミュエル・テイラー・コールリッジ。神秘的・怪奇的な幻想詩で有名。)の詩の中に登場するような人物という意味ではない。
私が言う不可思議とは、自分自身が手を振り目を動かしているのに、何が原因で手を振り目を動かしているのか自分自身でも分からないような、原因と結果の大原則を無視して、自己の意思を離れ、突然に起こり、まっしぐらにやって来るものをいう。
世間では、これを名づけて狂気と呼ぶ。狂気と呼ぶのも、もちろん悪くはない。
しかしこの種の振る舞いをとらえて狂気として安易に処理する者たちは、他人に対してこのような失礼な称号を与えるのに先立って、自分たちもまたかつて狂気したことがあることを自認しなければならないし、またいつでも狂気しうる資格を持っている動物であることを承知しなければならない。


『自分自身のことは自分自身で分かっていて当然である』というのは中国の豪傑の言葉である。
人々が自分自身のことを分かっているならば、勿論文句はないのである。
他者のことを馬鹿と言う者がいるが、これは自分が利口であるときに言っている批評であって、自分もまたいつでも馬鹿の仲間入りをするのに充分な可能性を有していることに気が付かない者の批評である。
現下の局面に対処している当事者は迷い、それを傍観している者は笑うが、傍観者は必ずしもその局面に上手く対処する能力がないから始末が悪い。
『自分自身のことをはっきり分かっている者は少ない』というのは世間で言われていることであるが、私は『自分自身のことをはっきり分かっている人間などいない』と断言しようと思う。


これを『ポー』(注:アメリカの作家:エドガー・アラン・ポー。史上初の推理小説と言われる『モルグ街の殺人』の作者。)に尋ねてみると、ポーが言うには『人々が自己の胸の内をさらけ出して思いのままを叙述すれば、すぐに功名が手に入るはずである。
しかし人が思いのままを書こうとして筆をとれば、筆はたちまち抜け落ちてしまうし、紙をのばせば紙はたちまち縮んでしまう。
素晴らしい名声が容易に手に入ることを知りながら、みんなが躊躇して実行できないのはこのためである。』とのことである。
『自分自身のことは自分自身で分かっていて当然である』という言葉を考えるにあたって、『ポー』の言葉を繰り返しよく読んでみれば、なるほどと思い当たる所が多いであろう。
思うに人は夢
(注:ここでは夢想・妄想・幻想に近い。)を見るものである。思いもよらない夢を見るものである。
夢から覚めた後、冷や汗が背中に広がり、あっけにとられて我を忘れてしまうことがある。


『夢の話ならば、どうということはない。』とあざ笑う者は、応用力のない者である。
(注:前回同様、ここでは夢想・妄想・幻想に近い。)は必ずしも夜中に寝ているときにだけ人間の脳内にやって来るものではなく、晴れ渡った真昼にもやって来るし、大きな道の真ん中を歩いているときにもやって来るし、正装した儀式の最中にさえ容赦なく扉を破って侵入して来る。
夢は微妙な状況下でも突然やって来て我々に死ぬほど恥ずかしい思いをさせるが、それがどこからやって来るのかは勿論分からないし、それがどこに行ってしまうのかもまた分からず、しかも人生の真実の姿の半分はこの夢の中にあってはっきり分からないものである。
この自己の真実の姿をさらけ出すことが名声を得る近道であるが、この近道を行くことは卑怯な人類にとって最も難しいことである。
願いが叶うならば『自分自身のことは自分自身で分かっていて当然である』などと言う者に、誠実にその者の心の歴史を書かせたいものである。
そうすればその者は必ず自分自身のことを分かっていないことに驚くであろう。


三陸地方の津波や濃尾地方の地震などを天災と呼び、天災とは人間の意思ではどうすることもできないものである。
人間の行為は良心の制約を受け、意思の命令に従い、行為の全てについて自分が責任を負うものであるから、勿論洪水や飢饉などと同一に論ずるべきではないが、良心は常に必ず作用するわけではないし、人間の両手両足は必ずしも自分の意思のとおりに動くわけでもなく、ひとたび異常事態に直面すれば、あっという間に理性を失い、どん底に落ち、暗闇の中を跳ね回ることも多いのである。


異常事態に直面したときには、自分の肉体・精神には秩序もなく、系統もなく、思慮もなく、分別もなく、ただ衝動的に行動する自分を制御することもできない。
もし津波や地震が、人間の意思ではどうすることもできないものだとするならば、この衝動的な行動もまた、人間の意思ではどうすることもできないものであろう。
『殺人罪を犯した者は死刑になる』というのは世の中の決まりである。
しかし自分が死刑になることを覚悟して他人を殺す者は少ない。
呼吸が苦しくなり刃がするどく光るこの瞬間には、既に理性を失っていて自分の命があるかどうかも分からないし、敵がいるかどうかも分からない。
そうだとすれば、殺人を犯す行為は人間の意思によるのか?
それとも津波や地震と同じように、天の意思
(注:ここでは自然現象に近い。)によるのか?

