中島義道 哲学塾授業 難解書物の読み解き方(2012) 

2016.7.27

 中島さんが、2008年に開始した哲学塾カントにおける授業風景が描かれているので、興味深く読んでいます。

哲学の解説書を読んでも、いまいち理解できず、哲学者本人の書いた本を読んでみたいという人がいるという現状があり、

そういう人たちにとって、哲学塾が、救いの場であることを理解します。

 

 原著を読み始める前に、中島さんは、哲学はユーラシア大陸の西の先端で発生した思考法であり、

その思考法は「西洋色」に濃く彩られていて、われわれ21世紀に生きている(普通の)日本人にとって違和感のあるものである

と説明し、生徒が、「哲学が普遍的でないのなら、つまり先生の言われるように、ヨーロッパ半島の思想にすぎないのなら、

なんで、ぼくたちが哲学を学ぶ必要があるんですか?」 と素朴な質問をぶつけるくだりがあるのですが、

それについて、私見を述べたいと思います。

 

 物事についてみずから考え、哲学しようとするときに、知っておかねばならないことが二つあります。

それは、宗教の違い言葉の違いです。

 人は何のために生きるのかとか、死んだらどうなるのかというような問題は、個人の問題というよりは、宗教の問題でした。

国際化が進んで、日本だけでなく、世界全体で物事を考えなければならなくなった現在、宗教の違いは、常に、

心にとめておかなければなりません。

 特に、昔の哲学者、思想家は、まだ宗教の力が強い時代に生きていましたので、ガリレイが、「それでも地球はまわる。」と

陰でしか言えなかったように、本心は語れなかったことは、理解しておかねばなりません。

 もう一つは、言葉の違いですが、心、魂、霊、精神というような抽象概念は、言葉があって初めて、思考にかけることができます。

英語にも、spirit, soul, mind といった言葉がありますが、日本語の心、魂、霊、精神とは、意味する内容が微妙に違います。

従って、翻訳で外国の思想を学んでいて、意味がわかりにくいときには、原著ではどういう言葉を使っているのかについて、

注意することが必要です。

  

 それでは、哲学塾の授業風景に進みましょう。

最初は、ジョン・ロックの「人間知性論 (An essay concerning human understanding) 」の

第Ⅰ巻 生得観念について (Of innate notions)

第2章「心に生得の原理はない (No innate 'speculative' principles in the mind)」です。

デカルトが唱えた、精神 (心) には、生まれつき持っている観念 (innate ideas) があるという生得説 (innateness hypothesis), 生得論 (nativism) に対し、

ロックは、:経験論 (empiricism) の立場から、生得の観念は無いと主張します。

 

 中島さんは、ロックの以下の文を引用して、ロックは、もし我々が生得観念を認めるなら、あらゆる観念は生得的でなければならない

主張していると解説します。この翻訳は、大槻春彦さんによるものです。岩波文庫、人間知性論(一)、44頁。

 

およそ心の未だかつて知らなかった命題、未だかつて意識しなかった命題、そうした命題が心にあると言うことはできない。

というのは、かりにもそうした命題が一つでも心にあると言えるなら、同じ理由で、

真の命題で心がいつかは同意できる命題はすべて心のうちにあって、印銘されていると言えよう。

 

 いささかわかりにくいので、ロックの原文と、私の翻訳を以下に示します。

No proposition can be said to be in the mind which it has never known or been conscious of. 
いかなる命題も、それが心が未だかつて知らず、そして気づいたこともない命題であれば、決して、心の中にあると言うことはできません。

It may be said that a proposition that the mind has never consciously known may be 'in the mind' in the sense that the mind is capable of knowing it; 
心が気づきも知りもしなかった命題は、心がそれを知ることができるという意味において、「心の中に」あるのかも知れないと、言えるかもしれません

but in that sense every true proposition that the mind is capable of ever assenting to may be said to be 'in the mind' and to be imprinted! 
しかし、その意味においては、心が、ずっと同意できる全ての真の命題は、「心の中」にあり、刻印されていると言えるかもしれません。

