夏目漱石 方丈記の英訳の和訳 |
2017.8.11 更新2017.8.15
夏目漱石は、まだ文科大学の学生だった24歳の時に、教師のディクソンの依頼で方丈記の英訳と、英文の小論を書きました。
漱石は、1980年9月に東京帝国大学文科大学英文科に入学したのですが、入学したのは漱石一人で、その教師がディクソンだったわけです。
小論の日付は、1981年12月ですから、1年3ヶ月経っています。
漱石は、大学は、1983年7月に卒業し、大学院に進むとともに、東京高等師範学校の英語教師となります。
さて、彼がどういう英文を書くかは、彼が英語のどういう勉強をしてきたかのヒントになると思いますので、ここに、英文と、その直訳を示します。
この小論は、 結構、長文で難解な英語です。漱石が、日本語で考えた文章を英語に直したのか、それとも、はじめから日本語で考えたのかよくわかりません。
漱石全集の第26巻には、山内久明さんによる小論文の和訳がありますので、日本語で内容をお知りになりたい場合は、そちらをお読みください。
なお、方丈記の方は、5つの災害のうち、最初の安元の大火と、治承の辻風は、翻訳されていますが、福原遷都、養和の飢饉、元暦の地震は省略されています。
翻訳にあたり、日本語と英語の根本的な違いにより、翻訳には、かなり苦労したようです。
一番最後の文章で、文学的な仕上げや優雅さについては、他の人におまかせしたいと書いています。
A short essay 小論
The literary products of a genius contain everything. 天才の文学作品は、すべてを包含している。
They are a mirror in which every one finds his image,
reflected with starling exactitude;
それらは、鏡である、そこに、皆は、自分の像が、驚くべき正確さで映るのを見る、
they are a fountain which quenches the thirst of fiery
passion, refreshes a dull, dejected spirit, cools the hot care-worn temples and
infuses into all a subtle sense of pleasure all but spiritual;
それらは、泉である、燃えるような情熱の渇きを癒し、鈍く消沈した精神を呼び覚まし、悩み疲れた熱いこめかみを冷やし、殆ど霊的ともいえる微妙な喜びの感覚を全体に注入する。
an elixir inspiring all, a tonic elevating all minds. すべてを鼓舞する不老不死薬であり、すべての精神を高揚する強壮剤である。
The works of a talented man, on the other hand, contain
nothing.
才ある人の作品は、それに対して、何も包含していない。
There we find fine works, finely linked together and
fine sentiments, also finely interposed.
そこには、すばらしい作品が、お互いに素晴らしく関係づけられていて、素晴らしい感情が、これまた素晴らしく差しはさまれている。
But then they are only set up for show. しかし、それらは、見せるためだけに作り上げられたのです。
Like a mirage, they strike us for a moment with
astonishment, but soon slip out of our mental vision because of their
unsubstantiality.
蜃気楼のように、それらは、私たちの心を一瞬驚きで打ちます、しかし、すぐに、その実体のなさのために、私たちの心の目から滑り落ちます。
We may be amused by them just for an hour or so, then
dispense with them forever without incurring any loss to our intelectual
storehouse.
一時間やそこらくらいであれば、それらに面白がることもできましょうが、そのあと永遠にそれらなしで済ますことができます、私たちの知識の宝庫になんら損失をもたらす事なしに。
Again there is a third class of literary production
which stands half-way between the above two and which will perhaps be most
clearly defined by the name 'works of enthusiasm'.
さて、第三のクラスの文学作品があります、上記の二つの真ん中にたち、『情熱の作品』という名前で最も明確に定義されるものです。
Books of this class are not meant for all men in all
conditions, as are those of a genius, nor are they written from the egotistic
object of being read, nor as a pastime of leisure hours, as those of a talent,
このクラスの書籍は、あらゆる条件下のあらゆる人向けではありません、天才の書籍がそうであるようには、また、それらは、読まれるという利己主義的な目的のために書かれたのでもありません、また、才ある人の書籍のように、余暇の時間の気晴らしとして書かれたものでもありません。
but they are the outcome of some strong conviction which
satiating the author's mind finds its outlet either in the form of a literary
composition or in that of natural eloquence.
しかし、それらは、ある力強い信念の産物です|著者の精神を満足させながら、文学作品の形か、自然な雄弁の形で、そのはけ口を見出す|。
They are not the result of forced labour or of
deliberate artifice, but are feats accomplished, so to speak, spontaneously.
それらは、強制された労働や入念な技巧の結果ではなく、いわば、自然発生的に達成された功績なのです。
At their best where the conviction is so profound as to
be raised to the level of truth itself, and the passion attains a white heat,
they are in no wise separated from the works of genius.
最善の場合で、信念が大層深くて真理そのもののレベルまで高められ、情熱が白熱状態に達する場合には、それらは、決して、天才の仕事と区別されはしない。
Even in the worst, they can not fail to attract some
readers whose view of life runs in the same groove as the author's, nor can they
cease to be a source of pleasure to those whose temperaments happen, in certain
points, to sympathize with his.
最悪の場合ですら、それらは、人生観が著者と同じわだちを歩む読者たちの心を必ずやつかむでしょうし、気質が、或る点においてたまたま著者の気質と共感する読者たちの喜びの源となることを止めないでしょう。
For whether they be short or long, elaborate or
succinct, they are invariably earnest in tone.
というのは、それらが、短かろうが長かろうが、精巧であろうが簡素であろうが、それらは、不変に、トーンが真剣なのです。
And earnestness is that quality which carries us along
with it, whether we will or not.
そして、真剣さは、私たちを導いてくれるその特質なのです、私たちが望もうとも、望まざろうとも。
Writers of this class are however subject to a certain
disadvantage from which the other two are generally free.
このクラスの作家達は、しかし、ある不利益を被っています|他の二つのクラスの作家達が一般的には免れている|。
When their thoughts are too uncommon or too abstruse,
they cannot, as a matter of fact, have many readers.
彼等の考え方が、余りに非日常か余りに難解なとき、彼等は、実際のところ、多くの読者を獲得することができない。
The intellectual flames, too fine and subtile to catch,
the average mind, have no power, in this case, to kindle a spiritual fire in it,
the appeal to whose common sense is a decided mark of popularity.
知的な炎が、余りに精緻で捉え難いときには、並みの精神は、自らの中に霊的な炎を灯す能力をもちません、並みの精神の常識に訴えかけることは、人気を博すことへの決定的な印なのです。
In such cases, they are generally superseded by
transient luminaries of minor dimensions and doomed to sink into oblivion,
hiding that one talent "lodged in them useless".
そのような場合(並みの精神に訴えかけない場合)、彼等は、低次元の一時的に輝く作家達にとってかわられ、忘却の中に沈み込むように運命つけられています、『彼等の中に宿った役立たずの』あの能力を隠したまま。
説明 lodged in them useless は、John Milton の On his blindness という自伝的な詩の中の言葉のようです。
Still popularity does not make a poet or an author,
any more than the average sentiment for the beautiful would make aesthetics.
それでも、人気が詩人や作家を作るわけではない、美に対する並みの感性が、美的感覚をつくるのではないのと同様に。
Paradoxical though it may seem, an author's real power
is someetimes in inverse ratio with his popularity.
逆説的に見えるかもしれないが、作家の真の実力は、しばしば、人気と逆比例する。
For if he fails to appeal to mankind at large, he may
still appeal to a select few whose opinion is far more valuable than the
applause of the multitude.
