夏目漱石 語学養成法 (1911)

2017.6.16

 夏目漱石は、読書家で、洋書も多数購入し、購入しただけでなく、結構、読破しているのですが、その読書力がどのように育ったのか興味を持っています。

 ここに紹介する、『語学養成法』の、最初の『語学の力のあった原因』に、その秘密が、明快に解説されています。

 明治維新後の文明開化のとき、明治政府は、英語の語学だけでなく、学問の多くの分野をまたがって、多くの外国人を雇い、教育を変革しました。

 漱石も、外人の先生から、いくつかの学問を、英語で勉強した世代に属していたため、語学力がついたということなのです。

 その後、明治政府は、お雇い外国人から学んだ若者を、海外留学させるなどして、日本人の研究者を育て、彼等に、教育を担当させて、お雇い外国人を減らすという政策をとりました。

 日本語による日本人のための教育が進展する一方で、日本人の外国語力が低下したのは、必然なのですが、その状況で、語学教育をどう進めるかについての、漱石の意見が、ここに開陳されています。

 日本では、最近、小学校でも英語を教えようという動きがあり、語学教育は、いかにあるべきかの議論が高まっています。

漱石のこの文章は、青空文庫になっていないので、ここに、全文紹介します。

できるだけ現代的な言葉使いに変更しています。チェックはしたつもりですが、誤りが残っているかもしれません。

 

語学の力のあった原因

一般に学生の語学の力が減じたということは、よほど久しい前から聞いているが、私もまた実際教えてみてそう感じた事がある。

果たしてそうだとすれば、それはどういう原因から起こったか。

その原因を調べなければ、学習の方針も教授の方針も、立つものでないが、専門的にそれを調べるには、その道の人がいくらもある。

私は別にまとまった考えがある訳ではないが、気付いた事だけをごくざっと話して、一般の教育者と学生の参考にしようと思う。

私の思うところによると、英語の力の衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方からいうと当然の事である。

何故かというに、我々の学問をした時代は、すべての普通学は皆英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科も皆外国語の教科書で学んだが、我々より少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。

我々の時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある。

かかる時代には、だてに英語を使うて、日本語を用いる場合にも、英語を用いるというのが一種の流行でもあったが、同時に日本の教育を日本語でやるだけの余裕と設備とが整わなかったからでもある。

従って、単に英語を何時間おそわるというよりも、英語ですべての学問を習うといったほうが事実に近い位であった

すなわち、英語の時間以外に、大きな意味においての英語の時間が非常に沢山あったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然とできねばならぬわけである

語学の力の衰えた原因

ところが、「日本」という頭を持って、独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、ちょうど英国の属国インドといったような感じが起こる

日本のNationalityはだれが見ても大切である。英語の知識ぐらいと交換のできるはずのものではない

従って国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は、自然勢いを失うべきが至当で、また事実として漸々その地歩を奪われたのである。

実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、日本では学問をした人がないからやむをえないという事に帰着する。

学問は普遍的なものだから、日本に学者さえあれば、必ずしも外国製の書物を用いないでも、日本人の頭と日本の言語で教えられぬというはずはない。

また、学問普及という点から考えると、 (ある局部は英語で教授してもよいが) やはり生まれてから使い慣れている日本語を用いるに越したことはない。

たとえ翻訳でも、西洋語そのままよりはいいにきまっている。

これが自然の大勢であるが、余の見るところでは、過去の日本において最も著しく人工的に英語の力を衰えしめた原因がある。

それはたしか故井上毅氏が文相時代の事であったと思うが、英語の教授以外には、できるだけ日本語を用いて、日本のLanguageに重きをおかしむると同時に、国語漢文を復興せしめた事がある。

故井上氏は、教育の大勢より見た前述の意味で、教授上の用語の刷新を図ったものか、あるいはただ「日本」に対する一種の愛国心からやったものか、その辺はいずれともわからないけれども、要するにこの人為的に外国語を抑圧したことが、現今の語学の力の減退にあずかって力ある事は、余の親しく目賭[もくと]した所である。

