中島義道 哲学者という ならず者がいる (2007) |
2016.6.27
この本は、著者が、新潮45 に、2004年10月号から2006年12月号に連載した27本の記事を、連載順に並べて出版したものです。
まず、あとがきを読むと、哲学などに首をつっこみ、それを生涯探究しようとすると、普通の感覚では生きていけなくなるそうです。
「あっと言う間に今年も終わりですね」と挨拶されると、「それは錯覚です」と返事し、「最近は厭な事件ばかりですね」と言われると、
「私は厭ではありません」と答えるかもしれず、自分に誠実であろうとすると、普通の人間としてのコミュニケーションがとれなくなるのです。
一方で、哲学者は、ソクラテスのように、真理のために死ぬことはなく、ガリレオのように、異端審問法廷内では「地球は止まっている」と言い、
法廷から出るや、「地球は回っている」と呟くほど卑怯者です。
つまり、ある人が哲学をし、かつ生きようとするなら、言行不一致であらざるをえず、そうした宙づり状態にあるほかはない。
せいぜい、そうした自分の弱さ・卑劣さ・ずるさを恥じて、全身からたえまなく脂汗を流すほかはない。
それでもあなたは哲学しますか?
だそうです。
さて、前半の、自分に誠実であろうとすると、普通の人間としてのコミュニケーションがとれなくなるの部分ですが、
誠実に発言して、社会から反発されるとしても、偏屈じいさんの発言として発言すると、少しは聞く耳をもってもらえる場合があります。
哲学者の発言というよりも、偏屈じいさんの屁理屈発言として、人の耳に残っていると、将来、何かいいことが起きるかもしれません。
それに、誠実に発言した内容に、社会が納得し、受け入れられることも、当然あります。
哲学するとは、考えることです。どんどん、考えましょう。
著者が、誠実に語ったけれど、朝日新聞は原稿を掲載しなかったという事件の原稿の全文が記載されていますので、紹介します。
U教授が、女子高校生のスカートの中を覗こうとして、現行犯で捕まった。彼の場合、有名人であり、しかもいかにも清潔そうな紳士であったから、「見せしめ」としての効果は十分あったであろう。(中略) 一人の男の「些細な」行為に、数十年にわたる膨大な数の女たちの苦しみがのしかかる。いままで唇を噛んで我慢してきたが、もう泣き寝入りはしない、泣き寝入りはさせない、と。
こういうとき、取り調べははじめから容疑者を「魔女」と決めてかかる現代の魔女裁判になりかねないのである。それはそれとして、わからないこともない。すべからく「革命」はやりすぎなければならないのだから。
だが、どうしても変だと思うのは、こうした性的な事件が起こると、スカートの中を覗くことが、あたかも恐るべき「異常な」行為であるかのように言い立てることである。
でも、そうかなあ?
風呂場を覗きこむ行為も、酔って女性の胸や尻に触る行為も、生物体としてのヒト(オス)にとって、とくに不自然な行為とは思えない。ただ、こうした「自然な」行為が現代社会では(なぜか)厳しく非難されるのである。単なる「制度」が自然とみなされる瞬間に、その制度からの逸脱者は(単に不正をはたらいた者ではなく)異常者とみなされてしまう。これは人類の歴史始まって以来、綿々と続く暴力である。
だから、すべてが変だとわかっていても、異常者扱いされるのが厭なら、みんなと口裏を合わせて、性犯罪者を「ヘンタイ!」と叫んで社会から葬り去りましょう。そうしないと、あなたに危険が及びます。ちょうど魔女裁判で「魔女」と叫んで唾を吐き掛けない者は、気がつくと魔女にされてしまったように。
世の中、タブーになってしまったことにたいして発言することは、かなり勇気がいります。偏屈じいさんならではの発言です。
最近では、野球賭博の事件がありました。賭博は犯罪なので、関与した選手は、球界から追放という厳しい処分を受けます。
しかし、賭博は犯罪ということは、賭博自体が犯罪なのではなくて、競輪や競馬のように胴元が公の機関の賭博は合法だが、
公に認められていない胴元の賭博は、犯罪だということです。
野球賭博の前に、八百長事件というのがありました。野球賭博の対象の試合に、八百長をするのは、これは犯罪です。
先日、筑波大学の哲学カフェに参加したとき、大学では哲学科の存続が危機的状況にあるとのことでした。
それに関係ある内容なので、少し引用します。