というのは、もし彼か人類全体に訴えかけ損ねたとしても、彼は、まだ選ばれた少数に訴えかけ得るかもしれない、選ばれた少数者の意見は、多数社の称賛よりもずっと価値があるのです。
As in the case of intellect where to recognise a truth
is not the lot of every man, though he be endowed with the same faculty of
reasoning and the same form of understanding as others,
知性の場合、すべての人は、他人と同じ推理力と同じ理解形式を持っているにも関わらず、どこで真理を認識するかは、すべての人の定めではないのと同様に、
just so in the province
of literature, it does not lie within every man's power to appreciate a work of
high merit which seems at first sight to be meaningless or even repulsive.
文学の領域においても、一見したときに無意味であり、反発を感じさせさえするが高い価値を有している作品の真価を認めることは、すべての人の能力内にあるわけではない。
We may safely lay down the proposition that no one will
deny the simple truth that two and two make four,
私たちは、安心して述ぺることができます|二足す二は四であるという単純な真理は誰も否定しないという意見を|。
but we doubt whether there is
one in every ten who will consent to the statement that the world's onward
course consists of the gradual unfolding of the Mundane Spirit.
しかし、私たちは、いぶかります|10人中に1人いるかどうかも|世界の進む道は、『この世の霊』が順次展開していくことから成るという陳述を|。
説明 大文字の Mundane Spirit が、何を指しているのか、わかりません。
Nor would any one except the cultured acknowledge the
truth that space and time are not objective realities but only the necessary
forms of subjective cognition.
また、教育を受けた人以外は、誰も、認めないでしょう|空間と時間は、客観的な実在ではなく、主観的認識の必然的な形態にすぎないという真理を|。
説明 漱石は、英国留学中に、観念論や経験論の哲学を勉強しますが、留学前から、観念論の主張は知っていたようですね。
This difference between common sense and philosophy,
may, to a certain degree, be stated as existing between common sense and
literature.
常識と哲学の間のこの違いは、ある程度まで、常識と文学の間にも存在すると言っていいかも知れない。
For, as M. Taine wisely remarks, under every literature
lies a philosophy and a philosophy which is a mere skeleton, becomes a
literature when clothed with flesh and blood.
というのは、いみじくもテーヌ氏が言ったように、すべての文学の下には哲学があり、単なる骨格である哲学は、血と肉をまとったときに、文学となるのです。
説明 Monsieur Hippolyte Adolphe Taine (21 April 1828 - 5 March 1893) は、フランスの批評家・歴史家。
Common people who look only at the outward semblance are
struck dumb with admiration, where it is shaped with such a skill as in the case
of a great artist, and stand gazing on, untill they forget to consider what a
grim ungainly bony case is concealed within.
外向きの見せかけしか目にしない普通の人達は、偉大な芸術家の場合と同様な技巧で形造られていると、称賛して押し黙り、立って眺め続け、なんといかつく不格好な骨格が中に隠されているかを考えることを忘れてしまいます。
But where both flesh and blood are scantly in quantity
and are subordinated in treatment to the structure of the skeleton, so that its
ugly frame may be seen through the skin, people are generally scared and will
soon take to their heels.
しかし、血も肉も量的に少なく、取り扱い上、骨格の構造の下位になり、その醜い骨格が皮膚を通して見えるような所では、人々は、一般的には怖がり、すぐに、逃げ出すでしょう。
Only firm and robust minds can resist the momentary
shock and find there something attractive;
強固で頑強な精神のみが、この瞬間のショックに耐え、そこに何か魅力的なものを見出すことができるのです;
or persons with a peculiar bent of
mind who find their likenesses reflected there, can truly sympathize with those
seeming apparitions.
もしくは、精神が特別な性向をもち、自分の似姿がそこに反映されていることを見出す人達が、これらの見せかけの亡霊に真に共感できるのです。
An apparition, possibly, the following piece may seem
to most of us, inasmuch as only a few can nowadays resist its angry isolation and
sullen estrangement from mankind, still fewer can recognise their own features
reflected in it.
亡霊に、おそらく、以下の作品は、多くの私たちにとって、見えるかもしれません、限りにおいて|今日、本の少しの人しか、人類からの怒りの疎外と不機嫌な離別に抵抗できず、さらに少しの人しか、そこに反映された自身の姿を認めることができないという|。
Philosophical arguments too may be urged against the
author's narrow-minded pessimism, his one-sided view of life, his complete
renunciation of social and family bonds.
哲学的な議論も必要かも知れません、著者の狭心な悲観主義、一方的な人生観、社会と家族の絆の完全な拒絶に反対して。
With all that, the work recommends itself to some of us
for two reasons:
それにもかかわらず、この作品は、幾人かの人達に、二つの理由で薦められます:
first for the grave but not defiant tone with which the author
explains the proper way of living, and represents the folly of pursuing shadows
for happiness,
第一に、厳粛ではあるが、挑戦的ではない口調のため、その口調で著者は、正しい生活の仕方を説明し、幸福の幻影を追及するおろかさを表現しています、
secondly for his naive admiration of nature as something capable
of giving him temporary pleasure, and his due respect for what was noble in his
predecessors.
第二に、著者につかのまの喜びを与えることができるものとしての自然に対して彼が素朴に賛美しているため、そして、彼の先人たちにおいて高貴であったものに対して彼がしかるべき尊敬を示しているために。
It is an inconsistency that a man who is so decidedly
pessimistic in tendency should turn to inanimate nature as the only object of
his sympathy.
性向が断固として悲観主義的な男が、共感の唯一の対照として生気をもたない自然に目を向けるというのは、矛盾です。
For physical environments, however sublime and
beautiful, can never meet our sympathy with sympathy.
というのは、物理的な環境は、いかに崇高で美しくあろうとも、私たちの共感に共感で迎えてくれることは決してないからです。
We can not deny that we are sometimes inspired by her
grandeur, --- which however is not the case with Chomei ---
私たちは、時に、自然の壮大さに霊感を受けることは、否定できません --
しかし、これは長明の場合ではありません --
but the inspiration
comes only through some mechanical influence as in the case of an electric shock
acting powerfully upon our system, and not through anything like spiritual
communication which may exist between man and man.
しかし、霊感は、私たちのシステムに協力に作用する電気ショックの場合のように、ある力学的な影響のもとにやってくるのであって、人と人の間に存在するかもしれない霊的な交信を通してやってくるのではありません。
After all, nature is dead. 結局のところ、自然は、死んでいます。
Unless we recognize in her the presence of a spirit, as
Wordsworth does, we cannot prefer her to man, nay we cannot bring her on the same
level as the latter, as our object of sympathy.
ワーズワスがしたように自然の中に霊の存在を認めない限り、私たちは、人間よりも自然を優先することはできません、それどころか、私たちは、共感の対象として、自然を人間と同じレベルにもってくることはできません。
Man with all his foibles and shortcomings, has still
more or less sympathy for his fellow creatures.
人間は、欠点や欠陥をたくさん持っているにもかかわらず、多かれ少なかれ、同胞に共感を抱くのです。
Granting that love deepens where sympathy is reciprocal,
we find no reason why we should renounce all human ties and sullenly fly to
cold, unsympathetic nature as the only friend in the world, who is really
harmless.
お互いが共感するところに愛が深まるとして、私たちが、すべての人の絆を放棄して、冷たい共感の無い自然に、それが無害の世界で唯一の友達として、陰気に飛び移らなければならない理由はありません。
Harmless she may be, but can never be affectionate! 自然は、無害かもしれませんが、決して愛のこもったものではありません。
In the second place, Chomei forsook the world,
because, he tells us, all earthly things are precarious in state, fortuitous in
nature and therefore not worth while aspiring after.
