夏目漱石 文章の混乱時代 (1906) |
2017.6.30
岩波の漱石全集の第25巻に、文章の混乱時代 という文章をみつけました。まだ、一高や東大で教えていた頃の漱石が談話として語ったことが、『文章世界』の一巻六号に発表されたものです。
以下に、全文を、なるべく現代風に直して掲載します。
●明治初年以来の文体の変遷をおおまかに観察してみると、最初はかの馬琴調の余炎がすさまじかったが、それが衰えて西鶴ばりが流行し、次には雅俗折衷文となった。
ところが、今日ではその折衷文もすでに飽きられて、馬琴西鶴などをいまさら柤述する人は殆どなくなってしまった。
説明 柤述は、先人の説を継承・発展させて述べること
●それでは今日の文章の傾向は? いうまでもなく通俗になりつつあるということである。
雅文もないではないが、それはきわめて少数の人が作るのみで、一般の文章家は通俗文、すなわち日常の言語に接近した文体のほうに走っているようだ。
かくのごとき傾向は何に原因して現われたかと考えてみるに、日常の言葉を使えば思う存分の事が言えて便利であるということに気がついたからである。
料理屋の勘定書きとか、電信の文とかいう正確簡明を尊ぶ実用的の文はもちろんのこと、
文学的の文章も社会が文学者や文学的頭脳を持った人のみの集合ではなく、むしろ生活を必要とする人間が集まっている社会である以上 − よしまた文学的頭脳を持った人にせよ、一日のうちで文学を思い浮かべるのはほんのちょっとの間で、あとは経済のやりくりを心配するとか、要務の手紙を書くとか、人を訪問するとかいったような具合で、どの方面からみても実用向きのことが大部分を占めている以上、おのずから実用的の文章が一世の勢力を占めるのは自然の勢いであろう。
それから、文学の方面のみといっても、その昔どんなに詩的な言葉があったにせよ、それは今人にとっては耳遠く、切実に胸に響かぬすたりものとなってしまっているし、他面からみても現代の人自身がすでに古語を知っておらぬから駄目である。
それは漢書などを読めば、一語にして複雑なる意味を現わす便利な字もたくさんあるが、それらの字の応用のできるのはまことに狭い範囲であって、一般にはやはり耳遠いこととなるから、やむをえず仮名を混ぜて通俗平易に書くような訳となる。
●が、以上のは僅かな理由であって、通俗文が勢力を得たについては、他に一大原因があるのだ。
●それは時代というものと言語との関係上からきたものである。
まず人間の頭脳は時代時代によって違ってくる。すなわち、簡単から複雑に変わってくる。
従って、簡単の時代にできた簡単の言語は、複雑の時代における複雑の思想、感興を現わすには不充分となるのである。
これは文学の方でも実用の方でも同様であるが、実用向きのほうでも通俗の言語さえ使用すればさほどの困難は感じない。
よって、文学的文章の方でも、やむをえずその比較的実用向きな通俗語を借り、現代の要求に応じてできた言語を使って、この欠陥を補う次第である。
●しかし、ここに困るのは、現代の通俗語には歴史的の意味が含まれてないことである。
というのは、例えば同じ寺というものに対する我々の心でも、今日新しく建てられた寺と、京都の知恩院のごとき古寺とでは感想が違う
− 木地の新しい、当代風(いまふう)の寺などはなんの有難味もないが、壮大な美、物古(ものふ)りたる知恩院に詣でれば自ずから敬虔の念が生じてくる − と同様で、
文学も歴史的連想と離れぬところに多くの価値があるのに、それが通俗語で物されては、なるほど適切に響くことはあろうが、古来の書籍に目をさらしている人などにとっては、どうも歴史上の美的な、おくゆかしい感は起こらぬ。
文学者の中でも、昔の趣味を慕う人々は、いわゆる今の言文一致体を嫌って、つとめて古語古調を使う傾きがあるのは無理もない事である。
●最も顕著な例は、今の新体詩人といわれる人々だ。
あの人々の頭はたしかに普通の人よりも高いところにあこがれ、清新な趣味をむすぼうとしている。
ところで、その作詩のうえに現代の通俗語を使うのは何となく下卑たような感じがするから、いきおい古語を用いるようになる。
