夏目漱石 十八世紀に於ける英国の哲学 |
2017.5.12 更新2017.5.22
夏目漱石は、英国留学中に、英文学の研究にあきたらず、哲学、心理学や社会学の本を沢山読み、新しく、彼なりの文学論を構築しようと決心しました。
彼が、英国の哲学・心理学をどう理解したかは、帰国後、彼が東大で、「文学論」の後に講義した、「文学評論」の中の「十八世紀に於ける英国の哲学」に、かなり詳しく説明されています。
日本の知識人として、西洋哲学に、批判的に立ち向かった漱石の姿が、よく伝わってきて、本当に、感心します。
以下に、その部分を紹介します。言葉使いは、なるべく現代風に変更していますが、原典のままのところもあり、不統一です。
(2017.5.22) 「十八世紀に於ける英国の哲学」は、第二編第一章なのですが、第一章の前に、前置きがあり、第一章の内容に関係しているので、以下に追加しました。
第二編 十八世紀の状況一般
●かつて歴史小説と言う事について、人に以下の様な話をした事がある。
もし小説を書いて実際の社会を見る様な心持を読者に起こさせようとするならば、
小説中の出来事が自然であり、また、人物の性格が自然に発展しなくてはならぬのは無論のことであるが、
同時に背景を描くことが重要である。
背景とは、篇中の人物が出て働く舞台、すなわち、これを取り囲む四方の光景である。
小説は、もとより、人間相互の葛藤なり、情合いなり、有形無形の出来事を写したものに相違ない。
しかしながら、この出来事は雲の中に生ずるものでもない、空漠たる虚無の世界に出現するものでもない。
やはり、この大地の上、蒼天の下、人間社会の中に起こる現象の一部である。
してみれば、歴史小説などを書いて、全篇が活動するためには、即ち、如何にもその当時らしく思われる為には、
是非とも社会そのものを写して、その活躍している社会の中からして肝心の用事になる小説の筋が湧き出す様に書かなければならない。
社会の中から入用の事件だけを引き出して、ほかのものは棄ててしまって只その筋だけを紹介するのは、
その筋を了解すると言う点に於いては甚だ便利に相違ないが、社会そのものの一部の反射としては見られぬので、
従ってその社会の光景が眼前に浮かぶと言う点から言えば、換言すれば、その社会を感ずると言う点から言えば、
すこぶる稚拙なやり方である。
魚から骨だけ切り取った様なもので、動物学者が魚の骨格を知るには、骨を肉から切り取って見る方が分かり易いかも知れぬが、
生きた魚を見せようとするには、骨だけ陳列して見せるより肉付きのまま人に示す方がよいのである。
●文学史を講ずるには、無論、この意味の小説を作るのとは違う。
しかしながら、或る方面から解釈を下すと、以下の様な事が言われると思う。
文学は社会的現象の一つであって、十八世紀の社会は文学だけで成立したものではない。
美術なり、哲学なり、社会の風俗なり、一般に言う大いなる人間の歴史中の一部分として文学が出現したのであるからして、
今、文学史を講ずるに当たって、この錯雑なる現象中から文学だけを引き抜いて見せるのは文学の歴史の筋道を知るには便宜であるが、
こうすると文学と他の社会的要因と関連して、活動して世の中に出た景色が目に浮かんで来ない。
いわば単に魚の骨だけを見て居ると一般で何だか興味が無い。
これは単に文学史のみではなく、哲学の歴史でも科学の歴史でも同様であるが、文学に至ると、ことにこの点に注意せねばならん、
と言うのは文学は当時の一般の気風が反射されるもので、当時の趣味の結晶したものであるから、一般の社会とは密接の関係があって、他の学問とはその関係の度が大いに深い。
従って、社会そのものの中に文学なる一種の現象が自然と湧いて来た様に講じて行けば、骨格は分からなくなるけれども、その当時の光景は明瞭になる。
そのかわりゴチャゴチャで、条理は立たなくなる。
●すると一つの板挟み[dilemma]に遭遇する。
文学を社会から切り離して全く独立した現象として論ずるか、または、社会全体の有様を叙してその全体が動いて居る中に自然に文学が織り込まれて居る様にするか。
第一の様にするのは筋道を見るには都合がよい、分類をやるには都合がよい、条理整然として混雑を来さぬと言う点に於いて都合がよい。
しかし冷ややかである、暖かみがない、智性[インテレクト、intellect]を満足させるかも知れぬが、絵画的光景を現出せしむる訳には参らぬ。
第二の方法に従うと、活きた世の中が分かる、その活きた世の中から活きた文学が自然と活現して来ると同時に分類も立たぬ、甚だ込み入って無茶苦茶である。条理が立たぬ、辻道が明らかに分からぬ。
尤も両者とも、うまくやればやっただけの効能はある。
(余の様な者がやれば、どっちにしても旨くは出来んから、言わんでも同じ事であるが、余の考えだから一応お話をして置く。)
不思議なことに世の歴史家とか何とか言う人の内で、科学的に傾いた人は、この後の方法の価値を認めて居らぬ様に思われる。
例えば、歴史を書いても当時の宮廷の貴婦人が皇居の前でどんな失策をして赤面したとか何とか言う事は、天下の大勢に関係がないからして書かんでもよい、否、書く必要はないと考えて居るらしい。
スペンサーが『教育論』を書いて歴史教育などで、いたずらに年代や事件を記憶させる事を非難したことがある様に思う。
年代はいざ知らず、事件に至っては、殊にスペンサーなどが瑣事として棄てて顧みるざる様な事件が、かえって、見方によると抽象的な原因とか結果とか言うものよりも大切かも知れない。
そこでスペンサーの様な、何でも科学的に世界を見て抽象的に智識を概括して行こうとばかり思案する人は、第一の方法より外に方法がない様に考えて居るかも知れない。
しかしながら天然の現象でも歴史的の事実でも、抽象的な原理を掴み出すだけが何も吾人の要求を満足させるものではない。
もしこれだけで人間が満足し得るものならば、あらゆる小説も、あらゆる戯曲も、世の中に出現して来る訳が無い。
そこで歴史は抽象的な原理を知る材料として、科学的に観る必要もあるだろうが、同時に、
歴史を一つの小説、一つの戯曲として耳目的[センシュアス、sensuous]なる、興味ある、吾人の悲喜憂楽に訴えるものとして見る必要も無論あるに違いない。
前代の事を一つの絵画として見、一つの活動せる社会として見るのは、疑いもなく大いなる智識を吾人に与えるのである。
吾人の同情を広くする所以である。従って、吾人を最も人間らしくする所以である。
吾人の想像力を鼓舞して冷ややかなる前世紀の死灰を再び燃やす所以である。
ボスウェルは、伝記作家中に一番成功した人だという評判である。
或る人は、これを評して、彼は最も愚なる人で、最も立派なる伝記者であると評して居る。
ジョンソンの伝を、あれだけに骨を折って作り上げる価値があるか、ないかは別問題であるが、伝記としては確かに見識のある書き方に相違ない。
ジョンソンが橙の皮をどうしたとか、往来を歩くときにポストに必ず手を触れるとかいう事は、スペンサー流にいえば、何等の価値もない事である。
