中島義道 哲学の教科書 (1995,2001) 

2016.7.17

 著者の中島義道さんは、まえがきで、従来の哲学の教科書に書かれていない二つのことを指摘します。

  

まず、哲学とは純粋な意味では「学問」ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。

自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが、不可欠な要素でなければならない。

客観的な哲学入門書こそ、いちばんの見当違いなのです

顰蹙をかうのを覚悟して、私が本書で自分の哲学的少年時代・青春時代の一部を語ったのはこうした理由によります。

次に、世の哲学入門書は、哲学をあまりに無害なもの・品行方正なもの・立派なものとして語りすぎる。

私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです

人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らかの意味があるか、

どんなに一生懸命生きても私は結局死んでしまう・・・・という呟きをまっこうから受け止めるものです。

こうした問いに苦しめられ、ぐるぐる引き回され、頭のしびれるほど考え抜いた者が、

アリジゴクのようにこの修羅場に他人を引きずり込もうというまことに悪趣味な書こそ

本物の哲学の「教科書」だと私は思っております。

 

 そうなんです。下手に哲学に興味を持って近づくと、アリジゴクのように修羅場に引きずり込まれてしまうのです。

 

 例えば、死について考え、死んだあと、自分はどうなつてしまうのだろうということを真剣に考え続けると、死が怖くなってしまいます。

 歳をとって、体が動かなくなってしまったらとか、ボケてしまったらなどと真剣に考えると、老衰することが本当に怖くなります。

 私の場合だと、夜、寝ていて、耳がかゆくなって我慢できないとき、起きて、耳かき棒で耳掃除をしますが、

もし、歳をとってしまって、自分で耳掃除ができなくなったときに、この耳のかゆみはどうなるのだろうと考えると、

身震いするほど恐怖を感じることがあります。

耳がかゆくて、狂い死んだという話は聞いたことがないので、心配すべきことではないし、むしろ、心配してはいけないことだと思います。

 

 もし、自分の死に恐怖を抱いてしまった人ならば、死について、真剣に哲学的に考える必要があると思いますが、

これから死について考えようとする人にたいして、哲学が、アリジゴクに引きずり込もうとするのであれば、哲学は害毒でしかありません。

 

 人類の歴史においては、ニヒリズムに支配された時期や、終末論に支配された時期もありました。

そのような時代の思想家達の書いたものを読むときには、注意して読むことが必要です。

 

 哲学は、真と、善と、美について考えるという説明がされることがありますが、自然科学が発達して、真について考えるのは自然科学の役目となり、

哲学は、真理の追究からは、手を引いてしまった感があります。

しかし、これは無責任な哲学者による哲学破壊だと私は思います。

 

 例えば、私たちが眼で見ている外物は、本当に存在するのかという哲学上の議論があります。

見えているものは、錯覚かもしれないが、他の人にも見えているので、存在しているのかもしれないというような議論がなされます。

 しかし、外物が存在するのは事実です。あなたの目の前にいるのが、猛獣であったり、武器を持った敵であったら、

その存在を疑っている間に、あなたは、殺されてしまいます。

 

 私たちは、外物から発せられたり反射されたりする光を眼でとらえることにより、外物の存在を認識します。

私たちの眼の網膜には、外物の像が映っていますが、眼を動かすと、網膜上の像は動きます。

私たちが、部屋の中にいて、部屋の壁を左から右にゆっくりながめるとき、網膜の像は変化しているのですが、

私たちは、部屋の空間は不動で、私たちの首が動いているのだと認識します。

 

 つまり、私たちが見ている部屋の空間は、私たちの眼に映る像の情報を使って、私たちの脳が作り上げたイメージです。

私たちが見ている外物は、外物そのものではなく、眼がとらえた情報により構成した外物の像なのです。

 もし、あなたが、眼が見えないときには、耳で聞こえる外界の音から、外物の存在を識別して、まわりに広がる三次元空間を認識します。

 