第二に、長明はこの世を見捨てましたが、それは、彼が言うには、すべてこの世の物は、状態が不安定で、本来偶発的で、それ故、追い求めるに値しないからです。
Why then did he look so indulgently upon nature which is
not a jot less subject to change?
それでは何故、彼は、実に移ろいやすい自然にそんなに甘いのか?
Why did he not renounce her in the same breath with
which he renounced life and property?
何故彼は、命や財産を放棄したその同じ息で、自然を放棄しないのか?
It is still more unaccountable that such a professed
misanthrope as Chomei should find any interest in some particular individuals
who had gone before him.
長明のような自称厭世家が、彼の前に生きた何人かの特定の個人に興味を抱いたということは、なお更に説明不能です。
Be that as it may, however, we are not concerned merely
with his inconsistencies, of which he has many.
しかし、そうであるとして、私たちは、彼の矛盾だけに興味をもつのではありません、矛盾を彼は一杯持っていますが。
In spite of all these drawbacks, the author is always
possessed with grave sincerity and has nothing in him, which we may call
sportive carelessness.
これらすべてにもかかわらず、長明は、常に厳粛な誠実さをもっていて、彼の中には、ふざけた軽薄さと呼ばれるようなものは何もありません。
If he can not stand critical analysis, he is at least
entitled to no small degree of eulogy for his spotless conduct and ascetic life
which he led among the hills of Toyama, unstained from the obnoxious influence
of the Mammon-worshipping, pleasurehunting ugly world.
長明が、批判的な分析に耐え得ないとしても、彼は、少なくとも、少なからずの称賛に価します、彼の非のうちどころのない行いと、禁欲的な生活において、この生活を彼は外山の丘で過ごしました、拝金主義の不快な影響に汚されることなく。
Chomei's view of life which has been implicitly
mentioned above, may well be illustrated by a quotation from Shakespeare:
これまでに暗黙的に述べた長明の人生観は、シェークスピアからの引用で説明することができます:
"The cloud-capp'd towers, the georgeous palaces, 雲を頂いた塔、豪華な宮殿
The solemn temples, the great globe itself, 荘厳な神殿、偉大な地球自身
Yea, all which it inherit, shall dissolve そう、地球が受け継ぐすべては、溶解する
And like this insubstantial pageant faded, そして、この実体のないショーが消え去るように
Leave not a rack behind. We are such stuff 後にrackを残さない。私たちは、こういうもの
As dreams are made on and our little life 夢が紡ぎ出されるように、そして、人の人生は
Is rounded with a sleep." 眠りで終わる。
説明 この引用は、テンペスト、第4章1場152-158行からです。
Considering the particular social circumstances under
which he lived, his peculiar turn of mind much hardened by his personal
experiences as well as the strong influence which Buddhistic theology exerted
upon his thought,
彼が生きた特別な社会環境や、彼の個人的な経験によってさらに硬化した彼特有の気質と、それに、仏教が彼の思想に及ぼした強い影響を考えると
it is not surprising he was irresistibly driven into an
ethereal region where eternal mind calmly sits by itself, emancipated from all
objects of ephemeral nature.
驚くにはあたらない|[彼が、抗し難く駆られたことは|幽玄の領域に|永遠の心が自ら静かに座り、短命な性質のすべてのものから解放されている|]|。
Thus to him, to be up and doing, still achieving, still
pursuing, seemed the greatest folly of all follies.
かくして、長明にとって、立って、行い、さらに成就し、さらに追及することは、あらゆる愚かさの中の最も愚かな事にみえたのです。
Rather like 'the hermit of the dale' he might invite
others: --
むしろ、「谷間の隠とん者」のように、彼は、人を招いたでしょう: --
"Then, pilgrim, turn, thy cares forego; それで、巡礼のお方よ、向きを変えて、煩い事を捨てなさい:
All earth-born cares are wrong: すべて、この世で生まれた煩い事は間違いです:
Man wants but little here below, 人はほんの少ししか欲しません、ここ下界では:
Nor wants that little long." そのほんの少しも、長くは欲しません。
説明 ゴールドスミスのバラード詩 Edwin and Angelina の 29-3229-32行からの引用です。
Deeply impressed by the insecurity of life and
property, he fled to nature.
生活や財産の不安定さに深く影響されて、長明は自然に逃れました。
There among flowers and rocks, he quietly breathed his
last.
そこで、花や岩に囲まれて、彼は静かに息を引き取りました。
Let a Bellamy laugh at this poor recluse from his
Utopian region of material trimph;
一人のベラミに、笑わさせよ、物質的勝利のユートピア世界から隠居したこの世捨て人を;
説明 Bellamy は、19世紀末のアメリカの小説家・社会批評家
let a Wordsworth pity him who looked at
nature merely as objective and could not find in it a motion and a spirit,
rolling through all things;
一人のワーズワスに憐れませよ、自然を単に客観的なものとみなし、その中に、動きや霊が万物のなかを転がっているのがわからない彼のことを:
let all those whose virtue consists of sallying out
and seeking his adversary, turn upon him as an object of ridicule:
出撃して敵を見つけることを長所とするすべての人に、彼をあざけりの対象として向かわさせよ:
for all that
he would never have wavered from his conviction.
これらすべてにもかかわらず、長明は、彼の信念から決してぐらつかなかったでしょう。
Of Chomei's life a few sentences suffice to tell you
all.
長命の生涯については、ほんの少しの文章で、十分あなたに伝えられます。
He lived in the latter half of the twelfth century, and
was the son of the rector of the Kamo temple in Yamashiro.
彼は、12世紀の後半に生き、山城の賀茂神社の宮司の息子でした。
His solicitations to succeed to his father's position
being refused, he shaved his head in vexation and retired to the sequestered
village of Ohara.
父の地位を継ぎたいと言う懇願が拒絶され、悔しさで剃髪して、大原の人里離れた村に退きました。
At the invitation by Sanetomo, he went to Kamakura and
was a guest of that prince for a time.
実朝の招きで、彼は鎌倉に行き、しばらく、実朝の客人となりました。
He spent in seclusion the remainder of his life in
Toyama.
彼は、余生を外山で、隠とんしてすごしました。
He was well acquainted with the art of composing
Japanese verse.
彼は、詩歌の道に通じていました。
Many pieces of his are found in a collection called
Choku-sen (Imperial selection).
彼の作品の多くは、勅撰集のなかに収められています。
Besides the Hojoki, he wrote the Ei-gioku-shu, the
Mumyo-sho, Hosshin-shu, Shiki-monogatari and others.
方丈記のほかに、彼は、栄玉集、無明抄、発心集、四季物語などを書きました。
In rendering this little piece into English, I have
taken some pains to preserve the Japanese construction as far as possible.
この小品を英語に翻訳するにあたり、私は、日本文の構造をできるかぎり保持するように苦心しました。
But owing to the radical difference both of the nature
of language and the mode of expression, I was obliged, now and then, to take
liberties and to make slight omissions and insertions.
しかし、両方の言語の性質や表現様式の根本的な違いにより、私は、時々、自由に多少の省略や挿入を行わざるをえませんでした。
Some annotations have also been inserted where it seemed
necessary.
必要と思われるところでは、いくつか注釈を加えました。
If they be of the slightest use in the way of clearing
up the difficulties of the text, my object is gained.
もし、それらが、テキストの難しさを解消するに少しでも役に立つなら、私の目的はかなえられました。
After all, my claim as regards this translation is fully
vindicated, if it proves itself readable.
結局、この翻訳に関する私の申し立ては、もし、それが読めるものであるとすれば、十分に証明されます。
For its literary finish and elegance, I leave it to
others to satisfy you.
その文学的な仕上げと優雅さについては、他の人におまかせしたい。
5th December , 1891
K. Natsume
Hojo-ki 註 方丈記
註 This title may be rendered into English as 'a
description of a little house'.