しかしながら、活きたジョンソンはここから生じて来る。
活動しているジョンソンは、この手段で初めて吾人に伝えられる。
もし伝記の目的が、その人物の寝起きし、寝食し、享楽し、憂愁する人間らしい行為言動を吾人に示してはならぬの言えばともかく、
しからざる以上は、ボスウェルは伝記者として卓絶せる見識を有せる人である。
もし彼がジョンソンの生涯を叙するに当たって、この方法によらず、ジョンソンの著書、ジョンソンの人生観、ジョンソンの時代と言う様に、今の人のやる様な手段を用いたらば、成程、吾人の頭に訴えて条理は整然として来るだろう。
智性[インテレクト]の満足は得られるだろう。しかし、活きたジョンソンの影もなくなってしまう。
ジョンソンは、骨と皮と、肉と眼玉と髪と別々に吾人の前に陳列せらるるに過ぎぬ。
歴史は一国の伝記である。一時代の伝記である。
もしボスウェルが、最善の伝記者である以上は、ボスウェル流に歴史を書くのも確かに最善の歴史家でなくてはならん。
少なくとも最善なるものの一つと言わねばならん、要はかような文学史が出来るかと言う事になる。
余には、到底出来ん。
●さて、前に述べた二つの方法の両方とも利があって、両方とも弊害がある。
そこで余は殊に、この章を設けて十八世紀状況の一般と題して、この篇のうちで文学以外の有様、殊に社会の風俗を叙述して諸君に十八世紀はこんなものだと言う図絵を与えて置いて、然る後、本編に入って文学を述べようと思う。
すると十八世紀の社会も一通り分かり、また同世紀の文学も一通り分かる。
従ってこの両者の関係も分かり、かかる社会にかかる文学が起こったと言う事が合点出来ると同時に、この章だけを纏めて置けば錯雑混乱の弊害を幾分か防ぐ事が出来るだろうと考えたのである。
それだから余のやり方は、なるべく前に述べた二つの方法を同時にやりたいと言う願いから割り出したのである。
それでこれが旨く行けば少しは面白いだろうが、前にも言う通り、余の力量では到底諸君に満足を与える訳には行くまいと思うのみならず、自分にも甚だ感心せぬのである。
ただし前置きだけは何時でも長い理屈張った事を言う。これが余の癖かも知れない。
一 十八世紀における英国の哲学
●人間も朝夕飯を食う事や、衣服を着る事や、人を凌ぐ事や、女房を貰う事や、凡て人事上の事に齷齪して居る中は、甚だ心配の様な、甚だ苦しい様な、又甚だ煩わしい様な心持のする者であるが、実際をいうと甚だ太平な者である。
何故かというと、これらの心配は皆、「如何にして生活するか」という事に帰着してしまうので、その如何にしてという事が自己の思い通りに行けば、その他は至極呑気である。
例えば、車夫の如く、大工の如く、その日に労働をして賃金を得る、それで口体の欲を満足せしめて寝て仕舞う。
説明 口体の欲 貝原益軒の養生訓に、「人の耳・目・口・体の、見る事、きく事、飲み喰らう事、好色をこのむ事、各其の好める欲あり。これを嗜欲と云う。嗜欲とは、好める欲なり。欲はむさぼる也。飲食色欲などをこらえずして、むさぼりてほしいままにすれば、節に過ぎて、身をそこなひ礼儀に背く、万の悪は、皆欲を恣[ほしいまま]にするよりおこる。耳・目・口・体の欲を忍んでほしいままにせざるは、欲にかつの道なり。もろもろの善は、皆、欲をこらえて、恣にせざるよりおこる。故に忍ぶと、恣にするとは、善と悪とのおこる本なり。養生の人は、ここにおいて、専ら心を用いて、恣なる事をおさえて欲をこらゆるを要とすべし。恣の一字をさりて、忍の一字を守るべし。」と、あります。
明日は明日で又働くのである。始終こんな事を繰り返して居るうちに死んで仕舞う。
少し教育のある者は彼等の生活を見て不憫に思う。何故不憫であるかといえば、彼等は考えないからである。
凡ての事を、あるがままのものとして済まして居るからである。
何故考えぬのが不憫であるかというと、考えぬ者は生存競争に敗北をする、自己に不利益であるからである。
しかし、一歩進むと、その利益不利益(目前の)の域を通り過ごしても、やはり惰性で考えなければならなくなる。
従って物を知るという事は、利益問題を離れた時に於てすらも、その知るという点に於いて愉快を感じる。
従って知的好奇心というものは、普通の衣食問題、緊要問題を通り過ごしてずんずん先へ進む。
先へ進めば進む程、普通の人の考えとは違って来る。
その極みは、平常の人から見れば、あの男は何を苦しんで、あんな事を考えて居るかと思う、あんな事を考えたからとて飯が旨く食える訳のものではなかろうという風になる。
ところが、考える人は、急に考え出したのではない。
五重の塔を積み上げる様に、初めは普通の人の立場から段々高く土台を築き上げたので、
初めこそ、ふとした動機からやりかけたかも知れぬが、やって居るうちには、それが職業の様になってどうしても止められない、迂闊だろうが空論だろうが、顎の上が干上がらぬうちは、到底止められない。
益々、根本的に立ち入って考える。益々、概括的に考える。
その極みは、世の中を区別して、心と物として見たり、心ばかりにして見たり、或いは、耶蘇教の影響とこの考えが寄り合って世界は神の示現であると言って見たり、到底普通の人間としては解すべからざる様な事を真面目な顔をして説きたてる様になる。
これが哲学者である。即ち、哲学者という者は、或時代に在ってその中の最も善く考える人、物を概括する人、換言すれば、智力という、人間の能力を最もよく利用した人である。
五重塔を積むに数十人の大工と二三年の手間がいる如く、智力の発達もここ迄行くには骨が折れる、容易な事ではない。
従って普通の人から見ると呑気の様であるけれども、実際は、甚だ心配性の男である。
普通の人なら目前の事ばかり考えて食って行きさえすれば、それで済むのだけれども、この哲学者になると永遠の事や、普通的の事や、並みの人の五倍、十倍、百倍程な事を考える、しかも考えずに居られぬのである。
哲学者という者は、かくの如く普通の人の考え以上の事を考える者であるから、その説く所言う所は、普通の人には馬耳東風であって、また一廉[ひとかど]の教育ある者にも不得要領な事が多いのである。
現にヒュームが、1769-1748年の間に哲学的の著書、即ち『人性論』(A Treatise of Human Nature) とか、『人間の悟性に関する哲学的論文』(Philosophical Essays concerning Human Understanding) 等を著わした時に、俗人は無論読み手がなかった。
教育ある人の中でも、これを読んだ人は、頗る僅少である。その僅少な中で彼を理解した者は極めて少ない。
スチーヴン (Leslie Stephen) によると
The attempted answers are a sufficinet proof that the
leaders of opinion were impenetrable to his logic.