 原文も、かなりわかりにくい構文です。大槻さんの訳の3行目の「いつかは」は、原文では強調の意味のeverが使われています。

 その前後の文も、翻訳してみました。

To say that a notion is imprinted on the mind, and that the mind is ignorant of it and has never paid attention to it, is to make this impression nothing. 
ある観念が心に刻印されているが、心はそれを知らず、それに注意を払ったことが無いということは、この印象を無にするということです。

No proposition can be said to be in the mind which it has never known or been conscious of. 
いかなる命題も、決して、心の中にあると言うことはできません。心が未だかつて知らず、そして気づいたこともないところの命題は。
いかなる命題も、心が未だかつて知らず、そして気づいたこともない命題であれば、決して、心の中にあると言うことはできません。

It may be said that a proposition that the mind has never consciously known may be 'in the mind' in the sense that the mind is capable of knowing it; 
こうは言えるかもしれません|心が気づきも知りもしなかった命題は、「心の中に」あるのかも知れません|心がそれを知ることができるという意味において。
心が気づきも知りもしなかった命題は、心がそれを知ることができるという意味において、「心の中に」あるのかも知れないと、言えるかもしれません

but in that sense every true proposition that the mind is capable of ever assenting to may be said to be 'in the mind' and to be imprinted! 
しかし、その意味においては、全ての真の命題|心が、ずっと同意することができるところの|は、言えるかもしれません|「心の中」にあり、刻印されていると。
しかし、その意味においては、心が、ずっと同意できる全ての真の命題は、「心の中」にあり、刻印されていると言えるかもしれません。

Indeed, there could be 'imprinted on' someone's mind, in this sense, truths that the person never did and never will know. 
なるほど、誰かの心に「刻印」されていることはありえます、この意味で。|その人が未だ知らず、これからも決して知らないであろう真実が。
なるほど、この意味で、誰かの心に、その人が未だ知らず、これからも決して知らないであろう真実が「刻印」されていることはありえます。

For a man may be capable of knowing, and indeed of knowing with certainty, many things that he doesn't in fact come to know at any time in his life. 
というのは、人は、知ることができ、そして、実際に確実に知ることができるのです|多くの事を|彼が生涯のいつの時点にも実際に知ることにはならない多くの事を。
というのは、人は、彼が生涯のいつの時点にも実際に知ることにはならない多くの事を、知ることができ、そして、実際に確実に知ることができるのです。

 

 ロックのこの論文には、いろんな版があって、テキストに違いがあります。もう少し調査することにします。

 なお、中央公論社の世界の名著の27巻のロックとヒュームに含まれている「人間知性論」も大槻さんの翻訳ですが、

上記の部分は、完全に省略されています。

 

2016.7.30

 生得説の可否は、現在に至るまで、議論が続いています。人間の赤ん坊に、言葉で話しかけていると、言語を習得していきますが、

動物の赤ん坊にいくら話しかけても、言語は習得できません。

 人間には、言語を習得できる能力があるのですが、その生得的な能力とは、一体、何物なのでしょうか。

 

 さて、ロックは、この本で、もし生得的な観念、先天的な観念を、一つでも認めてしまうと、すべての観念も生得的であることになると

いささか乱暴な議論を展開します。その主張する内容を、じっくりと検証したいと思います。

 岩波文庫の「人間知性論」は、4分冊からなる大部なものです。

大学の教科書として使うなどの目的で、短縮版を作る努力がいろいろとなされたため、いろんなバージョンのものが存在します。

アマゾンなどで電子書籍として入手できるものは、テキストが完全に異なっています。

しかし、Kenneth P. Winkler氏によって、短縮され編集されたものは、大槻さんが翻訳した版とかなり一致していることがわかりました。

電子書籍版もありましたので、入手しました。

  

1. The way shown how we come by any knowledge, sufficient to prove it not innate.

It is an established opinion amongst some men, that there are in the understanding certain innate principles; some primary notions, koinai ennoiai characters, as it were stamped upon the mind of man, which the soul receives in its very first being; and brings into the world with it.