このタイトルは、英語に翻訳すると、「小さな家の記述」となります。
'Ki' is the Chinese term which
represents one of the primary divisions of prose composition.
記は、中国語で、散文を作文するときの主要な区分の一つを表します。
'Hojo' literally means 'ten feet by
ten', which Chomei gave to his house as its name to denote the smallness.
「方丈」は、文字上、「10フィート×10フィート」を意味します。長明は、彼の家の小ささを示すために、この名前をつけました。
序
Incessant is the change of water where the stream
glides on calmly:
水の変化は絶え間なく、河は静かに流れる:
the spray appears over a cataract, yet vanishes without
a moment's dalay.
水しぶきが、大滝の上にかかり、そして、一瞬の遅れもなく消え去ります。
Such is the fate of men in the world and of the houses
in which they live.
これが、この世の人とその住む家の運命です。
Walls standing side by side, tilings vying with one
another in loftiness, these are from generations past the abodes of high and low
in a mighty town.
壁が隣り合って立ち、屋根瓦が互いに高きに争っている、これらは、過去の世代にわたって、強大な都の貴賤のものたちの住処です。
But none of them has resisted the destructive work of
time.
しかし、それらのどの一つも時間の破壊的な仕業に耐えられません。
Some stand in ruins; others are replaced by new
structures.
いくつかは、廃墟となり、他のものは、新しい建物に入れ替わっています。
Their posessors too share the same fate with them.
家の持ち主も、家と同じ運命をたどります。
Let the place be the same, the people as numerous as
before,
場所は同じとしよう、人は、以前と同じく多い。
yet we can scarcely meet one out of every ten, with whom
we had long ago a chance of coming across.
それでも、昔出会う機会のあった人は、十人のうち一人に会うこともほとんどありません。
We see our first light in the morning and return to our
long home next evening.
私たちは、最初のあかりを朝に見て、お墓に次の夕べに戻ります。
Our destiny is like bubbles of water. 私たちの運命は、水の泡のごとし。
Wence do we come? Whither do we tend? 私たちはもどこから来るのか? 私たちは、どこへ向かうのか?
What ails us, what delights us in this unreal world? この非現実的な世界で、何が私たちを悩まし、何が私たちを喜こばせるのか?
It is impossible to say. それを語るのは難しい。
A house with its master, which passes away in a state of
perpetual change, may well be compared to a morning-glory with a dew drop upon
it.
家とその主人は、永遠の変化の状態で過ぎ去り、露が一滴ついた朝顔と比較できましょう。
Sometimes the dew falls and the flower remains but only
to die in the first sunshine:
時に露は落ち、朝顔は残りますが、最初の朝日を浴びて枯れるだけです。
sometimes the dew survives the drooping flower, yet can
not live till the evening.
時に、露が、しおれる花よりも長持ちします、しかし、夕方までもつことはできない。
安元の大火
More than forty years of existence have rewarded me
with the sight of several wonderful spectacles in this world.
40年以上生きてきて、この世のいくつかの不思議な光景を見ることに恵まれました。
On the 28th of April in the 3rd year of Angen (1177)
when the wind was raging and the night was boisterous, a fire broke at eight
o'clock in the south-eastern part of the city and spread towards the north-east.
安元三年(1177年)の四月、風が怒り狂い、夜が荒れ狂ったとき、夜八時に都の南東で、火事が起こり、北東の方向に拡がりました。
The Sujakuden 註, the Daikyokuden, the
Daigakurio, and the Mimbusho were all reduced to ashes in one night.
朱雀殿、大極殿、大学寮、民部省は、皆、一夜のうちに灰燼となりました。
註 Sujakuden and Daikiokuden are the names of two imperial palaces.
Daigakurio was an educational institution like modern university.
Mimbusho was an official institution corresponding to the present Department for Home Affairs.
A temporary structure at Tominokoji in Hinokuchi where
the sick were lodged, was said to be the starting-point of the winged
conflagration.
樋口の富の小路の仮設建物が、病人たちを宿泊させていて、羽根を開いたような大火の火元といわれています。
Caught by the wind hovering around, the fire soon
proceeded thence in the form of an open fan.
空中を舞う風に捕らえられて、火は、急いで進み、開いた扇の形に拡がりました。
It enveloped註 distant houses in smoke, and
licked with fiery tongues the neighbouring ground.
火は、遠くの家々を煙で包み、燃える舌で近傍の地面を嘗め尽くしました。
註 Both the fire and houses are spoken of as if they were
animate.
大火も家も、擬人化して語られています。
Sparks scattered on high, blazing with dazzling light,
presented a brilliant glow of immense dimension.
火花は高く舞い、まばゆい光で燃え盛り、とてつもない大きさの輝く白熱光を示しました。
Amidst this red chaos, the flames driven by the wind,
flew over the distance of one or two cho and found their new home in another
quarter.
真っ赤な混沌のなか、風に運ばれた炎は、一二町飛び越え、新しい地区に移りました。
The inhabitants were of course out of their wits. 住んでいる人は、もちろん、正気を失っています。
Some fell choked with smoke, others died in the
conflagration.
或る者は煙にむせて倒れ、或る者は大火にまかれて死んだ。
Those who fortunately escaped with their lives, lost all
their property.
幸いに命が助かったものも、すべての財産を失いました。
No estimate could be formed of the treasures and riches
that perished.
失った宝や富の見積をつくることもできません。
One third of the city was left a wilderness. 都の三分の一が、荒れ野となりって残されました。
Thousands of people together with an immense number of
cattle, fell victims to this merciless conflagration.
何千もの人と、厖大な数の家畜が、この情け容赦のない大火の犠牲となりました。
Of all human contrivances which prove fruitless, the
feeblest is that effort of theirs to reside in cities which are so dangerous.
無益と分かった人のたくらみの中でも、最も貧弱なものは、こんなに危険な都の中に住もうとすることです。
治承の辻風
On the 29th of February in the fourth year of Jisho
(1180), a whirlwind arose in Kiogoku and rushed toward Rokujo with terrible
vehemence.
治承4年(1180年)2月29日、京極でつむじ風が起こり、ひどく猛烈に六条まで走りました。
Travelling three or four cho in one gust, it wrecked all
the houses standing in its way.
風は、一吹きで三四町も進み、途中にあるすべての家を破壊しました。
Some were thrown down flat upon the ground; others stood
only with their pillars.
或る家は地面に平らに倒れ、或る家は、柱のみ立っていました。
The roofs of gates were blown off, fences were broken
and neighbours found their mansions without any boundaries.
門の屋根は吹き飛ばされ、垣根は壊され、隣人たちは、家の境界がなくなったのを知りました。
Articles of furniture were whirled up into the sky; 家財道具は、空に巻き上げられ;
the bark and thatch which had covered the roofs looked
like leaves before a wintry wind.
屋根を蓋う木の皮や藁は、冬の風に吹かれる葉っぱのようでした。
The dust which, like thick smoke, blinded our eyes, the
raging of the gale which drowned all human voices, reminded one of the Go wind
of Hell註.
厚い煙のように私たちの目をくらませるほこりや、人の声をすべて覆い隠す荒れ狂う突風は、人に、地獄の業の風を思い出させる。
註 Certain Buddhistic books tell us that when the world
comes to an end, a strong wind called Go, shall arise.
ある仏教の本は教えるには、この世が終わる時、業(ごう)と呼ばれる強い風が起こります。
The wind destroyed not only houses, but maimed people
who were engaged in checking its work.
その風は、家を破壊しただけでなく、仕事の検査していた人たちを不具にしました。
It travelled toward the south-west much to the grief of
people living there.