(ヒュームの説に対して) 試みられた反応は、オピニオンリーダー達が、彼の論理を理解できていないことを十分に説明していました。
Men of the highest reputation completely failed to
understand his importance.
最高の著名人ですら、彼の重要性を理解することが全然できませんでした。
(English Thought in the 18th Century)
とあるのでも、その状況はよくわかる。
解せられなかった著者は無論心細い。解し得ない社会一般も亦、同様に心細い次第である。
●要するに昔から考えた上に、後世の人が又考える。その上に又考えるので、考えが無暗に普通の人の頭を乗り超えてこんな次第になるのである。
さて、かように一般社会の上に超然たる思想が一般社会に対してどの位な影響があるだろう。
普通の人に読めもせず、また分かりもせぬものが、どうして世の中に感化を与えるだろう。
もし与えぬとするならば、この哲学者の考えというものは、ただ、唐人の戯言として他の社会の現象とは切り離して置けばよい。
今この場合に於いてもその通り。十八世紀の文学を論ずるからと言って十八世紀の哲学を論ずる必要は全くなくなる。
(哲学を文学と見做せば、格別だが[ともかく]。)
それだから今、十八世紀の哲学を一寸述べる前に、哲学と社会とはどんな関係があるか、少し考えて見たい。
●哲学者の説が如何に難渋カン険にせよ、如何に空漠曖昧にせよ、如何に普通一般の人の心に入り難く解し難きにせよ、狂人白痴の言語の如くにせよ、
その説を生じた哲学者は砂漠の中に生まれ出た訳の者でもない。泰山の頂に湧いて出た者でもない。
矢張り他の普通の人と同じく同形同状の社会に生まれたのである。
その衣服は社会の人の着る衣服で、その食物は社会の人の食う食物である。
もし学校があれば、矢張りその社会の学校で教育さるるのである。
従ってその生長した社会の影響はどんな風変わりの人でも免れる訳には行かぬ。
もしその社会の影響を蒙らぬと言う以上は、自分が吸っている空気が自分の身体に影響がないと主張する様なねのである。
すると哲学者の考えの、全部は兎に角、一部は是非その社会の考えが反映して混じり込んで来るに違いない。
さて、その反映せられたる考えを一層深く広くするか、又は前代から世々の哲学者が集積したり、或いは、互いに訂正したりして当代まで伝えて来た哲学的思想を社会一般の思想で modify して出来上がって居るに相違ない。
尤も根本的に言うと、心とか物とか言う極めて普遍的なものになって仕舞うからして、一寸現代の制度風俗等に交渉はない様であるけれども、そこに達する迄の経路及び方法等は、矢張り一般社会の人の風になづむものである。
例えば欧州基督教徒の研究した哲学は、必ず神 (God) と言う字が出て来る。
我々日本人が考えると何も神と言う事と哲学的思想とは関係のないものである。
神は神、哲学は哲学でよかろう様に考えられるが、彼等は基督教徒であって、生まれ落ちた時から死ぬ時迄、基督教のお蔭を受けて居る。
しかして基督教の根拠は、神であって、この神から人間も天地も出来て居るのだからして、哲学者の様に物を考える人の自然の傾向はこの神を今迄通り認識するか、または今迄の神と言う観念を変形してこれを受納するか、もしくは全然この神なるものを打ち崩すか。
どうにか神 (God) の始末をつけねばならぬ。 従って欧州の哲学者は神のことを云々せざるを得ない。
我々日本人は違う。根本的にそんな影響を蒙って居らんから神などをどんなものだと考える必要もない。
西洋の哲学書にある神などの受売りをする必要はない。
欧州人が神の属性などを理屈をつけてやかましく騒ぐのは、やはり欧州に固有な風潮の支配を受けた因果であると思って居ればよいのである。
●ともかくも、この事実を以って見ても、如何に寝言のような哲学でも、一代の影響は免れぬと言う事が分かる。
もし彼等の考えた抽象的な原理が、実際的交渉(practical bearing) を有して出て来る時、即ち、政治とか道徳論とかなって出て来る時は、必ず当代の徳義および政治に密接なる関係を有して来る事は疑いもない。
日本の徳川時代の儒者は、もとより考理の上に於て西洋学者の様に大胆でない。
しかし堯舜の世と言う者は彼等の理想として居った黄金時代である。而して堯は舜に位を伝えた。
即ち天下を他人に譲った元祖である、この事実があって、この事実を執行した本人を神の如くに謳歌する儒者共ですら、かつて彼等の理論を拡げて、これを吾朝に及ぼそうとした者はない。
何故ないかと言えば彼等の哲学的の頭脳が眼前の事実に束縛せられて、日本は血統で天下を子々孫々に伝うべきであると信じ切って居ったからである。
夫から忠と孝と貞とは彼等が口を酸っぱくして説く教えであるが、親の義務、君の義務、夫の義務はかつて説いた事がない。
静かに考えて見るとすこぶる馬鹿馬鹿しい。
理屈に訴えて少々考えて見れば、これ位の事は是非分からなければならん。
然るにも関せず、彼等はある一種の状態にある社会に生まれた為、この見やすいことをすら考えなかったのである。
彼等の生まれた時代は、君が絶対の権利を有して居った時代である。親が無上の勢いを振り回した時代である。
夫が妻を勝手に取り扱った時代であって、しかも子たり臣たり婦たる者はこの偏頗[不公平]な道徳に馴れて自ら自己の不便不利益を感ぜざる迄に圧迫を甘んじた時代である。
この事実を有する社会に生まれ出でたる学者は、この人事的関係を以って人間の自然と心得るものは無理もない事である。
人事上の事は不満か不平があって始めて一変化をしても差し支えないというジァスチフィケーション (justification) を見出す者である。
徳川時代の民はこの不満を感じなかったから、同時代の学者はこの関係を変更しようと言う為に新しき理論を唱導し得なかったのである。
理論は時として事実を変更する。しかしながら、理論は事実から出立するものである。
忠、孝、貞の飽くまでに重んぜられたる世に、この事実に反する理論の出る訳がなかったのである。
かように論じて見ると、純粋の哲理さえ、一代の風気に感染するから、実際哲学に至ると勿論その影響を受けることが明らかである。
従って十八世紀の文学を論ずるに哲学を付記するのは大いに興味のある事と思う。