ずっとこのところ大学改革の嵐が吹き荒れているが、「哲学」はいつでも目の敵にされてきた。数年前に、一般教養科目と専門科目との境界を取り除く「大綱化」の激震が日本列島を貫き、いまや一般教養としての哲学は(まだ大方の大学ではどうにか存続しているが)虫の息である。そして、この四月から国立大学がなくなって国立大学法人となり、旧国立大学も経営に神経を尖らせ、哲学なんて役に立たないものはいつでも廃止できる状況になった。哲学科の大学院を出た者の就職はますます難しくなって、ドイツ語やフランス語の受講者も中国語や韓国(朝鮮)語の人気に押されがちで、こうした語学の教師として「もぐり込む」道も鎖されつつある。
こうした傾向は、とてもよいことだと私は思っている。七百もある大学で、しかも一般教養で選択必修科目として哲学なんて教えなくてもいいし、哲学科はどんどん廃止すればいいと思う。私の持論だが、哲学はほとんどの人(そう、99.9%の人)にとって、まったく必要ない。ほとんどの人は、哲学なんぞなくても生きていけるし、いや、哲学なぞ知らないほうがうまく生きていける。だいたい、大学で教えている哲学の先生の少なく見積もっても九割の講義は、いかなる点から見ても、まったく訊く価値がない。まず、絶望的につまらないし、知的緊張がまるでないし、何の役にも立たないし、そのうえ本人自身がわかっていないことをシャーシャーとまくし立てるのだから。これは、明らかに社会悪である。
著者は、哲学科は、旧帝大と少数の私立大学に残すだけでいい。年間50人くらいの優秀な哲学研究者を養成すればいいのではないかといいます。
さて、皆さん。哲学科は、普通の大学から消滅してもいいでしょうか。
芸術系の大学で、美術や音楽を教えています。体育系の大学で、体育も教えています。仏教系の大学や、キリスト教系の大学では、宗教を教えています。
哲学が、一般教養科目でも、哲学科でも教えられなくなったとき、社会の中で生き残っていけるのでしょうか。
私は、哲学というと、すぐに、アリストテレスはこう言った、プラトンはこう言った。カントは、こう言った。ヘーゲルは、ニーチェは、こう言った。
詳しくは、原典を読め。となっていることが、全く不満です。
自然科学の分野では、力学の勉強に、ニュートンを読め、電磁気学の勉強に、マクスウェルを読めとは、なりません。
多くの物理学者によってつくりあげられた理論をまとめた教科書で勉強します。
人文系でも、経済学では、マクロ、ミクロの経済理論を学びます。
哲学において、まさか、過去の思想家の唱えた説が、すべて対等の説得力で生き残っているとは思いませんので、
単に、哲学史を語るのではなく、歴史的に淘汰されてきた哲学理論なるものを、教えてもらいたいと常々思っています。
著者は、「無用塾」という名前の哲学塾を開いてきましたが、ある事情により、第 159回をもって閉鎖しました。
その後、哲学塾カントを開くことになるのですが、それについては、改めて取り上げます。
著者は、「偶然」とは相当厄介な概念である。なぜなら、これは「自由」という概念とその「内部構造」がおそろしく似ていながら、まったく違う意味を持っているのだから。と主張するのですが、「内部構造」がどう似ているのか、説明が無いので、いまいち、ピンときません。
「偶然」という言葉の使い方として、いくつか例があげられています。
アフリカで原住民に捕らえられ、あわや釜ゆでになるときに、偶然、日食が起きて、みんな逃げ出して、助かった。
元の大軍が博多湾に集結したまさにその時に、偶然、台風が到来して、日本国は征服を免れた。
ロンドンで地下鉄に乗ったとき、偶然、編集者のTさんにあった。
そして、最後にクイズが示されます。
ある男が別の用件で新宿住友ビルの47階に以降としたが、まちがえて48階に言ってしまった。
そこで、朝日カルチャーセンターの中島先生の講義があることを知り、丁度開講時間だったので教室に入り、聴講しました。
さて、彼は、偶然、聴講したのでしょうか、それとも、自由意志で聴講したのでしょうか。
残念ながら、解答がついていません。しかし、偶然、48階に行き、自由意志で聴講したという二つの事象による出来事なのに、
なぜ、偶然、聴講したのか、自由意志で聴講したのか、のように一つにまとめてしまうのかが、よくわかりません。
ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/
自分のホームページを作成しようと思っていますか? |
Yahoo!ジオシティーズに参加 |