It would be sufficient to convince unprejudiced readers of the falseness of this supposition, if I should only show (as I hope I shall in the following parts of this discourse) how men, barely by the use of their natural faculties, may attain to all the knowledge they have, without the help of any innate impressions; and may arrive at certainty, without any such original notions or principles.

For

  

5. Not on the mind naturally imprinted, because not known to children, idiots, etc.

For, first, it is evident, that all children, and idiots, have not the least apprehension or thought of them: and the want of that is enough to destroy that universal assent, which must needs to the necessary concomitant of all innate truths: it seeming to me near a contradiction, to say, that there are truths imprinted on the soul, which it perceives or understands not; imprinting, if it signify anything, being nothing else, but the making certain truths to be perceived.

For to imprint anything on the mind without the mind's perceiving it, seems to me hardly intelligible.

If therefore children and idiots have souls, have minds, with those impressions upon them, they must unavoidably perceive them, and necessarily know and assent to these truths, which since they do not, it is evident that there are no such impressions.
もし、それゆえ、子ども達や白痴たちが、魂 (soul) や心 (mind) を持っていて、それらの上にこれらの印象を持っているとしたら、彼らは不可避的にそれらに気付き、必然的に知り、これらの真実に同意するに違いありません。これらの真実は、彼らはそうしなかったので(気付かなかったので)、そのような印象派存在しないということが明白です。

For if they are not notions naturally imprinted, how can they be innate?
というのは、もしそれらが、自然に刻印された観念でないなら、どうして生得でありうるのでしょうか?

And if they are notions imprinted, how can they be unknown?
そして、もしそれらが刻印された観念だとしたら、どうして知られずにいることができるのでしょうか?

To say a notion is imprinted on the mind, and yet at the same time to say, that the mind is ignorant of it, and never yet took notice of it, is to make this impression nothing.
ある観念が心に刻印されていると言い、それなのに同時に、心はそれを知らず、それに決して気づくことがなかったということは、この印象を無にするということです。

No proposition can be said to be in the mind, which it never yet knew, which it was never yet conscious of.
いかなる命題も、心の中にあると言うことはできません|心が未だかつて知らず、そして気づいたこともないところの命題は。
いかなる命題も、心が未だかつて知らず、そして気づいたこともない命題であれば、心の中にあると言うことはできません。

For if any one may; then, by the same reason, all propositions that are true, and the mind is capable ever of assenting to, may be said to be in the mind, and to be imprinted: since if any one can be said to be in the mind, which it never yet knew, it must be only because it is capable of knowing it; and so the mind is of all truths it ever shall know.
というのは、もし一つでも (心の中に) あるならば;そのときは、その同じ理由によって、真であり、心がずっと同意できるすべての命題は、心の中にあり、刻印されていると言えるかもしれません。何故なら、もし一つでも、心が未だかつて知らなかった命題が、心の中にあると言えるなら、それは単に心がそれを知ることができるからに違いありません:そして、心は、心が知ることになるであろうすべての真理となるのです。

Nay, thus truths may be imprinted on the mind, which it never did, nor ever shall know: for a man may live long, and die at last in ignorance of many truths, which his mind was capable of knowing, and that with certainty.
いや、こうして、真理は心に刻印されます。心が決して知らなく、永久に知ることのない真理が。なぜなら、人間は長生きするかもしれないが、最後には多くの真理を知らずに死にます。その真理を彼の心は知ることができたのです。それも絶対確実に。

So that if the capacity of knowing be the natural impression contended for, all the truths a man ever comes to know, will, by this account, be, every one of them, innate; 
それゆえ、知るという(潜在)能力が、この争い求められた自然の印象だとしたら、人間がいつかは知ることになるすべての真実は、この故に、そのそれぞれすべてが、生まれつき得られていたのです。

and this great point will amount to no more, but only to a very improper way of speaking; which whilst it pretends to assert the contrary, says nothing different from those, who deny innate principles.
そして、この重要な論点 (生得真理があるこという説) は、それ以上のものにはならず、非常に不適切な話し方にしかなりません;その不適切な話し方とは、逆を主張しているとみせかけながら、生得原理を否定する人たちといささかも違わないことを言っているのです。