すると、批評家も読者も、彼はわざと不可解の古語をつらね、古調を帯ばせて幽遠がっているなどと攻撃するが、これは全く立脚地の違った批評である。
詩人自身から見れば、あのような古語を使うのは詩的であって、非常に愉快を覚えるところであろう。
ことに、詩には「自然」そのものから得る興と、書籍から感ずる興とがある。
後者の場合などには特に古語を使うのが一種の愉快と満足とを与える事ともなる。
●この点は西洋の詩でも同様である。
よく世人は西洋は言文一致だ、言文一致だというが、決してそうではない。
メレディスの作中の文章などには、すこしも日常の言語がはいっておらぬ。
彼はいったい日常の言語を毛嫌いして、なにも言文一致でなくば文章の書けぬこともあるまい、ひとつ自分独得の文で書いてやろう、と力んで書いたのだ。
ペーターのごときもそうである。彼等のは或る程度までは言文一致であるが、全然口語体では決してない。
彼の伝説のごときものも、世が文明開化になると人の頭にはいらぬばかりか、あるいは嫌われるかもしれぬ。
しかし、いかなる時代にせよ、全く伝説の勢力の下から脱けようとするのは不可能のことで、その空気は知らず知らずに人の頭に浸潤している。
すなわち、詩人は自分はあくまでもそれに制せられまいと思っていても、いつか知らずに制せられているので、従って古語などを使うことともなる。
●かかる現在のありさまであるから、まず文章界には一種の闘争が行なわれているといってよい。
大勢を占めつつあるのは通俗文であるが、他方には例の特殊の趣味感情を現わそうとする人々によって、文章体が保たれておるようなわけである。
けれど、いかに奮闘しても、時世の趣向には勝たれぬ道理で、そういう方面には読者が少ない。
従って、狭い範囲で細く長く保たれてはおっても、大勢力は通俗文に帰してゆくのである。
●元来この社会は、国民の気風を代表するという点から見れば、中等社会が最も勢力がある。
と同じく、文学においても通常の人に投ずる文が勝利を得ていくのは無論のことである。
ただしかし、広く読まれるという事と、文学上真価があるという事とは違う。
傑作必ずしも勢力を得ず、勢力を得たもの必ずしも傑作ではない。
あるいは意外に趣味の下劣なものが、かえって一般の歓迎を受けることがある。
こういう時には、社会教育上から論じて、一世の趣味を教育の力をかりて匡済(きようさい)するような事ともなり、その結果、いかなる文章が最もよいから一般に普及せしめねばならぬという研究にもなるだろうが、自分はまだそこまでは考えておらぬ。
●前に現今の文章界には闘争が行なわれていると言ったが、その闘争は一般ばかりではなく、個人の頭脳中にも渦巻いている。
だから、現今の文筆の士が激しく煩悶しているのはもっともだ。
従来の和漢の書籍のみ見て、それに満足している人々ならば知らず、少しでも泰西の文学でも鑑賞する人は、頭は自然とその趣味と一致しておるのに、さてそれを形に現わそうとすると文字が足りぬ。
すなわち、頭と文字との間には非常な高低ができてくる、あがく、はしごを掛けようとする、西洋の文字は豊富だから、そのまま使おうか? 否、否、ギリシャやラテンをむやみやたらにかつぎまわれば、あいつ街学者だとくる、しかたがないから、大抵にわかる英語ぐらいを入れておく。
それも数があっては困ることとなる。そこで、新熟語をこしらえる必要に迫られる。
人偏に車を書いて 俥(じんりきしゃ)と読ませるとか、三銭と均一とを続けて三銭均一とするとか (天保のおやじには三銭はわかるが、三銭均一とはなんのことやら!)
説明 東京で電気鉄道が始まり、料金が三銭均一となり、その他の物価にも、広く用いられたのだそうです。
象徴だの観念だのという字が新しい意味で復活するとか − 種々な芸当をやらねばならぬ。
●これはしかし時世につれてやむをえぬことで、不自然でない限り、文の組織を変え、新熟語を作っていくのは、文章発達の上に必要なことであろう。
(明治39年8月15日『文章世界』)
ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/
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