要はこの哲学が実際文学上如何にあらわれて居るかという事を指摘するにあるだろうと思う。
余の手際でうまく行けば結構である。
●十八世紀を見渡して如何なる哲学者が出たかと思うと、先ず三人居る。
第一に、ロック (Locke)。第二に、バークレー (Berkeley)。第三に、ヒューム (Hume) である。
それで、ロックはデカルト派の哲学を攻撃した学者であるが、当人自身神学者である。
バークレーが、このロックを駁したのは、元はといえば大いに神学の為に尽力した積りである。
ヒュームは二人と大分異なって居るかも知れぬが、その二人を攻撃した攻撃の仕方は、彼等の結論が彼等の神学と一致しないと言う趣意である。
すると当代の哲学が神学と密接な関係を有して居ったと言う事が分かる。
これは一寸面白い現象である。
人の知る如く、所謂自然神教の争論が盛んに行われたのはこの世紀の事であってこの争論なる者がやはり一種の気風をあらわして居て、しかもその気風が文学にもあらわれて居りはすまいかと思われる。
説明 自然神教 理神論、自然神論とも言う。deism. 世界の根源として神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考えず、従って、奇跡や啓示の存在を否定する説。代表者はイギリスのJohn Toland (1670-1722)
しかし、それはあと廻しとして以上述べた三人の哲学の極くざっとした所を述べて、そしてその特性を概括して見たいと思う。
(私は哲学上の智識に乏しいから旨く行かない。のみならず手前勝手の概括で、飛んだ誤謬があるかも知れない。参考の為に申す迄である。)
●ジョン・ロック (John Locke, 1632-1704)。
年代から言えばロックの有名な著書『人間の悟性に関する哲学的論文』(Philosophical Essays concerning Human Understanding) は、1690年の出版であるから、つまり十八世紀ではない、十七世紀に属するのである。
しかしながら実際彼の十八世紀に於ける影響は大いなる者で、バークレーの説はロックから出立し、ヒュームの説はまたバークレーから出立する訳であるからして、ロックを十八世紀の哲学者として論ずるのは別段不合理の事はないと思う。
そこでロックの説はどこから縁を引いて居るかと言うと、デカルト (Descartes) から来たのである。
そのデカルトは、オーソリチーを棄てて理性に従わねばならぬと唱えた人である。
一般の人は他人が信じるから信じても差し支えないと考えて居る様だが、これが間違いの種である。
決して人造の世間的通説 (arbitrary authority) に盲従すべきものではないと言う事を主張した。
これは無論彼の消極的方面であって、デカルトは一方に於て、吾人は吾人の心中に於て天賦観念 (innate idea) があり得ると言う事を仮定した。
吾人がもし物をあるがままに知り得るならば − 経験と独立して真理を認めることが出来るならば − その智識は誰にも同じでなければならぬと断じた。
この論法を引っくり返せば、こうなる。
各人に同じき者は経験と独立したものである。例えば数学の第一原理の如きは普遍で絶対な真理で、全く経験から独立したものである。
だから哲学者も数学者の様に自分の取り扱う問題に就いて、公理とも言い得べき争うべからざるものを発見して、それから出立したならば数学程に精密な学問が出来るだろう。
− これがデカルトの考えである。そこでデカルトはいろいろな推理の末、三つの実在を得た。即ち神、心、物である。
●そこへロックが出て来て、この天賦観念の説を駁したのである。
次にバークレーが出て来て彼の実在の説を駁したのである。
最後にヒュームが出て、実在の残りものを打ち壊したのである。
ロックは先ず、経験で確かめ得ざる観念、または実際の事実と一致せぬ観念を哲学界から駆逐して仕舞うと言う点から出立した。
哲学界を見渡して見ると、天賦観念と言う訳の分からぬものがある。そうして哲学はこの天賦観念と言う誤りの上にうち建てられている。
ロックは第一にこれを攻撃せざるを得ない。ロックは前に申した如く耶蘇信者である。
だから神の存在は無論認めている。しかるにも関せず、彼はデカルトの主張した、神なる天賦観念をさえ攻撃した。
そうしてかかる要用[必要]な観念さえ天賦(innate)でないからして、他の観念の天賦でない事は知るべきのみであると言う様な筆法を用いた。
心 (soul) と言う天賦観念もまた、ロックの攻撃を受けた。
個人の同一性 (identity) と言うものは意識 (conciousness) から成り立っている。
すると心 (soul) の統一および連続も疑わしくなるからと言う論である。
第三、物 (matter) と言う天賦観念に関しては彼は何だか妙なことを言うて居る。
「吾人は一般に実質に関してはただ不明にして関係的なる観念を有するに過ぎず」と言って居る。
しかし、これもとにかく、駁論である。
かように天賦観念を否定してかかったロックの立場は、自から明瞭で、人の知る如く、彼の考えによると、すべての観念は、必ず感覚性 (sensation) と反思性 (reflection) の二つを通して、経験を待って始めて得らるべきものとなって居る。
元来、ロックの『悟性論』は大変大部なものであって、これを僅か二三行で講じる事からが既に乱暴な話であるし、また二三行位ならば言わんでも誰も知って居る位なものであるけれども、ロックが経験の二字にあくまで重きを置いて、心は何でも経験から観念を得るのであるから、経験を棄てては丸で議論が出来ぬと迄論じたのは、空漠なる哲学を堅固なる基礎の上に建立したもので、この実際的な着実的な態度が大いに注意する価値のある事と思う。
退いて考えて見ると、これが一般英人の気風であって、そしてこれが最も十八世紀の社会一般を反映する気風ではあるまいか。
この点に関して、レスリー・スチーヴン (Leslie Stephen) は、その著『十八世紀の英国思想』に下の様な事を述べて居るのは大いに吾人の参考になる事と思う。
"The critical movement initiated by Locke and
culminating with Hume reflects the national character.