For nobody, I think, ever denied, that the mind was capable of knowing several truths.
というのは、誰も、心がいくつかの真理を知ることができることを否定したことはないと、私は思うのです。

The capacity, they say, is innate, the knowledge acquired.
彼ら(生得原理の人たち)は言います。(潜在)能力は生得で、知識は(後天的に)獲得されると。

But then to what end such contest for certain innate maxims?
しかしそれなら、あの生得公準を求めるこんな争いは、何の目的(end)のためなのか?

If truths can be imprinted on the understanding without being perceived, I can see no difference there can be, between any truths the mind is capable of knowing in respect of their original: they must all be innate, or all adventitious: in vain shall a man go about to distinguish them.
もし真理が「理解」の上に、気付かれることなしに刻印できるとしたら、私には在りうる違いがわかりません|その起原に関して心が知ることのできる任意の真実の間に。真理はすべてが生得的であるか、すべてが偶発的であるかのどちらかでなければなりません。人がそれらを区別しようとしても、無駄です。

He therefore that talks of innate notions in the understanding, cannot (if he intend thereby any distinct sort of truths) mean such truths to be in the understanding, as it never perceived, and is yet wholly ignorant of.
それ故、「理解」における生得的な観念について語る人は、(どんな独特なたぐいの真理を意図していたとしても) そのような真理が「理解」のなかに存在すると言うことはできません。心は決して気付くこともなく、未だ完全に知らないのですから。

For if these words (to be in the understanding) have any propriety, they signify to be understood.
というのは、もしこれらの言葉 (「理解」の中にあるという) に適切性があるとしたら、それらは理解されるべきであると表明するでしょう。

So that, to be in the mind, and, not to be understood; to be in the mind, and, never to be perceived, is all one, as to say, anything is, and is not, in the mind or understanding.
ですから、心の中にあって、理解されないことと、心の中にあって気付かれないことは、全く同じ一つのことです。任意のものが、心や「理解」の中に、存在し、しかも存在しないというかのように。

If therefore these two propositions, whatsoever is, is; and it is impossible for the same thing to be, and not to be, are by nature imprinted, children cannot be ignorant of them: 
それ故、これら二つの命題、「およそあるものはある」と「同じものが存在し存在しないことは不可能である」が、自然に刻印されているとしたら、子どもたちは、それらを知らずにいることはできません。

infants, and all that have souls must necessarily have them in their understandings, know the truth of them, and assent to it.
幼児や、魂を持つものすべては、かれらの「理解」のなかにそれらの命題を持ち、それらの真実を知り、その真実に同意しなければなりません。

 

大槻訳   青字は、中島さんが引用した部分です

1.真知のえられる道を明示すれば、真知の生得でないことはじゅうぶん証明される

いったい、知性にはいくつかの生得原理、ある原生思念、共通思念、いわば人間の心に捺印された文字[ないし刻印]があって、霊魂はそもそも在り始めにこれを受けとって、世に携えてくるというのは、ある人々の間で確立された説である。

が、もし私が、人々は[本性上]自然な機能を使うだけで、すこしも生得の印銘の助けを借りずに、人々のもついっさいの真知に到達でき、そういった本原的な思念ないし原理がなくとも絶対確実性へ到達できることを(本論議のこれからの部分で明示するように希望するが)明示しさえすれば、先入見に捕われない読者はこうした想定の虚偽であることをじゅうぶん納得するだろう。

 