風は、南西の方向に移りました、そこに住む人々にとっては悲痛なことに。
Though a whirlwind usually springs up, such a violent
one is indeed an exception.
つむじ風は、常に起きるものですが、このように激しいのは、実に例外です。
I could not help thinking then that it was meant for a
warning from the Unseen.
見えないものからの警告が意味されていると思わざるをえません。
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(Several paragraphs which follow are devoted to an
account of the removal of the capital to Setstsu in 1180, of the famine during
Yokwa (1181), of the pestilence in the same year, the earthquake in the second
year of Genreki.
(以下に続くいくつかの節は、1180年の摂津への遷都の話、養和の頃(1181年)の飢饉の話、同年の疫病の話、元暦2年の地震の話にあてられています。
All these however are not essential to the true purport
of the piece, so that we can dispense with them with little hesitation.)
しかし、これらは皆、この作品の真の趣旨に本質的ではないので、なんのためらいもなく、それらを省くことができます。)
世上の高まる不安
Such are the evils of the world, the instability of
life and of human habitations.
この世の悪事や、生活と住まいの不安定さは、かくのごとし。
Still greater is the distress which we experience
through the shackles of social bonds.
社会的絆の足かせを通して私たちが経験する苦しみは、より更に大きい。
Those who enjoy the favor of the great may for a moment
be steeped in pleasure, but can not enjoy permanent happiness.
偉大な人の恩顧を受けている人は、つかの間、喜びに浸ることができるかもしれないが、永遠の幸せを楽しむことはできない。
Even forcing back their tears, they sometimes
counterfeit a careless smile, though always restless in demeanour.
涙をこらえながらも、彼等は、時に不注意な笑いを装う|常に振る舞いに落ち着きがないけれども|。
Like a sparrow close by the nest of an eagle, they live
in a state of perpetual fear.
鷲の巣のすぐそばにいる雀のように、彼等は、永遠の恐怖の状態で生きる。
Poor folks, on the other hand, are vexed with their
wretched condition, are forced to look on the impotent envy of their wives and
children, and to put up with the insolence of their rich neighbours.
一方、貧しい人たちは、みじめな境遇を悲しみ、妻や子供たちが無気力にうらやむのを眺め、金持ちの隣人の横柄なふるまいに耐える。
They too are unable to enjoy even a moment's peace of
mind.
彼等もまた、ひと時も、心の安らぎを楽しむことができない。
Again those who live near thoroughfares can never escape
the fury of conflagration when it rages.
また、大通りの近くに住む人たちは、大火が荒れ狂ったときに、その猛威から逃れることができない。
Let them reside in the country; 彼等は、田舎に住まわせなさい;
they are then subject to
no small disadvantage of bad roads, not to speak of an occasional attack from
burglars.
そうすれば、彼等は、悪路の細かな不便にわずらわされることはない、盗賊かららたまに襲われることはいうまでもなく。
説明 原文は、もし彼らが辺境の地に住めば、行き帰りがわずらわしく、盗賊の難もはなはだしい なので、漱石の訳は誤訳と思います。
The strong knows no content, the single is the object of
contempt;
強き人は、満足を知らず、独り者は、嘲りの対象である;
説明 原文が、権勢ある人は欲深く、ひとり身の者は人に軽んじられる なので、こう訳しましたが、
漱石の英文を普通に訳すと、強い人は、中味を知らず、独りの人は軽蔑の対象である となると思います。
wealth brings with it an equal amount of care; poverty always goes
hand in hand with distress;
富は、等しい量の心配をもたらし、貧困は、常に苦悩と手を取り合っている;
reliance makes one another's slave; charity fetters
the mind with affection;
人に頼ると、人の奴隷となる;
慈善は心を愛情で束縛する;
to act exactly like others is intolerable; not to act
as they do seems to be madness.
他人と全く同じく振舞うことは、耐えられない; 同じく振舞わないと、狂っているようにみえる。
In what place shall we settle and with what occupation
shall we amuse ourselves?
どんな場所に落ち着き、どんな仕事で楽しむべきか?
出家遁世(とんせい)
Inheriting my paternal grandmother's estate, I lived
long there.
父方の祖母の財産を継いで、私は、そこに永らく住みました。
Bereft of my family, however, and having lost vigour
through a series of misfortunes, I was at last compelled to forsake the paternal
estate, when I was thirty years of age and to inhabit a hut with no other
companion than my own mind.
しかし、家族を失って、一連の不幸で元気を失い、とうとう、私が30歳になったときに父方の財産を見捨て、私の心以外の友もなく庵に住まざるを得なくなりました。
When compared to my former resisdence in extent, it was
scarcely more than one-tenth.
私の以前の住まいと大きさを比べると、かろうじて1/10より少し大きいくらいでした。
A room there was indeed, but a house it was not in the
proper sense of term.
一部屋ありました、実際、しかし、言葉の正しい意味においての家ではありませんでした。
No gate adorned the poor hedge. 貧相な塀を飾る門はありませんでした。
Bamboo pillars supported the roof: the floor rested upon
a wagon註.
竹の柱が屋根を支えました: 床は、ワゴン上に置かれました。
註 It is somewhat difficult to imagine a house whose
floor rested upon a wagon.
床がワゴンの上に置かれた家を創造するのは、いささか難しいでしょう。
Even in the author's time, such a house
was not inhabited by any except him who built it after that style so that the house itself could be
carried anywhere.
この著者の時代ですら、こんな家に、彼以外の人は住みませんでした、彼は、家がどこへでも運んでいけるようなスタイルにならってみの家を建てたのです。
When the wind blew hard or a snow-storm set in, the hut
was in constant danger of being swept off or of falling down.
風が激しく吹いたり、吹雪がはじまったりすると、庵は、常に、吹き飛ばされるか倒れ落ちる危険にあります。
Moreover, being situated near the river bank, a flood
could easily wash it away.
さらに、河の土手近くに位置しているので、洪水がいつでも流し去ることができます。
Thus overtaxed with earthly cares, my mind fell an easy
prey to despondency.
かくして、この世の心配事に過大に負担を強いられながら、私の心は、簡単に落胆の犠牲となりました。
In the meantime, however, changes in physical
surroundings and the vicissitudes of fortunes, reminded me of the ephemeral
character of human destiny.
しかし、そうこうしている間に、物理的環境の変化と運命の変化は、私に、人の運命のはかないことを思い出させました。
The time came at last when I left the house and left the
world altogether.
ついに、私が庵を去り、この世を完全に去る(出家する)時がやってきました。
Bound by no family ties, I left no yearning toward what
I had left;
家族の絆に縛られていないので、私は、残したものに何の憧れも残しませんでした;
being no pensioner, why should I long for my former position?
年金もないので、どうして、私が、これまでの地位を切望しましょうや?
Many springs and summers were spent among the clouds of
Mount Ohara.
多くの春と夏を、大原の山の雲のなかで過ごしました。
方丈の庵のありよう
Now when the dew of sixty years was on the point of
vanishing, once again did it condense upon a tiny leaf註.
さて、60歳の露が、消え去ろうとしているとき、今一度、小さな葉っぱの上に凝集しました。
註 I wonder whether this metaphor is intelligible at all in English: この隠喩は、英語でわかりますでしょうか。
but I could not help rendering it without
any change of expression inasmuch as it is very fine in the original Japanese.
しかし、表現を変えることなしに翻訳せざるを得ません、元の日本語がとてもすばらしいものですから。
説明 元の日本語は、末葉のやどりを結べることあり です。末葉の宿りは、余生のための住まい のことですから、
漱石のように、地位さの葉っぱの上に、もう一度露が凝集した と翻訳する必要はないと思います。
You might compare it to a night's shelter for a belated
traveller or a cocoon inhabited by an old silk-worm.