改良の効果いかん

●以上の理由と事実で、学生の語学の力が前より衰えてきたのは誠に正当な現象で、豪も不思議がるわけはないのであるし、また同時にそれは日本の教育の進んだ証拠でもある。

従って、最初当局者がこういう教育方法を採るときには、すでに将来語学の力の衰えることを予想すべきが当然である

しかるに、井上氏死後何年か後の今日にいたって、その結果がようやく現われて、だれもかれも語学のできぬことを自覚し始めると、今更のように苦情が出て、色々な心配をする、いろいろな調査をする。

あるいは教え方が悪いのだとか、あるいは時間が足らぬのだとか言いだすのはおかしなことである。

要するに、語学力の衰えた真因は、日本国体の発展と、前述の教育方法の変化にあるのだから、なんらの犠牲も払わずに、日本が日本的の教育を施す方法の案出されない以上は、今更、英語の力が足りないからといって騒ぐわけにはいかない。

けれども、この結果は、必然にもせよ、当然にもせよ、良くないということが事実で、良くないために教育上のある方面では非常な苦痛を感ずる以上は、できる程度で是非ともなんらかの改良をしなければならぬ

改良すれば無理ができる。無理をしなければ改良はできぬ。どちらも良いということはない。

私は昨今、中学教育がいかなる程度まで改良せられ、またいかなる方法で施されているかは知らぬが、要するにどう奮発しても、非常な無理をしなければ、英語教授のうえにめざましい効果のありようはずはないと思う。

改良の三要点

●しばらく立ち入って、もう少し具体的に、なにゆえに改良の効果がないかと考えるに、つまり普通教育などで、こういう風の改良をするには、時間、教授法、教師の三つ以外には改良すべき方法がないからである。

ところが、いくらやかましく時間の改良といったところで、本末を転倒して外国語に多数の時間を与えることができぬのみならず、普通教育の程度以上では第二外国語をやる必要があるから、とても時間の繰り合わせがつかない。

また、教授法はずいぶん肝心なものであるが、いくら細目が立派にできていたところで、教授法自身が活動してくれる訳でないから、よくそれを体得した教師が、十分の活用をしてくれなければ、効果があがるものではない。

教授法とはつまり、適当な教師が周囲の事情を見計らって、これがべストだと思って実行しつつある教授を概括して、条項に書き並べたものにすぎない。

ゆえに、適当な教師がいなければ、いかに条項が完備していても、到底その運用ができるものでない。

同時に、適当な教師さえあれば、教授法などが制定せられなくても、その行なうところが自然教授法の規定した細目に合う訳である。

それゆえ、大家が教授法をこしらえて、広く一般の教師にやらそうとしても、あだな望みに帰してしまいはせぬか。

最後に教師のことを考えてみると、今の中学の英語教師の大半は、おおかた故井上氏の方針で頓挫をきたした語学教育の中に育ってきた人々である。

語学といえば簡単であるけれど、区分すれば、話すこと、書くこと、読むこと、訳することなど色々あるが、それらの各方面にわたって一通り力のある人でなければ、すべてのことが一通りできる生徒を養成することができない。

もし教師がある点は非常によくできても、ある点は全くできないという風に、その力がかたよっているならば、その生徒はやはりかたよったものとなる訳だ。

現今の教師中には英語を日本語に訳することのうまい人が多い − 今日の日本では、こういう人が一番必要かもしれないが − 同時に、生徒も比較的に英語の意味を取ることが上手である。

しかし、これで満足するわけにはいかぬ。

なにもかも、一通りはできなければならぬとしたならば、そんな教師ははたして幾人あるだろうか、はなはだ覚束ない次第である。

教師の養成

●こう三つともだめだとすれば、いくらもがいたとて効果のあがるはずがない。

しかるに丶そこに一つの道がある。それは新たに教師を作ることである。

私はかつて大学と第一高等学校に関係をもっているときに、次のようなことを考えた。

文科大学はもともと学者を作るところであるが、現在の状況からいえば、その卒業生はおおかた教師になる。

ことに外国文学を修める者は教師になるのが多いようである。

学者であるべきものが教師ができぬということはないが、教師として不適当でも学者にはなれるのだから、事実をいうと純文学科にあっては、事実上、大学は学者よりも教師 − もっと切実にいえば、不適当な教師を作っているのである。