5.子どもたちや白痴などに知られないから、心へ自然に記銘されていない

なぜなら、第一、子どもたちや白痴は明白にみんなこれらの原理をいささかも認知しないし、考えない。

そして、認知されなく考えられないことは、いっさいの生得真理にぜひ必ず伴なわなければならない普遍的同意をまったくなくするものである。

というのは、霊魂の知覚せず理解しない真理が霊魂に印銘されていると言うのは、私には矛盾に近いように思われる。

印銘するというのになにかの意味表示があるとすれば、ある真理を知覚されるようにすることだけである。

というのも、心になにかを印銘して、しかもこれを知覚しないというのは、ほとんど理会できないことのように私には思われる。

それゆえ、もし子どもたちや白痴に霊魂があり、心があり、それら霊魂・心にそうした印銘があるなら、子どもたちや白痴はその印銘をいやが応でも知覚しなければならず、それらの真理を必ず知り、これに同意しなければならない。

が、子どもたちや白痴はそうでないのだから、明白にそうした印銘はないのである。

なぜなら、自然に印銘された思念でないなら、どうして生得であることができるか。

また、印銘された思念なら、どうして知られずにいることができるか。

ある思念が心に印銘されていると言って、しかも同時に、心がこの思念を知らず、未だかつて覚知しなかったと言うことは、この印銘を無にするものである。

およそ心の未だかつて知らなかった命題、未だかつて意識しなかった命題、そうした命題が心にあると言うことはできない。

というのは、かりにもそうした命題が一つでも心にあると言えるなら、同じ理由で、

真の命題で心がいつかは同意できる命題はすべて心のうちにあって、印銘されていると言えよう。

なぜなら、心の未だかつて知らなかった命題が心にあると言えるとすれば、その理由はただそうした命題を知ることが心にできるからでなければならず、従って、心はやがて知る一切の真理を知ることができるのである。

いや、こうなると、心の決して知らなかった真理やこれからも知ることの決してないような真理も心に印銘されていよう。

なぜなら、人間は長生きしても、結局は、自分の心を知ることができ、それも絶対確実に知ることができた、多くの真理を知らずに死ぬ、そういったことがあるだろう。

それゆえ、仮にもし知る能力がいま争われている自然の印銘だとすれば、およそ人間がいつかは知るようになる一切の真理は、この[いつかは知られる]ゆえに、どれもこれも生得だろう。

で、[生得真理があるという]この大切な論点は、たかだか、ごく不適切な話し方というだけになるだろう。

そうした話し方は、[生得原理を否定する者と] 反対を主張すると称しながら、生得原理否定論者と少しも違わないことを言うのである。

なぜなら、心はいくつかの真理を知ることができたこと、これを否定する者は未だかつてなかったと、私は思うからである。

[なるほど、]能力は生得で、知識は獲得される、そう[生得原理説の]人々は言う。

が、そうすると、一定の生得公準を求めてこんなに争うのは、なんのためか。

かりにもし真理が知覚されずとも知性に印銘できるとしたら、心の知ることができる真理の間に

その起原にかんしてあるはずの [生得的と後天的の] 相違を見ることは、私にまったくできない。

真理はすべて生得か、すべて後天的かでなければならない。真理を区別しようとする者はむだ骨を折ろう。

それゆえ、知性にある生得思念について語る者は [それでなにか別個な種類の真理を言うつもりなら]、

知性の未だかつて知覚しなかったし、今でもまったく知られないような真理が知性にあると言ってすませるわけにいかない。

なぜなら、こうした [知性にあるという] ことばがかりにも適正だとすれば、このことばは、理解されるということを意味表示しているのである。

そこで、知性にあって理解されないとか、心にあって未だかつて知覚されないとかいうことは、

ある事物が心ないし知性にあってあらぬと言うのと、まったく一つである。

それゆえ、かりにもし 「およそあるものはある」 と 「同じ事物があってあらぬことはできない」 という、

これら二つの命題が自然に印銘されているとしたら、子どもたちはそれらの命題を知らないはずがない。

幼児やおよそ霊魂(たましい)をもつ者はすべて必ず知性にそれらの命題をもっていなければならず、

その真であることを知り、命題に同意しなければならない。

 