これは、遅れて到着した旅人に一夜の宿を与えることや、年老いた蚕が繭をつくることに比較できます。
In extent, this new hut of mine could not claim even
one-hundredth of the former.
大きさでは、この新しい庵は、以前のものの100分の1であるとも言えません。
You see, my life was declining, and the house was
reduced along with it.
なるほど、私の命が衰退し、家も、それに伴い小さくなるのです。
In structure it resembled no ordinary house. 構造上、それは、普通の家と全く似ていません。
The room was ten feet by ten; its height was less than
seven.
部屋は、10フィート掛ける10フィートで、高さは7フィート以下です。
It occupied no permanent site, because I had no mind to
settle in a definite place.
それは、恒久的な場所ではありません、私は、一つの決まった場所に落ち着くつもりはありませんでした。
A clay-built floor, a thatched roof, and planks linked
together with hooks, so that they might be removed easily if necessary,
constituted my abode.
粘土で作った床、藁ぶきの屋根、必要時に簡単に取り外せる掛け金で繋がれた板囲い、が、庵を構成しています。
What expense was I liable to in changing my home? 庵を変えるのに、どんな出費を払うべきでしょうか?
Two carts were enough to carry the house itself. 庵を運ぶには、牛車が2台で十分です。
Only the little hire for them, nothing more! それらのわずかな賃料だけで、他は何もいりません。
Here during my seclusion in the innermost recesses of
Hino, I added a temporary blind on the southern side of the hut with a bamboo
mat under it:
ここ日野山の最も深い奥まった場所に隠遁している間、私は、庵の南側に一時的なひさしを加え、その下に竹の敷物を置きました:
an akadana (water-shelf) along the western wall, has become the
sacred place for putting the image of Buddha so that his brow may be lit up by
the mellow beams of the setting sun.
西壁に沿った閼伽棚(水棚)は、聖なる場所で、仏陀の絵像が置かれていて、沈む太陽の甘美な光がその額を照らしていました。
On each of the door leaves, I have hung a picture of
Hugen and Hudo.
折りたたみ戸のそれぞれに、普賢菩薩と不動明王の絵を飾りました。
On a little shelf above the northern door sash, are
placed a few trunks of black leather, containing some poetical extracts in
Japanese, songs, Ojio-yoshu and the like.
北側の戸枠の上の小さな棚には、黒い革のカバンを置き、その中に和歌、管弦、往生要集などの抄物を入れました。
Close by, against the wall, you will find a koto and a
biwa to which I gave the name of 'Ori-goto' and 'Tsugi-biwa' respectively.
すぐそば、壁を後ろに、琴と琵琶があり、それぞれ、おり琴とつぎ琵琶と名前を付けました。
On the east side, a bed consisting of old fern leaves
scattered about and a mat of straw, a writing desk below the window a brazier
beside a pillow, completed its furnishing.
東側には、古いシダの葉っぱの寝床、藁の布団、窓の下の書き物机、枕の傍の火鉢、が家具をなしていました。
A little patch of ground to the north of the hut, was
laid out as my garden where I planted several medicinal herbs, enclosed by a
broken hedge.
庵の北側の小さな土地は、幾つかの薬草を植えた庭として整えられ、壊れた生け垣で囲まれています。
This is the condition of my temporary abode. これが仮の庵の様子です。
As to its surroundings: in the south, there is a pipe
conducting water to a reservoir made of piled stones.
その周囲に関しては、南に、パイプがあり、水を石を重ねて作った池に導きます。
Woods being near in the vine-clad Toyama, there is
plenty of fruit and of logs.
林が、近くのつる植物に覆われた外山にあり、果物や材木が豊富です。
Though the valley is dark with thickets, it opens
towards the west and thus offers much help to meditation註.
谷は、藪が暗く茂り、西方に開いていて、瞑想には大いに助けとなっている。
註 In Buddhism, the west is associated with Gokuraku (the
land of beatitude)
仏教では、西方は、極楽(至福の土地)と関係づけられている
which is the abode of all good
men after death and lies in the extreme west.
極楽は、すべての善人が死後に住むところで、西の彼方に存在します。
In spring, my sight is attracted by the wavy clusters of
the Fuji (Wistaria chinensia) which sends its fragrant ordour out of its purple
clouds.
春には、私の目線は、波打つ藤の花の房に魅かれます、藤は、その紫色の雲から芳香を送ります。
In summer, the cuckoo with its doleful note註
puts me in mind of 'the mountain path of Death'.
夏には、ホトトギスがその悲し気な泣き声で、私の心を「死出の山道」に置きます。
註 Cuckoo is considered as a mournful bird which crosses
the mountain of Shide (the starting-point for death).
ホトトギスは、拾得(死への出発点)の山を横切って飛ぶ悲しい鳥と考えられています。
Autumn fills my ears with the shrill chirps of cicadas
which I interpret as the dirge for life as empty as their cast-off shells.
秋は、蝉のけたたましい鳴き声が耳に満ちます、蝉の声は、その抜け殻のように空虚な命の悲歌だと私は思います。
In winter I sympathize with snow because of its
semblance to human sins, accumulating in depth and then melting away.
冬は、雪に共感します、雪は、人間の罪に似て、深く積もったあと、溶けて消えてしまいます。
If indisposed, I freely neglect to say prayers or to
read sacred books (Kyo), without being admonished by any one for the omission.
気が向かないとき、私は、気ままに念仏や読経をさぼります、さぼっても誰も戒める人はいません。
Nor have I any friend before whom I might feel ashamed
for this negligence of duty.
修業をさぼっても、その前で恥じるべき友もいません。
Though not specially inclined to observe the 'discipline
of silence'註, I am always observant of it, for I have no companion to
enter into conversation, and thereby to break the discipline.
特別に、「無言の業」を守ろうとしなくても、常にそれを守っています、会話をする仲間がおらず、業を破ることもないからです。
註 A discipline in which a priest sits during a given
time without uttering a word.
僧が、ある時間座って、一言も発しない修業です。
Being out of the reach of any temptation, I have no
chance of breaking the canons of Buddhism.
どんな誘惑もとどかないので、仏教の規範を破ることはありません。
When in the morning, I chance to come to the river's
side, and behold boats sailing in it, I feel that I am just in the same mood and
position as Man-shami註 .
朝、川端に行って、船が往来するのを見るとき、私は、満沙弥と同じ気分や立場にいることを感じます。
註 An official who lived in the reign of Nara. 奈良時代に生きた官吏です
When the cinnamon wind rustles among the leaves, I
imagine the scene in Junyo-Bay註1 and begin to play upon the biwa in
imitation of Cinammon Dainagon註2.
桂の風が葉っぱを鳴らすとき、私は、潯陽の江の風景を思い、桂大納言をまねて琵琶を弾き始めます。
註1 The allusion is to the famous poem of Hakurakuten,
called "Junyoko" i.e. the ballad of the Bay of Junyo, in which the poet describes
an unfortunate young girl who played upon the biwa for him during his banishment
from court in that out-of-the-way part of the country.
この引喩は、白楽天の有名な詩「潯陽の江」(潯陽の江のバラード)に関するもので、白楽天が、宮廷から追放されてい人里離れた田舎にいる間に、薄倖の若き少女が彼の為に琵琶を演奏するところを書いたもの。
註2 A famous musician who founded a school of his own, called the Cinnamon after his name.
A performance of the 'autumnal wind' may vie with the
echoes from the pines: the song of the 'flowing fountain' is tuned like the
murmurs of water註.