「ロックによって唱道せられ、ヒュームに至って最高潮に達したる批判的運動は英国国民性を反映するものである。
The strong point of the English mind is vigorous grasp
of facts; its weakness is its comparative indifference to logical symmetry.
英国思索家の長所は、しかと事実を捕らえるにあると共に、その短所は比較的論理の整然たるに無頓着なる辺に存して居る。
英国精神の長所は、事実を頑健に捕えることにあり、短所は、論理的な均整美に比較的無頓着なことにある。
English poetry is admirable, because poetry thrives upon
a love of concrete imagery; whilst Englishmen have always despised too
indiscriminately the dreams of a mystical philosophy which seems to be entirely
divorced from the solid basis of fact.
詩は具体の影像を愛するが故に栄える。故に英詩は群を抜いて卓越している。これと同時に英人は、常に事実の牢たる基礎を全く離れたる如き神秘哲理の夢幻的なるを侮蔑している。その侮蔑し方が無差別すぎると思われる位である。
英詩は称賛に値している、何故なら詩は具体の影像への愛で栄えているから;
一方で、イギリス人は、神秘哲学の夢想を、常に見境なく侮蔑してきました、神秘哲学は、事実という堅実な基礎から完全に離別しているように見えたからです。
In metaphysical speculation their flights have been
short and near the ground.
純正哲学に於ける彼等の羽ばたきは短きものである。かつ地上を去る事甚だ遠からずと評しても差し支えない。
形而上学的な思弁において、彼等の飛行は短く、かつ低空飛行でした。
They have knocked pretentious systems to pieces with
admirable vigour;
彼等がこけおどしの系統を粉砕するときは猛然として驚嘆に値すべき精力をあらわすにも拘わらず;
彼等は、仰々しいシステムを粉々に粉砕しました、称賛すべき活力をもって;
they have been slow to construct or to accept systems,
however eleborately organized, which cannot be constantly interpreted into
definite statements and checked by comparison with facts.
明晰なる命題に翻訳しがたき、もしくは事実の保証を有せざる系統に至っては、如何に精巧に組織せらるるも、容易にこれを建立する事がない。
彼等は、システムを造ったり受け入れたりすることには吝かでした、システムが、如何に精巧に組織されていたとしても、常に明快な陳述に解釈したり、事実との比較によってチェックするということが出来ない場合は。
As one consequence, we perhaps underrate our own
philosophical merits.
その結果として吾人はややともすれば我哲学者の功績をみくびる癖がある。
その結果の一つとして、私たちは、多分、私たち自身の哲学的な長所を過小評価しています。
Comparing Locke, or his successors, with the great
German writers, we are struck by the apparently narrow, fragmentary, and
inconsistent views of our countrymen.
ロックおよびロックの後継者を取って、ドイツの大家と比較して見ては、常に、吾邦人の見解の矛盾で狭隘で、しかも断片的なのに驚いて居る。
ロックや、ロックの後継者をドイツの作家と比較して、私たちは、驚かされます|私たちの同国人の見解が、明らかに、狭く、断片的で、一貫性がないことに|。
If the merit of a philosopher were to be exhaustively
measured, not by the number of fruitful principles, but by the variety and order
of his applications of his principles, Locke and his successors would occupy a
low position.
尤も、哲学者の価値は、その哲学者のもたらした富実[ふうじつ]なる主義の数量で残りなく図られるものでなくて、その主義の応用の変化あり区域広き点によって定まるとすれば、ロックの如きものはもとより低級の席を占むるに過ぎぬだろう。
もし哲学者の長所が、徹底的に計測されたなら|結実した原理の数によってではなく、彼の原理の応用の多様さや順序によって|、ロックやその後継者は、低い地位しか占めないでしょう。
If the courage which passes over a difficulty in order
to frame a system be more admirable than the prudence which refuses to proceed
beyond clearly established principles, they must be content with a secondary
rank.
もし一系統を組織する為に困難を凌ぎ越す勇気が、確立せられたる主義以外には一歩も足を踏み出さぬと言う用心よりも賞賛に価するとなれば、彼等は第二流以下を以って甘んじなくてはならぬ。
もし、或るシステムの枠組みを作る為に困難を乗り越えなければならない勇気が、明白に樹立された原理を超えて前進することを拒否する用心深さよりも、より称賛に価するとしたならば、彼等は、二流であると評価されることに満足しなければならない。
Nor is it doubtful that our dislike to pretentious
elaboration often blinds us to the merit of the more daring speculators whose
width of view has stimulated thought even whilst covering many fallacious
generalities.
巧緻を尽くした僭越なる系統を嫌うの極み、誤謬ある概則を含みながらも思索を鼓舞するに足るべき雄大なる見識家の功績を吾人が見逃したるは明らかであるが、余は信じて疑わぬ。
また、決して疑わしくはありません|私たちが、大袈裟に作り上げることを嫌うことが、我々の目を塞いで、より大胆な思索家(彼等の見識の広さは多くの虚偽の一般概念をカバーしながらも、思考を鼓舞しました)の長所をみえなくさせてしまったことは|。
Yet I believe that the merits of our shrewd and sober,
if narrow and one-sided, speculation, will be more highly valued as we recognise
the futility of the cloudy structures which it has dissipated.."