 さて、一応、元の英文と、日本語への翻訳の対比は、終わりました。特に、両者の矛盾はなかったと思います。

 しかし、これらだけでは、今ひとつ、ロックが何をいいたいのか、よくわかりません。

 

 生得観念について、中島さんは、こう説明します。

 三角形の内角の和が、180度であることは、我々の生得観念ではありません。しかし幾何学的に証明されることを学び、

我々は、同一律(AはAである) と同様に、普遍的同意 (universal consent) が成立すると認めます。

デカルトは、これを生得観念というのですが、ロックは、それが、「心のうちにあって刻印されていた」けれども、

まだ真であるとは同意していなかった命題であったと認めてしまうと、同じ理由で、ピタゴラスの定理や、

量子力学のシュレーディンガー方程式まで、「心のうちにあって刻印されていた」と言わなければならないと言っていると。

 

 やはり、ここは何をもって生得観念と呼ぶかの定義にかかっていると思います。

人間は、言葉を教えられれば、言葉を習得できるのですが、何が生得的だったのかを、ちゃんと解明しないといけないのです。

 

 中島さんは、こうも説明します。「彼がすぐれた作家になったのは、作家としての才能があったからだ」とか、「彼がすぐれた作家に

なれなかったのは、その才能がなかったからた」 いう、結果から原因を探る説明には、何かいかがわしいところがあると。

これに対し、ある生徒が、「彼は小説家としての才能があったにもかかわらず、その才能を十分伸ばさなかった」という言い方も

無意味ではないと思いますが。」と発言し、「その通り。」と答えます。

 

 さらに、読み進めます。

六 理知を使うようになるとき人々は知るという論に答える

上述の議論を逃れるため、通常はこんなに答えられる。

すなわち、人々はすべて理知を使うようになると、それらの命題を知って、これに同意するのであり、

これでじゅうぶんに命題の生得は証明されるのである。[これに対して] 私は答える。

6. That men knew them when they come to the use of reason, answered.
6. 「人々は知る、理知をつかうようになったとき」という論に答える

To avoid this, it is usually answered, that all men know and assent to them, when they come to the use of reason, and this is enough to prove them innate. I answer,
これを避けるために、通常はこう答えられます。すべての人は、これらの問題を知り、そして同意します。彼らが理知を使えるようななったときに。これらの命題が生得であることを証明するには、これで十分ですと。それに対し、私は、こう答えます:

七 いったい、先入見にとらわれて、自分自身の言うことさえ検討する労をとらない者には、

ほとんどなにも意味表示しない疑わしい表現も、明晰な理由として通用するものである。

というのは、多少とも許せる意味をもってこの答論を目下の論題に当てはめると、次の二つのことの一つを意味表示しなければならない。

すなわち、人々が理知を使うようになるやいなや、これらいわゆる生まれつきの記銘は理知によって知られ、観察されるようになるというのか、

さもなければ、人々の理知の使用・行使は人々を援助して、それらの原理を発見させ、これを人々に絶対確実に知らせるというのか、

そのどちらかでなければならない。

7. Doubtful expressions, that have scarce any signification, go for clear reasons to those, who being prepossessed, take not the pains to examine even what they themselves say.
7. 殆ど何の意味も持たない疑わしい表現は、明確な理由として通用します|先入観にとらわれて、自分自身が言うことにすら検討する労をとろうとしない人たちにとって。

For to apply this answer with any tolerable sense to our present purpose, it must signify one of these two things;
というのは、この回答を、なんらかの我慢できる意味合いで現在の問題に適用すると、それはこれら二つのことの一つを表さなければなりません。

either, that as soon as men come to the use of reason, these supposed native inscriptions come to be known, and observed by them: 
一つは、人々が理知を使うようになるや否や、これらの想定される生まれつきの刻印が知られるようになり、人々に観察されるようになるということ。

or else, that the use and exercise of men's reasons assists them in the discovery of these principles, and certainly makes them known to be true.
もしくは、人々の理知の使用や行使が、彼らが、これらの原理を発見するのを援助し、確実にそれらが真であることを知らせるということ。

 

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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