秋風の演奏は、松からのエコーと張り合い、流泉の歌は、水のつぶやく音のように弾く。
註 This playing on words may be almost meaningless in
English, but I could not render it better.
この言葉遊びは、英語では、意味がありません、私には、これ以上には訳せません。
I do not profess any skill in the art, but then I do not
play for other's enjoyment.
私は、琵琶を弾く技術はもたないけれども、他人を楽しませるために弾くのではありません。
I croon for myself, thrum for myself, only to refresh my
mind.
私は、自分のためにささやき、自分の為につま弾きます、ただ、自分の心をすっきりさせるために。
At the foot of the mountain, there is a little cot in
which the keeper of the mountain lives.
山の麓に、小さな庵があり、山守が住んでいます。
His boy visits me now and then and is my companion in
leisurely strolls.
その男の子が、時々、尋ねてきて、ひまなとき一緒に散歩します。
He is sixteen years of age and I am sixty. 彼は16歳、私は、60歳。
This difference of age, however, does not cause any
difference of pleasure which we equally share.
しかし、この歳の差は、共有する楽しみの違いを起こしません。
To collect cranberries, to gather kaya-flowers, to
fill our basket with the fruits of the yama-imo, to pick parsley, to weave a mat
of the fallen ears of corn -- such are our diversions.
クランベリーを獲り、茅の花を集め、果実や山芋で籠を満たし、パセリを摘み、稲の落穂で敷物を編む
-- これらが私たちの楽しみです。
In fine weather I climb up mountain peaks, to behold my
native province in the distance: and enjoy the surrounding scenery to my heart's
content.
天気がよければ、峰に上って、遠くの故郷を眺めます:
そして、周囲の景色を楽しんで、心を満たします。
I can do that, because nature is not the private
property of particular individuals.
私にそれが出来るのは、自然が特定の個人の私有財産ではないからです。
Long excursions are also undertaken. 長い遠出もやります。
Then I go over Sumiyama. pass Kasadori, bow before the
shrine of Iwama, make a pilgrimage to Isiyama:
私は、炭山を越え、笠取を過ぎ、岩間山の神社を詣で、石山寺まで巡礼します:
or I visit the ruins of the
cottage of the old Semimaru註, far in the moor of Awazu, linger about
the grave of Sarumaruau, on the further side of the Tagami river.
または、蝉丸の翁の館跡を訪れ、遠く粟津原に分け入り、田上河を渡って、猿丸太夫の墓の周りでゆっくりします。
註 Semimaru and Sarumarudau are two poets of note. 蝉丸と猿丸大夫は、二人の有名な詩人です。
On my way home, I am often rewarded for my walk with a
bough of cherry, a branch of maple, a bunch of ferns or a basket of fruit, which
I offer to Buddha or keep for my own use.
帰り道には、しばしば歩きの褒美に、桜の大枝、かえでの枝、シダの束、籠一杯の果実を得て、仏に供えたり、自分のみやげとします。
The bright moon in the calm night recalls to me the men
of old; the cries of monkeys moisten my sleeves with tears;
静かな夜の明るい月は、古人を思い起こさせます; 猿の声は私の袖を涙で濡らします;
fire-flies in the
sward gleam as if they were torchlights of Magijima;
草むらの蛍は、槇の島のかがり火であるかのように輝きます;
a morning shower is an
exact counterpart of the wind rustling through the leaves;
朝のにわか雨は、葉っぱの間を音をたてて吹く風と、全く同等です;
the notes of a wild
bird make me curious to know whether it is male or female註;
山鳥の声は、それが父か母か知りたく興味を抱かせる
註 The allusion is to a poem of Ukimoto: Is that a father
or a mother Who sings horo, horo on the heather.
この引喩は、行基の歌:
山鳥のほろほろと鳴く声きけば 父かとぞ思う母かぞと思う に関係しています
The notes of a bird evoked the
sympathy of the poet who assumes that the parental affection
which exists
between parent and child, likewise exists among little birds.
鳥の声が詩人の共感を喚起します、彼は、親と子の間に存在する親の愛は、小鳥の間にも存在して当然と思います。
Such an idea is very common in
Japanese poetry.
このような考えは、日本の詩歌に共通しています。
the bold
appearance of a hart reminds me of the wide gap existing between the world and
me;
雄鹿の勇敢な姿は、この世と私の間に存在するへだたりを思い出させる;
the ash-covered charcoal newly stirred up, is an old man's delightful
companion, in his midnight awaking from sleep;
灰の被った石炭を、新たに掻き起して、夜中に眠りから覚めた老人の楽しい友とする;
the moping voice of owls fills my mind with pity. ふくろうの塞ぎ込んだ声は、私の心を悲しみで満たす。
Scenes like these are indeed inexhaustible here. このような景色は、尽きることがありません。
Those who are profounder in reflection, and quicker in
perception than I, cannot fail to find many other things which may likewise
attract their attention.
私よりもより深く考え、より速く感じる人達は、同様に彼等の注意をひく他の沢山の事を間違いなく見出します。
閑居の気味
Five years have elapsed since I first settled here. 私が最初にここに住み始めて、5年がたちました。
The temporary shed has now been reduced to an all but
dilapidated condition.
仮の庵も、今は、殆ど荒れ果てた状態となりました。
Deep under the eaves, the fallen leaves have
accumulated, being left to moulder there.
軒の下深く、落ち葉が集まり、そこに残って、朽ちていきます。
Moss too has grown upon the floor. 苔も、床の上にはえています。
Occasional tidings from town have announced to me the
death of many noble persons there.
都からのたまの便りは、高貴な方々が大勢亡くなられたことを伝えます。
And I can easily calculate the number of the humble
people who have also been similarly overtaken.
同様にovertakeされた身分の低い人たちの数は、容易に計算できます。
説明 原文は、数えあげるに足らない人たちの数は、全部を尽くして知ることはできない。ですので、漱石の訳は誤訳でしょう。
Many houses too, must have been burnt in the frequent
fires.
多くの家も、たびたびの火事で、焼けてしまったにちがいありません。
Only this humble cot of mine is safe and quiet. ただ私の卑しい庵のみ、安らかで静かです。
However narrow, it has been a bed by night and a seat by
day, and is enough to shelter me.
いかに狭くとも、夜には寝床となり、昼には座る場所となり、私をかくまうのに十分です。
The gona註 likes its little shell because he
knows content:
ヤドカリは、小さい貝を好みます、中味を知っているからです
註 A little parasite which inhabits a small shell. 小さな貝に住む寄生生物
説明 寄居虫(ごうな)は、ヤドカリのことです。
the fish-hawk inhabits a rogh beach because he is afraid of men.
ミサゴは、険しい海岸に住みます、人を恐れているからです。
Like them I think of myself alone in this world. 彼等と同じく、私も、この世に独りと考えます。
I cherish no objects, seek no friendship. 私は、もの/目標 を大切にしません、私は、友情を求めません。
説明 原文は、 事を知り、世間を知ると、欲張らず、あくせくしない。です。
Tranquility is my sole desire, to have no trouble is my
happiness.
静かさが、私の唯一の願望です、憂いの無いことが、私の幸せです。
Others do not build their houses for themselves; ほかの皆さんは、自分のために家を建てるのではない;
their
houses are either for their families or for their friends or for their tutors
and lords, or even for their oxen, horses and treasure.
彼等の家は、家族のため、友のため、師匠や主君のため、牛や馬や財宝のためです。
But I have built mine for my own sake, because I have no
companion, no friend to live with me.
しかし、私は、自分自身のために建てます、私には、連れもなく、ともに住む友もいません。
What is friendship but respect for the rich and
open-handed and contempt for the just and kind?