吾人が吾人の打破したる雲をつかむ様な哲学系統の空虚なる事を認識するに従って、鋭利堅実なる(偏狭かも知れぬが)吾人の哲学思想の功績は次第に重んじられるに至るだろう。」
それでも、私は、信じます|私たちの抜け目なく地に足のついた (例え狭く一面的であっても)
思索の長所は、それが消散させたあの曇った構造の無益さを認識するにつけ、もっと高く評価されるようになるであろうことを|。」
●これは英国の学者が自ら英国人の気風を考察して、その哲学の利害得失を明らかに述べた一章であって、吾人の為には大いに参考になりはせぬかと思われる。
英国は、神秘的な臭味[しゅうみ]を嫌う。事実を愛する。それだから、宏淵縹渺の趣がない代わりに着実適切の風がある。
説明 宏淵縹渺 [こうえんひょうばく] 宏淵は、広く深い様子。縹渺は、広く果てしない様子す、広漠
この神秘を嫌うと言うことは、一般の英人の臭味であって、同時に十八世紀の風ではないか。
この事実を愛すると言うことは、英人全体の気風であると同時に、殊に十八世紀の特徴ではあるまいか。
しかも、この気風が当時の文学にあらわれては居るまいか。
もしあらわれて居るとすれば、吾人はそれによって朧気ながら当時の哲学と同時の文学との底を一貫して居る織素(factors) を見出したものである。
同時に社会現象が、同時代の産物である以上は、或る関係を以って結び付けられて居ると言う一つの例を得ることになる。
尤もこれだけではわからない。もっと同様な例が沢山集まれば一つの概括が出来る様になる。
果たしてそうなるか、どうだか今の所では、すぐ分からない。
●ジョージ・バークレー (George Berkeley. 1685-1753)。
ロックに継いで起こった者は、バークレーである。『幻象の新理論』 (New Theory of Vision, 1709)。『知識の原理』 (Principles of Human Knowledge, 1710)。『ハイラスとフィロナスの問答』 (Dialogues between Hylas and Philonous. 1713) の著者である。
さて前に述べた如くデカルトが世の中を割って物と心とすると、物と言う者には明瞭なる属性がある為め、ややもすると空漠たる心を凌いでこれを圧倒する傾きがある。
この傾向を見て取ったバークレーは心の勢いを快復して、これに相当の地位を与える為に物を打破せんと企てた。
それだから彼の筆鋒は、所謂、唯物主義を打破する方向に向かったので、彼の主義が物の存在に反対する所からしてこれを唯心主義 (idealism) と言うのである。
説明 唯物主義、唯物論は、英語では、materialism ですが、materialism は、物質主義と訳すこともあります。
唯心主義、唯心論は、英語では、idealism ですが、idealism には、理想主義という別の意味もあるので、
哲学用語としては、mentalism, spiritualism という言葉も使われます。spiritualism は、神秘主義、心霊主義でもあります。
普通の哲学者の考えによると、観念なるものは外物を代表するもので、外物それ自身は不可知である。
だから、この不可知なる物を代表する観念は実在のものではないというのが一般であったのだが、バークレーは丸でこの議論をさかさまにして、観念こそ実在である。物質こそ豪も実在を有して居らぬ。
外界の存在と称する者は、この観念が或る一定の方法で俱発[同時発生]し、もしくは連続するの謂いに外ならぬ。
それで、この方法の原因となる者は、神である。
(バークレーが神を建立した論理はエルドマン著『哲学史』第二巻263頁に旨く書いてある。)
●一寸見ると十八世紀の風潮と相応しない様な説であるけれども、ロックが既に天賦の観念を論破した以上はバークレーが物を打ち砕いたのも非常に突飛な事とは言えぬ。
しかし、物、心、神とある中で、何故心の方を打ち砕いて、物を存して置かなかったのか。
その方が十八世紀的の様に思われるがと言う質問が一寸起こしたくなるかも知れない。
この質問は、すこぶる困難な質問で、丁度、ブラウニングが何故哲学者にならないで詩人になったのかと聞く様なものである。
かかる込み入った問題は込み入り過ぎて居る為、真面目に返答すればする程滑稽になるけれども、余はどうもこの質問を起こしたくなる。
と言うものは、十八世紀はその全体に於てすこぶる物質的な傾向のある世である。散文的な世である。
もし、ここに物、心、神と言う三つのものがあって、その中何れか片付ける必要があるならば、先ず心から片付けそうなものだと思われる。
しかるに、バークレーは余の予期に反して、物を滅して仕舞ったのは、いささか妙な感じがする。
余は哲学を専門に考究する者でないから、この辺の消息については権威(authority) を以って明答を与える事は出来ない、
のみならず、かかる質問を一言で解決するのは少々馬鹿気た感じがあるが先ず杜撰ながら余の推察を、御笑い草迄に一言述べて置こうと思う。
●バークレーの論鋒が、一意、心と言う事に着眼して物を取り壊す方に心を用いたのは真理のある所だから仕方が無いと言えばそれ迄である。
彼が何れの国、いずれの世に生まれても、こう言う風に世界を見るのであると言えばそれ迄である。
余も強いてこれを争う気はないが、しかし彼をして十八世紀の風潮に反して、いやしくも眼をここに転じせしめたのは矢張り一種の事情がある様に思われる。
彼は坊主である。1734年からクロイヌの僧正である。
して見ると彼は神と言う者を度外に置くことは出来ないのみならず、彼の著書は哲学であると同時に神学的意義を有して居る、彼の態度は哲学者であると同時にまた神学者である。
しかして当時の神は − 一般の学者によって理解せられたる神は − 眼を備え、口を備え、喜怒哀楽の情を具えたギリシア人の思惟した神の様なものではないに極まっている。
非常に抽象的な非常に茫漠たる非常に理屈詰に割り出した神であろう。一つの精霊である。
彼バークレーの思惟する神がかくの如き神であって、彼が職業上教育上この神の観念を取り去ることが出来ぬ以上は、物と心を並べてどちらか片付けろと言われた時に彼が何れを選び何れを棄てるか、その取捨は多言を用いずして明瞭であろうと思われる。
心を棄てるは神の影を棄てる様なものである。否、神の一部分を棄てる様なものである。
物に至りてはこれを棄てても神の領分を犯す憂いはない。
彼の信じる神を毫厘も[少しも]冒す所なくして、心と物の取捨を決しようとすれば、無論物を棄てたいに極まって居る。