したがって、国家は Distribution から、非常な損害をしている。

説明 Distribution は、分布、分配、配給、配分、流通 という意味です。

この損害を免れるために、わたしは適当な教師を作る案をたてた。

すなわち、英文科に入るものを、今のように各高等学校に存在せしめずに、ことごとくこれを第一高等学校に集めて、一組として、在学中は他と混同せしめず、一年から三年まで特別の教育をする。

すなわち、三年間特に英語に重きをおいた一種の教育を施して、しかる後にこれを大学に送ることにする。

むろん、その卒業生は、学者になるも、教師になるも、当人の勝手次第であるが、かくすれば万遍なく語学の力をもった人が得られるに相違ない。

余はこれを大学から適当な語学教師(英語)を出す唯一の方法と信じた。今でもそう信じている。

大学に入ってからの課目や教授法も、現在とは変える必要もあろうが、それは第二のことで、肝心の根本はどうしてもこうして養成しなければいけないと思う。

英文科の志望者を一高等学校に集めるということは、特別の教授をやるうえにおいて必要なのみならず、その道に適当な教師を得て、その下に学ばしむる方針からいっても、こうした方がいいのである。

教師の試験

●今一つは従来の教師をいかにして改良するかという事である。

事実行なわれ難いことであるかもしれぬが、私は全国の中学の英語教師の試験を、時々文部省でしてやったらよかろうと思う。

教師の精勤その他は校長にもわかるが、教師たちが平生どれだけ自己の修養に努めているかは、こんな方法でも講じなければわかり様がない。

むろんその試験は随意でいい、申し出るものにだけに施してもよい。

とにかく、二年に一度くらいずつ成績を取っておいて、これを校長の報告と比較し、 色々考え合わして、昇級増俸の道を講じてやる。

そうしなければ、中学の教師をして勉強しようなどという気は、まるでなくならしてしまう。生徒も不幸である。本人も気の毒である。

もっとも、これだけの仕事をする為には、文部省にエキザミナアをたくさん雇わねばならない。

従って不経済ではあるが、この試験官は平生他の方面に利用することができるから、決して損にはならない。

すなわち、試験をしないときの彼等は、始終、中学の英語教師と気脈を通じて、修養上その忠告者となるのである。

例えば、語学に関した新著新刊のようなものは、月二、三回ずつ印刷して各中学ヘ送ってやる。

時間が許すなら、その内容やら体裁やらを報知してやる。

また、教師の方でも教授上不審のことや、同僚間で疑義の決せぬおりは、書翰[しょかん]で試験官に問い合わせる。

すると、試験官の方でもいちいち丁寧にその返事を出すというふうに、万事教師の便宜を計ってやる。

こうすれば、一方では奨励になり、一方では改良になって、教師も当局者もともに便宜を得る事だろうと思う。

教科書の問題

●教科書は大いに考うべき問題である。

今の中学生はいろいろな書物を読んで、知らないでもいいような字を覚えるかわり、必要な字を覚えていない。

誠に馬鹿馬鹿しい話である。普通イギリス人はどれ程の単語を知っているかというに、極めて僅少のもである。

日本の中学生は、彼等の知らぬ字をかえって知っている。ひっきょう教科書がよく整理されていないからである。

そこで、文部省では中学の英語教科書を作る必要がある。

その教科書は一年から五年に通じて、普通の英国人がわかる文字と事項とを、万遍なく割り振って排列するようにする。

すなわち、彼等の一般に知っている文字と事柄には、五年中どこかで出会うが、そのかわり難しいジョンソンの『ラセラス』に出てくる様な字は全く省いて、生徒に無用な脳力を費やさせない様にしてやる。

そういう教科書を作るには、どうしたらよいかというに、私は外国の新聞を基礎にするのが一番よいように思う。

『ロンドン・タイムス』でも『デイリー・メール』でも、1月1日から12月31日まで通読すれば、いかなる文字といかなる事柄がいかに多く繰り返されて社会に起こるかがよくわかる。