友情とは、金持ちの人と気前のいい人への尊敬と、正しい人、親切な人への軽蔑以外のなんでしょう?
Better to make associates of music and nature! 音楽や自然を友とするほうが、よりいいです。
Our servants only care for rewards and punishments and
estimate our favour by the amount of largesses given them.
私たちの召使は、賞罰を大事に思い、彼らに与えられる贈り物の量によって私たちの恩顧を評価します。
We throw away kindness upon them who never require it.
私たちは、親切を無駄にする|それを決して願わない彼等に対して|。
Let us rather be our own servants. むしろ自分で召使になるほうがいい。
To use our own hands and legs, if somewhat irksome, is
much easier than employing others.
自分の手足を使うほうが、たとえいくらか厄介だとしても、他人を使うよりも、ずっと簡単です。
Let us employ our bodies in a double way. 自分の体を、二通りに使いましょう。
Our arms are our servants, our legs are our vehicles. 腕は召使で、脚は乗り物です。
The mind which knows how it goes with the body, may use
the latter if fresh, allow it to rest if tired.
心は、体とどう付き合うか知っているので、体が元気な時は使い、体がつかれている時は、休むのを許します。
Let the mind take care not to overtax the body with
labour, not to grant the latter's disposition to be idle.
心に面倒を見させて、体に労働の重税を課さず、からだの怠けようとする性向を許さないようにしましょう。
To take exercise is healthy: why then should we sit and
do nothing?
運動をすることは、健康的です:
それでは何故、私たちは、座って、何もしないのか?
To trouble others is a sin, why should we ask others for
help?
他人を困らせることは罪です、何故、私たちは、他人に助けを求めるのか?
As to diet and clothes, I observe the same principle. 衣食に関して、私は、同じ原理を遵守します。
A garment of 'fuji' and a bed-quilt of hemp are
sufficient to cover my body.
藤の衣や麻のふとんは、我が身をおおうのに十分です。
The kaya-flower, which flourishes in the wilderness,
some fruit scattered about the mountain side may very well sustain my life.
野辺に咲く茅の花や、山腹にちらばる果実は、私の命を十分ささえてくれます。
The poor figure so thinly clad, is no object of ridicule
here in solitude.
薄着の貧相な体は、孤独のここでは、嘲りの対象ではない。
Meals so scanty have still a relish for me. ほんの少しの食事でも、私には楽しみです。
I do not intend those remarks as a sermon for those in
easy circumstances, but I want only to compare my former days with the present.
私は、これらのことを、たやすい環境にいる人達への説教として言うのではない、ただ、私の昔の日々を今と比較しているだけです。
Envy and fear have been expelled from my mind since I
renounced the world's pleasure.
ねたみと恐れは、私の心から駆除されました、私がこの世の楽しみを捨てて以来。
Without regret and without reluctance, I follow my
fortune as Providence leads me.
後悔も躊躇もなく、私は、運に従います、神のみ心が私を導くままに。
Regarding self as a floating cloud, I do not rely on it,
nor, on the other hand, am dissatisfied with it in the least.
自らを浮雲とみなし、私は、それに頼りません、しかし、一方で、私は、それに少しも不満ではありません。
Temporary pleasure has dwindled into nothing over the
pillow of the dreamer:
つかの間の喜びは、夢見る人の枕の上で、無に帰します。
his life-long wish still finds its satisfaction in the
beautiful in nature.
彼の生涯の願いは、自然の美の中に成就をみつけます。
The three worlds consist of only one mind註. 三界は、一つの心からなります。
註 The so-called three worlds are the material, the
immaterial and the world of lust.
いわゆる三界は、色界、無色界、欲界です。
Treasures, horses, oxen, palaces, towers, what are they,
if the mind is uneasy?
宝、馬、牛、宮殿、塔、それらが何というのでしょうか、もし、心が安らかでないなら?
I enjoy the peace of mind in this lonely place, in this
small cottage.
私は、心の安寧を楽しみます、この一人ぼっちの場所、この小さな庵の中で。
In town I might be ashamed to becom a beggar; 町では、私は、乞食になることを恥じるでしょう;
settled
here, however, I pity those who toil and moil in the dusty highway of the world.
しかし、ここに住んで、私は、憐れみます、この世の俗塵の中で、あくせく働いている人たちを。
He who doubts what I say, need only look at fishes and
birds.
私の言うことを疑う人は、魚や鳥を見さえすればいい。
Fishes never get weary of water: none but fishes knows
their motive.
魚は、決して、水に飽きない: 魚以外の誰も、その動機がわからない。
Birds are fond of woods: none but birds may tell you
why.
鳥は、森を好む: 鳥以外の誰も、その理由がわからない。
The same may be said of seclusion. 閑居についても、同じことが言える。
Its pleasure can not be understood by one who has not
led such a life.
その喜びは、解かり得ません、その生活を送ったことのない人には。
結び
The lunar course of my life is fast declining and is
getting every moment nearer to the peak of death.
私の生涯の月影が急ぎ傾いて、刻々と、死の頂点に近づいていきます。
If the time comes when I make a sudden start for the
darkness of 'the three ways'註, of what use would it be to trouble my
mind with earthly cares?
もし、私が三途の川の暗闇に急ぎ出立する時が来たら、私の心をこの世の心配事で悩ますことに何の益がありましょうか?
註 'The three ways' is the name of a river corresponding
to the Styx.
三途の川は、スティックス(ギリシア神話における三途の川)に対応する川の名前
Buddha teaches us to love no earthly things.
仏陀は、この世の物事を愛するなと教えています。
To love this mossy hut is still a sin: tried
tranquillity is certainly an obstruction to salvation.
この苔むした庵を愛するのは罪です: 静かさを試みることも、救済の妨げとなります。
Woe to them! who indulge in useless pleasures to while
away time.
時間を無駄に役に立たない楽しみにふける人たちの、使い何と不幸なことか!
One still morning after those reflections, I began to
ask myself:
ある静かな朝、これらの熟考の後、私は、自問しました:
"The object of escaping from the world and of living
among woods and mountains is nothing but to tranquillize your mind and to
practise your principles.
「この世を逃れて、山林に交わって住む目的は、心を鎮静し、修業を行うためです。
But your mind is soaked in impurity, though your
appearance resembles a sage.
しかし、あなたの姿は成人に似ているけれども、あなたの心は、不純に浸っている。
Your conduct even falls short of Shuri-bandoku's註1
though your hut is like that of Jiomio-Koji註2.
あなたの小屋は浄名居士の小屋に似ているけれども、あなたの行為は、周梨槃特の行為にもとります。
註1 A disciple of Shaka, notorious for his folly, and
weak memory.
釈迦の弟子の一人、愚かな行動と頭の弱さで悪名が高い
註2 'Jiomio' is another name of Yuima, the hero of the
Yuima-gio (one of the sacred books of Buddhism).
浄名は、維摩の別名、維摩経(仏教の聖典の一つ)の人物
Is it the effect of poverty or is it the influence of
some impure thought?"
これは貧乏の効果なのか、それとも、何か不純な思いの影響なのか・」
No answer did I give to this question but twice or
thrice repeated involuntary prayers.
この問いに私は答えませんでした、しかし、ニ三回無意識の念仏を唱えました。
The last day of March, the 2nd year of Kenreki (1211). 建暦2年(1211年)3月末日
Monk Renin at the hut of Toyama. 僧 蓮胤 外山の庵にて
"Alas! the mountain peak conceals the moon; 月かげは入る山の端もつらかりき
Her constant light's denied to me a boon." たえぬひかりを見るよしもがな
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