中島文雄 日本語の構造 -英語との対比- (1987)

2015.3.10

 岩波新書に「英語の構造」を書いた英語学者の中島文雄さんが、同じく岩波新書に「日本語の構造」という本を書いています。日本語には主語がないという立場で書かれている本なので、その語り方をいくつか紹介します。

 3頁の主語中心の「命題文」、述語中心の「描写文」は、重要なので、少し長めに引用します。

=========================ここから

 日本文の例として川端康成の「雪国」(1947)の書き出しのところを引用する。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

これは、三つの文から成っている。それぞれ「た」という完了の助動詞の終止形で終わっているから、独立の文とみられる。

第一の文から見ていくと、これには主語がない。日本語には主語がないと言われるが、まさにそういう文である。

トンネルを出たのは汽車であろうが、それは表出されていない。

意味上は当然汽車が考えられるが、状況からそれと分かるものは表出しないのが日本語の特徴である。

またトンネルを抜けると汽車は雪国に入っていたというところが、ただ「雪国であった」とある。

ここにも主語はないが、意味は明瞭である。

次の文の「夜の底が」、最後の文の「汽車が」は主語のようにとれるが、英語の主語とはちがう。

「が」については後でくわしく述べるが、とにかくこれらの文は英語の表現法と非常にちがう。

E.G.Seidensticker 訳の Snow Country では、汽車を主語にして次のようになっている。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.  The train pulled up at a signal stop.

(中略) 上の英文を直訳的に日本語にもどすと、「汽車は長いトンネルを出て、雪国へ入った。地面は夜空のもと白く横たわっていた。汽車は信号所で止まった。」 (中略)

 日本語では、散文でも和歌と同じように具体的な場面や感情に即した表現法をとり、英語のように、題目となる主語を立て、主語が全文を支配するという表現をとらない。

「雪国」の冒頭の文について、汽車という主語が表出されていないと述べたが、実は汽車は問題にされておらず、ただトンネルを出ると景色が変わったことを描写しているのである。

はじめから主語は考えられていないのである。

英語は主語中心の構造をとり、日本語は述語中心の構造をとるということができる。

(中略) 英語のように主語と述語からなる分を「命題文」とよべば、日本語のような述語だけの文を「描写文」とよぶことができる。

英語では主語が文の主要語で文頭にたち、日本語では述語が主要後で文末にくる。

=========================ここまで

 この説明は、日本語には主語がないという主張を、ほぼ代表していると思います。

しかし、私は、日本語には主語が無いというべきではなく、日本語では、主語を省略した表現が好んで使われるというべきであると考えます。

 日本語でも、主語を省略しない表現は可能です。

 また、英語でも、動作主たる主語を使わず、受動態で表現することもありますし、主語が無く、形式主語をたてて文を形成することもあります。

雪国の冒頭の、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を、Seidenstickerのような一つの文ではなく、元通りの二つの文として英文にすると、

When having got out of the long border tunnel, it was the snow country.

のように訳せるのではないかと思いますが、英語では、このような表現は使わないということなのではないでしょうか。

 「象は鼻が長い」についても、106頁に以下のような説明があります。

=========================ここから

 日本語の文構造は、主題を立てこれについて何かを陳述するという命題型ではなく、事象を平面的に描写するという描写型であることは、これまで見てきたところである。

「象は鼻が長い」の「象は」は英語の主語と同じように陳述の主題をなしているように見えるが日本語の文法上はそうではない。

これを英語に直訳すれば As for elephants, their nose is long. ということで、「象は」は「鼻が長い」という陳述にたいし、その背景をあらわす副詞的な機能をもつものだと解したほうが、実情にちかいと思われる。

英語の Elephants have a long trunk. とは構造が違う。

=========================ここまで

 「象は」は、主語ではないという説なのですが、たとえば、

バレーボール選手は、背が高い。 Volleyball players are tall.

という文章において、「バレーボール選手は」は主語ではないのでしょうか。

私は、主語であると思います。英語に「背が高い」という形容詞があるので、まったく同じ文型に翻訳することができます。

 残念ながら、「鼻が長い」という形容詞が無いため、「象は鼻が長い」は

Elephants have long noses. もしくは Elephant's nose is long. としか訳せませんが、もし、鼻が長いを意味するという形容詞があり、それが noselong だった場合には

Elephants are noselong.

となり、「象は」は、まぎれもなく、主語です。

 私は、「鼻が長い」は、「鼻が長い動物」のように名詞「動物」を形容する形容詞節であり、「象は大きい」という文章で、形容詞の「大きい」が述部を成すように、「鼻が長い」という形容詞節も、主語「象は」に対する述部を形成するのだと考えています。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


自分のホームページを作成しようと思っていますか?
Yahoo!ジオシティーズに参加