 あなたが死ぬと、あなたが認識している空間イメージも消滅しますが、だからといって、外物も消滅するなどとは、

夢にも思ってはいけないのです。

 

 以下に、中島さんのこの教科書を読みながら、私の反論を構築していきたいと考えています。

2016.7.20

 まず、第7章の「なぜ哲学書は難しいのか」から、読み始めます。 中島さんは、古典と呼ばれる哲学書には、

日本語であることだけがわかってそのほかのことは完全にわからない抽象的な文字がならんでおります

と述べて、その例として、カントをとりあげます。

 ここでは −私はカントを30年ほど読んできましたので− まず難解な哲学書の典型である

カントの「純粋理性批判」光を当てて、その難解さの裏にあるものを探ってみましょう。

例えば次の文章の意味がわかりますか。

 

それゆえ、私が与えられた多様を一つの意識に結合することができることによってのみ、

私はこれらの表象における意識の同一性をみずから表象することができるのであり、換言すれば、

統覚の分析的統一は何らかの総合的統一を前提してのみ、可能なのである。

 

 中島さんは、このカントの文章の意味を、長々と解説してくれるのですが、正直、私には、まだ理解できません。

中島さんも、最後に、こう締めくくります。

 少なからぬ読者は、もうここいらでホトホト嫌になってきたのではないでしょうか。

じつは、厳密に言いますと、もっともっと語らねばならないのです。

たった数行の文章がこれだけの内容を含んでいる。とすれば、ザット読んでわからないのは当然でしょう。

 

 さて、先ほどのカントの文章は、誰の訳かわからないので、とりあえず中島訳とし、別の二つの訳と比較してみます。

 

篠田英雄訳  岩波文庫 上 177頁

 つまり私は、直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、

これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである。それだから

統覚の分析的統一は、なんらかの綜合的統一を前提してのみ可能である。

 

中山元訳  光文社古典新訳文庫 2 118頁

 だから与えられた様々な像のうちに含まれる多様なものを、私が一つの意識のうちに結合できるときに初めて、

私はこれらの像における意識の同一性をみずから心に思い描くことができるようになる、ということは、

自己統合の意識の分析的な統一が可能となるためには、ある種の総合的な統一がすでに成立している必要があるということである。

 

 中島訳、篠田訳にでてくる表象および、表象するは、中山訳では、および心に思い描くとなっています。私は、イメージおよびイメージすると訳していいのではないかと思います。

 統覚は、英語では、appreciation で、経験を綜合し統一する作用・能力ことです。

 

ゆっくり直訳

 だから、与えられた多様なイメージを、私が一つの意識に結合できることによってのみ、

私は、これらのイメージにおける意識の同一性を、自らイメージすることができるようになるのです。言い換えると

統覚の分析的統一は、なんらかの綜合的統一を前提としてのみ可能なのです。

ゆっくり日本語訳

 だから、私が、与えられた多様なイメージにおける意識が同一であることを、自らがイメージすることができるのは、

私が、これらのイメージを、一つの意識のなかに結合することができるからです。いいかえますと、

統覚、すなわち、経験を綜合し統一する作用、を分析的に統一することが可能なのは、なんらかの綜合的な統一作用が前提として存在するからです。

 

 カントは、換言すればと言って、分析的統一とか、綜合的統一という言葉をもちだしたのですが、すぐ理解できる概念ではないので、

更なる説明が必要です。

 

 さらに、中島さんは続けます。

 哲学書の難しさは、「全体によって部分がわかる」という構造になっていることです。

しかし、全体がわかるためには部分から進まねばなりませんから、この循環を前にして『純粋理性批判』はいつまでたっても理解できないことになるわけです。

この書の初めの方には、言葉の定義もありますが、次第にその定義とずれた使い方を平気でしてゆく。

実際のところ、『純粋理性批判』は丹念に「はじめから」読み通してわかるような書物ではないのです。

 

 そして、繰り返し何度も読んで、少しずつわかっていくのだそうです。哲学とは、こんなにも難しく時間がかかるものなのでしょうか。

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加