棄てたいと言う了見で理屈を付け出せば、したいと言う願いと共に理由はいくらでも湧いてくるものである。
彼が心をとって物を捨てたのは十八世紀に似合わしからざるにせよ、彼の心理状態から言えば、さもありそうな事に思われる。
●その上、彼の議論は唯心主義であるけれども経験的である。
その『幻象の新原理』は純正哲学に導く階段には違いないが、それ自身に於て心理学である。
在来の理論によると広袤[こうぼう]という事と、空間的物体との二者は、視覚でも分かる、また触覚でも分かる。
説明 広袤は、広が東西の長さ、袤が南北の長さを表すことから、幅と長さ、さらには、広さを表す言葉ですが、
漱石は、英語のextensionの訳語として使っています。
すなわち両方の感覚で一様に分かる者と思われて居たのをバークレーが出て来て、そうでないと主張したのである。
彼の説によると吾人が眼から受ける観念(観念には感受性の印象とその模写(copy) とを含む) は色のみである。
それが漸々[ようよう]触覚的観念の記号となって、その代理をつとめる様になる。
眼で見た色は、ある場合に於いて触覚の経験に伴うものである。
そこで眼で物を見た時は触覚と言う事が暗示せらるる様になる。
これを視覚広袤(visual extension)の観念という。
一寸単純な様に思われるけれども、その実は複雑な結合から出来て居る。
それだから吾人が物を見て色と共に広がりをも見るのは、過去に於て色の観念と共に出来上がった触覚の観念を呼び起こすに過ぎない。
これがバークレーの説であって後世の心理学者は一般に、これを採用するのである。
この実験的な態度は矢張り英国人流であって何処までも事実と離れぬ気風を示して居る。
しかして又十八世紀の気風とよく調和して居る。
それだからバークレーが一般から言って物質的な十八世紀に出たのも驚く程な現象ではないと思う。
●デヴィッド・ヒューム (David Hume, 1711-1776)。
バークレーが出て、物だけは打ち崩したが、心と神だけは依然として存在を認識せられて居た。
しかるに、ここスコットランドからデヴィッド・ヒュームなる豪傑が出て来て研究に一層歩みを進めて遂に心も神も一様にたたき壊したのは痛快の至りである。
彼の第一の著書は『人性論』(倫理問題に向いて実験的方法を試みたもの)(A Treatise of Human Nature, being an Attempt to introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects. Lond. 1738))で、これは彼の大著述であっても彼の25-26歳の時の産物である所を以って見れば余程頭脳の勝れた人に相違ない。
不幸にしてこの大著述は折角の労力にも関せず、世間の人から一向注意を惹かなかった。
彼は後年自家の学説を「死生児」と評したのはこれが為である。
そこで彼はこの著述を書き直して一般の人にも解る様にした。
それが『人間の惰性に関する研究』となり、『情感論』(A Dissertation in the Passions)となり、また『道徳原理に関する研究』(An Enquiry concerning the Principles of Morals)となった。
●彼の説によると、吾人が平生[へいぜい]「我(Ego)」と名付けつつある実態は、まるで幻影の様なもので、決して実在するものではないのだそうである。
吾人の知る所は只印象と観念の連続に過ぎない。
ただこの印象や観念の同種類が何遍となく起こって来るので、修練の結果として、これらの錯雑紛糾するものを纏め得る為に、遂に渾成統一の境界に達するのである。
説明 渾成[こんせい]の渾は、渾身の渾ですが、渾成は、一つにまとめあげるという意味で、境界[きょうがい]は、境遇の意で、
渾成統一の境界は、まとまって統一された境遇 という意味となります。
だから心など言う者は別段にそれ自身に一個の実体として存在するものでないと言うのがヒュームの主張の一つである。
次に、因果の概念と言うのもまた、習慣の産物として出現するに過ぎないのである。
吾人はここに甲と言う印象を受ける。次に乙と言う印象を受ける。
かくして甲乙従伴する印象を何遍となく同一の順序に経験するうちには、甲の印象を受けるや否や習慣の結果として自ら乙の印象を期待する様になるのが自然の数[自然のなりゆき]である。
かくの如く因果の念と言うものは、習慣から出て来るものだから、もしこれを応用しようとするならその習慣を構成する経験の範囲内に限らるるのは当然の話である。
経験的に与えられたる既知件からして出立して、みだりに経験の領域以外に逸出して、いたずらに超絶的の議論に移るのは明らかに不法である。
従って神とか不滅とかを口にするのは不法である。
これがヒュームが世人からして懐疑派と言われるゆえんである。
●さて、この懐疑と言う態度は、英国人全体の態度としては受け取り難いかも知れぬが、十八世紀の英国人の態度としては調和して居る所がないでもない様に思われる。
成程ヒュームの様に哲学的に理論的にここ迄押し詰めた者は沢山あるまい。
また多くの人間の居る事だからその中には信心家も無論あったろう。忠実なるキリスト教信者もあったろう。
しかしながら、概して社会の調子が懐疑的ではあるまいかと察せられる。
信仰が余り強くなって、世の中はこんなものだと中途で妙に悟った様な所から言っても、根本的の事は分からなくても構わんと言う様な調子のある処から言っても、無暗に物に熱中するのを軽侮する様な気風から言っても皆この懐疑的な態度を具えて居る様に見える。
さて全体の社会にこんな空気が充満して居ると言うと、哲学的に物を研究するにもこんな気風で手を著[つ]け出す、こんな気風で手を著け出して、こんな方面から物を見、物を考えて煎じ詰めて行くと、矢張りヒュームの様な結論に達しはせぬだろうか。
しかも一度学説的にここ迄到達して見ると、一時の臭味に感染した感情的なそもそもの始まりは綺麗に消えて、全く普遍的に効力のある様な、古今東西に通じる様な、抽象的な理論となって現れるのではなかろうか。
この出来上がった所だけを見てヒュームの考えは一代の風気を反射して居らぬと言う事は言えまいと思う。
果たしてそうであるとすればこんな哲学者のような、普通の人に直接の興味を与えぬ事でも何等かの興味があるのみならず、文学を述べる前にヒュームの哲学を一言述べるのは、かえって適切なことと思われる。
ヒュームの感染した様な気風が同じく文学の上にもあらわれて来れば猶更ら面白い事だと思う。
