中島義道 人生に生きる価値はない (2009) 

2016.6.26

 この本は、著者が、新潮45 に、2007年1月号から2008年12月号に連載した24本の記事を、連載順に並べて出版したものです。

あとがきを読むと、「人生に生きる価値はない」という書名は、著者が考えたのではなく、担当編集者のAさんだそうですが、

著者も、62年に及ぶわが人生を振り返って、ため息が出るほどまさにそうだなあと思うようになったそうです。

 世の中の多くの人が、人生に生きる価値が「ある」というゲームに没頭しながら、もしかしたら「ない」のではないかと恐れている、

この恐れていることを私は −悪趣味なことに− 誤魔化し続けている人々の鼻先に突きつけたい のだそうです。

 へんてこじいさんの偏屈発言のいくつかを、ご紹介します。

 

1 いじめの「本当の」原因  2007.1

 著者は、日本型いじめの真の原因は、「みんな一緒主義」、協調性偏愛主義だと主張されますが、私は、いまいち、理解できていません。

著者は、子供のころ、一人でいるのか好きだったのに、先生たちから、みんなと打ち解けて、協調し、一緒に遊びなさいと言われ続けたと述懐されます。

著者は、みんなと一緒主義を押し付けるところに、いじめの根源を見るわけですが、

みんなと協調する教育と、みんなとは違う個性を育てる教育は、どちらが正しいかではなくて、どちらも必要だと思います。

 

 社会からいじめがなくならないのは、それが人間の本性にからんでいるからだと思います。

いじめる側の人は、基本的に他人に攻撃的な人で、何人かあつめてグループを作ったり、暴力・暴言がひどくなったりすると、いじめがエスカレートしてしまうことがあります。

いじめられる側の人は、人より動作が遅かったり、失敗が多かったりして、からかわれる原因を持っていて、からかわれても、言い返すことができなかったり、言い返しても、暴力で押さえ込まれたりして、いじめがエスカレートしていきます。

いじめは、社会生活のいろんな局面で起こりますので、家族や学校生活の段階で、いじめられる人は、いじめを乗り越える耐性をつけ、いじめる人は、いじめはわるいことだと気づくようになるといいのですが、

たまに、いじめられる人が自殺してしまうというようなとりかえしのできない悲劇が発生してしまい、どう解決すべきか社会問題となっています。

 

 フジテレビの「もしもツアーズ」という番組では、ルーレットを回して、当たった人は料理を食べることができないという「いじめ」を売りにしています。

当たったひとは、本当に不利益をこうむるわけですが、あきらめて、乗り切るしか方法はありません。

 いじめは、日本だけではなく、アメリカの学園ドラマなどを見ると、飲み物をぶっかけたり、ごみ箱に放り込んだりと、

日本人には想像できないほどの強烈ないじめが行われています。

 

 著者は、叫びます。

協調性幻想に誰も彼もが陥っているからこと、日本では、多くの人はいじめられ、集団から排斥されると、もう生きていけないと思い込んでしまう。

 もし、日本型のいじめの特徴が、いじめられた人の自殺ということであれば、社会として、もっと対策をとるべきと思います。

「死んでやる。死んでこまらせてやる。」というような感情とか、自殺の美学のようなことに対しては、なんらかの対策があると思います。

残念ながら、日本には、自殺したら地獄に落ちるといったような宗教的な教えはありませんが。

 

3 「女性は産む機械」発言  2007.3

 柳沢厚生労働相のこの発言に対し、マスコミをあげて批判が展開されますが、これを「魔女裁判」だと意見できるのは、

偏屈じいさんの特権だと思います。

 この手の発言は、いくら失言でしたと謝っても、許してもらえません。

そういう失言をするのは、本心でそう思っているからだと、断罪されるのです。

 ここで偏屈じいさんは言います。

「つい口が滑ってしまうのは、本心だからだ」という幼稚な論理から脱皮して、

「つい口が滑ってしまうことは大臣として信頼できない。」という明快な論理に切り替えて、

柳沢氏や彼を任命した安倍首相を攻撃してもらいたい。

 

5 池田晶子追悼  2007.5

 池田晶子さんが46歳の若さで、癌で亡くなられたので、この回は追悼にあてられました。

若くて綺麗だったときの池田さんの思い出がいくつか披露されていますので、すでに池田ファンの方は、是非ご一読ください。

 私は、池田さんの本を何冊か持っていて、いつかじっくり読もうと考えていました。

「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて」という本の、「現代思想解説り皆さん」という章では、哲学を難しく説明する諸先輩を

実名をあげて批判しています。しかし、彼女の語り口も結構難解なので、私は、すぐには池田ファンにはなりませんでした。

 

 彼女に関する、中島さんのお話を、少し引用してみます。

 もう一つ。池田ファンには申し訳ないが、同じような彼女の発言に対する「無視」が大森先生の口から発せられた。どういう文脈であったか忘れたが、池田さんがメルロ・ポンティの言葉を引用して何かを言った。そのとたん、大森先生が「それはメルロ・ポンティの誤解です。」と答え、やはりみなワッと笑って終わりとなった。

 こうした一種の「いじめ」を分析してみると、たしかに大森門下にほぼ共有されていた哲学に対する態度にとって、彼女の態度はカチンと来るものがあった。われわれは、いかなる権威をも足蹴にする。少なくとも尊敬しない、という雰囲気を共有していた。(中略) そんな空気の中で、いかにも仰々しく「メルロ・ポンティは」と言い出すと、もうそれだけで聴く耳をもたないのだ。これは、悪しき態度であるが、哲学観の違いであるからしかたがない。

(中略)

 私見では、哲学には問題のありかを突き止めるセンスと厳密な言語によって世界を読み解いていく能力が必要であるように思う。池田さんは、前者は溢れるほど供えていたが、後者は欠けていた。だから、私見では哲学者でも哲学研究者でもないのだが、そんなことは彼女にとってどうでもいいことであろう。

(中略)

 そして、後者も、読み出したには読み出したが、あまりに私の哲学観、人生観、世界観と異なっているので、なかなか進まない。14歳の子供を一心に励ます肯定的な人生観に反感を覚えたが、同時にだからこそ彼女の著作は中学生の推薦図書になるのだなあ、そして私の本よりはるかに人気があるのだなあと思った。

 その中に、たぶん私を批判して、「どうせ死んでしまうという人がいるけれど、死んだらどうなるかわからないじゃないか」というようなことが書かれている。彼女は私の書くものが嫌いであったろうと思う。とくに、自分の恥部をごたごた書き連ねるのは、はなはだしく彼女の美意識に反したことであろう。その意味で、彼女は小林秀雄のように男らしく、私は中原中也のように女々しいのである。

 これをいいきっかけにして、池田晶子さんの本も、読み始めることにします。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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