山奥に住んでいる老作家が1人で部屋の中に座り、原稿作成に向けてアイディアを練っているときには、両頬は火のように真っ赤に上気し、のどの奥から絞り出すような声が漏れてくる。
原稿作成に取りかかっても、何日も経たなければアイディアは出てこない。
心の中であれこれとアイディアを考えているときには非常に苦しそうであるが、いざアイディアが思い浮かんだときには非常に喜び、衣服を引っ張って、床を転げ回りながら狂ったように叫ぶのである。
『バーンス』
(注:スコットランドの詩人:ロバート・バーンズ。名言紹介(13)参照。)は詩を作るとき、川のほとりをあてもなく歩き回ったという。
あるときは苦しみながらうめき声をあげ、またあるときは小声でブツブツと詩を唱えたというが、アイディアが思い浮かんだときにはたちまち大声で詩を詠み、むせび泣いたという。
西洋人はこの種の行動を名付けて『インスピレーション』
(注:ここではひらめき・素晴らしい思いつきの意。)と呼ぶが、『インスピレーション』とは人間の意思によるのか?それとも天の意思(注:前回同様、ここでは自然現象に近い。)によるのか?

『デクインシー』(注:イギリスの評論家:トマス・ド・クインシー)が言うには『世の中には人の心がどのくらい善で、またどのくらい悪であるかを知らないで過ごしている者がいる。」とのことである。
他人のことに関しては、そのように思うのも当然であるが、私は『デクインシー』に反問したい。『君は君自身がどのくらいの善人で、またどのくらいの悪人であるかを分かっているのか?』と。
これはただ善悪の問題だけではないであろう。
臆病さと勇敢さ、強さと弱さ、能力の優劣など、全てこの反問の中に入れることができるであろう。
平穏なときには天が落ち地が欠けても驚くことはないだろうと思っていても、ひとたび異常事態に直面すれば、ネズミのフンが梁(はり)の上から落ちただけでも、驚きのあまり気力を失うほどの原因となる。
自分でも悔しいと思うが、どうしようもない。


源氏征伐の命令を受けて、はるばる富士川(注:現在の静岡県のあたりに所在。)まで押し寄せた7万以上の平家の大軍が、水鳥が一斉に飛び立つ羽の音に驚いて、1本の矢を射ることもなく逃げ帰ってしまう場面は、平家物語を読む者が馬鹿馬鹿しいと思うところであろう。
ただ単に後代に生きる我々が馬鹿馬鹿しいと思うだけではなく、当人である平家の侍達も翌日にはさぞかし悔しいと思ったことであろう。
けれども彼らは富士川に野営した夜に限って、急にそろいもそろって臆病風に吹かれたものであり、この臆病風は西暦1180年10月23日の真夜中に突然吹いてきて、7万以上の大軍の陣中を駆け巡り、翌24日の明け方になって静かに収まった。この臆病風の行方を知る者は誰もいない。


犬に吠えられて『あれ?自分は泥棒なのかな?』という結論を下す者については、よほどの馬鹿者か、非常なあわて者だと判別することができるであろう。
けれども現実の世界では『自分は賢い人間だ』と思い、他人からも『智恵のある人間だ』と見られている者であっても、この病気にかかることがある。
日頃は『自分は豪胆な人間だ』といばっている者が肝心な場面で怖じ気づいてしまったり、日頃は『卑怯な人間だ』と他人から言われている者が、急に猛烈な勇敢さを見せたりすることがあるが、これらは全て『自分自身のことを理解したいと思っても、理解しきることはできない』という現象である。
ましてや他人のことを理解しきることなど、できるはずがない。
2個の点を定めれば、これを通過する直線の方向が分かるというのは幾何学
(注:図形や空間の性質について研究する数学の分野)の分野のことであるが、我々の行為については2個の点を定め3個の点を定め、100個の点まで定めたとしても、人生の方向は分からない。

人生は1個の理屈にまとめることができないものであるが、小説は1個の理屈を暗示するに過ぎないものであるし、『サイン』や『コサイン』などを使用すれば三角形の高さを測ることができるというのが幾何学(注:前回同様、図形や空間の性質について研究する数学の分野)の一般的な理論であるが、我々の心の中には底がない二等辺三角形があるのであって、二辺が平行している三角形の高さは測りようがない。
もしも人生が数学的に説明しきれるものならば、もしも与えられた材料から『X』という人生が発見されるものならば、もしも人間が自分の意思で自分の行動を完全に制御できるものならば、もしも詩人や芸術家や小説家が創作した人生の他に人生がないのであれば、人生はよほど便利であって、人間はよほど偉いものである。
予想外の異常事態が自分の身の回りに起こると、自分でも思いもよらないような心が心の底から出てきてしまうものであり、しかもそれは容赦なくかつ乱暴に出てきてしまうものである。
津波や震災は、三陸地方や濃尾地方だけに起こるものではなく、我々の心の中にもその発生源があるのであるから、我々は誰もが自分自身の中に理性では制御しきれない危険性を抱えていることを自覚して、その危険性が顕在化しないように用心しながら生きていかなければならないのだ。

 

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