●(バークレーの説は、バークレーの心理状態から出たと言い、ヒュームの説は一代の風潮に胚胎したと言い、ロックの説は事実を喜ぶ英人気質から出たと説いたのは、何れも不完全なものに決まっている。
だからその外にもっと複雑な原因が沢山あると言う事を御互いに承知の上で、述べもし、聴きもしたと致して置かなければならない。
一寸考えても分かる。
いくらロックが英国気質だと言って、哲学の系統がデカルト迄降下し来たらなければ、経験説を主張しなかったかも知れない。
デカルトを駁しようためにこそ経験説を建立したとも見做される。
バークレーもその通り、デカルト、ロックのあとに出て何か自説を樹てようとすればこそ、彼等に反対の方面に研究の歩みを進めたので、単に自分が僧侶であったからと言う事実は事実として原因の一つに数えるに足る迄である。
ヒュームも同じ事である。
もしバークレーが彼の前に出て、ああ言う説を唱えなかったならば、如何に独創的なヒュームでも暗示の材料を失って、しかく大なる懐疑説を持ち出す迄には至らなかったとも思われる。
だから一代の風潮のみがヒュームの学説を産出したとなど言うのは固より尽くさざる議論である。
ただ個人、学説、社会、国風、文学、などをならべて幾分でもその間の関係をつけて見ようとしたから、話頭がここに及んだのである。
しかも肝心な本論の文学でないから、それすらもすこぶる尽くさざるものである。
簡単過ぎる所は御容赦にあづかりたい。)
●ロック、バークレー、ヒュームの三人の哲学を述べたからして、これからは他の事項に移って御話をする筈であるが、今一つこれに連関して自然神教者のことを述べて置きたいと思う。
英国の十八世紀は自然神教者の論争舞台として知られた世紀である。
自然神教を主張する自然神教者の多数は所謂フリー・シンカー (free-thinker) であって、ホッブス (Hobbes) 一流から発達して来た唯物論者の様に見える。
即ち霊魂の不滅や未来の存在などは理屈上信じられんと主張するものと見做せば差し支えあるまい。
この主張に応じて一方では、なるほど霊その物は自然に不滅ではないかもしれない。
しかしながら神の恵みによって未来の存在を得るのであると答える者が出て来る。
するとまたそれに反対するものが現れる。
議論に議論が重なって段々局外者には解らなくなる。
それでこれらの著書は、総体で百部か二百部もあるだろうと思うが、何れもヤソ教に関係した哲学的の議論であって自然神教者の方では理性にかなうような宗教でなくてはいかん、黙示や奇蹟は信じるに及ばないと絶叫するのだろうし、また反対の側の方でもそれに応じて色々な弁護をするのだろう。
余の如き門外漢は、この錯雑した論争の中に一歩も立ち入る権利はないのであるが、まあ一例を挙げると徳を賞し悪を罰すると言う事物の原始的傾向がこの世では旨く出来んから均衡をとる為に未来の生命を神が作ったなどと言うのである。
要するに我々日本人 − ことに耶蘇教に興味を持って居らぬ余の如き者からして見ると、何の為に彼等は貴重な時間をこんな問題に費やして鎬[しのぎ]を削って喜んで居るのだか殆ど要領を得るに苦しむので、成程一代の趨勢と言うものは不思議なものだと言う感が起こる。
実を言うと、前にも述べた通り、余の如き横着ものは、如何に奮発して見ても、この混乱した神学とも哲学とも判じかねる議論を研究してその道筋をさへ合点する勇気に乏しいのである。
万一諸君がこの論争を御承知になろうと思われるならば、ユーバーウェヒ(Ueberweg)の『哲学史』第二巻371頁ないし386頁を御覧になれば要領だけは書いてあるから、二三日熟読したら御会得になるであろうと思う。
もしまた詳細の事が必要ならばレスリー・スチーヴンの『十八世紀に於ける英国思想』を御覧になればよい。
●さて自分で解しかねるとか、面白くないとか言いながら、自然神教の論争の事を何故にここに一言でも述べたかと言うと、当時の哲学者神学者は皆かくの如き議論を自己の本分の様に心得て居たらしく思われるから、それを敢えて紹介して置こうと言うのである。
それを紹介して、何の為になるかとの質問があるかも知れぬが、私は局外から見て、これを一寸妙な現象と考える。
しかも十八世紀流ではなかろうかと思う。
元来宗教の中に理屈があるかないかと言えば、あるべき筈であるとも、無くて成立するとも答えらるるのであるが、兎に角、理性に訴えて、宗教を議論するようになっては、宗教は暖かい感情的のものでなくて、冷ややかな理論的の者となることは疑いもない事である。
信仰とか熱誠とか狂乱とか言う境に入る時は、理も非もある者ではない。
神が有難いと一生懸命に思い込んだ時には神そのものの属性とか権限とか何とか面倒な事を言い出す者ではない。
聖書を取って来てこれを理屈的に解こうとするのが既に聖書の勢力がなくなったいい証拠である。
成程聖書を理性に会う様に解釈する事も、書き直す事も出来よう。
しかしながら、そうしたからと言って宗教熱は高くはならない。
宗教観は変わってくるかも知れぬが宗教上の有難味のある信仰心は盛んにならない。
耶蘇教の神は、ジュピターでもない。観音でもない。そんな異教徒の神とは違う、その属性をいえば無限である、絶対である、遍在であって全知全能であると理路を経過して結論するのも成程結構であるが、こうすれば単に教徒の頭脳を満足させるのみである。
教徒の心情を満足させる点に於いて、どの位の利益があるかは未定の疑問である。
ある場合には却って不利益になるかも知れない。
彼等は自分の知る能わざる、自分の考える能わざる空名を以て神を飾ったのであるから、この空名が彼等の心情に反響を起こさぬ以上は、彼等の神に対する感情は反響を起こさぬだけそれだけ薄弱になる訳である。
●自然神教の論争は、これとは違うかも知れない。
もし自然神教の論争の様な現象が、宗教界に起こるのは何を証明するかと言うと、明らかに人間が理屈に堕在して来たと言う事を証明して居る。
信を以て立つよりも、理を以て勝とうとする風を教界の全部に輸入したのである。
これは時勢上やむを得ないかも知れない。
決して悪く言うつもりはない。
しかし、この傾向が十八世紀の文学にも表れては居るまいか。
それが吾人に取っても尤も興味のある問題である。
もしこの理屈臭い所、議論を好む所、論理的抽象的な事を愛して直覚的感情的な点を冷却した気風が文学にもあらわれたならば、吾人はここに於いても亦十八世紀全体に渉って一般の英国人を支配した一つの特性を認め得るのである。
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