それでだいたいの統計を取れば、どの字と、どの事柄と、どの句が比較的一番必要であるかがわかる。

わかった所を組織だてて教科書に編入する。

中には365日のうち、何百遍となく繰り返されるものもあるに相違ないから、そんなものには重きをおいて、教科書中にも幾度も繰り返しておくと同時に、年に一遍とか、半年に一度位しか見当らないものは、全く省くことにする。

そうすると二三年たつうちにはかなり経済的に英語を短い時間内で教える事のできる教科書が、科学的な、秩序立った系統の下に編成される訳である。

こうしてこしらえた教科書をそのままに放り出して置おかずに、なお外国新聞を基礎として、時勢の変化に伴って起こる言語文字の推移に注意して、十年に一度位ずつ改版するつもりで、永久事業としたら、生徒は大変な利益を得ることであろう。

無論この事業は前にいった試験官の平生の仕事の一つとするのである。顧問として適当な西洋人を雇うのも一法である。

時間の利用

●かくして教師ができ、教科書ができれば、今度は時間の問題であるが、時間はできるだけやる。即ち時間の許す限りやる。

細かい教授法、例えば文法何時間、会話何時間というようなことは、詳しく論ずれば意見もないではないが、かかる事は臨機応変にやればいい。

ただ目下の如く、各々を独立せる科目のごとくにとり扱うのはよくない。

有機的統一のある言語を、種々の科目に分けて教えるのは、丁度、区画し難きまで一気に活躍せる肉体を切り離して、神経の専門家、胃腸の専門家、呼吸器の専門家を作るようなもので、研究の為にはよいが大体の知識のない生徒からいうと、会話とか、文法とか、訳読とかいう風に、教師が専門的に分かれて裁然区別のあるように取り扱っているのはよくない。

どうしても各自が互いに連絡のつくように教え込んでいかなければならぬ。

我々日本人はご覧の通り自由自在に日本語をあやつるが、生まれてから今日までにかつて文法を習ったことはない。

文法を習わないでもさしつかえなく日本語は話せるのである。

英語もその通りで、我々が子どもの時から絶えず日本語を使って、自然とその文法に通ずるように、日々反覆して練習すればそれで沢山なのである。

しかし、一週間に何時間と時間を限られては、日本に生まれたる人でも、かく日本語に上達するわけにはいかぬから、今の中学でただ練習の結果自然と英語を学ぶのは困難である。

やむをえずまず規則を知ってそれを骨とし、それに肉を着せて互いの意志を疎通するように話し書くほかはない。

(少時間の練習では、とてもベチャベチャしゃべり散らす域に進むことはできないから)。

しかし、根本的にいうと、文法はいつまで経っても丁度、幾何の Theorem のようなもの、訳読はその活用問題のようなものであるから、文法を離れて訳はなく、訳を離れて文法はないものと合点しなければならない。

高等学校へ入ってくる中学卒業生などを見ると、shall, will のことなどは喧しくいうが、実際訳読をさせると妙な誤りをやる。

彼等の頭の中には両者は全く独立しているごとく私には見えることがあった。これは大弊害である。

文法と訳読は単に例として引いたまでだが、その他の科目、作文、会話、読み方、皆同じ事である。

有機的統一ということを考えて、互いに融通のきくような親切な教え方をしなければなるまい。

その為には、一つの組を一人で持って、すべての時間をいい加減に使いこなすほうが便利になってくる。

そうすれば時間も経済になって、効果も大いにあがることであろう。

しかし、これはほんの余談である。要するに、目下の必要は教科書編成と教員の養成および改良である。

それについて今まで述べた以外に言うべきことも沢山あるが、ここでは言わぬことにする。

話が教えるほうの側ばかりになって、つい教わる生徒の方に及ばなかったのは遺憾であるが、余り長くなるから、これでやめる。

                        (明治44年1月1日、2月1日、『学生』2巻1号、2号)

 

 

 

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


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